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会社秘書アンジェ

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会社秘書アンジェ
香獣
(第3回)
露津まりい
tsuyutsu mari
退席の後は、秘書の畑山がハイヤーを手配し、客たちをホテルのレストランに
連れていく手筈 に な っ て い た 。
「お茶も差し上げませんので。手前どもは片づけもあり、ここで」
と、小宮路専務は勝手口で挨拶した。
芙蓉子は畑山に耳打ちされていた。
「佐藤先生には、こちらでお食事を差し上げたく。取締役からご相談したい件が
あるそうで」
車を見送ると、芙蓉子は座敷に戻った。
専務が茶を点 て て い た 。
脇に菫水老人が頭を垂れ、どうやら背筋は伸ばして座っている。
作法通りの所作で彼らの前に坐ると、小宮路秀哉は目を上げて、茶碗をすすめ
た。
「先ほどは、お見事でございました」
恐れ入ります、と芙蓉子は浅く一礼した。
いわば、ちょっとした失敗をしたのだった。こともあろうに全部正解してしま
うとは。
すなわち、
一ノ札、ウノ札、三ノ札、月花の印有札、二ノ札。
とはいえ正直、手を抜けるほどの経験はなかった。よくわからないまま、闇雲
に当ててしまっ た の だ 。
千とせまで 萬代やへん
1
けふよりは 君にひかれて かきれる松を
と記録された 。
正客の細道も正解だったのが、せめてもの幸いだった。
「記録紙は私がいただいて、よかったのでしょうか」
まぐれですから、と恐縮する芙蓉子に、細道乙巳は上機嫌で記録紙を譲った。
「十柱、五つの組み合わせですからね、まぐれなんてあり得ない。もしそうなら、
めでたいほどのことだ。記念にぜひ、お持ちなさい」
いいんですよ、と小宮路は答えた。
「あの人はただ、うちの道具を見に来たんです。今頃、この聞香炉をどうやって
巻き上げようか、とばかり考えておられましょう」
芙蓉子が粉引の茶腕に触れている間、座敷は静まり返っていた。
か つ て は 大 物 総 会 屋 の 一 人 として、一部上場企業ばかり狙っ てきた 糟谷 にし
てみれば、箸にも棒にもかからないちっぽけな企業だろうが、エゼーナ化粧品は
一八三六年、伊東七右衛門が創業した伊東七屋本店を前身とする歴史ある会社だ
った。柿生の紫苑庵のこの広
い敷地を保持してきたことか
ら、財務体質も強いように思
える。
もっとも芙蓉子も、薬局に
置かれているような若向きの
大衆的なブランドだと思い込
んでおり、よく百貨店の一階
にあるコスメのアンジェリク
をM&Aで傘下に収めていた
とは知らなかった。この春に
はさらに最高の価格帯で、新
たに自社ブランドを立ち上げ
る計画だった。
三週間前、芙蓉子が依頼さ
れたのは、そのブランドに携
わる販売員、広報部署の担当
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者の接客教育だった。すでに数回、販売員らを対象とする本社での研修を済ませ
ている。
「いかがでしょう。女の子たちは」
「熱心に、よくやっておられます」と、芙蓉子は応えた。
「お辞儀する際の角度と距離は、一通り終えました。少し丁寧すぎる販売員がい
ますね。言葉遣いなども、あっさり処した方が品よく映る場合があるので、注意
しましたが」
そうですか、 と 専 務 は 頷 く 。
「広報の連中については、特にビジネスマナーを徹底して訓練してください。コ
スメ業界はマスコミ対応が命ですので」
「承知いたしま し た 」
ところで、と専務は窺うように芙蓉子の顔を見た。
「厚労省の渡部さんとは、お親しいんですか」
「いえ。ほとんどお話したこともありません」と、糟谷に指示された通りに返答
する。
「私のマネージメントをお任
せ し て い る 事 務 所 の 社 長 と、
趣味のカメラで長い付き合い
だとかで」
「なるほど。そうでしたか」
その事務所から、厚労省の
渡部が握らされただろうリベ
ートについては、芙蓉子は関
知しないのだ。小宮路は、そ
う納得したようだった。
糟谷がエゼーナの株を入手
して株主になろうとしていな
い以上、小宮路にはその「マ
ネージメントをしている事務
所」
が真っ当な会社かどうか、
特に法的には確認する義務も
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生じまい。
「実は、お引き留めいたしましたのは、私の弟のこともお願いしたいと存じまし
て。弟と申しましてもまだ若く、
」
水屋とおぼしき奥から、物音がした。
「十樹か」
小宮路専務の呼びかけに、返事はなかった。
「入っておいで 」
襖に隙間が空いた。それが開くまでの一瞬に、芙蓉子は射るような視線を感じ
た。
「なんだ。お前 か 」
坐っていたのは、痩せぎすの女だった。
