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つれづれなるままに…。 - 三重県公立小中学校事務研究会

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つれづれなるままに…。 - 三重県公立小中学校事務研究会
きらめき
つれづれなるままに…。
伊賀市立島ヶ原小学校 中村祐子
「ひろば」の原稿依頼をいただいた。支部委員さんのご苦労も考えて
「まあ、1 ヶ月もあればなんとかなるかな…」と思い、ひとつ返事で引
き受けた。
というものの、なかなかネタが思い付かない…。そうこうしているう
ちに、タイムリミットも越えてしまった。
支部委員さんに相談したところ「今年異動で新しい学校に来てみて
云々はどうでしょうか?」とヒントをいただいた。
しかし、異動してからの3ヶ月間、ほとんど余裕なく日々送ってきた
感のある私にとって、今の学校について文章をしたためるには体験不足
である。しいて言えば、そう!この間、どういう訳か校舎に迷い込んだ
沢蟹を職員室前廊下で発見した。しかし、それだけで話を終えるのはき
つい。『沢蟹との格闘』…誰が喜んで読むのだろうか??
でも、今の学校はホトトギスの声が聞こえたり、キジが学校周辺でう
ろついていたりと、自然に囲まれた実に良い環境である。子どもたちの
楽しそうに遊ぶ声を聞いていると、余裕のない中でもホッと癒される。
早く落ち着いて今の学校の素晴らしさを堪能したい、と心から願う今日
この頃である。
「なるようになる」
文集の寄せ書きに必ず書かれていそうなこの言葉。学生当時は漠然と
した言葉で、いまいち心に入ってこなかった。
でも、年を重ねるにつれ、この言葉が私の座右の銘といってもいいほ
どの言葉となってしまっている。
初めての海外旅行で飛行機が揺れて「このまま異国の地で墜落!?」
と思った時も、体をこわして入院した時も、その他幾度かの壁にぶち当
たったときも、ありがたいことに今までなるようになってきた。
壁にぶち当たっている時は落ち込んでしまうし、もう二度と遭いたく
きらめき
ないしんどい経験もいくつかあるが…。
でも、
「なるようになる」ためには、それなりの自分自身の行動も必
要であり、
「なるようになった」としても、それは自分ひとりの力でな
ったのではなく、人に支えていただいた結果であったり、何かに守られ
ているかのような偶然の賜物からの結果であったりするのである。感謝
の気持ちは忘れてはならない。
たまに「なるようにならなかった」と思うこともあるが、“禍福は糾
える縄の如し”とでも言うか、一見うまくいかなかったことが長い目で
見るといいことにつながっていくということもある。
今の余裕のない気持ちもいつかはなんとかなっていくのである。
これからも「なるようになるスピリット」で、前向いたり、横向いた
りでぼちぼちしていきたい。
いささか理屈っぽくなってしまいましたが、気付いたら「ひろば」の
原稿もなんとか完成しました!
なるようになりましたね!やったー!!
きらめき
旧人類?!
伊勢市立豊浜中学校 小岸麻弓
採用時以来、今回が2度目のひろば投稿となります。お世話になった
方々、お元気でいらっしゃいますか。(^^)
昨年10月、3度目の育児休業から復帰させていただきました。経験
年数(とシワと白髪)は増えていますが、育休→復帰を繰り返した結果、
未だに採用当時と変わらず進歩のない自分に日々焦っています。
家庭の話になりますが、我が家は一応とってもにぎやかな5人家族で
す。ですが、4年前に夫が単身赴任をすることになり、平日シングルマ
ザーで必要以上にアタフタした毎日を過ごしています。きめ細かな子育
てを目指していたのに(ウソっぽい)、今や育児放棄のような状態です。
最初、子どもたちも父親のいない寂しさからか笑顔が少なく、私自身も
「この状態は限界かも~」とブツブツ。でも、さすが現代!文明の利器!
