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ガンドルファー兄弟事始め
ガンドルファー兄弟事始め 一九一一年十二月十四日プファッフェンベルク町政選挙− 45 プファッフェンベルク町の社会構成⋮⋮⋮⋮⋮:⋮・ ⋮:⋮: :21 一九〇五年十月八日プファッフェンベルク人民集会⋮・・ ::6 はじめに:⋮⋮⋮:⋮⋮・⋮⋮⋮:⋮:⋮⋮: :1 ー第一次世界大戦前のバイエルンにおける国家と農民1 二、 おわりに・⋮⋮ ・・66 宅 立 心とした兵士と労働者の一団は、この会場から革命へと決起し、革命への兵士の参加を求あて兵舎に向かった。その 通る平和なデモ行進へと移っていったが、バイエルン独立社会民主党の指導者クルト・アイスナー国β二国目臼を中 は、バイエルン社会民主党の指導者エアハルト・アウアー国臣臼α﹀信興の指導のもとに、ミュンヒェンの中心街を 一九一八年十一月七日、バイエルン王国の首都ミュンヒェンのテレージエンヴィーゼ原では、労働組合、社会民主 党、独立社会民主党の共同の呼びかけに応えて、平和と自由を求める大集会が開かれた。この集会は、全体として は じ あ に 三、 三 デモ隊の先頭に立ったアイスナーのかたわらには、彼とかたく腕を組んだ盲目の一農民の姿があった。アイスナー 1 一、 に、ミュンヒェン東北方八〇キロあまりの田舎町プファッフェンベルク国跳Φ口げ臼σqをおとずれて、その地の農民、 は、この日の決起に先立って、農業国バイエルンでの革命には農民の協力が不可欠であると考え、前月、十月のうち ルートヴィヒ・ガンドルファーピ巳註αqOき店o篤臼の協力を取りつけていたのである。革命が成ると、ルートヴィヒ ・ガンドルファーは、アイスナーから、農民評議会Ud9ロ臼日鉾の結成を委ねられたが、その直後、ミュンヒェンから プファッフェンベルクへの帰途、自動車事故にあってこの世を去った。しかし、その任務は、兄力ール・ガンドルフ ァー囚㊤臨Ω9巳。鳳臼の継ぐところとなり、以後、カールは、バイエルン中央農民評議会議長として、革命の一翼を 担うこととなるのである。 ところで、そもそもアイスナーが、革命の前夜、プファッフェンベルクへとひきつけられたのには、このカール・ EΦ話げ§山所属のバイエルン下院議員であったが、革命前から革命期にかけてアイスナーと行動を共にしたフェー ガンドルファーの存在が大きかったように思われる。第一次世界大戦当時、カールはバイエルン農民同盟ゆ昌①H凶ω昏臼 リクス・フェッヒェンバハ男o躍×国Φ。げ①昌げ8びの回想記﹃革命家クルト・アイスナー﹄によれば、バイエルン邦議会で ︵1︶ のカール・ガンドルフアーの激しい政府批判演説がアイスナーの注目を呼ぶところとなったという。この演説が一九 一八年七月二十四日ーそのころ、アイスナーは、同年一月の、平和を求めるミュンヒェン労働者のストライキを指 導したかどでなお未決拘留の身となっていたがーの演説をさすことは、まずまちがいないところであろう。この時 カールは、現在の政策に全く不満であることを明らかにし、﹁この身の毛のよだつような戦争﹂の長期化に最大の責 ︵2︶ 任を負う﹁全ドイツ派、祖国党一派、戦争利得者、戦争暴利者﹂に徹底的な闘争を宣言したのであった。そのさい、彼 は、1翌二十五日、中央党のシュリッテンバウアーωΦげ9巴雪ω。臣一け自げ碧興の厳しい論難に応えてー、カイザ ︵3︶ ーとバイエルン国王にも、その戦争勃発阻止の努力に疑問を投げかけている。そして彼は、十月下旬には、バイエル ンの農民に向けて、次のような呼びかけを発するのである。 む む む む む む む む む ヘ ヘ ﹁ドイツは軍事的に崩壊した。・ ヘ ヘ ヘ へ ドイツの人民の救済は、ドイッの人民が自ら自己の運命を引き受けることによってのみ、ぎりぎりのところで達成 されうる。戦争とその継続に責任を有するすべての事、そしてすべての者が除去される時にのみ、ドイツが根底から 2 Ud へ も 革新される時にのみ、我々は、我々がその中で生きていけるような平和を達成することができるのだ。 のために活動するのを、共に助けなければならない。 今こそ、農恥伽曄も来たのだ。諸君もまた、臥由応ドイツがよみがえり、平和の凶隣遍盟が破壊されたものの復興 む む む む あ へ 南ドイツ、とりわけバイエルンの農民には、自由と人民の諸権利を求める闘争において自らも先頭に立って進むと こそが、唯一目的にかなった国民的防衛なのである。 いう重要な任務が課されているのだ。国内の責めを負うべき敵から我々を守り、彼らから我々を解放すること、るわ む む む ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ あ ヘ ヘ ヘ バイエルン農民同盟は農村のいたるところで指導をひき受けなければならない。⋮⋮ バイエルン農民同盟は、真の人民政府がバイエルンに直ちに樹立されるよう努力しなければならない。 む む ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ 自由なバイエルンの農民の力強い運動は、即時の平和締結に最大の効力をもつものとなろう。 農民諸君、農民同盟員諸君!諸君の時が来たのだ!時代の徴候を認識せよ!今日、私は、ただ私の選挙民の名にお ヘ ヘ ヘ ヘ へ いてのみ語っている。私は希望し、かつ期待する。近日中に全農民同盟がこれらの目標を明白に支持し、バイエルン の農民諸君が、バイエルン農民同盟の自由の旗の周囲に結集せんことを。﹂ 、 、 、 、 ︵4︶ 同盟系の一地方新聞﹃ランダウ民報り⇔Pq鋤¢醇くO貯ω玄P暮﹄十月二十三日号第一面に掲載された。この日は、奇しく プファッフェンベルク、十月二十一日付のこの呼びかけ﹁目下の急務UoのO①ぴ9山臼ωε巳Φ﹂は、バイエルン農民 も、ドイツ帝国議会補欠選挙に立候補して十月半ば未決拘留の身を解かれたアイスナーが、ミュンヒェンで最初の選 挙集会をもった日であった。この時、彼は、労働者に対して、来るべき時に備えて代表の選出、労働者評議会の結成 を訴えたが、十月三十日に開かれた第二回の選挙集会では、次のように呼びかけることとなる。もし平和が早期に締 結されなければ、戦争をバイエルンの国境から遠ざけておかんがために、バイエルンの農民と労働者は政権を掌握し なければならない、と。 ︵5︶ フェッヒェンバハは、前述の回想記の中で、アイスナーが十月のうちに、ガンドルファー兄弟と接触をもったこと 3 を指摘している。おそらくそれは、この二つの選挙集会の間のことであったと思われる。’ところで、フェッヒェンバ ハは、この接触に関連して次のように記している。 ﹁盲目のガンドルファー︵ルートヴィヒ・ガンドルファー 三宅︶は、広く旅をした男で、政治生活に非常に大 きな関心をもっていた。そして、かなり以前から社会主義者であった。アイスナーとは独立に、一大人民運動の思想 ︵6︶ が彼の中で熟してい た 。 ﹂ 明らかなところであろう。しかし、彼は、アイスナーからの協力要請に対して、ルートヴィヒとは異なゆ、少くとも ﹁一大人民運動の思想﹂が、当時、兄力ールの中でも熟していたことは、その呼びかけ﹁目下の急務﹂からすでに より慎重な対応をしたように思われる。十月末、バイエルンの内務大臣も出席したある会合で、バイエルン自由主義 派の一指導者からある種の革命思想と掛り合いになっているといううわさを突きつけられた時、彼は笑いながらこう ﹁それは全く別のガンドルファーのことだ。 一体、あなたは、私がそんなに馬鹿だとお思いなのですか、こんなご 答えたという。 ︵7︶ とを一緒にやるなど と 。 ﹂ ていたように思われる。この間、彼が十月二十一日付の呼びかけの中で期待をかけたバイエルン農民同盟が、結局、 この応答が攻撃をそらす意図からのものであったことは当然として、しかもなお、そこには、ある真実がこめられ 同月二十八日の代表者会議で、﹁君主制原理を維持しつつ、人民に政府への最大限の影響力を付与すること﹂という 線にとどまったこと、そして、﹁安寧・秩序を概乱する分子には、いかなる支持も与えることのないよう﹂呼びかけ たことも、ここで指摘しておくべきことであろう。 ︵8︶ ら汽車でかけつけたアイスナーと、革命への決起に向けた最後の打ち合わせを行うこととなる。 他方、ルートヴィヒ・ガンドルファーは、十一月三日午後、この日テレージエンヴィーゼ原で開かれた集会の場か ︵9︶ さて、その後の革命期におけるガンドルファー兄弟、とりわけカール・ガンドルファーの活動については、バイエ ︵10︶ ルンの農民評議会に関するヴィルヘルム・マッテスの先駆的な研究以来、かなりの論究・言及がなされてきている。し かし、ガンドルファー兄弟がどのような生活、どのような社会関係ないし社会的環境の中から、どのようにして政治 4 へと関わっていったのかについては、これまでほとんど全く顧られることがなかった。しかし、この問いは、ガンド ルファー兄弟、そしてバイエルン農民評議会が、バイエルン革命、さらにはドイツ革命全体の中で、ユニークな位置 を占めていただけに、一つの魅力ある問いたらざるをえない。本稿では、ガンドルファー兄弟が生れ、そして生活と 活動の本拠とした、バイエルンの田舎町プファッフェンベルクを中心に、彼らの政治活動のいわば原点を探ってみる こととしたい。その作業は、同時に、第一次世界大戦前の近代バイエルンにおける、国家と農民の問題の一端に触れ ることともなるはずである。 ︵3︶憲ミ‘ω゜①ωメなお、カール・ガンドルファーの七月二十四日の演説に触れたものとしては、名=ず巴8竃舞おρb紬 .吻W馬篭OαQ、匙㌧款帖動ら評恥bu恥、篤ら謳妹♪]W匹.目P ω゜㎝G◎bO中゜ ︵8︶ 卜蕊”Z居゜b。㎝ωくo日c。一90胃oげ魯日O一c。嚇ω゜ω.カール・ガンドルファーが、同じく農民同盟所属のバイエルン下院議員 ︵7︶甲量罫ぎ−ζ・巨・ぴ・・p詮・b。亀ミ・§§ミ§守α・§︵穿量い・冒σqし醤︶﹄.c。b・° ︵6︶ 男ΦoゲΦpげ90買ω.GQOQ° ω゜きω中 ご凶β冥国冒昌Φ円・ωけg臼①Nq。・皿p曾℃o=け団ωoゲΦ昌しuδαq同9娼げδ..u一昌“閑9二udo匹︵=H≡■σq°︶︾bo魯隻帖、謡凡§qミ魎、袋ら評︵竃曽⇔oげoP一Φ① ︵5︶甲§ω。冨匹ρ肉ミ肉帖・ミ§概ミこ塁§§・象§N載§。詠ミ紬︵臣弓。・・炉まHγω゜α三∴閃舞ヨ①器塁昌p bロ鳥隻恥、騨ら︾馬§bu&袋恥、嵩い塁論蹴馬恥︵]<[口昌oず①PH㊤bσ心︶”ω.Hbり9 行によるもの、傍点はゲシュペルト。なお、この呼びかけに注目したものとしては、≧o貯国qp儀訂8日①ひQ翁ら評詩専馬靴a ︵4︶ 卜§翫§ミぎ寒客貯慧︵以下、卜蒔と略記γZ﹃.b。鼻①く。巳卜。ω゜○ぎ。び霞H曾。。”ω.ド 強調はいずれも原文。圏点は改 妹、筑恥捜恥凡“亀習鳴きげ﹁ー1σq°<’因鋤ユbdo臥︵切Φ同一一⇒“ド㊤OcQγ ω゜ωbaωh ぎ、縞い馬鳶“載亀、沁恥GoN袋翫o蕊do醤一⑩一GQ℃切山゜ba餌Φ目bd恥粋、貸頓恥捜寒竃醤鳴、潮鋳ミ、鋳ら謡馬嵩恥妹、袋詠W袋、騎嵩畠馬セ物恥切亀馬、爲句軋ミ奪糺母動− い畠セへ、跨らひ恥蕊bu織袋恥、醤、貸鳳鳴︵ωけロ暮αqp﹁ミしuΦ﹁=PHOb⊃Hγω゜㎝GQい≦ロ一団﹀ひ﹃Φoげ計卜&謡“妹匙隣袋蕎賊門沁鳴αQ尉、母蕊鴨帖謡bJ塁偽、蕊畠ミ 5 ︵2︶ 壽、︸斜醤翫N袋隷αQ馬爲翫鳴、諮§ミ恥、翫恥、郎いαQ鳴o、概蕊ミ恥謡職aい匙セ鳴篭逡謳恥鳶卜亀論駄蝋亀σq3閑k壇ミ.卜斜誌“叫織隣恥嬢恥、恥貸ミミへ黛爲隣層 ︵−︶ 岡Φ鵠客閃ooずΦ⇒げpo﹃b恥、沁恥建9袋職o謡籍、肉ミ、、肉蹉遷帖、︵しdo目=PHりトa㊤γω.ωω゜ 注 ヨーゼフ・ヴァスナー冒給嘗芝窃器﹁及びマルティーン・シュタイナーζ胃甑昌’ω什①ぎ費とともに、首相ダンドル98 ︾ま器oげ♂ω゜心O㎝. くopU壁巳を訪れ、戦況に鑑みバイエルンが単独講和を申し出るよう求めたのも、この直後、十月三十日のことであった。 ︵9︶頃①。冨昌訂。﹃ω゜ω母゜ ︵10︶ 竃讐9ωりo︾禽鳳凱出琶穿固ヨヨ⑦ひo辱゜亀外のほか、比較的最近のものとして、O口韓臼囚o℃P肉ミ&蕊愚ミ凡§職ミき沁ミ馬 ︵ζ冒。訂P巳おyわが国では、最近、黒川康﹁ドイツ革命とバイエルン農民﹂﹃西洋史学﹄、 一〇四号︵一九七七年四月︶ を得た。 鼡縺Z五年十月八日プファッフェンベルク人民集会 プファッフェンベルクは、バイエルンを南北に区切って流れるドーナウ川と、南のアルプスに源を発しミュンヒェ ンを通ってバイエルン東部でドーナウ川に注ぐイーザル川とにはさまれたなだらかな丘陵地帯を、東北に流れてドー マ ル クト ベルクの南方、イーザル河畔には、この町の属するニーダーバイエルン県の県庁所在地ランツフートい碧伍跨暮があ ナウ川に注ぐクライネ・ラーバー窓o言。い器げ臼川のほとりに立つ、小さな市場町ζ曽犀である。プファッフェン り、そこから北に向かう鉄道は、一つはそのまま北上して、ドーナウ河畔の古都レーゲンスブルク幻①σq①霧げ臼σQに至 る。もう一つは、この町のあたりで東北に分岐して、ほぼクライネ・ラーバー川の右岸︵南側︶に沿いながら、肥沃な ドーナウ平野部の中心都市シュトラウビングω茸碧げぎαqに向かっている。プファッフェンベルクを通ってシュトラウ ビングに至る街道は、このあたりでは、クライネ・ラーバー川の左岸を走っており、郡役所の所在するマラースドル フζ臣臼巴o鳳は、その途中、プファッフェンベルクから東にニキロほどのところにある。ここには古くから修道院 があったが、第一次大戦前の頃は、行政的には﹁村Uo跳﹂で、経済的には、伝統ある﹁市場町﹂たるプファッフェ ドルフ マルクト ンベルクが、ランツフート、レーゲンスブルク、シュトラウビングといった﹁都市ω3黛﹂に囲まれたこの丘陵地帯 シユタツト の、 一つの1小さなi中心地となっていた。 一九〇五年十月八日、日曜日、この日は、どんよりとした秋空で、身を切るような風がマラースドルフ方面からプ 6 一、 第1図プファッフェンベルクとその周辺 Topographlsche Karte 125000,7239 Ma11ersdorf, Ausgabe 1954 Hrsg vom Bayer Landesvermessungsamt(Munchen,1954)より。 第二次大戦後のプファンフェンベルクの航空写真(絵葉書)。写真上方にマラース ドルフが見える。現在では,町村合併で「マラースドルフープファソフェンベルク 町」となっている。 7 ファッフェンベルクへと吹きつけていた。その中を、この町や近在の村々の五百名あまりの人々が、町の中央のマル プラツッ ガストホ フ クト広場ζ碧聾鳳⇔富に面したロールマイヤー旅宿酒場へと集まってきた。祭りの日にはダンスが踊られるそこの大 ホールで、マラースドルフ郡郡長ゆ①Nマ訂o巨日p目の態度に抗議する人民集会が開かれるというのである。集会の主 ベツイルクスアムトマン の片腕としてバイエルンの党内に地歩を築きつつある男、弁士マルティーン・グルーバーζ費けす○歪げ臼は、同党 催者エアハルト・アウアーは、バイエルン社会民主党の指導者ゲオルク・フォン・フォルマル08おく。p<。=日母 機関紙﹃ミュンヒェン報知竃口p。﹃窪曾℃o除﹄の主筆であった。プファッフェンベルク人民集会は、かくて、この地 最初のポスターは、集会のテーマとして、﹁マラースドルフ郡におけるパシャ行政∪δ評。■。冨註目けω筈既江日切ΦNマ犀 で初めての社会民主党主催の集会としてもたれることとなったのである。 ︵1︶ この集会に向けて、二種類のポスター︵第2図︶が出されている。九月二十四日頃いくつかの酒場に張り出された うに訴えていた。 ζ巴ζ巴。臨﹂ーパシャとはトルコの太守のことで、ドイツ語では転じて威張り屋をさすーを掲げ、さらに次のよ シユタ ツピユルガ ﹁マラースドルフ郡の国家市民が官吏からも丁重に取り扱われることに関心を有する者は、この集会に必ず出席す ヘリツシユ ベきである。集会では、宮吏たちがこれまで市民たちに対して好んでとってきた尊大な態度に対して、示威と抗議が なされることになっている。﹂ こうした当局の妨害に対応して十月一日頃出されたものであり、そこでは、新たに﹁マラースドルフ郡の利害∪δ このポスターは、抗議の対象とされた当のマラースドルフ郡長力ール・プラッハー囚餌匡牢8げ臼から、﹁階級的憎 ︵2︶ 悪の煽動﹂にあたるものとされて、九月二十七日、その押収が町村長や憲兵隊に指示された。第二のポスターは、 ぎ8話゜。ωΦ口山①ωじdΦN騨訂ζ臣霞巴o臨﹂がテーマとされ、さらに次のように呼びかけられていた。 ﹁国家市民の権利がマラースドルフ郡でも守られることに関心を有する者は、この集会に必ず出席すべきである。 ライ ︵3︶ 国家市民諸君!諸君の権利を擁護せよ、集会に多数参集せよ!﹂ ブラウエ 最初のポスターでは、・集会の会場は、これもマルクト広場にある大きなビール醸造所兼酒場のシュテットナー醸造 所とされていたが、そこの主人にきびしく拒否され、結局、ロールマイヤー旅宿酒場での集会となったのである。 8 第2図1905年10月8日の集会に向けたポスター (上)最初のポスター (下)二番目のポスター An die E血wohnerschaft des㎞irks Mabersdorf l ∈50純重1tag be重亘8. Dftobev 1905,“釦尊t重竃董‘‘ag63Z臆ljr’ l i鑓むer Brauoroi s量uttner i翼Pfaffenbemg 6ro鵬Ofie皿IL▼0止S・▼orsa 懸 7AO匡50露0■凹■6冒 蓼i顔殉轍勒血伽蜘i曲蜘肱蜘rf,。 獅騨i礁∼轍1竃t:∼{漁ゆ鱒e口“s 21tU’tcfl“n. U・。,elri )nt“reif、きa,、1,、9・L,い、,ヨ瞳トilw i・1 th5itt・IW“t・be・i四己…。1・S・“1・ ll酬・ll・i・1?断帥…ロe ・}3・[Ta・bl照9¢勅認・は }U,fin )i。i、, P蜘,1ml。。“繭i、1蝋i1・)・・“螂・}i・昧・M撤一・・rif・b・ 2巳“be・tw・揃奪㎝轍・mit脱・麗・琳 }“m“lti±【i“rr unbドτ“teftiert匡verN・e鳳ioLl Per LFinberufer:‘山.21“¢㊤. lIIId b」1目し罰 Pt幽:山恥 ツ猷o⑳ し ムn“ie Einwo血norsohaf重“os Bezirks Mallersdorf 1 ◎o鎗鱒重ag勧e鱒8・£)ftober 1905ρ鱒“両蜘董ttag63鋼[り”, i鱒別oり㎝ei⑳亨両e臆伽両07 i算撃輔e”桝鋤 ヒ 6r蟷o崩置onlL▼Olks」恥rsamml皿 T㎜o圃剛旧Gl 蓼iε軍甑腰伽伽蜘鮎函蜘ll醜o紙 聖isknfiidH. x・ferent・n・b・ft・u・ lpa. 6rnbev a・・niilncl}… エP。・2i◎燃轍b蝋睡、 b・S bi・ n。伽馳漁d,恥・,測Ch i・・ B・3{・f Mane・・さ。・〒pam・hrt m・・甑瞬…n bi・f・・ P・tf・mmfU・“ 繭i・b[。rt・N・et・5a・“・t1:VCh・d蝋eヨゆ奮蝋断蝋画1,eidl i・bi・i・・ P・ti・mm巳・叫 ・1・剛鮒・・,触 Der ibibetufe::6殉.2ltter. Staatsarchiv Landshut, Rep,164/12, Nr.6295. 下のポスターでは,Pfaffenhofenが鉛筆でPfaffenbergと訂正してある。 9 第3図 ドイッ領東アフリカでのルートヴィヒ・ガンドルファー 総華灘。 1鰹 ド 灘, 地にあって実質的に推進したのが、当時二十五才に ところで、この社会民主党主催の集会の開催を現 なったばかりの、ルートヴ.ーヒ・ガンドルファーで あった。彼は、この九月初め︵二日︶、シュトラウ ビング地方裁判所で、去る四月十三日、マラースド ラントゲリヒト ルフ郡役所の安寧を乱したとのかどでニカ月の禁鋼 刑の判決を受け、上告しているところであり、この ︵4︶ 予想外にきびしかった判決への彼の怒りが、人民集 会開催の契機となっていた。 ツ オ ル ホ フ 彼、ルートヴィヒ・ガンドルファーは、 一八八〇 の町最大の農家の末子として生れた。彼は、けんか好 年八月二十二日、﹁関税屋敷No亨。自と呼ばれるこ くり返し罰金や禁鋼の刑を受け、 一九〇三年初めに きで名高いニーダーバイエルン気質の若者として、 は、傷害等のかどで七カ月の禁鋼と三週間の拘禁に 処せられた。刑期満了ののち、ドイツ領東アフリカ ︵現タンザニア︶に赴き、ダルエスサラームの近く で農場を営むかたわら、ライオン狩りをしたりなど 目○お目○餌民○臨臼から、マラースドルフ郡東北部 していたが、一年ほどで帰国。父親のローレンツ のイルバハ崔げ9ゲというところに九二㎞あまりの アインツエルホ フ 大きな農家−狩猟権つきの孤立農家 を買い与 10 購 蓋 壁 灘謬輪 響 購tt 灘難 縫、 。鎌 講 .・/得 この写真は,かつてルートヴィヒの妻であったカタリーナ・ヴェスターマイ ヤーが所持していた写真を,郷土史家のヨーハン・バプティスト・パウルス 氏が複製されたものである。 ︵5︶ えられ、そこの主人となっていた。 ︵6︶ 一九〇五年四月十三日のマラースドルフ郡役所での事件とは、この彼が国家市民としての宣誓をしに郡役所に赴い たさい、あわせて狩猟鑑札の交付を申請して郡長にこれを拒否されたが、この時、郡長が この事件を報じた﹃ミ ・ンヒ、ン報知﹄の記事の・とばでいえばi﹁パシャ的な調子﹂で彼の態蓬とがめ、彼もまた郡長の態度を﹁文 てもらい、バイエルン農民同盟系の地方新聞﹃ニーダーバイエルン広報Z一巴①昏昌①H一ω爵曾﹀昌N蝕σq臼﹄にもちこんだ 明国﹂にあるべからざるものとしてこれに厳しく応酬した、という一件であった。彼は、この話を弁護士に記事にし が、同年七月のバイェル・下院総選挙に向けて同党と畠主義派との間で結ばれた選挙同盟との関蒔掲載を断やり れ、この記事は結局、社会民主党の﹃ミュンヒェン報知﹄四月二十七日号に掲載されることとなった。ちなみに、こ の一九〇五年という年は、いうまでもなく、﹁血の日曜日﹂に始まる第一次ロシア革命の年であり、この号の第一面 にも、﹁ツァーリズムとロシア革命U巽NpH♂日岳巨ロ象Φ装のωぎげ①男o<9三δ昌﹂という記事が掲載され、ロシアの ﹁官僚主義的絶対主義侮2げ震$爵冨辞。