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第13回 祝 佐賀の幕末期の遺構が世界遺産に登録!!

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第13回 祝 佐賀の幕末期の遺構が世界遺産に登録!!
第13回
祝
佐賀の幕末期の遺構が世界遺産に登録!!
○明治日本の産業革命遺産
2015年7月5日夜(ドイツでは昼)、ユネスコ世界遺産委員会は日本から提出された「明治日本の産
業革命遺産」を世界文化遺産に登録しました。福岡、佐賀、長崎、熊本、鹿児島、山口、岩手、静岡の
8県、23の遺構や建造物からなる資産群が、念願かなって世界遺産として登録されたのです。しかし、
この日、関係する県や市で大いに盛り上がった一方で、関係のない他県民の多くは「軍艦島が世界遺産
になったけど、選ばれるにあたって韓国と何かあった」といった知識の程度であり、肝心の遺産の中身
については、多分、端島炭鉱(軍艦島)を除いて、富士山や富岡製糸工場のように一般の方々の頭の中
に以前からイメージがあるというものではないでしょう。また、そもそも構成資産の23カ所に何が入
っているのかを含めて一般的には全体像が知られていないので、今回取り上げてみたいと思います。特
に佐賀の構成資産については、この「ぶらり佐賀見聞録」の第3回でも尐々触れましたが、ではどのよ
うなものかと解説もしていなかったので、今回は詳しめにお伝えします。
◯「明治日本の産業革命遺産」群の特徴
今回の登録された世界遺産は、これまでの日本の世界遺産である「歴史的建造物と地域」(たとえば古
都京都の文化財)、
「自然や景観と地域」(たとえば富士山)とは全く異なる切り口で選出されているところ
が一つの特徴です。8県にまたがる構成資産は、年代は約50年間に収まるものの、建造物の種類も地
域もそれぞれ異なっています。つまりこれらは単体で見ても世界遺産にまではならないが、共通のテー
マが隠れていて、それがこれらを縦串で繋いでいて、このテーマに沿って見た時に初めて普遍的価値が
あると評価されるものなのです。
さて、今回のテーマとは、「江戸時代末期から明治にかけて、東洋の島国で独自の文化を持つ日本が、
欧米列強の侵略を受けずに独立を保っていくためには、重工業の産業化を急速に進めていく必要がある
との考えの下、独力でこれを進め、成功した。」という物語です。この物語の道程を時間軸に沿って23
の資産で検証したとき、世界的に見ても重要な価値のある「世界文化遺産」になるということなのです。
従って、佐賀県にある「三重津海軍所跡」も今回構成資産として登録されましたが、明治日本の産業
革命遺産のマイルストーンの一つですので、これだけをもって物語の全体像を理解することはできませ
ん。この遺跡の歴史的役割が何であったことを知ることにより、全体が理解できてゆくという仕掛けに
なっているのです。
◯23の構成資産の内訳
構成資産の時系列は、日本が産業化を進めていく「西洋化への挑戦の時代」から「実用化への試行錯
誤の時代」を経て、
「重工業が本格化し、明治日本の原動力となる時代」までになります。これらを時間
軸で並べると、以下のようになります。
1
萩城下町(山口県萩市)
1600年代
江戸時代の城下の姿を残しており、武家屋敷、商家、町人地の町割が残っていて、
近代化前の日本の封建制度を示す資料である。
2
旧集成館(鹿児島県鹿児島市) 1851年~1867年
開明的思考の名君である薩摩藩主・島津斉彬が、アヘン戦争後の列強の脅威を察して、西洋化に
よる殖産興業と富国強兵を実施すべく、大砲の鋳造、洋式船の建造、製鉄、紡績、ガラス生産を実
施する集成館事業を開始する。薩英戦争により焼失するが再建された。
