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つくば中央柔道塾だよりシリーズ

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つくば中央柔道塾だよりシリーズ
反秀才論こぼれ話
柔道編
[日本柔道のゆくえ]
(『つくば中央柔道塾だより』,1999.11 月号より)
今回の世界柔道選手権の日本圧勝のテレビを見ての感想ですが、来年のオリンピックは
こうはゆくまい、というのがいつわりのないところです。事実、この選手権をもう一度や
りなおしても、やはり金メダルだろう、というのは楢崎選手(女子 52k)と 前田選手(女
子 63k)くらいで、あとは田村(女子 48k)、阿武(女子 78k)、男子では篠原(100k 超無
差別)ただ一人が、それもあり得る、というところでしょうか。それにしても今回は勝ち
すぎ、というのがいつわりのない感想です。
というのも、日本の柔道人口は減少しつづけて現在 19 万人なのです。フランスは 50 万、
ドイツは 20 万といわれ、だから日本はもうすでに柔道王国ではないのです。どうして柔道
は日本人にとって(だけ)魅力のない競技になったのでしょうか、私見では、これはトッ
プの無能というに尽きます。
たとえばちょっと前、全日空のハイジャック事故で機長が殺されましたが、もし、小生
が全柔連の専務理事だったら、すかさず、すべての航空会社(外国も含めて)にパーサー
の一人に柔道経験者(軽から中量級まで)を雇うことを進言しますね。重量級は目立つし、
動きがおそいからダメです。あの場では警官やボディガードは使いものにならないのです。
なぜならピストルが使えないからです。機体に穴をあけたら、それだけで死活問題になる
からです。現在の専務理事は小生の後輩ですが、本気で柔道の行く末を考えているのだろ
うか、と思うことがあります。労働省の事務次官なんかやっていた役人さんが柔道界の屋
台骨を背負って立てるか、とはいいませんがカラオケにうつつを抜かす時間があったら、
これだけの民族文化が滅びていいのか、考えろ、というところです。
もうひとつは勝負規定のことです。今のルールではデブほど有利になっています。実際、
相手を圧倒する体重があったら、組んだらすぐ払い巻込みをかけ、亀になってうずくまっ
てマテを待つ、という柔道が可能で、これに対する罰則がひとつもないのです。もし、柔
道が武道で、つまり殺し合いを原点とするものなら、相手に背をむけて静止した時点で勝
負あったというべきです。
もし、自分が勝負規定の是非を決められる立場にあり、しかし、国際ルールはタッチで
きないものなら、せめて少年規定でも次のように変えることを提言するでしょう。巻込み
それ自体はよい。それできまったら一本。しかし、そうならなかったら亀からむきなおっ
て下から攻める態勢にならなければ反則(警告が適当か)をとる。こんな簡単な改正だけ
でも二つのメリットがあります。ひとつは下から攻める寝業は本来寝業の極意で(ただし
つらい、本気でやったらデブは激減するでしょう)、これをやらねば内股、払腰はかけられ
ない、となったら、現在の寝業の技術退潮にがっちり歯止めがかかる、ということです。
もうひとつはデブにとってあおむけに寝るということは亀の子がうらがえしになったよう
なもので、これをやらねばならない、となると立技におけるデブの有利さは完全に帳消
しになります。たとえば、私の後輩で、うちの金曜日の稽古にも二度来てくれた黒沢正敬
君という、東京オリンピックのときの軽量級の有望な候補だった男がいますが、これがヘ
ーシンクとお互いに 50 台で寝業の対戦をして、彼の崩上四方固めで肥満したへーシンクは
うごけなかった、というのかあります。体重は倍以上ちがうのです。適正体重というもの
がある、ということがこの例でもわかります。要は武道といわず、けんかにさえ役立たな
い柔道をどうして子供が習いたくなるか、ということです。今高校二年生の小座野は秋の
県大会の重量級優勝候補の最右翼ですが、彼の小、中学生の頃は彼が勝てないもっと大き
い相手がゴロゴロいました。彼らのほとんどは、ここへ来るまでに、払巻込みをかけ合っ
た揚句、体重の順に席次がきまることを悟って柔道がつまらなくなり、あるいはそれで怪
我をしてやめてしまったのです。肥満体を作りかえればよい選手になる、と予感させられ
る子は沢山いるのですが、それを実現するには、これが本来、殺し合いだったら、という
原点に戻ってルールを見直しさえすればよいのです。それを放置して、デブだらけの現状
に歯止めをかけるため大学選手権の団体戦を体重別にする(今年から)などとやっている
柔道のおえら方はどこをみているのだろう、という気がします。
[勝者と敗者]
(『つくば中央柔道塾だより』,1999.12 月号より)
トレバー・レゲットさんという柔道家がいます。この人は数少ない真の日本柔道の理解
者だと言える人ですが、最近読んだ記事に次のようなのがありました。
イギリスでは学校間のラグビーの試合のあとで、勝者が敗者に喝采を送り、それから今
度は敗者が勝者に喝采を送ります。日本の学校でも、これを行っているところがあります。
しかしイギリスでは、それが大学のスポーツでも行われているのです。試合のあとで敗者
が勝者を祝います。そして勝者も敗者を祝い、
「いい試合だった。ぼくらはツイていただけ
だよ」と言います。敗者は負けたことを恥ずかしいと感じることもなく、また勝者も勝ち
誇るということはないのです。少なくとも、あからさまに狂喜するということはありませ
ん。私は日本で学生の柔道の団体試合の決勝戦を初めて見たときのことを覚えています。
両チームとも全力を尽くし、大接戦を展開して、すばらしい戦いぶりでした。ところが驚
いたことに、表彰式のあとで負けたチームは逃げるように立ち去り、勝ったチームは表彰
台の上に立って、仲間の学生たちが大学の校歌を誇らしげに大声で歌っていました。この
シ―ンをどのように理解してよいのか、たいへんとまどってしまったのですが、負けたチ
ームを追いかけていって、すばらしい戦いぶりだったことを伝えて祝福しました。しかし
私は、彼らがひどく落胆しているのを知って、またも驚いてしまったのです。(月刊武道)
昭和 30 年代、柔道が運動能力のある日本の若者の最上層を独占していた時代、大学対抗
試合の応援合戦はすさまじいものでした。しかし、どうしてか、これは柔道試合にはなじ
まないもので、そう感じていた人が多かったせいか、40 年代の終り頃には応援団による応
援は禁止になりました。よかったと思っています。レゲットさんが感じた違和感は我々も
共有していた、といえます。「おめえらが入ってくるところぢゃねえんだ、ここは。」とい
うのが私の若い頃のいつわらぬ気持ちでした。
しかし、私は更にラグビーのようなエール交換も柔道にはそぐわない、と言いたいです。
これはスポーツではないのだ、抽象化した殺し合いだ、と思っている者が敗けたときに感
じるみじめさは、せめて一刻も早く、ひとりだけになりたい、という以外にありません。
エール交換など勘弁してもらいたい、握手などごめん蒙る、というのがすべてです。だか
ら、勝ったときも、相手の心がいかに傷ついているのかを思ったら、どうしてそらぞらし
い言葉をかけたり、まして握手を強要したりできるでしょうか。正しく一礼して、めだた
ないように引き下って、こちらも一人になったとき、改めて勝利の実感をかみしめる、と
いうことではないでしょうか。相手に何も強要しないで、頭を下げる、という、中世まで
は世界中共通であった目上のものに対する表敬法が試合後の儀礼として最も美しいのに、
これをわからず、改めて握手を強要する外国人は想像力が欠けており、これをきちっと教
えないどころか、相手に曳きずられてサルまねをするようになった日本人は情けない、と
しか言いようがありません。これを“そっけない”と感じるかもしれない生活習慣の外国
人に対しては、畳をおりてから、相手のようすを見て、そうしたらよいのです。勝負以外
の私事を畳の上でするのは無礼というものです。この真の意味の礼法 ---柔道界のおえら方
がいう礼法ではありません--- が、近頃目もあてられなく崩れて来ている原因は、選手が“負
けた”という実感なく“負けにさせられた”というのが多いからです。本当は俺が勝って
いたんだ、と思うから あのヤロウということになり、勝ったとき、腹いせのガッツポーズ
になるのです。勝敗の規定を、本来の殺し合いだったらここはどうするべきか、という原
点から見直せば審判は裁判官ではなく黒子となり、柔道はもっと面白くな
るのです。
たしかに審判規定も効果、有効、などというチマチマした改悪を除けば昔からズサンな
ものでした。最もきわだったちがいは、昔は柔道選手はもっと体が小さく、一方、きたえ
方は一桁上で、つまり体重当りの筋力がまるでちがっていたので、攻撃力は桁ちがいに上
で、一方体重がない分だけ受けは落ちるので、審判や規定などそっちのけで面白かったの
です。(陽平と岩上、篠崎の試合を思い出して下さい。)
選手が肥満化して柔道はつまらなくなったといわれているのに何も手を打たないで奥エ
リをつかむ是非など末梢的なことを言っているときではないと思うのですが…。
[万世橋の銅像]
(『つくば中央柔道塾だより』, 2000 年 3 月号より)
先日、うちの子供たち 11 人をひきつれてトヨタから招待券をもらったのでボートショウ
を見に行き、帰りに稽古の時間まで間があったので神田の交通博物館へ寄りました。休日、
太平の遊民でごった返す万世橋を渡りながら、昔この橋のたもとに廣瀬中佐と、それを下
から見上げる杉野兵曹長の銅像があったことを思い出しました。子供心に、これが何とも
いえぬよい構図であったことをよく覚えています。大人になってから知ったことは、この
二人は共に講道館の初期の門人で、特に廣瀬中佐は、今でも続いている月次試合で初めて
抜群(五人以上抜くこと、イコール即日昇段)を記録した柔道家である、ということでし
た。
ヨーロッパから回航して来るバルチック艦隊が来るまで、東郷の聯合艦隊を避けて兵力
を温存し、旅順湾の中から出てこないロシアの旅順艦隊を、それならば湾を封鎖してしま
おう、というのが旅順口封鎖作戦ですが、これは老朽船に自沈装置をつけて無防備で、ロ
シア軍の砲台の直下まで行ってそこで沈める、という、よほどの度胸がないととてもやれ
ない、しかも地味な役割の作戦です。これは志願兵のみを募って実行したのですが、戸川
幸夫が雑誌「柔道」に連載した嘉納治五郎伝よるとその中に当時の柔道人口の比率から見
て考えられない程多数の講道館の門人がいます。
軍神となった廣瀬中佐のほか、船を沈めて漂流中に捕虜になり、病院に収容されてから
も治療を拒否して死んだ湯浅少佐も柔道家です。その消息は彼を尊敬したロシア側が肖像
画を描かせてそれが戦後日本人の手に渡ったことから全貌が明らかになったことを初めて
