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ジョルジョ・アガンベン『開かれ―人間・動物 ―』 読書会(1) 平成25年12

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ジョルジョ・アガンベン『開かれ―人間・動物 ―』 読書会(1) 平成25年12
ジョルジョ・アガンベン『開かれ―人間・動物 ―』 読書会(1)
平成25年12月21日
序
1 アガンベンについて
(1) 1942 年 ~
(2) 主な著作
1970 『中味のない人間』
(人文書院 2002)
1977 『スタンツェ』
(ありな書房 1998、ちくま文庫 2008)
1982 『言葉と死』
(筑摩書房 2009)
1990 『到来する共同体』
(月曜社 2012)
1993 『バートルビー』
(月曜社 2005)
1995 『ホモ・サケル』
(以文社 2003)
1996 『イタリア的カテゴリー』
(みすず書房 2010)
1996 『人権の彼方に』
(以文社 2002)
1998 『アウジュヴィツの残りもの』
(月曜社 2001)
2000 『残りの時』
(岩波書店 2009)
2002 『開かれ』
(平凡社 2004)
2003 『例外状態』
(未来社 2007)
2005 『思考の潜在力』
(月曜社 2009)
2007 『王国と栄光』
(青土社 2010)
2008 『事物のしるし』
(筑摩書房 2011)
2009 『裸性』
(平凡社 2012)
(3) 思索の概要(
『人権の彼方』より)
フーコーのいう生政治の診断によると、ポリスの中心に置きなおされたものであるという人間の自然な生
(かつては純政治的な領域から排除されていたゾーエー zōē )
。例外状態(法秩序の一時的な宙吊り。これが
法秩序のあらゆる意味での基礎構造を構成することがいまや明らかになっている)
。強制収容所(公的なもの
と私的なものとの見分けがつかない地帯。われわれの生きている政治空間の隠れた母型)
。難民、すなわち、
人間と市民の間の連関を断ち切って、自らが周縁的な形象から近代の国民国家の危機の決定的に因子になる者。
言語活動、すなわち、われわれの生きている民主主義-スペクタクル社会の政治を定義づけている、あの肥大
の対象、かつ他有化の対象。政治の固有な圏域としての、純粋な手段の圏域、もしくは身振りの圏域(つまり、
手段でありながら目的との関係から解放されている手段の圏域)
。
2 『開かれ』第1章~第6章の概要
第1章
動物人
旧約聖書
第2章
無頭人
バタイユ
第3章
スノッブ
コジェーヴ
第4章
生の概念
アリストテレス
第5章
メシアの生
キリスト教神学
第6章
動物人の謎についての仮説
トマス・アクィナス
歴史以前
→
歴史
→
超歴史
→
歴史以後
人間を動物から区別するユマニテイの概念はある経験の認識を通して形成された
その経験的認識とは何か
第1章
動物人(テロモルフォ)
ミラノのアンブロジーナ図書館の3つの細密画 (13 世紀のヘブライ語の聖書)
エゼキエルの幻視
3匹の太古の動物たち
→ ジス、ベヘモス、レヴィアタン
義人たちのメシア的な宴
「義人たちのメシア的な宴」
完全な人間性を体現する義人たちの頭は、何故動物として描かれているのか
解釈1
ゾフィア・アメイゼノーヴァ
グノーシス的教義に基づくもの
→ 義人たち、霊的なものは、死後、星となり、天空を支える 能天使となる
解釈2
ラビの伝承
義人はメシアの到来のとき、死んではいなかった
「イザヤ書」 メシアの国では動物的な本性も変貌する
狼と子羊が一緒に棲い……1人の牧童がこれを御す
細密画の意味 → 最後の審判の日、動物と人間との関係が新たなかたちへと和解され、人間そのものがそ
の動物的な本性との宥和を遂げる
第2章 無頭人(アセファル)
ジョルジュ・バタイユ
グノーシスの動物の頭を持つアルコンの刻印から衝撃を受け、『ドキュマン』誌に記事を掲載
