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当日のスピーチ全文を読む。(pdf)

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当日のスピーチ全文を読む。(pdf)
私はたまたま訪れたトルコ領内のクルド人の町で、ひょんなことから「クルド人問題」
というものを知りました。トルコといえば、日本の旅行者にもとても人気のある国ですし、
人が親切なことでもよく知られています。しかしそんな国で、一つのエスニック・グルー
プに対してむごい人権侵害が行われているということに、たいへんな衝撃を受けたのです。
そして同時に、何も知らずにトルコの国を旅していた自分にも、羞恥心や罪悪感のような
ものが入り混じった、なんともいえない不快感を覚えたのでした。
もしもあの時、何ごともないまま彼の地を通り過ぎてしまっていたら、単にクルド人た
ちのことを素朴で親切な人びととしか、見ていなかったかもしれません。彼らはたいへん
な屈辱やら痛みやらを抱えて暮らしていたにも関わらずです。そのことを、偶然とはいえ
少しばかり知ってしまったことで、私は彼らが示してくれる優しさや笑顔を思い浮かべて
は胸をしめつけられ、たまらない気持ちを抱くようになりました。その時の、私の内に沸
き起こった重苦しい感情というのは、彼らがあまりにかわいそうだとか、そんな単純なも
のではありませんでした。
そうして、この人たちの写真を撮りたい、そのためにもこの人たちのことをもっともっ
と知らなければならない、そういった思いが強まっていったのです。それが、私が彼らの
取材を始めるようになったきっかけでした。
なかでも、私が特に焦点を当ててきたのは、歴史舞台に名を残すことのない、普通の、
生活者としてのクルド人たちです。これまでクルド人たちの武力による闘争や政治的な試
みは、長い間続けられてきました。しかしそれとは別に、たとえば旅の者を暖かく迎え入
れてくれるような、その辺のどこにでもいるような、そんな人たちの身に、いったい何が
起こったのか、彼らがどんな目に遭い、その時に何を目にし、何を思ったのか、それを私
のような者が訪ねて行ったならば、何をどう語りどう伝えようとするのか、そういったこ
とを、知りたいと思いましたし、もっと注目されるべきだとも思ったのです。そうして、
クルド人が暮らすトルコやイランやイラクやシリアに通い始めてから、今年で 13 年目にな
ります。
それでは、その間に撮った写真などをご覧いただきながら、クルド人問題について、お
話させていただきます。まずは「クルド民族」についてですが、国を持たない民族として
は世界最大で、その人口は 2500 万人から 3000 万人ほどと見られています。その数はおお
よそカナダの人口に匹敵するほどの人数と思っていただければよいでしょう。居住地域は
トルコ、イラン、イラク、シリアなどの国にまたがっており、面積はおよそ 50 万平方キロ
メートルにも及びます。日本の国土のおよそ 1.5 倍の広さです。古くからそこはクルド人の
土地との意味で「クルディスタン」と呼ばれてきました。自然の美しい土地で、山が多く、
なだらかな山もあれば、とても険しい岩山も多く見られます。春には桜も咲きます。
また水資源が豊富で、メソポタミア文明を育んだチグリス・ユーフラテス川といった大
河も流れています。この写真はチグリス川で、シリアやイラクとの国境に近いトルコ領内
のジズレという町で撮ったものです。砂漠気候のこの町では、夏になると気温が 50 度くら
いにまで上がります。しかしその一方で、これはトルコでもっとも寒いと言われる地域に
あるカラチョバンという町で真冬の 1 月に撮影したものですけれど、この時の気温はマイ
ナス 30 度でした。このようにクルド人の居住地域といっても、地形も気候も実にさまざま
なのです。
主な産業は、牧畜や農業、工芸品の生産などがあげられます。そのほか、国境地帯であ
ることを活かし、貿易業も盛んです。
民族衣装には、地域によって、このようなさまざまな特徴が見られます。それを身につ
け、お祭りや結婚式はもちろん、友人や親せき同士で集まっては、こうして手をつなぎ、
円になって踊り楽しむ習慣を、彼らはとても大切にしています。
さて、そんなクルド人たちですが、ここで彼らの置かれてきた状況というものをご説明
することにいたしましょう。
第一次世界大戦でオスマン帝国が崩壊すると、中東地域には何本もの国境線が引かれる
ことになるのですが、ちょうどその国々の境目にあたる地域に暮らしていたのがクルド人
でした。そうして彼らの居住地域は複数の国に分割されることになり、周辺国に併合され
たクルド人たちは、それぞれの国内において、マイノリティーとしてさまざまな問題を背
負わされることとなります。差別や蔑視にさらされ、弾圧の対象となり、あらゆる自由を
奪われてしまうのです。政治的な活動や発言は許されず、表現の自由も、行動の自由も認
められませんでした。そればかりか、言葉や風習、伝統の音楽や踊りといった民族独自の
文化活動まで、禁止されたのです。
それはなぜかというと、クルド人を内包する国家は、クルド人が自らの民族意識に目覚
め、団結することを警戒したからです。少数派とはいえ、クルド民族は規模が大きい上に、
国境地帯というきわめて重要な、しかも水資源や地下資源などの豊富な地域に暮らしてい
ます。もしもクルド人たちが民族の名のもとに団結し、力を発揮するようにでもなれば、
国家はクルド人の住む地域を思うようにコントロールできなくなってしまいます。まして
や独立などされようものなら、たいへんな損害です。それを恐れ、そうなることを阻止す
るために、クルド人の民族的な結束を国の力でもって排除しようとしたわけです。
では、クルド人が具体的にどのようにして弾圧されてきたかを国別に見ていきたいと思
