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日本語訳
ジョセフ・トッティス牧師 第一ヨハネ 2:15-29 2. これまで見てきたように、ヨハネはこの第一ヨハネ書の中で、熱心にクリスチャンに光の中 に歩み、闇を避け、神の命令に従うことを説いていました。 3. そして、それぞれ違うレベルの聖霊の成長過程にあるクリスチャンたちに説いた後、ヨハネ は「世」のものについて触れます。 1ヨハネ 2:15 世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛してい るなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。 5.世を愛してはなりません?…ではヨハネの福音書3:16はどうなるんですか? 6.ヨハネ 3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは 御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 7. 神が、ご自身のあなたへの、私への、そしてこの世のすべての人に対する愛を語ってお られるのは明白です。 8.ここでヨハネが「世」といっているのは、神と相反する、対照的な世のしくみのことを 言っているのです。 彼は、16節で、それらの「この世」にあるもののことを定義していま す。 9.1ヨハネ 2:16 すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢な どは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。 10.肉の欲、目の欲、「暮らし向きの自慢」。これらは、堕落した人間の壊れた衝動であ り、神が創造して「非常に良い」と言われたものが歪められているものなのです。 11.この世は、簡単に言えば罪にあふれています。すべての罪は、何らかの形でこの3つの 要素で言い表すことができます。 12.「この世」が心の欲という観点から論議されているとき、ヨハネの心配事が心の中にあ るということに気づくのは興味深いことです。 13.ヨハネは身体的な行動が罪であるということを否定しているのではないようです。彼 は、イエスがそうしたように、その行為は心や気持ちから出たものが果たされたことを示して いる、とはっきり言っています(マタイ15:16-20)。 14.姦淫や薬や暴力、その他どんなことも、最初にその心に思い浮かべ、それをしたいとい う欲求がなければ起こらないのです。 15.ヤコブ 1:14 人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。 16.ヤコブ 1:15 欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。 17.サタンは、前回見たように、火矢を放って私たちを誘惑するのです。 18.けれどもヨハネはここで、その矢にはたった3種類しかないということを明らかにして います。 19.肉の欲、目の欲、そして「暮らし向きの自慢」。たったそれだけです…すべての誘惑 は、この3つ火の矢のどれかなのです。 20.私たちは、サタンがこの同じ3種の矢を、一番最初にエデンの園でイブに誘惑したとき から使っているとわかるのです。 21.創世記 3:1 さて、神である【主】が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾で あった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、 ほんとうに言われたのですか。」 22.創世記 3:2 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。 23.創世記 3:3 しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを 食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せに なりました。」 24.創世記 3:4 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。 25.創世記 3:5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神 のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」 26.創世記 3:6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、 賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょに いた夫にも与えたので、夫も食べた。 27. イブは見ると、「その木は、まことに食べるのに良く」(肉の欲) 28.「目に慕わしく」(目の欲) 29.「賢くするというその木はいかにも好ましかった。」(暮らし向きの自慢) 30.さて、数千年先に行って見ましょう…マタイ書4:1-10で、イエスがサタンに誘惑 されたときのことです。前回もこの部分を少しお話しましたね。 31.マタイ 4:1 さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行 かれた。 32.マタイ 4:2 そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。 33.マタイ 4:3 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石が パンになるように、命じなさい。」 34.「肉の欲」 「ほら」、サタンは言います。「空腹を感じるのは自然の欲求です。そ の欲求を満たすのです…あなたは神の意思から外れてなどいない。自然なことなのです!!」 35.マタイ 4:4 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口か ら出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」 36.イエスは御言葉により、その誘惑に打ち勝ちました…けれども覚えておいてください。 これは、ただ御言葉を引用しているだけではないのです。御言葉を実用しているのです。 37.いいえと断るためなのです…私はそんなことはしない。私は自分の肉を否定する。それ は、神の意思に反しているということを知っているからだ。 さて、2つ目の誘惑を見てみましょう。 38.マタイ 4:5 すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、 39.マタイ 4:6 言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いた ちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにさ れる』と書いてありますから。」 40.これはどの誘惑にあたりますか?「暮らし向きの自慢」ですね。 41.サタンはイエスに言います。