すごい!パソコン上で Skype(無料のインターネットビデオ通話)を利
用して、朝晩常時お互い顔を見合わせて会話ができるので、慣れればど
んとこ~い!何かと時間に追われていますが、ギリギリで過ごしていま
す。
育児をしていると、
「子どもってすごい」と思うことがたくさんあり
ます。ビックリするほどの成長の速さに、親の方がついていけません。
育児休業中に常に私がしていたことは、「時間があったら休息をとるこ
と」と「TV で芸能情報のチェック(NEWS と言わないところがイケて
ないところですね)
」だけです。そんなグ~タラなスロー生活を追い抜
いて、1番上の小5の娘は何もかも自分でできるように育っていました。
娘が大きくなったら、
「一緒にショッピング~♪」だと、勝手に描いて
いたイメージは完全にスッ飛びました。休日は、ショッピングではなく、
友達とどこぞへ約束してさっさと出掛けてしまいます。昔なら、休日の
約束も電話か直接会話が通常の手段だったと思いますが、今や時代は変
わる変わる……。DSで通信ゲームを通してネット会話しているようで
きらめき
す。2番目の小1の息子も2歳からDSで遊んでいるので(こんなもの
を持たせてアホな親です)
、怖いもの知らず。どんどん新しい機器に慣
れていっています。夫の(スマホを含む)タブレット端末でゲームをし
たり…、生まれて7年(まだ“ひらがな”がうまく書けない)子どもが
使いこなしているなんて。こんな二人の小学生の口から「通信は Wi―
Fi の方でやるよ~」なんて会話がされると、「なんて時代なんだ…」と
完全に時代に取り残された自分はますます落ち込む一方です。そう…私
は未だにスマホを持ててない、二つ折りケータイをこよなく愛する“旧
人類”です。最近は、二つ折りケータイを持っている人を見かけると親
近感さえわいてきます。時間の余裕のなさを棚に上げて新しい事を受け
入れられないでいる私ですが、まだまだ長い人生、これ以上生きた「化
石」になってしまわないようにボチボチ子どもに教えてもらおうかな~
なんて思っています。すこしでも子どもの会話についていけるように…。
きらめき
あなたの知らないであろう電気のいらない世界
いなべ市立中里小学校 宮本真義
“人狼”って聞いたことありますでしょうか?
「”オオカミ男”のことでしょ。知ってる、知ってる。
」って方は当たっ
てるけど、ハズレです。
「映画だよね。観たことあるよ。」って方、なかなかマニアックですね。
でも同じくハズレてませんが、当たってません。
私が言いたい“人狼”はカードゲームの”人狼”です。
今、大流行中で毎週末、草の根的に”人狼”を遊ぶイベントが開催され
ていたり、芸能人が”人狼”で遊ぶ様子が TV 番組として何度も地上波で
放映されたりもしております。
そんなわけで、ちょっとしたゲームブームが来ています。
今まで個人輸入に頼っていた業界で、日本語版のボードゲーム・カー
ドゲームが多数販売されるようになりました。
実は日本って、電源のいるデジタルなゲームには強くても、電気のい
らないアナログなゲームに関しては先進国ではないんですね。手軽で面
白いボドゲ・カドゲの本場はドイツなんです。
ボードゲームって、ゲーム大国ドイツでは家族で遊ぶ教材です。
毎月沢山のゲームが発売されますし、その年に発売されたゲームを対
象に毎年権威ある賞が選ばれます。大きなイベントや見本市も開催され
て、世界中から人が集まりますし、ドイツ国内からはそれこそ文字通り
老若男女が参加するのです。
さて、長々と薀蓄を垂れましたが、ゲームはやっぱり遊んでみてナン
ボです。比較的見つけやすい物をご紹介いたしますので、ご家族との触
れ合いに、親戚が集まる機会にでも一度遊んでみてくださいね。
きらめき
●ブロックス 3,300円 2人・4人用
ボードの4角からブロックを順に置いてゆき、置けなくなったプレイ
ヤーが脱落します。残ったブロックの少ないプレイヤーの勝ちです。
直観的でわかりやすいルールで、なおかつ頭をひねる、フランス生ま
れのパズルゲームです。
全国の玩具屋さんで売っています。
●ニムト 1,000円 3~10人用
毎回「いっせーの」で手札を1枚ずつ出してゆくだけなのに、
「出し
たくない、でも出さなきゃいけない」とハラハラドキドキ。
ネット通販以外でもハンズ等で売ってます。
●カタン(カタンの開拓者たち)3,990円
(携帯版2,100円)3~4人用
島を開拓して自分の街を発展させるゲームです。
収穫物が手に入るのはサイコロ次第ですが、プレイヤー同士で取引し
たり、子どもから大人まで楽しめる本格派ゲームです。
世界大会も開かれていて、日本でも毎年代表戦が開催されています。
これもまたハンズ等で販売してます。
●人狼(
「汝は人狼なりや?」「ミラーズホロウの狼男」「タブラの狼」
)
1,470~2,520円 8~28人まで様々
村人対人狼の正体を隠した対決です。脱落させるプレイヤーを一人ず
つ決めてゆき、村人が生き残っている人狼と同数になったら人狼の、人
狼がいなくなれば村人の勝利となります。
ライセンスフリーのゲームなので、いろいろ流通しています。
きらめき
「道路が町にやってくる」
御浜町立御浜中学校 工藤義広
ハイウエイ・・素敵な響きだ!まさに夢のような話である。何がって?