知りました。下士官も杉野兵曹長のほかに何人もいました。杉野兵曹長について言えば、
彼はそのとき死んだのではなく、爆風で海に落ち、漂流後陸地へたどりついて意識を失っ
ているところを満州人の農民に保護されて、そのあと第二次大戦まで満州の謀報機関で働
いていたという説があります。
(最近出たその本をうちの小林先生から借りて読みましたが、
どうも本当らしい、と思えてなりません)
さて、廣瀬中佐のことですが、杉野兵曹長が海へ落ちたとも知らず沈みかけた船の中を
三回もまわって探した、とあります。上官と部下の連帯感なのか、同門の柔道家という気
持ちのつながりなのかわかりませんが、それでどうしても見つからず、他の部下全員がす
でに乗り移っているボートに移り、飛び交う敵弾の中で、キンタマが縮み上がっていない
か、しらべてみろ、などと冗談をいうのです。なにしろ敵の砲台のすぐそば、手漕ぎのボ
ートで、サーチライトに照らされ、打たれっ放しの中で、ただ逃げるしかないのです。と
そのとき突然、大砲の直撃弾が廣瀬中佐だけをさらってゆくのです。他の全員は生還して
いるのですから、本当の話が伝わっているのです。
廣瀬中佐はプ-シュキンの詩の本邦初訳者であったりして半端でない教養人でもありま
す。ロシア駐在武官当時、山のようなレスラーを皇帝の御前試合でやっつけた話をよく子
供の頃に聞かされましたが、文武両道の日本人というロシアの貴族社会で抜群の名声を持
っていたことが「ロシアにおける廣瀬武夫」(島田謹二著)に書いてあります。
僕は軍人でありながら武器を持たず、はるかに度胸の要る丸腰で戦う方を選び、柔道仲
間である部下を気遣って戦死した、というのが、なんとも柔道人らしくて好きなのです。
三島由起夫とかいう、徴兵のがれの前歴をもつ、足払い一パツでけしとびそうなあのこま
っちゃくれたボディビルダーの、自己顕示のかたまりのような死に方と比べてみて下さい。
僕には国士と右翼ぐらいの差があるように見えます。国士とは西郷隆盛や山岡鉄舟、とい
った人たちのことです。右翼とは宣伝カーでガナってまわっているあの連中のことです。
万世橋のあの二人の銅像も、僕と同じ気持ちを持った人が作ったのだろう、と思わずに
はいられない雰囲気がありました。ヨーロッパへ行くと、他国侵略の象徴であるなんとか
大帝とかカール何世とかフリードリッヒなにがしとかいう輩の馬に乗った銅像が敗戦国で
もこわされずに立っていますが、戦争に負けただけで、どうしてあのはるかに人間的な銅
像をみづからとりこわしてしまうのか、そのチャチな精神はがまんなりません。マッカー
サーのGHQがそうせい、といったのなら、僕だったらとりはずしてどっかにかくしてお
きますね。そしてほとぼりが冷めた頃、日本武道館の正面に据えるでしょう。
廣瀬中佐のように、とはいかずとも人間の「本物」というものがわかる人間になってほ
しい、ただ、僕のように「にせもの」をひどく憎む人間にはなってほしくない、というの
が当日帰途ゾロゾロ万世橋を渡ってついて来る子供を見ていて思ったことです。
[老人の執着]
(『つくば中央柔道塾だより』, 2000 年 4 月号より)
「東の国から」を初め多くの著書で日本を「内から」実感し、西欧に紹介した人として
ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は有名ですが、特に私にとって印象の深いものに旧制
五高(熊本)の柔道の稽古風景を書いた文章があります。ものすごい稽古の中で誰も一言
も発しない異様さに打たれ、どんな西欧のレスラーが来ても、ひとひねりで首の骨を折ら
れてしまうだろう、と書いています。今は伝説の中にある高専柔道の一風景ですが、この
時期(日露戦争前後)は柔道の創始者嘉納治五郎師範はここの校長で、そう言えばラフカ
ディオ・ハーンは嘉納師範に口説かれて松江中学から引き抜かれて五高の英語の先生とな
ったのでした。
この時期のもうひとつ印象深い文章は漢学の先生秋月悌二郎についてのものです。この
人は戊申戦争の会津藩の指揮官で、ハーンはこの人の古武士的な人柄を「神を見たような」
と表現しています。そして朝敵であるこの人を教育者として礼を以て遇した日本の教育制
度を讃えています。これももしかすると嘉納先生の仕事かもしれません。
このようなハーンですが、晩年は日本嫌いになったことは余り知られていません。奥さ
んだったか息子さんだったか思い出せませんが、その回想記に「もうこの国はいやだ」と
ハーンが言ったことが載っており、がく然とした思いでその部分を読んだことだけを憶え
ています。私自身、もし外国人だったらハーンに劣らないような親日家になったのではな
いか、と思うことがあります。士農工商のどれをとっても、その文化は世界に向って発信
したとき真の一流品として受入れられる(もっとも然るべき受信装置をもっている人に限
りますが)という牢固とした思いがあります。
その自分の中に、ハーンの没年をはるかにすぎた今頃、日本嫌いがガン細胞のように増
殖しているのを感じます。たあいない例からゆくと「カラオケ」というやつです。これほ
ど無礼な、イケシャアシャアという言葉を絵に画いたようなというか音にしたというか、
の文化を発信するところまで日本は来たか、という思いがします。「日本男児」が輝いて見
えた時代、それを目立たせた陰影は「含羞」だと私は思っています。うつむいて勝ち名乗
りをうける力士がその一例ですが、この言葉今は死語です。しかし、人からのまぶしい視
線を感じなければこの感情は発動しないものですね。もっとも、このカラオケ嫌いは私に
日本音楽(津軽三味線を除いて)が体質に合わないところからきているかもしれません。
外国人が日本の音楽の話をしはじめると、心の中にムクムクと、やめろ、音楽なんかを通
して日本を見るな、と叫びたい気がします。これだけの精神文化を生んだ日本人と、あの
演歌という抒情とは無縁のヤニッぽいセンチメンタリズムを歌っている日本人が同一民族
だとは僕にはどうしても思えないのです。
もっと深刻な日本嫌いの徴候は、子供、青少年を問わず、不特定多数とかかわりあうの
は講義、講演、教育活動、すべて含めてまっぴらごめん、となったことです。あの無表情、
無感動の群像とつきあう時間は老人には残されていないのです。今年二月、某大学の大学
院講義を終えてお役御免となったときの解放感はたとえようのないものでした。これ以上
の日本嫌いになるのを防いでくれているのはうちの子供たちです。たとえば、金曜日のき
つい稽古の中に、細い糸ながら「士の文化」が次の世代へつながってゆくのだ、という実
感があります。いずれこの子たちも立花、小林のように源平、鎌倉以来の日本人像をひき
ついでゆくでしょう。女の子の場合は士の文化という言葉はなじみませんが、この子たち
が母親になるときに発芽する種子を播いて、次の次の世代へつながるのだ、という、明る
い予感というものがあります。
自分がなぜ「もの好きな」といわれながら、このことに執着しつづけるのか、を自己分
析すると自分の魂が救済を求めているのだという結論になります。
[意志力のトレーニング]
(『つくば中央柔道塾だより』, 2001 年 3 月号より)
人間にとって一番大事なものはなにか?に対する私の答えは「精神」です。頭でも心で
も身体でもありません。高い精神性こそ我々が究極的に求めるべきものだ、と考えていま
す。ただ、こういう言い方は抽象的で、ではどうしたらそこへ行けるか、という具体案を
示さねばこれは絵に描いた餅です。
高い精神性へ導く手段は「意志力」である、と考えています。つらいけれどこれはやる
べきことだからやる,とか,今はわからないけれど、これは人間が考えたことだからわか
らないはずはないとか,今日は体重の差で負けたけれど、もっと切れる技をみがいて次は
必ず倒してやるといったたぐいの自分にいいきかせる人体の命令系統のことです。今の日
本の教育に一番欠けているのが意志力の鍛練です。頭を鍛える、体を鍛える、はそれなり
にあります。心は' きたえる'というべきものではないでしょうが、心の感度を上げる、いう
のも教育者の意識にはあるようです。しかし、
「意志の力」と特定して、これを鍛えること
に焦点をあわせたプログラムはない、と断言できます。
なぜこうも断定的に言ったかというと、昔もなかったからです。ではなぜ昔の日本人は
今より「精神的」だったか、というと、病気になったら今のように入院して点滴を受ける、
という機会もなく、断食をして活性酸素を中和して元の体に戻す、とか人を殺したことの
懺悔のために頭を丸めて比叡山の千日回峰の修行に出る、とか、いやおうなしに意志力の
トレーニングをさせられる機会がもっと身近にあったからです。日常性の中で、なんとか
それを実現しようとしたのが禅で、その中には山岡鉄舟のようにガンで死ぬとき、白衣に
着替えて皇居へむかって礼をし(鉄舟は明治天皇の侍従でした)、見舞いに来た勝海舟に「お
先に失礼する」と言って坐禅を組んだ姿のまま死ぬような人もいました。しかし、私は禅
のように体系的に意志力の強化トレーニングをすることは自分には無理だ、と感じていま
す。山岡鉄舟だからこそできたので凡人がやると観念論者なるのがせいぜいです。だから
人生に出遭った試練や困難の中で戦うことによって意志力を身につけるのが一番よい、と
思っています。
自分の人生の中で意志力の最大のトレーニングの場となったのが柔道でした。今うちの
子供に寝技をガンガンやらせ、特に押さえることと押さえられたときにそれから脱けるこ
とを紙の表裏のように一体として位置づけるのはこの経験からです。
(今のルールでは後者
に力点をおくとひきあわないです。大体寝技自体がそうです。)あまり強くなかった寝技だ
からよけい効いたのかもしれません。意志力こそ人間で一番位の高い「力」だ、だから柔
道をやれ、なんて言って教える道場はないでしょう。それでよいのです。よほど体の大き
い者を除くと柔道と相撲には、そこに没入するだけで自然に意志力が身につくものが、少
なくとも昔はありました。西洋スポーツの連中を「あんなやつら」と見ていたのはあなが
ち「若気のいたり」ではなかった、と今でも思います。今となっては見下すのではなく、
一般の少年少女が「意志力」こそ大事だ、といやおうなしに自覚させられるようなトレー
ニングの場が、ほかにどこかにあるのだろうか、と心配です。
日本人は平均して欧米人と比べるとまあまあ幸せならそれでいいじゃないかという体質
で、放置しておくとあらゆる能力の中で最も差がつくのがこの意志力です。創造力重視と
か楽しくやろうぜ、とかいう理由で小学校の教科や時間が来年から軽減の方向へゆくそう
ですが、この二つは本来二律背反なのです。例でお話するのが一番早いでしょう。ピータ
ー・フランクルというユダヤ人の数学者で大道芸人がいます。先日、柏駅で自著「らくら
く学習法」をサインして売っているのを家内が通りかかって一冊買い、サインをしてもら
ったら、「ツゲ」と言っただけですらすらと柘植と書いたそうで仰天していました。この本
