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日本とアジア・アフリカ地域との共生を考察する
Mar. 2010 3 Vol. 第3号 2010年3月 日本とアジア・アフリカ地域との共生を考察する 大学院アジア・アフリカ総合研究プログラム運営委員 国際文化学研究科 佐野 東生 龍谷大学のアジア・アフリカ総合 ました。その中でアジア・アフリカ地域の多くは、いわゆる「植民 研究プログラムは今年で開設4年目 地」を含む欧米諸国への従属状況から脱却すべく努力を開始し、そ を迎えます。法学・経済学・国際 れは二度の世界大戦を経て現実のものとなっていったのでした。こ 文化学研究科の3研究科の共同プロ の大きい流れの中に今日のアジア・アフリカ地域の台頭があり、そ グラムとして3年前に立ち上げて以 れは新たな覇権交代というよりも、欧米や日本を含めた世界全体の 来、アジア・アフリカ地域研究に興 共生に向けた動きの一環と見るべきではないでしょうか。 味を抱く院生、そして経済学研究科 もちろん、同地域の一部で貧困や紛争問題が存在するのも事実で で受け入れているJICAの研修生ら す。その背景には南北格差や民族・宗教をめぐる問題があることは が、本プログラムの特別演習や関連講義を受講する中で専門家とし 否定できません。また、地球全体に係る環境問題も当然ながら同地 ての研鑽に励んでいます。 域と無関係ではありえません。このような諸問題に対する認識を深 アジア・アフリカ地域は長い歴史と文化を有し、中国や南アジア め、解決への道を考察するのも本プログラムの目的のひとつです。 の台頭に見られるように、今世紀、世界で最も注目されています。 特に、日本としてアジア・アフリカ地域の将来のためどのような取 「歴史に学べ」とよくいわれますが、100年前の20世紀初頭と比 り組みをしていくかを考えていくことが、人類の真の共生を目指す 較すると、この地域の変容ぶりがわかります。当時は世界をリード 上で重要です。3研究科からなる本プログラムの充実した教授陣は、 していた欧米諸国のうち、大英帝国が新興ドイツの挑戦を受け、ア 以上の問題意識・目的意識を共有する院生の様々な関心に応えてく メリカも台頭しつつあり、いわば覇権交代の時期にさしかかってい れるでしょう。 1 ◆アジア・アフリカ総合研究プログラム開設3周年フォーラム報告 ❶ ―変容するアジア・アフリカと日本の大学院教育― 第 1 部 講演会 講師 : 内田 康雄氏(立命館アジア太平洋大学国際経営学部教授・神戸大学名誉教授) 第 2 部 研究科報告(法学研究科、経済学研究科、国際文化学研究科) 第 3 部 討論会(プログラム科目担当教員、本学大学院生、関係職員) 第 4 部 交歓会 アジア・アフリカ総合研究プログラム(以下、AA)設置 3 周年 講生の維持・拡大、開発分野以外の英語開講科目の拡大を挙げ、他 の節目を迎え、3 年間の総括と今後のさらなる発展の在り方を考え 研究科との英語開講科目の協力、デュアルディグリー、コース内の る講演会が実施された。 重複分野の調整を挙げた。 講演会報告 フォーラムは 4 部構成で、 国際文化学研究科の佐野教 第 1 部として立命館アジア太 授は、国際文化学研究科の AA 平洋大学(以下、APU)の内 生は比較的多く、AA について 田 康 雄 氏(APU 国 際 経 営 学 は教育主体のプログラムとし 部教授、神戸大学名誉教授) て時間をかけて発展させてい を 迎 え、APU の 概 要・ 取 り けばいいのではと話し、AA 独 組み、大学院の国際市場にお 自のオフィス設置が希望であ いて APU が抱える状況につ ると話した。地域研究を行う いてご講演頂いた。講演では、 AA は 様 々 な ア プ ロ ー チ が あ 日本の大学院政策、アジア太平洋地域の発展に合わせた大学院教育 り、合意形成が困難であるものの、多面的なアプローチができる可 や人材育成、大学院そのものの在り方、大学行政等について問題が 能性があるとして、学芸員育成や京都学などの独自性を出して発展 示された。 させられるのではないかと提案した。その他、フィールド調査補助 第 2 部では、各研究科における現状と課題について、各運営委員 費を AA 学生全員に支給し、図書費予算を学生に与えられるような より報告がなされた。法学研究科 川端教授からは、先の講演を受 研究費等の予算の充実、キャリア開発の必要性、国際文化学研究科 けて、日本でアジア・アフリカ地域の研究を行う大学(大学院)が を AA から順次深草学舎へ移転することなど、独自性と独立性を増 連携していくことを希望すると述べた。また、法学研究科の現状に していきたいと述べた。 ついて他大学出身者が在籍していることを評価し、今後とも他大学 第 3 部の討論会では、第 1 部の講演や第 2 部の現状、政治経済 からの入学者を確保することが課題であるとした。また現在、研究 の問題も考慮しつつ、AA をいかに展開し、発展させていくかにつ 支援としてフィールド調査補助などの研究課題に対する指導体制は いて意見交換が行われ、将来的な展望の中でビジョンを考える必要 とれており、今後の課題として修了後に向けた情報提供やキャリア 性があることが指摘された。また、龍谷大学のアフラシア平和開発 サポートの必要性を提起した。