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長沼の祭り屋台 編 [PDFファイル/4.82MB]

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長沼の祭り屋台 編 [PDFファイル/4.82MB]
歴史をひもとき、ふるさとの魅力再発見
鬼板(おにいた)
懸魚(げぎょ)
唐破風(からはふ)
欄間(らんま)
御簾
(みす)
窓
囃子方
猿田彦大神
高欄(こうらん)
羽目(はめ)
引き出し舞台収納口
横棒
曳手(ひきて)木鼻
長沼歴史ぐるっと散歩ガイド③長沼の祭り屋台編
御所車
2011.1.1
長野市立長沼公民館
「祭り屋台(山車)」って、何だ・・・?!
神社の祭礼の際に使われる豪華な装飾を施された乗り物を、一般に「山車(だし)」という。
山車は、「曳山(ひきやま)」のほか、「山鉾(やまほこ)」、「山笠(やまかさ)」、「屋台(や
たい:主に長野県、岐阜県飛騨地方など中部地方)」、「地車(だんじり:主に関西地方)」、
「お船」などと、地方によって様々な呼び方があるが、北信地方では、長野市をはじめ、
「山
車」を「屋台」と呼ぶ地域が多い。
元来、
「山車」は祭りの場に神々を招くために設置された「造り山」に由来し、その起源は、
平安時代の京都の諸祭礼にさかのぼるという。京都祇園祭の「山鉾」と呼ばれる「山車」はそ
の代表的なものである。祇園祭に山鉾が恒例となるのは、南北朝期以来のことで、近世に近づ
くと庶民の経済力が向上し、地方の都市でもこれを真似るようになり、やがて一部の豊かで賑
わう農山村にも波及し、
「山車」を曳き出すようになったという。この過程で、
「山車」は、そ
れぞれの地域に応じた、地域独特の華やかな形が作られていったと考えられる。
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①京都祇園祭「山鉾」
③穂高「お船」祭り
②長浜「曳山」まつり
④博多祇園「山笠」
⑤飛騨高山祭り「屋台巡行」 ⑥岸和田「だんじり」祭
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長野県内の「祭り屋台」の御所車は、二輪が多い
長野県内の「祭り屋台」には、「二層(二階建て)二輪形式」で、上を舞台、下を囃子方と
するものと、「一層(平屋)二輪形式」で、前半が舞台、後半が囃子方とする「本屋台」が多
く見られる。舞台には人形などを飾るものと、稚児や踊り手を乗せるものがあり、また、全体
が舞台だけの「踊り屋台」(囃子方は、別の「底抜け屋台」に入る)もある。
御所車の車輪の数は、都市部の平坦地では四輪が一般的であるが、山国信州は坂が多く、道
幅も狭い、特に、善光寺界隈は巡行路の高低差が大きく、小路も多い、また、長沼のような城
下町は、鍵の手の道が多いことなどから、坂道でも屋台の床を水平に保ち、鍵の手の道でも小
回りのきく二輪が、多くの地域で使われることになったと考えられる。
1二層二輪形式・・・小布施町の屋台等
2一層二輪形式(1)本屋台・・①踊り手を乗せる・・問御所町・元善町の屋台等
②人形を乗せる・・・西町上・長沼上町の屋台等
(2)踊り屋台&底抜け屋台・・・・・新田町・大門町の屋台等
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①小布施町の本屋台(二層二輪形式)
②問御所町本屋台(一層二輪形式)
③元善町本屋台(一層二輪形式)
④西町上本屋台(人形は柿本人丸坐像)