ゴΦ﹀げω9暮尻諺霧﹂が問題にされている。ロシアでのそうした革命の動きが、 南ドイツの片田舎の一人の若者に何らかの力を及ぼしていたかどうか。それはすでに知るよしもないが、いずれにせ よ、彼、ルートヴィヒ・ガンドルファーは、こうして、マラースドルフ郡長の﹁パシャ的﹂態度に対する反発を通し いた。彼は、数年前、二十三才の時、当時八〇㎞あまりもの土地を経営し、煉瓦製造業をも営んでいた父親から、煉 て、社会民主党と結びついていくこととなったのである。 この頃、当年三十才、 一八七五年二月二十三日生れの、彼の兄力ール・ガンドルファーも、郡長との対立を深めて 瓦製造業と一〇㎞近くの土地とを譲り受け、煉瓦製造業兼建設業者としてプファッフェンベルク周辺をその活動圏と た、死〇二年頃には、発電嚢を設置して町の電化を行っている。況30五年の半ばには、父なり誉りに藷あま するかたわら、農業をも営んでいた。煉瓦の製造には、父の代から多数のイタリア人出稼ぎ労働者を使っており、ま りを譲り受け、計一七紘︵内、農地一五・七㎞︶の土地所有者となっていた。これは、農業面だけについて見れば、 バイエルンの農家としては、ふつう中農経営とされているものの上層ということになる。当時、彼は、カトリックの オツプマン 中央党系の農民組織、キリスト教農民協会Oげ疑島魯臼ゆ碧臼p︿①H①ぎのプファッフェンベルク地区代表者○げ目鶴。暮 11 蝶藻 第4図カール・ガンドルファーの 括動(モンタージュ図) N tV tt tt ’’ ’ WWAUWWyww 熟欝 灘鞭 、鰻 鑛 磁, 灘鰻 ・臨 縣 議 醗難器、 覇鰹購欝騨購 1難 鰯灘織嚢、 纏 翻 纏灘覇薩、購顯 灘灘灘 纒嚢 欝鱗灘醗欝 鹸講欝蝿蝿鱒鍵蝶・灘馨襲 羅灘灘融、麟縫難饗鞭響耀 煉瓦製造所の現在の所有者ホルスト・ミュルナー氏所蔵のモンタージュ図を 撮影したもの。この図は1905年前後のものと考えられる。図の右の建物がカ ール・ガンドルファーの住居・穀物倉など(家番号18i/,D)。その左手に煉瓦 製造所(Ziegelei−Werk.1)と発電施設(Elektricitats−Werk. III)また製 材所(Sage−Werk・V)が見える。左下の煉瓦製造所(Ziegelei−Werk, II) は,別のところにあった.また.左上の建物(bkonomie−Hof. IV)は関税 屋敷(家番号1)で,これも位置関係が若干変えられている。なお,関税屋 敷は,少くとも土地税台帳の上では,当時カールのものではtxかった. で、また、町議会議長山霞くo鴇ω邸口﹂ 号ω○Φヨ①5αΦざ濠σqごヨωもつとめてい た。このカール・ガンドルファ!が、 その企業家としての活動の中で、クラ イネ・ラーバー川の橋の建設をめぐっ て苦情を申し立てたり、郡技師の汚職 を告発するなど、郡当局との対立を深 めていたのである。 ︵10︶ 他方、プラッハーの郡長としての活 五年十月十六日付の報告の中で、 一九 動は、彼が県庁内務局にあてた一九〇 ︵11︶ の業績を列挙したのに従えば、次のよ 〇二年二月一日の郡長就任以来の自身 うなことから成っていた。数多くの学 校の新築、水道の敷設、クライネ・ラ ーバー、グローセ・ラーバー両川にか かる郡道の橋の建設、マラースドルフ より当病院は﹁あらゆる近代的要請に 郡病院への伝染病棟の新設 これに 応える﹂ものとなった 、郡果樹学 校の新設、消防施設の拡充、町村道建 設への多額の補助金の交付、郡貯蓄金 12 庫の発展、酪農場の新設、等々。しかも、﹁これら郡の事業がすべて︵郡︶賦課金の引き上げなしに遂行された﹂こと これまた精力的な事業家カール・ガンドルファーの苦情と不満の的となったこととなる。 を考えれば、彼、プラッハーはいわば上から近代化を推し進める有能な官僚であったといえよう。まさにその彼が、 ーバイエルン県庁内務局にあてた四月二十九日付の報告の中では 、カール・ガンドルファーのこうした苦情は、 さて、郡長プラッハーは、郡役所での四月十三日事件直後の段階では、 すなわち、彼がランツフートの二iダ 前に県庁内務局にあてた報告では、﹁社会党のアジテーター﹂たるルートヴィヒと﹁中央党系のキリスト教農民協会 弟ルートヴィヒの行動とは何の関係もないとしていたが、十月四日、すなわち、プファッフェンベルク人民集会の直 の地区代表者﹂たるカールとの共同の努力、共同の圧力で、ロールマイヤi旅宿酒場の主人は余儀なくその大ホール を会場として提供したのだ、と報告している。その真偽の程は必ずしも明らかでないが、十月八日の人民集会で社会 ︵12︶ 民主党の弁士グル:バーが、マラースドルフ郡長の高圧的態度の実例として挙げた事例の数々は、ルートヴィヒを主 ︵13︶ ドルファーにかかわるものであった。 役とする四月十三日の事件を除けば、そのほとんどすべてが、それとして名を挙げていないとはいえ、カール・ガン さて、グルーバーは、アウアーの司会のもとで開かれた人民集会での演説の冒頭で、この集会がもたれたのは、人 々が享受している諸々の権利について、そしてその諸々の権利を一寸たりとも奪われてはならないということについ ︵14︶ て、人々を啓蒙するためであることを述べ、次のように郡長の態度を弾該した。この集会に対する郡当局の妨害こそ は、ここマラースドルフ郡において、権利と法がではなく、郡長の意志が支配的であることを確証するものであっ ドクトル た、と。彼はそのさい、問題となった﹁パシャ﹂ということばに触れ、このことばがごく最近バイエルン下院で何の バウエルン とがめも受けることなく発せられたことを指摘したが、これは、バイエルンのキリスト教農民協会の指導者で﹁農民 博士ゆ窪興巳oパδこと呼ばれたゲオルク・ハイム○Φoお国。ぎの発言をさしたものと考えられる。この時、ハイム ︵15︶ は、この﹁パシャ﹂ということばで、バイエルン地方当局者の農民に対する高圧的な態度を批判したのであった。我 々はこのことから、郡長など地方当局者の態度に対する不満が、ひとりマラースドルフ郡にとどまるものではなかっ えことを知ることができよう。社会民主党のグルーバーがこの人民集会で一貫して強調したのも、まさしくこれらの 13 ゲヴエルペトライペンデ ウンターゲーペネ これを国家市民として尊重﹂すべし、ということであった。そして彼は、その演説を次のように結んでいる。 官 営 業 者 O Φ ≦ 臼 げ Φ9 労 働 者 を自 、分たちの臣下q韓曾σqΦげΦ器とみなすことなく、 吏 た ち が ﹁ 農 民 、 ひ ① 民 ① 、 そ し て ブ ブリクム ﹁私は、郡長たちが公衆とどのようにつきあうべきかについてたたきこまれるのに、第二のフックスミュールを必 要としないことを希望し、かつ期待するものであります。このことを達成するのが、今日の集会の目的でありまし た。我々は、この集会が成果をおさめ、マラースドルフが今後、パシャによってではなく、真に郡の父親によって治 められることを要望したいと思うものであります。﹂ リチュζ震くo口閃Φ津。・警が、前年十月のフックスミュール事件に関するバイエルン下院での討論にさいして、郡長 グルーバーがここで﹁郡の父親﹂と言ったのは、この集会を去る十年の昔、一八九五年十月、時の内務大臣ファイ たるものは、﹁あらゆる形式主義局○﹃日⇔翫日仁ω、官僚主義しd霞窃昂鑓肝∋岳を離れて﹂、﹁郡の父親たるべし﹂と言明 したことによっている。我々はここで、プファッフェンベルク人民集会の歴史的位置をたしかめるために、ごく簡 ︵16︶ 単に一八九〇年代半ばのバイエルンに立ちもどってみることとしたい。 ール閏9駐旨⇔窪でおこった流血の事件で、山林の入会権をめぐる村民と貴族との紛争が前者の実力伐採へと発展し、 さて、フックスミュール事件とは、バイエルン王国の東北部に位するオーバープファルツ県の︼山村フックスミュ これをこの地方の郡長が軍隊を使って弾圧、死者二名 いずれも六十代末の老人ーiをはじめ、女性を含む多数の 負傷者を出したという一件であった。この事件は、当時、ドイツの農業が不況に苦しみ、その中でプロイセンのユン の新しい動きのさ中におこっただけに、大きな衝撃を当時の社会と政治に与えることとなった。そこで問題とされたの カーを中心に農業者同盟ゆ琶αα霞い9巳註艮①が結成され、バイエルンでも各地に農民同盟が結成されるという、農村 ユ興幻Φ8訂鼠8はこうした貴族の牛耳るところとなっていたーだけではなく、裁判所の形式主義的な司法、そして は、村人たちの生活を顧ることなく自らの利益のみを追求する貴族のありようーバイエルン邦議会の上院囚Φ日日臼 国家当局、郡長の官僚主義的な行政であった。 ところで、バイエルンの農民同盟運動は、この前年の一八九三年以来、プロイセンの土地貴族ユンカー主導下の農 14 業者同盟結成に触発されつつ、それへの対抗をも含んで展開されていた。その中心舞台となったのは、南バイエルン の二ーダーバイエルン県とオーバーバイエルン県とであった。一九〇五年十月八日のプファッフェンベルク人民集会 で弁士グルーバーは、﹁まさにここニーダーバイエルンでは、ボーデンツィンスゆaΦ自貯ωの如きある種の残津が、農 民がかつて隷属の民であったことを今なお想い起こさせている﹂と述べていたが、かつての年貢の変形たるこのボー デンツィンスの廃止こそ、草創期のニーダーバイエルン農民同盟の指導者、フランツ・ヴィーラント男昼自≦一Φξ巳 が求めてやまないところであった。彼は、ドーナウ平野部のシュトラウビング郡に八二㎞の土地をもつ大農であった が、彼の場合、ボーデンツィンスは、国税たる土地税の二倍にも及んでいた。彼は貴族を﹁現代の寄生植物﹂と断じ ており、その僚友アルベルト・ゲヒ≧げΦ答O跨ゲ 農村の医者で、そのかたわら=二㎞ほどの土地で農業を営ん でいた は、人民による官吏と僧侶の選挙を唱えていたといわれる。他方、オーバーバイエルンの農民同盟は、そ の南部、つまりアルプス前地の高地森林農民同盟を母胎として結成され、国有林内の高原牧場での放牧権や国有林内 での木の伐採権、つまり入会権をめぐる国との紛争から、とりわけ一八五二年森林法の改正を強く求めていた。 重大事である。﹂ーバイエルン社会民主党の指導者ゲオルク・フォン・フォルマルが、︸八九四年十月下旬フラン ﹁農村の人々は、今や、ますます不穏となり、沸き返っている。この大衆がどこに向かうか、これこそは決定的な クフルト・アム・マインで開かれたドイッ社会民主党党大会で、農民保護を掲げる農業綱領の作成を擁護したさい、 彼をとらえていたのは、こうした現実認識であった。彼は、一八九〇年代にはいって、農民国バイエルンでの農村宣 農民同盟への働きかけを行う一方、党自身の農業綱領作成を強く求めたのであった。 伝を重視し、これに取り組んでいたが、農民同盟運動の生成発展に直面して、これが社会民主党と結ぶことを期待し デ マ イ ン ゲ フックスミュール事件がおこったのは、まさにこの党大会直後のことであった。翌一八九五年十月ブレスラゥで開 かれた党大会に提出された党農業委員会の農業綱領草案は、土地所有・信用・保険等さまざまの分野での国家また 地方自治体O①日Φぼ曾︵市町村︶、すなわち公共の権限の維持・拡大を骨子としたものであった。そこには、国家の重 視とともに、伝統的な共同体的諸権利、すなわち共有地や入会権の再評価があり、党首アウグスト・べーベル﹀億σqロ馨 切①びΦ一の発言にも明らかなように、フックスミュール事件の衝撃はここにも濃く影を落としていたのである。しか 15 し、党の大勢は、中間層の没落と社会の両極分解傾向の上に社会主義社会の到来を展望し、また、﹁小農は今日の私 有財産制の最強の砦﹂であるという農民への根深い不信感にとらえられていた。こうしてブレスラウ党大会は、農業 綱領を却け、ドイツ社会民主党は農民への道を自ら閉ざすこととなった。 バイエルン社会民主党は、その後も農民保護の路線をとるが、 一八九〇年代半ば以降、同党や農民同盟をもおさえ て大きな発展を遂げたのは、中央党系のキリスト教農民協会であった。大司教から村々の司祭に至る教会組織をバッ ルンの人口の七割を占めるカトリックの間で、わけてもカトリック農村地域で、圧倒的な支持を誇っていた。しか クとしたバイエルンの中央党は、ビスマルクと結ぶバイエルンの国民自由主義的官僚政府に抗して結成され、バイエ し、農民の利益の擁護を強く打ち出した農民同盟運動の発展とともにこれへの対応を迫られ、ここにキリスト教農民 協会運動がくりひろげられることとなった。そして、その中で頭角を現したのが、通称﹁農民博士﹂のゲオルク・ハ イムであった。実科学校の英語の教師であった彼は、一八九三年末、オーバープファルツ県の農民たちの間で、土地 の司祭などの協力を得ながら信用組合や穀物販売協同組合の組織に乗り出していたが、フックスミュール事件がおこ ると、直ちにその救援活動に取り組み、この年の末には、フックスミュール村信用組合を成立させている。その後彼 は、バイエルン下院議員及び帝国議会議員となり、農民の声の力強い代弁者として声望をはせ、農民同盟の進出阻止 に大きな役割を演じて、バイエルン中央党内に支配的な地位を占めるにいたった。 ︵ 1 7 ︶ 政府ーマラースドルフ郡長プラッハ!もこうした自由主義派の一官僚であったーとの妥協によってバイエルン しかし、その歯に衣を着せない批判は、カトリック貴族など党内の保守派や、あるいはまた、国民自由主義的官僚 ︵18︶ 王国の権力中枢への進出をはかろうとする人々の反発を買い、高級僧侶によるハイム支持派の下級僧侶への締めつけ ︵19︶ もあって、一九〇五年以降、彼の党内での地位は転落の一途をたどることとなる。それは同時に、バイエルンにおけ る保守的諸勢力の総結集の過程でもあった。プファッフェンベルク人民集会でグルーバーが言及したハイムの﹁パシ ャ﹂発言は、まさに、この転回の年となった一九〇五年の出来事だったのである。 それでは、ガンドルファー兄弟は、バイエルンの政治と社会のこうした再編成の過程の中にあって、一九〇五年十 月八日の人民集会ののち、どのように動いていくのであろうか。 16 ピユルガ マイスタ この問いと関連して最も注目されるのは、カール・ガンドルファーがプファッフェンベルクの町長しd臼αq曾旨Φ或臼 ンベルクがどのような人々から成り立っていたのかを一べつしておくこととしたい。 に当選する、 一九一一年十二月十四日の町政選挙であるが、ここでは、﹁その検討にはいる前に、当時のプファッフェ ︵2︶ 奪ミ゜シュトラウビングの検察当局は、九月二十七日、これは﹁階級的憎悪の煽動﹂にはあたらないとし、ポスターの押 ①貯霞ω。N一巴伍Φ旨。町巴ω。冨p︿霞ωp。日日一§σQ︶これは以下、ωけ﹀い”幻。℃﹂①ミ一b。uZ﹃.①b⊃O㎝と略記する。 収は行いえないとした︵プラッハーがニーダーバイエルン県庁内務局にあてた一九〇五年十月四日付の報告、凡ミ“︶。しか 知﹄十月五日号にすっぱぬかれた。同紙の第一面を飾ったこの記事は、﹁パシャ、それとも何?℃器。冨o浄﹁薯⇔ωごと題さ し、その後もこの郡長の指示に従って押収活動は進められた。なお、この指示は社会民主党の手に渡り、﹃ミュンヒェン報 ︵3︶ マラースドルフ憲兵隊のマラースドルフ郡役所あて九月二十五日付報告。ωけ︾r幻①℃﹂①ミ一b。”2﹁°①b。Φ9 れている。ミ§客§ミ㌔。笥︵以下、尾と略記γZづb⊃卜⊃㎝<。ヨ90寮。げΦ﹁おOμω゜Hh 帳︵ω冨導ω費oぼくゼo巳害信仲”O歪巳切8ロo詳囚葺錺8月目q日゜°oげ魚げげ①沖毒⇔=犀o出①PH=ぴ⇔oダ国碧甲Z信言日σ彗゜H︶から、土地の をアフリカから呼び返したという︵一九七六・一一゜・二四︶。氏によれば、それは一九〇二年のことであったが、土地税台 カタリーナ︵一八九〇∼一九七二︶からも話をきいている によれば、父親のローレンツがまず購入して、ルートヴィヒ テン芝Φω8昌の教会の首席司祭∪Φパp口で郷土史家たるヨーハン・バプティスト・パウ゜ルス氏﹁ 氏は馬ルートヴィヒの妻 付されている︵ω叶諺rヵ①やHO赴おサ2﹁°①Nり㎝︶。イルバハでの土地取得については、プファッフェンベルクの近くのヴェス フ郡長プラッハーが四月十三日事件の直後、その日のうちにシュトラウビ﹁ングの地方裁判所の検事局にあてた起訴要請状に 刑罰一覧︵一八九六年二月十三日の初回判決に始まり、一九〇三年二月七日の第十.五番目の判決に至る︶は、マラースドル の出①マ⇔房げ再げ及び望臼げΦぴ口。げによる。︵この戸籍役場での調査では、係のイレーネ・ヘヒトさんの助力を得た。︶彼の ︵5︶ ルLトヴィヒの生年月日ほか、ガンドルファー家の人々の生没に関するデータは、ω3p山Φω帥日げ竃臣Φ諾儀o臨−℃h跳①口げ興αq ︵4︶ ﹁バイエルン国王陛下の名において﹂下されたこ.の判決文も、ω仲﹀炉幻①O﹂Oミ長Zづ露り㎝に収められている。 171 の史料群に収められたものである。ω欝⇔冨03嘗く訂民ωぎ計困Φや日①黛Hb。︵H曳帥︼P伍﹁P仲ω9bPけ 竃9一一Φ﹁ω畠O﹁︷︶︾Z民①b。翫︵﹀び冨ぽ琶σ ︵1︶ 以下、本章に関する史料は、主として、ニーダーバイエルン県関係の文書館たるバイエルン州立ランツフ⋮ト文書館の次 注 購入は一九〇四年九月二十九日であったことがわかる︵面積もこれによる︶。彼のアフリカ行きについては、パウルス氏は とれない。プラッハーの一九〇五年四月二十九日付の県庁内務局あて報告︵○。一︾劃幻①℃°HOミ一NZ同・①b。㊤㎝︶をも合わせ考え 一九〇〇∼一九〇二年のこととされたが、以上から、帰国が一九〇四年九月二十九日以降のことと考えられるから、これは ると、彼のアフリカ行きは、彼が最後の刑期を満了した一九〇三年十一月二十七日以後、多分一九〇四年の初めから、一九 〇五年の初めにかけてのことであったように思われる。とすれば、彼は、ドイツ領東アフリカをゆるがしたマジマジ反乱の 〇五−一九〇七︶﹂﹃駿台史学﹄三六号、一九六五年三月、五二∼七九頁。︶なお、ルートヴィヒの兄カールの長男で父と同 勃発する直前にそこを去ったことになる。︵マジマジ反乱については、岡倉登志﹁タンザニアにおけるマジマジ反乱︵一九 名のカール・ガンドルファー氏︵一九〇四年生れで、現在、関税屋敷の主人として健在︶の話では、叔父ルートヴィヒは、 およそ一九〇三/〇四年ごろ東アフリカに行き、ダルエスサラーム付近の農場を購入したが、気候が合わず二、三年後に帰 国、イルバハの農場所有者となった、という︵一九七六・一一・二三︶。ニーダーバイエルンの若者たちが自分の﹁力﹂を けんかで誇示し合ったこと、また、若きルートヴィヒが頭がよく弁舌が立ったと同時に、短気でけんか好きだったこと、に ︵8︶ この聞の事情については、プラッハーのガイゼルヘーリングΩo一ω①匪曾冒σQ憲兵隊あて四月三十日付文書、及びそれへの た、前述︵注4︶の九月二日の判決文から、その大要を知ることができる。 培゜︾箕ロ60q”ψF並びに、前述︵注5︶のプラッハーの四月十三日付の起訴要請状及び四月二十九日付の報告、ま ︵7︶ この事件については、﹃ミュンヒェン報知﹄に載った記事﹁郡の父親﹂”h冒く卑興ω㊦一口霧ゆΦN一時oω.、uミuZ唇㊤①<o日 トミ愚。ミ§bd塁鳴ミ︵竃⇔POげΦ昌曽 一〇刈b⊃︶りω◆おb⊃h° ていた。参照、囚pユζαo匹ub勘㌔誌鳶越頭恥ミ§誌壁Qa民ひらぎ喬黛論“℃oミ簿罎貸専§叙匙鳴、郎、織翫巴㌔蔦壽こαqヘミ§ 挙人を選挙する資格は、第二十五才︵つまり満二十四才︶となっていること、憲法への宣誓、直接税の納付等が条件とされ ︵6︶ 当時、バイエルン下院選挙は間接選挙で、まず選挙人を選挙し、それが議員を選挙することとなっていた。そのさい、選 いをおかしている。︶ ルートヴィヒの帰国については、眼を痛めたためとしている。︵但し、カールをルートヴィヒの弟とするという単純な間違 器諺。げ一紫お胡︶に指摘がある。この作品は、老人たちからの聞き書きに多くを負っているところに大きな特色があり、 山Φのしd錯①誌9窪じd窪①旨H舞oωい巳乳 ジ巳o臨興巨住ω。言①幻o=Φげ鉱山Φ﹁国①くo一口二8<8おH。。言しd翅①旨..︵竃。・。。臣・ ついては、シュトラウビングのギムナジウムに学ぶプファッフェンベルク出身の五人の生徒の共同作品、と∪震くo﹁ω一言Φロα① 18 同憲兵隊の五月二日付回答。ωけ>U”即碧゜ド①ミ一NZμOb。り㎝. ︵9︶ カール・ガンドルファーの土地関係は、ω8Q富母o霞くいo昌畠ωずロ計○ε昌緋8口Φ〒囚o冨゜。87qヨωoず器ぴゲ諏﹃℃融中Φ⇒げ①﹃oq︾ 国き甲2ロヨB臼日︵No=﹃oh︶信﹂c。く日。°一八九八年に彼の母親が亡くなり、父親がその年の内に再婚した時、彼は独立し、家 番号1の関税屋敷を去って、家番号一c。く巳の新しい家に移った。この土地税台帳の書替帳 書替帳とは、土地税台帳の原簿 をもとに、その後の土地の売買による土地の出入りや土地の用途変更、さらには所有者の変更を、四分の一年毎に記したも のであるーによると、発電施設は一九〇三年とその翌年の改造のさい新設されたことになっている。しかし、﹁プ.ファッ るため、シールルミューレ製粉所を買い取り、そこに中央発電所を移した。﹂︵旨霧8﹃ω昏巳ユρubゲ擁。巳パ自Φωζ位爵8切 フェンベルク町の年代記﹂には、次のようにある。﹁一九〇二年。通りと家々の電気による照明。動力・照明源をもっ施設 自体は、カール・ガンドルファi氏は最初、その蒸気煉瓦製造所内に建てたが、一九〇七年、ラーバー川の水力をも利用す ℃出⇔中①口び費σq..︵勾o二ω2N琶σq︶・ヨ⋮肉ミ鳴謡載ミ蚕、神ミ勘o勘逡詳O凝、帖絵§”匂αq◆醇︵日O旨︶”ω.①O°︶また、カール・ガンドル ファーの次女で、前述のガンドルフ︻ノー氏︵注5︶の姉にあたるツェツィーリア・マイヤーさん︵一九〇二年生れで、ミュ ンヒェン近郊のガウティングに健在︶の話では、発電施設はまず自家用につくられ、次いで、一九〇二年、町の照明に用い られたという︵一九七六・一二・三︶。なお、右の﹁年代記﹂の記述から、前掲のモンタージュ図︵第4図︶は、一九〇五 ︵10︶ プラッハーの四月二十九日付報告︵前述、注5︶、及び、彼の一九〇五年十月十日付並びに同十六日付の、県庁吋務局あ 年前後のものであることがわかる。 ︵11︶ ωけ﹀炉園①やH①ミ一bっuZ﹁°①卜D㊤9 て報告。