のタイトル「らくらく」というのはらくに、というのと楽しく、というのをかけているの
ですが、楽しく勉強しよう、という主旨と裏腹に、僕が学んだことは別のことでした。本
の中に、自分が数学ができるようになった過程が書かれていますが、それは天才のストー
リーというより、僕の中高生の頃の姿勢にずっと近いものでした。中でも、これが解ける
まで、ほかのことはやらない、と決心し、まっくらな押し入れの中に入って集中力を研ぎ
すまし、ついに解いた、というところが親近感を覚えました。これは意志力の世界です。
楽しくやろうぜの世界はその絶え間ないくり返しのあとにむこうからやって来るものです。
学問では数学と理論物理、身体競技では相撲と柔道がこの意志力の行使なしには越えら
れない「敷居」が最も高い例だと思っています。ただ、柔道をスポーツと規定した時点で、
この敷居はガタンと低くなります。楽しくなければその語源からいってもスポーツじゃあ
りませんから意志力の必要性はずっと低いものになります。そのかわり、人生の他のいか
なる場面にも通用する意志力のトレーニングの場でもなくなります。なによりツラがふや
けてきます。とはいえ、この哲学を女の子に強制してよいのか、となると自信がありませ
ん。うちの女の子たちは今のところ、嫁のもらい手がないだろう、というところまではま
だいっていませんが、この哲学を強制して、すさまじい'いいツラになったらどうしよう、
というのがあります。
[夏が終わって]
(『つくば中央柔道塾だより』, 2001 年 9 月号より)
中学二年生の夏に終戦をむかえた世代として、八月十五日前後のテレビの戦争の回顧番
組は特別の感慨があります。今年、特に強く感じた事は、特攻隊はじめ、あの戦争で死地
に赴いた若者たちの顔が、今の若者たちと、こうもちがうか、ということでした。死ぬ子
みめ良き、ではありません。異人種ではないかと思うほど骨相までちがうのです。
いつか、人間の最も位の高い特性は精神性で、それを達成する手段は意思力だと書きま
したが、死を見据えて、それに向かってゆくほど意思力の行使が必要とされることはあり
ますまい。
司馬遼太郎が「欧米人の顔は凹凸だけでなんとかさまになるが、日本人は「さまになる
顔」を自分で作らなければならない」とどこかで書いていたのを憶えていますが、意思力
がこうまで顔を変えるものか、というのが、この年になっての感想です。
以下は昨年のこの時期、つまりオリンピックの頃、父兄へお便りに書きかけてそのまま
になっていた原稿です。一年経ってみると又異なった感慨があるのでお読み頂ければと思
います:
昭和一桁生れとして、日本選手がひき立て役でしかない、柔道以外のオリンピック種目
はあまり見たくありません。しかし、奇跡というのはあるもので、オリンピック新記録で
優勝したマラソンの高橋尚子選手に久しぶりの「日本人の顔」を見たような気がしました。
文章ではちょっと表現しにくいのですが、本当につらい練習を通りぬけて勝った人だけの
もつ静かな喜びというか、なんとも言えぬ好ましさとしかいえぬものでした。晩年、再起
不能といわれながら再起して 31 回目の優勝したときの大鵬、肝炎を克服して優勝した三重
の海の、そのときの表情、雰囲気がなんともよく似ています。
残念ながら、柔道の金メダル連中の顔は、それに比べるとなんとも childish(「ガキっぽ
い」という言葉から「ごあいきょう」を抜いた語感があります)ですね。人間の風韻など
というものはまるで感じません。ここまで来ると、日本柔道が勝つことに意義がある、な
ぜならばそれは文化を守ることだからだ、という私の長年據りどころとしていたものがも
う何の意味もないものになった、と認めざるを得ません。なにか自分が玉手箱を開けてし
まった浦島太郎のような気がします。
数年前、世界選手権日本代表の顔をみていて、サッカー選手みたいな顔したやつばかり
だな、とフッと感じたことがあります。外人のミニコピイみたいな顔つきで、要するに借
りもののメンタリティまるだしの顔です。もう日本の柔道も長いことないな、と思ってテ
レビを切ったのを覚えています。
'曳かれ者の小唄'になりたくないなら「自前の」顔を持った選手を育てて代表に仕立てる
ことですなア。
[ガッツポーズ、どうしてダメ!?]
(『つくば中央柔道塾だより』, 2001 年 11 月号より)
つくば中央柔道塾では試合に勝ったときにガッツポーズをすることは禁じられています。
どうして?と思っている方もおられるのではないでしょうか? これは、1999 年 5 月号のお
便りにのった先生からのメッセージですが、もう一度今月号でご紹介します。
当塾では柔道をスポーツだとは教えません。柔道は殺し合いを抽象化したもの、つまり"
武道だ"ということを子供達にわかる言葉・・・というより行動で教えているつもりです。
だからこそ礼儀が必要なのです。勝った時にガッツポーズなどできるはずがないというこ
とは、うちに一年もいる子なら皆わかっています。これがスポーツだったら、俺は勝った
んだ、何が悪い?ということになるでしょう。今のオリンピック代表など、うちで修行し
た子から見れば、ガキ見えるのではないでしょうか。ただ箸の上げおろしに類するような
礼法についてはうちの子はなってないようですね。指摘されるとおりです。
言いたい事は、だからここは非日常の世界だということです。日常性は入る隙がないと
ころへもってゆくのが悲願だと言えます。今もってそうなっていないのは小生の気迫不足
のせいです。最も忌むべき日常性とは、教える側の日教組根性と父兄側の PTA 根性だと思
っています。
前者については裏を返して言えば、この非日常的時間に限っては、先生は親も入り込め
ないくらい強い心のつながりを子供と分かち合えなくてはならない、ということです。具
体的にはつらい稽古の予感と戦いながらそれでもやって来る子に対する思い、ベストを尽
くして負けた子に対する共感、それに何よりもどんなに稽古しても勝てない子に対する責
任感というものです。
後者については少々言いにくいのですが、学校の PTA の日常性をここへ持ち込んで来ら
れること、つまり指図や口出し、家庭の都合など、いわゆる我意のことです。
老人が残された時間を精神の矮小性と関わることは、ガン細胞より有害でこたえます。
勿論だからと言って子供たちに対する思いが変わるわけではありません。そんな矮小な人
間ではないつもりです。
[柔道やっていなかったら]
(『つくば中央柔道塾だより』, 2001 年 12 月号より)
この標題のような自問をするときがあります。僕は華やかな柔道歴がないので、やって
いなくても自分の人生は大してちがいがないかというと、それは大ちがいで、これがなか
ったらどんなに自分の人生は惨めだったろう、と悔いの多い半生ながら、これだけは素直
な感謝の気持ちになれます。大学を定年退官したときのパーティで、研究のつきあいの人
が、柘植さんの晴れやかな顔というのはみたことがない、いつも眉間にしわよせて辛そう
に人生を送っている、といったすぐあとに柔道の竹内善徳先生が、先生はいつも笑顔で我々
を明るくしてくれる、どうしてこの人が基礎工(なんか)の先生なんだ?といって満場を
笑わせたのを憶えています。
シューベルトの歌曲に'楽に寄す'というのがありますが、それは「辛い浮世の灰色の時間」
を忘れさせてくれる音楽への感謝をしみじみ歌っています。僕がシューベルトだったらき
っと An die Judo(柔道に寄す)を作ったような気がします。
昨年亡くなった石下の小林信雄先生が、あゝも熱心に子供を教えるのは自分と同じ動機
なのだ、と思い知らされることがあって、以後あの先生はとても近い、今となってはとて
もなつかしい人となりました。
しかし一方で、
「先生も柔道やってなかったら警察の御厄介になることもなかったでしょ
うに」とまぜ返すお母さんが居そうな気がします。そんな先生に習って子供が柔道に深入
りすることを警戒する親御さんが増えると困るので、柔道やってなかったら、あの場はど
うなったろう、という話を紹介します。
ソビエト時代(1982)のアカデミシャンという権力とつら面のでかさで、今では想像も
つかない学界ボス連のいた時代のことです。ヒトラーユーゲントみたいな若手の取り巻き
にガードされたあいつとやり合ったのは今となっては'おじいさんのいろり炉端の手柄話'で
すが、そのさしさわりのない部分が週刊朝日に出ています(添付ファイル参照)
。もし僕自
身がチャラチャラとボールとじゃれてきたような'スポーツマン'研究者だったらどう対応し
ただろうかと思うと、柔道やって来たことに改めて感慨なきを得ないのです。そして、こ
れがもし、たかが研究者でなく、国益を背負わされている政治家か外交官の立場だったら、
と思うと、うちの道場は「オリンピックに出たら必ず金メダル」以外にもうひとつの使命
がある、と感じます。
[高感度受信装置をもつ発信型人間になれ]
(『つくば中央柔道塾だより』, 2002 年 2 月号より)
先月、当道場の目的は 15 年後の柔道界,30 年後の日本をせおってゆける人材を作ること
だ、といいました。この頃、これは二つの目的ではなく、同じものだ、という気がしてい
ます。歴史を見ると実際この二つをやってのけた人がいたわけです。
嘉納治五郎先生という人がまず、そうです。巷間伝わっている話だけではよくわかりま
せんでしたが、数年前戸川幸夫が書いた伝記を読んで本当に納得しました。ぜひ読まれる
ことをおすすめします。軍神広瀬中佐がそうであることも以前申しました。これも「ロシ
アにおける広瀬武夫」
(島田謹二)をお読みになることをすすめます。(喜柔館文庫にありま
す)
もうひとりは杉村陽太郎という戦前の国連大使/フランス大使です。この人は日露戦争
直後くらいの東大の主将で、新井源水という東大柔道部では伝説中の人(三船久蔵より強
かったそうです)も在学中はかなわなかったといいます。私の父も同年代でやはり陽太郎
という名ですが、黙っているだけで存在感のある人だった、というのを聞いたことがあり
ます。ハンマー投げでも日本一でした。第二次大戦前、フランスはポール・クローデルと
いう有名な詩人を駐日大使として送り出しました。日本人の精神性の理解者という意味で
はこの人以上の親日家は見たことがありません。日本政府はそれに応えて杉村陽太郎とい
う柔道の達人をフランス大使に任命したわけです。
-----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------さて、どうしたらこの人たちの後継ぎがつくれるか、ですが、少なくとも方針としては確
定しています。次の二つです:
1.(人生で起きるすべての事象に対して)高感度の受信装置をもつ人間になれ。
2.発信型人間になれ。受信型人間になるな。
この中には柔道というキイワードは入っていません。では、なぜそのために柔道なのか、
をいいます:勉強ばかりやっていると 1.についてのレベルは上がるかもしれませんが 2.
