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大学院医学研究科生命情報分子科学

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大学院医学研究科生命情報分子科学
医学フォーラム
<部 門 紹 介>
大学院医学研究科生命情報分子科学
大学院医学研究科生命情報分子科学は,平成
年に発足したばかりのまだ新しい教室です.
当初は,教養教育生物学教室の佐野護教授(当
時)と物理学教室と合同の教室としてスタート
した.その後,平成 年に生物学教室に小野勝
彦教授が着任された.ちょうどこの頃,木村實
研究部長(当時)を中心として大学院の組織替
えが行われ,基本的には,学部の教室が大学院
の単位となることになり,平成 年度から生物
学教室は神経発生生物学教室になり,物理学教
室は,従来の生命情報分子科学を標榜すること
にした.
物理と情報とは関係があるようではあるがそ
れほど密接ではないと思われているかもしれな
い.しかし,物理は情報と密接に関係してい
る.ここではその辺りについて述べてみたい.
物理学が明らかにした法則で最も大事なもの
はエネルギー保存則であるといっても,異論を
挟む人はいないと思う.ビッグバンで宇宙が誕
生して,その後宇宙は膨張を続け,現在に至っ
ていると考えられている.これは 物語では
なくて,年にベンジャスとウィルソンが
の宇宙背景放射を発見したが,これが膨
張宇宙論の証拠と考えられている.宇宙背景放
射とは,宇宙のあらゆる方向から来る電磁波ノ
イズである.ビッグバン宇宙を最初に唱えたガ
モフは,もしビッグバン宇宙が本当なら,ビッ
グバン直後の光が宇宙背景放射として観測され
るはずと予想した.正にそれが発見されたので
ある.この発見により両名は 年にノーベ
ル物理学賞を受賞している.そして,宇宙が
ビッグバンで始まって以来,エネルギー保存則
は厳密に成立していると考えられている.ここ
でいうエネルギーには,アインシュタインが発
見した特殊相対性理論による =
(は光の
速度)による,エネルギーと質量の等価性も含
まれている.
一方,エネルギー保存則と並んでもう一つと
ても重要な法則がある.熱力学第 法則とか,
エントロピー増大の法則と呼ばれているもので
ある.熱力学は,当初,蒸気機関の効率を上げ
るためにはどうしたらよいかというとても実利
的な動機から出発した.蒸気機関は,その初期
の頃はイギリスの炭坑で漏出して来る水をくみ
上げるために利用されたが,非常に効率が悪
く,ともすると,水をくみ上げるのに,掘り出
した石炭をほとんど使ってしまう程であったと
いう.しかし,世紀には,カルノーが有名な
カルノーサイクルを発見して(
)
,それを梃
にとても強力な理論に成長した.カルノーサイ
クルとは,簡単にいえば,最大効率の理想的な
熱機関である.カルノーはカルノーサイクルを
)
(,高温
通じて,熱機関は効率η=
(
熱源の絶対温度:,低温熱源の絶対温度)を
越えることが出来ないことを証明した.
我々のまわりには熱機関が一杯あるが,すべ
てこのカルノーの原理に従っている.この式に
よれば,例えば,外気温が のとき部屋を
にする理想的なクーラ(ヒートポンプ)は,
実際に放出すべき熱のわずか %のエネル
ギーで運転できることを示している.外気温
から に温度を上げるときも,ほぼ同
じ計算になる.つまり,直接ヒータで加熱する
のに比べたら のエネルギーで同じ暖房が可
能であることを示している.もっとも,現実の
ヒートポンプは,現代でもこれほど効率のいい
ものは作れない.逆にいえば,省エネルギーの
可能性はまだまだあることになる.このカル
ノーサイクルの研究を通じて,エントロピーの
概念が生まれ,熱力学は完成してゆく.エント
ロピー増大の法則は,結局,現実の熱機関はカ
ルノーの理想的な熱機関の効率を越えることは
できないことに由来する.
