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「中国残留日本人」のモデル・ストーリーをめぐって Ⅰ はじめに
2005 年 9 月 18 日/日本オーラル・ヒストリー学会(於京都大学) 「中国残留日本人」のモデル・ストーリーをめぐって ―「中国残留婦人」のストーリーを中心に考察するー 京都大学大学院 Ⅰ 南 誠 はじめに 「中国残留日本人」(以下は残留日本人)とは戦前・戦中に、現在の中国東北部に渡った満 洲移民が日本の敗戦を契機に、中国人の家庭に入り、その後の集団引揚から排除され、72 年の日中国交が回復してから、日本へ永住帰国できた人びとのことをさしている。彼(女) らは一般的には、12 歳を境に、12 歳以下の人は「中国残留日本人孤児」 「中国残留孤児」(以 下は残留孤児)、13 歳以上の人は「中国残留邦人」、「中国残留婦人」(以下は残留婦人)と呼 ばれている。現在に至っては、残留日本人およびその親族を含めて「中国帰国者」と呼ば れ、約十万人が日本社会で生活している。 彼(女)らに関する研究書物が出版されるようになったのは 90 年代に入ってからである。 それまでは、主にマスメディアによって語られてきた。その研究は日本社会での適応(『移 住と適応』)のほか、残留婦人のアイデンティティに関する研究がある(蘭[1994]、時津[2000]、 山下[2003])。これらの研究は一貫して、語られたストーリーを通して、残留婦人たちが抱 く「ノスタルジアとしての日本」に焦点を当て、そのアイデンティティのありようについ て分析、解釈している。 一人きりで生きる中国 満洲移民 → 逃避行 ⇔ ノスタルジアとしての日本(P250) → 中国残留(文革大革命が主である) → 帰国 満洲の生活はよかった。たのしかった。 逃避行は悲惨。仕方なく中国人の家に入った。 文化大革命のときは被害を受けた。なくても、敗戦国民として中国を生きる不安感。 しかし、語りの中に現れるアイデンティティは「一貫性をもつ自分らしさ」というより 「いま・ここ」という時空間に規制され、 「便宜的に選ばれた自己概念」である(桜井[1990]45)。 また、ホールはアイデンティティを、特別な言説形成と言説実践の内側で、特別な発話 的戦略によって、特別な歴史的・制度の場のなかで生産されるものとして理解する必要が ある、と指摘した(ホール[2001]13)。そのようなアイデンティティは「表象や言説の外側に おいてではなく、内側において形成される」(ホール[2001]12、13)ものである。 1 そして、アイデンティティは出会う点、縫合の点でもあるという。 =つまり、「呼びかけ」ようとする試み、語りかける試み、特定の言説の社会的主体とし てのわれわれを場所に招き入れようとする試みをする言説・実践と、主体性を生産し、「語 りかけられる」ことのできる主体としてわれわれを構築するプロセルとの出会いの点、< 縫合>の点という意味である。 =言説的実践がわれわれのために構築する主体の位置への暫定的な接着点である。 =言説の流れのなかに主体をうまく節合もしくは「連鎖化」させた結果である。(ホール [2001]15) 以上のように、本報告ではアイデンティティとして語られた残留婦人のストーリーを所 与なものではなく、社会的に与えられたものであると考える。このような視点からそのモ デル・ストーリーがどのようにして構築されたのか、また、それがどのようにして獲得さ れ、語られていたのかについて考察してみたい。ここでいうモデル・ストーリーは、ある時 点での社会状況とその歴史的時代に支配的な語り(桜井[2003]259)のことをさしている。 この考察は脱構築の作業であり、系譜学が目指すところの、「諸支配の永遠の戯れ、暴力 と従属と闘争の領域をあらわに」し、際限のない解釈(フーコー)をし続けることでもある。 また、テクスト内にとどまらない「語りの力」(桜井[2003]289)を発見するための作業でも ある。 Ⅱ 「中国残留日本人」のモデル・ストーリーの構築 90 年代に入るまで、残留日本人は主にマスメディアによって語られてきた。そこには残 留日本人をめぐる「感傷の共同体」が構築されていた。