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修善も雑毒なるゆえに

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修善も雑毒なるゆえに
修善も雑毒なるゆえに
仏教の生きる意味を現代へ
通信コース[初級]⑱
この通信コースは、2600 年前、仏教に解き明かされた本当の生きる意味を、半年で
体系的に理解するための講座です。このコースを終了した時、あなたは現代の誰より
も深い人生観が身についたことに気づくでしょう。
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通信コース⑱
修善も雑毒なるゆえに
三枚の鏡から、実は「真実の自己」シリーズに入っていたのですが、
3回目の今回で最後になります。
最後、あなたのどんな姿があらわれるのか、
さっそく始めましょう。
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法鏡にうつった本当の姿
仏教は法鏡といわれます。
「法」とは真実ですから、
仏教は、真実の私のすがたをうつしてみせる鏡のようなものだ
ということです。
鏡に近づけば近づくほど
自分のすがたがハッキリ見えてくるように
仏教を聞けば聞くほど知らされてくるのは
自分の本当のすがたです。
仏教を聞くということは、
法鏡にうつった自分の本当のすがたを見せて頂く
ということなのです。
では、法鏡には、どんなすがたがうつっているのでしょうか。
前回学んだように、法鏡にうつった真実の自己のすがたを
お釈迦様は、このように説かれています。
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心常念悪
心常に悪を念じ
口常言悪
口常に悪を言い
身常行悪
身常に悪を行じ
曽無一善
曽て一善無し
すべての人は、心と口と体で常に悪を造っている。
いまだかつて一つの善もやったことがないのだ。
とお釈迦様は説かれています。
全人類は、悪人だということです。
いまだかつて一つの善もないといわれると
「でもたまには、いいことすることもあるよ
生まれてから今までに、一つ位は善をやったことあるでしょ」
と思います。
では「曽無一善」
かつて一善なしとは一体どういうことなのでしょうか。
仏教の法鏡で真実の自己をすがたを照らし抜かれた
親鸞聖人が教えられています。
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親鸞聖人とは?
親鸞聖人は、約800年前(1173-1262)、仏教を正確に伝えられた方で、
今日、大変多くの人たちからほめたたえられています。
有名な作家の司馬遼太郎は、こう言っています。
鎌倉時代というのは、一人の親鸞を生んだだけでも偉大だった。
(司馬遼太郎「この国のかたち一」)
日本の三大哲学者の一人、田辺元は、
私は『教行信証』の宗教哲学をもって、西洋に相手を見出だすことが
困難な深さを持つと思わざるを得ない。(田辺元)
親鸞聖人の主著「教行信証」は、西洋に相手が見つからないほど深いと言
っています。
有名な作家の井上靖もこう言います。
人類が、今日ほど、親鸞聖人を必要としている秋はない。
(井上靖「讃歌親鸞」)
20世紀最大の哲学者の一人、
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ドイツのハイデガーは、老後の日記に、こう書いています。
もし10年前にこんな素晴らしい聖者が東洋にあったことを知ったら、
自分はギリシャ・ラテン語の勉強もしなかった。
日本語を学び聖者の話を聞いて、世界中にひろめることを
生きがいにしたであろう。だが、おそかった。(老後の日記)
このように多くの人たちから尊敬される親鸞聖人は、
「見真大師」という大師号が贈られています。
「見真」とは、真実を見た。
真実の自己を見たということです。
文豪・夏目漱石もこう言います。
彼は人間の代表者であるが、自己の代表者である。
(夏目漱石「模倣と独立」)
今回は、その親鸞聖人の和讃に学んでみましょう。
「和讃」とは、「和語讃歌」の略で、大和言葉で分かりやすく
平仮名まじりで教えられたものです。
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悪性さらにやめがたし
その中の一つに、このような和讃があります。
悪性さらにやめがたし
