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「ダダの運動」に就いて-主として歴史的観点にたって

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「ダダの運動」に就いて-主として歴史的観点にたって
にすぎないにかかわらず、それは﹁こほろぎ﹂の存在と体勢と、そ
いているのか、まったく不明であるが、﹁旅の菜など﹂と単に想像
落葉に降る雨のさむき夕に﹂ないている﹁こほろぎ﹂は、どこにな
リ﹂というなき声がはっきりときこえる感がするのである。司梅の
内容をまとめたものである。
座担当の筆者が昭和四十一年四月と五月にわたり三回連続講義の
なお、この論文は日本大学文理学部にかける﹁文芸作品鑑賞﹂講
茂吉編、昭和十九年五月筑摩書房刊行上下二巻である。
月春陽堂刊行六巻中の第三巻である。また﹁長塚節研究﹂は斉藤
︵付言︶編中言及の文献のうち、﹁長塚節全集﹂は昭和四年十一
抗をも感じさせないのである。
のうごきまでも、あくまでいきいきと描けていると言ってよかろ
にしか受取り得ないのであるが、後者では、あの﹁リ・リ・リ・
う。元来、厨と﹁こほろぎ﹄のとり合せなどは俗にながれた構想と
考えられるものであるが、これほどの作となれば、それは少しの抵
康
﹁ダダの運動﹂に就
づ幸
裕
望的でもあり、ある程度建設的でもあるということである。という
そして、この戦争後の状態の特色ともいえるものは、ある程度絶
いることがみられる。
たって行われる。文学においても、これと同様な現象があらわれて
る以上、時間とともに、何らかのかたちの動きが、すべての領域にわ
滞しているわけではない。人間が生存し、共同体として生活を続け
には、若干の時間が必要である。しかし、その間すべてのものが停
された時、人間の生活する社会は、戦前の平和な状態にかえるため
わ■
事態に直面して、生死をかけた極度の興憤の状態からようやく解放
同様である。戦争という、血で血を洗う、のっぴきならない真剣な
平
ことは云いかえれば、混乱期であると評することもできるかも知れ
67
て
︲l主として歴史的観点にたって
戦争、革命、発明、発見、こうした事象は人間の社会、生活、経済
に大きな影響を与える。大きな戦争の後には、その戦争に何らかの
かたちで巻きこまれた地域、あるいは国に、その影響を受けて、社
今世紀には入って二つの世界大戦がおこったが、この二つの大き
会的経済的な変化がおこっている・
な事象は、あらゆる面で、世界的な規摸において影響を与え、世界
各国にわたって、大きな変化、というより変動がおこった。その変
動は、ある地域では国土にまで及んだものもあるが、そうでない地
られる。
域でも、政治的、社会的、経済的に大なり小なり何らかの変動が見
この事象による影響からおこる変動は文学、芸術の面においても
田
い
社会の進化の過程においておこる変化は文学の上に影響する。大
こうした社会的な変化がおこった時、それ以前の文学作品や作家
ないが、その中には、かなり急進的な要素もみられ、新しい秩序が
がいつの間にかあまりかえりみられなくなり、かつてはその精神的
もたらす。
すおそれが無いでもないが、系統だてることの困難をあえておかす
かてを与えていた作家も、すでに前代に属する作家であるかのよう
きな発明や、経済的な変動、革命や、戦争などは文学に強い影響を
ならば、じゅうぶんに研究の対象となり得るものである。というよ
にみえてくる。こうした作家たちは、すでにその社会的変動期以前
に、個々の事象の目的はひじょうに掴みにくく、またしばしば見落
り、ジンテーゼの要因として、あえて困難をおかしても研究しなけ
生まれるためのアンチテーゼであるということができる。それだけ
ればならない対象である。
の社会的変化によって生じた不安定感、これからおこる新しい欲求
なくなる。また大衆もこの作家たちに求めようとはしなくなる。こ
のものであって、その活動によって現在の人々に与える何物ももた
文学の歴史とは、単なる作品の目録でもなければ、一覧表でもな
どの記述は、いかに詳細に明確に報じられていても、それは単なる
たる一九一四年から一九二○年の間に、フランスの文学界にどんな
の大きな戦争に遭遇している。ここで、この二つの戦争の中間にあ
今世紀にはいって、第一次世界大戦、第二次世界大戦という二つ
