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(下高田・黒川・宇田地区)(PDF文書)

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(下高田・黒川・宇田地区)(PDF文書)
文化財愛護シンボルマーク
文化財愛護シンボルマークは、文化財愛護運動を全国に推し進めるた
めの旗じるしとして、昭和 41 年5月に定められたものです。
このシンボルマークは、ひろげた両手の手のひらのパターンによっ
て、日本建築の重要な要素である斗栱(ときょう=組みもの)のイメ
ージを表し、これを三つ重ねることにより、文化財という民族の遺産
を過去、現在、未来にわたり永遠に伝承してゆくという愛護精神を象
徴したものです。
文化財防火デー(法隆寺金堂罹災の日)
1月26日
文化財保護法公布記念日
5月30日
文化財保護法記念日
8月29日
文化財保護協調週間
11月1日~7日
・・・・・M E M O・・・・・
妙義東部公民館
9:00出発
↓
(黒川ふれあい公園)
↓
円空仏
10:00
~
10:10
黒川城址
10:15
~
10:30
↓
阿曽岡公園
万葉歌碑
10:55
~
11:15
11:35
~
11:45
高田公会堂
12:05
~
12:15
↓
妙義東部公民館
(昼食・休憩)
↓
12:20
~
13:20
板碑
13:25
~
13:35
13:50
~
14:05
14:25
~
14:35
14:55
~
15:10
↓
(阿曽岡遺跡)
(宇田城址)
↓
山ノ根遺跡
↓
↓
高太神社
↓
虻田遺跡中世古墓
↓
伏見神社
↓
妙義東部公民館
(解散)
15:40到着予定
●
嘶渕
伏見神社
妙義東部公民館
●
虻田遺跡中世古墓
板碑
●
●
高太神社
●
高田公会堂
金比羅山
●
高田城
東八木遺跡
山ノ根遺跡
円空仏
● ●
●
黒川城
宇田城
●
阿曽岡公園
ふるさと歴史ウォーク案内図
~下高田・黒川・宇田地区~
・歩行距離:約10km
・歩行時間:約3時間50分
高田氏
鎌倉から室町・戦国時代頃の妙義には「高田氏」という有力武士
が居住していたことが知られています。
よううん
妙義町菅原の陽雲寺には「高田氏家譜」が残されています。これ
によると高田氏の系譜は次のとおりです。
源頼兼-源光国-高田盛員-政行-頼春-重員-義遠-勝政-
頼慶-政賢-遠春-憲頼-「繁頼」-信頼-直政-安政
もりかず
盛員は源頼兼の孫で美濃国から上野国菅野荘高田に移り「高田」
あ ず ま かがみ
を名のったということです。鎌倉時代の史書『吾妻 鏡 』の仁治 2
年(1241)の条に書かれている内容から、この頃に旧高田村(菅野
荘)に高田盛員の所領があったことが明らかになっています。
前期高田氏館跡
盛員の居館は、下高田の本村から高田川を渡り、中野谷及び人見
に向かう道の西側の地域とされていました。ここは 1986 年に道路部
分が発掘調査され、掘立柱建物跡 6 棟、溝 7 条が検出され、館の東
面が確認されています。遺物の時期からは 12 世紀末葉~13 世紀前
半に利用が開始され 14 世紀前半までの時期に最も栄えていたとみ
られます。
その後、14 世紀前半から 15 世紀後半にかけて空白の時代が存在し、
15 世紀後半代から館の利用が再開されたと考えられています。
こんぴらやま
金毘羅山
こ ん ぴ ら
まつ
頂上に金毘羅神社が祀られていることが、その名の由来となって
います。同じ場所には、
「こふこ山」と呼ばれる山もあります。この
こう ご や ま
山は、神籠山(山岳信仰による神の宿る山)とする説もあります。
1
ひがしばちぎ
東八木遺跡
平成 4 年及び平成 5 年に、ほ場整備事業に先立ち調査が行われ、
弥生時代後期から古墳時代前期(1900~1700 年前頃)、古墳時代後
たてあなじゅうきょあと
期から平安時代(1400~1000 年前頃)にかけての竪穴 住 居 跡29 軒、
ほったてばしらたてものあと
中世の溝跡・井戸跡・掘 立 柱 建物跡などが発見されました。遺跡は
高田川北側の斜面地に広がり、小規模ながら人が住んでいた様子が