についてはマイナスです。受信型の人間になり切った方が成績は上がるからです。試験と
はどのくらいよく受納したかを試すものだからです。
受信型になって最も損なわれるものは想像力です。想像力とは創造力の源です。受信型の
典型は電車の中でマンガを読んでいる大人ですが、あんな風景は外国では見たことがあり
ません。ポカーンと口を開けてじっと遠くを見ている黒人、一日中プールサイドでビギニ
姿で空を見上げている女性は沢山いました。彼等の頭の中にどういうイマジネーションが
交錯しているかは見えないだけです。私は彼らに少なくとも電車の中のアンチャン/オッ
サン連に対してもつ嫌悪感(想像力ゼロは人間以下!)は持った覚えはありません。
テレビも同じ害毒を持っています。しかし、想像力や感動を誘発するものでない限り、
柔道(や相撲)でいそがしいうちの子供達に無駄な受信に費やす時間はあるはずがないで
す。
-----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------うちの子供らを見ていると、柔道が上達するのはこの二つの条件をみたしている子です。
三年生までは体の大きい子が試合をやらせると勝ちますが、四年生になると鋭敏な受信装
置をもっている子の今までの積み重ねが効いてきます。ただ、受信装置の感度は生まれつ
き、というよりは、家庭教育と、子ども自身がそれをどのくらい大切なことだと考えてい
るか、に依ります。体の大きい子は概してその重要性を認識するのがおそいです。変声期
までそのまま行ったら手遅れだ、というのが僕の見解です。しかし、小学四年生でその気
配も見えない子は黄信号です。今までの経験では、そういう子は感度の鈍さを最後まで曳
きずります。大会へゆくとそんな大きな子がゴロゴロいます。彼等は高校行くまでに大抵
消えてしまいます。
柔道の厳しさは受信感度の鋭敏さが発信に結びつかなくては意味がない、というところ
です。発信とは柔道では試合で自己表現をして勝ってみせるということです。うちの子の
中でこの二つが最短距離で直結しているのが亮彦です。これが、入ってきたとき、ええと
このボンみたいな髪型の、この子大丈夫かいな、と思わせた子が今の顔に変貌した最大の
要因です。稽古ならともかく、試合で互角以上の相手に初めて間もない技を使って勝って
しまう、という、僕にとってはこれ以上痛快な見物はありません。度胸と賢さ,反射神経
と筋力が「集中」の一点で爆発する、壮大な花火を見ているようなもので、花火会社の社
長は当分やめられそうにない、と思うくらいです。
もっとも、この二つがやれる、というのは亮彦だけではありません。他の道場の子に比
べて傑出している、といえるのが三人はいます。もう少しでそうなる、というのが二人は
います。この点でうちの道場は人材の宝庫です。なぜなら、このふたつの点で培った自信
は人生のすべての局面で通用するからです。思い上がりだけを警戒すればよいのです。立
花先生の「バッチリ」を他山の石にしてもらいたいです。
[創造の楽しみ、操作の楽しみ]
(『つくば中央柔道塾だより』, 2002 年 3 月号より)
このところ、うちの道場の対外戦の成績は芳しくありません。負けつづけ、といっても
いいと思います。
それで、負けた相手に胸を借りるつもりで土浦体協と鹿嶋柔道スポーツ少年団へ出稽古
に行きました。印象としてまだ消えていない鹿嶋(昨年二回負けている)について言いま
すと、稽古と練習試合の結果は意外なものでした。あそこの看板選手相澤(3年)はさす
がに技は切れましたが、派手に受身をとるのはほとんどが鹿嶋の子で、すごいばねをして
いるなァ、と投げた方の顔を見ると、なんだ、おまえかァ、という具合でした。先天的に
ばねのある体質の子がうちにばかり集っているわけはないので、あれは一人打込みの成果
だ、といってよいと思います。
県南大会で惨敗した土浦体協へ行った時もそうです。寝技の稽古ではほとんど勝負にな
らず、あとで健太郎がポツリと「あんなにちがうとは思わなかった」と言ったものです。
立技はまあそこそこかなあ、と思っていましたら、そのあとの観梅大会で会った先方の父
兄(萩野谷さん)によると「埜口先生が、つくば中央の背負投げでボコボコにやられた、
とぼやいていました」ということでした。
監督として考えさせられることがあります。じゃあ、どうして試合で負けるのか、とい
うことです。戦闘員の練度からみてアメリカ海軍よりはるかに上の帝国海軍がミッドウエ
ーで惨敗したのと状況としてよく似ています。作戦の失敗、言い換えると戦闘員の操作の
失敗が原因です。
この頃、つくづく、これは自分の体質から来ている、と思わざるを得ません。どこの柔
道の先生も、生徒の柔道を強くする、というのと、試合で勝たせるというのが二大眼目で
あろう、と思います。この二つは本質的にちがいます。子供の中から今までになかったも
のを引き出して強くする、というのは創造の世界です。それに対して試合に勝たせる、と
いうのは操作の世界です。大抵の人ではこの二つがバランスしているのですが、僕は操作
に喜びを感ずることができない異常体質のような気がします。一生管理職についたことが
ない、という自分の経歴がまずそれを裏書しています。ワープロもできない、パソコンも
できない、といえば研究者として明らかに落伍者ですが、僕といえども先天的に低能なの
ではなく不具者という方が正確です。ほんの僅かでよいから操作に喜びを感ずることがで
きれば、あれは上達するものだ、という予感がします。
うちの寝技はオーソドックスですが、立技はほとんどオリジナルです。一人打込みにつ
いていえば大外刈のラインダンスだけは紀柔館の腹巻先生のが原点ですが、その他は、つ
まり背負投(三通り),捨て身小内,払釣込足,大内刈は全部自前です。これらの一人打込
みは五十才過ぎる頃まで持っていた固定観念「立技は素質、寝技は訓練」をブチこわした
「創造の喜び」の光源です。今の心境を一言でいいますと「素質もヘッタクレもあるか!」
です。
創造の喜びだけを追及して、どこかで時間切れになって、それで終わり、となり、操作
の作業を積み残したツケを子供たちが他日払うようになるのかもしれません。もし、子供
たちを試合に勝たせるための作業が操作の作業ではなく、創造の作業になれば話は変って
くるのですが・・・。
[出世払い―古き良き時代の柔道部外伝]
(『つくば中央柔道塾だより』, 2002 年 4 月号より)
以下の話は本年三月下旬、私が門下の小中学生を連れて九州へ出稽古に行き、大分で後
藤健介兄の歓待を受け、一晩飲みながら昔話をしていた際、兄に乞われて「防大柔道部五
十年史」用の原稿にしたものです。
私は昨日(四月一日)古希を迎えました。この節目に柔道関係の旧友を訪ねる九州遠征
を念願としていました。それで 16 人の小中学生を帯同し、熊本(筑波大 OB 関係),玉名
(清川先生)
,大分(筑波大 OB 関係)と合同稽古/試合の‘巡業’に出たわけですが、清
川先生のほかにも思いがけず防大柔道部の昔懐かしい顔と出会えて、この上ない印象深い
旅になりました。
熊本では諸藤義信兄(14 期)がわざわざ長崎からフェリーでやって来て、子供たちに稽
古をつけてくれました。あの電光のような体落しは中量級に‘成長’した現在も健在で、
県トップクラスの中学生を手玉にとって見せてくれました。夜は太田清彦兄(22 期)が顔
を出してくれ、アメリカ遠征/筑波大留学以来久しぶりの歓談の時間を持てました。
玉名では、清川先生と久闊を叙し、大外刈りの講習を受け、夜は先生一流の衰えを見せ
ぬ論客ぶりを傾聴しました。大分ではとなりの別府から後藤健介市議(7 期)が子供たちに
差し入れを持って来てくれ、稽古のあと、夜は兄の行きつけの店で関さば、関あじ、地酒
と昔話の揚句、この一文を書くことになりました。
私は昭和三十四年から十年間防大の航空工学教室に勤務し、四期から十六期までの柔道
部諸兄と一緒に過しました。その間のことです。十三期の南孝義君が主将の時、対東大戦
は七徳堂でした。その時の東大の主将は小生の末弟陽三で、双方が大将の布陣であったと
記憶しています。防大は一人負け込みで南は副将の原田義昭(現自民党代議士)と対戦し
ました。双方共寝技はチーム随一の選手でしたが、どうしたことか開始後すぐ、南はあっ
けなく原田におさえ込まれ、それで終りとなりました。
試合後、私は無念やる方ない防大選手全員をつれて赤門前の行きつけの寿司屋‘梅寿司’
へ行きました。ここでは私は出世払いの身分だったのです。一文無しの学生の頃から大き
な顔をして、友人、後輩を連れて飲み放題、食い放題でした。良い時代であった、という
ほかありません。だから、いつもどおり大きな顔をして防大勢で店を独占し、ジャンジャ
ンもって来い、というわけです。現役選手の食欲はそれを片端から平げるのに不思議はあ
りませんが、とりわけ見物は南でした。彼は店に入っても口惜しさがおさまらず泣いてい
ましたが、食欲はそれとは無関係のようでした。何しろしゃくり上げるたびに寿司が口の
中へとび込み、一瞬に消えてゆくのです。そのリズムは完全に一致して、見事というほか
なく、四十年経った今でもありありとイメージできます。
「おい見ろ、ああでなければ柔道
強くなれんのだ」と下級生の部員に言ったおぼえがありますが、彼等は唖然として眺めて
いるだけでした。私のこの予言は正しいことがすぐ実証されました。彼はそのあと東西対
抗(全日本の大学トップクラスを東西に分けて行う勝ち抜き戦、今はありません)の東軍
の大将で出て、西軍の大将と引分けて面目を保ったのです。
小生の出世払いには後日談があります。この試合があった次の年、私は防大を離れ、NASA
のエイムス研究所へ行くことになりました。放歌高吟禁止の羽田空港で、原田が音頭をと
って、白人のスチュワーデスがあっけにとられている中、調子はずれの割鐘声の部歌で送
ってもらいました。離陸して旋回しながら上昇する DC10 の窓の下に東京の灯を眺めなが
ら「負けては帰れないのだ」と思ったのが昨日のことのように思い出されます。自分の研
究者生活を今ふり返って要約してみると、確かに滞米 10 年の間に、柔道で言えば「技有り」
くらいとった、という実感があります。しかし、そのあと帰国してからは日本の大学にな
じめず、スランプで技有りをとられ、結果を出せないまま定年になってしまった、という
思いが強いです。
それはともかくとして出世払いのことですが、NASA の給料は当時 1 ドル 360 円の時代
で、日本の3倍は優にありました。数ヶ月むこうで暮らしている間に、ひょっとすると返
せるのではないか、と思い始めました。しかし、出世もしないのに払う、というのは傲慢