にできなくなっている。
や疑問に対して満足な解答をあたえることは、この作家たちはすで
い。文学の歴史は、言語を媒体とする表現形態を通じて思想の動向
をさぐり、あるいは芸術の形態の流れを見いだして、その推移を系
統ずけるものである、と信じる。
年代記にすぎない。とはいえ、文芸作品なくしては、文芸思想も、
著者と作品が何年に発表され、あるいは事件がいつ生じたか、な
運動もありえないのであるから、できるだけ適確にその動向や推移
ことがおこったかを検討してみよう。
第一次世界大戦直前のフランス文学界を冊撤してみると、小説の
の状況の製産者である著者について、その生存の前後についてのす
べての状況の実態の研究を無視することはできない。というより、
分野においては四人のアカデミ作家が君臨していた。すなわちアナ
誤まった情報は応々にして誤まった認識や判断をさせることがあ
ポール・ブールジェ亀豊邑団。p愚g︶、モーリス・・ハレス︵旨自国、
トール・フランス︵缶ロ呉巳珂39①︶、ピエル・ロチ亀尉風①FO陸︶︾
それは必要なことである可
る。正しい認識や判断をするためにこそ、できるだけ多くの資料の
集収が必要になってくるわけであるが、同時に、すでに幾十年、幾
勢力をふるい、劇作ではエドモン・ロスタン箇○冒○呂智の冨昌︶
画質泳巳の四人である。思想の分野ではベルグソン︵国腎鴨目︶が
とその正邪の考証それ自体が、しばしばひじょうに困難をともなう
百年、あるいは幾千年も過去のものであるところのこの資料の集収
ル・フォール弓曾邑句○風︶があった。
が天才的作家としてうたわれた。詩では、一八七二年に生れたポー
やがて戦争が終って平和がきた時、人々は家にかえり、日々のパ
作業ではあっても、文学の歴史の一部門をかたちずくることになっ
てくる。
ンを得るための労働を求めて苛酷なたたかいを強いられる時期がや
68
"
モ・ハレスたちはすでに人々にとって、神の如き存在ではなくなっ
ってきた時、さきの大家たち、すなわち、フランス、ロチ、プールジ
ない。
ダの運動Pのgoロ月日の昌口四目︶の過程も探究されなければなら
・アラゴンP呂箭捧国曾己にも触れたいと思う。
この稿では、ダダの運動についてのべ、この運動に参加したルイ
々にじゅうぶんな精神のかてを与えることはできなくな・っていた。
れたのがその年である。もしそうだとすれば、今年︵一九六六年︶
た。人々はその偶像を他に求めた。これらの大家たちは、もはや人
一九一四年、第一次世界大戦の終結によって多くの若者たちが復
員した。この若者たちは、芸術の殿堂にたてこもる大家たちに満足
は五十年になることになる。
g曾己誌ざ儲ロ馬、胃胃四四胃。ご○弓⑦gp時冨胃興国陣の昏箭8
届のぐ風⑦時]や骨の画の虚①pHのq戸の。︺興一が吟幽箭ご鈍のmのロ計画ぐのgどのの○○口函の
︽今諒除o冨制・旨の日嵐印冨ロ目的胃四四首g弓の毎日gロシロシ行、
ダダが生れたのは一九一六年である。というより、ダダと名命さ
することができなかった。そこに失雲望が生れ、反抗が生れ、否定が
生れ、そして行動と運動が生れた。必然的に、新しい何かを、いま
までとは異る何かを発見し、創造しないではいられなかった。
第一次世界大戦と第二次世界大戦との間の時期におかれた若い作
のの℃閉め四津胃一○四諒弓の嵐閉めの酔画自国Q冨異房も。風鼠のロ量の
日呉ロ鳳画忌呂巴忌gpo屋mpご自普o賃の菌の日の示四曹口の.○の旨
瀞四国シ9
家たちが、こうした不安の中で追究し、行動したものの一つがシユ
ず風○○面①包四員的]画ご四国国の四画ロ○屋興や
ロマンティスム︵”。白き陸切目eもサンポリスム命冨目9房目巴
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ルレアリヌム︵普働8房目巳の運動である。この運動は一九一八
年におこり一九三九年までつづいた。
この時期の、これら若い作家たちの精神、思想、行動を研究する
も正確なたん生の日ずけはわからないが、ダダのたん生はジャン・
ことは、二十世紀前半のフランスの文学研究にとって重要な仕事で
るまでの間に、最も活ばつにおこなわれた文学運動であるシユルレ
この名﹁ダダ﹂を発言した。その時、アルプは十二人の自分の子供
ある。中でも一九一四年以後、第二次世界大戦という大事件がおこ
といっしょにそこにいた。そして、この言葉をきいて、ブリオシュ
になる。チューリッヒのカフェ・テラスで、トリスタン・ツァラが