⑤大門町踊り屋台(踊り立ち方のみ)
⑥大門町底抜け屋台(囃子方のみ)
*⑤と⑥の1セットで巡行する
長沼の祭り屋台
長沼には、かつて屋台が、八つもあったといわれる。
長沼には、かつて長沼神社(3台)
・守田神社(1)
・八幡神社(1)
・大田神社(2)
・伊勢社
(1)の八つの屋台があったといわれる。しかし、相次いだ水害や長沼地震等のため、ほとんど
の町で屋台が滅失してしまい、現在では、長沼神社(上町・六地蔵町)・太田神社(赤沼上組)
の三つの屋台がほぼ復元できる形で残っている。(赤沼北組は、彫刻のみが現存している)
また、伊勢社(赤沼東組)の屋台は、明治21年に飯山市静間「北畑区」へ譲渡され、今でも
毎年、静間神社の秋季大祭で屋台巡行が行われている。
長沼の屋台は、いずれも一層二輪形式のもので、屋根は唐破風造りで、前半が舞台、後半が囃
子方となっているものである。狭い小路でも小回りがきくように車輪は二つで、側面に四つの横
棒が出ている。屋台全体は、漆塗りや金箔押しされたりせず、白木のままである。
これらの屋台は、赤沼にゆかりのある宮大工彫工武田常蔵一門(初代常蔵、高弟で妻科村の山
嵜儀作、二代目常蔵等)によって、おおむね江戸後期から明治初期に造られたものである。
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①長沼上町本屋台と人形「白拍子」。(前半・後
半部共に絢爛豪華な彫刻の窓枠であるのは極め
て珍しく、近郷近在に例はない)
②長沼六地蔵町本屋台(引き出し舞台が特徴)
③赤沼北組屋台(獅子神楽屋台に転用)
④赤沼上組本屋台(総欅白木造り)
⑤飯山市北畑本屋台(元赤沼東組所有)
長沼六地蔵町の「祭り屋台」
「六地蔵町の祭り屋台」は「一層(平屋)二輪形式」で、高さ4.3㍍、間口2.7㍍、奥行
5.6㍍。四方を高欄で囲み、前半は周囲を吹き放ちして舞台として用い、後半は囃子方が入
り、開いた四方の窓には御簾(みす)を垂らすようになっている。制作年代・作者は定かでは
ないが、赤沼北組・赤沼上組・長沼上町の屋台と比較し、制作年・作者等から推測すると、や
はり、江戸後期から明治初期に、武田常蔵一門によって造られたものと考えられる。
各部分の彫刻は、正面舞台部分では、唐破風下の懸魚は「飛龍」、唐破風内部は「スサノヲ
ノ命のヤマタノオロチ退治」、欄間は「松・鶴」、内部天井には「龍」の彫刻がある。
背面囃子方部分では、懸魚には「飛龍」、唐破風内部は「源頼光と四天王の大江山の鬼退治」
の彫刻が付いている。
左右側面部分では、欄間は「松・鶴」が、窓枠は「松・鶴」
「竹・亀」
「牡丹・唐獅子」
「翁・
媼(おきな・おうな)」の彫刻が施されており、合計で 18 点付いている。
屋台全体は、白木造りで木目の良さを生かした彫刻の美しさが表れている。
「六地蔵町の祭り屋台」の特色としては、屋根は唐破風造りで、狭い小路に入ったときは、
折りたためるようになっており、また、舞台の床下に「引き出し舞台」が収納できるのは、他
地区の屋台には見られない仕掛けであり、宮大工らの苦心のあとを見ることができる。
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①正面屋根「鬼板・唐破風・懸魚」
②舞台天井「龍」の彫刻
③囃子方欄間・窓枠彫刻
④三つ折りの引き出し舞台収納
⑤引き出し舞台設置後の屋台全体
赤沼上組の「祭り屋台」
「赤沼上組の祭り屋台」は「一層(平屋)二輪形式」で、大きさは、おおよそ高さ約4.6㍍、
間口約2.8㍍、奥行約5.7㍍である。 四方を高欄で囲み、前半が舞台、後半が囃子方となって