ω什諺炉幻①℃°ドO蔭肴b⊃”Z旨①b⊃09また、亀゜Z﹁°卜⊃蔭①︿o臼boPOぎoび角這O伊QQ°㎝h ︵12︶ この点に関するものとしては、マラースドルフ憲兵隊の十月二日の報告がある。また、プラッハーの県庁内務局あて十一 口、ルートヴィヒ・ガンドルファー自身がはったものという︶、プファッフェンベルク町長︵十月二日、バウドレクスラー ︵14︶ ポスターの押収は、第二のものについても、マラースドルフの憲兵︵十月二日、ロールマイヤー旅宿酒場で これは前 ︵ミ︾Zhb。ωHく。日一トっ゜○ぎ。げ霞おOμω.卜⊃ごとがある。以下、グルーバ;の演説は後者による。 ンヒェン報知﹄に載った報道記事﹁マラースドルフ郡におけるパシャ行政U一①℃霧。訂鼠﹁訂。ず駄二日しdΦN一時ζp豪﹁巴o臨﹂ ︵13︶ 十月八日の人民集会については、郡長補のハインリヒ・シュナイダーの報告︵9>い噂ヵ①℃﹂①赴一b。”Z5①トっO㎝︶と、﹃ミュ 月二十日付報告も参照。奪ミ. 19 醸造酒場で︶、ブーフハウゼンしd零窪磐器⇒村の村長︵同日、当村の酒場でtこれはこの日、十九才位の若者が自転車で 来て張り出すよう配ったものという︶、シールリングω。寓巴ぎσq村の憲兵︵同日、エックミュール国αqσqB口乞村の料理屋 ィヒ・ガンドルファーの下男国昌8窪が張ったものという︶等々によって行われている。また、郡長プラッハーは、建築監 でーこれも多分前者と同様︶、また、ガイゼルへーリング町の憲兵︵七日頃、この町の旅宿酒場でーこれは、ルートヴ 督官に郡技師とともにロールマイヤー旅宿酒場を検査するよう求め、﹁建築闘火災”安全警察上の理由﹂から当酒場での公 開集会の開催をさしとめようとした。調査は実さいに行われたが、集会の禁止にはーおそらく県庁の許可が得られなかっ ︵15︶ ハイムの﹁パシャ﹂発言は、出臼日9目ヵ魯pΦ♪Q恥箋頓寒凡§陰bミbu§亀ミ概。鳶ミ︵ζ雪。げ・PHり①O︶りψミに引用があ たためにー至らなかった。以上、ωけ﹀い”国①やH罐、這”Z罫①卜⊃O㎝. る。 ︵16︶ 一八九〇年代のバイエルンにおける国家と農民の問題については、別稿で詳論する予定であり、ここでは注記は省略す ︵17︶ たとえば、彼は、バイエルンの上院に対して、それが、﹁とくに大資本のこと、ないし社会的観点にかかわることとなる・ る。 と﹂多くの提案を拒否したと、これに非難を浴びせている。ヵo目①びω゜おω曾 ︵18︶ プラッハーが自由主義派と目されていたことは、﹃二iダーバイエルン広報﹄の掲載拒否の一件からすでに明らかである が、一九〇五年九月末のーと考えられるi郡委員会U一・。鼠汀ω窪ωω。ぎゅの会合で、彼は、中央党が社会民主党と協力し 〇四ω暑一罫のところで開かれること、また、キリスト教農民協会地区代表者のカール・ガンドルファーが社会民主党に助けを ている、とこれに攻撃を加えている。そのさい彼がその証左としたのは、社会民主党の集会がカトリックの酒場の主人 求めた、ということであった。︵沁轟§客ミ恥ミ︾惑臨鷺3Z﹃°蒔㊤O<Qヨ一゜○ζoげ霞一⑩O凹くo感げ窪㍗じu聾ρω゜bっ゜また、 プラッハーの県庁内務局あて一九〇五年十一月三十日付報告。いずれも、ω什﹀炉菊①唱﹂①ミHb。u①卜⊃O㎝.︶プラッハーはこの報 祭に帰している。この記事では、プラッハーが﹁カトリックであって、しかもなお中央党の敵対者であり、さらにはプロテ 告の中で、﹃レーゲンスブルク広報﹄i中央党系1の記事の元を、郡委員会に出席していたヴェステンの教会の首席司 じ報告の中で次のように訴えている。 スタントの結婚生活をし、子供をプロテスタントで教育している﹂ことが指摘されていた。プラッハーはこれについて、同 ﹁自分は、子供の教育を憲法に従って男の子はカトリックで、女の子はプロテスタントで行うという条件のもとでなら、 20 カトリックで結婚式を挙げたことでしょう。しかし、ヴェステンのカトリック司祭事務所とレーゲンスブルクの司教区事務 書面で、破門をもっておどされました。﹂ 局とは、カトリック教会にとっては憲法は基準とならないという理由をもって、私の求めを拒絶しました。同時に、私は、 彼によれば、そのさい彼にあてられた手紙や文書は、﹁盲目的な狂信主義﹂のみがなしうる﹁厚顔無恥﹂なものであった という。我々はここに、バイエルンにおけるカトリック教会と自由主義派との生活レベルでの根深い対立の一端をうかがう 袋蓋“賊ミト§蓼N匙ミミ鋳§婁§聴§ミN無き口①津日H山費幻Φ浮①ミ鋳ミN隷醤馬合bu畠d魯識ら魯§論亀ミ誤貯゜b蹉勧馬蕊ミご蕊“蕊捜黒、 ことができるように思われる。なお、両者の対立については、参照、冒碧ぼヨ国①ぎppP肉ミ魯ミミNミーミ竃ミ篭αq§笥§帖ミ 切aミ鋳き§卜§§笥−§蹴ミ§らぎミ要合ミ題題ミ鼻蛍年ω隣く㌦国Φ匡しdo降ロ巳ζ8訂匹ω。訂什8警o︷曾︵竃言。冨p ︵19> この点 に つ い て は 、 竃 α 。 犀 r ω 匿 α ω ㎝ 中 目8Q。︶”ω゜H中償曾旨中 二、プファッフェンベルク町の社会構成 プファッフェンベルクのある、いわゆる﹁ドーナウ・イーザル丘陵地帯﹂は、一般に、川沿いに採草地白騨Φ、そ こからゆるやかにのぼる傾斜地に耕地諺鮮霞があり、まるい丘の上とか砂質や砂利がちの傾斜地は森≦巴島となっ いているが、そのあたりは麦や馬鈴薯などの畑がひろがっている。そして、さらにその北方には森があって町境をな てい新㌍プファッフェンベルクも、南のクライネ・ラーバー川のあたりは採草地で、その北の小高い丘に町並みが続 している。一八九〇年の統計によると、町の総面積は五夫㎞、内、耕地.園地︵菜園.果樹園︶囁六三㎞でその ガルテンラント 七七・四%を占め、採草地五五抽︵九・二%︶、・林地四七㎞︵七・九%︶をはるかにひきはなしていた。 人口は、一八九〇年当時八五五人だったのが、一九〇五年には九一八人に増え、一九一〇年には再び八九〇人と、 吾人を割・てい華ーナ・・丁ザル丘陵地帯は、定住形態がきわめて多様で、﹁礫町蚕犀・﹂や﹁簿階h﹂ が﹁霧垂・・﹂や﹁翌嬰ぎ・9﹃・︷︵ないしア・諄ユア国一口。伍・︶﹂と混・り合ってい義とされる璽プ フ ァ ッ フ ェ ン ベ ル ク も 、 マ ル ク ト ゲ マ イ ン デ と い う 地 方 自 治 体 と し て は 、 マ ル ク ト た る プ フ ァ ッ フ ェ ン ベ ﹁ ル ク ︵一九 21 〇七年の統計で、二〇六世帯、八九五人︶のほか、ヴァイラーのベルクハウゼンbd霞ぴQ冨ロωΦ口︵同、四世帯、一三 オルトシヤフテン 人︶、アインエーデのヴァッシュミューレ≦霧oゴ目口甑o︵同、 一世帯、 一〇人︶の、都合、三つの地区○訪。ゴ既諾昌か ら成っていた。︵なお、前述の面積、人口は、マルクトゲマインデとしてのものである。︶ ︵6︶ この内、最後のヴァッシュミューレは、町の西南方の隣り村、オーバーリントハルト○びΦ臣p象費什の村域と境を 接した農家で︵第1図︵上︶を参照︶、クライネ・ラーバー川の水を利用して製粉業を営んでいた。ここは、十八世紀 半ば以来ジービヒ家の所有するところとなっており、一九一二年の初めには、町域内のおよそ三九㎞のほか、オーバ ︵7︶ ーリントハルト村に六㎞近くを所有する大農家であった。 ベルクハウゼンは、町の西境、やや北寄りにある、森のそばの小村で︵第1図︵上︶、左方︶、およそ三五㎞、三〇 ㎞、一七㎞をそれぞれ所有する、いずれも相当の規模の三つの農家から成っていた。 マ ル ク ト さて、市場町プファッフェンベルクは、町の中央のマルクト広場を中心に、家並みがおよそ東西、南北の両方向に のびている。マルクト広場には、さほど大きくない町役場幻舞冨島のほか、大きな酒場や商店が立ち並び、その周辺 ラ トハウス に、手工業者の仕事場や各種の店、また農家が続いていた。 広場から道を南にとると、これはやや下り坂のラーバi通りで、その町並みをはずれるあたりでクライネ・ラーバ i川に出る。ここには、﹁町の水車小屋ζ母犀B首匡①﹂と呼ばれる製粉所があった。昔は三〇㎞近くの大きな農家で マ ル ク ト ミ ユ ド レ あったが、今では、新しい所有者が設備を近代化して製粉・製材業を営むほかは、三・五㎞あまりの土地をもつだけ になっていた。ラーバi通りには、仕立職、家具職、ブリキ職、ガラス職兼錫職、食肉職、パン職、左官職といった シユナイダ シユライナ シユペングラ グラ ザ ツインギ サ メツツガ ベツカ マウラ マルクト広場から北へ、やや東寄りにのぼると、教会に出る。教会の下あたりは、染物職、靴職や日雇いなどの家 フエルパ シュ マハ タ ゲレ ナ 手工業者その他の店や家が並んでおり、その裏通りには小さな酒場もあった。 がかたまっていたが、教会の北どなりは大きな農家となっている。農家というよりちょっとした屋敷で、これがガン ドルファー兄弟の生れた﹁関税屋敷﹂であった。ここは、遠い昔、この一帯の領主が街道を通る人々から関税を取り ププアツフエンペルク ていた。家番号1のこの由緒ある屋敷には、当時、i町の家々の年代記によると一九〇七年から、土地税台帳では 立てる役所があったところで、カトリックの僧侶たちが住んだこともあり、﹁坊さん山﹂という町の名もここから来 ︵8︶ 22 第5図プファッフェンベルクの町並み 難端鍵 i、岬賦 鐸 鴇 麟 灘 犠. 纏 B Karte 1:5000, umgraviert 1874,1927,37. Hrsg. vom Bayer, Landesvermessungsamtより。 (注) A教会 B関税屋敷(家番号1)C煉瓦製造所(家番号18ソ、。)C’煉瓦製造所 Dシュ テットナー一醸造酒場(家番号21) Eロールマイヤー旅宿酒場(家番号70)F町役場 この地図は,たとえばB,C’が1837年当時の原図のままであるなど,その後の改築, 新築による変化を必ずしも十分に反映していない。 第二次大戦後のプファッフェンベルクの航空写真(絵葉書)Verlag Foto PUls, Pfaffenberg. 23 一九〇九年末以来 、ルートヴィヒ・ガンドルファーがイルバハからもどっていて、今では四五㎏あまりの土地の グ ツフエアヴアルタ 経営にあたっており、新しい農業技術の導入に熱心な﹁近代的な農業者﹂となっていた。この前後、彼が視力を失う ﹁勤勉で有能な肇者﹂であ・たとい空 と、クサーヴェル・ザイツ×。<興ω①ぎが彼のもとで﹁農場管理者Q9ω︿興≦聾霞﹂として働くこととなるが、彼も ザイラ ム ジカ 兄力ールの経営する煉瓦製造所兼製材所は、マルクト広場から東にマラースドルフへと通じるシュトラウビング通 りの町はずれにあった。この通りには、立派な商店に始まって、綱職、パン職の店のほか、音楽師、教師、マラース ア ム ツ ゲ リ ヒ ト ドルフ地区裁判所書記補といった人々の家があった。煉瓦製造所の手前は、九ヘクタール近くの土地を経営する農家 で、ガンドルファー兄弟の母親の先夫 生前、関税屋敷の主入であった の子、ヨーゼフ・シュマールホーファ ーがその主人であった。彼は運送業も営んでいた。 カールはこの頃には、四〇肱あまりの土地所有者となっていた。牛三〇頭︵内、牝牛一〇頭︶、馬一〇頭前後︵内、 役馬六∼八頭︶、その他豚を飼っており、これらの家畜の世話や土地の耕作には、年雇の奉公人O貯器苦20ロ五∼一 デイ ンストボ テン 〇名があたっていたという︵この頃子供たちはまだ小さかった︶。収穫時には、そのほかに、主として土地の婦人た ちから成る季節労働者をやとっていた。カール自身は建設業が中心で、農業には直接従事せず、その作業日程を指示 する程度であったという。煉瓦の製造には、毎年、出稼ぎのイタリア人労働者が三〇∼四〇名ほどやってきたが、建 たが、一九一〇年前後には、父親のローレンツがかつて開いた﹁ノイエ・シュトラーセ﹂に沿って建売り住宅を建て 設・製材関係にはドイツ人の労働者が三〇名ほど働いていた。彼の建設関係の仕事は、農家や厩舎の建築が主であっ ︵10︶ ている。この通りは通称、ガンドルファー通りと呼ばれた。 フオ アアルバイタ ところで、カールの煉瓦工場は、町並みの西はずれ、北寄りにもあり 前掲のモンタージュ図︵第4図︶では、左 下にあるのがそれにあたる 、そのすぐそばには、彼の製材所の職工長で彼の右腕でもあったヨーハン・シュペー トの家があった。シュペートは、若工−の土地︵一・四㎞︶をもつ零細な農家でもあった。このあたりには、一〇㎞あ まりの農家のほか、五㎞近くの農家が三軒、また車職で二・五肱ほどの土地をもつヨーゼフ・ヒルマイヤーの家な ヴア グナ ど、農家的色彩が濃かった。 24 ザツトラ ビンダ 7ルクト広場から酉∼、少し南寄りに走るシュタインライン通りには、仕立職、.家具職、パン職、馬具職、桶職な ど、手工業者の店が数多く並び、商店もいくつかあった。こうしたプファッフェンベルクの手工業者たちは、多かれ 少かれ土地をもって農業を兼ね営む者が多かった。その中には、ラーバー通りの食肉職テオドール・シュテーガーー に四・○㎞、合わせて一四㎞近くもの土地を所有する者もあったが、一般には土地所有五、六㎞以下であり、非農家 1彼はカール・ガンドルファーの妹でルートヴィヒの姉のアンナと結婚していたーのように町内に九.八㎞、他村 といってよい手工業者も少くなかったβ 一方、ご○㎞以上の大きな土地をもつ人々はといえば、町並みから相当へだたった小村のベルクハウゼンを度外視 ファーのように農業以外の営業を主業とずるものがほとんどであった。そして、そうした人々が集まっていたところ すると、ル!トヴィヒ・ガンドル7アーのような純農家は例外的存在で、煉瓦製造業兼建設業者のカール・ガンドル が、マルクト広場のあたりであった。はじめ、一九〇五年十月八日プファッフェンベルク人民集会の会場として予定 されたシュテットナー醸造酒場は、シュトラウビング通りとラーバー通りとの合するところにあったが、その主人力 rル・シュテットナーは、町内に四一・三㎞あまりの土地をもち、他村の土地二四・二㎞を合わせると、この町最大 の土地所有者であ・解あの。−,ルマイヤ療宿酒場も71・れはマルクト広場からシ・タインライ・通りに出るあ だりにあったー、人民集会の翌年、彼の所有となっていたが、これは貸し出されて、ヨーゼフ.アマンの酒場とな っていた。この酒場は、シュテットナーが購入した時は七・八㎞の土地しか付いていなかったが、一九世紀半ばには 二〇㎞前後、一時は三六㎞もの土地をもつ旅宿酒場兼食肉職として栄えていた。 ラーバー通りがマルクト広場に出る左角の大きなシュタングルマイヤー酒場も、今でこそ土地は二.八㎞しかなか ったが、かって、一九世紀半ば前後には、四〇㎞を越える土地をもつ醸造酒場であった。これに対して、今でもこの 町第一級の醸造酒場としてシュテットナー醸造酒場の向こうを張っていたのが、シュタングルマイヤー酒場と町役場 をはさんで隣り合ったーそしてアマン酒場の真向かいのーバウドレクスラー醸造酒場であった。ここの主人のマ ルティーン・バウドレクスラーは、一八九七年にガンドルファー兄弟の長姉アンナ・マリーアと結婚していたが、彼 は、町内の土地だけでいうと五〇・四㎞を所有して、この町切っての土地所有者であった。 25 マルクト広場には、このほか、アントーン・ロートダウシャーが、食料・繊維品店を構えていた。昔からの商家 で、一九世紀の半ばには一〇㎞あまりの土地をもち家作もあったが、今では店と家作ー合わせて三軒、○・八㎞i Iだけとなっていた。広場に続くラーバi通り一番地、シュテットナー醸造酒場のとなりの商店も、昔はロートダウ シャー一族の所有で、当主のジーモン・ヒルシュの父親は、そこの娘と結婚し店を買って受け継いだ男であった。こ の家には、昔から二〇㎞程の土地があり、ヒルシュも、二四・三㎞︵内、二㎞弱は他村︶の土地で農業を営んでいた。 エコノ ム ハンデルスマン 彼の場合は、﹁農業者○①ざpoヨ・商人﹂とされており、農業がその経営の主体であったかも知れない。 の家にあったが︶、また、多分どこかにあるかと思われる既成の統計資料も、手にすることができなかった。従って、 さて、町を一巡りしてラーバi通りに戻って来たところで、この町の社会構成をいささか統計的に見ておくことと しよう。しかし、第二次世界大戦後の混乱期に町役場の古文書は行方不明となっており︵その一部はたまたま元町長 しえなかった。また、職業については、町の家々の年代記の記述のほか、町役場の書記︵マックス・ヴァイクル氏︶ 土地所有の規模については土地税台帳の書替帳を元に計算しなければならず、経営規模については、これを明らかに のご教示に多くを負っており、不分明のところが少くないことを最初に記しておかなければならない。また、町外の ︵ 1 2 ︶ いが、ここではあえて、これを含めて考えることとしたい。 所有地については、調査時間の関係で、原則として一㎞以上のものに限ったため、統計的処理には必ずしもなじまな ウゼン、ヴァッシュミューレを含めるとー、家番号を付された一四五の建物があり、それに付属する土地は五一 土地税台帳によると、一九一二年初め、地方自治体としてのプファッフェンベルク町には、−すなわちベルクハ 二〇㎞︶、保健所︵○・一一八㎞︶、国庫所有のもの︵三・六四六㎞︶、酪農組合の建物︵○・一〇五㎞︶各一を除く 三・八五〇飴であった。この内、町役場、学校、司祭の住居等、町所有のもの六︵計一・五四二㎞︶、教会︵○・二 と、家屋数=二五︵五〇八・一二九㎞︶となるが、一人で二∼三軒の家をもっている者があるので、家屋所有者数は 一一九名であった︵但し、夫婦で共同所有の場合1これが圧倒的であったがーも、一名として数えてある︶。こ ︵13︶ れに司祭を加えても一二〇名であり、この町の当時の全世帯数は二二〇位であったので、およそ一〇〇世帯は家を所 26 第1表 プファッフェンベルクの家屋・土地所有者一覧(1912年初め) 家番号 擶㎏ オ番号 通 職 業 な ど* 41.347十24.215 「醸造所所有者」(醸造酒場) 2 44,17 50.364 「醸造所所有者」(醸造酒場) 31 45.350 「関税屋敷所有者」「農場所有者」 4 32 38.756十5.741 〈製粉業・農業者〉「寡婦」 5 18’/iO 41.366 「煉瓦製造所所有者」(煉瓦製造業兼建設業) 6 80/B*** 34.564 〈農業者〉 7 79/B*** 29.697 〈農業者〉 8 22 22.459十1.854 「農業者・商人」(前住者たる義父について: その他 性独 女単 1 21,70 * 871/7, S71/i2 7 8 9 0 11 2 ∩1 0 4 ﹁ D 9 41 51 6 7 8 9 0 29 臼9 臼3 2 2 2 2 2 0 11 12 13 11 1 2 《生地・食料品の小商店》) 791/2/B*** 16.766 〈農業者〉 25 9.762十4.013 「食肉職親方」 62 10.508 〈農業者〉 18i/9 8.746 「農業者」〈農業者〉《農業者・運送業者》 40 5.672十2.728 「農業者」〈煙突掃除師・農業者〉 45,64 2.979十4.240 〈食肉業・農業者〉(父は「食肉職親方」) 521/・・ 7.018 〈農業者〉 10 6.405 「木工所・家具製造所所有者」〈大工の棟梁〉 361/3, 75 4.290十2.068 「農業者」 681/2 6.303 〈農業者〉 37 6.187 「靱革職親方」〈農業者・鞍業(多分)〉 18 3.191十2.521 「靴職親方寡婦」(息子二人は「靴職親方と 36,29 86 1.651十3.912 「パン職親方」「雑貨商」〈パン職・農業者〉 5.212 「農業者・音楽師」 59 4.859 「寡婦」 50,48 4.845 「パン職親方」「パン屋。粉屋」 391/2 4.795 「ブリキ職親方」の寡婦(甥がここで〈ブ 26 63 女性 音楽師」) 女性 女性 リキ職〉を営む) 4.739 〈小農業者〉(カール・ガンドルファーのと ころで働いていたらしい) 76i/5 4。525 571/2 4,346 〈農業者〉(夫が「農業者」として出て来る) 521/2, 521/3 4.225 「大工の棟梁」〈建設業者〉 181/6 4.078 「音楽師親方」 27 女性 第1表 (つづき) 通し番号 土地所有 (町内+町外) 職 業 な ど ha 43 2.839十〇.975 76 3.777 「馬具職親方」〈馬具職・農業者〉 31 3.542 〈製材業・製粉業〉 39 3.528 「ゼルドナー」 16 3.401 「パン職親方」 72 0.341十2.971 (鍛冶屋の主人,父親は「鍛冶職」) 74 3.360 「本教員」 その他 「酒場の主人」 361/2 2.084十1.066 「運送業者」 32i/2 3.069 〈小農業者・左官職〉 34,28 3.010 「酒場の主人」〈農業者・酒場の主人〉 261/3 2.892 「ガラス職親方・錫職」 76i/2 2.729 「農業者」 57 2.548 「車職親方」〈車職・小農業者〉 68 2.249 「仕立職親方」(その寡婦は〈農業者〉) 15 2.113 「綱職親方」 46 2.081 「穀物商人」 47 1.981 「仕立職親方」〈仕立職親方・農業者〉 73 1.594 〈農業者〉 60 1.541 (「寡婦」,1906年に「靴職」と再婚) 761/, 1.523 〈農業者〉 571/3 1.412 「蒸気製材所職工長」〈農業者〉 38 1.380 「パン職親方」 77 1.365 (「鍛冶職親方」の息子) 55 1.325 「資産・金利生活者」(元はよその「雑貨商」) 52i/8 1.252 56 1.251 531/2, 561/2 1.028 271/3, 271/2 0.989 「家具職親方」 13, 49, 651/2 0,790 「商人」〈食料・繊維品店〉 76i/3 0.780 〈農業者・大工職〉 28113 0.755 儂業者〉 58 0.743 〈小農業者〉「寡婦」 861/2 0.732 「ミュールハウゼンの車職親方」 6 0.579 「日雇い」《靴職》 18i/4 0.535 《本教員》 28 単独 単独 女性 性女 性単 独 女 13 233 43 53 63 73 83 94 04 14 24 344 54 64 74 84 9 3 家番号 第1表(つづき) 通し番号 土地所有 (町内+町外) 職1業 な ど ha 18V5 0.499 (マラースドルフ地区裁判所「書記補」) 8 0,480 「家主」《日雇い一教会の掃除》 30 0.471 281/2 0.453 〈煉瓦製造所補助労働者〉 66 0.441 (「獣医大尉」の子供たち) 521/7 0.396 19 0.390 27 0.372 181/7 181/3 12 23 52i/6 24 54 14 87 751/2 26 261/2 85,84 53 521/4 181/2 0.068 871/1。 