というものでしょう。かなり悩んで達した結論というのは、出世払いというのは出世を前
提としたものだから、出世をあきらめて日本を逃げ出してきた者が払わなかったら、それ
は食い逃げと同じだ、というものでした。それで当時(昭和 40 年台)3 ケタに近いウン十
万円と概算して梅寿司に送金しました。「足りなかったのではないか」という不安が拭えま
せんでしたが、半月くらい経って後輩の清水周(13 期相当、現神奈川サイエンスパーク部
長)から手紙が来て「今日柔道部全員が梅寿司に呼ばれて先輩のおごりだ、ということで
飲み放題、食い放題だった」ということでした。ホッと安堵したものです。
十年のアメリカ生活のあと、筑波大に赴任するため帰国したとき、その後輩達が大きな
店構えに改装された梅寿司で歓迎会をやってくれました。そのとき、顔なじみの主人に「俺
は、床柱とはいわんが天井裏の梁一本くらいは貢いでいるかもネ」といいました。利子を
差し引いたらそんなものだったでしょう。その梅寿司も今は店じまいして、往年の赤門前
落第横町は寂れっぱなし、だとききました。
日本が豊かになり、というより豊かになりすぎて、「出世払い」も死語になり、そのうち
「昭和は遠くなりにけり」ということになるのでしょう。過去は振り返らない、という主
義で今まで生きて来ましたが、柔道という断面で切った自分の人生だけはなつかしい過去
で充満しています。
[一億総お公卿さんの日本]
(『つくば中央柔道塾だより』, 2002 年 6 月号より)
日本は西ヨーロッパと並んで、封建時代を最も正統的に経過した、世界でも数少ない国
です。一言一句、一挙手一投足に命がかかる武士のモラル、それから自然発生した礼儀、
そういうものを長い時間かけて醸成して来た国だともいえます。その国が作った士農工商
という階級はどのひとつをとっても世界へ出て通用する質の高い文化をもっています。
しかしそれは今、どれもこれも目をあてられなく崩壊しています。一番先に世界に名声
を馳せ、四つの中では一番先に(日露戦争後)堕落したのが士の文化、次に(高度成長時
代)同じ経路をたどったのが農の文化、つい先ほど(工が稼いだ金に溺れて窒息するまで)
までは生きていた商の文化、今辛うじて息だけはしているのが工の文化でしょうか。
正確にいうと、日本の階級は士の上にお公卿というのがいて、五階級からなっていまし
た。その文化は世界初の小説である源氏物語を生んだりしました。だから女性のほうはま
だましだったのでしょう。しかし、男に関する限り私はお公卿さんの存在は日本文化の恥
だ、とずっと思って来、今もそのままです。「長袖者」というのは武士の公卿に対する蔑称
ですが、その語感は卑怯,狡猾,虚弱,虚栄というキイワードを並べたような存在です。
たとえば、平家は武家平氏と堂上(公卿)平氏と両方ありますが「平家にあらずんば人
にあらず」などというヒトラーのようなことを言ったのは平時忠(清盛の義弟)という公
卿さんです。こいつは平家が壇の浦で全滅した時もおめおめと捕虜になり、自分の娘を勝
者の大将義経に差し出して命を助かりました。今、能登半島にある旧家、時国家の先祖で
す。腰抜けのくせ残酷な男で、木曽義仲が平家に、力を合わせて頼朝と戦おう、とメッセ
ージを送った時、その使者の顔に焼印を押して追い返しています。日本史の登場人物中、
僕にとって最もムカつく男です。
今の日本を見ていると、今までの日本を支えてきた四つの階級がドミノのように共倒れ
になったあと、お公卿さん、という階級がにわかに復活して来た、という感じがします。
瀋陽の領事館事件で、死にもの狂いで連れ出されるのに抵抗している女・子供をよそに、
警官の帽子を拾っている副総領事の間延びした動作、のっぺりした顔つき、は本物のどん
なお公卿さんよりはまり役です。ああいう手合いだけは生理的にダメ。初めてあのビデオ
を見たとき、
「てめえのような奴はションベン飲ましたロカ!」という子供の頃のケンカの
せりふを思い出したほどです。
この頃電車の中で見渡すと、無責任、無感動の象徴のようなノッペリした無表情のお公
卿さんヅラばかりです。働かずとも生きてゆける環境に放置すると日本人はみんなこうい
う顔になるものと見えます。身体を労することをいやしむのは中国人とユダヤ人が最右翼
ですが、鎌倉以後の日本人は正反対でした。たとえば鎌倉の鶴岡八幡宮の参道は段葛とい
って道の中央だけ高くなっていますが、あの土木工事をやった土方は御家人、つまり後世
で言う大大名ばかりです。又、二階堂の庭の蓮池を掘る工事をやったのも御家人で、普通
の人なら何日もかかる工事をアッというまにやってしまった、と吾妻鏡にあります。そこ
の心字池の中心に 128 センチもある石を運んだのは力自慢の御家人たちで、その据え方が
頼朝の気に入らなかったので、畠山重忠が一人で動かしていい形に置きなおした、と書い
てあります。その石が吾妻鏡の記事をもとに掘り出されて展示されているのを見たことが
ありますが人間が持てるものとは到底見えませんでした。
今の日本を見ていると体育文化の占める位置はユダヤ人,中国人以下で、おそらく世界
最低でしょう。体を労することは平時の武士のたしなみだ、という鎌倉の高級御家人の心
構えのかけらも残っていないのはまぎれもない亡国の兆しです。筑波大学では今、入試(共
通一次)の平均点は体育の方が基礎工(小生の居たところです)より高く、その代り体育
の学生で部活をやらない連中が激増している、と聞きました。学校休んでも稽古には来る、
という子がいるつくば中央柔道塾は絶滅に瀕したミヤコタナゴじゃなくてザリガニを飼っ
ている湧水池みたいなもんです。
絶滅に瀕したザリガニなんているの?と思われる方はどうぞこの天然記念物を見に道場
へおいで下さい。
日本と日本柔道―グローバル化への布石
(『赤門柔道』(東大柔道部誌)原稿より.2002 年 9 月)
シューベルトの歌曲に「楽に寄す」というのがあります。"辛い浮世の灰色の時間を忘れ
させてくれる"音楽への感謝をしみじみと歌ったものですが、その深い情感は、初めて聴い
たときベートーベンか?と一瞬思ったものです。
僕はみなさんのように華やかな選手歴がないのですが、それでも自分がシューベルトだ
ったら An die (den?) Judo (柔道に寄す)を作曲したのではないか、と思うことがありま
す。その話からさせて下さい。
僕は昭和 44 年から十年間、カリフォルニアのシリコンバレーにあるNASAのエイムス
研究所で働いていたのですが、傍ら日系人の道場で稽古をしていました。僕は英語がダメ
で、そのため研究上の論争で、この低能、と思っているようなアメリカ人に言い負けるの
です。部長に「お前の予算はつけられない」といわれて言葉に窮した揚句「燕雀安知鴻鵠
志哉」と黒板に大書したこともあります。
このようなとき、闘争本能、反射神経、筋力をそれぞれ目一杯使う柔道という精神安定
剤は大きな救いでした。この三つが揃っている競技はほかには相撲しかなく、どのひとつ
が欠けても効果は激減します。おかげで昼間の救い難い鬱屈はすっかり洗い流され、ここ
でずっと柔道やってアメリカの土になるのも悪くないナ、などと思いながらほてった体を
夜風に吹かれながら帰ったものです。
スタンフォードの数学科の学生だったリース・カトラーが全米学生(164 ポンド級)で優
勝したのもこの頃です。私と体重が近いせいか、いつも、お願いします、といわれて、放
してくれなかったのをおぼえています。初めはまア問題になりませんでしたが上達めざま
しく、優勝する前は私が一本取ると彼が二本取る、という具合でした。でも、サンホセ州
大など強豪がひしめく中、スタンフォードの学生が勝つなどというのは東大の学生が全日
本学生で優勝するくらいニュース性のあるものです。これが僕がささやかながら「ナンバ
ーワン」とつく人間とかかわりあった初の体験です。
少年柔道とのかかわりもこの時代からです。ジョン・フォードという細い小柄の白人の
小学生でしたが、頭のよい子(数学ジュニアオリンピックでカリフォルニア No.1)で寝技
がメキメキうまくなり、すっかり自信をつけました。丁度その頃僕はビザが切れて一時日
本へ帰ることになりましたが、この子のお父さんに「どうかこの子を日本へ連れて行って
ほしい。そのお返しに、私の家でだれか日本の子供さんをお世話します。
」と言われました。
残念ながら、その時私は職のない日本へ帰らねばならなかったので、その申出を受けられ
ませんでした。
二年後再渡米したとき、道場へ行って「ジョンはどこにいる?」と聞いたら、あのあと
すぐ柔道やめた、という答えが返ってきました。「子供にはかけがえのない大事な時期があ
るのだ」というのが肺肝に徹してわかったのはこのときです。
前後十年アメリカにいてあらゆる人種と稽古して次の三つのことがはっきりわかりまし
た。そのひとつは日本人は他人種と比べて、同じ体重でも筋力的に劣ること、第二は同じ
身長でも懐の深さで劣ること(腕が短い)、最後に、それでも日本人が他競技と比べて柔道
がましなのは、正しい柔道、よい柔道というものに対する直覚力とそれを習得するための
執着心がすぐれていること、そしてそれ以外には何もない、ということでした。
裏返していうと、日本柔道がこの二つを失うときはすべてを失うときだ、となります。
日本へ帰ってきて、アメリカボケのため、日本の大学になじめず、40 代なのにストレス
で体重8キロ、身長3センチ減りました。とても柔道などもうできない、と思っていたと
き、丹野敏さん(東洋大、埼玉県警)という地元の柔道家に説得されて、子供相手の受身
からやり直す決心をしました。あまり熱心に受身をとるので、ある女の子の父親に見込ま
れ、殺す以外のことは何をしてもいいからこの子をチャンピオンにしてくれ、と頼まれま
した。「わかった、殺したりしない、ただ、ここぞ、というときは半殺しくらいにはするか
もしれんがいいか」「いいとも」という問答をしたのを覚えています。この子が中学二年で
筑波大生を総なめにして全日本女子の茨城県代表(52K級)になり(当時山口香は県予選
不出場)、その後全日本高校チャンピオン(56K級)になった長沼孝子です。
この時点では私はよその道場へ行って、やる気のある子だけの相手をしていたのですが、
平成 7 年、大学を退官する時に三人の子供をひきつれて独立し、つくば中央柔道塾という
自分の道場を持ちました。彼等は今は皆私の手を離れましたが、それぞれ世界学生女子無
差別級チャンピオン(小松崎弘子)柔道部創設三年目で茨城県を制覇したつくば秀英高の
エースでインターハイ 100K級代表(小座野寿成・現山梨学院選手)48K級アジアジュニ
アチャンピオン(福見友子)に成長しました。
