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我が青春の戦史 齋藤清(PDF形式:2799KB)

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我が青春の戦史 齋藤清(PDF形式:2799KB)
我が青春の戦史
別れを告げた。数時間して釜山に上陸、これから長い長い有葦
に歌われた大平原は行けども行けども麦畑。終わると綿畑、と
昭和二一年二月五日、佐世保の復員局より汽車に揺られなが
私の原隊は中国華北省北支派遣軍の河部隊、この第四一師団
うもろこし畑で地平線が見事である。太陽が地平線から出て地
貨 車 の 旅 で あ る 。 朝 鮮 半 島 を ガ ッタンゴ ット ン 、 が ッ タ ン ゴ ツ
の戦友達はニューギニアに転戦を命ぜられ、このニューギニア
平 線 に 沈 む 穏 や か な 穀 倉 地 帯 を 、 ガ ッタンゴ ット ン 、 ガ ッ タ ン
ら疎開先の長野県岡谷市の母の元へ還った。敗戦帰還兵の目に
において全員散華している。こうして異郷に屍を曝した日本兵
ゴ ット ン と 過 ぎ る 頃 か ら ト ー チ カ や 望 楼 を 見 た 。 済 南 作 戦 、 徐
トンと北上し、満州 (
中国東北部)は奉天を過ぎていよいよ我
は二百万人を超えると聞くにつけても、運よく日本の土を踏ん
州会戦を頂点として、占領地区は、徐々にではあるが、
映った鉄道沿線の惨憎たる焼け野原は、祖国日本の再起不能を
だ上に、あれから平和な戦後を生きてきたことを思うとき、何
安地区が拡大しつつあった。蒋介石の中国軍は、重慶の奥地に
が国の二六倍の中国大陸。初めての駅が山海関である。延々と
も彼も夢としかいいようのない思いである。中国大陸で過ごし
逃 げ 込 ん で し ま った 。 当 時 中 国 に は 八 路 軍 と い う 中 共 軍 が い た 。
一応治
た足掛け五年間の兵歴も、また青春時代に深く併で結ばれた温
この八路軍が反抗し、しばしば駐屯地を侵し、鉄道を破壊し、
軍の手により開通した津浦線を南下。治安状況によっては二時
電話線を切断する等の挙に出ていた。華北省の都天津より日本
場へ向かって船出した。関門海峡を通過、海上より見る本州、
間 以 上 停 車 す る こ と も あ った 。 日 米 開 戦 後 の 緊 迫 し た 状 況 下 で 、
昭和十七年七月初め、宇品より幾多の先輩達が血を流した戦
情 の 地 で も あ った
。
思わせた。あれから半世紀の歳月が経過しようとしている。そ
丁 、色
目 {円
続く万里の長城を眺め、偉大なる中国を初めて見た。﹁麦と兵隊﹂
南
の後の日本は、正に驚異的復興を成し遂げた。
藤
九 州 の 景 観 は 見 事 で あ った 。 遠 く か す ん で 行 く 故 国 に 造 拝 し 、
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禁
朝 食 、 昼 食 、 夕 食 と 行 く先々の兵姑で準備してくれる弁当を、
ンタで飛ばされる、 ひ ど い 毎 日 が 続 く 。 こ れ が 軍 隊 生 活
下痢と腹痛で苦しみ死亡する者も出た。野戦病院で死んだ者は、
の検閲まで続 く 。 こ れ に 耐 え ら れ ず 脱 走 す る も の 、 手 棺 弾 で 自
釜山上陸以来一週間、ようやく目的地の徳県に到着した。第
小きな箱に白布で包まれて中隊に帰って来た。戦病死者も多く
粗 末 で は あ る が 有 り 難 く 頂 戴 す る 。 何 せ 千 名 か ら の大 部 隊 で あ
四一師団中将真野五郎、鬼の河部隊、これが私の原隊。これか
出た。 ほどな く一 期 の 検 閲 も 終 わ り 、 半 人 前 の 兵 隊 さ ん が 出 来
殺するもの、飲んではいけない生水を我慢出来ず飲んだら最後、
ら 五 か 月 間 、 星 一つの 二等 兵 。 格 子 な き 牢 獄 、 星 二 つの 一等 兵
昭 和 十 七 年 十 二月 、 星 二 つの 一等 兵 に 進 級 し た が 、 新 兵 が 来
たようだ。これから衛生勤務等、色々な勤務につくことになる。
る。大変なことだ。
期
。
に な る ま で そ れ は 厳 し い 訓 練 で あ った