0.062 (「錠前職」の寡婦一1900年の錠前職の死 で仕事場も消滅) 「ビルンバハの農民の寡婦」 (ミュンヒェン在住の女性) 《商店》(元町長の「商入」の息子か) 《食肉職親方》 「家具職親方」 《食肉職親方》 (「穀物商人」の息子) 「商入」〈食品・繊維品店〉 「煙突掃除師」の「寡婦」 女性 「仕立職親方」 「白鞍職・袋物職」 虫 虫 ヨ ち 単単 42 女性 性性性性独 女女女女単 51 871/4 53 12 62 52 02 62 22 11 51 71 11 01 6 6 4 4 3 1 12 0 0 91 9 6 6 6 5 3 qじα0,位αααα0。αqααααqαα 86i/3 その他 数独独性 複単単女 ◎4 ﹁D 67 8 4 5 6 87 98 08 18 28 38 4 5 6 7 76 86 97 07 17 27 377 9∩8 9 9 9 9 8 8 8 66 7 7 7 家番号 「美術絵師」〈美術・教会絵師親方〉 「資産・金利生活者」(「元シェフバハの農 女性 婦」) 「音楽師の寡婦」 女性 女性 11 0.061 「雑貨店・薬品店」〈食料品店〉 871/8 0.055 〈穀物商人(多分)〉 301/2 0.054 〈左官職〉 92 0.048 「ゲーラバハの農業者の寡婦」 29 女性 第1表(つづき) 土地所有 (町内+町外) 職 業 な ど ha その他 性独 女単 「左官職職人頭」 〈馬具職〉(元町長の「馬具職親方」の息子) 「酒場の主人」〈食肉職〉 《靴職親方》 (「時計職」の寡婦,娘も「時計職」と結婚) 単独 性性 女女 「雑貨店・警官」 「靴職・寺男手伝い」 (「桶職親方」の寡婦) 性独 女単 《染物職》 「大工職」 「寡婦」 (夫は「商人」〈雑貨店〉) 性性性 女女女 8328742107644444 80 4 4 4 4 3 3 3 3 3 3 2 2 2 2 2 2 2 2 1 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 5 / 1ー 1 3 6 2 2 / 2 4 ー 6 5 / / ノ ノ ー 工 ー 工 1 ー 1 1ー 1 1 1 29 37 36 7 52 15 4 76 78 696 5 87 86 856 32 6 5 37 8 8 1 2 3 4 5 6 7 8 9 0 2 3 4 5 6 7 9 0 0 0 0 1 1 1 1 1 0 10 10 10 10 10 11 1 1 1 1 1 1 1 1 11 11 11 1 通し番号 家番号 〈桶職〉 女性 (この息子は《靴職・音楽師》) * 「職業など」の欄の「」内は,プファッフェンベルクの町の家々の年代記など文献に出 ているもの,〈〉内は,町役場のヴァイクル氏(1976年11月23日),《》内は元町長のバ ーベル氏(1976年12月2日)による。( )内は筆者。なお,「 」内の農業者はエコノー ムOekonom,〈 〉内のは,ラントヴィルトLandwirt。 ** @「その他」の欄で注記のないのは,夫婦の共同所有,「女性」は所有者が女性,「単独」は 男性の単独所有(これは必ずしも独身を意味しない),また,「複数」は男性を含む三名以 上の共同所有を示す。 *** @Bは小村のベルクハウゼンBerghausenの略。 30 有していなかったことになる。その人々は家を借りるか、間借りをしていたということになろう。その中には、家を 借りて営業を営んでいた者もあろうが、その大部分は、手工業とか建設業や醸造業とかで雇職人ないし労働者として 働いたり、大きな農家その他で旦雇い仕事をしたりしていたものと考えられる。中には、いくばくかの土地をもって ︵14︶ いた人もあったはずである。 統計的にいささか確かなことがいえるのは、家屋︵及び土地︶所有者一一九名についてである。これを今、土地所 有の規模に従って記すと、第1表のようになる。 ところで、当時のバイエルンの農業経営は、ふつう土地所有の規模ではなく経営規模に従って、しかもその中の農 ︵15︶ 業用地︵農地︶畠ω﹃巳鼠器。ゲβ。h二一鼻げ窪暮N8い雪傷の規模によって、次のように分類される。 零細経営℃碧N亀魯げΦ三Φげ①⋮・⋮⋮⋮:⋮⋮⋮・⋮⋮・⋮・⋮⋮⋮・⋮:農地二㎞未満 ライヒエロヴアイデン ゲリンゲ ヴアイデン ここで農地とは、耕地、園地、採草地、ぶどう園、曲豆かな放牧地を合わせたものであり、劣度の放牧地、荒蕪地、 林業用地︵林地︶畠ω︷。H斡鼠請。げ既臣。ザげ8三N8い雪砧や宅地などはこれに含まれない。 一九〇七年のバイエルン農 この表から、バイエルンの農業では、農地面積からすると、大経営と零細経営とはいずれもほとんど無視しうるこ ︵16︶ 業統計によると、バイエルンの農業経営の規模別構成は、第2表の通りであった。 と、これらを除くと、中農経営が、経営数、農地面積の双方で首位を占めていたこと、農地面積では大農経営がこれ に次ぎ、小農経営をおさえていたことがわかる。ニーダーバイエルン県では大農経営の比重はもっと大きく、プファ ッフェンベルクのあるマラースドルフ郡では、大農経営が農地面積で中農経営をも凌駕していた。 ︵17︶ 次に、前記統計にもとついて農業経営の土地構成を算出すると、第3表のようになる。 31 第2表 バイエルン農業経営の規模別構成(1907年)’ ︹ 積 % 535 大経営 ・(100ha以上) 〔60〕 〔0.1〕 (3) (0.1) 隈器a 106 〔9〕 429 〔51〕 ︷ (20∼100ha) 50∼100ha 2571 0.4 1255778 〔193906} 20.1 1231023 21.2 〔19。8) 〔149311〕 〔15.9〕 24.2 (619) (20.2) ︷ 241642 〔26.6〕 (964) (31.4) 127728 19.1 〔13936〕 〔16.9〕 113914 1体 〔8011〕 669911 k82520〕 i3066) 〔24405〕 228177 〔21821〕 57360 17.0 〔2584〕 〔9.7〕 100 k100〕 i100) 〔9.8〕 285537 36:1 〔21947〕 〔92400〕 ’ 5795606 @ 〔939158〕 φ 100 P00 Qり303 〔26,6〕 ︺ ︺ ︺ qゾρ0 〔21926〕 4 23 210 ︹ ︹ ︹ (2∼5ha) 954146 ・〔115532〕 547473 〔73150〕 (2075) 167316 25.0 52.1 29. 6 32.8 75121 5.9 344149 26. 9 578304 45.2 363830 28.5 214474 22.5 16.8 〔17.0〕 12,’9 9.’5三 ㎏121173 〔10. 7〕 (7,5) 3.9 (622) (2.3) 145766 3.4 ・〔16973〕 〔2.5〕 21550 0.5 k680218〕 i27533) 3.3 41911、 419270 〔28. 5〕・ 〔2.7〕 〔1440〕.. ,2.6 〔33.4〕 〔18413〕 4239237 33716 .〔6,2〕 〔45.5〕 29.1 12.1 28.8 (43.8) 〔29.3〕 703384 1.4 .〔309438〕 〔275398〕 %’t 5,9 〔1.0〕 (12059) 1684783 小農経営 全 〔45.2〕 13.4 〔16330〕 1 @.〔424709〕. ,, (37.3) 〔227383〕 2209924 〔16.4〕 134733 O.5ha未満 1058397 50.3 0,8 3.8 25.2 地 〔0。4〕 〔39.7〕 〔42381〕 林 hal 75627 〔1.4〕 (44,8) ’ 162923・ の (1.6) (12341) 〔6. 3〕 〔33.5〕 2.2 〔269764〕 89907 162431 1 〔6860〕 4.3 2915806 〔36. 2〕 k39,9〕 58294 1221320 〔59578〕 〔314886〕 〔9. 8〕 ‘』 〔2593〕 250446 1457690 5.7 29.5 ’134910 〔13506〕 5∼10ha 0.5∼2ha 19453〕. 積 %1 地 84130 6・β・ 58794 4.6 25336 2.0 〔0.2〕 100 1278504 k100〕一’(100) @ −\, 100・ ’ 。1 i 、 Noっ ︷ 〔29836〕 (1144) 〔0.8〕 33. 5 1.9 〔1。7〕 〔15755〕 〔374464〕’ (5∼20ha) (2ha未満) 108178 0.1 〔0.1〕 〔10. 6〕 〔8065〕 〔0.8〕 〔7425〕 〔0.0〕 (11.0) 224640 零細経営 1.3 6.1 中農経営 10∼20ha 〔2.5〕 74565 (336) 38092 20∼50ha 〔23180〕 〔8751〕 〔686〕 3.2 (436) 0.0 1708136 40663 大農経営 182743 0.1 農 ha l 93204 内 面 ha 1 % 面 数 公恥 糸 丼公心 経 営 〕内は三一ダ」バイエルン県,’ i)内はマラースドルフ郡 第3表 バイエルン農業経営の土地構成(1907年) 5.7 QU7 85,1 12.8 71.4 26.3 〔88.1〕 〔10.4〕 0,6 77.6 20.6 0 9 67.3 30.2 1.4 0.7 2 0.5 〔O.7〕 0.5 77.5 95.0 4.4 0.6 0.5 O・3 需 ︺ 1 4 0 10 0 ︹ 97.2 2 4 0.4 ︺ 2 4 1 0 ︹ 1.6 2 O.1 〔77.4〕 77.8 91.7 7.4 0.9 61.1 32.8 3.8 0.8 0.4 〔3.3〕 〔79.2〕 〔95.8〕 〔3.3〕 〔O.9〕 〔85.5〕 〔10.9〕 〔1.0〕 〔1.3〕 〔0.6〕 ’(3.4) (88.1) 15.8 0.8 787ーウ臼99︵乙 ︺︶ ︺ ︺ ︹︵ ︹ ︺ ︺ 8ρOPDfδ 0001︹ 100 0 ∩V 〔]1.4〕 4 6 〔70.4〕 〔7.1〕 3.4 〔}:1〕} 74.5 1.8 ∩V 4.0 7。1 78,0 ﹁Dρ0 ∠− 〔97.8〕 9,1 2 る ︺ 〔72.9〕 (83.2) 14.0 6 6 ∩VO ︹ 〔10.4〕 (10.5) 〔14.4〕 8.7 全 体 96.3 18.7 4.3 団㎞ 75.8 〔20.4〕 〔4.2〕 72.6 〔72.2〕 2.6 9.8 1 100 ︹ ︹ 響ー 灘 9.0 97. 8 ︺ 9臼ρ0 〔14,2〕 93.2 1.0 〔0.3〕 O. 5 〔71.1〕 Q︹ u1 13.0 (5∼20 ︷ 中農経営 es.1 84,6 〔92. 6〕 18.2 0。α α 63.4 〔61.8〕 27.8 (2∼5ha) 7.9 ︺ 29.2 97.4 15.2 ︹ 97.1 〔98.4〕 〔28.2〕 小農経営 11.0 ︺ 4一 α︹ 71.5 〔72.0〕 (79.1) 10. 3 〔86.9〕 〔9.1〕 ε0.2 〔:o.8〕 38.3 5∼10ha 53.9 (36.7) 〔39.0〕 ha 62.9 〔3.3〕 営 % 46.8 〔43. 5〕 ha ha) 1G∼20 4.6 18.3 その他の土 地のみの経 〔34.9〕 97. 7 30.0 42.0 〔42.8〕 〔8.3〕 ︺ 7 1 FD O O ︹ − 〔134.5〕 〔11.7〕 Qりー 〔308. 9〕 318.1 11.8 〔76。7〕 2ρ0 135.9 63.4 〔0,0〕 ︺ 329.3 〔288.1〕 252.2 〔5.5〕 1︹ − 703.4 〔825.0〕 12.5 騨階1 6.7 α0 α ha) {;::} 〔94.5〕 % 2.7 ︹ (20∼100 84.8 〔40.8〕 (50.6) % ︺ 4 8 大農経営 51.0 〔157.6〕 % r︺ O8 2 α ︹ ha % その他 のが経 〔386. 3〕 以上) 200ha 以上 100∼200 4 (145.3) 174. 2 小作地 自作地のみ の経営 半自営% (100ha 141 経 営 総 数 の 内 農地面積 総面積 地% 大経営 林 )内はマラースドルフ郡 総 面 積 の 内 作 自 ︷ ha 341.6 地㎞ 総面積 地㎞ 内農 規模別 〔 〕内はニーダーバイエルン県,( 積上の 面以地 総分作 一 経 営 あ た り O.4 58.6 85.7 9.6 4.7 62.2 〔75.4〕 〔86。7〕 〔7.5〕 〔5.8〕 〔75.0〕 8.1 7.2 4,8 〔2.9〕 〔6.8〕 〔7.6〕 (82.1) 0.5 63.9 〔77.8〕 0.2 37.6 〔55,7〕 73.1 95,1 4.1 O. 8 66,4 〔8.2〕 〔72.4〕 〔97.5〕 〔1.7〕 〔0.8〕 〔84,4〕 (9.0) (80.8) 6.3 〔6.8〕 2.0 23.3 〔9.1〕 4,3 3.0 1,9 〔1,2〕 〔2.5〕 〔2,4〕 第4表プファッフェンベルクの家屋・土地所有者の規模別構成(1912年初め) 10∼20ha 小農経営 (農地2∼5ha) 7 281.444十29,956 8∼19 12 107.095十14,903 8.925十1.242 48.987十 5.867 58.108十 9,036 16,329十1.956 83.586十11.445 3。483十〇.477 (農地2ha未満) 0.5∼2ha 0.5ha未満 0.475 体 24 20∼43 44∼119 76 36 。0 94 44∼63 Q6 64∼119 Q0 T6 1∼1ig 119 X 40.206十4.279 6.456十1,004 @。82 ︷ 零細経営 全 1**∼7 8∼10 11∼19 5∼10ha た有㎞ (農±也5∼20ha) ha R9 ︷ 中農経営 (町内+町外) 所の (農±也20∼50ha) 土地所有 所有者数* 号による) あ所 者地 有土 大農経営 家屋・土地所 有者(通し番 一り 経営規模 (換算イ直による) W4 1.344 0.164 P0 508.219十56.304 4.271十〇.473 * 夫婦の共同所有その他所有者が複数の場合も,それぞれ1とする。 ** ハし番号1は換算値でわずかに農地規模が50haを越えるが,その一部を家番号70の酒場 とともに貸していたと推定され,また,1923年段階の土地構成(農地が50ha以下一注11 参照)をも考慮して,農地20∼50ha規模に含めた。 この表の自・小作地に関する部分から、一見し て、バイエルンの農民の特徴とされる﹁自分自身の 土地の農民店霞口讐臼帥亀α臼色αq①口Φ⇒ω。げo ①﹂が、 ︵18︶ ニーダーバイエルンの農民によりいっそう妥当する ものであったことがわかる。今、このことをふまえ て、プファッフェンベルクの家屋・土地所有者の土 ヘ へ をこの表の比率に従って農地の規模に換算したも 地所有の規模を一応経営規模とみなし、かつ、それ のを分類の基準とすると、プファッフェンベルク の家屋・土地所有者の規模別構成は、第4表の 通りとなる︵換算比率としては、マラースドルフ郡 ︵19︶ の農業経営の規模別の総面積・農地面積比を用い た。︶ る。 これをさらに職業別に見れば、第5表のようにな まず、ここで大農規模とされた上位七名は、町内 にあわせて二八〇㎞あまりの土地をもっていたが、 これは町域全体i五九八㎞︵一八九〇年の統計に よる︶1の四七%にあたっていた。つまり、町域 の実に半分近くをこれら少数の人々が占あていたこ ととなる。この大農規模層には、農業以外の営業を 主業として大きく営む者が多く、七名中四名を数え 34 男 1 1 11(2) 2 1 24(2) 1 2 2(1) 2り09 1 1 、(1)1、 小農経営 儂地2∼5ha) 24(4> 1 1 0.5ha未満 16(2) 10(1) 9(1) 7(2) 15(1) 1 2 ユo(2) 39(4) 4 3 2 1 Qり Q︾ 9(2) 2 4(1) 01Q︶ 1 4(1) 211占 ︷ 零細経営(農 地2ha未満) 0.5∼2ha 合 計 その他 1 4 1占3 5∼10ha 計 7(1) 11 10∼20ha 合 不 /’ 4(1) rD 124 ︷ 中農経営(農 地5∼20ha) 工場労働者 3 土也20∼50ha) 下級官吏 人 ・煙突掃除師 家 大農経営(腿 手工業者 商 営業者 農 音楽師・絵師 第5表 プファッフェンベルクの家屋・土地所有者の職業別構成(1912年初め) 10(9) 23(6) 76㈲ 3(1) 20(3) 20(5) 56㈲ 25(7) 119㈲ 〔注〕 ここでは,主業・副業を問わず,農業以外の職業をもつものは,その職業に入れてあ る。()内は女性。以下,各職業に含めた家屋・土地所有者を規模別に通し番号で示し 14一 轡熾 6 9 8 零 10 13 11,1512 17,18 14,16,19 26,28 31,33 34,42 38,40 lt,21 24,釜 29,32 35,36 39,41,43 小農経営 0.5∼2ha 2rD 大農経営 37 ておく。下線は所有者が女性たることを示す。(下表の右端部分が上表の「不明」にあたる。) 46591444547 48,50 里,61 54 55,56,62 壁,塾 68,70,71 72,74,75 細 49,52,53 58,60,63 79, 83164, 80,81 t 84,9582,87,88 営 96,109 97,102 115 104,106 0.5ha未満 鐙,27 51 ウ ひ ウ 105 経 22,3037 一 107,110 112,113 117 35 90 65,6669 囮辺 壁,i塑 93,鐙 里 78,86,89 91,94,99 100,101 103,108 114,116 118,119 ていた。その内訳は、醸造酒場二、製粉業一、煉瓦製造業兼建設業一で、いずれも農業と深いかかわりをもつ営業で あった。 域のおよそ三二%、つまり三分の一近くを占めていた。この中農規模層一二名の中で、純農家ないし農業が主業と考 これに続く中農規模層は一二名で、その下の小農規模層二四名よりやや多くの土地を占め、両者を合わせると、町 えられるのは七ないし八名であり、大農規模層に比して農業的色彩が濃かったが、他の営業を兼営する者の中でも、 大農規模層とは異なり、手工業を主業とする者が多かった。町の年代記によれば、一九〇七年の職業統計以来、﹁さ まざまの営業○①≦臼げ①び簿HδげΦ︵染物職、靱革職、靱職など︶﹂が消滅し、今では、農業に住民のより大きな部分が ゲヴエルベベトリドペ レ デラ ゲルパ 従事している、とあるが、このことが中農規模層の﹁鞍革職親方﹂とされる人︵通し番号19︶にも多かれ少かれ妥当 ︵20︶ するとすれば、この層の農業的色彩はいっそう濃いものとなる。 カール・ガンドルファー氏の話︵一九七六・一一・三〇︶によると、農家には、以前、﹁バウアーゆ餌¢曾﹂、﹁ゼル ドナーωO缶口興﹂、﹁ホイスラー出ぎω8邑の三つがあったという。すなわち、﹁バウアー﹂は、二∼四∼六頭、さら ア イ ニ ゲ にそれ以上の馬をもち、奉公人を若干名かかえていたが、﹁ゼルドナー﹂は、六、七∼一〇㎞位の土地を二∼四頭の牡 メ レ レ はもっていたけれども、よそでの賃労働でくらしをたてていた、と。彼のいう﹁ゼルドナー﹂は、中農規模層の下層 牛で耕作し、乳牛を何頭か飼っていた。この両者は自立していたが、﹁ホイスラー﹂は、家と牝牛一頭か山羊幾匹か の農家に一つのイメージを与えてくれるものといえよう︵但し、﹁ゼルドナー﹂ということばについては別考を要す る︶。ここで、それぞれの規模の農家の経営についてたしかなイメージを得るたあに、 一九〇七年のバイエルン農業 ︵21︶ 統計にもとついて、各経営規模の一経営あたりの人員構成、家畜構成を算出すると第6表のようになる。 この表から、ガンドルファー氏のいう﹁バウアー﹂が、おおよそ大農規模層にあたること、中農規模層の上層︵農 地一〇∼二〇㎞層︶の上層部分もその最下層としてありえたこと、が推定されよう。ただし、町内外に合わせて二四 始あまりをもち中農規模層の最上位にあった﹁農業者・商人﹂のヒルシユ︵通し番号8︶は、ガンドルファー氏によ れば︵一九七六・=・二三︶、﹁家族経営閏鋤ヨま8げ①三①げ﹂であり、少くとも家族労働力主体の経営であったと考え プアミ リエンペトリ プ られる。他方、ガンドルファー氏のいう﹁ゼルドナー﹂は、まさしく、この表の中農規模層下層︵農地五∼一〇㎞層︶ 36 第6表 バイェルン農業経営の人員構成及び家畜構成(1907年) 〔〕内はニーダーバイエルン県,()内はマラースドルフ郡 経営指 ア者* 1.0 @ 0,5 o 20∼50ha @50∼100ha S.0 9.0 16,9110.9− k10.1〕 @〔37.5〕 P3.4 P.0 @ 1.0 P.3 @7.9 1,OI2.5− 0.0 2.7 R8.0 21.3 P1.7 8.3 0,310.7− O.2 P.0 @ 2.6 O.0 T.8 k2.9〕 ︷ 0.9 2.0 0.O O.6 O.0 :輩1・i*:::・:;1・ 40.7 36.6 i60.0)55.3 51.0 O.2 R1.4 @9.