もちろん「熊野まで高速道路が開通すること」が・・である。紀伊半島
の先っぽ近くに住んでいる我々熊野の住民にとっては「高速道路を東紀
州へ」というのはまさに悲願であった。間もなくそれが達成されようと
している。さらに「熊野市~和歌山県新宮市」間も計画されており「紀
伊半島1周高速道路」の実現が夢ではなくなりつつある。もちろん実現
されるのはかなり先の話だろうが、この調子でいけば何とか生きている
うちに開通する可能性は大である。もしそんな日がやってきたなら、そ
の時は何が何でも高速道路を使って紀伊半島を1周しようと思う。そう、
たとえ高齢者マークを車の前後左右につけてでも、後続車両に如何に迷
惑をかけてしまおうとも・・・。
また、当地域において「紀宝バイパス」という道路もこのほど開通し
た。紀宝町井田から和歌山県の新宮市をつなぐ全長4.5km のバイパ
スで、昭和47年度に事業が着工され、昨今は渋滞緩和や災害時の代替
道路として期待されていた道路である。その道路が実に41年かけてよ
うやく完成した。4.5km を41年、単純に計算すると 1 年間に10
9メートル、1日に換算すると約30センチずつ前進していたことにな
る。そうやって考えると実に感慨深いものがある。ゆっくりと時間をか
けて4.5km を走りたくなるのが人情というものだ。と、先日そんな
ことを思いながら走っていたら、緩和されたはずの道で渋滞が発生して
いる。渋滞の先には高齢者マークをつけた軽トラック。運転されていた
方も感慨に耽っていたのだろうか、時速30キロで走行していた。いら
だつ気持ちを抑え「そう、そうゆっくり走りたいのだろうね、わかる、
わかる、いつかは自分も同じような速度で紀伊半島を 1 周する予定なの
だから・・」と心の中で呟き、将来開通する紀伊半島 1 周の高速道路に
思いを馳せた。
きらめき
話は変わるが、昔々(年代によって、いつからが「昔」かという定義
は様々だけれど)事務研の県大会において「峠の向こうの極楽浄土」と
いうサブテーマで熊野支部が発表をしたことがある。当時は熊野から津
に行くまでに三つの峠を越えなければならなかった。佐田坂・矢ノ川・
荷坂峠である。2時間の会議に6時間も7時間もかけて往復していた時
代の話。遠いがゆえに皆で車に乗りあわせて会議に出席し、帰りは途中
で夕食を食べ、帰宅は決まって深夜というのがいつものパターンだった。
一番遠くからみんなをひらっていくことが出来、敢えてアルコールを摂
取しなくても大丈夫!という体質である僕の車は、自然の成り行きで乗
りあいバスの様相を呈していた。そして道中いろんな話をした。職務に
関する質問やら少数職種であるが故の共通の悩みなどなど。そんな思い
出深い国道42号線の「峠」もこれからはトンネルで知らないうちに通
り過ぎていってしまうことになるのだろう・・。
まったく便利な世の中になったものだ。今のようにメールも携帯もイ
ンターネットもなかった時代は給与明細も教育事務所(教育事務所の存
在も過去の記憶に埋もれていきつつあるが)の棚にわざわざ取りにいか
なければならなかった。今では指一本を動かす労力だけでプリンターか
ら印刷されるのに・・である。メールやインターネット、給与・旅費シ
ステムのお陰で私たち事務職員の業務効率は著しく向上した・・筈だ。
なのに、この多忙感はなんなのだろう!?メールやインターネットがも
たらしてくれた筈の時間的なゆとり。しかしそれと引き換えにやってき
た多忙感や寂寥感。この相容れないふたつにとても矛盾を感じる。
「便利さ」を享受する代償に何か大切なものを私たちは失いつつある
のではないだろうか?仕事や日常生活でもゆっくり走ることも時には
必要なのではないか?そう、渋滞の先の軽トラックのように・・・。
高速道路の開通を目前に控え、そんなことを考えてしまう今日この頃
である。
きらめき
4度目の季節
in 桑名
桑名市立光陵中学校 遠山惇一朗
初めてのかたも初めてではないかたもこんにちは。桑名市立光陵中学
校の遠山惇一朗です。初任の3年間は東員町でお世話になり、4月から