コース科目運営については、特別演 研究センターなどの研究所や、他研究機関との提携を通じ、研究と 習の各研究科合同実施、英語による講義開講、日本文化論など龍谷 教育の連関ができるとしたうえで、連携のためのビジョンの共有や、 大学の特徴を活かした講義の設置、学生向けの図書コーナーの設置 共同で年間のプログラムを作ることなどが提案され、これらの取り による学びと交流の場づくりが発案された。組織的な課題として、 組みを通じて、AA 創設の意思を継続させていこうとまとめられた。 人事構成の継続、予算、独立研究科の構想と英語版のホームページ このように、さまざまな視点から、AA プログラムで、変容する の充実を挙げた。 アジア・アフリカに対応する大学院教育を充実させていくための活 経済学研究科の大林教授は、まず、経済学研究科の 5 プログラム 発な議論が行われた。 の概要と、入学後のコースワークで経済学の基礎を学べるため他学 (2010 年 1 月 9 日) 部からの進学が可能であること、 1 年修了が可能である(一部のコー スを除く)ことを紹介した。また、 AA には途上国からの学生が多く、 開発関係については従来から英語履修のみでの修了生がいると報告 した。今後の課題と対応策として、日本語での受講生の拡大が重要 であり、他大学へ広報活動を行う予定であること、英語開講科目受 2 ◆アジア・アフリカ総合研究プログラム開設3周年フォーラム報告 ❷ プログラムの今後の展開と課題 報告:ヤマンラール 水野 美奈子(国際文化学研究科長) 学生が在学中に身につけることに起因すると分析された。しかしそ 報告会・討論会・交歓会の 4 部からなるフォーラムが 2010 年 1 の様な結果に至るには、大学側による綿密な留学生獲得のためのプ 月 9 日(土)13 時より、深草学舎 (21 号館 508 教室 ) で開催さ ロモーション、入学後の状況説明、企業への積極的なアプローチ、 れた。 就職後の追跡調査などの実践が充実していることが前提であること フォーラムは、立命館アジア太平洋大学(APU)・国際経営学部 にも内田教授は言及さ 教授の内田康雄氏による「変容するアジア・アフリカと日本の大学 れた。 院教育 : 立命館アジア太平洋大学での経験を通して」と題する講演 討論会において、内 で始まった。その講演内容は、アジア太平洋の政治経済政策にター 田教授は旧世代の 少 ゲットを絞った大学教育、ビジネスに直結する大学ビジネスのモデ しの語学、少しの専門 ル・ケースなど独自の大学政策を掲げ、別府に開校された APU の は、現代において通用 目標とその達成に関するもので、本校のアジア・アフリカ総合研究 しないことを強調され、 プログラムにも共通する問題を含んだものであった。 APU においては徹底し 報告会では、法学研究科を代表して川端正久先生、経済学研究科 た語学教育が実施されていることも報告された。これを受けてアジ から大林稔先生、国際文化学研究科から佐野東生先生が各研究科の ア・アフリカ総合研究プログラムにおける語学問題に関しても意見 アジア・アフリカ総合研究プログラムの履修・受講状況、就職など がたたかわされた。JICA の研修生を受け入れている経済学研究科 の報告を行い、今後への課題などを提唱した。各研究科がプログラ からは英語での演習や講義の充実、英語学習の強化が述べられる一 ム履修生に必須科目としている特別演習の充実、3 研究科の間の横 方、中国など東アジア諸国からの留学生が多い本校において、英語 の連携の強化、留学生受け入れへの積極的なアプローチ、現行の奨 偏重の教育でよいかとの指摘も出された。 学金付帯フィールドワークの推進などが共通の報告事項・将来への 語学習得も含め、サバイバル意識にもつながる強い学習意欲や研 課題であった。 究意識をどのように育んでいくかが担当者に課せられた大きな課題 立命館アジア太平洋大学は、学部・大学院共に留学生の占める割 であろう。また3研究科が深草キャンパスと瀬田キャンパスに分か 合が非常に高く、特に大学院においては 95% が外国人留学生であ れていることから3研究科の横の連携が希薄になる問題、3研究科 り、教員は日本人 50%、外国人 50% であるという。外国人留学 の学生の交流が行われにくい状況に関しては、プログラムを履修す 生の就職率は 97% に及び、日本人学生はそれに対し約その半数で る3研究科の学生に 共有できるプログラムのヴィジョン を提供 あるとのこと。内田教授はこの差を、外国人留学生が有するサバイ する方針などが提唱された。 バル意識と、企業が求めているコミュニケーション + 語学力を留 (2010 年 1 月 9 日) NEWS「法学研究科修士課程アジア・アフリカ総合研究プログラム入学試験」の新設 2011 年度入学試験より、法学研究科修士課程への進学希望者を対象に、アジア・アフリカ総合研究プログラム入学試験を導入します。 この入試による合格者は、大学院入学後、アジア・アフリカ総合研究プログラムに所属し、その専門領域で修士論文を作成することに なります(なお、一般入試及び社会人入試に合格した出願者も、入学後アジア・アフリカ総合研究プログラムに進学し学修することが できます)。 また、経済学研究科及び国際文化学研究科へ進学し、アジア・アフリカ総合研究プログラムへの所属を希望する学生は、各研究科が 実施する入学試験を受験してください。 