第 法則に関しては,世紀の理論物理学者
医学フォーラム
マックスウェルは以下のような悪魔を考えた
(
)
.大きな部屋をつの同じ体積の,に
仕切った部屋の間に設けられた小さなドアのと
ころにいて,速い気体分子が飛んで来たとき
は,ドアを開けてその気体分子を の部屋に入
れ,遅いときにはドアを開けない.最初,,
の部屋は同じ温度であったとすると,両方の部
屋内の気体分子の速度分布は同じであるが,こ
の悪魔が働くと,には遅い気体分子が溜まり
(温度が低くなる)
,には速い気体分子が溜
まって高温になる.最初 ,は同じ温度だっ
たが,悪魔が働いて,両方の部屋の間に温度差
が生ずることになる.ここで重要なことは,悪
魔は全くエネルギーを使わずに つの部屋の温
度差を生み出していることである.悪魔が利用
しているのは気体分子の速度が速いか遅いかの
情報だけである.つの部屋の間に温度差があ
れば,その温度差を利用して熱機関を運転し仕
事をさせることが出来る.これは,このような
悪魔がいれば,第 法則を破ることが出来るこ
とを示している.海水の温度の熱エネルギーを
利用して,まったく燃料を補給することなく永
久に航行できる船を造ることが出来ることにな
る.これは永久機関であるが,海水の熱エネル
ギーを利用するので,エネルギー保存則に反し
ている訳ではない.
マックスウェルの悪魔は存在しえない,とす
るために多くの議論が起きた.ブリルアンは,
悪魔が観測する際にエネルギーを受け取るか
ら,上記の議論は成立しない,とした.一方シ
ラードは,分子エンジンを考え,マックスウェ
ルの悪魔に関する議論を更に進めた(
)
.こ
のエンジンはシリンダーの両側にピストンが付
いていて,中央には開け閉めができる仕切りが
ある.中には気体分子が 分子だけ入っている.
このエンジンでは,最初悪魔は観察して分子が
どちらにいるか調べ,中央の仕切りをおろして
分子のいない方のピストンを仕切りまで動か
す.こちらのシリンダーは真空なので
(分子は 個しかないので,分子のない方は真空になって
いる)
,ピストンを動かしても仕事はしない.
そこで仕切りを上げると,ピストンに分子が衝
突して,力を受けて元の位置まで戻る.分子が
ピストンを動かすと分子のエネルギーは減少す
るが,分子はまわりの壁から熱を受け取ってエ
ネルギーを補給される(等温過程)
.こうして,
分子はピストンに対して仕事をする.ピストン
が元の位置まで戻れば,悪魔は,またこのサイ
クルを最初から繰り返して,まわりの熱を仕事
に変換するエンジンを運転できることになる.
何かこのエンジンはうまく動きそうに思える.
しかしうまく動けば,熱から仕事を取り出せる
ことになり,熱力学第 法則は破れてしまう.
ベネットはこの議論に対し,サイクルが終
わった段階で最初の状態に戻るためには,悪魔
は分子がどちらにいたのか忘れなくてはいけな
いことに注意した(
)
.ランダワーは,計算
機が初期化されるときには,発熱することを明
らかにした(
)
.そこで,ベネットは,この
ランダワーの定理を持ち出して,シラードの 分子エンジンでサイクルが初期状態に戻るに
は,悪魔が分子の位置を忘れる必要があり,こ
のときに熱が放出されるから,マックスウェル
の悪魔は存在し得ない,とした.こうして,
マックスウェルの悪魔は,誕生して 年後に
無事に(?)葬られることになった.ちなみに,
当初議論されたような観測に伴ってエネルギー
を不可避的に受け取るから悪魔は仕事ができな
い,という議論は成立しないとされている(エ
ネルギーを受け取らずに観測可能であることが
証明されている)
.