「もしあなたが人々の前でこれをするなら…人々は天使が あなたを優しく地上に降ろし、そして…彼らは驚き、そしてあなたを信じ、あがめるでしょ う。」 「暮らし向きの自慢」ですね。けれども… 42.マタイ 4:7 イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書い てある。」 43.またも、御言葉を用いることによって、その誘惑を断ち切っています。「そんなことは しない!」と。 44.マタイ 4:8 今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々 とその栄華を見せて、 45.マタイ 4:9 言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げま しょう。」 46.. 「目の欲」「イエス、見なさい」サタンが言います。「もしひれ伏して私を拝むな ら、これを全部あなたに差し上げましょう。」 47.マタイ 4:10 イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝 み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」 48.1ヨハネ 2:15 世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛 しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。 49.ヨハネは、世と神との間に妥協があることはないと、かなり明白に訴えています。そし て、それが十分に明白でないと思うならば…ヤコブがなんといっているか見てください。 50.ヤコブ 4:4 貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわから ないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。 54.私たちは選択しなければなりません。理解に苦しむことではありませんよね…神は私た ちを愛しておられます。そして、私たちにも神を愛してほしいといっているだけなのです。 55.私たちのうち何人が、愛されたいという欲求を持っているでしょうか?私たちすべてが 持っているんです。(あなたは否定するかもしれません、でもあなたにもその欲求は備わって います。) 56.けれども、私たちのうち何人が、私たちの愛する人に、不倫してほしいとおもうでしょ うか? どう感じるでしょうか? 57..もし、わたしがエイミーに、「愛してるよ、本当に愛してる!でも…この女の子のこ とも好きなんだ…心配しないで、僕は君の事もっと愛してるから。彼女とは1週間に一回ぐら いしかあわないから」 58.これを見て、おかしいと感じますか??? でも、これが私たちが自分の肉欲の誘惑に したがって妥協するときの様子ではありませんか? 59.それは、わたしが愛するものを失うのに値することですか? エイミーが私に、彼女に 誠実であるようにとお願いするのは、本当に度が過ぎたことでしょうか?神様が私たちに、神 様に誠実であるようにとお願いするのは、本当に度が過ぎたことですか? 60.1ヨハネ 2:17 世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行う者は、いつま でもながらえます。 61.イエスは次のように質問しています。はマタイ 16:26 人は、たとい全世界を手に入れて も、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人は いったい何を差し出せばよいでしょう。 62.あなたの永遠のいのちを、ただ過ぎ去っていくに過ぎないものに明け渡す価値はありま すか?私たちは、何もこの世のものを持っていくことはできないんです。あなたのいのちを何 と引き換えにするつもりですか? 63.私はいつも、人々が彼らのいのちと引き換えにすることにショックを受けます。人々 が、彼らの永遠のいのちをどんなに安い価値に定めているかということにショックを受けま す。 64.私は人々がプライドや、一時の楽しみ、名声や栄華などの愚かなことのために、いのち を引き換えにしているのを見かけます。とても安く売ってしまっているんです。 65.けれども、神様の考えでは、あなたのいのちが、この世全体よりももっと価値のあるも のなのです。 66.1ヨハネ 2:17 世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行う者は、いつま でもながらえます。 ローマ 12:1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたに お願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささ げなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。 ローマ 12:2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、す なわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一 新によって自分を変えなさい。 67.前回、信仰の盾について話したことを思い出してください…ヨハネが、私たちがこの世 に対して勝利すると言っている部分に注目してください。 68.1ヨハネ 5:4 なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信 仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。 69.1ヨハネ 2:18 小さい者たちよ。今は終わりの時です。あなたがたが反キリストの来る ことを聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。それによって、今が終わり の時であることがわかります。 70.ここ18節で、ヨハネは、終わりの時という事実について触れています。「終わりの 時」とは、いったいどういう意味なのでしょうか? 71.また、聖書で目にする似た表現もあります。主の日は近づいている。とか、時は近づい ている、または、イエスが、「見よ、私はすぐにやってくる。」といったものです。 72.これらの言葉が書かれてから2000年ものときがたっているのです。ですから、私た ちは不信仰によって心が皮肉ぽくならないように、これらの言葉の意味することをよく考える ことが重要です。 73.これらの表現については、諸説あります。いつ、どのように、なにが、といった、今日は 議論している時間のない詳細についての説です。けれども、総じてほとんどの人が、これらの 表現が、世界史の終わりと、イエスキリストの差し迫った再臨を語っているのだという部分で は一致しています。つまり…イエスは再臨されるのです! そして、ヨハネが信じていたよう に、その時は本当に迫っています。それで、次の疑問が、2000年たった今生じてきます。 イエスは何を待っているのでしょう? 