いる。囃子方の四方の窓には御簾(みす)を垂らすようになっている。
制作年代・制作者は、明治9年(1876)、赤沼一の配の宮大工二代目武田常蔵が中心となって屋
台を制作し、この屋台に、長野の中央通り界隈の問御所町・西後町などの祭り屋台や長沼上町の
屋台を手がけた妻科村の山嵜儀作豊勝(立川流。初代武田常蔵の高弟でもある)が、彫刻を加え
た。全部の彫刻が完成したのは、実に明治17年(1884)である。
屋台全体は、欅の白木造りで、随所に透かし彫り、浮き彫り、丸彫りなどの技法を駆使した見
事な彫刻が取り付けられている。
各部分の彫刻は、絢爛豪華で、正・背面の唐破風内部は、
「神話天ノ岩戸」
「日本武命の鷲退治」、
内部天井は、「龍」、欄間は、「飛龍・子持龍」「雲に麒麟」、その他、「日の出の鶴亀」に「高砂の
翁・媼」
「ガマと仙人」
「波に亀」
「獅子に牡丹」などなど大小32点の重厚で、より立体的な彫刻
が施されている。
祭り屋台巡行については、これまで古文書による資料が無く、古老の言い伝えや昭和29年3
月15日発行の公民館報「ながぬま」の記事『村の歴史を語る。長老を招いて座談会』によると、
「屋台が出たときは実にきれいなもので、特に上・下組の屋台は見事でした。明治28年(1895)
の日清戦争の勝った祝いに、上・下組の屋台が出たのが最後と成った」と語っている。
先頃、上組総代が屋台蔵を整理していたところ、御祭礼に係る大量の古文書(明治から大正、
昭和時代の中頃までの御祭礼行列役割帳・屋台諸掛取調帳ほか)が見つかった。
その中には、明治28年に屋台を出した記録もあり、新たに大正11年(1922)にも屋台を出し
た記録があることなどから、大正11年が屋台巡行の最後といえる。
明治28年9月14日に行われた屋台巡行(「御祭礼行列役割記」)を見てみると、その行列順
序は、先頭から、制札灯籠→金棒(錫杖)→高張提燈→拍子木→幟旗→笠鉾(白桃)→笠鉾(白
桃)→笠鉾(紅桃)→笠鉾(紅桃)→笠鉾(白牡丹)→笠鉾(紅牡丹)→拍子木→獅子舞(太鼓
方・笛方・舞方)→屋台(警護方)の順で、およそ80人位で賑やかに屋台を曳行した。華やか
な笠鉾が6基も登場している。 (平成22年3月20日、88年ぶりに組み立てられた)
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①正面唐破風内部彫刻
②腰巻の社紋「左三つ巴」
③総欅造りの本屋台
④古文書「御祭礼行列役割
帳」
赤沼東組の「祭り屋台」
(現飯山市静間北畑区所有)
飯山市静間北畑区区有文書の「物品売渡シ証」によると、明治21年(1888)に静間村北畑の
青年会が、水害のあった上水内郡赤沼村(現長野市赤沼東組)から屋台を買い取ったことがわか
る。この屋台に、静間村大久保の屋台を手がけた北村喜代松(鬼無里村の屋台制作)が彫刻を加
えている。
「北畑の祭り屋台」は、「一層二輪形式」で、高さ 4.2 ㍍、間口 2.6 ㍍、奥行 5.3 ㍍。四方を高
欄で囲っている。制作年・作者は定かではないが、おそらく明治初期に赤沼の宮大工武田常蔵と
その弟子渡辺林作(静間村出身)等によって造られ、譲渡については、渡辺林作が仲介したもの
と考えられる。この屋台は、彫刻が豪華で、特に唐獅子の持つ手鞠は籠彫り(竹かごのように内
部をくりぬいた彫刻)の極致といえるもので、北村喜代松得意の技法である。
赤沼東組の屋台が、120年の時空を超えて、今日まで連綿と受け継がれ、現在も毎年、静間
神社の秋祭りに曳行されている。