自分の道場を持つに当って一つの目標を建てました。それは十五年後の日本柔道を背負
って立つような選手をつくる、ということです。私の場合はそれを「オリンピック出場と
金メダルとが同義」の選手と規定しています。これは私の実感ですが日本人と同体重の白
人では筋力と懐の深さで二階級の差があります。つまり外へ出て闘うときは、国内では二
階級上が一番やり易い、という選手でないと通用しないのです。当然ながら奥襟持たない
と闘えない日本人選手が超級以下で優勝した例は三十年以上昔のローザンヌ大会の二宮選
手以後ありません。
目標が決れば手法も決ります。うちでは、寝技、低い背負投、小内刈(双手、捨身とも)、
足払(左右)を徹底してやります。これは徹底した「弱者の柔道」です。徹底してやれる
ための布石として、入門時に親子共に「うちでは柔道はスポーツだとは思っていない、武
道、つまり殺し合いを抽象化したものだと思っている。それでよければどうぞ」と釘を刺
します。スポーツのつもりで来ると、(素質のないものが)どうしてそこまでやらねばなら
ないのか?という疑点が湧くからです。それに、本来は殺し合いなのだ、というのを腹に
据えた子供は勝っても決してガッツポーズなどしません。先日、田村に勝った十六才の小
娘が、眉ひとつ動かさず、正しく一礼してひき下がったのを御覧になった方も多いか、と
思います。普通の感受性をもった子供なら、小学四年生の末頃までに、これらのことはす
べてわかるのです。正直いってこれは驚きでした。こうなると彼等はむし暑い夏の夜の、
時には一人相手宛 25 分もかかる「負け残りの元立ち特訓」にもいきいきとついて来ます。
(もっとも終った直後は安堵とくやしさでポロポロ涙をこぼします。
)この特訓は物置を改
造した一組しか乱取りのできない道場で全員注視の中でやるのです。これをやってみて相
撲部屋に土俵がひとつしかない意味がよくわかりました。金曜日の終りは大抵夜中です。
昨今の学校五日制の特典を最大限に享受しているのは文科省や親にいじくりまわされてい
る賢そうな子供達ではなく、うちのこの子達だと思っています。
こういう環境に置くと、中学二年(14 才)で子供は完全に仕上がります。昔の元服がこ
の年頃だ、というのがすんなり納得できます。逆に、この年でまだガキを曳きづっている
子は絶望的です。ましてや二十才で成人になり切らんような輩は人間やめた方がいいでし
ょう。
当初の 3 人から 60 人を越す生徒数になった今、全部の子供がこのように仕上がるわけで
はありません。しかし、ここまで劣化した民族のグローバル化の明日を託すのは今でも辛
うじて「勝って当たり前」が通用する柔道の世界で育った子供たちしかない、三つ子の魂
を外人劣等感に腐融されて育った連中がいかに使いものにならないかは滞米十年でいやと
いうほど思い知らされたことです。実際、グローバル化とは外の世界に同化することだと
考えているとしか思えない今の日本人、特に茶髪をふり乱して、頭の中味は白人のコーチ
にあずけたまま、「負けてあたり前」の世界でじゃれあっている若者を見ると次世代の社会
像をみるようで僕には地獄絵として映ります。
ごく最近、自分の道場の目標を「十五年後の日本柔道を背負う人材の育成」に加えて「三
十年後の日本そのものを担う人材の育成」としました。これは上述のトラウマに追い詰め
られた揚句の心境として、日露戦争直後の東大柔道部、杉村陽太郎(1)、新井源水(2)といっ
た全人的巨人が居た時代ですが、を勉強のうるさくない小中学生時代に作ってしまうしか
ないと思ったためです。
この年でどこまでゆけますやら、という自嘲は先延ばしにしているのです。
最後に私はフリーハンドでポンチ絵を画いているのではない、という根拠を申し上げて
おきます。
それは弱者の柔道の中核をなす「低い背負投」のことです。私は筑波大現役時代、当時
全柔連の専務理事だった神永さんの依頼で背負投の受けをするロボットを作りました。こ
れは、とても自慢できる代物ではありませんでしたが、その縁で、当時筑波大体育の学生
だった吉鷹幸春選手の修士論文を見ることになりました。釣手、引手、足の回転力、あら
ゆる力を計測して、彼の「低い」背負投の威力の秘密がはっきりわかりました。これは岡
野功先生に代表される高い背負投、いいかえると強者の背負投ですが、に対して、相手は
肉体的強者である、ということを前提とする、弱者の背負投です。人体の重心をヘソとす
ると相手との接触点が低く、重心まわりの回転モーメントのアームの長さを容易に2倍く
らいにできる低い背負投が力学的に有利なのは誰にもわかりますが、膝をつかずにこれを
実行できるようにするトレーニングは口でいうほど簡単ではありません。当方では、これ
を一人打込みでほとんど仕上げています。小学生は無差別ですから、二倍くらいの体重の
相手まで投げ切ることを視野においてやらねばなりません。一人打込みで形とリズムを会
得すると、これは可能であることを小学生が実証してくれました。一人稽古の重要性は木
村政彦、平野時雄、渡辺喜三郎、岡野功といった超一流柔道家の説くところです。「人が居
ると気が散る(渡辺喜三郎)」とまで言われて驚き、名人の世界を垣間みた思いを鮮明に覚え
ています。平野先生も同じことを子供たちに言われたことがあります。この一人打込みを
考え出すまで、私はずっと、「寝技は稽古、立技はセンス」と思っていました。今は立技も
寝技も同じ、きちっと稽古すればきちっとした結果が出る、逆にセンスとはなんぞや、と
聞きたいくらいです。たとえば、NHKに就職した西森大君(平 10 法)がいつだったか稽
古に来てくれて一人の男の子に目を止め「俺がNHKで取材に来るまで他のテレビ局に出
たりするなョ」と言ったとき「ハイ」と至極当然といった顔で返事した子は、前身は"いじ
められっ子"で、ボール投げがちゃんとできず、仲間に入れてもらえなかった子です。子供
というのは柔道にはまってしまえば何に化けるかわからないマカ不思議の存在なのです。
はめるコツとは猫なで声のおだてでも、罵声の気合でもなく、
「一人打込みが上手になれば、
どんな大きなヤツも背負で投げられる」と子ども自身が思うことです。
錦鯉に血道をあげている人にいわせますと、百万円もするのも、魚屋で売っているのも、
稚魚のときは黒一色で、それが化けるのを見るのがたまらないのだ、といいますが、魚が
化けるのと人間が化けるのとどちらがスリリングかは言うも愚かです。
低い背負の実績について。吉鷹選手は現役引退直後、アメリカ国際の無差別級に出場し、
130 キロクラスをなで切りにして全部一本で優勝しています。71 キロ級でも優勝していま
すが、こっちの方がつらかったそうです。強者の背負投ではその難易は逆になります。岡
野功先生がいつだったかフト「100 キロ以上を背負投でとろうとは思わない」といわれたこ
とがあります。これは先生が現役引退後ヘーシンク道場でまわりを全部閉め切ってヘーシ
ンクと OB 対決をして小内刈で完勝したときの話だったので僕はこれを先生の小内刈に対
する自信の表明と受取りましたが、二階級以上の相手に対する二つの背負投の破壊力の差
を表徴している、とは言えるでしょう。
もっと最近の実績としては田村・福見の対戦で田村があんな平凡な大内刈にひっかかっ
たのはその直前の背負投の後遺症です。福見はその一ヶ月ほど前オーストリア国際で決勝
までゆき、ハンガリーの選手にこの背負投で技有りをとっています。そのあと、大外刈で
一本とられて優勝できなかったのはかけだしとベテランのちがいでしょう。
二つの背負投のよいところだけをとった背負投(むしろ釣込腰)の名手として忘れられ
ないのが妹尾栄三君(昭 36 経、故人)です。よいところだけ、というのは低いが崩れても
膝をつかないというところです。少し前、在りし日の彼を懐しむ人達で三十三回忌が持た
れました。そのとき私の道場が主催する少年柔道大会に妹尾杯を寄付する話が出て、今年
実現しました。高橋大兄(昭 36 経)が代表してカップを渡してくれました。千人に迫る小
中学生の参加者から、妹尾君の切れ技、気迫、人柄、どのひとつでもいいから受け継ぐ子
供が出て欲しいと願わずにはいられません。(おわり)
(後記)
この一文は藤綱義行兄(昭 41 工)の依頼で書いたものですができ上がってみると依頼の
主旨からドリフトしてしまった感があります。しかし、次のことは現役諸兄にも参考にな
るかもしれないのでとりあえずお送りします。それは小中学生で実験して成功した低い背
負投の一人打込は成人でも色のついていない初心者の新人部員なら有用なのではないか、
ということです。
吉鷹選手の修士論文「背負投の力学」のビデオ(水川淳三監督(昭 33 文)の構成演出と
ナレーションつき)に成功例として中学時代の佐々木義隆(学芸大平 10 卒)の上達のリア
ルタイムの記録、小学生時代の福見友子、それからもっと進化した今の子どもたちの一人
打込をつけ加えたビデオがあります。前半は先年幕張であった世界選手権大会の前日、第
一回国際柔道シンポジウムで発表したものです。御覧になりたければお申越下さい。
註1
杉村陽太郎
戦前の国際連盟大使、フランス大使。第二次大戦前夜のこの時期、フランス政府は「武
士道の最も高度な理解者」といわれた詩人のポール・クローデルを駐日大使に任命、日本
政府はこの柔道の名人を駐仏大使に任命した。ハンマー投げでも日本一の実績をもつ。
註2
新井源水
戦後の初代学生柔道連盟理事長。石川島播磨重工監査役。現役時代の実力は、同時代の柔
道人では三船久蔵十段より上、とする人が多い。嘉納治五郎師範が主審をされたことで有
名な明治四十一年の東大・慶応戦(今でいえば東海大・国士舘大戦というところか)では
東大は三将新井、大将杉村の布陣。
[相撲という文化]
(『つくば中央柔道塾だより』, 2002.10 月号)
秋場所の貴乃花、僕も胸を締めつけられるような思いで見ていた一人です。もしこれが
不首尾に終ったら、千年以上続いてきた相撲という文化の終りだ、という予感がしていた
からです。
‘むかしきけ秩父殿さえ相撲取り’
(芭蕉)というように相撲は千年来日本人に愛されてき
ました。ここで秩父殿とは鎌倉武士を代表するといわれる畠山重忠のことで 800 年前の人
です。この時代、何かイベント(将軍主催の行事、巻狩、神事など)があると演出(だし)
ものとしては犬追物(弓術)と相撲が中心でした。吾妻鏡にはその都度選手の名が出てい
ます。それによると鎌倉幕府創生時はどちらの種目も御家人(大名)が主力ですが、時代
が経つにつれて相撲の方は苗字のない階級が主力になるのが読みとれます。柔道同様相撲
も本来庶民の競技であることがわかります。