ランダワーは の研究所で,計算機と発熱
との関係を研究していた(ベネットも 研究
所で働いていた)
.彼は,計算は本質的に不可
逆であること,不可逆過程である以上エントロ
ピーは増大し,熱の発生は避けられないと結論
した.計算が不可逆過程であるというのは,容
易に理解できる.例えば,
+
=と
いう計算で,という結果だけを見せられて
も,たとえ正の整数の足し算でそうなったと分
かっていたとしても,足して になる組み合
わせは多数あるので,と を足したとい
うことは分からないからである.しかし,足し
た数の一つが であることを知っていれば
医学フォーラム
図 シラードの 分子エンジン.シリンダーの両側にピストンがあり,中央には自由に動く仕切りがあ
る( )
.悪魔( )は,まず仕切りを降ろし,分子がどちらにいるか観察する.分子のない方(右)
のピストンを仕切りまで動かす( )
.このときは真空に対してピストンを押していることになり仕
事はしないが,悪魔は分子は左にいたという情報を記憶する.ピストンが仕切りに達したら,仕切り
を上げる( )
.すると分子はピストンに当たってピストンを動かし元の位置まで戻す.このときピ
ストンは仕事をする( )
.必要なエネルギーはまわりから熱として供給される(=,等温過程)
.
初めの状態に戻るには,悪魔は,分子は左にいたという情報を忘れる必要がある.このとき悪魔から
という発熱がある( )
.一般に,
>なので,この悪魔は熱から仕事を取り出すことは出来な
い.
(記録してあれば)
,この計算は可逆になる.現
在の通信で広く利用されている暗号化機構
(法)
は つの数百桁の素数の積が普通のコ
ンピュータでは現実的に意味のある時間内に素
因数分解できないことを利用している.暗号化
したものを完全に元に復号化することができる
ためには暗号化の過程は可逆過程でなければな
らない.可逆非可逆という観点から,この機構
はとてもよく理解できる.
計算が非可逆過程というのは論理過程に関す
る事柄であるが,実際に熱力学で問題にする非
可逆過程はピストンを動かすなど物理的なプロ
セスである.果たしてこれら一見全く異なるよ
うに見えるものを同じように扱っていいのかと
いう疑問がある.ランダワーは,この辺りを検
討して,論理的非可逆性には必ず物理的な不可
逆性を伴うことを示した.悪魔の記憶は,悪魔
の頭の中の神経回路という物理回路に刻まれて
おり,それを忘れる(リセットする)ためには
実際に発熱を伴う熱力学的な不可逆過程を伴う
のである.この論理的に帰結される発熱量は
ビットあたり (
,ボルツマン定数)とし
医学フォーラム
て計算できる.ここでも,現実の計算機の発熱
は,この発熱よりはるかに大きい.
別の考え方をすれば,シラードの 分子エン
ジンは,悪魔の記憶容量が許す限りは,まわり
の熱を仕事に変えることができることも示して
いる.生体中では,この機構を利用して実際に
熱から仕事を取り出している可能性が考えられ
ている(記憶をリセットするときに発熱するの
で,全体としてみれば第 法則が破れているわ
けではない)
.筋肉は,分子レベルでは,ミオシ
ンとアクチンの相互作用を通して,の化学
エネルギーを力学的エネルギーに変換してい
る.分子イメージング法で 分子分解す
るときの固定したアクチン繊維上のミオシンの
移動量を調べてみると,この比は厳密に決まっ
ているものでなく,確率的であることが示され
ている.いわば,ランダムな熱運動が仕事に変
換されていることになり,マックスウェルの悪
魔の機構が利用されている可能性が考えられて
いる.
今までに述べた考察は,熱力学第 法則の問
題にする現実の世界の乱雑性と情報は従来考え
られたよりもはるかに密接に関係しており,時
には交換できることを示している.ベネット
は,リセットされた論理回路の秩序ある状態に
現実の世界の乱雑性をコピーすることによっ
て,いわば乱雑性を交換することによって,悪
魔は仕事を取り出せるとしている.マックス
ウェルの悪魔の機構は,カルノーが考察した最
大効率の熱機関にもっとも近いものを実現でき
る可能性があり,生体はそれをうまく利用して
いる可能性がある.化学エネルギーから力学エ
ネルギーへの筋肉の変換効率は大変高い.生体
中で情報とエネルギーがどう関連し合っている
かを明らかにする分野は,今後飛躍的に発展す
る可能性を秘めている.
(文責 教授 花井一光)
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