くしゃくしゃしたモヘアじみた、趣味のよくない緑色のスーツを着ている。
「家内です」と、小宮路は早口で呟いた。
言われなくても、すぐにわかった。さりげなく装った横目で、亭主に影響を与
える女かどうか、上から下ま
で芙蓉子を値踏みしている。
その結論は瞬時に出たらし
かった。
小宮路の妻は、ハリネズミ
のごとく表皮の神経を緊張さ
せた。その場に流れていた空
気を、その襞の細部に至るま
で読みとろうとするがごとく
だ。
「十樹はどうした」
女は我に返ったように、夫
を見返した。
「近くまで連れてきたのです
が。目を離した隙に」
またか、と小宮路は舌打ち
した。
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「裏の丘は。竹林の中は捜したか」
見てきます、と小宮路の妻は腰を浮かせた。
「ここだ」と、そのとき老人が声を上げた。
芙蓉子は驚き、小宮路菫水を眺めた。
口を聞くとすら、思いも寄らなかった。存外に高く、しっかりした声だった。
老人は畳を指 差 し て い た 。
「ここにおろう よ 」
専務に引きずられるように座敷に入ってきたのは、髪が長く、痩せた若い男だ
った。二十三、四歳だろうか、若いというより子供じみてもある。額が平らで広く、
喉仏はひどく大きい。肩幅だけ発達し、反対に腹周りは窪んでみえるほどの痩せ
方だった。
彼は畳に頽れて膝をつき、その膝頭でのろのろと前に進んだ。
ジ ー ン ズ は 穴 が 空 い て い た。
どうやら、洒落たヴィンテージ
ではなさそうだ。伸びた髪には
枯れた草が絡みついている。
シャツだけは、違和感がある
ほど真っ白だった。
と小宮路秀哉は呟く。
弟です、
「だいぶ歳が離れていますが」
確かに、兄弟というよりは親
子のようだ。が、それより、な
ぜここの縁の下などに隠れてい
たのか。
「十樹と言います。会社の仕事
を 一 部、 手 伝 わ せ て い ま す が、
この弟も先生にお願いいたした
く」
芙蓉子は面食らい、若い男を
眺めた。
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畳に手を突いた彼はしかし、怯えているかのようだった。警戒して肩を上げ、
腰を引いている。今にも跳ねて、
逃げ出しそうだった。大きな目をぎょろつかせ、
まるで動物だ。と、まるで初めて遭遇した物体だとでもいうように、芙蓉子の上
に焦点を合わせ た 。
「少し怖がっています。今までここに大勢、人がいた気配があるので」
微かに溜め息交じりに、小宮路専務は言う。
「何とか人前に出せるように、と思いまして。いかがでしょう」
この男を、人 前 に 。
それは、今までここにいたような大勢の人々の前、という意味か。
「わたくしは、」
医者じゃないので、という言葉を飲み込んだ。
「ただ、型通りに接客をお教えするだけで」
「ええ。でも、会話の進め方まで指導される」
それはまず、会話ができる、と
いう前提があってのことだ。
「今、させている仕事は一人で籠
もってできますが。今後はおそら
く、そういうわけにも」
仕事。
どんなものであれ、仕事と呼べ
るような何をしているというの
か。
「十樹」
芙蓉子の疑念を察したか、専務
は弟に声をかけた。
彼は動かなかった。
十樹、と小宮路は声を荒げ、叱
りつけた。
枯れ木のごとく黙って坐ってい
た菫水老人が、その木が倒れるか
のように、ゆっくりと前のめりに
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香箱の蓋を外し た 。
と、十樹は膝頭で躙り寄った。
手を伸ばし、香木のひとつを取り上げる。組香の後、特に初心者向けに、と見
せてもらった木 片 の 本 体 だ 。
「朧月」と、小宮路専務は、その香銘を呟いた。
大天使の吐息、と芙蓉子には思えた伽羅木だった。
「朧月」を香箱に戻すと、十樹は別のものを取った。
「薫風」
男の飲むカンパリソーダ。羅国の木だ。
「蕨」
ウの香として出された、真那賀の香銘だった。
「巡礼」
三の香であった、佐曽羅の木だ。
章後半 了)
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彼は再び「朧 月 」 を 取 っ た 。
それからまた「巡礼」。
「薫風」、「巡礼」と、楽器でも演奏するかのように、リズミカルに持ち上げては
戻す。
いったい何の作業なのか、その手つきは妙に繊細で、どこか知的な感じすらし
た。そして「薫風」、「朧月」。
「おわかりですか」と、小宮路が言った。
あ、と芙蓉子 は 息 を 呑 ん だ 。
回 彼が示したのは、数時間前、ここで組香として焚かれた十柱の順番そのものだ
った。
(第
3
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