ユ U3.3 R3.0 R2.0 S3.0 0.3 7.4 3.6 21.2 8.9 &7 8.6 k4.7〕 k23.8〕 O.2 P3.3 O.3 V.0 i5.2)7.7 i26.2)36.4 R.3 Q0.1 小農経営 (2∼5ha) 08 14 00 01 ︷ 零細経’営 0,4 Or 6 0.0 0.0 0.1 0.3 0.3 4,2 W.3 0.1 0.3 0.3 4.9 0.7 8.6 4.1 〔0,9〕 〔9.8〕 〔4.4〕 1.3 11.5 k0,2〕 k93.6〕 @8,0 V.6 3.7 1.4 〔4.4〕 〔O.6〕 5.0 4. 7 2,2 O.O 0.3 3.7 0.4 k一〕 94.4 k100〕 Q.8 X4.3 k0.1〕 Q.3 X4.4 12.3 99.2 k6.0〕 k997〕 X5.6 O.3 Q.4 X8.2 W6.1 O.2 P3.0 X93 36.1 0.3 62.5 98.9 〔42.4〕 〔0.1〕〔56.9〕〔99.4〕 8 04 〔0.2〕 〔O.0〕 〔1.1〕 〔0.9〕 〔0.9〕 〔O.1〕 〔0.5〕 (O.0) (0.5) . (0.7) (0.0)’(α7) O.0 1.1 0.9 1.1 (0.9) (7.4) (4.7) (O.3) 0.8 0.1 * 経営指導者Betriebsleiterは, Eigent廿mer, Pachterのほか, Direktoren, Administratorenを含む。 職員Angestellteとは監督・計理要員Aufsichts=und Rechnungspersonalをさす。 これには,一時的家族労働力も含まれる。 FDρQ 0.5 0.1 ︺ 0.1 ρ034 − 〔0.7〕 〔0,3〕 0.1 0.5 5.3 2.7 2.5 1.1 〔0.9〕 〔7,4〕 〔3.5〕 〔3.7〕 〔O.8〕 ︾7 1Q2 0.1 0.3 L2 0.0 σαα 0.0 0.O O.4 0.1 1 0.2 0.3 3.1 0.8 1.1 33.1 35.0 〔1.2〕 〔0.9〕〔60.5〕〔62.6〕 ︹ ︺︶ 0.4 0.0 0.0 09 873 957 〔7.5〕 〔0 4〕〔90.5〕〔984〕 1.4 0.2 0. 9 ︹︵ 0.3 0.2 43.1 99.2 55.9 L6 0.5ha未満 *** O.5 (01) (36) (22) (01) (05) 0.0 0.6 0.5 0.8 0.1 0.4 0.1 0.9 0.2 0.4 1.9 ** 2.4 k一〕 0.4 75.5 98,7 6.7 3.5 3.0 0.8 0.4 22.8 7.5 〔0 1〕 〔37〕 〔2 5〕 〔1.9〕 〔0 1〕 0,0 − 0.2 0.2 i0.0)0.5 02 03 28 01 35 23 19 03 0.OIO.2 00 O.9 0.O O.0 〔2.6〕*** 86.7 0.5 k4.9〕 (5.4) (O.3) (0,9) (9.5) 0.5 体 X1.8 P7.6 0.5∼2ha 全 X1.5 i1.2)24.2 k0,8〕 (2ha未者跡) 0.711.4 91.8 k100〕 i16.0)18.1 k9.2〕 k12,6〕 〔0.4〕 5∼10ha 0.5 k0,4〕 @(一)83.7 V1.6 V8.3 (5∼20ha) 10{ン20ha 77.9 i93,0)136.9 k3,2〕0,210.6 k6,7〕2.4 中農経営 11.4 k12,0〕 k87,7〕 k45.1〕 k45.4〕 k10.7〕 i12,0)20.8 ︺︶ 4 214 0 0 ︹ ︵ 00 1.0 @ 2.1 40.7 k1.0〕1,712.3− k3.2〕 k3.8〕*** 0.1 馬と牛1馬のみ1牛のみ1全体 p0.2 o 200ha以上 100∼200ha 1.9 k2.0〕*** 烽ツ経営(%) 刷牛1内牝牛1劇羊1山羊 i一︶0.30.5 1,010.9− 100経営の内,大家畜を 一経営あたり(頭・匹) 全体 大経営 @ (100ha以上) 大農経営 @ (20∼100ha) 家 畜 構 成 人員構成(一経営あたり) 一時的 恒 常 的 1.5 56.7 59.5 0.6 6.7 7.5 0.8 54,8 75.1 〔0.4〕〔61,3〕〔89.4〕 にあたるものであった。 ﹁農業者﹂であったヨーゼフ・カンマーマイヤー︵通し番号28︶もこうした農家であったが、現在のカンマーマイヤ さて、小農規模層では、手工業を主業とするもの一〇ないし一一名であり、中農規模層よりも手工業者の比重がは るかに大きかった。しかし、純農家ないし農業が主業と考えられるものも七ないし八名を数えi﹁不明﹂とした二名 はこうした農家と考えられるー、手工業者とともにこの層の主要部分を構成していた。四・三㎞あまりを所有する i家の主婦の話︵一九七六.一二.二︶によると、以前はこの土地を牡牛一頭、牝牛﹁頭で耕作し豚も飼っていた が、・れだけでは食べていけなか・たので、副業晃老ビたり︵夫の父親︶・音楽師をしたり︵夫の場合︶していた という。この家がガンドルファー氏のいう﹁ゼルドナー﹂に近いものであったことがうかがえよう。なお、彼女によ れば、土地が二五タークヴェルク↓⇔σq芝Φ爵−約八・三㎞︵一㎞はほぼ三タークヴェルク︶ー以上ないと足りな い、これでも大家族だと苦しい、ということであった。総じて、この小農規模層と中農規模層1とくにその下層l Iとを画然と区別することは、とりわけこれら両者を通じて農家と手工業者との比重が大きかったことをも合わせ考 のであり、これに対してその上層は、典型的な、ないし大農的な、中農であったといえよう。 えると、困難なことであるように思われる。このように見てくると、中農規模層の下層は小農的中農ともいうべきも 最後に、農地二㎞以下の零細規模層は、家の数こそ圧倒的に多かったが︵六割以上︶、その土地所有は全体でー ただし町内の土地のみー三六㎞にとどまり、町域の六%を占めるにすぎなかった。この層は、農家としてはガンド ︵内、一名は﹁農業者.大工職﹂、いずれも零細規模層の上層︶は、まさしくこうした、﹁零細慶﹂というべき人々で ルファi氏のいう﹁ホイスラー﹂にあたると考えられるが、町役場のヴァイクル氏が﹁︵小︶農業者﹂とした五名 あった。これに対して、この層の下層︵農地○・五飴以下層︶とした土地所有○・六㎏以下の人々は、数的には五六 名にのぼりこの層の大部分を占めるが、その多くは、非農家というべき人々であったと考えらな罷。 ついては、バイエル・の市場町衡するマゥエラあ研究に、次のような注目すべき指摘があ馨すなわち・一九世 ところで、この零細規模層の中で、最も大きな比重を占めていたのは、手工業者であった。その大部分は、総が﹂ であったが、﹁左官職職人頭ζp¢器壱島臼﹂︵通し番号囎︶以外にも職人が若干名いたかも知れない。この手工業者に 38 紀において、大ていの手工業者は、少くとも若干のタークヴェルクの耕地や採草地をもっており、これと共有地での アイニゲ 放牧権とがあいまって、 一、二頭の牝牛や山羊を飼うことが可能とされ、かくて、こうした農業的副業からの収益に ろ職等のように、その意義が急速に低下した手工業諸部門の比較的多くの人々が、第二次世界大戦にいたるまで何と よって営業収入からヨリ独立的となることができた。一九世紀末以来、例えば靴職、仕立職、鍛冶職、桶職、ろく かもちこたえることができたのも、こうした農業経営による生計の一部の確保に負っているのだ、と。この指摘は、 とりわけ、手工業者の中でも零細規模層の上層を中心とした部分にあてはまるものといえよう。これに対して、土地 をほとんどもたなかった手工業者の多くは、マウエラーが﹁小さな農業﹂と並んで副収入源として挙げている﹁旦雇 い仕事﹂に、就中、多くを負っていたと考えられる。 ︵24︶ のは、ガラス職、焼物職、靴職、時計職、錠前職、仕立職であるが、家具職親方の子で中農規模層の﹁木工所・家具 マゥエラーは、さらに、若干の手工業部門が、工業製品の流入による自己の生産面での損失を工業製品の販売で埋 ︵25︶ め合わせることによって、工業化過程を生きのびることを得た、と指摘している。彼がそうした例として挙げている 製造所所有者切窪・ロ゜寓oびΦ誓訂①言臼①斎ω冒臼﹂のクサーヴェル・シュミット︵通し番号16︶が、 一九一二年に建築 ︵26︶ 零細規模層の中でこうした手工業者に次いで多かったのは、i﹁不明﹂を度外視し、また、大部分が﹁寡婦﹂から 資材販売所を設置し、さらにセメント製品の販売に乗り出したことも、こうした一例とされよう。 アントーン・ロートダウシャー︵通し番号59︶は、かなりの資産家と考えられ、零細な土地所有が必ずしも資産の零細 成る﹁その他﹂を別とすればー、食料・繊維品店等の商店主や穀物商人といった、﹁商人﹂であった。その一人、 をも意味していたわけではなかったが、しかし、この層の多くは、おそらく、零細な手工業者、商人、農家あるいは 家主等々であったように思われる。前述のマウエラーは、バイエルンの市場町における土地所有の意義について、次 のように述べている。 ﹁現在でこそ、もうけの少い営業だけが農業と結びついており、もうかる方は農業をやめてしまったが、一九世紀 には、土地所有とその経営は、一方では追加収入源を意味し、他方では、ふところ具合の安定をもたらして、市場町 の社会的ヒエラルヒーにおける社会的声望を与えるものであったのである。市場町では、手工業者の営業所得が高け 39 れば高いほど、その土地所有は大きかった。営業の重要性による階層区別と土地所有の大きさによる階層区別とは相 照応していたので、市場町における副業的農業経営は、一九世紀、そして二〇世紀にいたるまで、小・中・大の営業 ︵27︶ 経営間の社会的区別を調整するどころか、それを深めるものであったのである。﹂ マグナ テン そして、彼によれば、﹁醸造業者と酒場の主人が市場町の﹁大貴族竃鋤σQ轟8口﹂であり、彼らはとびぬけて大きな土 地の所有者であった。これにようやくかなりの間をおいて中規模の営業経営︵パン職、食肉職、製粉業等︶が続いて いた。﹁小手工業者﹂と旦雇いは、全くほんのわずかな土地しかもっていなかった。それ故、この数の上では最大の ︵28︶ グループは、営業所得でも農業所得でも市場町の社会的下層に属していたのである。﹂ や農家がこの町の上層を形成し、中・小農規模の手工業者、営業者や農家が町の中層1の中心的部分−を形成し ニーダーバイエルンの市場町プファッフェンベルクにおいても、おおよそのところ、大農規模の土地をもつ営業者 ていたと考えられる。零細規模の手工業者や商人などの中にも、この中層の一翼をなすものが少からずあったと考え られるが、この層の多くは、零細規模の農家とともにこの町の下層を形づくっていた。そしてこの下に、自分の家を もたない数多くの雇職人や労働者たちがあって、町の最下層をなしていたのである。 この最下層の人々も、男性でかつ満二十五歳となっていた限り、帝国議会の選挙権は有していたが、バイエルン下 院の選挙権からは、それが直接税の納付を条件としていたので、i相当の所得があったり、家はないが土地は若干な ︵29︶ りとも所有しているといった場合を除けばー、一般にそれから閉め出されていた。とりわけ、町議会の選挙権は、 ピユルガ レヒツゲビユ ア ︵30︶ 直接税の納付という条件のほかに、さらに相当額の市民権交付料ω臼σQΦ旨8犀。。σqΦげo年ープファッフェンベルクの 場合、二〇マルク を条件としていたので、有権者の数はいっそう少かった。 ︵31︶ 一九一二年初頭の帝国議会選挙におけるこの町の有権者数は二一六名であった。この年のバイエルン下院選挙につ いては明らかでないが、マラースドルフ郡全体では、その有権者数は三、六三九名で、これは、ほとんど同時に行わ ︵32︶ れた帝国議会選挙の有権者、五、一七三名の七割にあたっている。この比率を。フファッフェンベルクにも適用する と、この年のバイエルン下院選挙での有権者は、一五二名だったことになる。これに対して、一九一一年末のプファ ︵33︶ ッフェンベルク町議会選挙の有権者は、八三名であった。 40 フ中では大きい方・であった・参照、国。§諄・・曇窪§審N§恥§匙肉§ぎ蓬§譜ミミ§、蕊馬軋昌き§馬、謎 闖ャさいドルフゲマインデUo臨σqΦ日①ヨ山Φとがあるが、プファッフェンベルクは、マルクトゲマインデとしては、小規模 ︵5︶ 地方自治体としては、このほか、これより一般的には大きなシュタットゲマインデω冨聾σq。日Φ一巳①と、一般にはこれよ ︵4︶国。詩。冨びω゜ωb。° N㎏噺斜寓Φ津巳bo傷興切無疑昏隣馬憩ま、砺鳳ミ冴職神bo亀ミ蕊防︵竃自昌oげ①PH⑩㎝ω︶りω・①蔭・ ︵3︶顛論ミ鋳簿翁9§§°・§竃謎罫︾ミ防゜b貯肉§ミ。ぎミ慧ミ§匙ミ9§職ミ§b口塁ミ蕊偽焼論“馬、N鴨篤琳e。謡﹂c。亀黛防 ︵2︶ 乏昌ゲ色BΩα貫Q80qミ憾潮軌物ミー窺跨wミ詩きaき蕊駄い寒鼻q§bu亀恥、論・しUgH︵冨⇔昌oげ①口・Ho。8︶・ω・αQ。bo・ ミ“匙ミい塁ミ蕊︵U♂i■o詳鉾一〇⇒侮雪日Φ9凱ωoず①昌出09。。oゴ三Φ]≦⇔﹃oび①Pμり課︶・ω・ωb⊃・ ︵1︶雷①凶自国゜計゜冨びト禽、§捜§隣§翫鯨ミ鳶§翫ミN§糺§謎き息ミひ§寧慧轟§讐αq匙匙w僑§沁馬臨馬、§恥恥い馬N馬、神 注 ︵6︶q°ω゜喜ω゜ぎ三①;○年o巳犀山①ω竃震写Φω凛跳窪びoお.、﹂﹃肉ミ§職ミ逢、ぎ琴。鳶防ら識馬G詠、帖吻蔦恥蕊・匂σq・刈O︵H⑩昌O︶・ω.①H. 題粋NQ。OOu出①坤GoO伍興国Φ一げΦミ逡魁ざ嵩恥負bロ織嬢魯誌ら織§醤縞ミ誤貯︵寓O昌oゲ①PHΦ謡︶・60・お・ 縺∴齡N半ばより以前に書かれたものである。人々の職業については、その他、町役場の書記のマックス・ヴァイクル氏 A幽ミ期§αQ象簿詩ミ馬︵ρOGρ匂゜︶°これは、同じシュニルレの前掲もぼo巳犀山oωζ碧ぎ窃剛h跳Φ昌び①Hσq.。にひき続いて、 フ家の歴史についてはこ。器9ω。巨量Nミ。ぎ暮翁さ悉$、奪§茜奪§︾馬篤ミ霞ミ吻馬、,袋㌧N職 Ω崔巳ω8β臼n囚象霧8目・濠跳Φpげo薦︵H。。ωご⋮即Φpoく三①ωO註巳ω9器7囚簿什霧8さ℃h臨Φpげ霞σq︵H。。①一γまた、それぞ q日ω。年①ま冨h計国跳窪げ①おを中心とし、合わせて、周辺の村々のそれを参照した。一九世紀半ばの土地所有については、 ︵7︶以下、一九一二年初め頃のプファッフェンベルクの人々の土地所有は、ω3卑路岩まくいρ昌山。。ゴ億ゴOH口づ山.什①¢Φ﹃腸囚Φ什帥ω紳①同睡 41 ェ大いに参考となった。この地籍図には、各地片に番号が付され、さらに、そのそれぞれに、当時の所有者の家番号が付記 O七年の地籍図︵閏×霞p岳寓8。。ーコき臣﹁詠ω即ΦP雷B梓昌鴛ず山①Bω3Pαo<o目ωド甘=Hc。ω8Q。8信①同,O①日①一口自Φ漂餌津①ロげo属 フご教示︵一九七六・一一・二三︶に負うところが多い。また、町並みについては、シュトラウビング測最局所蔵の、一八 @一 ︵9︶ カッコ内は、いずれも、父と同名で現存のカール・ガンドルファー氏のことば︵一九七六.一一.三〇、及び同一二. ︵8︶ ωoゲほユρN黒、O︸、oミ鋼ω・co・ されている。 卜爵”窯いトδ刈O︿。日HドZ。<①日び臼目りHω”ω.ωには、﹁関税屋敷所有者ルートヴィヒ・ガンドルファー氏がその農場経営 一︶。氏が、叔父が農業面で進歩的だった例として挙げたのは、自動刈取り束ね機の導入と種畜組合の結成であったが、 ろでは、牛が三五∼四〇頭︵内、牝牛二〇頭︶が飼われていたという︵馬の数は不明︶。 に蒸気飼料給与装置を備えつけた﹂という報道が載っている。なお、ガンドルファー氏によると、叔父ルートヴィヒのとこ するマラースドルフ財務局の下級官吏のあとを受けてエスペラントの授業を引き受けたことは、卜蒔”2μ卜⊃卜⊃。。<。ヨω゜ ザイツは、ルートヴィヒより四、五才若かったという。ザイツがプファッフェンベルクのエスペラント・クラブで、転勤 ○ζoげ①.一曾ωに出ている。彼は、のち、一九一八年十一月のルートヴィヒのミュンヒェン行きに同行、ルートヴィヒが自 動車事故で亡くなったさいには、彼も負傷している。そして、同十八日に開かれた中央農民評議会の第一回会合でその第二 へ10︶ 以上、主として、ガンドルファー氏の話︵一九七六・一一・二三、同三〇︶、及びツェツィーリア・マイヤーさんの話︵一 書記に選ばれている。 九七六.一二.三︶による。なお、カール・ガンドルファーは、工場監督官からしばしば、イタリア人労働者の労働条件や 居住条件について改善を指示されているが、一九〇四年六月二十二日付のプファッフェンベルク町長レーデラ!のマラース ドルフ郡役所あて報告では、イタリア人出稼ぎ労働者の寝床、計四六という数が挙げられている。ω一︾ダ国①℃﹂①ミ這M宕﹃・ さ隷恥捜籍ミ§馬q§トb“捜§いミ送ミ§概蹴§Q§ミ簑§駄熔§ト智§送Nト缶Φ坤G。恥山8b。ミミ題醜ミ砺ミ苛w簿 ︵13︶ 一九﹂○年は、世帯数二一九、人口八九〇人であった。Q馬ミ貼§譜−頴謎職らぎ蹄誉、乱§肉貸ミ吋鳶詩謳bd鳥聴ミ蕊貸ミ“ミ ︵12︶ 以上、注7参照。 牛一四︶、豚一五匹。≧馬ぎ§§ミ.肋卜§駄き㌣騎簿自︾勘鼻馬Q驚鷺ミ氏ミbミら譜3ω氏﹂O閃しd鎚Φ﹁p︵﹃①ぢN幽σq匂HO卜⊃ら。︶℃ψ①群 総面積六五㎏、内、耕地.園地三三飴、採草地一〇㎞、林地二一㎞、宅地一㎞。馬九頭︵内、仔馬三︶、牛三二頭︵内、牝 碧N暮、暁鳴鱒国Φ津HO伍①H国臨冨ミ募畠N罫篭§bo斜§篭ミミ§§§句貯︵ζ雪゜冨pお①Φ︶℃ω.8h ︵11︶ 一九二三年頃のカール・シュテットナーの土地所有及び家畜飼養の規模・構成については、次のような数字が残っている。 製造業におけるイタリア人労働者については、︾×Φ一ωoず昌o同げロρ毎達偽騨§駄恥o獣ミo、氏隷寒謡隣§bd亀ミ蕊do、翫馬§肉、論§ は、それ以前のものと考えられる。おそらく、発電施設の設置を記念して描かれたものであろう。なお、バイエルンの煉瓦 のであった。この建物は、第4図の左方のごN貯σq巴①憎を①時゜H..の左に、これに接して建てられたから、このモンタージュ図 ①OOO︵囚p二〇9。邑o嵐①﹁︶.カールが一九〇五年第一四半期に建てた労働者用の住居は、こうしたイタリア人労働者のためのも 42 ︵14︶ プファッフェンベルクに家屋をもたない人々の土地所有︵家番号口きω−Zq日ヨ興でなく所有番号bσ①ω一鼠・乞ロヨヨ葭で示 §防きミ隣ミ詩穿切箱聴ミ︵竃言。冨Pおに︶℃ω゜2. から、そうした入々の存在がわかる。その中には、ロッテンブルク菊o什8口げ貫σq郡アードルハウゼン︾臼冨霧魯村のミハ される︶を記した台帳は見つからなかったが、家番号別の土地台帳の書替帳に土地の売買に関連して注記されていること ︵15︶囚・しd昌巴ω9窃望豊■■帥一ω。冨ω冨己Φω9巨︵卑。・σq°︶ubにト§翫霞ミ逡ぎ︾§bd塁鴨§§罫“ミ切ミ譜穿建ミ§ぴQq エル・ツィルンギーブル︵所有番号一溝O︶のように、土地売買を業とする不動産業者と見られる人物もある。 ︵16︶ Nミ繕りω﹂8卜。b⊃炉Φb。鉾日山げ①=窪≦①時9b⊃b。hの表より作成。 N吋゜冒註﹂8ざ缶魯。。昌仙臼切ミミαq馬憩ミ勲ミミ隷“恥防肉qミ讐§穿bu亀恥ミ︵ζ茸。冨p目⑩HO︶℃ω﹂①噛 ︵17︶ 注16のほか、尊ミ‘ω゜ω訊‘お層日oげ①一一2薯Φ時ω゜c。Oより作成。 ︵18︶ 導ミこω゜ωc。° ︵19︶ この操作の限界は、とりわけ、家屋はもたないが土地は所有している人々の所有地、また、文書館での調査にあたって原 則として考慮外とした町外の一㎞以下の所有地を考えれば、直ちに明らかである。さらに、第3表から明らかなように、バ け零細経営ないし小農経営の部分は、まさに一応の目安という意味以上を出ないこととなろう。 ヘ へ イエルンでは小作経営が大経営と並んで零細経営に 比較的のこととはいえ 多かったことをあわせ考えると、とりわ ︵26︶ 卜蒔 騙 Z ﹁ ° お く o ヨ 竃 貯 N お 一 ω ℃ ω ゜ G 。 ° ︵25︶ 奪ミ ‘ ω 、 0 9 ︵24︶ 奪ミ‘ω゜零゜ ︵23︶ 竃窪臼oびQD.O㎝h‘μ一①︷° 宅地︵﹁その他の土地﹂の大部分を占めると考えられる︶の比重が大きいことがわかる。 よって、総面積の○・六㎞前後を境として、農地の比重が大きくなること、それ以下では、林地や﹁劣度の放牧地﹂ないし ︵22︶ ちなみに、バイエルン農業統計によると︵愚ミ‘ω゜日8⑩卜⊃ご農業零細経営の土地構成は別表1の通りであった。これに から作成。 ︵21︶ bにト犠謡糺§等勘ミ匙憲§bu勘隻免ミ竈ミ”Go°①刈︷‘刈9謡中‘o。ba”ド゜。Q。︷°はb⊃hG辰c。︷‘崩μ日鋤げ①一一窪≦Φ時ψ㎝トっ讐ド認h ︵20︶ ωoゴ三ユΦ:b年8障..u匂αq匿刈Pω゜① ° 43 中 積 地% 地% % % % ha ha 0.1∼2ar 0.13 0.01 8.1 38.6 23.4 10,2 19,7 2∼5ar 0.24 0.03 11.9 51.0 14.6 3.9 18.6 5∼20ar 0.61 0.11 18.5 65.2 2.8 5.3 8.2 20∼50ar 0.58 0.33 57.5 26. 8 4。9 3.0 7.8 O.5∼1ha 1.32 0. 72 54.9 29.1 3.2 7,5 5.3 1∼2ha 2.14 1.45 68.0 24.2 2.7 ユ.8 3.3 ︵28︶ 奪ミ己ω゜日竃や ︵27︶ ζ窪臼①斜ω冒8° ︵29︶ 直接税としては、当時、土地税、家屋税、所得税、資本利子税、営業税があ ︵30︶ 元町長ルーペルト・バーベル氏にょる︵一九七六・=一・二︶。なお、マラ った。Nミ鶏専篤幡翫題要ミ゜bd袋、§§こσq・ωΦ︵おO刈γω・H一c。参照。 ースドルフ付近の一農場︵一〇〇㎏︶では、一九〇七年当時、下男国昌Φoぎの 週五マルクであった︵いずれも食事付、宿泊費無料︶。穿謡“ミ轟翫巴晦ミ6ミ§ 賃金が年二〇〇マルク、下女ζ9αqqが一五〇マルクで、搾乳夫ω島≦。一N巽は ︵31︶ プファッフェンベルク町長力ール・シュテットナーのマラースドルフ郡役所 Q、§匙隷罫誌砺§bd塁ミ謡”Z①岳ロωσq鎚げ①︵ζ旨島ΦpHOO刈γ9さ。お. あて一九一二年一月十三日付報告による。ωけ︾炉幻①℃°HOミ旨糊ZμO①OO° ︵32︶ 曽蹄罫蔦§§防≧bu遣ミシら評§要ミミ鋳罫§卜§§旨§盆臼oq°匙︵おhb。︶u ︵33︶ N黛翫‘9切Oω.なお、バイエルン全体についてみると、住民一、○○○名中 ω゜トコ心PN8。 