こころは蛇蝎のごとくなり
修善も雑毒なるゆえに
虚仮の行とぞなづけたる
(悲歎述懐和讃)
「悪性さらにやめがたし」とは
「あの人は、悪性な人だ」
と言いますが、
「悪性」とは悪い本性で、
欲や怒り、ねたみそねみなどのことです。
「さらにやめがたし」とは、
少しもやまらないということです。
少しもやまらないということは、
悪のやり放題で開き直っているのではありません。
やめようとしたけれど、やまらないということです。
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これは、やめようとしなければ、分かりません。
因果の道理にしたがって、
廃悪修善、何とか悪をやめてよいことしようと
つとめればつとめるほど知らされたことは
「悪性さらにやめがたし」
欲や怒り、ねたみそねみなどの悪性は、少しもやまらなかった
と言われています。
心は蛇蝎のごとくなり
「心は蛇蝎のごとくなり」とは、
「蛇蝎」とは、蛇やサソリです。
蛇やサソリを見たら、ぞっとしますが、
「心は蛇蝎のごとくなり」
そういう蛇をみた時のような、
ぞっとする恐ろしい、嫌らしい心があることを
このように表現されています。
これは特に、とても人には言えない
ねたみやそねみやうらみの愚痴の心です。
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自分よりもすぐれている人に対して、
ねたみやそねみの心が起きてきます。
自分よりも才能がある、美しい、かっこいい、
お金や地位がある人を見ると
ねたましく、何とか失敗してくれないかな、
ひきずりおろしてやりたくなってきます。
例えば、受験でも、自分よりも成績が低い人を
ライバル視する人はありません。
自分と同じか少し上の人をライバルと思います。
そして、二人で同じ大学を受けにいったところ、
その友達は合格して、自分は落ちたとなったらどうでしょう。
本来は友達なので、友達の幸せを共に喜ぶべきなのに
どうも喜ぶことができません。
「何であいつだけうかっておれが落ちるんだ」
相手の合格がねたましくなってきます。
相手は相当努力したのに
自分は勉強不足だったという反省はできず、
なぜか努力よりも結果だけを見て、
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ねたましく思ってしまいます。
このように、自分よりもすぐれている人に対して
ねたみやそねみ、うらみの嫌らしい心が起きてきます。
人の幸せは、喜ばないといけないのに
人の幸せが許させない、醜い心があります。
自己を見つめられ、それに気づかれた親鸞聖人は、
「心は蛇蝎のごとくなり」と言われています。
修善も雑毒なるゆえに
「修善も雑毒なるゆえに」とは、
「雑毒」とは、毒がまじっていることです。
「修善」とは、善いことするということです。
善いことをするけれども、毒がまじっている。
「毒」とは、見返りを期待する心です。
せっかく善いことをしても、見返りを期待する心がまざっているのです。
例えば人に親切した時、
「私が」「誰々に」「何々を」
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この3つを記憶してしまいます。
例えば人からお金借りたりした場合には、
すっかり忘れます。
「お前、あの時、金貸したよな」
といわれても
「え?そんなことあったったけ」
そこで
「あの時、こういう時に、こういう状況で、こうだっていうから、
貸してやったじゃないか」
といわれてようやく、
「あ、そうそう、そういえば、借りた借りた、うん、今返すから」
と思い出します。
逆に、自分が人にお金を貸したらどうでしょう。
「私が、彼に、これだけのお金を
あの場所で、あの時、貸した」
と深く記憶に刻み込まれ、常に
「いつ返してくれるのかな、覚えているのかな、
少しは感謝してるのかな」
と心にかかります。
それでもなかなか返してくれないと、どんどん恨みの心が
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起きてきます。
このように、
お金を借りた時にはすっかり忘れてしまうのに
お金を貸したら、ずーっと覚えていて
お礼や感謝を要求しているのです。
私たちの本性は、我利我利なので、
結局、人に親切する時でも、
自分の利益しか考えていないのです。
自分さえ助かれば、人はどうなってもかまわない。
人に親切するのも、実は自分の為に
ここで親切にしておけば