桑名でお世話になっています。今回は同期から原稿を依頼され、初任の
とき以来3年ぶりに書かせてもらうことになりました。凄く書くことに
困りましたが、又、初任みたく初々しくはありませんが、近況報告や趣
味の話を書かせていただこうと思います。
その前に、東員町でお世話になった稲部小学校の先生がたや共同実施
のみなさま、教委のみなさまへ。
本当、数えきれないくらいのご迷惑をおかけしたのに、いつも丁寧に
親切にたくさんのことを指導していただきありがとうございました。こ
れからはそれを礎に、前を向いて一つ一つの物事を確実に進めていきた
いと思います。本当にありがとうございました。
では、改めて近況報告になります。今回の異動で小学校から中学校へ、
生徒数は3倍の学校へと、いままでと全く違う環境に変わりました。で
すが、幸いにも複数配置なので、日々先輩事務職員の方のもとで多くの
ことを学ばせていただいています。前任校が1人配置だったこともあり、
身近に事務職員のかたがいる今は恵まれた環境の中、日々色々なことに
お世話になりっぱなしで感謝をしてもしきれない状況です。この環境で
事務職員として根拠をしっかりもった仕事をできるように成長するた
め全力でがんばっていきたいと思います。よろしくお願いします。
さて、私には社会人になってはじめた趣味があります。それはマラソ
ンです。2年前・今年と長島のハーフマラソンを走りました。走ってい
ると心と気持ちがすっきりしてきます。さらに達成感が半端無い!しか
きらめき
もこのハーフマラソンは走ったあとに湯あみの島で温泉に入れる特典
がついているのでお勧めです。そして、今年の目標はフルマラソン挑
戦!!ちょっと頑張ってみようと思う今日この頃です。
きらめき
「趣味と実益」
菰野町立菰野小学校 小林友弥
はじめてパソコンに触れたのは小学校5年生か6年生の時だったろ
うか。父親が会社の勤続何年かの記念品としてポケットコンピュータを
貰ってきたのだ。コンピュータといっても関数電卓に毛の生えた程度の
もので、表示画面も1行のみの単純なものだった。
ただ当時小学生だった自分には「コンピュータ」という響きが非常に
魅惑的で、父にねだってそれを譲り受け、簡単なゲームプログラムを入
力しては喜んで遊んでいた。
中学生になるとお年玉をはたいて念願だった自分用のパソコンを購入。
家庭用パソコンのデータ記録にはカセットテープを使うことが多かった
時代に、なんとフロッピーディスクが内蔵されているという、ナウなヤ
ングもビックリなパソコンだ。パソコン雑誌に載っているプログラムを
入力してゲームを遊んだり、友達とくだらないプログラムを作って遊ん
だりしたのは良い思い出だ。
高校生・大学生の時にはそれまでの熱も冷めて、市販のゲームで遊ぶ
くらいになっていた。当時人気だったファミコンの方が手軽で面白かっ
たのも理由だと思う。
学校事務職員になった頃に、Windows95フィーバーがあったのと、
仕事を少しでも楽にしようという考えから、久しぶりにパソコンを買う
ことにした。ノートパソコンも今では10万円以下のものも多くなった
が、当時はちょっと高性能なものだと30万40万円が当たり前だった
ので、期末勤勉手当も給料も合わせて吹き飛んだのを覚えている。そう
いえば最初の頃は職員用の共用プリンターも校内ネットワークもなか
ったので、自分のプリンターを机に置いて使っていた。かけた苦労やコ
ストの割にそれほど仕事が効率化されてなかった気もする…。
意気込んで購入したパソコンでの仕事の効率化は停滞気味だったが、
趣味としてはインターネットやゲームで大活躍?していた。その頃のイ
きらめき
ンターネットは電話回線を使って接続していたので、電話料金が気にな
る人向けに「テレホーダイ」という夜11時以降は電話代定額で使い放
題のプランもあった。現在のように一瞬でネットのページが表示される
ことはなく、一つのページを見るだけで結構な時間が必要だった。今考
えると呑気なものだが、それでも当時は最先端だった。
その後の急速なパソコンの進歩と通信インフラ等の整備によって、学