相撲ほど集中力と体力とともに洞察力(仕切っている間に相手の心を読み切る)が必要
な競技はありません。それに加えて、一瞬の立ちおくれも致命的なのに、立会いはお互い
の合意のみによるというのは人間として最も高度の作業です。百メートルのスタートダッ
シュはこれに比べるとただの動物の機能の競技です。ジャン・コクトーが相撲を「バラン
スの奇跡」と評したのは有名ですが、彼はその文章の中で同じことを言っています。
僕は陸上競技をトレーニングの手段としてしか見ていません。ある時「陸上はオリンピ
ックの華」といわれて「準備運動で勝った、負けたはネエダロ?」と言って周囲を唖然と
させたことがあります。その時、頭の中にあった比較対象は柔道ではなく相撲でした。動
物の競技を人間の競技より上におくのか、という怒りがあったことは事実です。
柔道では、たとえば、右の大外刈にゆくか、左の大車に変化するか、は 0.5 秒の間に決断
しなければなりません。それが相撲では、押すか、出し投げにゆくかの判断に許された時
間はもっと短く、1/3 秒くらい、というように見えます。更に、それが失敗した時の致命度
は相撲と柔道では比較になりません。土俵なるものを作り、それを 15 尺というマジックナ
ンバーに決めた日本人の感覚はすばらしい、というほかありません。実際、このことは他
国の格闘技比較してみるとわかります。たとえばモンゴル相撲はいってみれば土俵のない
相撲です。僕が大学にいたとき、二年間うちの研究室で過した内モンゴル大学の応用数学
の先生に招かれてナーダム(日本で言う国体。相撲と馬術しかない)を見てきましたがそ
れはただの筋力のねじり合いで、相撲の集中力緊迫感、とは程遠いものでした。それに、
手をついたら負けになるので、支釣込足と大内刈しか使えず、柔道のようなこの一発に賭
けるという華のある技も見られませんでした。
(ただ、炎暑の青天井下で 30 分を越すねじ
り合いをこなすスタミナには驚嘆しました。)
もし神というものがあって、21 世紀に生き残る日本の文化を相撲か柔道かからひとつだ
け選べ、といわれたら、僕は柔道を諦めるような気がします。実際、去年の武蔵丸戦で示
した貴乃花の鬼気迫る気力、それに長い負傷欠場のあと今秋場所、二敗から立ち直って優
勝を争うまでになった高い精神性、この二つで貴乃花は双葉山と並ぶ横綱と呼ばれてよい、
と思います。僕は十日目(勝越し前)控えの貴乃花と2メートルくらいの距離にある砂か
ぶりで見ていたのですが、死と隣接した位置に自分をおいている若者を見た気がしました。
ここで、自分が敗れたら、相撲そのものが滅びる、と思っていたのではないでしょうか。
一方柔道には双葉山も貴乃花もいません。
僕が貴乃花を、不敗の象徴として戦時中の日本人の心に深く住みついた双葉山と並べる
のは、怪我とその克服を通して、こうまでふやけた今の日本人に精神というもののありか
を明示してくれたからです。なるほど、ロス五輪の山下も感動的な金メダルドラマがあり
ましたが、この頃は柔道の金メダルの半分は日本で、柔道は主役でした。多少真昼の花火
といった印象で、少なくともこれは山下個人の栄誉にとどまります。
貴乃花の場合は野球に加えてサッカーという西洋スポーツの洪水が押し寄せる現今、落
日の相撲界で壮麗な夕映えを見た、という感じがします。数日前の日経の「春秋」欄で、
貴乃花の西洋スポーツとは異質の気迫を讃えたあと、イチローとかサッカーの選手(名前
忘れた)と比べていました。私はそれを読んで腹を立て、
「ベートーベンと美空ひばりを比
べるようなもんだ」と言ったら、傍の家内に「美空ひばりの方が好き、という人の方が多
いんですよ。
」と言われました。好き嫌いは勝手ですが、精神性という人間の最も高度な尺
度でみたとき、比較の倫を失している、と思わない日本人がいまや多数派なのです。
「もうこの国はいやだ」と言った晩年のラフカディオ・ハーンの気持ちに段々近づいて
ゆく自分を感じます。「来世というものがあるなら、どっか他の国に生れたい」と思う前に
死にたい、というのは半分本音です。
[「瀬戸際」柔道教育] (『つくば中央柔道塾だより』, 2003 年 2 月号)
以下は県柔連から依頼された原稿で、「活動の様子,子供の声」などを書いてくれ、とい
われたものです。(柘植)
「瀬戸際」柔道教育
つくば中央柔道塾長
柘植
俊一
私の道場では生徒の小中学生に学期末になって成績をもらうと「成績の下がったもの手
を挙げい」とやります。そうして手を挙げた子に「成績が下がるのは勉強のやり方が悪い
からじゃなくて、柔道のやり方が悪いからだ。
」と言います。勿論親の居るところです。そ
して親には「これは自分の体験でもあり、この子らの先輩達の教育経験から言ってるんで
す」といいます。
学習塾なんかに通っていたのではとてもうちの稽古はフルにこなせません。その上こん
なことを言う先生にはとてもついてゆけない、という親もあるはずです。「北朝鮮は瀬戸際
外交だけど、先生のは瀬戸際柔道教育だ」とある人に言われました。そうかもしれません
が弁解するより子供の意見を聞いて頂く方がいいでしょう。
(佐野
耕至)
ぼくは、柘植先生に金曜日の特訓に来いといわれた時、金曜日は英語を習っていたので、
はじめは迷いました。英語は楽しかったけれど柔道が強くなりたかったし、勉強はあとで
もできると思って、英語をやめて金曜日のけいこにも参加することにしました。その結果、
今は月、木、金、土が柔道で水、日が相撲と週のほとんどがけいこです。家で勉強する時
間があまりとれないので、宿題は学校の休み時間にやるようにしています。柔道のけいこ
はきついけど、やればやるほど強くなる気がするし、自分でいろいろくふうするのも楽し
いです。柘植先生は試合の前にはぎりぎりまでアップしろといいます。息があがるまでア
ップしてとう争本能を高めて試合に集中するためです。ぼくも、きついけどその方が力が
出る気がします。こうやって柔道できたえた集中力ととう争心は、勉強にもその他のこと
にもずっと使えると思います。これからも手をぬかないでぎりぎりまでがんばりたいです。
(小学校5年生)
-------------------------------------------------------------------------------(註:柘植)
「勉強はあとでもできる」の(私も予測していなかった)一言に御注目ください。この子
は両親とも高学歴の家庭の子ですが、今自分が習っているのは柔道を通しての帝王学であ
る、ということを頭でなく全身でわかっているのです。私がその成果を見届けることはあ
りますまいが、この一言で充分満足です。
[「いけ好かん」の分析] (『つくば中央柔道塾だより』2003 年 5 月)
子供に柔道を教え始めたころ、自分には好きな子とか嫌いな子というものがあるだろう
か、と自問したことがあります。答えは、好き嫌いは子供個人の性格にはない、というこ
と、但し、好き/嫌い、というのははっきり存在し、それは子供の柔道に対する姿勢に付
属しているというのが結論でした。
最悪のケースは、自分より小さいもの、弱いものばかりをけいこ相手に選ぶ子です。こ
の連中がそのまま行ったら、社会的な弱者に威丈高になり、強者にへつらい、自分だけに
居心地のよい空間を作るのが上手な大人になるだろう、と思うとやり切れない気がします。
それにそういう子に限って相手の強弱に対する嗅覚がするどく、勝負強いのです。
よその道場に比べると、うちにはこのタイプの子は少ないような気がします。技の切れ
に比べて勝負で報われないような気がしてならないのですが、そのせいかもしれません。
しかし、勝負の世界では勝ち=「善」なのです。では何をもってこのエグい勝負強さに対
抗するか、というと気迫しかありません。気迫とは闘争本能の上に乗っている部分ともう
ひとつの基盤に乗っている部分とふたつあります。第一の部分は、これは本能である以上、
生まれつきの要素の濃いもので、これをすべての子供に強いるのは酷というものです。 し
かし、気迫のもうひとつの基盤は、きついけいこと教育で作り上げることができるもので、
ここには精神性という、人間にとって最も位の高い要素が関わってきます。これは大人に
なって自分の人生を切り拓いてゆくとき最も頼りになる部分ですが、これを創るには本人
のそれこそ「汗と涙」の努力と、質の高い教育環境が必要で、実は大変な作業なのです。
うちはさいわい、気迫の主成分がこの第二の要素の持主であった二人の若い指導者、立
花、小林の両先生ですが、が良い伝統を作ってくれたおかげで、中学二年の時点で、大人
になってこれでゆける、といえる精神性の基盤がきちっとでき上がる、という実験に成功
した、という感触をもっています。亮彦と陽平を頂点とする中学生たちがその実例だ、と
いうのが一番わかりやすいでしょう。他方、私自身といえば気迫の主成分は闘争本能で、
やりたい放題の敵の多い人生だった、ということになります。
うちの次の課題は弱いけいこ相手ばかりとやりたがる一握りの子供を気迫が主導する選
手に創り替えることです。少年柔道教育の魅力は子供は豹変する、ということで、それが
本物かどうか見極める時間おくれはありますが、大人に対するようにあいつは好かんとい
う印象を「個人」に持たなくて済む、ということです。但し勝負はウス髭の生えるまでで
す。
つくば―終の栖の二足草鞋生活,CROSS
TSUKUBA,2003,5月号原稿
‘是がまあ つひの栖か 雪五尺’というのは小林一茶の句ですが、私の場合は、つくば
を終の栖と決めた大学退官後、やっと、どうしてこんなところに来たんだろう、という思
いから解放され、残された人生の生き方も確定し、多忙な二足の草鞋を履く生活をしてい
ます。
私が筑波大学に着任したのは 1979 年(昭和 54 年)、この大学に工学部が新設された年で
した。前任地はカリフォルニア、シリコンバレーにある NASA のエイムス研究所で、ここ
で、今ふりかえると、これ以上ないという環境で、古典力学最後の未解決問題と(今も)言わ
れている航空機関連の乱流研究に 10 年間取り組んできました。
ところが帰国後、アメリカボケのため、日本の大学になじめず、研究もスランプに陥り、
論文も書けず、四十代なのに、三年間で身長 3 センチ、体重 8 キロも減り、アメリカで立
ち上げた業績も尻切れトンボとなり、要するに研究者として過去の人となりました。その
頃の力士で、序二段まで落ちてから大関まで復活した琴風関(現尾車親方)を見習ってな
んとか再び這い上がろうと努力しましたが、結果は出せずに定年になった、という思いが
強いです。
身辺から学生が去り、研究とは紙と鉛筆だけの孤独な作業となりました。言ってみれば