そのうち見返りがあるかもしれないと思います。
自分を犠牲にして、他人を幸せにするというのは、
大変難しいことです。
自分は苦しいだけで何の見返りもない。
それでも相手に幸せになってもらいたい。
そんな心がけで親切しているでしょうか。
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以前学びましたが、布施の心がけとして、
「三輪空」が教えられています。
「三輪空」とは、三つのものを空じなさい、
忘れなさいということです。
三つのものとは、
施主
受者
施物
の三つです。
他人に親切した時、私が誰々に、何々を、
この三つを忘れるようにしようということです。
そうしないと毒がまじってしまいます。
例えば電車で席をゆずったら、その人はさも
「若者が立って当たり前だろう」
とでもいうかのように、
お礼も何も言わずにドスンと席にすわった。
すると、何となく嬉しくない心が起きてきます。
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でも本当は、
「自分が苦しくても相手に幸せになってもらいたい」
というのが「親切」であって、
別にお礼を要求して席をゆずったわけではないはずなのに、
どうもしっくりきません。
また、挨拶をしても返事がない。
これはきついですね。
聞こえたかな?もう一回挨拶したくなります。
それでも無視したとなったら大変です。
挨拶は大変善いことですが、
見返りを要求している心があるかもしれません。
挨拶しなければ、そういう心に気づきません。
挨拶したから、見返りを期待する心が知らされたのです。
善いことをすると本当の自分が見えてくるのです。
廃悪修善に心がけて、知らされることです。
昔、博多に、生き仏のように敬われていた
仙崖という僧侶がいました。
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ある冬の寒い日、橋を通ると
下で乞食が寒そうにしている。
自分が着ていた上着を一つ脱いで、橋の上から与え、
そのまま通り過ぎようとしたんですが、
相手は無言だった。
どうもしっくりこなかったので立ち止まってきいてみました。
「 どうだ、少しは暖かくなったかな?」
すると、
「着れば暖かいに決まっている。
分かり切ったことなぜ聞くか。与える身分をよろこべよ」
と言われたそうです。
それを聞いた、仙崖は真っ赤になって恥じ入ったと言われています。
暖かくなるに決まっているのだから、お礼を期待していなかったら
「少しは暖かくなったかな」
と聞かないのです。
仏教では「利他」に徹して、
「自分は苦しくてもいいから人に幸せになってもらいましょう」
「三輪空」を心がけて
「人に親切した時、私が誰々に何々を、この三つを忘れるようにしよう」
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と教えられているのに、
暖かくなったかなと聞いてしまったんですね。
その見返りを期待する心を乞食から指摘されて、
仏の教えが身に備わっていなかったと知らされた。
親切するには苦労しますので、
その分、苦労を認めて欲しい
相手に感謝して欲しい
という心が出てきてしまいます。
大善ほど猛毒を含む
しかも、苦労が大きくなるほど、認めて感謝して欲しいのです。
100円あげた時にお礼がなくても、
「まあいいか、忘れているんだろう」と思えるかもしれません。
では1万円あげて、お礼がなかったらどうでしょう。
100円ならこちらも忘れてしまう場合がありますが、
1万円となると、やはり次に会った時には、
「この間はありがとう、本当に助かったよ」
一言くらいは欲しいところです。
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では、100万円あげて、お礼がなかったらどうか。
100万円あげて礼なしは、これは厳し過ぎではないでしょうか。
普通100万円あげた場合、次の1回くらいではなく、
会う度にお礼言ってもらわないと
「本当に助かった、あの100万円、本当にありがとう」
1年間くらいはお礼が必要です。
では、1千万円でお礼がないとなったらどうでしょう。
これはもう発狂するかもしれません。
「あの時の1千万円、あれでおれの人生は救われたよ、心の友よ」
1千万円だったら、もう一生会う度にお礼を言ってもらっても
いいくらいです。
100円とは全く違います。
1千万円あげて
「私が」「誰々に」「何々を」忘れられるでしょうか?