3 講演会 ●報告 本プログラムが今年度開設 3 周年を迎えたのを機に、講演会・ ◆アジア・アフリカ総合研究プログラム海外フィールド調査報告 ❶ 「Field work experienced in Lao PDR 」 Valiya SICHANTHONGTHI(Faculty of Economics) Fieldwork ground:Lao PDR(ラオス人民民主共和国) Period:16 October-15 December 2009(2009 年 10 月 16 日∼ 12 月 15 日) Lao PDR is located in the South East Asia region, bordering my fieldwork, I really didn’t have much experience working with Thailand to the west, and Cambodia to the south. China and these people, but from this experience I could truly understand Myanmar are to the north of Laos and Vietnam to the east. On the extent to which they were affected by this war. In getting to one hand, Laos is abundant in natural resources, Tourism Places, know the people of this village I genuinely came to know the true a unique culture and strong traditions, which is less common in meaning of poverty. other parts of the world. The definition of poverty is according to dictionary.com is that 調査報告 I have spent a little over a month in Sepone District, it is a “state or condition of having little or no money, goods, or Savannakhet Province located in the middle part of Lao PDR means of support; condition of being poor; indigence”. It is only closely working and living with local people who are living along in actually experiencing these types of conditions and meeting the Ho Chi Min trail on the Lao-Vietnam border. Most of them with these types of people that you can fully understand what are ethnic minorities. The Ho Chi Min trail connects the northern poverty actually is. When I was in the Sepone District I really part of Vietnam to the middle part of Laos during the Indochina came to understand what poverty really means on a deeper level. In directly experiencing their day-to-day lifestyle I was ultimately able to grasp their everyday life. I realized that they are in fact very happy and content with their current standard of living. For example, I got used to eating meals on the ground and eating things like snake, rat and wild pig. I also was accustomed to go to the bathroom in the woods because they have no such facilities as we do in the developed countries. For most people in the Western world this lifestyle and eating habit would be considered very substandard and a true indication of poverty. I would like to thanks the Graduate Program of Asian and ▲ Primary Students African Studies sincerely for supporting me in my efforts to