起 床 ラ ッパ で 跳 ね 起 き 、 床 片 づけ 、 服 装 を 整 え 、 営 庭 で の 点
始まる 。 教えられながら馬を引き出し、寝藁干し、馬房の清掃、
わ せ る こ と が あ った 。 気 流 に 乗 って 日 本 に も や って来る黄砂の
その日は晴れているのに黄塵万丈、太陽が薄れて夕暮れを思
るまでは忙しいことに変わりはない。
馬草入れ、水飼、飼付けと、息つく間もない忙しき。兵営に帰
吹き上げである。また、大発生したいなごの大群の大移動。ど
ごい の
一 語につきる。
いよいよ 冬 期 、 気 温 は 零 下 二O度 、 大 陸 性 気 候 と い って東京
た く た と な って 、 タ 点 呼 が 終 わ り 、 や れ や れ ひ ど い 一目だ った
、
の守則の勉強である。朝から新しく厳しい軍隊生活の体験にく
終わ ってや っと夕食となる。夕食後は勅諭の暗唱に始まり、色々
ュー ギ ニ ア に 到 着 し た こ と は 一年 位 あ と で 聞 い た が 、 こ の 大 部
団は、艦隊の護衛のもと、ニューキニアに向かった。無事にニ
ニアに転戦の命下る。次々と出動部隊は青島に集結。大輸送船
。 ニューギ
昭 和 十 八 年 早 々 、 部 隊 が 急 に あ わ た だ し く な った
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呼。 点 呼 が 終 わ る や 厩 ま で 駆 け 足 。 こ れ か ら 馬 と の 付 き 合 い が
って 洗 面 、 朝 食 。 味 を 噛 み し め る 余 裕 等 な く 、 汁 を か け て 流 し
こもかしこもいなごだらけ、地球上緑一色。軍服も緑、口を開
日諜 の訓 練 が 始 ま る 。 不 動 の姿 勢 に 始 ま り 、 銃 の 名 称 、 射 撃
訓 練 、 午 後 は 馬 の 扱 い 方 、 鞍 の 置 き 方 か ら 乗 馬 訓 練 、 終 わ って
これでや っと 就 寝 出 来 る わ い と 一服 と 思 ったとた ん、﹁補充兵集
隊は 二度 と 帰 る こ と は な か った 。 私 達 も 軍 馬 と と も に 少 し 遅 れ
育ち の私達には誠に厳しい寒きである。
合 ﹂ と 古 年 兵 の 援 が 始 ま る 。 な ん の か の と 援 は 厳 し い 。一 発ビ
馬 の 手 入 れ 、 水飼、飼付けをすませて、班に帰れば銃の手入れ、
ければ口 の中 へ 飛 び 込 ん で 来 る 。 大 空 は こ れ も 夕 暮 れ 、 誠 に す
いただきましたで終わる。手は馬糞だらけ、 三 歩 以 上 は
み
駆け足である。
込
艦隊は、兵員輸送の艦船が極度に不足してしまっていたようだ。
と言う。ガダルカナルの日米海戦において大打撃を受けた連合
た。来ていれば今日の私はなかった。人生の分かれ目は紙一重
て青島に集結。二か月間二次輸送船団を待ったが遂に来なかっ
とのない場面に突き当たった。夕刻司令部より指令があり、す
解出来ないことが戦友から戦友へと伝わり、今まで体験したこ
が入り、 どうやら敗戦らしいと吾一雪ノ。無傷の中国派遣軍には理
く、よく聞き取ることが出来なかった。司令部から徐々に情報
下 全 員 営 庭 に セ ット き れ た ラ ジ オ を 聞 い た が 、 混 線 は な は だ し
べての文書類を焼 却 、 兵 器 の 整 理 を す べ し と 、 そ の 対 応 は 大 変
昭和十八年初めにして戦力の低下はいなめなかった。
本隊にはぐれた私達の部隊は、天津に司令部のあった独立混
だった。今あの時のことを思い出して、よく大過なく難題を解
蒋介石総統の命令で、中国全土の日本軍将兵を、奥地の駐屯
成第九旅団(谷部隊)に転属になり、徳県から天津の北方、タ
た。と同時に中国の大都会天津の東姑駅前にあった天津兵描事
部隊より順次帰還させると言うことを聞いて、 頭の下がる思い
決して無事帰還出来たものだとつくづく思う。
務所勤務となった。南太平洋のソロモン島の敗北、サイパン島
。
であ った
ーク│地区の警備を担当。昭和十八年十 二月、上等兵に進級し
の玉砕と、戦況は極めて悪化していたが、中国派遣軍百万の将
昭和二O年 九 月 、 米 軍 の 中 国 進 駐 に よ り 天 津 北 姑 の 部 隊 兵 舎