構成遺産としては、反射炉跡(蘭書を基に石積等の日本在来の技術で建設)、機械工場(鋳洋式の機
械工場)、旧鹿児島紡績技師館(日本初の西洋式紡績工場である鹿児島紡績所で技術指導した7名の英
国人技師の宿舎として建てられた木造2階建の洋風建築)がある。
3
関吉の疎水溝(鹿児島県鹿児島市)
1852年
「2」の集成館事業を行うための動力として水車動力が用いられ、この水車に水を供給するため
の疎水が島津斉彬により築かれた。洋式の技術を得るため、古来日本にある技術も結集されていた
のである。
4
大板山たたら製鉄跡(山口県萩市)
1854年頃
日本の伝統的製鉄方法である「たたら製鉄」の跡地。
「6」の「恵美須ヶ鼻造船所」のために鉄を
生産した。
5
萩反射炉(山口県萩市)
1856年から
長州藩が設けた反射炉(粗製の鉄を窯の反射熱を使い高温で溶かし、純度の高い鉄を得て、これを
鋳造する施設)。1851年に既に反射炉の実用に成功していた佐賀藩の技術を得て完成させたが、
ここでは試行の域を出なかった。幕末明治期の反射炉として現存するのは、静岡の韮山反射炉と萩
反射炉のみである。
6
恵美須ヶ鼻造船跡(山口県萩市)
1856年
長州藩が設けた造船所の跡。西洋式帆船を実際に建造した。西洋式木造帆船の造船所としては、
国内に唯一現存する。
7
松下村塾(山口県萩市)
1856年
今年(2015年)の大河ドラマ「花燃ゆ」の主人公である久坂(杉)文の実兄である吉田松陰の私塾。
松陰の産業近代化を実現するという思想の受け継ぐ弟子たちの中から多くのリーダーが登場し、日
本の近代化に貢献した。
8
韮山反射炉(静岡県伊豆の国市)
1857年
幕府伊豆韮山代官江川英龍は、海防の重要性を認識し、西洋砲術を習い、大砲の製造を試み、佐
賀藩との協力関係の下、韮山に反射炉を建設した。現在も残る唯一の実用された反射炉。
(注)反射炉
鉄を溶かして精錬する炉。海防のための鉄製大砲を造るために必要であった。日本においては幕
末期、幕府の伊豆代官の江川英龍、佐賀藩の鍋島直正がオランダ書を基に造り始めた。この他、薩
摩、水戸、鳥取、萩でも反射炉が造られたが、1849年に江川が製作した江戸の自宅の小型実験
炉が最初であり、実用炉としては1850年の佐賀藩の築地反射炉が最初である。佐賀の反射炉は、
世界遺産登録の韮山、萩、鹿児島に先駆けて稼働していたが、遺構が現存しておらず、世界遺産選
定から外れ、跡地が関連遺産という位置付けになっている。
9
橋野鉄鉱山・高炉跡(岩手県釜石市) 1858年
盛岡藩が水戸藩の反射炉に鉄鉱石の粗鋼を供給するために藩士の大島高任を中心として製鉄所(高
炉)と鉄採掘場を整備した。後の釜石製鉄所、八幡製鉄所の源流となった。
10
三重津海軍所跡(佐賀県佐賀市)
1858年
佐賀藩主鍋島直正の進めた近代化事業の一つである洋式海軍整備のために整備された船渠(せんき
ょ=ドック)跡。このドックは木組みによる土留め構造という在来工法により造られ、洋式船の修繕
所であり造船所でもあった。干満差を利用したドライドックであり、当初からドックとして設計さ
れたものとしては国内最古である。しかしながら、ドック跡の木組みは、現在、全て地中に埋まっ
た状態で保存されており、ここを訪れても現に見ることはできない。
11
寺山炭窯跡(鹿児島県鹿児島市)
1858年
「2」の集成館事業を支える燃料の供給のための木炭を製造する炭焼窯の跡。堅牢な石積で造ら
れた窯跡が今に残る。
12
旧グラバー邸跡(長崎県長崎市)
1863年
日本の近代化に貢献した英国商人のトーマス・グラバーの住宅。国内に現存する最古の木造洋風
建築。
13
高島炭鉱(長崎県長崎市) 1868年
佐賀藩は、当時管理していた長崎の高島において、グラバー商会と共同出資して、洋式の石炭採掘
を開始。1869年には蒸気機関による堅鉱を開坑し、炭鉱の近代化の先駆けとなった。