「感傷の共同体」は残留日本人の肉 親捜し・促進運動を行った満州引揚者を中心とするボランティア団体がメディアを通して、 構築したものであった。 「感傷の共同体」の中心を支えているのは、残留日本人の帰国をめ ぐる物語である。 残留日本人の帰国は「祖国への帰国」の物語であり、親子の再会劇でもあった。祖国日 本へのノスタルジア的な感情や、中国で背負う「敵国人」の烙印、文化大革命の混乱期に 被った被害などが中心を据えている。これらのマスメディアや行政、民間団体の運動のレ トリックなどを含めて考えると、残留日本人の言説 1 は犠牲者としての「戦争被害者」と「棄 民」である。 1 言説とは何らかの仕方でまとまって、出来事の特定のヴァージョンを生み出す一群の意 味、メタファー、表象、イメージ、ストーリー、陳述、等々を指す。それはテクストや文 化的資料だけでなく、社会的実践、公式・非公式の法、包摂の政治や排除の政治、組織の 制度的形態などをも含んだひとつの網の目なのである(ロウ[1996])。つまり、残留日本人 についての知を構成し、規定するすべてのものを指す。 2 1 「中国残留日本人」と忘却 1) 「中国残留日本人」の忘却 2 残留日本人は戦後長い間、忘却されたままであった。その忘却を可能にしたのは、主に 四つの要因がある。 ①戦後の日本社会における、中国不在、満洲への記憶の抑圧。それによって、中国、満 洲とも関係を持つ残留日本人の記憶を受け入れる土壌はなかった。 ②後期集団引揚の終了=日中国交の断絶という言説。 ③59 年に施行された「未帰還者特別措置法」。 ④残留日本人に対する社会的排除。 2) 忘却に抗して 1972 年の日中国交回復を契機に、引揚者による残留日本人の肉親捜し・帰国促進運動が行 われるようになった。この運動によって、残留日本人に無関心だった日本社会、日本政府 を動かした。81 年の「中国残留日本人孤児」の訪日調査が開始されるに至った。この運動 は、残留日本人の救済運動であると同時に、忘却された残留日本人の存在の回復を目指す 「反・忘却」運動でもあった 3 。 運動の参加者のほとんどは満洲からの引揚者であった。運動のレトリックにおいて、引 揚者の記憶、体験が動員されていた。それまで、彼(女)らは満洲関係の戦友会、拓友会、同 窓会などの閉鎖的な場でしか、自分たちを語ることができなかった(坂部[1999]、高[2001])。 しかし、この運動を通して、公の場で語れるようになった(「想起の共同体」の結成)。引揚 者による残留日本人の肉親捜し・帰国促進運動は、引揚者自身のアイデンティティ・ポリテ ィクスでもあった。この重層的な運動によって形成される残留日本人の「感傷の共同体」 は、その後、メディアを媒介して、流通していった 4 。 2 モデル・ストーリーの形成 *残留日本人のモデル・ストーリー ① 戦争被害者 ―― 主には行政関係者、行政の見方。一般にも流通している。 「中国残留邦人等の円滑な帰国の促進及び永住帰国後の自立の支援に関する法律」 第一条 この法律は、今次の大戦に起因して生じた混乱等により、本邦に引き揚げるこ とができず引き続き本邦以外の地域に居住することを余儀なくされた中国残留邦人等の置 2 残留日本人が戦後、とくに後期集団引揚の中において、どのように排除され、そして忘 却されていったのかについては、南(2005)を参照されたい。 3 この社会運動に関する論述は南(2002a,2002b)を参照されたい。 4 メディア、特にTVドキュメンタリーを中心に分析したのは南(2004)である。 3 かれている事情にかんがみ、これらの者の円滑な帰国を促進するとともに、永住帰国した 者の自立の支援を行うことを目的とする。 ② 棄 民 ― 民間ボランティア、著述家など 三度の棄民 1、国策による移民、その後の保護の放棄 2、戦後処理の「不作為」(90 年代に入ってから) 3、帰国後の対応の冷たさ ・モデル・ストーリーへ *家族の絆 ルーツ探し → 望郷の念、祖国日本への語りである。 → 悲惨さの強調 肉親捜し・帰国促進運動の目的 肉親捜し・帰国促進運動の根拠 肉親捜し・帰国促進を潤滑に行うため ・国策による 日本政府が責任を に、政府の協力を得ること 「満州移民」の送出 負うべきだという ・終戦直後の国民 根拠 保護の放棄 肉親捜し・帰国促進運動の前提 ・軍人との差別 ・中国残留日本人孤児の定義 ・最終的なデータの把握は不可能 ・帰国の困難 ・家族の絆 「中国残留日本人」が帰 ・ルーツ探し 国を希望する根拠 ・帰国後の不適応 ・時間との勝負 図2 肉親捜し・帰国促進運動における民間団体の主張 Ⅲ 「中国残留婦人」のストーリーをめぐって 1 「中国残留日本人」の社会的構築 「中国残留日本人」という名称は 1974 年以降から日本社会で使われるようになり、81 年の残留孤児の訪日調査の開始を契機にして、定着したものである。しかし、訪日調査が 残留孤児(12 歳以下)だけを対象にしているため、そこから排除された残留邦人、その多く が女性であるため、残留婦人と呼ばれるようになった。 4 ― 権力の二重の機能―法制機能と産出機能―(バトラー[2004]21) ― *中国残留孤児(厚生援護局編 1987: 17) ① 戸籍の有無にかかわらず、日本人を両親として出生した者であること ② 中国東北地区などにおいて、昭和20年8月9日(ソ連参戦の日)以降の混乱により、 保護者と生別又は死別した者であること ③ 当時の年齢が概ね13歳未満の者であること 本人が自己の身元を知らない者であること ⑤ 当時から引き続き中国に残留し、成長した者であること → ④ 13 歳以上の女性は中国残留婦人、 *残留日本人問題のエンクロージャー(囲い込み)(金[2002]215) → 2 残留日本人の語り構造の増殖 → 残留孤児が中心 「中国残留婦人」捜し 山口県 「中国残留婦人交流の会」 訪日調査が始まって 5 年後の 1986 年 5 月 19 日の朝日新聞 「孤児たちが話題を集めている一方で、意外に忘れられているのが中国残留婦人た ちの存在だ。数千人はいるといわれるがはっきりしない。この夏、そんな婦人たち十 数人を日本に招く運動を進めている若者達がいる」 そしてそれ以来、私の中国残留婦人捜しのたびが始まる。 3 「中国残留婦人」の語り 1) 中国を生きる語り * 夫の恩義、子どもへの愛 日本人妻たちの愛ある決意(松原[1986]) 1953 年から 1958 年までの後期集団引揚の間―日本人妻は日本へ帰ることが可能であった。 本人の意思によって。主人の反対は聞かなくてよい。 5 人の残留婦人が語るその理由(松原[1986]27) 「終戦後に生命を今の中国人の夫に救われたから今日があるので、もし、そうでな かったら死んでいます。そのとき死んだと思えば、日本のことは諦められました。も し、私が夫と子供を捨てて日本へ帰れば、夫は村の人に、それみたことか、日本人の 女を嫁にして、と笑われますし、幼い子ども(その頃は子どもたちは十歳以下)たちは母 5 を慕って泣きます、たとえ、こうしたことは無視できたとしても、夫から受けた恩義 は踏みにじるわけにはいきません」 。 * 中国はふるさとである 久保英子(真野 P97) *73 年に一時帰国 「四十五年間も中国に住んでいると、わたしの故郷は中国ですよ。帰国する孤児た ちがいるけど、わたしにはその気持がわからないんです。こんなことというと日本の 人たちにわるいかもしれないけど(わたしは、思ったことはっきり言うタチだから)日本 に行っても生活はよくないらしいんです。わたしも帰国したとき、半年くらいすると もう中国が恋しくなった。中国の人たちのほうが、本当に心が通じ合うんです」 だが、もう一度日本にいきたいと思っている。 「だけど二回目は自費だからね。わたしのような年になると、みんな息子に養って もらっているから、自費で日本に行くなんて無理ですよ」 * 日本人として (1988 年) 日本の女性は日本の魂に生きよう、残留婦人には愛のない生活のもとにも夫に良く つかえ、子どもの教育にも心を配り、できるだけ近所のお付き合いもよくし、困る人 とはお互いに助け合い、人の嫌がる仕事は進んでした。現地の人たちには下目に見ら れるようなこともなかった。“日本鬼子”と呼ばれるもなかった。中国の人たちには日 本婦人はエライとよばれていた。残留婦人の一人一人が日本の皆様の顔を塗らないよ うにと常に緊張していた。 2) 日本に帰国する語り 里帰りしていた中国残留婦人一行は 28 日午前、成田発の日航機で母国を後にしたが、 25 人のうち 2 人は最初から永住帰国するつもりだったという。