校事務の現場でもコンピュータ化が大きく進んだのは御存じのとおり。
財務会計、給与や旅費の処理、有志の方々に作って頂いた効率的な事務
処理ソフト、資料や経路の検索など今ではパソコンなしでは仕事がまわ
らない程になっている。
昔は一日仕事だったのものが短時間で処理出来るようになったため、
事務職員の仕事がなくなってしまうのか?とも危惧したが、そこは真面
目な学校事務職員、その分の時間をそれまでしてこなかった仕事を受け
持つ事によって学校内外での存在感を増していく方向に上手くつなげ
ていると思う。
沢山の趣味と少しの実益を兼ねて使ってきたパソコン、これからも趣
味に、そして学校事務の良き相棒として楽しく付きあっていきたい。
きらめき
こんな私の独り言・・
松阪市立宮前小学校 中谷みどり
今日も子どもたちの元気な声とともに1日が始まります。こんな風な
毎日がもう30数年間。
実は私は、学校が苦手な子どもでした。新しい試みの前には必ず緊張
するし、人前で発表するのも苦痛。そして何より人と同じことを強いら
れるのが嫌だったのかなあと、大人になってから思うようになりました。
しかし、もともと学校という場所はそんな苦手なことが満載な世界。お
なかが痛い頭が痛いと言っては、保健室で休んだり早引きしたり・・。
自分自身が母親になって、わが子が毎日特別に嫌がりもせず学校に通う
姿を見てほっとしたものでした。
私が小学生だった当時は、ドッチボールの最盛期でありました。昼休
み、放課後を問わず明けても暮れてもドッチボール。そこでも私は、み
んなと一緒に同じことの繰り返しなのに、相変わらずワイワイと楽しく
遊ぶということができずに挫折。昼休みは図書室で本を読み、放課後は
走って帰って、テレビの[きょうの料理]なんぞを見ておりました。当
時の図書担当の先生は、そんなめんどうくさい私を咎めもせず、子ども
はみんなとお外で元気に遊びなさいと指導もされず、毎回良い本を勧め
てくださった。後々まで感謝感謝です。そのころに読んだ本の世界の
数々が、その後の私に大きく影響しているのではないかと思います。今
ここではない世界。そんな風なものにぼんやりあこがれていた子どもの
私・・・。
さて高校生になって、
[絵描きさん]といった風貌の美術の先生に会
い、そこで初めて油絵の世界と出会いました。何事も飽きっぽい私が以
来、ぼちぼちとではありますが、絵を描くことは続けております。
考えてみたら、いろいろないい出会いというものがあるものです。ひ
とり静かに、絵の具を練っている時間。自宅は田舎ですので、風の音、
鳥の声しか聞こえない。たった独りの時間。どんな時にも心を落ち着か
きらめき
せてくれる時間。自分に向き合い、取り戻す時間。心の中にこそ、本当
の自由があることを感じる・・・。
(一人昂揚)
年齢とともに、自分の内へ内へと想いが深まってきたように思います。
こういうとまるで仙人のように達観した風情を感じられるかもしれま
せんが、私なんぞはまったく煩悩の塊で、いつまでも自分自身のことが
よくわかりませんし、絵を描くこと自体がそれほど優雅なことでもあり
ません。そんな自分にあきないで付き合っていこうというところです。
絵を描いていることでも、大切な出会いがたくさんあります。私は今、
松阪市の美術協会というところで会員の皆さんとご一緒させてもらっ
ているのですが、どの方の作品もそれぞれすばらしい。いずれの作品を
前にしても、次こそはいいものを描きたいと思いこそすれ、人と張り合
うというような気持ちはわいてきません。人間のもつ何かを超えた普遍
の美をまえに、出来栄えの上下はないのだと思います。決して甘くはな
い世界ですけれど・・・。下手ながら、少しでもいい作品を描いて、絵
をとおして親しくなった方々に見ていただきたいと思います。
こんな私ですので、他人にはあまり興味が無い、どうも様々なことに
なじめないままで、今までそして今後も周りの方、特に同業者である皆
さんには、おそらく多くのご迷惑をおかけしていると思います。こうし
て仕事を続けてくることができたのも、たくさんの方々の助けがあった