います。まずはトルコです。単一民族国家を国是としてきたこの国では、「この国に住む者
はすべてトルコ人」ということで、クルド人は「山岳トルコ人」と呼ばれ、クルド人など
存在しないものとされてきました。厳しい同化政策がとられ、特に規模の大きいクルド人
(国民全体の 20∼25%を占める)は厳重にマークされ、クルド語を話すことも、クルドの
歌も音楽も踊りも、民族衣装を着ることも、すべて禁止され、違反すれば厳罰に処せられ
ました。それに対してクルド人たちは激しく反発を始めます。抑圧されたことで、かえっ
てクルド人であることに目覚めたのです。大小さまざまな抵抗運動が起こりました。なか
でもクルディスタン労働者党(PKK)は、独立を目指して武装蜂起し、クルド人居住地域
の山岳地帯を拠点にゲリラ戦を展開しました。それに対し、政府軍は徹底抗戦の構えを見
せ、内乱状態は泥沼化していきました。
国の政府、警官や兵士は、ゲリラ活動を行うクルド人だけでなく、一般のクルド市民に
もしばしば暴行を加えました。またクルド人社会に民兵制度や密告制度を設け、金品にも
のをいわせた作戦で、クルド人同士の分裂を図ることをも怠りませんでした。と同時に、
トルコ政府はクルド人地域で行っている弾圧の実態をひた隠しにするために、報道を厳し
く規制し、その地域の移動も徹底的に制限してきました。
そうしながら国家は膨大な予算を軍事に投入して戦闘に備えるほか、山間部の住民を強
制移住させ、クルド人ゲリラの温床となり得るクルド人の村を焼き払いました。その数は、
3,700 から 4,000 にものぼると言われています。
村を追われた人びとは、生きるため西側の都市周辺に国内避難民として暮らしはじめま
した。しかしそこでも国の警官たちは常に目を光らせ、クルド人が集まったりしているだ
けで、こうして装甲車で駆け付け、有無を言わさずに大勢を拘束していきます。
この写真に写っている少女が持っているのは、そうして拘束され、その後、行方不明に
なってしまったクルド人男性の顔が印刷されたカードです。これはお祭りの会場でしたが、
クルド人が集まると、こうした政治集会のような色を帯びることがしばしばあります。そ
れだけ彼らは憤懣やるかたない思いでいっぱいだということなのです。
そうしたクルド人の怒りや悩みの深い地域であればあるほど見られるのが、こうした山
の斜面に大きく書かれた文字です。この山にはこう書かれています。
「私は〝トルコ人〟だ
と言えることは、なんと幸せなことだろう」。この文字は、トルコ人が幸せに暮らしている
地域ではほとんど見ることはありません。
次はイラクです。イラクでも長いこと中央政府との戦闘が続いていました。サダム・フ
セインの時代には、民族浄化作戦が実行され、18 万 2000 人もの人が虐殺されたり、行方
不明になったりしたとみられています。その一環として行われたのが化学兵器攻撃でした。
もっとも大きな被害を出したことで、その悲劇の象徴とされているハラブジャという町で
は、化学兵器攻撃により 5000 人が亡くなりました。また、化学兵器の影響で多くの人びと
が病に冒され、攻撃から 20 年経った今でも苦しみ続けています。
そして化学兵器を浴びた人たちの子孫にも深刻な影響が出ています。高い確率で白血病、
がん、神経系統の病気、皮膚病、奇形などが報告されています。この写真は 2004 年に撮っ
たものですが、この子供は白血病を発症し輸血を受けているところです。もちろんこの子
は、この町が 1988 年に化学兵器攻撃を浴びせられた時には、まだ生まれていません。病は、
この子の父親が毒ガスを浴びたことによる影響ではないかと考えられています。そうした
ケースは、この子に限らず非常に多いのです。
またイランでは、クルド人は民族、宗教という二重の意味で少数派の立場に置かれてい
ます。ここでも自治をめぐっての内戦が長らく続きました。またイラン・イラク戦争など
の大きな戦争にも巻き込まれてきました。
シリアでは、何世代も前からシリアで市民生活を送っているにもかかわらず、クルド人
であるがために市民権を得られない人が多く、そのために高等教育や十分な医療が受けら
れなかったり、不動産などの財産を自分の名義で取得できなかったりといった不遇を押し
つけられています。
クルド人たちは、こうした問題に長いこと苛まれてきましたが、それでも彼らを取り巻
く状況は少しずつではありますが、改善されてきています。トルコでは法律が改正され、
人権問題への取り組みが始まっています。近年ではクルド語の放送や学習も認められるよ
うになりました。イラクでは 1992 年に自治区が成立して以来、状況はかなりよくなってい
ます。イラク戦争後は経済発展が目覚ましく、建築ラッシュが続いています。しかし民族
間の対立は一触即発の状態であり、過去に受けた弾圧を発端とする傷や病、トラウマとい
ったものは、今も深刻です。キルクーク、モスルといった大産油地の帰属をめぐっては論
議が繰り返されていますが、たいへん難しい問題であることは間違いありません。
クルド人たちは自国の政府に弾圧され続け、それらの事実は国の強大な力で隠ぺいされ
てきました。プロパガンダによって、その国の国民でさえ、ほんとうのことを捻じ曲げら
れて頭に叩き込まれているような状態です。そのなかで、隣人であるはずのクルド人に対
する多くの偏見や嫌悪感といったものが助長されていきました。クルド人たちの多くが、
そうした誤解をなくすことと安心して暮らせる社会を何よりも望んでいると言います。
現在、目立った大きな戦闘は起きていません。しかしその平穏さも、国境地帯という不
安定な地域の、危ういバランスの上にあることに変わりはないのです。
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