とぼとぼと日暮道を歩いているようなものでしたが、そのうち 10 年以上のスランプ時代以
来もあきらめず探し求めていた遠くの里の燈が見えてきました。しかし、スーパーコンピ
ューターで数値計算、数値実験をやる権限も人手もない状態では、とてもそこへは行き着
けない、と判断せざるを得ない状況でした。ライフワークを成し遂げて引退した人にはわ
かりますまいが、「負け」と決った人生を生かされる、というのは勝負にこだわる人間にと
って(僕は今でも自分を柔道家だと規定しています)拷問以外の何物でもありません。
本稿の表題を「二足の草鞋」としたのは、この迷路から脱け出す道しるべを示し、草鞋
を恵んでくれた人達のことを書きたかったからです。
その筆頭に‘元学生’の大森喩耀君(元 NASA マーシャルフライトセンター,元 GE)を挙
げねばなりますまい。彼は現在アナハイム(カリフォルニア)で年商数億ドルのインター
ネットビジネス会社の会長をしていますが、私が定年になったとき「先生は論文を出すの
に苦労しているが、これからはインターネットでレフェリーなしのところに出しなさい。
僕のインターネットビジネスに先生のためだけのフィジクスセクションを作って、検索し
たときに、まっさきに出てくるようにしてあげます。そうして世界中の院生やポスドクを
自分の弟子だ、と思っておやりなさい。今はそういう時代です。」といわれました。
暗闇にうずくまって、インターネットなど自分の研究とは無関係、と考えていた自分に
とって、これはまさに天の啓示でした。この助言に従って 1997 年以来7編の論文を、e‐
print archive(アメリカ物理学会)に出し、大森君がそれを検索しやすい形に編集し
て自社の広告の流儀でインターネットにのせてくれるのですが、普通のジャーナル投稿時
にはレフェリーの拒否反応の強かった論文ほど反響が大きいことが彼が時折送ってくれる
引用頻度の表でわかりました。先月送ってくれたメッセージは「先生の論文#7は先月一
ヶ月で618回引用されてます。これは取り込みに時間のかかる図や表を visit したもの
だけをかぞえたので、ひやかしは除いてあります。」ということでした。この論文は理論を
実証する数値例が‘手切れ’後のこととて欠けている尻切れトンボの論文で archive
journal ではとても受け付けられない(と自分でも思う)代物なのです。これを visit した
のはきっとテーマを探している世界中の院生やポスドクだったにちがいありません。エラ
イさんが興味を持つものではないことは確かです。このとき大森君が(筑波大学といわ
ず)世界中の若い研究者を相手にせよ、といわれた意味がわかりました。
インターネットという今日的なところに、老人が思いもかけず居場所を見つけて(もっ
ともその操作はすべて私設秘書、つまり家内の役目ですが)自分ながら驚いている、とい
うのが本音ですが、東京回帰などと今日言われている風潮、なんで東京の方ばかりチラチ
ラ見て、精神的植民地住民のようなメンタリティをもつのか、と理解に苦しみます。世界
中と、こうも容易に交信できる時代となっては、昼は大きく空がひらけて明るく、夜は闇
の濃いつくばは少なくとも思索の場としては東京とは比較にならないと思うのですが…。
もうひとつ、退官後「一人で闘うしかない」という決意のもたらした成果の話をさせて
下さい。一本刀が機関銃に勝った話です。
航空宇宙技術研究所の並列スーパーコンピューターが世界一の座を降りたのはつい最近
ですが、その十年程前、その完成お披露目パーティーのときです。所長がそのコンピュー
ターを作った富士通に感謝状を渡す式がありましたが、おどろいたのは渡す側が高い演台
の上にいて、受取る富士通の社長が床から伸び上がって受取ったことでした。当時の社長
関沢義君は僕の大学電気工学科時代のクラスメイトで、あとのレセプションのとき、気ま
ずい雰囲気をなんとかしたくて、彼に花をもたせようと「こうなると僕なんか、鉄砲が来
たときの剣術家のようなもんだナ」というと脇にいた元所長がすかさず「鉄砲じゃない、
機関銃です」といいました。本当にそうだ、と思ったものです。直接数値シュミレーショ
ンで乱流問題が解決すると、もう自分の出番はないな、と帰途思ったことを覚えています。
乱流では筋目の正しい理論と言えるものは驚くべきことに、これまで 1941 年にコルモゴ
ロフというロシアの数学者が提案したものしかないのです。更に驚くべきことに、この理
論は彼の物理的直観を次元解析という数学的手法で調理したもので乱流を支配する方程式
とは全く無関係なのに実験とよく合うのです。1979 年、アメリカから帰るとき、エイムス
研で私の理論の目付役(まちがいを見つけて所長に報告するという因果な役です)だった
RT ジョーンズ(後退翼の原理の発見者、航空のアインシュタインといわれている)に、お
まえの理論が世界に受け入れられるためには Tsuge equation(氏はそう呼んでいました)か
らコルモゴロフ理論が説明できなくてはいけない、といわれました。
コンピューターを使って結果を出そう、という道が閉ざされた今、最もインパクトのあ
る成果は、この‘ジョーンズ問題’を解くことだ、と気がつきました。何故ならコルモゴ
ロフ理論自体、数値計算は一切含んでいないからです。この選択は、負けで人生終りたく
ない、という追い詰められた揚句の選択でしたが、方向としては正しいようでした。本気
でやり出して約一年後の昨年 12 月結果が出たからです。それどころか、コルモゴロフ理論
では低次元空間の議論のためにマスクされてしまっている新しい知見もいくつか出ました。
コンピューター主導の思考は想像力を要する障壁は越えられないことが実証されました。
映画「用心棒」の三船敏郎の出刃包丁手裏剣がピストルの相手に勝った場面をチラと思い
出しましたがうぬぼれが過ぎるでしょうか、むこうはなにしろ機関銃なのです。Physical
Review や Physics of Fluids に出したら、又、ああでもない、こうでもないとたらい回し
された揚句拒否されるのでしょうが、今はインターネットでどういう反響があるか、とい
うこと以外は視野にありません。
もう一足の草鞋をくれた人人の話をして終わりにします。それは私が柔道を教えている
つくばの小中学生です。というより、私は教える代わりに彼等から生命力と「15 年後のオ
リンピックの金メダル」
、「30 年後の世界中から一目おかれる日本の指導者」という二つの
夢をもらっているのです。
私の少年柔道との関わりは四十代の初めアメリカ以来で、つくばへ来てからも現役時代、
土浦体協へ出かけて、やる気のある子だけの相手をしていたのですが、退官時に三人引き
連れて独立し、つくば中央柔道塾なる自分の道場を持ちました。発足に際して15年後の
目標を建てました。それはオリンピック出場ではなく、「オリンピック出場と金メダルが同
義の選手」を育成する、というものです。この表現は解説を要するかもしれません。カリ
フォルニア時代、あらゆる毛色の青少年と稽古して思い知らされたことは、日本人は他人
種に比べて、同じ体重でも筋力的に劣り、同じ身長でも懐の深さで劣る(手が短い)とい
うことでした。その上我々は倭(チビ)といわれた矮小人種です。日本人が如何に肉体的
劣等人種であるか、はオリンピック陸上の成績から自明のことです。では、どうして柔道
だけは少しはましなのか、といいますと、日本人は‘普遍的に正しい’柔道というものが
あるのだ、という直覚力と、それを身につけようとする執着心ですぐれているからです。
むろんのこと、これらは DNA レベルで備わっているものでなく、教育という磁場の中で磁
化されてのみ発動するものです。ですからこの磁化能力が薄れたとき、日本柔道はすべて
を失うことになります。
うちでは普遍的に正しい柔道とは‘弱者の柔道’だと教えます。つまり相手を肉体的強
者と位置づけ、体重で言うと二階級上が一番やり易いようにする稽古をさせます。‘低い’
背負投(背負投には二種類あります)
,小内刈,足払,そして寝技がその手段ですが、身長、
体重を利した強者の柔道とちがって、これは苦しいものです。その上、この方法は国内体
重別大会で勝つためにはベストの方法ではないでしょう。しかし、‘外へ’出たときには他
の日本選手と明らかにちがうと私の外国経験が思わせるのです。国内で勝てば金メダル同
然という昔を再現するのは我々世代柔道人の悲願ですが、私にはこれ以外の方法は思いつ
きません。
「弱者の柔道」苦行の効果について:これをやり遂げると、小学四年の末には子供はもは
やガキではなくなります。そして中学二年(14 才)で完全に仕上がります。昔の元服がこ
の年頃だ、というのがすんなり納得できます。大石主税のように討入りの一方の大将が勤
まる、という実感があります。二十才過ぎてもまだガキをひきずっている心身発育不全の
今の日本人をみていると、この子達に三十年後の日本を託すしかない、という思いに至り
ました。日本が負けて当たり前のスポーツで三つ子の魂を腐蝕されて育った輩は所詮欧米
人のミニコピーで、外へ出るといかに使いものにならないかを 10 年のアメリカ生活で見て
きたからです。
発足以来まだ 15 年は経っていないのでひとつめの目標もこれからです。出発時の三人は
もはや私の手をはなれましたが、それぞれ 1999 年度世界学生無差別級チャンピオン(女),
発足3年目で茨城県を制したつくば秀英高校のエースで 100k級インターハイ/国体代表
(男),48k級アジアジュニアチャンピオンで、昨年田村亮子と一勝一敗のドラマを演じた
17才(女),という現状です。七年後の今、三人だった塾生は七十人にふくれ上がりまし
た。
つくばには旧住民と新住民がいるそうですが、うちの子等は大果樹園の跡取息子、力士
出身の肉屋さんの娘、肝っ玉看護婦さんの坊や、大学教授の倅、国立/民間研究所の子弟
とさまざまで、そんな矮小な区分は意識にさえのぼりません。しかし、この子達が仕上が
る特訓の場所が遠東の野堀邸長屋門脇の物置小屋改造の道場だと申し上げたらあんなせま
いところで、とびっくりされる方もおられるでしょう。それに私自身も野堀家の店子、と
いうとていは良いが正確には居候なのです。
一茶の生きざまには及びませんが、私の終の栖が仮の宿であることが私には気に入って
いるのです。それに、闇の濃いつくばのはずれ、亭々とそびえる欅の巨木の下の掘立小屋
で、これぞと見込んだ子供らに身体と精神の帝王学を教える、これにまさる贅沢がそんな
にあろうとは思えません。
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