からこそと、この場をお借りしてお礼申し上げます。いつ力尽きるかわ
かりませんからね・・。もう若くはありませんから、毎日生きているだ
けでたいへんです。大人は早引きもできず、人前では泣けませんし。し
かし、今この時が一番いいとも思えます。とりあえず、今日も子どもた
ちの声を聞いて仕事をすることができます。多分、それぞれにいろいろ
な思いを抱えて学校に来ているんだろうなあ。そんな子どもたちにちょ
っとでもお役にたつことができれば・・そんな思いで仕事をしていたい
です。
きらめき
純朴の我ふたたび
鳥羽市立答志中学校 桝屋美奈子
「宮人の玉藻刈りけむそのかみの磯風かおる答志崎」と校歌が始まり
ます。これは万葉集41番、柿本人麻呂の「釧つく手節の崎に今日もか
も大宮人の玉藻刈るらむ」を引用しています。
「手節」とは答志のこと
で、
「釧(くしろ)つく」とは、
「手」の枕詞です。
「釧」とは腕輪のよ
うなものです。この歌は、持統天皇の伊勢行幸の様子を想像して、人麻
呂が都で詠んだといわれています。陸上交通の発達した現代では、日に
数本の定期船で本土と行き来している離島は、へき地指定を受け、不便
な土地との印象が定着しています。しかし古代では、大きな荷物は人足
や荷車で運ぶより、船で運んだ方がずっと便利でした。そのため現在は、
鉄道の駅がある鳥羽本土の旅館街や市街地の方が賑やかで市の中心で
すが、古代では豊かな漁場を基盤に生活している答志島の方がよっぽど
賑やかで、重要な地域だったのです。
答志島には、先史から人々が生活していた跡が数多く確認されていま
す。そこには貝塚や土器、蟹穴古墳・岩屋山古墳などの古墳、おばたけ
遺跡という郡衙(ぐんが)の跡であろうと推定される古代の遺跡があり
ます。蟹穴古墳からは立派な自然釉長頸壺(しぜんゆうちょうけいこ)
が出土したとされ、現物は東京国立博物館に所蔵されています。おばた
け遺跡からは、倉庫の柱跡や円面硯が出土しています。志摩国が、答志
郡と英虞郡に分かれていた頃、行政の庁である郡衙が、答志島にあった
のです。これらの遺跡は、山の木々や畑の草に埋もれてしまっています。
平城京跡から出土した木簡には、
「答志郡和具郷戸主大伴・・海藻六斤」
と書かれたものがあります。春先、定期船を下りると、和具港周辺では
若布の釜ゆで作業をしています。2月から5月初めまで地区の人総出で
大忙しです。また、5月の大潮の日にはひじきの刈り取りがあり、広場
という広場にひじきを干します。ちりめんじゃこの季節は、学校の横の
干し場が真っ白になります。昔の人達もこのようにみんなで作業し、郡
きらめき
衙で取りまとめて、海藻などの海産物を都へ貢納していたのでしょう。
郡衙は今なら漁協みたいなものかな?と、昔の人も仰ぎ見たであろう、
おばたけ遺跡の後ろの山に向かいながら想像するのも楽しいものです。
「朝波のかがよう岸辺、夕波のさざめく磯辺、岩屋原」。これは校歌
の2番です。定期船を降りて和具港から答志中学校までは、1.2㎞。
バイクで3分、自転車で5分、徒歩で15分。晴れた日には、砂浜や岩
場に波が寄せ来る音を聞きながら出勤することができます。しかし、雨
の日はたいへん。小雨でも海からの風にあおられるので、雨合羽が必需
品です。上品な傘は持てません。毎朝、家を出るとき空を見て、佐田浜
の駐車場でもまた答志島の方の空を見て、帰りの天気を予想します。
「合
羽を持って行こうか、う~ん、帰りはぬれても、まっいいか。」
生徒たちは、校則どおり毎日制服を着て登校してきます。大雨の日は
体操服での登校も認められていますが、小雨でも、学校に着いたころに
は結構ぬれているはずです。雨にも負けず風にも負けず、毎日、坂を越
えて登校してきます。
「純朴のわれら島の子」校歌の3番です。私の母校も長い坂を登った
丘の上にあります。中学生のとき、傘を忘れて、びしょぬれで、家に帰
ったことが数回ありました。1枚しか持っていないウールの制服をアイ
ロンで乾かすのがたいへんでした。古代史に興味を持ったのも中学生の
ころでした。高松塚古墳とか、平城京の東院庭園遺跡とか、
「何で土を