※高島炭鉱は明治に入り、土佐の後藤象二郎に譲られ、その後三菱に移り、1986に閉山した。
実に百年以上操業していたことになる。
14
小菅修船場(長崎県長崎市) 1869年
薩摩藩とグラバー商会によって建設された船舶修理施設。蒸気機関を動力とする曳揚装置を装備
していた。レール上の船架に船を据えて緩やかな傾斜を曳き揚げるスリップドックとしては日本最
古。
15
三池炭鉱・三池港(福岡県大牟田市、熊本県荒尾市)
1873年
室町時代末期頃から「燃える石」として採掘されていたが、江戸時代に入り、三池藩が本格的に
採掘した。北隣の柳川藩も採掘しており、両藩による争いも発生していたが、明治に入り政府直営
となり、三池炭鉱は、高島に続く日本の近代炭鉱となった。宮原抗、万田抗の遺構と、各坑口と港
を結ぶ専用鉄道敷跡が世界遺産の構成資産。またもう一つの構成遺産である三池港は1908年に
開港した大型船の入港を可能とする貿易港、「18」の三角西港から石炭運搬を引き継いだ。なお、
三池炭鉱は1997年に閉山、ここにも百年以上操業の歴史がある。
16
三角西(旧)港(熊本県宇城市) 1887年
明治政府が招聘したオランダ人技師の設計で建設された、日本従来の石積技術により岸壁が造ら
れた。野蒜港(宮城)、三国港(福井)と並ぶ明治三大港の一つ。
17~20 長崎造船所(長崎県長崎市) 1879年~1909年に順次建設
幕府の長崎造船所、明治政府の官営造船所を経て、1884年に三菱に移り、大型の造船所が造
られた。構成遺産としては、第三船渠(ドライドック)、旧木型場(鋳型製造の木型製作)、ジャイアン
ト・カンチレバークレーン(船舶用機械の搭載用クレーン)、占勝閣(三菱の迎賓館。設計は佐賀唐津
出身の曾禰辰三)がある。しかしこの中で公開されているのは旧木型場のみで、他の三つは現在も使
用されており、非公開となっている。
21
端島炭鉱(長崎県長崎市) 1890年
いわゆる軍艦島。高島炭鉱に次いで開発された海底炭鉱。1890年に三菱の所有となり発展し
た。最盛期は約5300人が生活し、高層住宅、生活施設が整備されていた。1972年に廃坑と
なり、住民が退去。現在は巨大な廃墟として世界的に有名。
22
官営八幡製鉄所(福岡県北九州市) 1899年~1900年に順次建設
製銑、製鋼、加工を一貫して行う国内初の製鉄所。現在は新日鉄住金が所有。構成遺産としては、
旧本事務所(ドームのある赤煉瓦建築物)、修繕工場(ドイツの製鉄会社が設計した部材の製作加工所)、
旧鍛冶工場(鍛造品の製造、後に試験場)がある。しかしこの中で公開されているのは旧本事務所の外
観のみで、他の二つは現在も使用されており、非公開となっている。
23
遠賀川水源地ポンプ室(福岡県中間市)
1910年
八幡製鉄所に工業用水を送った施設。現在は蒸気から電気に変わったが、今も現役。外観のみの
公開。
◯23資産の課題
ざっと、全体を説明しましたが、これら資産の中で既に観光地化されているものは、萩城下町、松
下村塾、グラバー邸ぐらいであり、残りは知る人ぞ知る明治日本の近代化を研究する資料的価値のあ
る建築物、遺跡、遺構です。また、しっかり保存されていても、現用の工場施設で非公開であったり、
公開されていても一般人に見られることを想定していなかったものばかりです。世界遺産として遺す
ことは決まったものの、どのように観光資源として使っていくかどうかは別問題になるということで
す。今後の各資産を有する自治体等の手腕にかかると言えるでしょう。現に端島(軍艦島)では、上陸を
含む観光ツアーが始まっているところです。
◯佐賀の近代化について
佐賀藩は江戸時代初頭の1642年から長崎警備役を命じられ、福岡黒田藩と一年交替でその任に就
いていた。この任務を拝命するということは、佐賀藩にとっての誇りであり最重要であった。