の各級議会有権者の数は、一九一一/=一年の選挙において次の通りであった ︵辱ミ‘ω゜癖。。ω︶。︵ ︶内は、帝国議会有権者を一〇〇とした時の、各級議会 有権者の比率を示す。 帝国議会 二一九名︵一〇〇︶ バイエルン下院 一七二名︵七八・五︶ ゲマインデ 九七名︵四四・三︶ 44 その他 の土地 荒蕪地 劣度の 放牧地 林 農 地 農 総面積 (農地) 面 総 一経営あたり 経営規模 バイエルン農業零細経営の土地構成 別表1 0.1ar未満 三、一九一一年十二月十四日プファッフェンベルク町政選挙 ω ここに一枚のビラがある。これは、﹁自由な市民の選挙委員会紆ω≦聾貯o巳み山臼マΦ圃①昌しd臼αq霞﹂が一九=年十 エロラ ︵1︶ 二月十四日に行われるプファッフェンベルク町議会選挙に向けたビラで、その末尾には、﹁委託を受けて﹂としてル ピユルガ ゲマインデヴ ートヴィヒ・ガンドルファーの名が記されている。従って、彼が起草者だったことになる。﹁市民諸君!町の選挙民 諸君!bd旨σq①匡O①日Φぼα。≦聾♂同こという呼びかけで始まるこのビラは、その最後で以下の人々への投票を求めてい た︵︵︶内は三宅︶。 ﹁博士エミール・バスマン氏﹂︵医師で、﹁ガンドルファー通り﹂とシュトラウビング通りとの角にある、カール. まず、町議会囚o頴σq冨B議員としてー ガンドルファーの持ち家に住んでいた︶ ﹁カール・ガンドルファー氏、工場所有者﹂︵通し番号5︶ エコノ ム ﹁ヨーゼフ・シュマールホーファ!氏、農業者﹂︵同12︶ ﹁ミハエル・グシュナイディンガー氏、農業者﹂︵同13︶ ﹁ヨーゼフ・ヒルマイヤー氏、車職親方﹂︵同43︶ ﹁クサーヴェル・シュミット氏、木工所・家具製造所所有者﹂︵同16︶ ﹁テオドール・シュテーガー氏、食肉職親方﹂︵同10︶ 次いで、その補欠国窃簿N日似目臼としてー ﹁ヨーゼフ・レーデラー氏、馬具職親方﹂︵同蝦︶ ﹁ヤーコプ・ベック氏、農業者﹂︵同17︶ ﹁ヨーハン・シュペート氏、工場職工長﹂︵同51︶ ﹁ジーモン・ヒルシュ氏︵若︶、農業者・商人﹂︵同8︶ 45 ﹁ヨーゼフ・カンマーマイヤー氏、農業者﹂︵同28︶ シユベデイトウ ル カ ミ ン ケ ラ ここで﹁農業者﹂とされている者は、﹁商人﹂でもあるヒルシュを除くと四名で、前三者は中農規模の下層︵その 並んで多いのは、手工業者の四名で、土地所有の規模では、中農規模の上層、下層各一、小農規模層一、零細規模 内一人は、運送業者、他の一人は煙突掃除師でもあった︶、もう一人は小農規模の上層であった。この﹁農業者﹂と ︵非農家︶﹂であった。全体として、中・小農規模の農家、手工業者が大きな比重を占めていたことになる。しかし、 大農規模層のカール・ガンドルファー、中農規模層の最上位たるヒルシュに、起草者として名を連ねたルートヴィ ヒ・ガンドルファーをも加えると、大農規模ないしそれに準じる商工業者や農家も、相当の比重を占めていたといえ よう。 的統治﹂、﹁個人統治﹂、﹁ペチコート政治﹂、﹁恐怖政治﹂に向けられていた。ビラによれば、この︻派は、前の選挙 ユ ルレギメント ペルゼ ンリヘスロレギメント ウンタ ロツクスポリテイ ク シュレツケンレギメント ヴイルキ さて、ビラは、激しい言葉を連ねたものであったが、その攻撃は、現町長と町議会議長との三年間にわたる﹁恣意 で、﹁一人の自由な市民﹂ー﹁敢えて支配権力に抗してたたかい、必要とあらば諸々の権利に気を配り、そして全 町民の利益を断固として擁護した﹂唯一人の男の再選を﹁卑劣なやり口の宣伝﹂をもって阻止するのに成功したあ と、﹁進歩的な動きを抑えて町に損害をもたらし﹂、また﹁無責任にも自分たちの地位を濫用して仲間の一部の者を富 ませ、町の財政を犠牲にしている﹂のであった。従って、来る十二月十四日は、この﹁金持ちの思い上り、個人的な ゲルトプロツツエントウ ム 金もうけ根性の権力﹂を打破する﹁応報の日﹂たるべきものとされたのである。 他方、このビラからは、現町長の側も、もし相手側が当選すれば、当地の発電施設を町が買い取ることになり、ま た、高価につく水道を敷設するなど、町の賦課が大幅に引き上げられることになる、と主張していたことがわかる。 していたから、現町長側からは、とりわけ、カール・ガンドルファーが攻撃の的とされていた、ということになる。 発電施設の所有者はいうまでもなくカール・ガンドルファーであり、彼はまた当時工場用水のため水道の敷設を構想 そして、ビラのいう﹁一人の自由な市民﹂とは、まさしく彼、カール・ガンドルファーその人にほかならなかった。 彼は、この前の一九〇八年の選挙までは町議会議長をつとめていたが、この時の選挙で激しい人身攻撃にさらされ、 落選の憂き目を見たのであった。従って、今回の選挙は、彼の雪辱戦でもあったわけである。そして彼は、選挙戦の 46 過程で、町長候補として名のりを上げることとなる。 一方、その敵役とされた現町長は、大きな醸造酒場の主人で、この町最大の土地所有者たる、カール・シュテット ナー︵通し番号1︶であった。一八六二年、よその土地の醸造業者の息子として生れた彼は、一八九二年、この地の醸 リュ リガ ゲシエフツマン 造酒場の娘と結婚し、以来、﹁活発な事業者﹂として、火事の度毎に大きな改造を重ね、事業を拡げてきた。一八九 三年、町議会議員に当選、 一九〇五年︵ないし一九〇二年︶には参事会員となり、一九〇九年、 一八九三年の選挙以 マギストラ ツミツトグリ ト 来の町環馬具職のヤ←プ・rデラふ亡くなると・その跡を襲・て町長とな・てい壌彼の片腕の町議会議長 とは、大工の棟梁で小農規模層のヨーゼフ・ウンターパイントナー︵通し番号29︶であった。この派の人としては、 その他、絵師のアーロイス・カインツ︵同90、遅くも一九〇五年の選挙以来参事会員︶、商人のアントーン・ロート ダウシャー︵同59、一八九三年の選挙以来参事会員︶、同じく商人のルードルフ・ヴィーデマン︵同84、この家に住ん ゼフー・・ユラー︵同21、一八九九年の選挙で町議会議員に当選︶もこの派の人であった。 でいた元町長の商人の娘と結婚︶といったところが、おもだった人々であった。また、パン職で小農規模層のヨー このシュテットナー派に対して、ガンドルファー兄弟の側がとりわけ問題としたのは、町有の砂利坑の採掘の問題 であった。シュテットナーがその焼失した醸造酒場の再建のさい自分に有利に事を運んだこと、また、ウンターパイ ントナーが、ー彼は町有の砂利坑のとなりにあったシュテットナー所有の砂利坑を近年購入していたがー、町有 の砂利坑を不正採掘した、という疑惑が、彼らの攻撃の根拠となっていた。さらに、ウンターパイントナーによる町 役場の修繕も疑惑の対象とされ、また、カール・ガンドルファーに対する町賦課金の過重賦課ー彼が裁判所に訴え ︵3︶ 出、結局払い戻されたがーについても、町政当局の責任が追及された。 こうして、一九一一年のプファッフェンベルクの町政選挙は、この町のいわば旦那衆1いずれも大農規模の土地 をもつ大きな営業者1を頂点として戦われ、そこでの最大の争点となったのは、これまでの、あるいは将来なさる べき地位の濫用であり、それによる町の財政負担の増大の問題であった。まさしく、地方政治そのものをめぐって選 挙戦はたたかわれた、といえよう。 47 ② 選挙の結果は、ガンドルファー派の圧勝をもって終った。﹃・︵・ユンヒェン報知﹄一九=年十二月二十三日号所載 のプファッフェンベルク発の記事によると、わが町役場における﹁黒い権力﹂打破に結集した﹁自由な市民たち﹂は 輝しい勝利を収め、空席とな.た=ハの椅子の内西を獲得︵侵の中には町長の椅子も含まれていた、。れに対し て﹁黒派﹂は参事会員の二議席を維持しえたにとどまった、という。 当時の選挙規定に従えば、この選挙でも、まず、町議会議員OΦ8ΦぎαΦげoくo昌旨ぎ窪一σq8H︵任期九年、三年毎に定員 いで、その補欠︵町議会議員の三分の一︶六名を、同様にして選挙したはずである。一九一一年のバイエルン地方自 iプファッフェンベルクの場合一八名 の三分の一を改選︶六名を、町の﹁市民﹂たちが六名連記で選挙し、次 選挙の投票者五八名︵同、三二八︶であった。このあと、新しい町議会ー非改選一二名と新たに選ばれた六名とか 治体選挙の統計によると、この町の有権者八三名中、町議会議員選挙の投票者七七名︵有効投票数四五五︶、補欠の ら成る が、参事会員︵任期六年、三年毎に定員 プファッフェンベルクの場合六名 の半数を改選︶三名、 次いで町長︵任期六年︶一名、の選挙を行うこととなるが︵この時、町長や参事会員に選ばれた町議会議員のあと は﹁補欠﹂から補われるわけである︶、この町の参事会員選挙では、有権者一八名中投票者一七名︵有効投票数五一︶ ︵5︶ であった。 し、この選挙後、一九=一年前半に何回か行われている町議会ないし参事会の会合の出席者をつきあわせると、非改 この選挙の結果は、カール・ガンドルファーの町長当選ということ以外は、資料にはっきりとは出て来ない。しか 選をも含めたその顔触れが明らかとなる。これを、新町長を含め、それぞれの土地所有規模の順に示すと、次の通り であ・た︵数字は通し番.写、傍線は、百由な市民の馨奢曇Lのビ.フに載。た嬬候補者︶。 町長 力ール・ガンドルファー︵5︶︵但し、彼の町長就任は、反対派の妨害工作で直ちには実現せず、翌年の四 月下旬まで持ちこされた。︶ ︵90︶、バスマン 参事会員 工ーグルホーファー︵25︶、ヴェレ︵41︶、ロートダウシャ!︵59︶、ヴィーデマン︵84︶、カインツ 48 町議会議員 バウドレクスラー︵2︶、ケルビンガi︵7︶、シュテーガー︵10︶、グシュナイディンガー︵13︶、図 ユミット︵16︶、モントシャイン︵19︶、ルーガー︵24︶、ウンターパイントナー︵29︶、ヨーゼフ・ザルツベルガ ︵44︶、シュニールレ︵45︶、ヘルマンスキルヒナー︵52︶、ウルバーン︵70︶、レーデラi︵脳︶ ー︵30︶、ショレラー︵35︶、シュトゥルム︵36︶、ノイマイヤi︵40︶、ヒルマイヤー︵43︶、レングターラ ︵7︶ 参事会員としては、ガンドルファー派の医師バスマンに対して、シュテットナi派からは、商人ロ!トダウシャ ー、同、ヴィーデマン、絵師カインツの三名が席を占あた︵おそらくこの内の二名が今回の選挙での同派の当選者で あろう︶。他の二名︵ブリキ職のエーグルホーファーとガラス職兼錫職のヴェレーいずれも小農規模︶の党派別は不 明であるが、参事会での態度などから、確然たるガンドルファi派でなかったことは明らかで、どちらかといえばシ ュテットナー派寄りであったように思われる。これらの参事会員の内、シュテットナー派の前記三者は、一九一二年 ︵8︶ の半ば頃参事会を脱退している。 さて、参事会員では、このように、商人と手工業者とが各二名を占め、これに医師、絵師が加わっていたが、これ に対して、町議会議員では、手工業者が一二名できわ立って多く、その中でも、中小農規模の手工業者が零細規模の それを圧していた。このほかは、大きな醸造酒場とただの酒場の主人が各一、農家が二︵但し、一人は煙突掃除師で もあった︶、音楽師一、不明︵獣医大尉の子︶一であった。 おそらくシュテットナー派三名の参事会員の脱退後、そしておそらくグシュナイディンガー︵ガンドルファ!派︶と この内、中農規模の靱革職モントシャインは、熱心なガンドルファ:派で、一九一二年半ばには、参事会員にー で、他方ウンターパイントナーはシュテットナー派の有力者であったが、その他の町議会議員の党派別は明らかでな ともに−選ばれている。このほか、シュテーガー、シュミット、ヒルマイヤー、レーデラーがガンドルファー派 い。しかし、シュテットナーの率いる参事会が反対一名1おそらくバスマンーで決定した、学校独自の入口︵階 段︶の建設案を、町議会が一九一二年三月二日の会合で出席一四議員の全員一致でその決定に反対していることから ︵欠席は、ウンターパイントナーのほか、ケルビンガー、ショレラー、ヘルマンスキルヒナー︶、これら一四名の中に は確然たるシュテットナー派はいなかったと考えられる。しかし、また、この案が再度かけられた三月十七日の参事 49 会との合同の会合では、町議会はこれを一〇対六で可決していることから︵欠席はバウドレクスラーとシュテーガ ー︶、町議会内の確然たるガンドルファi派も、七、八名を越えるものではなかったといえよう。そのさい、同派の ていることは、両派の対立の激しさの一端を示すものであった。いずれにせよ、ガンドルファー派は、一九=年の モントシャインが、この日の議事進行を不満として議事録に署名せず、のち郡役所にこの日の決定の取り消しを求め ︵9︶ 町政選挙で大きな勝利をおさめたとはいえ、参事会はもとより町議会でも優位に立ったわけではなかったのである。 そしてそのことは、すでに、参事会員の選挙が示したところでもあった。 ところで、この選挙から一年あまりののち、バイエルン農民同盟の新聞﹃ランダウ民報﹄に載った﹁プファッフェ ンベルク、︵一九一三年︶二月十六日﹂発の記事は、この選挙戦が、中央党系の町政当局に対する﹁自由を尊ぶすべ ての党の緊密なファランクスΦすΦσqoの。三〇ωωΦ口Φ℃﹃巴帥p×絵日岳oゴ臼沖Φ津Φ三一〇ゴ①⇒剛餌二Φδ口﹂の戦いであったことを指 ︵10︶ 摘している。すなわち、本節冒頭の﹁黒い権力﹂、﹁黒派﹂の支配とは、中央党系の支配のことにほかならなかρた。 たとしても、しかしまた、必ずしもそれだけにとどまるものではなかったこととなる。それでは、ガンドルファー兄 とすれば、一九=年のプファッフェンベルク町政選挙は、それが何よりもまず町政のありようをめぐる戦いであっ か。 弟は、一九〇五年十月八日のプファッフェンベルク人民集会ののち、どのように政治とかかわっていたのであろう ㈹ プファッフェンベルク人民集会ののち、まず政治の世界に乗り出したのは、弟のルートヴィヒ・ガンドルファーで 五日の帝国議会総選挙及び同年五月三十一日のバイエルン下院総選挙に、同党の立候補者として名を連ねることにな あった。人民集会の前後に社会民主党の党員となった、この﹁イルバハの農場所有者﹂は、早くも一九〇七年一月二十 ルハイム囚Φ子Φ巨選挙区から立候補したが、ここでは中央党の候補が一二、二六六票を得て当選、二位︵バイエル る。しかし結果は、いずれも惨たんたるものであった。前者では、彼はマラースドルフ郡を含むほぼ四郡から成るケ ン農民同盟︶はそれからはるかにひきはなされて一、一〇五票、三位︵国民自由党︶⊥ハ=二票で、ルートヴィヒは五 50 四八票にとどまった︵前回一九〇三年の選挙での社会民主党の得票は四〇五票であった︶。この時、東どなりのシュ ワ〇四票︵前回の同党の得票は七三一票︶という結果に終った。ここでも、中央党が一〇、四四九票で㎜位を占 トラウビング選挙区からは、プファッフェンベルク人民集会で司会をつとめたエアハルト・アウアーが出たが、彼も、 め、二位の農民同盟八、五〇五票を破って当選している。ここは、一八九三年以来、帝国議会選挙での農民同盟の数 ︵11︶ 少い当選区となっていたから、同党は手痛い敗北を喫したことになる。結局この選挙では、バイエルン農民同盟は、 当選者がゼロという結党以来最悪の事態を迎えるのである。 この帝国議会選挙は、いうまでもなく、ドイツ領南西アフリカにおけるホッテントット族の蜂起に対するドイツ帝 国主義の鎮圧戦の戦費を社会民主党、中央党、ポーランド党が拒否し、前年の十二月十三日にこれを否決した機会をと らえて、帝国宰相ビューロ 切①嵩げ胃島く゜bd巳o≦が議会を解散したことに発するものであった。バイエルン社会民主 プンプヴイルトシヤフト 党は、これを﹁個人統治﹂の発露としてとらえるとともに、﹁食料価格の騰貴、荒廃をもたらす借金財政、大衆に重 ︵ 1 2 ︶ くのしかかる間接税のいっそうの増大、帝国主義的海外政策、という気違いじみた路線﹂を阻止する戦いとして選挙 戦を展開したのであった。そして、続くバイエルン下院選挙では、同党は、﹁すべての人々に自由とパンと教養を! ︵13︶ 弱者に保護を!強い肩に重い負担を!﹂のスローガンを掲げて戦うこととなる。 ルートヴィヒ・ガンドルファーは、この選挙では、マラースドルフ郡西方のケルハイム郡のみから成るケルハイム で七六票にとどまった。マラースドルフ郡等三郡から成る二人区のマラースドルフ選挙区からは、党指導者ゲオル 選挙区から立候補している。ここでも中央党が二、七九八票を得て圧勝し︵二位の農民同盟は五九九票︶、彼は四位 ク・フォン・フォルマルほか一人が出たが、それぞれ七九票、七三票を得ただけであった。︵但し、フォルマルは、 ミュンヒェン第十二区からひき続き当選している。アゥアーは、シュトラウビング選挙区から出、ここでは落選した ︵14︶ が、ミュンヒェン第九区で初当選を果した。︶ さて、これらの選挙でルートヴィヒ・ガンドルファーがどのような選挙戦を行ったかは、明らかでない。それに一 つの示唆を与えているのは、﹃ミュンヒェン報知﹄五月三十/三十一日号に載った﹁農民と官僚bd窪巽暮仙ゆ自Φ窪町讐﹂ ︵15︶ という記事であろう。これは、ケルハイム近郊の一農村、グロンスドルフ○同8巴o焦村での話で、この春、その村 51 一、 の道路が砕いた玄武岩で新たに舗装されたが、当地の農民たちは毎日牡牛を引いてそこを行かなければならず、その ため牡牛が足を痛め働けなくなってしまった。そこで彼らは、道路に砂をまくか地ならしをしてもらおうと郡役所に 出かけたが、郡長から、﹁そんなことはわしに関係ない!﹂とどやしつけられ、すげなく追い払われた、というので ある。この記事の筆者は、続けて次のように記している。 ﹁こうした取り扱いに唖然としてロもきけなくなったこの人々は、しばらくは立ちつくし頭を振っていたが、それ から、この、彼らが正当に受けとめてもらえるものと思ってやって来た建物を去っていった。彼らはしかし、今で は、人が農民から税金を要求したり、自由主義派の弁士が農民の票をだまし取ろうとしたりする時は農民を思い出す が、農村の住民が役所にやって来ると、うぬぼれの強い官僚にどなり散らされ、ほおり出されるということを、身に しみて知っているのである。五月三十一日には、こうした取り扱いをされた農民たちは、社会民主党の投票用紙をも ってこれに応えるであろう。農民もまた役所の中で国家市民として敬意を払われることを求ある、他のすべての人々 も、社会民主党に投票されんことを。﹂ この記事にルートヴィヒが何らかの形でかかわっていたかどうかは必らずしも明らかでないが、これに、一九〇五 年四月十三日のマラースドルフ郡役所での事件と、同年十月八日のプファッフェンベルク人民集会とを重ね合わせて 読むことは許されるであろう。 ・の記事の載った同じ第七面には、﹁プファッフェンベルクの司祭発りつ記事が載っている。。れは、同紙五月 の 記 事 選 挙 宣 伝 冨 什 凶 帥 言 Φ ご で あ っ 二 十 四 日号 ﹁ 説 教 壇 での 芝 鋤 三 ⇔ σq 8 讐 h 畠 窪囚 を 受 け た 記事 た が 、この後者によれ ば、プファッフェンベルクの司祭が五月十二日︵日曜日︶の説教のさい、社会民主党をはげしく攻撃し、社会民主主 義者は、﹁神も悪魔も信じない、働くことが嫌いなろくでなしであり、彼らの五感はごちゃごちゃになっているから、 気違い病院に入れるのが一番よい﹂と誹諺したという。 当時、バイエルン社会民主党が、農村での宣伝をどのような方向で行なおうとしていたかについては、やや古い −これは元来、北バイエルン社会民主党の機関紙﹃フランケン日報閏鐡口猷需ゴ⑦↓四Gq窃℃oω直に農村から寄せられ九 が、同紙一九〇六年四月四日号所載の記事﹁北バイエルン地域での宣伝に寄せてN霞﹀σq冨ま口冒09。ロZ。.仙げp団。.口﹂ 52 ものであったーが、その一端を明らかにしている。この記事は、ルートヴィヒ・ガンドルファーの活動にも光を投 ︵17︶ ハイムアルバイタ シャフト げかけているように思われるので、次にいささか詳しく紹介しておくこととしたい。 ︵18︶ そこでは、まず、バイエルン邦議会︵下院︶への直接選挙権の導入とともに、農村でのより活発な宣伝活動の問題が 再び前面に登場してきた、とされる。この宣伝は、家内労働者層にのみ限定されるものであってはならず、農業に雇 われている労働者、また小土地所有者にも拡げられなければならない。第一のグループは、我々にとりよく耕すこと のできる土壌である。しかし、これまで党は、オーバーフランケンン︵北バイエルン東部の県︶の織布工村で社会民 ヴエ バ ドルフ 民層の間での宣伝については、党内で意見が分れていよう。多くの者は、そんなことは何の役にも立たないと信じ込 主主義の理念を宣伝することに真剣に取り組んで来なかった。そこでまず必要なことは、口頭による宣伝である。農 んでいようが、自分はそうは思わない。たしかに、農民層全体を一撃のもとに﹁つかむ℃8冨昌﹂ことはできないで クラインパウア の工場労働者よりも悪いのだ。こうした人々には農民的日傭いげ費①島静Φ↓鋤σqδぎ窪も加えなければならないが、 あろう。我々はまず、小農から始めなければならない。彼らは実さい完全にプロレタリア化し、その生活条件は多く そこでの第一の任務は、彼らにそもそも政治についての概念、彼らの国家市民としての諸権利についての概念をわか らせることである。彼らは、司祭が望む通りに投票する カトリックは中央党に、。フロテスタントは自由主義派 に。彼らは、社会民主主義者をそもそもキリスト者とは思っていない。この考えをまず根絶しなければならない。我 が党の同志たち、大ていは都市か工業地帯で生れ育った同志たちは、ごくわずかを除いて、農村の住民がいかに宗教 的な偏見にとらわれているかを知らない。宗教と政治とは相互に全く独立でなければならないことを、党にとっては としてではなく﹁国家市民﹂として、﹁人間﹂として、社会民主党に自分の場を見出したのであった。そして、社会 ルートヴィヒ・ガンドルファーは、﹁小農﹂ではなく﹁農場所有者﹂であったが、彼はまさしく、﹁農民﹂そのもの 党からよりも社会民主党から多くのものを得るのである。ー に、我々は彼らを農民として獲得することはできない。しかし、国家市民として、人間として、彼らは他のいかなる ば、農村にも強力な部隊が生れることであろう。我々は農民層に何も提供できない、というのは正しくない。