しかし、一時帰国に協 力してくれている中国政府との関係もあり、招いた関係者は、残留夫人の熱い望郷の 思いがもたらしたハプニングの対応に苦慮している。 (朝日新聞 1989 年 11 月 28 日) 残留婦人の強制帰国 「帰りたくて残った」 1993 年 9 月の新聞欄 *「日本人として中国を生きる語り」がノスタルジアとしての日本の語りへ 6 (中国での生活が悲惨) → Ⅳ 政治的主体になるための語り ― 国に訴える語り(国を思う気持ち) おわりに *残留婦人を「一人きり」として描くようは、我々(日本人)が求める物語、といえるのでは ないだろうか?(山下[2003]254) マスコミの力も大きい → 解釈する側の問題なので は? *語られない「残留」、語られない「境界文化」(桜井[2005]) - 排除されていく語り=たのしかった「残留」生活 ← 敗戦国民という捉え方 ← 日本人としてどう生きてきたかが物語の中心となる。 - 二項対立的な解釈仕方 *浮揚するアイデンティティ、国境を生きる 【 参考文献 】 蘭 信三[1994]『「満州移民」の歴史社会学』,行路社 蘭 信三(編)[2000]『「中国帰国者」の生活世界』,行路社 蘭 信三(編)[2003]『「中国帰国者」の社会的適応と共生に関する総合的研究』 ケン・プラマー(桜井厚・好井裕明・小林多寿子訳)[1998]『セクシュアル・ストーリーの時代』 新曜社 金 泰泳[2000]『アイデンティティ・ポリティクスを超えて』世界思想社 金 泰泳[2002]「書評に応えて」『ソシオロジ』第 46 巻 3 号 高 媛[2001]「記憶産業としてのツーリズム」『現代思想』2001.2 桜井 厚[1995]「戦略としての生活ー被差別部落のライフストーリーから」栗原彬編『差別 の社会学第 2 巻 日本社会の差別構造』弘文堂 桜井 厚[2002]『インタビューの社会学』せいか書房 桜井 厚[2005] 『境界文化のライフストーリー』せりか書房 スチュアート・ホール( 宇波彰訳)[2001]「誰がアイデンティティを必要とするのか?」スチ ュアート・ホール+ポール・ドゥ・ゲイ編( 宇波彰監訳)『カルチュラル・アイデンティテ ィの諸問題ーー誰がアイデンティティを必要とするのか?』大村書店 時津倫子[2000]「『中国残留婦人』の生活世界』蘭信三編・上掲書 南 誠 2002a「「満州移民」の戦後研究」早稲田大学大学院アジア太平洋研究科・修士論文. ------ 2002b「「中国残留日本人」の肉親捜し・帰国促進の社会運動――「日中友好手を つなぐ会」の活動を中心に」(蘭信三編、『「中国帰国者」の社会的適応と共生 に関する総合的研究』基盤研究(B)(1)(課題番号:16330098)研究成果報告書、 2005 年度発行予定) . 7 ------ 2003 「「中国帰国者」の歴史的形成に関する一考察」蘭信三編・上掲書. ------ 2004 「『中国残留日本人』の語られ方-記憶・表象するテレビ・ドキュメンタリー -」(2005 年度発行予定) . ------ 2005 「「中国残留日本人」の歴史的形成に関する一考察」『日中社会学研究』13 号. 山下朋子[2003]「中国残留婦人における<満洲の記憶>」蘭信三編・上掲書 久保英子[1984]『わたしは残るーある中国残留妻の手記』藁書房 林 郁[1985]『満州・その幻の国ゆえにー中国残留妻と孤児の記録』筑摩書房 岡庭昇・真野貫一[1985]『まま わたしは生きてるー中国残留孤児・残留婦人激動の四十年』 毎日新聞社 松原和枝[1986]『今はもう帰らないー中国残留日本人妻の 40 年』海竜社 吉永伊勢子[1986]『赤い夕日の大地』読売新聞社 中島多鶴・NHK 取材班[1990]『忘れられた女たちー中国残留婦人の昭和』日本放送出版協 会 班忠義[1992]『曾おばさんの海』朝日新聞社 片岡稔恵[1993]『残留・病死・不明ー中国残留婦人たちはいま』あすなろ社 田村久江[1993]『凍土に生きる』ブラザ 林 郁[1993]『あなたは誰ですかー中国帰国者の日本』筑摩書房 小川津根子[1995]『祖国よー「中国残留婦人」の半世紀』岩波書店 吉永伊勢子[1996]『忘れられた人たちー中国残留婦人たちの苦闘の歳月』新風舎 8