しかし、外国船の日本への来航は欧州諸国の貿易と植民地政策の隆盛により増え、佐賀藩は世界を相
手にするという現実に直面していくことになる。1808年に発生したフェートン号事件により、佐賀
藩は大きく変わるのである。
フェートン号事件は、オランダがフランスの占領されたのを機に、イギリスが旧オランダの海外資産
の奪取を狙うという背景から発生した。イギリス海軍のフェートン号は出島のオランダ商館を狙い、オ
ランダ国旗を掲げて長崎に入港した後、乗り込んだオランダ商館員を拉致、その後イギリス国旗を掲げ
て、オランダ船の拿捕を企てた。その時の長崎警備役は佐賀藩の番であったが、永年の慣れからか、1
300人いるべき藩兵が、150名ほどしかいなかった。長崎にあった佐賀の番所からは一発も応戦で
きず、長崎奉行は大村藩、平戸藩などにも応援を求め、なんとかフェートン号攻撃の構えをみせた。結
局、フェートン号は退去するのであるが、責任を感じた長崎奉行松平康英は切腹。佐賀藩はその怠慢を
責められる。藩主鍋島斉直は百日の閉門、家老等の数名が切腹という結果を招いた。
次代藩主は鍋島直正(1830年に就任)。フェートン号事件時にイギリスとの装備の差を認識し、以後、
洋式大砲の鋳造(反射炉)、洋式蒸気船の輸入、そして独力での建造(海軍所)を実現させていくのである。
一般的に黒船来航は、ペリーの1853年であるが、佐賀藩にとっての黒船は1808年のフェート
ン号だったのである。佐賀藩が幕末期の洋式化をリードしたのは、この時のパラダイム・チェンジが原
点であり、これが他の藩より50年も先んじていたからなのである。
◯佐賀の三重津海軍所跡の観光について
三重津海軍所跡は、先に触れましたが地下遺構であり、その場に行ってもただの河川敷の原っぱです。
当然、実際に見たり触れたりすることができないので、観光が難しいところですが、現在、VR
SC
OPEという電子機器を使って、見ている景色を遡る、ということをやっています。これは簡単に言え
ば、
「タイムスリップできる双眼鏡」で、双眼鏡のような暗視カメラのようなスコープとこれに連動する
音声ガイドのイヤホンを装着して、現地に立つと、160年前の景色が見えるというものです。自分も
やってみましたが、なかなか面白いです。
海軍所跡は、佐野常民記念館の前に広がる河川敷に眠っており、この記念館でVR
SCOPEの貸
し出しをしていますので、三重津のタイムクルーズを希望する方は記念館においでください。
◯明治日本の産業革命遺産の教えるもの
これら資産を見ていくと、先人たちが、従来の日本の技術を、導入した西洋技術と融合させつつ、創
意工夫で、独自に発展させていったという輝かしい歴史を知ることができます。非西洋国で唯一、独力
で短期間に産業革命に成功した明治の人は偉かった、ということに関心することでしょう。でもなぜそ
れを急いだのか、なぜ成功させなければならなかったのか、という先人たちの思いも同時に知るべきで
あると私は思います。
我が国は、幕末期の1853年にペリーが来航し、開国を迫られました。アヘン戦争の結果を知って
いた当時の幕府や諸藩は、我が国の独立を西洋列強から守るためには、海軍力が必要であり、そのため
には、鉄製大砲や洋式軍艦が必要と気付き、開国して、これらの技術導入に力を注ぎました。反射炉は
大砲製造、船渠(ドック)は造船、近代炭鉱は蒸気機関のために必要だったのです。つまりは、国を守
るための、独立の維持を目的とした、産業革命だったのです。
どうも、今回この世界遺産登録においては、当時の日本をとりまく安全保障環境と、これに立ち向か
った先人たちの思いが欠落して語られているように私は思えてなりません。
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