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①物品売渡シ証
②屋台蔵で組み立てられた
本屋台を公会堂へ曳行
③彫刻:唐獅子の持つ手鞠は
籠彫り
④彫刻:天の岩戸
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長沼上町の祭り屋台
「長沼上町の祭り屋台」は、江戸時代後期に造られたものといわれ、作者は、赤沼の宮大工武
田常蔵の高弟の山嵜儀作(妻科村出身)である。
「一層二輪形式」の屋台は、木目を生かした総欅(白木)づくりで、屋台の前半・後半部共に
絢爛豪華な彫刻を施した窓枠(写真①)であるのは極めて珍しく、近郷近在には例が無く、現存
する屋台の中では最も古い様式を残している屋台といわれている。また、前半部には、白拍子人
形立像を安置している。(写真②) 赤い幟旗は、屋台行列を彩る町旗(写真③)である。
この屋台は、大正11年の長沼神社の秋祭りに練り歩いたのが最後で、それ以降は解体された
まま屋台蔵にひっそりと眠っていた。昭和62年4月に一部(彫刻部分)が組み立てられ、長沼
神社拝殿で展示公開された。(写真①)
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赤沼北組の祭り屋台
赤沼三組のうち最も早く屋台を造ったのが赤沼北組である。
安政3年(1856)、赤沼一の配の宮大工武田常蔵が制作した。
明治34年(1901)、屋台の保管場所であった浅慶院の火災
に遭って、彫刻の一部を除いて、ほとんどが焼失してしまっ
た。現在は、彫刻の一部が、獅子神楽屋台に取り付けられ、
活用されている。(写真①)
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長沼地区の六地蔵町内会は、永い伝統を持ち、大正11年まで、秋季大祭に曳行していたと言
われる「祭り屋台」を修復組立、このほど88年ぶりに「屋台巡行」が華やかに行われた。
平成22年10月11日、午前11時30分頃、錫杖を先頭に、猿田彦大神(写真①)が鎮座
した「祭り屋台」が屋台蔵をスタートし、真っ赤なりんごが実る御馬通りを六地蔵町方衆が屋台
を曳き、「四丁目」などの独特な祇園囃子のリズムに乗って、町内を豪快に練り歩いた。
穂保研修センター前では、長沼神社宮司ら、大勢の見物客が見守る中、屋台の引き出し舞台で
は、神楽保存会の若衆らの「獅子の舞」(写真②)や日舞『俵星玄蕃』の「槍の舞」(写真④)な
どの勇壮な舞が次々に披露され、町内を埋めつくした未曾有の見物客の目を楽しませた。また、
長沼こまち太鼓と子どもたち協働の力強い太鼓(写真③)が「屋台巡行」を一層盛り上げた。揃
いの法被を着た子どもたちは、最後まで力強く元氣に「祭り屋台」の先綱を曳き、胸いっぱいの
貴重な思い出をつくった。
長沼には、地域の地熱力があり、住民の情熱力がある。今回の「屋台巡行」を機に、今後、
「屋
台巡行」の永続化のために、全住民協働の秋祭りとして定着させ、熱気と興奮、賑わいを呼び込
む住民の知恵と力を寄せ合いたい。
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長沼の「祭り屋台(山車)」をめぐる宮大工・宮彫師関係図
江
幕府巨匠
江戸立川流
木原杢之守
大隈流
初代亀原
諏訪立川流初代内匠
和太四郎
立川和四郎冨棟
嘉重(1744)
延享元年(1744)生
高山村
諏訪桶職塚原家二男
嶋村流
石川流初代
分派
立川小兵衛冨房
戸 彫 刻 御 三 家
後藤流
石川藤吉豊光