うかがわれます。
また、東へ約 200mには黒川城址があり、本遺跡とどのような関
係があるのか注目されます。
えんくうさくじゅういちめんせんじゅかんのんりゅうぞう
円空作 十 一 面 千手観音 立 像
◇市指定重要文化財◇
えんくう
円空:寛永 9 年(1632)~元禄 8 年(1695)
あんぎゃ
美濃国(現在の岐阜県)に生まれた江戸時代前期の行脚僧です。
諸国遍歴の旅を続けながら数多くの仏像を遺し、生涯で 12 万体の
仏像を作り、現存するものでも 5000 体を超えると言われています。
円空仏は慈愛に満ちた「微笑」が魅力です。それまでの仏像彫刻
の伝統にとらわれない、大胆な表現で個性的な迫力にあふれた像を
刻んでいます。
ひのき
この像は、高さ 61.5 ㎝、幅が 20 ㎝ほどで、桧 材で作られていま
す。県内の円空仏の中では 2 番目の大きさです。足から下の台座部
分は切断されていて後世のものです。また、千手やその持ち物など
が部分的に失われています。前面には墨が塗られ、口元だけは赤く
彩色されています。背面は平らで、千手観音や不動明王さらに大日
ぼんじ
真言などを表す梵字が墨書きされています。
延宝 8 年(1680)から天和 2 年(1682)にかけて北関東をまわり、
その際かなり長期間にわたり貫前神社に滞在しており、不動堂に奉
納されていたこの像もこの時に製作したと考えられます。
2
黒川城址
黒川字雨の宮にあります。従来は、南東部に突出した尾根の上に
ほんぐるわ
築かれた小城とされてきましたが、高さ 35mの頂上を 本 郭 とする
城の範囲も考えられます。主体となる山と尾根の間には、南西面、
たてぼり
こしぐるわ
北東面ともに竪堀が切られ、標高 220m付近に腰 郭 がまわるように
見えます。尾根上には高さ 3mほどの高まりがあり、物見台、のろ
し台を兼ねていたと考えられます。
あ
そ おか
阿曽岡の万葉歌碑
かみつけ の
上毛野安楚農万所舞羅
あ
上毛野の
いだ
加幾舞多伎寝禮登安可奴遠
そ
ま そ
阿蘇の真麻むら
ね
かき抱き
あ
寝れど飽かぬを
あ
愛東可吾駕勢舞
あどか吾がせむ
「麻の束を抱きかかえるようにおまえを抱いて寝たが、飽きるこ
あずま
とがない、どうしたらいいのか」という、万葉集の 東 歌に収められ
ている愛の歌です。
上毛野阿蘇は、現在の栃木県安蘇郡があてられるという説があり
ますが、阿曽が同音であることや、この付近では古くから麻の産地
であったことから、昭和 11 年にこの地に碑が建てられました。
あ
そ おか
ごんげんどう
阿曽岡・権現堂遺跡
平成 6 年、ほ場整備のために一部が発掘調査されました。弥生時
代中期・後期の竪穴住居跡や堀の跡、古墳時代前期から奈良・平安時代
にかけての竪穴住居跡などが、
あわせて290 軒ほど発見され、
大規模な
集落が営まれていたことがわかりました。
ぜんぽうこうほうふん
また、阿曽岡の上では古墳時代前期の前方後方墳2 基、古墳時代
後期の円墳も発見されました。
3
宇田城址
宇田城は、本城、北城、西城、根小屋(字西小谷・字東小谷)、宿
を備えた戦国時代の城郭で、宿を除いた部分は、東西、南北とも 600
mの広がりをもちます。本郭の標高は 258m、宿からの比高は 70m
あります。この本郭は径 30mで、8m下を腰郭が囲み、北、西、南
東を堀で切っています。
西城は本城の西の砦で、昭和 63 年~平成元年にかけてゴルフ場造
ほりきり
くるわ
成工事のため発掘調査され、3 条の堀切 と 郭 が検出されました。
そのうち北端の堀切の規模は上幅 9.5m、深さ 2.5mでした。
天文年間(1532~1554 年)、宇田城主は国峰城小幡氏一族の小幡
図書介景定(景純)で、国峰城主の小幡憲重とともに、箕輪城主長
野業政の女婿でした。天文 22 年(1553)憲重・重定父子が武田信玄
方に属すると、長野業政は景定を国峰城主としました。下って、永
禄 4 年(1561)信玄が国峰城を攻略し、永禄 9 年(1566)には箕輪
城長野氏も攻略され、西上州は武田勢の支配下となります。
なお、字西小谷にある神守寺は、位置、地形から宇田城主の居館
跡と推定されます。
やま の
ね