シユルレアリスムを詳細に研究しようとするならば、いきおい、
︵フランスのパンの一種︶を右の鼻のあなにつっこんだ、というの
アルプの言葉によれば、一九一六年二月八日午後六時頃ということ
キュビスム︵○口豆印日の︶や未来派含貝日演目①︶にまでさかのぼら
である。この時ツァラがいった﹁ダダ﹂が、やがてはわれわれの中
アリスムは、近代文学史の中に大きな転換が行われる過程の一部と
なければならない。若い画家たちや、アポリネール︵シ口呂甘鼠He
して、かなりの比重をもっているといわなければならない。
の若い讃美者たちのあいだに、いかなる理由でこの運動がおこった
のである。
にすばらしい熱狂をまきおこす運動の正統の名となったのだという
ここで、はなはだあやしく思われることは、十二人の子供と、鼻
か、を探究しなければならない。敗戦で瓦解したドイツで、なぜこ
い。トリスタン・ツァラ︵津冨営弓函閏塑︶によって始められたダ
うした連動がおこるべくしておこったかを研究しなげればならな
匡司
パンは手でちぎった破片であるとしても、鼻のあながよほど大きく
のあなにつっこまれたパンであるが、・十三人ほ単に想像だとして、
かしアルプの言葉は、多くの史家によって支持をうげているようで
なければならず、これもすこし誇張があるとしか考えられない。し
しては、いかにもうなずけそうである。
ある。若い人々によって爆発的にうけ入れられたこの運動の仮定と
チ・ユリッヒにおいて、偶然に命名されたこの運動は、アメリカと
ヨーロッパにおいて同時におこっている。、戦後かなりラディカルな
思想がこの両地域におこった↑。まずニューヨークにおいてフランシ
ス・ピカピア︵浮幽冒涜国。号﹄巴とマルセル・デュシャン︵冨画月堅
己屋。冨日gが手を組んだ思想が、ツーノラ・の観念、アルプの観念、1
ゴー。・ハル︵国口噌国邑︶の観念、ユルサンペック︵国邑附日ごgど
の観念に合流した。
これがフランスにはいってきたのは一九二○年の始めであるが、
フランスに影響を与えたのは、やっと一九二二年頃になってからの
ことである。
ルイ・アラゴン、アシドレ・ブルトン︵犀ご骨・団扇ざ己、フィリ
ップ・スウポiル急菖曽冨の8勺目岸︶の三人の若者はパリで、
雑誌・人屋算酔四目Hのvを企画して、その第.一号を一九一九年三月に
発行した。その後﹁ダダ﹂の運動に共鳴してこの若者たちは八隠苧
諒国冨厨vを﹁ダダ﹂の機関誌とした。
精神的な価値はすべて否定する。ダダの倫理、ダダの美学は要す
るにここからはじまる。この運動が文学だけではなく、あらゆる領
域にしんとうすれば、実際の破かい力によって精神の刷新を行うこ
とができる、とダダイストたちは考●えてい雪た。帯
八の貝の黒︲。①e5Qの里ずの四口やの亀の黒も①○屋のqの鼻一旦烏
l国富目。具白畷綴憶国隠
○四号の具討威罰のご巴胃一句gが心○○国国巴、勺尉︾8口ご臼の己閉︾8国ご曽切
C亀の里︲8。p①。㎡鼻胃四口g昏鼻“駐害]亀の巨㎡鼻,8p旨の。㎡里
も四?。g曽昌、口四の。v
美とは何であるか?醜とは何であるか?偉大、強力、劣勢と
は何であるか?カルバンチェ、ルナン、ブォッシュとは何である
か?知らない。何も知らない。リプモン・デセーニュはこう書い
ダダの行動は不真面目でありしかも無関心である。その先導者は
ている。
ピカピアがつとめることが多かった。こうした破廉恥な運動はなが
くは続かなかった。
アラゴンとブルトンは一九二一年にモリス・・ハレス︵富四口は8
国胃融の︶を告発したが、それは”精神の安全保証に対する罪﹂によ
ってであった。しかしこれがダダと別れるきっかけとなり、やがて
ダダの運動からはなれてシユルレアリスム︵呂罵3房日①︶には入
ってゆくことになった。ダダの運動は、鞭実上この年におわった。
ダダについては、二つのことなったものがあって、はっきり区別
しなければならない。その一つはダダの精神であり、他の一つはダ
ダの運動である。この二つは時に同一視されるとはいえ、明かに別
々のものである。とジャック・アンリ・レヴェック︵言β屋の甲国g︲
儲罰尉のぐ8P口の︶はのべている。
八竺旨昌島g冒四馬賦﹄日名ロ︾匙の画四群号ロ”§﹀号pHo冨易の
島常禽g詩い豆のご骨声︾皇$mののo荷具箆の具黙泳朋勤ロロ日冨言
70
・I旨8匡朋︲函の口昌Fいくの昌匡①
。
目白ロの貝”一・冊口風行○四Q凹鼻行目○口ぐの日の口舜・画Q四V.