(後、アンドレ・マッソンがアセファルのデッサン画を作製 → 囚人が監獄から逃げるように、人間は
頭から逃走した)
* バタイユの軌跡
1929
『ドキュマン』誌発行
1932
コジェーヴのヘーゲルの講義を聴講
1934
トロツキー主義集団に加盟
1935
ブルトンと革命的知識人の闘争同盟「コントル・アタック」を設立
1936
フルトンと対立、「コントル・アタック」を解散、『アセファル』誌を発刊
「聖社会学会」設立
┐
1937
秘密結社(社会のメカニズムを狂わし、供犠を行う) ──→ 無頭の存在(p16)
1938
ミュンヘン危機、
1939
第2次世界大戦勃発、秘密結社解散
歴史の終焉を巡るバタイユとコジェーヴ
歴史の終焉(歴史以後) → ホモ・サピエンス種という動物が人間になるという、忍耐強い労働と否
定の過程を経て、それが完結を迎える暁(p14)
コジェーヴの「歴史の終焉」 → <人間>は<自然>や所与の<存在>と一致する動物として生き続
ける(p14)
消滅するもの
所与を否定する<活動>、<誤謬>、客体に対する主体
本来的な意味での<人間>、自由かつ歴史的な<個人>
後の強い意味での<活動>の廃棄
↓
戦争や革命の消滅
哲学の消滅
残るもの
→
芸術、愛、遊び等、人間を幸福にするもの全ては際限なく継続する(p15)
コジェーヴとバタイユの対比
対比点 → 歴史の終焉において、人間として死んでも、動物として生き延びるという「残与」
歴史の終焉を満ち足りた顔で観照する賢人は、細密画の動物の顔の中に消えてしまう
バタイユの拒否
→
バタイユの主張
→
動物として芸術、愛、遊び等として生きること
人間的存在でも、神的な存在でも、動物的存在でもない、 無頭の存在
↓
「用途なき否定性」(歴史の終焉を生き延びる否定性)という着想に賭ける
歴史の終焉 ─→ 活動、行動すべきことを何一つ持たぬ者の否定性の無意味化
└→ 用途なき否定性
ヘーゲルは用途なき否定性を予見していた
→ 歴史の終焉と自らの哲学体系の継続
歴史の終焉は、エロティシズム、哄笑、死を前にした歓喜といった形式の中で「残与」として人間の否定
性
が保存されるような、ひとつの「エピローグ」をもたらす。(p17)
このエピローグの仄暗い光の下で、自己意識を持つ至高の賢人の眼前に再びよぎるのは、動物たちの頭部
ではなく、手のつけようのない程敬虔な人々、「恋人たち」、「魔法使いの弟子たち」が呈する無頭の形象
である。(p17)
1939 年 戦争が避けられない状況で、コレージュ・ド・ソシオロジー宣言は、受動性や無抵抗を表明する
ことによって、……自分たちの不能さを露呈してしまう。
(p18)
第3章 スノッブ
コジェーヴの変化について
1946
『ヘーゲル解読入門』第1版
1962
バタイユ死去
1968
『ヘーゲル解読入門』第2版
歴史の終焉に関する註の補足(変更)
歴史の終焉に関する註
第1版 → 芸術、愛、遊び等、人間を幸福にするもの全ては際限なく継続する
第2版 → 歴史の終焉において人間が消滅し、動物として生き続けるとすると、「芸術や……」と述べる
ことはできなくなる。
「人間が幸福になる」のではなく、歴史以後の動物が芸術等の行動によって充足を得る。
人間の言説は、蜂の「言語活動」と似たものになる
コジェーヴの歴史の終焉と世界の現状に関するテーゼ
1806.10 イエナ会戦(ナポレオンのプロシャ軍撃破、大陸支配)によってヘーゲル主義的歴史は終焉
第2次大戦後のアメリカは、マルクス主義的共産主義の最終段階
アメリカ流の生活様式は、歴史以後の時代に特有の生活類型、永遠の現在
ロシア人、中国人は貧しいアメリカ人
1956 コジェーヴ、日本を旅行
日本の社会は、歴史以後の状況下に生きながらも、 人間たることを止めない社会
アメリカ文明と日本の文明は正反対
日本的スノビズム → 日本人は、形式的価値、すなわち、「歴史的」という意味での、「人間的」
な内容をまるで欠いた価値に基づいて、現に生きることができる(生きている)。(p22)
日本人は、原理的に、純粋なスノビズムに基づいて無償の自殺(切腹)ができる。(p22f)