掘っただけで、遺跡の年代や大きさがわかるんやろ。
」そんな純朴だっ
た時代のことを思い出させてくれる答志島です。
校長室には開校以来の職員一覧が掲示されています。懐かしい恩師や
先輩の名前もあります。現在、市営定期船は通勤時間帯には素敵な高速
観光船を運行してくれていますが、数年前までは今よりもっと不便な通
勤状況でした。先輩諸氏の苦労に思いをはせ毎日を過ごしています。
きらめき
投稿3回目の「ひろば」です
南伊勢町立南島中学校 中井瑞穂
この原稿をつくるにあたり、昔々の「ひろば」を引っぱりだしてみま
した。初めては新規採用の年。高校を卒業したばかりの19歳。第十一
集です。
(歳ばれるなぁ) 栗の実が描かれている黄ばんだ表紙を開い
てみると中はなんと縦書き・・・。私を含めて新規採用者10名の原稿
が掲載されています。皆さんが「事務職員一年生」という題で書いてみ
えるのに、私だけ「私の希望」
・・・やっぱり目立ちたがり屋だったん
ですね、若い頃から。当時はほとんど面識のない方ばかりでしたが、今
は数名お顔のわかる方がいます。お隣の中学校で勤務されている方のお
名前も発見しました。事務職員になっていったい何人の方々と出会った
のか、数えたことはありませんが、私は多くの出会いのおかげで、少し
ずつだけど、成長できたんだなと改めて強く感じました。
2回目は第二十八集。自分の母校の閉校に立ち会えたことを「新築の
女神」という題で書いています。これを含めて、校舎改築を1回、学校
統合を2回経験したのが、その頃の私のちょっとした自慢でした。女神
だなんて、目立ちたがりにずうずうしさもプラスされていますね。
そして今回は、私のその女神ぶりがまだ続いていることをお知らせし
たいと思います。2回目の原稿を書いたのが宮川小学校統合1年目。そ
の後異動した、旧大宮町の阿曽小学校も統合、1つはさんで、南伊勢町
の東小学校も統合しました。今お世話になっているこの南島中学校も、
今年度で閉校となります。女神も歳をとってパワーダウンしたのか、最
近の統合では校舎の改築はなく、改修が行われています。
こんなに経験を積んだ(?)学校統合ですが、慣れるということはな
く、とまどいばかりです。共同実施グループの方々や職場の皆さんに支
えていただいてなんとか3月を乗り切りたいと思っています。
まさか、7回目はないよなぁ・・・。
きらめき
「切符」
鈴鹿市立若松小学校 藤田美子
元気をもらう言葉、何かに気づかせてくれる言葉があります。
私は、11年前に介護休暇・家族介護休業を取得して仕事を休みまし
た。交通事故で要介護状態になった夫の両親と、完治不能の病気と告知
された長男を、私たち夫婦は抱えることになり、仕事が続けられなくな
ったからです。
日々の状況がしんどいというより、激変した生活にうまく対処できな
い自分がもどかしく、ずぶずぶと底のない深みにはまりこんでいくよう
な精神状態でした。
一方、夫は黙々と自分にできる最善を尽くしていました。夫が私に言
いました「明日は明日の風が吹く」と。その一言で、私は少しだけ前を
向くことが出来ました。
そして、
「切符」という言葉に出会いました。
「人は生まれた時に死への切符を手にいれる。
人は出会った時に別れの切符を手に入れる。
だから今を生きる。今を楽しく生きる。
」
限りある命、必ず来る別離があるからこそ、人々は『今を生きること、
今日を大切にすること。
』ができるのだということを、私は気づきまし
た。今まで、どうにもならない不安感で自分自身をしばりつけていたこ
とが分かりました。自分が、今生きていることを実感できました。
今でも「切符」は私の支えになっています。
休業前また復帰後多くの人たちにお世話になりました。
その時その時、心のこもった言葉をかけて叱咤激励してくれた人たち
に、心から感謝しています。
仕事ができる今この時を大切にしていこうと思います。そして、心に
響く言葉を、私も大切な人たちに伝えていきたいです。
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