たしか その支持者がいかなる宗派≦08﹃Φヨ同呂σq野窪切Φ犀窪p9尻に属するかはどうでもよいものであることを彼らが知れ 53 マラースドルフ郡とランツフート郡との境のあたりの小さな村で催された、この一帯で初の社会民主党主催の集会 民主党の数少い農民活動家としての彼の活動の根本も、この点に定められていたように思われる。一九一一年半ば、 事﹁種々の妨害を受けた集会国すΦ<臼器日巨8σq巨酔缶言qΦ巨一ωω窪﹂によると、この集会の経過は次のようであった。 は、そうした彼の姿をかいまみせてくれるものといえよう。﹃ミュンヒェン報知﹄一九一一年六月十日号に載った記 ︵19︶ たちはそこの学校に三十分の道のりを喜んで通っていた。およそ十五年前、オーバーケルンバハでは学校の新築が必 シュ ルゲマインデ 住民八〇名のこのヘルスコーフェン缶o﹃吋Oh窪村は、元からオーバーケルンバハ○げΦ蒔oぎげ碧ゴ学区に属し、子供 要になり、この村の人々も、新築のための借金の返済を共に負担してきた。ところが、ようやく返済が済んだ今にな って、今度は、モースタンζ。o。。跨p目学区に編入されたが、この学校はそれには小さすぎるとわかり、学校を新築 するということにな?た。こうしてこの村の人々は、またまた重い負担を負わされることになった。彼らはかかる暴挙 をおしとどあようと手だてをつくしたが無駄であった。この地域選出の下院議員たるランツフート地方裁判所判事フ ァウナー閃鋤§興︵芝ま巴目中央党所属ー三宅︶に窮状を訴えたが、取り合ってもらえなかった。こうして、絶望した シ言ツスグート︵20︶ シ言ツスブヲゥエライ 村民たちは、社会民主党の集会をもつことを決定したのである。これに対して、集会の会場とされた酒場の主人には、ま それが失敗すると今度は、集会の前日、聖霊降臨祭の日、助任司祭が酒場に現われ、主人にホールを貸すのを拒否するよ ずオーバーケルンバハの館の農場の管理者から、その醸造所のビールの供給をさしとめるという圧力が加えられたが、 う求めるとともに、居合わせた農民たちに、教会による埋葬を拒否すると脅迫した。農民たちはこれに応酬したが、結 ︵21︶ 局、酒場の主人から、ランツフートの同志フーバー缶ロげ臼と、この時プファッフェンベルクに滞在していた弁士の 下院議員フランツ・シュミット国屋自ω。ゴ巳葺︵ミュンヒェン︶とのところに拒絶の電報が打たれた。しかしこの夜、 農民たちからフーバーのもとに、来てほしい、集会には野原がある、という手紙が届けられ、翌日、集会が開催され ミット議員は、邦議会・帝国議会におけるブルジョワ政党の人民に対する裏切り的な策動をきびしく論難し、かつ、 ることとなった。集会では、まず司会のフーバーが、キリスト教の黒幕のホール閉め出し策動を弾該した。弁士シュ フーバーが地区の状態を論じたあと、討論では、イーザル河畔のヴェルト乏曾臣紆の僧侶が、中世の教皇たちの権 社会民主党の、言うところの農民と宗教とへの敵対性、という神話を打ち砕いて、嵐のような拍手を受けた。次いで 54 エルトでの最近の農民協会の集会では、そこに出席しているべきはずの多くの農民たちの姿が見えなかったと言わな 力と栄光、原罪、奴隷制、︵キリスト教︶農民協会について説教したが、彼はそのさいこう述べた。﹁遺憾ながら、ヴ ければならない﹂、と。︵一人の農民の野次、﹁全くそんな馬鹿ではねえだよ!﹂︶。フファッフェンベルクの関税屋敷所 とに、今日に至る何世紀もの間の、人民の奴隷化と搾取を弾該した。シュミットの力強い結語のあと、司会フーバー アウスポイトウング 有者、同志ガンドルファーは、この僧侶の不明確な歴史叙述に興味深く立ち入り、そして、とどろくような拍手のも クネヒトウング は集会を閉じた。 この集会の当時、ルートヴィヒ・ガンドルファーは、翌年一月の帝国議会総選挙に向けて、再びーマラースドル フ郡を含む ケルハイム選挙区から立候補していた。それ故、彼が一九=年十二月のプファッフェンベルク町政 ︵22︶ 選挙に向けて﹁自由な市民の選挙委員会﹂の呼びかけを起草した時、彼は、この地域の社会民主党の立候補者だった ことになる。この選挙の結果は、次の通りであった。 プリヴアテイ ル シュタインドル閃話自×四く霞鱒①冒已︵中央党、﹁資産・金利生活者﹂︶:⋮⋮⋮⋮:⋮・::⋮⋮⋮⋮一一、一六一票 ガストヴイルト ヱコノ ム シュミット竃。・時島ωoげ目達︵農民同盟、﹁酒場の主人・農業者﹂︶⋮⋮⋮⋮⋮⋮・⋮−⋮⋮⋮⋮⋮・−⋮二、五七四票 ︵23︶ ガンドルファーい鼠惹σqO。民。臥臼︵社会民主党、﹁農場所有者﹂︶⋮⋮⋮:⋮⋮⋮・⋮:⋮⋮⋮⋮⋮・・⋮:七三七票 この時、プファッフェンベルクでは、ルートヴィヒ・ガンドルファーは、投票総数一六九票の内、六六票を獲得 ︵24︶ し、シュタインドルの九四票に迫っていた。農民同盟のシュミットは、ここでは九票にとどまった。 ω 他方、ルートヴィヒの兄、カール・ガンドルファーは、この頃、バイエルン農民同盟の活動家となっていた。かつ て中央党系のキリスト教農民協会のプファッフェンベルク地区代表者であった彼が、農民協会を去って農民同盟へと ︵25︶ シユタツトププアルプレ デイガ 転じたのは、同党のバイエルン下院選挙立候補者の決定をめぐる不満からであった。二人区であるマラースドルフ選 でのシュトラウビング選挙区−当時はマラースドルフ郡はここに含まれていたーからの当選に続いて、 一九〇七 挙区では、シュトラウビング市教区説教師のヤーコプ・ヴァーグナi 智犀oげ芝山σQ需Hが、 一九〇五年七月の総選挙 55 ていた。カール・ガンドルファーはこのヴァーグナーの立候補に反対し、敗れて同党を離れたという。これが一九〇 年五月の総選挙で当選して以来、一九=二年の栄転による辞職まで、同じ中央党所属の他の一名とともに議席を占め 七年の総選挙の時のことであったことは、ほとんど確実と考えられる。一九〇五年の総選挙では、彼は選挙後も農民 協会の地区代表者であったし、また、彼がヴァーグナーに反対した時彼はプファッフェンベルク町議会議長であった とされていることから、このことは、彼が町議会議長ではなくなった一九〇八年の町政選挙以後の、一九一二年の総 選挙の時のことでは絶対ありえないからである。 が三、九六七票を得て、中央党が二議席を独占したが、農民同盟も、ヴァインツィールルΩ8お≦①言号昌︵﹁醸造所 この一九〇七年の総選挙では、ヴァーグナーが四、○〇四票、同じ中央党のクリンナー閃轟言囚ユ目臼︵﹁農業者﹂︶ 所有者﹂︶とエーブナiZ涛。国ロω国げ昌曾︵﹁酒場の主人﹂︶がそれぞれ、二、八三一票、二、八二三票を獲得し、これ ガ ス トヴイ ル ト を追っていたことが注目される。この時、プファッフェンベルクでは、クリンナーは四九票を得、農民同盟の二者の ︵26︶ ︵27︶ 各三三票を大きく引き離していたが、ヴァーグナーは逆にこれを下回り、二二票にとどまった。ここにも、カール・ ガンドルファーがヴァーグナー批判にまわったということが影を落としているように思われる。 ガンドルファーのヴァーグナー批判がどのような内容のものであったかは明らかでない。ここで注目されるのは、 四/〇五年以降あらわとなった同党内の保守派とゲオルク・ハイム︵﹁農民博士﹂︶派との対立が一つの頂点に達した 当時、バイエルンの中央党内で進行しつつあった深刻な対立であろう。そもそも一九〇七年のこの総選挙は、一九〇 る。ハイム自身も、その選挙区、オーバープファルツ県のケムナート選挙区で保守派の挑戦を受けている。彼はこれ 選挙であった。この選挙では、一人区でも二二の選挙区で中央党から二名が立候補するという事態が現出したのであ の候補者は、時の首相ポーデヴィルス男爵ΩΦヨ⑦口ω甲①臣①旨く8℃o畠Φ≦串。。−∪母巳Nと﹁君・僕﹂の仲の貴族、マル には圧勝をもって応えることができたが、彼が強く推したオーバーフランケン県のバンベルク第二選挙区︵農村区︶ ゼン男爵甲Φ庁Φ霞囚o震巴くo口ζ巴ω①p,≦巴山賦同昏の再選を阻むことに失敗する。この選挙の結果、すでに一九〇五 年の総選挙以来、党下院議員団内でおされ気味であったハイム派は完全に少数派にてん落し、ハイムは幹部会を去る こととなるのである。 ︵28︶ 56 プファッフェンベルクのある二iダーバイエルン県では・パッサウ訂毅慶聖堂劃箏バ昏民のピヒラー博士串9。口N ωΦ鑓嘗鵠。匡醇がハイム追い落としの先頭に立ったが、その影響下にあった同県農民協会は、一九〇五年、ハイム指導 下の、レーゲンスブルクを本部とする中央協同組合を離脱して、独自の協同組合を設立した。そして、翌一九〇六年 の秋には、二1ダーバイエルン県中央党の機関に迫つて、選挙戦でハイムに演説させないという彼の提案を貫徹する ・とに成功する。〒ダ夫イエル・は、かつてハイムが、ここを発祥の肇する餐同盟に対抗して中央党のため に最大の成功を収めたところであっただけに、彼の受けた衝撃は大きかった。 こうした過程が、カール・ガンドルファーに深い印象を与えていたことは、彼も深くかかわっていた一九〇五年十 月八日のプファッフェンベルク人民集会、その激しい地方当局批判を思えば、想像に難くないところであろう。そし て、マラ!スドルフ選挙区での中央党候補者をめぐるカール・ガンドルファーの異議申立てとその敗北も、こうした がその勢威を中央党内で失墜させていく過程は、また、マラースドルフ郡当局と対立したカール・ガンドルファーが 文脈の中で理解さるべきもののように思われる。すなわち、バイエルン地方当局者の﹁パシャ﹂性を批判したハイム のさい農民同盟に自分の場を求めるのだが、ここで注目されるのは、ハイムの動きについて一九〇六年夏にひろまっ 同党内で活躍する余地が失われていく過程でもあったのである。彼はこうして、中央党を去ることとなった。彼はそ 羨のようなううわさであろう。すなわち、ハイムが、それまで激しく対立してきた餐同盟に接近し、同諾指導 イム自身は結局中央党にとどまったとはいえ、カール・ガンドルファーが農民同盟へと転じたことは、一つの自然の 者メミンガー︵アントーン︶諺p8昌ζΦヨヨぎαq臼と新党設立について交渉した、といううわさが流れたのである。ハ 成り行きであったといえよう。 彼にとって、その活動の場として社会民主党が問題とならなかったことは、彼が、田舎町プファッフェンベルクの 最大の企業家で、大農規模の農家でもあったこと、そして町議会議長として町政にもあずかっていたことを考えれ ば、 同じく大農規模の農家であった弟のル!トヴィヒが同党の熱心な活動家となっていたことを除けばi、と りたてて問題とするまでもないと・ろであろう。しかし、社会民主党の機関紙﹃・、。ンヒェン報知﹄一九︵﹃︶奪+月 十二日号がバイエルン下院での食肉騰貴をめぐる論戦におけるゲオルク・ハイムの演説に対して行った批判は、この 57 点ともかかわって、ここで触れておくに値するもののように思われる。 ラーの代表する中央党の教権主義的・保守的農業政策の農民への敵対性をハイムが認めた、とする。ハイムは、この ク レ リ カ レ ﹁農民への敵対の告白U器O。ω品巳巳ω山臼切きΦH臥①匿ユω。冨︷こと題するこの﹃ミュンヒェン報知﹄の論説は、ピヒ こし.飼料への関税の廃止、販売の組織化等々を必要としたが、これは、こうした積極的提案に関する限り、ハイム 政策が農民の生産手段をおそるべく騰貴させることを認め、非常手段として、アルゼンチンの食肉の輸入、とうもろ が社会民主主義的に語ったことを意味する。その限りで、彼が、アウアーによって輪郭を与えられた社会民主党の農 業プログラムを承認したことは、全く自然のことであった。しかし彼は、真実を求める政治家の立場に徹底すること ができない。中央党のデマゴーグとして、彼は、社会民主党は農民から土地を取り上げようとしていると述べ、農民 を社会民主党に対してけしかけるのである。 クラインペジツツ 社会民主党は、小所有の収奪を、農民についても、手工業者についても、擁護したことはない。社会民主党の要求 パウエルンレ ゲン は、むしろ、ハイムがー政府を情熱的に非難しこれをハラハラさせつつー農民追放の阻止を要求したのと全く同 一の方向にあるのである。すなわち、社会民主党の要求とはこうである。大土地所有を収奪することーこれは実 さい農民の土地の窃盗と略奪によって形成されたのだー、そしてこの土地を小農及び農業労働者の協同組合 O①⇔oωω曾ω警既8昌くo昌固Φ言げき臼口琶畠い鋤民輿げ葺臼pに引き渡すこと。 は バイエルンにおいてもー農業的所有の一小部分しか形成するものではないので亘る。零細農・小農の大群 この点で我々はもとよりハイムと立場を異にする。ハイムは中・大農の利益のみを擁護する。我々もまた、この層 が今日の経済的諸条件のもとで抵抗力、いな、発展の能力をももつことを示したことを認める。しかしこれらの農民 は、わずかの﹁所有﹂しかもたず、それでは人間にふさわしい生活をかちうることはどうしてもできない。そして、 アイゲントウ ム まさに彼らを救うことは、ハイムの手段をもってしてはできないのである。この﹁所有者﹂たる農業プロレタリアの 大群岳Φω①σq吋。ゆ①ζ。ω゜。Φ恥臼ごげΦ。・欝①民8.、目。巳鷲巳①$鼠費は、逆に、ハイムの保護関税騒ぎω。﹃9N8まΦ嵩凶の結果 もたらされた土地の騰貴によって、土地の追加購入による上昇を妨げられているのである。 ハイムは依然として旧来の関税政策にしがみついている。ピヒラーは、より鋭い嗅覚の持ち主であり、土台から小 58 飼料関税に反対して述べたことは、教権主義的・保守的なユンカー政治全体に該当することなのである。ハイムは、 石を取り除くと全体系が崩れてしまうことをかぎつけている。ハイムが外国の食肉の輸入の必要性について、そして 身、結局のところ、中央党の﹁美しい獣岱9。ωω。﹃9①ゴ臼﹂、﹁外交用の家畜U旦o日讐oロ︿δ﹃﹂たるにすぎないのであ 中央党の農業政策が農民に敵対的なものであることを認めながら、中央党にとどまっている。かくてハイム博士自 る。− これが社会民主党のハイム批判であった。そこには、バイエルン政界におけるハイムの位置が、社会民主党の眼を 通して鋭く照らし出されているように思われる。と同時に、﹁中・大農﹂と社会民主党とを隔てる距離の遠さをこの ヘ ヘ ヘ ヘ へ 然論を明確に却けていることも、このことを変えるものではない。この点では、食糧騰貴への解決策として、湿地 論説から読み取ることも許されるであろう。それがーまさにバイエルン社会民主党の機関紙として1農民没落必 の大々的開発と大農場の分割︾亀鼠冨口σQ︿89。ゆσq葺Φ昌、そこへの農業労働者.奉公人の定住﹀口ω一〇臼巨σq︿。p い⇔巳跨げ舞Φ露巨山望8ωひo冨pによる自ら働く農民群の拡大を提起する、同紙一九一一年十月二十五日号所載のS博 ︵32︶ 士の論文﹁バイエルン農業と物価騰貴Uδげ昌Φ駐9①い器伍註ユm。冨津§畠岳①↓o器屋昌σq﹂も、とりわけそれが、﹁バ の距離を大きく縮めるものではなかったといえよう。この、奉公人の問題については、﹃ミュンヒェン報知﹄は、 一 イエルンの不幸な農業労働制度﹂、すなわち﹁しばしば結婚や定住の機会のないままに一生を通じて農民のもとで僕 碑奉公をする﹂という状態への批判に立つものであっただけに、社会民主党と﹁中.大農﹂︵とりわけその後者︶と 盟の人々は、いつも奉公人不足を嘆いているのだ!﹂と﹁農業者﹂への批判を記したが、こうした論調は、同紙上に 九〇五年+月三+百.写で〒ダ夫イエルン県の農家の捧訟恰貧しい華につい緬れ、﹁それなのに、農民同 しばしば見られるところであった。 かくて、カール・ガンドルファ!は、ハイムとは異なり中央党にはとどまらなかったが、弟のル!トヴィヒともち がって、社会民主党にではなく、農民同盟にその場を求めていくこととなるのである。 ビ ユ ン ド ラ ところで、彼が農民同盟の活動家となった頃、同党はどん底にあえいでいた。一九〇七年の選挙では、帝国議会選 で当選者を全く出せなかっただけではなく、バイエルン下院選でも、一八九九年の八名からその半数に激減した一九 59 〇五年選の四名から、さらに一名減の結果に終った。二iダーバイエルンでは、南部のジンバハω一旨げ⇔。げ選挙区か らの一名だけであった。他方、中央党は、このバイエルン下院選では、三分の二の多数に迫った一九〇五年には及ば なかったが、なお九八名を当選させて、絶対的な優位を維持することができた。新たに農民同盟に転じたカール・ガ ︵34︶ ンドルファーが、一九〇八年末のプファッフェンベルク町政選挙で中央党系の人々から激しい集中攻撃を受け、落選 の憂き目を見たのも、こうした中での出来事であった。 これに対して、一九一一年末の町政選挙は、農民同盟が一九一〇年代にはいって再び上げ潮に転じた中で戦われ た。しかも、当時、バイエルンでは、下院で絶対多数を誇る中央党に対して、他の諸政党の結集が進展しつつあっ た。一九一一年の七月、バイエルン農民同盟は、西南バイエルンのシュヴァーベン県の一選挙区で、バイエルン下院 ︵35︶ 補欠選挙に勝利を収あたが、この選挙戦では、中央党に対して自由主義派が農民同盟と共に戦い、社会民主党も立候 補を取り下げている。そして、同年十一月十四日、社会民主党系の鉄道員組合に対する中央党の強硬な規制措置強化 の要求に端を発して下院が解散されると、﹁中央党多数派を打破すべし﹂というスローガンのもとに、これら諸政党 ︵36︶ は、相互に立候補者を調整する選挙同盟を結んで選挙戦を戦うこととなる。プファッフェンベルク町政選挙で、農民 同盟のカール・ガンドルファー、社会民主党のルートヴィヒ・ガンドルファーの兄弟が、中央党系の﹁町役場多数 派﹂の﹁恣意的統治﹂に対して手を組み、﹁自由な市民の選挙委員会﹂を結成したことは、こうしたバイエルン全体 の動きと響き合うものであったといえよう。かくて、一九一一年のプファッフェンベルク町政選挙における、﹁自由 ︵37︶ を尊ぶすべての党の緊密なファランクス﹂とは、何よりもまず、ガンドルファー兄弟に体現された農民同盟と社会民 主党との緊密な提携にほかならなかった。 刷所所有者﹂︶とヴァーグナーがそれぞれ五、三二一票、五、一五八票を得て、農民同盟のメルツH。訂巨ζΦ話︵﹁農 一九一二年二月五日の下院選挙では、マラースドルフ選挙区からは、中央党のゲスラi甲β。目×p︿霞○似2巽︵﹁印 えて当選した。この時、プファッフェンベルクでは、それぞれ、六三票、六一票と、五五票、五六票という得票数を ︵38︶ 場所有者﹂、三、八七八票︶と自由主義派のエーデルマン国醤9口億巴国山Φぎp旨︵﹁連盟書記﹂、三、四四五票︶とをおさ 60 きなかったのであって、下院選挙は、町議会選挙とは別の結果を示したといわなければならない。そのさい、看過さ 示しでいる。農民同盟は、一九〇七年総選挙の時に比して当地で票を大きく伸ばしたが、なお中央党を抜くことはで いて指摘していることからうかがわれるようにー、僧侶たちがピヒラーとともに集会や新聞において選挙戦をきわ れえないのは、iニーダーバイエルン県知事が内務省にあてた一九一二年二月一日付の報告が帝国議会総選挙につ めて熱心に戦・たということであろ塑その成果は・まさに町政のありようをめぐ・て戦われたプファッフェンベル ク町政選挙より蔑下院肇、そして帝国議会肇でより強く現れたはずだか・りである。稽点か.りすれば、ルート ヴィヒ・ガンドルファーー彼は、兄のカールとは異なり、日曜日にも教会に行かなかったーが、前述のように一 とは、むしろ注目に値することのように思われる。帝国議会には選挙権をもつ労働者たちの間で、社会民主党員たる 九一二年一月の帝国議会選挙で、プファッフェンベルクにおいて六六票を獲得し中央党候補の九四票に迫っていたこ 彼が会を博していた︵ガ・・ルファ良、一九七六.=.三〇︶ということだけ旋︶はなく、百由な市民の馨 委員会﹂における彼の活躍もまた、そのことに一定の寄与をしていたのではなかろうか。 61 ー、ウンターパイントナーの名誉殿損の訴えにもとついて行われたマラースドルフ郡役所におけるルートヴィヒ・ガンドル ラースドルフ郡役所あて一九一㎝年十月二十三日付報告、ルートヴィヒ・ガンドルファー起草のビラに対するシュテットナ ︵3︶b・§薯ぎき§暮N§蜜お・。巨㊤゜・ぎげ・・H婁99プファッフ。ンベルク参事会︵ヵインツ署名︶のマ HOミ旨矯乞N°①①OO︶による。 ︵2>ピ曽凋①やH①。。、どZいb。刈b⊃b。︶、及び、今世紀にはいってからのいくつかの参事会、町議会会合出席者の署名︵ωけ﹀い゜”。や ︵2︶カール・シュテ・トナーについては、ω。耳5Nミ。ぎ罫9・。。。・畠ぎ;N昌。ぎ美..・雪ρその生年は墓碑銘に ょる。なお、以下、参事会員、町議会議員に関する指摘は、一八七五、一八八一、一八九三年の町政選挙の結果の報告 ・徒弟・補助労働者︶を使う建設業者である。 の左官職ミハエル・バーベルであった。ちなみに氏は、第二次大戦後左官職親方となり、現在は二〇名ほどの労働者︵職人 ︵1︶ このビラは、元町長のルーペルト・バーベル氏が所蔵されていたものである。一九=二年生れの氏の父親は、通し番号79 注 の郡役所あて一九=一年一月八日付報告︵以上、ωけ﹀、㌧力①℃﹂①ミお℃ZH°①①OO︶による。 ファー、ウンターパイントナー、ほか二名の尋問調書︵一九一一・一二・二二、同三〇︶、参事会︵シュテットナー署名︶ ︵4︶ミ担Z﹁°b。㊤c。︿。ヨ鱒ω﹁UΦN①ヨげ2ドO拝ω゜吟 ︵5︶ 以上、Ω①oNσQNδσq一①﹁u恥恥§§N§恥§蹴ミ、、§蹄ミ§隣馬§§ミミ<町罎畿ミ遷鴨防αq禽馬音帖§翫譜、o、翫養遷随§誉、 勲ミ跨瓢逡譜謡卜自謎馬恥鶏ミ勘u臼αq.心癖︵お一ト⊃︶噛ω゜α8° b口鳥曾ミ斜㎝゜﹀¢φ己ゆ亀゜目︵ζ茸。冨ミしd巴芝いΦ6N一σqりおb。刈︶−ω゜おoo︷こ凸刈Mおoo中⋮N馬冴鼻、ミ概翁囲゜切a曾ミ跨向勘§ ︵6︶ 卜蒔”Zづ虞刈︿o日b。。。・甘旺一⑩日ρψω゜また、モントシャインの郡役所あて一九一二年四月十九日付文書︵ω什﹀劃菊ob・ ︵7︶ ここに登場しないシュマールホーファーについては、上述すべてを考え合わせると、﹁自由な市民の選挙委員会﹂が町議 HOミ誌”Z﹁°O①OO︶参照。 会議員候補者から彼をおろし、その替わりに別人を立てたとしか考えられないが、この点については今のところ不明という ほかはない。もし以上の推定があたっているとすれば、彼が町長候補力ール・ガンドルファーと﹁兄弟﹂の関係にあったこ とが考慮されたのかも知れない。