bring War. This trail was the main supply route of Vietcong and it was my research to fruition. Also I would like to thanks Professors mainly used to transfer commodities and military equipment Obayashi, Kawamura and Kinoshita, who are fully helping me to through Laos to liberate the Southern part of Vietnam. More than make the most out of my fieldwork in Laos. a thousand tons of bombs were dropped in this area and some of them are still unexploded. More than 10 people in this small area were killed and wounded due to these bombs. After country liberated in 1975, the indigenous people tried to resettle this place after being devastated during the war. During the war the area was so badly damaged by bombings that many of the families were separated from each other and forced to flee the area. When I was doing my fieldwork in this area I found that the people are very poor and their living conditions are very destitute. Although when I would confront them about their living conditions they tended to respond that they are fine, but in reality ▲ Traditional Rice Skin off Machine one could see directly that this was not the case. Before I did 4 ◆アジア・アフリカ総合研究プログラム海外フィールド調査報告 ❷ オルドスの歴史文化調査 格 日楽(国際文化学研究科院生) 調査期間:2009.8.11―2009.9.5 調 査 地:中国内モンゴル自治区、オルドス地域 私は 2009 年 8 月 11 日から 9 月 5 日までの約一ヶ月間を どのために、多くの人た 利用して、 「中国内モンゴル自治区オルドスの地域文化研究―モ ちは火葬を選んでいます。 ンゴル族の埋葬文化を中心に」というテーマのもと、オルドス地 しかし、オルドス周辺の 域でフィールド・ワークに行きました。現地の方々の協力をいた 農村部においては、まだ だき、この地域におけるモンゴル族の葬送儀礼について、聞き取 遊牧業を続けている遊牧 りを含む現地調査を行いました。 民が多いため、葬送儀礼 現地の年配者の話によると、昔のモンゴル人、特に放牧地域で もある程度昔のままの要 乏しい生活をしている牧民の葬礼は非常に簡単だそうです。家族 素が多く保存されている の人が病気や、怪我などで亡くなりそうな時、家族全員及び親戚 と思います。 たちが集まって来て、亡 以上の理由から遊牧業 くなるまで見守りを続き を続けている人々を中心 ます。人が亡くなったら、 に、彼らの宗教信仰、神 全員泣いたりして、悲し 話伝承、葬送儀礼などに む 気 持 ち を 表 す だ け で、 ついて、古今のモンゴル それ以外は何もしないで 族 の 埋 葬 文 化 を 比 較 し、 す。最後にラーマを呼ん どのような変化があった で来て、経文を唱えても かを聞き取り調査を行きました。モンゴル族の葬送儀礼について、 らい、葬儀を終わらせま 具体的に入棺や出棺、「守孝」 (喪に服すること)のほか、主にそ す。 の生死観の特徴や変容について調べてきました。 モンゴル族の葬送儀 今回はアジア・アフリカ総合研究プログラムから調査研究補助 礼 は 元、 北 元( 明 の 時 をいただき、初めてのフィールド調査ができたことに心から感謝 代)、清の各王朝を経って、 いたします。特に現地調査で貴重な経験をするなど、自分の視野 調査報告 ▲ジンギスカンの衣冠塚の近くにある「オボ」 ▲建設中のオルドス市博物館 ▲オルドス市図書館 七百年の中で多くの変遷を辿りました。そして、各地の自然、経 が大きく広がったように思いました。今後、このような経験を活 済、文化条件などの違いによって、葬送儀礼も異なります。一般 かして、資料の整理、分析、修士学位論文の作成に頑張っていき に知られているのは野葬、火葬、土葬などが挙げられます。特に たいと思います。 土葬、風葬はモンゴル王族の葬儀でよく見られます。 現在のオルドス地域は自然資源が非常に豊富であるため、中国 大都市の中でも、経済発展が比較的早い都市と言われています。 