故に、
「日本化された」歴史以後の時代は、どれも人間的であり、本来の意味での人間が決定的に絶
滅することはない。
(p23)
バタイユのコジェーヴ批判
アメリカ流の生活様式の動物性 ─┐
日本的なスノビズム
──→ どちらも「用途なき否定性」
歴史以後の形象の理論的な含み(p24)
(歴史以前) ―――→ 歴史 ―――→ 超歴史 ―――→ 歴史の終焉
│千年王国
│
メシア
永遠の生
超歴史 → 人間が人間であり続ける。その支えとしてのホモ・サピエンス種。
この前提としてのホモ・サピエンス種という動物の生存という仮定(p24)
コジェーヴのヘーゲル哲学講義における人間の定義(p25)
人間は弁証法的緊張の場
人間化した動物性と、動物性の中で受肉する人間性とを絶えず分離する中間休止によって、この場は切
断されている
人間が人間たりうるのは、人間を支える人間化した動物を超越し止揚する限りにおいて。すなわち、人
間が否定的活動を通して動物性を支配し、必要ならば破壊することによってのみ人間は人間たりうる。
歴史以後における人間の動物性とは何か
コジェーヴ
→
スノッブの身体
バタイユ
→
無頭の生き物
─┐
──→ 両者の関係、如何
アガンベンの主張
コジェーヴは、人間と人間化した動物との関係において、否定や死の側面を優先しすぎる
近代に在っては、人間、又は、国家が本来の生に配慮するようになっており、フーコーが生権力と呼んだ
ものにおいて、自然的な生が賭金にすらなっていく過程を見過ごしている
人間化した動物の身体=奴隷の身体とは、観念論の遺産として、思考に残された残余である
今日における哲学の様々なアポリアは、動物性と人間性との間で、還元されぬまま引き裂かれている、こ
の身体をめぐるアポリアに符合する。(p25)
第4章 分節の秘儀
生の概念の系譜学
生の概念は、一連の中間休止や対立によって、その都度分節化、分割されてきた
生は定義されないが故に、絶えず分節化、分割されなければならないもの
西洋哲学における生の概念の戦略的な分節化
アリストテレス 『魂について』
生物と無生物の区別
→
「生きる」ということ、
「生きる」ということは全ての生命に共通
アリストテレスは「生」を定義しない
アリストテレスの戦略的装置と基本原理
何であるか=あるものが、別なあるものに属している根拠は何か
例:あるものが生きている → 生きるということが、いかなる根拠によって、存在に属するのか
生きるという言い方の様々な用法の中から、一つの用法を峻別=分割、区別し、徹底的に究明する
栄養に基づく生だけを分割する=西洋科学における根本的な画期
この例としての ビシャ
ビシャの生の定義=死に抗する諸機能の総体
人間の中の2匹の動物
───
内部に生きる動物
└─ 外部に生きる動物
この2つの生の乖離を同定することが近代医学の戦略
例:外科と麻酔
→
→
器質的な生
動物的な生
→ 分割し、分節化する
17 世紀以降の国民国家 人民の生の管理を本質的な任務とする → 政治を生政治に転換
→ 民族という生物学の遺産と合体する植物的な生という概念の再定義
臨床上の死の基準の法的な定義
→
生きている身体、移植される臓器
生の境界線
「生きる」 → 植物の生
─── ┐
↓
│
器質的な生と動物的な生
│
↓
├──→ 科学的方法
動物的な生と人間的な生
│
↑
↓
│
↓
人間の内部
身体と臓器
─── ┘
哲学的方法
人間の内部の分割線を明確にすることによって、始めて、人間的なものと非人間的なものとを確定できる
人間と動物との間の分割線を人間の内部に移行させる時、人間、ユマニスムが問題となる
身体と精神、生体とロゴス、自然的(動物的)なものと超自然的(社会的、神的)なもの
この分割の政治的な神秘の探求(p30f)
人間の権利や価値を問うことよりも、人間と非人間、人間的なものと動物的なものとの分割を問うことによ
って、人間、ユマニスムを自問することが、急務である。
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