選挙規定には、参事会員についてだが、こうした親類関係に関する厳しい規定があ ︵8︶ マラースドルフ郡長シュペート98ω℃①昏のニーダーバイエルン県庁内務局あて一九一二年七月八日付報告。ω骨﹀い博 る︵NδσQ﹃おω゜昏ω⑩ご。 即oや一①ミ 目 b ⊃ ” 乞 罫 ① 8 P ︵10︶ 卜蕊゜乞﹃°ωΦ<oヨ日G。°閃oげ歪9﹁H臼ρ¢b⊃噺. ︵9︶ 以上、これらの会合の議事録など、辱ミ゜ ・ ︵15︶ ミ層乞5嵩けくo日ωPFωH]≦巴お08Go°刈゜ ︵14︶ N職跨罫、ミ駄禽勲ミ.bσ黛、馬織§獅臼σq°ωPω.おo。”bo8h° ︵13︶ 尾”Z曇μb⊃H<o目ωO°Fω一゜]≦鉱HOO8ω゜ド 国主義時代の政治−一九〇七年帝国議会選挙を中心に ﹂﹃お茶の水史学﹄=二号︵一九七〇年九月︶、六三頁以下参照。 ︵12︶ ミ゜Z﹁°Hc。<oヨb。卜。°冒口轟﹃目Φ08 ω゜H°当時のドイツ社会民主党全体の動きについては、垂水節子﹁社会民主党と帝 HΦ08ω゜9 ︵11︶ N馬跨罫、ミ蹴a肉qミ魁苛ひbU亀ミ跨ら謎§勲ミ跨職逡款§bロ袋、§§”Hσq°ωΦ︵H8刈︶”ω゜おいミ魑Zいト⊃①︿oヨωい日9口冨 62 ︵17︶ ミ”Z﹁°刈①︿o旨薩匿︾層出おOρω゜㎝゜ ︵16︶ ミリ区﹃°=①︿oヨ詮゜]≦o幽HOミ︵︾島弩αq︶”ω酔﹀炉”①や一①ミ巳”Z﹃°B緋. ︵18︶ これは、中央党と社会民主党との共同の圧力のもとに、自由主義派の抵抗をおさえて、一九〇六年四月六日の邦議会選挙 法で達成された。しかし、この時も、直接税の納付はやはり選挙権の条件とされた。参照、竃9年、識鶏鳶隣§w§ミ鈍ω・ ︵19︶ ミサZ﹁°Hωωくo日H9冒巳HO目りω゜9 αωω”癖㊤りh ︵20︶ ヨリ詳しくはoo。三〇ゆσq三国ohげ巽σqび90げ①時o一ぎ冨oゲのことで、当時、世襲の上院議員マックス・フォン・アルコ・アウ フ・ヴァリ伯爵O益h竃貴くop︾﹁89焦くo=畠︵昌c。O①ー一〇ω吟︶の世襲財産の一部をなしていた。総面積は四二八・七八㎞ ︵内、耕地一〇五㎞、採草地五〇㎞、林地二七一㎞︶、馬一〇頭、牡牛一六頭、牝牛三七頭、若い牝牛一六頭、若い雄牛七頭、 ≧訂8窪”卜§靴ミ頓§糺沁馬αQ爵、§偽§切aセミ斜ω誌①b。°ちなみに、この津醤匙い§︸に出ている彼の所有地の総計は二、 そしてビール醸造所を付設する大農場であった。建遷戚寒匙譜砺隣ミ6ミ§Q、§織い§濤題§bu遷ミ蕊︵δO刈︶・ω・ドO①︷∴ ︵21︶ このフーバーは、一九〇七年の下院選挙にランツフート選挙区から、そして一九一二年の帝国議会選挙にはプファルキル 八六六㎞で、その大部分︵二、四八〇㎞︶が世襲財産であった。 ヒェン団︷碧蒔貯。ゴ①⇒選挙区から出たランツフートの﹁酒場の主人O器冒一二﹂ヨーゼフ・フーバー旨o器℃ゴ缶ロげ興のこと と思われる。 ︵23︶ N魁冴ら潮、ミ靴禽勲ミ.卜恥醤匙恥惹§盆匂σq°濠︵お這︶”ω﹂b⊃bσb。° ︵22︶ 篭”Z機゜窪くoヨ鼠゜]≦普NH¢=° ︵24︶ 第二章注31と同じ。 ︵26︶ N無勘ミ、ミ翫跨勲ミ’bu袋、恥匙§︾旨σq’ωΦ︵ド8刈γω゜bgOO° ︵25︶ 卜蕊”乞きHOc。︿o日H目‘旨.置゜お゜]≦9HOHρω゜H° ︵27︶ 卜蕊り冒H°Hb⊃㎝<09Q◎°臼ロ艮おHG◎”ω.bσ゜ ︵28︶ ]≦αo匡uω.αωo。塗 ︵30︶ ヵΦロ昌①﹁uω゜O⑩゜ ︵29︶ 憲ミ‘ω゜器Φh∴即窪器5Q8、鴫津篤§層ωG8中二日08日一〇︷° 63 別表2 (a)バイエルンにおける帝国議会選挙(1890∼1914) 1893 8 1* 1* 3** 1** 1 1 1 48 48 48 3 1 農業者同盟 バイエルン農民同盟 ドイツ農民同盟 その他の農業グループ 計 48 合 3 4ウ︼噌⊥2 n◎噌⊥ 社会民主党 保 守 党 3 4噌⊥噌⊥4 人民党(民主主義派) 2 48 1912 2 94∩01Q︾噌⊥9一21 左翼自由主義派 9 1907 4ρりnO9臼 Qり2ウ臼0 自由主義諸派 内国民自由党 30 1903 08ハ◎−⊥ ∩ ◎10︶2 00噌⊥ 中 央 党 1898 98 1890 48 * Zeitschrij『t des Stat. Bureaus, Jg.25(1893), S.93 f.にょる。 **Uffenheim農民臨会のHilpertは,選挙後,帝国議会で農民同盟に合流するが,その後 も独自の動きを続けるので,ここでも農民同盟とは区別しておいた。 資料;Hundhamrner, Geschichte des Bayer. Bauernbundes, S.9,31,80,113;Zeitschrift des Stat. Bttreaus, Jg,39 (1907), S.1ff. (b)バイエルン下院選挙(1890∼1914) 保 守 党 農業者同盟 バイエルン農民同盟 2 12 20 5 4 6 2* 1 8* 6* 5* 8* 4* 3* 5 * 4 1占 159 * 159 OOO 諸派・無党派 計 22 1 * その他の農業グループ 合 102 42 ドイツ農民同盟 30 83 44 11 9 1912 157** 163 n◎Qu 社会民主党 1907 70 自由主義諸派 人民党(民主主義派) 1905 4 7 7ハ 01FOQり 中 央 党 1899 8﹁ D 9 2 1893 3 1 163 * Hundhammer, S.86,101,104,114による。 ** @2議席が,得票数の手詰まりから,空席となった。 資料:Max spindler(Hrsg・), Ha加dbueh der baアerischen Geschichte, Bd. IV/2(Mttnchen, 1975),S.1296 f.;M6ckl, Prinzregentenzeit, S.488,532,541,546;Hundhammer, Geschichte des Bayer. Bauernb躍ndes, S.34,86,101, 104,114. 64 ︵32︶ 奪ミ‘2罫卜⊃蔭Q。︿oヨb。㎝.○ぎoげ興おHどω.boh ︵31︶ 尾u乞罫bO零くo巳ドbo’○ぎoび賃一Φ旨りω゜H. ︵33︶ ごZ一&臼げ曙2一ω。冨切9鑑o琶ぎω什..\いミ‘乞昌卜o疇︿oBO。一゜○ζoげ費ドOOgGD°9 ︵34︶ ここで、一八九〇∼一九一四年のバイエルンにおける帝国議会、バイエルン下院総選挙の結果を一括して示しておく︵別 ︵35︶ ロロ巳冨露日①﹁曾O馬逡建ら鳶恥翫a切貸隻馬誌輌き§bコ霜§ミミ醤概恥ひ¢にb。。なお、こうした動きの一つの重要な背景をなした 表2㈲㈲︶。 の機運が次第に高まり、一九一〇年三月、国民自由党を含む﹁自由主義派県連盟協議会﹀ま①一冨σqΦ日①ぎω。冨坤侮Φ=一げ臼9一Φ口 ものとしては、自由主義勢力の退潮の中で、それまでさまざまに分れていたその諸派の間に、一九〇三/〇五年以降、統一 囚﹁①一゜・<巽密巳①﹂が、次いで五月には、左翼自由主義諸派の結集した進歩人民党が結成されたこと、しかも、自由主義陣営 内での左翼自由義派の比重が高まったこと、があった。そのさい看過されえないのは、バイエルン左翼自由主義の中心勢力 をなしていた自由思想人民党が艦隊政策、植民政策の擁護に転じたこと、また、バイエルン政府の文教政策が﹁教権主義 的﹂傾向を強めていたことが、この重要な前提条件となっていたことであろう。幻oぎ帥昌Pミミ貯下さ§§σQ§”ω.㊤中こト。① 中‘ω①唐‘Q。軽融‘ドドω中‘Hb。①中それと同時に、こうしたバイエルン自由主義派の全体としての﹁左﹂への動きに対して、国 民自由党右派が一九︻一年十月、﹁バイエルン帝国党しd昌費一巴ゲ①男①凶。訂冨詳①ごを結成したことも指摘しておかなくてはな らない。バイエルン商業銀行頭取、ミュンヒェン高等裁判所判事、あるいはニュルンベルクの元工場経営者といった人々に 指導されたこの党は、社会民主党に対して中央党との提携を優先していくのであり︵尊ミ‘ω゜辰卜⊃h.︶、ここにも、バイエル ︵36︶ ≧町①o穿堕ω゜bっb◎中∴閏信民ゲ①目ヨ。さω゜ドに⋮ζ9年課ω即 ン保守派総結集の過程の一端を見てとることができよう。 ︵37︶ 一九一二年のドイツ帝国議会選挙に関するベルトラムの研究によれば、バイエルンの下院選挙にあたって社会民主党と自 由主義派県連盟協議会との間で選挙同盟が結ばれたのは一九=一年一月十五日のことであったから、プファッフェンベルク 支配を打破すべく、秘密裡に選挙協定が結ばれている。これは、﹁帝国主義﹂に﹁大衆行動﹂をもって対抗すべきことを打 旬に行われた決選投票に向けて、一月十六日、社会民主党と進歩人民党との問に、中央党と保守党の﹁黒・青ブロック﹂の bQミ逡謳§沁職ら訂ミ頓do§魯専恥μO這︵O富ω①匡o﹁炉這O軽︶匂¢b。ω吟なお、周知のように、帝国議会選挙でも、この月の下 における﹁自由な市民の選挙委員会﹂結成の方がこれより先行していたことになる。匂旨oQ窪じd臼言帥βb蔚きミ§慧§ 65 国.ωoげo話犀ρQミミ畠濤きへ§Nb馬§oミ良遷遣象ー送鴇︵乞o≦鴫o蒔︾H㊤繰いω9窪8国匙一ユo富りH8㎝γややbδbこ①融層N凸即 ち出しつつあった社会民主党内のローザ・ルクセンブルクら左翼急進派の憤激を呼ぶこととなった。Nミ翫‘ψb。漣中いO山二 開◎°・9い莫oヨげ貫σQ”Q題亀§§恥Nミ§誌8bd阜ω︵Ud①島口・○°・計おお︶りω゜OH中‘hOO南‘巳艀中﹂噂とくにω’H同oohま 秀行﹁アントン・バネクークとカール・カウツキー﹂﹃思想﹄六三三号︵一九七七年三月︶、一一八頁も参照。ローザ・ルク ︵38︶ N§逡専ミ§偽9ミ゜卜§織題畠§章匂αq頓置rQ。.b。昏c。°エーデルマンは、間もなく自由主義派から農民同盟に転じ︵卜蒔” センブルクとガンドルファー兄弟、この二つの世界の隔絶を思うべきであろう。 2いμb。㎝<o日ω゜﹄ロ巳お日ω讐ω゜Nでは、この選挙についてもすでに農民同盟としてある︶、革命期には、カール・ガンド ︵39︶ ω梓>r国Φ℃°δco\伊乞N°H=刈︵名ooゲ魯げΦ誌o寓Φ一〇這ヨ一紳ドリδ︶° ルファーと行動を共にすることとなる。 ︵40︶ ガンドルファー氏の話︵一九七六・一二・一︶。 ︵41︶ この点で興味深いのは、ガンドルファー氏︵一九七六・一一・三〇︶がルートヴィヒの親友として挙げたクリストルー 二・三︶、後者が農民同盟であった︵ガンドルファー氏、同上︶ことであろう。二人ともルートヴィヒの学校友達で︵マイ 彼が眼を病んだルートヴィヒに物を読み上げてくれたというーとヒルシュが、前者が社会民主党で︵マイヤー夫人、同一 ヤi夫人、同上︶、後者は、すでにいうまでもなく、かなりの規模の農家で同時に商人であったが、前者、クリストルは、 零細な農家︵Ω髭Φ﹁ ω貯>r園①やμ①ミドb。騙子゜①①OO︶の粉屋︵竃①一げ臼ーω。ゲロ匡ρN§O専§茎ω.OO︶の子で、マ ラースドルフの修道院で補助労働者︵ヴァイクル氏、一九七六・一一・二三︶、主として林業労働者︵バーベル氏、同一二・ って、プファッフェンベルクに○・二三一㎞の土地つきの家︵家番号昌。。く圃︶を購入しているーマラースドルフとプファツ 二︶として働いていた。︵彼は、一九一二年にマラースドルフ村に○・三九九㎞の土地を購入し、一九一七年にはそれを売 フェンベルクの土地税台帳書替帳による。︶こうしたところに、ルートヴィヒを取り巻いていた世界の一端をかいまみるこ とができるよ う に 思 わ れ る 。 お わ り に 一九一一年十二月の町政選挙の結果、プファッフェンベルクの町長となったカール・ガンドルファーは、次いで一 66 選し、バイエルンの政治の舞台に本格的に登場することとなる。 九一三年六月には、バイエルン下院マラースドルフ選挙区の補欠選挙において、中央党の対立候補を僅差で破って当 ガンドルファi氏によれば、父力ール・ガンドルファーは、﹁税金﹂と﹁官僚主義しd母oξ9鼠ω日島への反対﹂から、 政治にはいっていったという︵一九七六・一二・一︶。この選挙戦でガンドルファーの側が問題としたのも、まさに した一九一二年二月のヘルトリング08Hαq甲①ぎ臼﹁くop口①詳一言σq内閣の成立であり、そして、帝国主義的対抗の激 この﹁税金﹂の問題であった。そのさい、その大きな背景をなしたのは、バイエルン保守派総結集の体制の確立を画 ︵1︶ 化の中で進められたドイツ陸海軍の増強、とりわけそれによる民衆の税負担の増大であったが、その考察は、大戦中 のガンドルファー兄弟の考察とともに、別の機会に譲らなければならない。ここでは、最後に、カール・ガンドルフ ァーにおける﹁官僚主義への反対﹂のその後について触れ、稿をひとまず閉じることとしたい。 フ郡の一町村長が郡役所で郡長補から﹁この馬鹿﹂呼ばわりされたことを取り上げ、さらに、マラースドルフ郡役所 ビユルガ マイスタ カール・ガンドルファーは、一九一四年二月二十六日、バイエルン下院の本会議で、農民でもあったマラースドル では、話がしばしば長時間にわたるのに、来た人に椅子が出されないことを指摘したさい、次のように論じた。 、 エアツヴインゲン ︵2︶ しい取り扱いを受けるように政府が配慮しないなら、人々は椅子を自分で無理矢理にも取ることとなろう。﹂ ﹁公衆がマラースドルフ郡役所でーおそらくはトルコのパシャからそうされるようにではなく 人間にふさわ カール・ガンドルフ”、1のこの発言の背後には、あの、一九〇五年十月八日プファッフェンベルク人民集会当時の マラースドルフ郡長プラッハーがその年の末に辞職したのち、︷人おいて一九〇九年に郡長に就任したシュペートが、 ープラッハーと中央党との疎遠な関係とははっきり異なってー、中央党系のシュテットナー派と緊密な関係にあ ︵3︶ ったことに対する根深い不満があった。この不満は、この日、ガンドルファーの発言に先立って、農民同盟の僚友た ︵4︶ ここには、マラースドルフ郡役所も、ガンドルファー兄弟の活動への対抗を通して、バイエルンにおける保守派の総 る、同党議長ゲオルク・アイゼンベルガー○ΦoHσq国ω8げ禽αq興が、彼を代弁する形で表明したところでもあったが、 結集の過程と切り離しがたく結びついていたことが示唆されているように思われる。 しかし、ここでとりわけ注目されるのは、この同じ本会議で、ゲオルク・ハイムの後継者を自任する中央党の新人 67 議員シュリッテンバウアーー彼は、一九一二年五月に行われたオーバーバイエルン県プファッフェンホーフェン 国9中①嘗。暁op選挙区の補欠選挙で初当選を果しバイエルン下院の一員となっていたーから、郡長が、住民や町村長 に対して、﹁手きびしい取り扱い﹂や﹁命令熱囚OBヨき象Φ暑暮﹂をもって﹁パシャのように﹂対するのではなく・ ﹁理蟹る協力﹂の態度をも・て・れに接するよう強く求められ.磐とであろ兎地方当局者の﹁パシ・的﹂態度は・ 党派を越えて、一の問題たり続けていたのである。 カール・ガンドルファーは、農民が﹁自分の土地で自由にかつ力強く存在する︷邑§α犀感皆σq窪︷ω虫昌臼ω鼻亀Φ N偉・搾.Φ口﹂・とを求め三髭層の政治的自立α一Φ・。臣、。7・d・・げ領・・パ・蹄α⋮﹂ー ・藝L叢ん・た撰鳳騨卿 の中にあっても、あらゆる権威からの自立を最も旨とした男であったが、そのさい彼を支えていたのは、国家当局の こうした﹁官僚主義﹂と日々の生活の中で対峠しているという、生活現実としての反﹁官僚主義﹂であったのではな 68 かろうか。しかもそこに、彼と﹁官僚主義﹂との対決を共有しつつ、社会民主党の活動家となっていた、弟ルートヴ ィヒの存在の力も看過しえないように思われる。 このように見て来る時、ルートヴィヒ・ガンドルファーが、マラースドルフ郡長の﹁パシャ的﹂態度への抗議か ら、ミュンヒェンの社会民主党と結びついていった中で開かれた、﹁九〇五年十月八日プファッフェンベルク人民集 会は、バイエルン革命にいたるガンドルファi兄弟の軌跡の出発点に位するものであったといえよう。しかも、この 集会の主題が、国家当局の﹁パシャ的﹂、高圧的態度への抗議にあったことは、一九一八/一九年のドイツ革命の一 つの主要な軽が、行政、とりわけ地方行政の民主化にあり・諏嚢がその担い手であ・.混ことを思う時・きわめて 象徴的な意義を有するもののように思われるのである。 とされたが、中央党が﹁国民政党くo涛ω冨昇①ごたり続けることを望んだハイムの機関紙﹃新ミュンヒェン日報Zoロ畠 によって﹁上院の保守的諸勢力に根ざすところの、ヘルトリング保守結集内閣魯゜。パo塁霞く9鉱く①囚◎目①⇒茸鋤ま奮ヨぎ凶ω8﹁貯ヨ﹂ 政治家を首班として成立したこの内閣は、これへの支持を表明した中央党の機関紙﹃バイエルン速報じd躇Φ﹃一ω島臼国霞凶霞﹄ ︵1︶ ︻九一二年二月のバイエルン下院選挙が示した﹁赤の上げ潮﹂の衝撃のもとにバイエルン政治史上はじめて中央党所属の 注 ζ雪。ぎ費↓勉αq窪舞己によれば、この上院こそ、﹁生れと金の貴族○・げ霞けω・巨山O①缶m﹁聾。パ﹁巴Φ﹂の結集の場にほかなら 捜ま馬ミ、ミ象ミ跨き馬蕊吻、、袋詠ミ、禽謡匙疑罵bσ塁ミ議︵ゆ興=Pおコ︶”ω゜H謡゜ なかった。菊ざゲ費傷国Φ包Φさ轄§識ら謎轄ミ魁肋、“篭畠§§ミ識ミ・肉§馬﹃職奪ごαQ、轟博ミ恥NQ。軌c。iN鵠トbd阜①伍Φ﹁bd馬讐昏恥馬 ︵2︶ 譜、潮a蕊糺ミ爲頓§蹴ミ肉魯ミミ恥、蹴ミ︾い恥恥ミ翫ミ曝§翫aい犠セミ蹄ら譜蕊卜鳥論翫ミ隣3壽ミ゜卜魯嵩ミ畠隣蓬ミ器ミ§ミ謡堕 ︵3︶ 他方、シュペートの側は、シュテットナ!派に対するガンドルファー兄弟の攻撃を﹁新たな﹁プラッハi﹂事件﹂をもく 要§o晦、黛㌧ミ逡謡恥bごミ詩潮鷺uしd亀゜ρω゜O際h° ろむものとしてとらえていた︵シュペートのニーダーバイエルン県庁あて一九=一年四月十七日付報告、9諺到刃①やH①ミ旨” ZμOb。O㎝︶なお、カール・ガンドルファーと郡役所との抗争は一九一四年にはいっても続いており、ニーダーバイエルン県 庁内務局は、マラースドルフ郡役所あての同年四月十一日付の指示で、カール・ガンドルファーが﹁国王の郡役所の長に対 容しえない﹂としている︵鉢ミ゜︶ する度重なる類似の逸脱行為﹂をくり返していることに注目を寄せ、﹁上級官庁の権威のかかるぶしつけな侵害は絶対に許 ︵4︶肉翫︾書u蔑譜冒b§ミ鵡蓬ミ器§ミ§鱒勲§°bσミ゜wb﹂9Pω.窪㎝h ︵6︶卜蒔”Z野曾︿。ヨト、b、.﹀冒一=日♪ω﹂. ︵5︶奪ミ‘ψ①㎝ド ︵7︶ カール・ガンドルファーが一九=二年末、新摂政ルートヴィヒの国王即位に伴う王室予算の大幅引上げに対して、農民同 盟の六議員の中でただ一人これに反対したことは、そのことを端的にさし示しているといえよう。ミ︾い塾箋ミ゜ <Φ跨巴け窪、ぶっきらぼうで命令的な調子訂屋。げ2げΦま三Φ巳醇日o昌、住民の反動的な部分の一面的なーしかし個々には証 住民を扱う態度であり、権威主義的な公務執行餌葺o葺辞Φ﹀ヨ什ω臣腎昌σq、尊大で不当な態度ゴΦ三ω。冨。・勧仁口σq。器。窪Φω はない。非難が主として向けられたのは、これは全く一般的なことであったが、そうした郡長たちが第三級の納税者階層の ﹁その罷免が要求された郡長たちい碧時警①に対する主たる非難は、しかし、職務上の誤ちが証明されたことにあったので はプロイセンの事例に依拠しているが、ここではとくに次の指摘を引用しておきたいと思う。 。。器中‘お癖龍・ドイツ革命における﹁行政の民主化﹂の課題を正面から取り上げたこのコルプの研究は、この問題について ︵8︶ 団げ①﹁冨a囚o迂b紬毎さ魁鷺、ミ鷺§風ミ翫§跨罫§冒蕊§辱oミ隷Nミ。。lN℃︵∪富゜。o己o拝H㊤8︶”ω゜卜⊃自糊卜⊃㎝Φh.b①㎝中‘ 卜鳥蕊叙ミ晦羅ミ鶏§§ミ蕊塾勲ミ野bロミ‘ゆF刈、ω゜刈⑩㊤hいト蕊り乞けbOΦ㎝︿oヨbQ蒔゜∪①N①日げ臼H㊤お℃ω.H︷° 69 明しがたい1優遇、まさに“反動的な立場”そのもの、であった。﹂︵§蹴‘ω゜ω謡︶ イム園o器⇒冨一日︵以上、オーバーバイエルン県︶、プファルキルヒェン℃貯員賦8ゲ窪 ︵ニーダーバイエルン県︶等の郡長 バイエルンについては、アイスナーの暗殺後、一九一九年三月に、アイブリング≧げ嵩口σq、ダッハウU舘訂¢、ローゼンハ ンの場合、その理由は、戦争中における郡長の﹁無慈悲な態度讐叶匿・ωωび警磐δ母﹂と、下層階級からの陳情者に対する彼 b﹂①N一穿器導件Bぎ器同が民衆の圧力で罷めさせられたことが、カーステンの研究の申で指摘されている。プファルキルヒェ の﹁乱暴な取扱い﹁巳Φ葺①舞ヨ①韓﹂であったという。ただし、カーステンは、こうした事例は、非常にしばしば起こった わけではない、としている。国ピ゜O費ω8P肉ミミミ軌§§G§壁匙肉ミ§恥N龍゜。ー送竈︵いo乱opH㊤刈b。︶”やH⑩゜。° この点に関連するものとして、アイに次のような興味深い指摘がある。﹁バイエルンの民衆く。貯にとっては、“精神的な 独力独行の人ω①鼠ヨ巴o旨碧という現象は全く無縁”のものであった。“官僚タイプ山興↓団b牙ωしd$葺窪は⋮:とっ をどう押したら、経師屋とか仕立屋とか錠前屋なんかが、今になって急に、国を治めることができるなどということが出て くのとうから憎まれているが、にもかかわらず、今日でも地方℃8乱目では、こういう声だけがきかれるのである。︿どこ 来るのか。﹀”﹂国費炉い匡山註σq諺ざb鳶肉ミ偽譜訣黛謡頓馬§ミ沁ミミミご鐸b暗ぎ寒跨職§ミ§偽帖蕊b﹂織セ恥ミき貸専§匙“禽 った。 僚政治の壁に守られた支配集①出①凌ω。匿津三三霞α①昌竃碧Φ旨匹費・一σq窪鼠崇σqΦ昌田H。パ§一Φ﹂に終止符を打つことであ ﹁目下の急務﹂の中で﹁真の人民政府﹂の樹立を訴えたさい求めたことの一つは、﹁自分の思いのままに事を運ぼうとする官 これに対して、まさに﹁精神的な独力独行の人﹂カール・ガンドルファーが、あの一九一八年十月二十一日付の呼びかけ のものである 。 ︶ した、一九一八年十二月三日付の、﹁民衆啓蒙のための中央部N窪嘗巴鴇亀Φ囲畔くo貯。・9味匡貯琶σq﹂設立のための覚書から イの二つの引用” ”は、いずれも、エーデルマン︵第三章注38参照︶他一名がバイエルン農民評議会から委嘱されて作成 肉、無§ヌ N暮蔦馬肉馬ひbdユ゜Hα臼bロ無讐昏oq馬捜黛職ミ、ひ焼論o識旨︾§喚壁袋鳶隅、斜醤匙ミ越切黛セミ誠︵国①匡ぎ“HO①Qo︶噛ω゜卜∂OQQ’︵ア 70