山ノ根遺跡
はにわ
平成 10 年、畑の耕作中に偶然多量の埴輪が出土したことにより発
どこう
見されました。埴輪は、古墳ではなく小さな土坑(穴)から出土し
えんとう は に わ
ました。この中から、完全あるいはほぼ完全な形の円筒 埴輪 13 点、
あさがおがた は に わ
朝 顔 形 埴 輪 2 点などが出土しました。これらの埴輪は、古墳を造る
目的でいったん用意されたものの、実際に古墳が造られることがな
かったため、土坑に埋められたものではないかと考えられます。
周辺には古墳時代を中心とした集落が広がっているとみられ、平
成 15 年の調査では、古墳時代後期(1400 年前頃)の竪穴住居跡な
どが発見されました。
4
高田公会堂
間口 6 間、桁行 8 間の木造 2 階建瓦葺の建物で、昭和 6 年に建築
されました。大正 14 年に地域で草競馬が開催され、その時の剰余金
を原資に公会堂建設の気運が高まったことにより、建築されたと言
われています。
天井はトラス構造で広い空間をつくり出しており、建築当時は、
地域の劇場としても使用され、床は板の間で、観客はござを敷いた
り、こたつに入って観劇したと言われています。現在も公会堂とし
て地域住民の活動の
場に活用されていま
す。
平成 20 年度より群
馬県教育委員会が実
施中の「近代和風建築
総合調査」の対象とな
っている建築物です。
いたび
板碑
◇市指定重要文化財◇
いんどうば
この板碑があった場所は妙義町下高田の本村集落内で、引導場と
いう地名がついており、南方にあった真福寺の葬儀を行った場所と
考えられます。
むさし
武蔵型板碑と呼ばれる形式のもので、高さ 117 ㎝、幅 32 ㎝、厚さ
りょくでいへんがん
3 ㎝の大きさで 緑 泥片岩製です。頭部は山型で二条線の切り込みが
しゅじ
入り、塔身に阿弥陀三尊の種子が彫られています。種子の下には「貞
治五年(1366 年)十二月廿二日」と彫られており、「貞治」は南北
朝時代の北朝年号であることから、この地域が北朝の勢力下にあっ
たことを示す貴重な板碑です。
5
高田城址
高田氏は、永禄年間(1558~1569)-天正年間(1573~1591)途中
の頃、妙義町菅原に居を移していたことが知られており、その館は
よううん
現陽雲寺付近と推定されています。しかし、移った時期は明らかで
のぶより
はありません。現高田城址は、高田信頼(1552~1588)が在城した
当時のものであるとされています。
とおはる
のりより
遠春-憲頼父子は天文 16 年(1547)信州志賀城にて武田信玄と戦
い討ち死にしています。また憲頼の子繁頼は、信玄の永禄 4 年(1561)
いくしまたるしま
の上野攻めで降伏し、永禄 10 年(1567)には信州上田市の生島足島
きしょう
神社に起請文を捧げ信玄への忠誠を誓っています。その後、高田直
政は武田家滅亡後北条氏直に仕え、北条氏が滅亡後は徳川家に仕え、
武州豊島郡にて所領を得て徳川家旗本となりました。
高田城址は下高田字城の腰にあり、本郭の標高は 246m、本村か
らの比高は 46m です。尾根の末端部 400mの間に築かれ、北東部の
下段と中心部の上段の大きく 2 つに分けられます。虎口は北端で、
ほりきり
下段に 3 郭、上段に 2 郭(本郭)の他、堀切、腰郭が確認できます。
本郭の南側は平成元年に発掘調査され、幅 9.5m、深さ 2.8mの堀切
が検出されました。西城(物見台)に続く部分は、ゴルフ場の駐車
場になっていますが、西城の頂部は残っています。
6
た か た じんじゃほんでん
高太神社本殿
◇市指定重要文化財◇
こうにん
ちょうろく
弘仁年間(810~882 年)の創建で、長 禄 2 年(1458)に再建され
たと伝えられています。
おおい や
むなふだ
かんせい
現在、 覆 屋内に納められている本殿は、現存する棟札から寛政5
年(1793)の建立と考えられます。
けたゆき
はりま
ごはい
規模は、桁行約 120 ㎝、梁間約 130 ㎝で、向拝梁間 120 ㎝がつき、
のきだか
軒高約 280 ㎝の小規模な建物です。
いっけんしゃ す み き い り かすがづくり
のきから は
ふ