を 明 け 渡 し 、 天 津 駅 よ り 南 へ 三0 キ ロ ほ ど の 槍 県 に 移 駐 。 昭 和
兵には、このような情報は伝わらなかった。昭和十九年六月、
主計下士官の教育のために、北京の東にあった郎坊に派遣され
軍 の ゲ リ ラ を 制 圧 す べ く 出 動 。 帰 還 ま で 武 装 解 除 せ ず 山砲、野
一 二 年 初 め ま で 蒋 介 石 の 中 国 軍 を 助 け て 、 八 路 軍 、 現 在 の中共
昭和十九年十月、兵長に進級した。引き続き天津兵姑事務所
砲という強力な戦力を持っていたので心強かった。中国軍の要
た
。
において従軍看護婦の一団の宿泊、連絡のための将兵の宿泊者
請により、時々山砲の発射が営庭より行われ、使役を全うした。
に好意的で、なんらトラブルはなかった。
そ の た め か 、 武 装 解 除 さ れ た あ と 、 帰 還 に あ た って 中 国 軍 は 割
の 手 続 等 、 ま た 内 地 帰 還 者 の兵姑事務等についていた。
昭和 二O年 三 月 、 主 計 伍 長 に 任 官 し た 。 そ の 五 月 、 天 津 駅 兵
枯の谷部隊砲兵隊に転属となった。
り上げられた私達は丸腰。途端に捕虜となり不自由の身とな っ
いよいよ帰還命令が下り、 天 津 貨 物 廠 に 集 結 し た 。 武 器 を 取
剣 術 大 会 の 試 合 が 行 わ れ 、 私 も 竹 万 を 持 って参 加していたが、
た。乗船手続きも完了した。﹁崎﹂という字のつく名前の人は、
そ れ は 昭 和 二O年 八 月 十 五 日 。 部 隊 三個 中 隊 挙 げ て 剣 術 ・ 銃
正午に重大放送が行われると言うことで中止となり、部隊長以
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戦犯容疑者として残されたが
この人達は別に調べもなく、
か月ほど後に後続の帰還兵と一緒に帰られたと聞く。
度や二度では合わない始末。やっと仕上げた時は夜は明け放た
これでどうやら各自にお渡しできるとホッとするとともに、
送り出して少し余裕の出来た夕べ、大広間で上陸二日目を迎え、
晴 々 と し た 最 後 の 仕 事 を や り 終 え た 満 足 感 が あ った。 第 一障を
瞳 で 、 船 内 にM 4戦車を十台くらい収容できるようであった。
生死を共にしてきだ親しい方との最後の別れの一夜だった。
塘 泊 港 よ り 私 達 の 乗 っ た 米 軍 のLSTは 千 ト ン 位 の 戦 車 揚 陸
この LSTの 艦 底 に 詰 め 込 ま れ た 千 人 近 い 我 々 引 き 揚 げ の 将 兵
国神社の奥深く、神殿に参拝。戦没された多くの戦友の冥福を
昭和五四年九月二九日、再会出来た戦友四十余名とともに靖
たが、浮沈の激しい小きな船での東支那海の一週間は、自分の
祈ることが出来た。
は、磁石を見ながら日本のいずれに到着するのか噂し合ってい
リュ ック に 身 を 託 し 、 波 の 静 ま る の と 早 く 到 着 す る の を 祈 る よ
りなかった。
﹁オ│イ着いたぞ﹂と甲板から叫ぶ戦友の声で、艦底でうつ
らうつらしていた私は、甲板に飛び上がって、どこだどこだと
叫んだ。佐世保ということだ。海上から見る佐世保の港内や遠
く霞む緑の山々の美しき。しばし疋然として見とれていた。荒々
しい軍隊生活で忘れ去っていた心の安らぎを覚えたことを懐か
しく思い出す。 LSTの 船 首 が 聞 き 、 い よ い よ 上 陸 の 時 が 回 っ
て来た。私は、帰って来たぞと大声を出しながら飛び上がって
日本の土を踏んだ。それは、 昭 和 二一年二 月 一日の午後だ った。
多くの戦友は、 翌 二 日 の 早 朝 、 東 京 行 の 列 車 で 部 隊 の 半 数 が 故
郷に向かうということで、それに間に合わせるべく俸給臨時手
当の支給計算に徹夜をした。九州といっても二月の深夜、ぞぐ
ぞくするほど寒い。火の気は全然ない引揚者収容所の一室で、
ソロパンをはじく指ももつれがち。それに眠気も手伝って、
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れ
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