諏訪大社下社秋宮
谷文晁
長沼正覚寺本堂
兄
南宗画
池田宰兵衛
妻科村
二代内匠
北村喜代松
京都御所・豊川稲荷
立川和四郎冨昌
(三代正信)
善光寺・諏訪大社
▼左下へ続
飛騨高山の祭り屋台
く
西後町十念寺
弟
池田文四郎
武水別神社
三代亀原
後年立川姓名乗る
和太四郎
長沼大田神社
嘉博
三代立川
初代
和四郎冨重
文化6年(1809)生
武田常蔵豊洽
長沼妙願寺
小布施東町・
長沼赤沼北組屋台
上町屋台
赤沼村一の配
柳原小島の踊り舞台
清水与作
柳原小島の
小島村
門灯籠
長沼西厳寺
山嵜儀作豊勝
渡辺林作
二代
赤沼上組屋台
天保2年(1831)生
安政5年(1858)生
武田常蔵
飯山市静間村
妻科村
▼後藤流
北村喜代松(三代正
問御所町・西後町など
信)天保4年(1833)
13か町の屋台を手がける。
新潟県市振村(現糸
長沼上町屋台
飯山市静間中町区屋台
長沼赤沼東組
魚川市)生。宮大工
三代
建部家長男。文久年
武田熊二
長沼妙願寺鐘楼
屋台
明治21年に
間(1861~64)善光
飯山市静間村
寺再建工事を機縁に
北畑区へ譲渡
長野村の北村家へ養
子に入る。
鬼無里の4つの屋台と長野市の緑町屋台(元鬼無里松原所有)を手がける。
飯山市秋津大久保区の屋台制作および北畑区の屋台(元長沼赤沼東組所有)の彫刻も手がける。
「長沼の祭り屋台」制作に関わった宮大工棟梁彫工たち
ときぞう
武田常蔵
1
赤沼上組の
祭り屋台の
棟札
彫刻:天の岩戸伝説
2
二代目
大工棟梁武田常造源義虎 (花押)
初代常蔵、赤沼村一の配の武田佐兵衛の次男とし
て文化6年(1809)に生まれる。
江戸に出て、谷文晁に師事し、画を学びその美術を
もとにして、彫刻を学び、当時関東無二の達人とう
たわれた石川藤吉(号は豊光)に師事して伽藍彫刻
を学び、修業して技術を高め、豊洽の号をもらって、
郷里に帰り、宮大工になった。その手になるものは、
近郷近在に数えきれない程といわれる。顕著なもの
は、赤沼大田神社本殿、妙願寺(万延元年(1860)
建立)、赤沼北組の祭り屋台(安政3年:1856 制作:
彫刻のみ現存)(写真①)等がある。
高弟に、妻科村の山嵜儀作、飯山市静間の宮大工、
渡辺林作(安政5年(1858)生まれ)がいる。
武田常蔵
通称伊佐吉、父は初代常蔵。技を父に受け、
その技は初代常蔵と並び称され、二代目常蔵
を襲名した。顕著なものは、大田神社の拝殿、
同鳥居、西厳寺、赤沼上組の屋台(明治9年
制作:彫刻は山嵜儀作:写真②③)等がある。
山嵜儀作
彫刻:日本武命の鷲退治
3
初代儀作、妻科村山嵜家に天保2年(1831)
生まれる。江戸の立川流の立川和四郎に師事し、
立川流を継承した。また、赤沼村の武田常蔵にも
師事し、神社仏閣の建築や彫刻、祭り屋台など多
くの作品を残している。顕著なものに、江戸後期
に作られた長沼上町の祭り屋台は、豪華絢爛、見
事な彫刻である。外に、問御所町(明治5年制作:
費用240両)、東町(同年制作)、西後町(明治
6年制作:費用215両)などがある。
(参考孫引引用文献:長沼村史、長野市の文化財、第四地区市制百周年記念誌、飯山市の文化財、
飯山の祭り屋台、鬼無里の歴史と風土、北斎研究所研究紀要)
悠々と曳行される祭り屋台から
はるかな時を刻む
先人たちの心意気が伝わっ
てきます。
それは、はるかな時を受け継ぐ
人々の誇りでもあります。
六地蔵町屋台巡行まつり
2010.10.11
(小山田昌弘氏撮影提供)
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