建築様式は一間社隅木入春日造で、屋根は向拝に軒唐破風をつけ、
こけらぶき
くみもの
み て さ き
お たるき
全面が 杮 葺 です。組物は、三手先で二段の尾垂木を入れた精巧な形
も
や
ぼたん
か ら じ し
が取られています。身舎四面の上部は牡丹に唐獅子の彫刻を施し、
え
び こうりょう
き
じ
海老虹 梁 は龍が丸彫りされています。それらは彩色を施さず、木地
けやき
を生かした 欅 造りです。
全体的に江戸後期の彫刻建築様式をよく示しており、特に棟札の
名前から建築は地元の大工によると考えられる貴重な社殿です。
7
あぶだ
虻田遺跡中世古墓
旧妙義町の町誌編纂事業に伴い、遺跡の保存と中世資料の収集の
ため、昭和 63 年に学術調査が行われました。
1号宝篋印塔
ほうきょういんとう
灰釉四耳壺
いたび
遺跡は宝 篋 印 塔 2 基と板碑9 基その他が発見された中世の墓地で、
丹生丘陵の北向き斜面の裾部、標高 215m付近に位置し、緩やかに
傾斜する小さな平坦面にあります。
これらの石造物のうち 1 号宝篋印塔とその供養塔と考えられる 1
号板碑の年代は、形式から 14 世紀中頃と考えられ、南北朝時代に造
られたものと推定されています。また、1 号宝篋印塔の下からは 13
こ せ
と かいゆう し じ
こ
こつ ぞ う き
世紀に作られたと考えられる古瀬戸灰釉四耳壺の骨臓器が出土しま
した。古瀬戸が骨臓器として使用されることはまれであり、当地に
おける中世の墓制を考える上で貴重な発見です。現在は県立歴史博
物館で保管されています。
だらにきょう
くようとう
ぼ ひ とう
※宝篋印塔・・・宝篋印陀羅尼経を納める塔。後には供養塔・墓碑 塔 として
建てられた。塔身の四方に四仏、または梵字を刻む。
8
ふしみ
伏見神社
するすみ
伏見神社は、大正 2 年に鹿島神社・諏訪神社・磨墨神社・加茂神
ごうし
社が合祀してできた神社です。
じゅえい
このうち磨墨神社は、寿永4 年(1184 年)の宇治川合戦の先陣争
かじわらかげすえ
いで梶原景季が乗馬した名馬「磨墨」を祀っていた珍しい神社です。
え
ま
現在残っている絵馬には馬が多く描かれていますが、磨墨神社の信
仰を良く残しています。
大絵馬
◇市指定重要文化財◇
拝殿内部に掲げられている、高さ 105 ㎝、屋根の幅 172 ㎝、板面
おおくにぬしの
の幅 118 ㎝の大きな板絵です。正面に馬とそれに乗る神(大 国 主
みこと
命 )、馬を引く馬方の神が描かれています。平成 18 年に補修、補強
が行われました。
幕末の 1846 年に描かれているにもかかわらず、県内でも珍しい江
戸時代前期の様式をもつ古風な馬を描いた大絵馬で、磨墨神社に奉
あぶ だ むら
納されたものと考えられています。
「当国甘楽郡虻田邑小板橋亀吉」
が奉納したという銘と、知典という人物の書(賛)であることが記
されています。
9
いななきぶち
嘶 渕
『平家物語』宇治川合戦の先陣争いに登場する源頼朝の愛馬で、
するすみ
げんた
いけづき
「磨墨」が梶原源太景季に、「生咬」(池月)が佐々木四郎高綱にそ
れぞれ与えられて、宇治川対岸の木曽義仲軍勢への一番乗りを争っ
たことで有名な、名馬磨墨に関する伝説が、嘶渕の由来となってい
ます。
おおげたさん
磨墨神社の由緒によると、磨墨は大桁山の生まれで、年老いて鎌
倉街道を故郷に逃げ帰ってきたときに、途中のどの渇きをいやした
じょろうざか
泉が一ノ宮の通称お女郎坂の磨墨の井戸、丹生までたどり着いた時
こまよせ
み
す
に村人が捕まえようと追い立てた場所が駒寄、御簾を張って捕らえ
ようとしたところ飛び越えてしまったので、この地を御簾の上とい
い、大桁山に向かえないので高田川まで下りたところ、深い渕にな
っていて渡れないのを悲しんで嘶いたのが嘶渕と呼ばれるようにな
きびす
ったということです。その後 踵 を返して丘の中腹で力尽き、大桁山
に向かって立ったまま死んだ場所(馬の宮)に村人が磨墨神社を建
まつ
ごうし
てて祀ったとされています。磨墨神社は現在伏見神社に合祀されて
います。
10
11
12
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