一,九一二年にダダは終った、とされるもりは、ダダの運動であっ
・苧匂.ザ.毎・ロ.幹今︲・守
て、ダダの精神ではない。“一
︵旨8口研く脚。意︶の目①茸吋厨号困属のqのどの序文をパレスに依
・頼した、といったようなものなど多く語られている。
だしい報導を行っているけれども、多分、その精神については明確
︲サヌイエはこの論文の中で、ダダの運動の歴史についてはおびた
の占める位置はまことに適確にとらえており、シユルレァリスムが
に把握.してはいないようである。とはいえ、その時代におけるダダ
およぼしたよりも、ダダの方が大きい影響を一般に与えていること
ダダの精神は、ダダの運動の以前から存在し、以後にも存在す
る。ダダという名よりさきに生れたダダの精神は、垂ダダの運動が終
すでに亡んだダダは、・サヌイエによって、ふたたび吾々の目の前
を強調している。
,51P色
末を告げて後も、雑誌オルプハ9頁腸vの中に存続する。この雑誌
に開展された。ダ・ダの再発見といえよう。
↑ダダからシユルレアリスムへ、やがて共産主義へ。アラゴン、ブ
は一九三五年まで続いたが、主幹ジャック・アンリ・レヴエックは
きわめて自由に著者を集めており、したがって主張傾向の異った著
者がいるわけで、最も対立したもの、・特異なものなどある中で、最
動は全世界にすぐなからぬ反響をおよぼした。しかし間もなく第二
・ルトンの先導する第一次大戦後の若い世代の作家たちの急進的な活
球をまわり、テレビの宇宙中継が行われた。サルトル命日時の︶、、
次世界大戦がまっていた。第二次は第一次よりもなお世界的であっ
た。原爆が現実におとされた。戦後二十年の今日には人工衛星が地
︵一九六六・五︶
マルセル︵旨胃。堅︶が実存主義をとなえている。かつてのダダイス
ト、アラゴンはわずかに八FmF雰吋①印野呂8厨の印vの主幹とし
て今なお健在である。
参考資料
冨尉淳芯﹃画言肖の司吋四国や巴のの。
○・Pmpgp2嗣弓匡廟H閏巨富四目口座国言い貢①のQ函涜一○時の。①
]の四.伊画門口画QFmF津誌HP↓巨埼の句吋画己や巴の①。寺跨ロ呑口吋里医ロ一・
げo回読渉門四館○貝伊の勺“]の四口。①勺四風い
慮臼の切伊の一首①め珂時四国や画碕の“︾
毎FののZ。旨く堅行の耐騨芯吋画笥の蝿
角Fのいzopぐの三の詞のぐ屋の句H四コつ巴の①弓
︲11!I
71
もダダに近い著者にはジャン・ヴァン・エ以ケランロ照冒ぐ画営
一九一二年に終ったダダの運動については、それから四四年をへ
国用呂の恩巳がある。
び登場してくる。この論文は八口且画少思乱めvと題する六四二ペー
た今日、ミシェル・サヌイエ︵昌一呂座留目ロ窒鼻︶の学位論文に再
ジのものであるが、ひじような労作である。サヌィエはあらゆるも
のを見、あらゆるものを読み、あらゆるものを保存し、ダダの痕跡
6−
をのこすものはすべてたんねんに調べ、参考にした。・
その中には、かってパリのダダイストたちが集った、古いオペラ
一つ八Fの勺昌協ご号勺四国のvの中に詳しく等狸与じている。、
通りの酒場セルタ合の門威︶で見つけた小さな紙片のようなものさえ
もある。この通りのかいわいの情景は、アラゴンが、その代表作の
サヌイエは未発表の手紙を二百通ばか、集め宅い方。︾その手紙や
。L
中にはピカピズッァラ、プルトン、マッグ茨・︽ジャコプー︵星穂罵一
曲戸画P■
荷89、ルヴェルディ︵詞①ぐのaごなどがある。またかわったと迄
ろでは、一九一九年にアンドレ.・ブルトンがジャック・ヴァッシェ↑
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