経済の発展によって、オルドス人の生活も昔と大きく変わってき ました。 モンゴルのイメージと言えば、どこまでも続く大草原、のんび りと草を食べる羊や馬たち、点在するゲルなどのような画面が頭 に浮かんでくるだろうと思います。しかし、オルドス市中心部は もうそんな風景はなかなか見られないでしょう。高層ビルが森の ように立っています。町に走っている車の大半は高級輸入車です。 北京、上海より進んでいるように見えます。このような背景でそ の葬送文化もきっと変わっていると思いました。 ▲モンゴル族の祖先祭 もちろん、現代都市において、スペースの節約や清潔と便利な 5 ◆アフリカ現地レポート 西アフリカの 薬物問題を考える 落合 雄彦(法学部教授) 急増するコカイン密輸 語で「ポヨ」と呼ばれるやし酒と「ジャンバ」といわれる乾燥大麻(マ 私がフィールドとする西アフリカ諸国では、近年、薬物問題が深 リファナ)です。店の売り子に日本円で 20 円程のお金を支払って 刻化しつつあります。たとえば、西アフリカ諸国全体のコカイン押 1 回分の乾燥大麻を買い、それを巻紙に包んで火をつけ、美味し 現地レポート 収量は、2000 年には年間 97 キロ程でしたが、07 年には 6.4 そうに吸います。そこには、犯罪行為をしているという後ろめたさ トンを超えています。西アフリカ全体のコカイン押収量は、2000- はほとんどなく、どこかその風景は、日本のサラリーマンたちが退 2007 年の間に実に 65 倍以上にも激増した計算になります。 社後に立ち寄る一杯飲み屋や居酒屋のそれと似ています。 こうした西アフリカにおける不正薬物、特にコカイン押収量急 世界の主要な問題薬物を地域別にみてみると、北米はコカイン 増の背景には、北米でのコカイン消費の減少とヨーロッパでのそ と大麻、南米はコカイン、ヨーロッパとアジアはヘロイン、そし の増大という国際的な薬物消費動向の変容が関係しています。つ て日本の場合は覚せい剤ですが、アフリカは大麻です。世界の大 まり、ヨーロッパでのコカイン消費が急増するなかで、いまや西 麻生産量は 2006 年の推計で 4 万 1400 トンですが、その約 アフリカは、南米からヨーロッパ向けのコカイン密輸の重要な中 22 %(8900 ト ン ) 継地となりつつあるのです。国連薬物犯罪事務所(UNODC)に がアフリカで生産され よれば、南米から西アフリカに密輸入されるコカイン量はすでに ています。そして、成 年間 50 トンに達しており、その約 8 割がヨーロッパ向けに密 人(15-64 歳 ) に 占 輸出されているとのことです。それは、ヨーロッパで消費される める大麻使用者の割合 コカイン総量の約 27%に相当します。 は、世界平均が 3.8% UNODC は、2007 年 12 月に『西アフリカにおけるコカイ であるのに対して、ア ン密輸』と題する報告書を発表し、そのなかで「西アフリカは攻 フリカでは 2 倍以上の 撃に晒されている」と指摘して、そうした西アフリカでのコカイ 8%にも達しているの ン密輸の急増に対して警鐘を鳴らしています。 です。 主要な問題薬物はいまも大麻 紛争後の社会でみた新しい「戦争」 とはいえ、アフリカにおける問題薬物は、コカインでもヘロイ しかし、これまで大麻が主要薬物であった西アフリカでも、近 ンでもなく、いまも大麻です。 年のコカイン密輸の増大などもあって、次第にハードドラッグの シエラレオネの首都フリータウンの路地裏には、トタン屋根で 乱用が社会問題化しつつあります。私は、2009 年 8 月、紛争 日陰をつくり、木製の 後の復興途上にある、シエラレオネの隣国リベリアを 20 年ぶり ベンチを置いただけの に訪問しました。首都モンロビアには、フリータウンと同様に多 「 ゲット ー」 と 呼 ば れ くのゲットーがありましたが、そこでは職のない若者たちが、 「イ ▲フリータウン(シエラレオネ)のゲットー。マリファ ナを吸い、やし酒を飲む男性客たち。コカインな どのハードドラッグはあまりみられなかった。 ▲モンロビア(リベリア)のゲットー。マリファ ナだけではなくハードドラッグも広く使用され ている。無職の若者たちがたむろし、薬物に耽る。 る店が点在しています。 タリアン・ホワイト」や「ドゥジー」と呼ばれる、コカインある 夕刻ともなると、一日 いはヘロインから作られた薬物を広く乱用していました。 の仕事を終えた男性客 1990 年代の西アフリカでは、リベリア紛争をはじめとする たちでどのゲットーも賑 複数の内戦が発生しました。そうした冷戦後の武力紛争の嵐がよ わいます。 そして、そ うやく一段落しつつある西アフリカではいま、銃に代わって薬物 こで多くの客が注文す という新たな「凶器」を用いた静かな「戦争」が始まりつつある るのが、現地のクリオ のかもしれない、そう感じました。 (2010 年2月) 龍谷大学大学院 アジア・アフリカ総合研究プログラム ニューズレター 第 3 号 2010 年 3 月発行 Ryukoku University Graduate Program of Asian and African Studies News Letter 発 行/龍谷大学大学院 アジア・アフリカ総合研究プログラム運営委員会(龍谷大学教学部) 〒 612-8577 京都市伏見区深草塚本町 67 TEL 075-645-7891 印 刷/株式会社 田中プリント 6 Vol. 3