「あれ、誰かに何かあげたと思うんだけど?まあいいか」
そんなふうに忘れることはできず、
一生記憶に焼き付いてしまいます。
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このように、親切が大きければ大きいほど、毒も大きくなります。
善が大きければ大きいほど、猛毒を含んでいるということです。
これを、龍樹菩薩の「大智度論」には
四十里四方の池に張りつめた氷の上に、二升や三升の熱湯をかけても、
翌日そこは、ふくれ上がっている。(龍樹菩薩「大智度論」)
と、たとえで教えられています。
四十里四方(約160km×160km!?)の池に張りつめた氷は、
二升や三升の熱湯をかけると、確かに少しはとけますが、
翌日そこは、余計にふくれ上がっています。
これではいいことやってるんだか、
悪いことやってるんだかわからないんですね。
大善ほど猛毒を含んでいるということです。
虚仮の行とぞなづけたる
和讃の4行目
「虚仮の行とぞなづけたる」とは、
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「虚仮の行」とは、
「行」とは善のことなので
ウソ偽りの善であるということです。
「修善も雑毒なるゆえに
虚仮の行とぞなづけたる」
毒まじりの善だから、ウソ偽りの善なのだということです。
善をする時は、
人のため、人のためといいます。
「あなたのために、
あなたが幸せになるようにと思って、こうしているんですよ」
人の為と言うのですが、
「人」と「為」は、くっつけて一つの漢字にすると、
「偽(ニセ)」となります。
結局、人の為といいながら
人の為ではなくて、自分の為にやっているということです。
例えば「謝恩セール」という言葉があります。
恩に感謝する。
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今までお世話になったお客様のご恩に感謝して、セールをします。
これは結局、その方が儲かるから自分の為にやっているだけです。
結局、相手の為といいながら自分の為と分かります。
このように、仏様のまなこからご覧になると
まことの善は一つもない。
これが、かつて一善無し
「曽無一善」ということです。
「そんな見返りを期待する心なんて私ありませんよ」
という人がもしいれば
それは善をやったことがない人です。
その人は、まだ自分の心に気づいていないのです。
もちろん布施をしたことはあると思いますが、
きっとその人にとっては、100円位のものです。
だから、そんなに見返りを期待しないのです。
そんな程度の善しかしたことがないということです。
善をしたら知らされます。
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松陰の暗きは月の光かな
という言葉があります。
「松」は、そもそも曲がりくねって、ひねくれた木です。
その松が、自分の姿を知るには、陰を見ると知らされます。
夜、松の陰がくっきり見えるのは月の光が明るいからです。
月が出ていないと見えませんが、
月が出て、しかも明るければ明るいほど、
陰がくっきり見えて自分の姿が知らされます。
ちょうどそのように、
光に向かえば向かうほど、自分の姿が知らされるということです。
悪いことやめて善いことしよう。
廃悪修善を心がけるほど、
本当の自己のすがたが知らされる。
これが、
「松陰の暗きは月の光かな」
という歌です。
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善い行いをすればするほど、
毒まじりの善しかできない自己が知らされる。
極悪は極善によってのみ照らされる
という言葉もあります。
ちょっとした善ではあまり悪は知らされません。
大きな善ほど猛毒を含んでいますから、
善いことをすればするほど、知らされるのです。
「曽無一善」なんて言われても、
「自分は一つくらい善をやったことあるけどな」
とあわてて答えを出さず、
まず廃悪修善を心がけてみましょう。
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まとめ
仏教という法の鏡には、本当の私たちのすがたがこのように映っています。
心常念悪
心常に悪を念じ
口常言悪
口常に悪を言い
身常行悪
身常に悪を行じ
曽無一善
曽て一善無し
最後の「かつて一善なし」とは、一体どういうことでしょうか。
これは、仏様の眼からご覧になると、まことの善は一つもないということです。
善をやっても、見返りを期待する、毒のまじった「雑毒の善」なのです。
しかも大善ほど猛毒を含みます。
まだ善をそれほどやったことのない人は
見返りの心も小さいので気づきません。ところが、
「松陰の暗きは月の光かな」
「極悪は極善によってのみ照らされる」
廃悪修善を心がければ心がけるほど、
法の鏡に照らされて、真実の自己が知らされます。
今すぐ実行してみましょう。
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23
覚えましょう
あくしょう
悪性さらにやめがたし
じゃかつ
こころは蛇蝎のごとくなり
しゅぜん
ぞうどく
修善も雑毒なるゆえに
こ
け
ぎょう
虚仮の行 とぞなづけたる
ひたんじゅっかいわさん
(悲歎述懐和讃)
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