74.2ペテロ 3:8 しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけませ ん。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。 75.2ペテロ 3:9 主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせ ておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、 ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。 76.#1神は時間と空間を超えた永遠の中に存在するので、時間によって縛られません。 77.#2 神は、御自身の約束について、遅かったり、無視なさったりしません。けれど も、神がこのように長い間(私たち人間の基準で)待っているのは、ひとりでも滅びることを 望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるからなのです。 78. キリストは、今日再臨されるかもしれないし、あるいは、もう2000年先かも知れ ません。けれども、現実には…私たちにはもう1分の猶予も許されていないのです!私たち は、私たちの創造主に会う準備を整えなければなりません。 79.しかし、聖霊的な観点から言えば、この終わりのときは、今日もそうであるように、す でにヨハネの時代に近づいていて、そしてもしあと2000年先にキリストが来るとして も、”近い”のです。 80.それではこれを説明する例を挙げてみます。 81.もし私が大阪から東京までスケートボードで行くと決めたら、ある程度時間がかかるで しょう。 82.私は、おそらく数県を通り過ぎなければならないでしょう。 83.その県境まで来ると、わたしは、「東京が近づいている」とか「東京は近くだ」とか言 うことができます。けれども、まだ実際に県境を越えて東京に入ったわけではありません。そ の代わりに、わたしはその県境に沿って、スケボーし始めます。 84.わたしは、いつでも東京に入ることができます。でも、実際そうするまでは…それは、 近づいており、近いのです。 そして、それが聖霊の世界というものです。 85.キリストの最初の降臨以前は、すべてが神の御国に向かっていました。けれども、キリ ストが降臨すると、その方向性は転換しました。そして現在、その御国に向かって進んでいた 時間は、御国と平行に進んでいるといえるでしょう。 86.しかし、わたしがスケートボードでいくつもの都市を旅しなければならないように、キ リストの最初の降臨も、いくつもの預言的出来事を成就しなければなりませんでした。 87.でも、預言的に言うと、わたしたちは現在この「県境」にいて、キリストの再臨まで に成就しなければならない預言的出来事も特にありません。通り過ぎなければならない「県」 はないのです。わたしたちは、すでにこの境にきているのですから!御国は、ヨハネにとって もそうであったように、今日のわたしたちにとっても確かに近いのです。それはイエスはいつ 来られてもおかしくない「終わりの時」なのです。 88.1コリント 15:52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが 鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。 89. 「たちまち、一瞬のうちにです。」時間は永遠の中に合流していきます。時間は消 失し、永遠が始まります。これは、わたしたちがこの御国への「境」を超える一瞬のうちに起 こります。私たちはみな、永遠まであと一歩、という所にいるのです。イエスが来られる、あ るいはわたしたちがその「境」を超えるということがいつでも起こりうるのです。 90.では、1ヨハネ 2:18に戻りましょう。 91.1ヨハネ 2:18 小さい者たちよ。今は終わりの時です。あなたがたが反キリストの来る ことを聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。それによって、今が終わり の時であることがわかります。 92.使徒ヨハネが、反キリストについて語っていることに注目してください。ヨハネは反キ リストについて書いているただ一人の著者です。 93.Antichrist(反キリスト)という言葉は、キリストに取って代わる、とか、キリストに逆 らう、という意味を持っています。 94.まず、反キリストは、黙示録13,16,19章でからられている人のことです。預言 者的な人格を持ち、終わりの時にやってくる世界の独裁者で、キリストに代わって多くの人々 の心を捕らえる人物です。 95.ですから、一番目に反キリスト、と呼ばれる人がいるということです。2番目にこれを 読んでみましょう。 96.1ヨハネ 2:18 小さい者たちよ。今は終わりの時です。あなたがたが反キリストの来る ことを聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。それによって、今が終わり の時であることがわかります。 AntiChrists: John is talking about teachers who are diminishing and opposing Jesus Christ. 97.反キリスト:ヨハネは、イエスキリストをけなし、敵対する教師たちのことを語ってい ます。 Reducing Him, saying He is not really God in the Flesh. 98.イエスを小さいものとし、肉に宿った神などではないといいます。 99.1ヨハネ 4:3 イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。 それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世 に来ているのです。 100.これらの教派、宗教集団、聖書の教師たちや非宗教的ヒューマニストたちは、イエス 自身が公言するよりもイエスを過小のものにしようとします。 101.イエスは誰であると称されていたのでしょうか? 102.ヨハネ 14:8 ピリポはイエスに言った。「主よ。私たちに父を見せてください。そう すれば満足します。」 103.ヨハネ 14:9 イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっ しょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たので す。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。 104.ヨハネ 10:30 わたしと父とは一つです。」 105.反キリストの精神そのものが、その教師らを通して、キリストの神性を否定すること を明らかにしています。彼らはこういうでしょう…「イエスは素晴らしい例である!」とか、 「立派な道徳的教師である」「でも、彼は神ではなかった。」と。 106.ヨハネは、これによりわたしたちが彼らを見分けることができる。と言っています。 107.1ヨハネ 2:19 彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間では なかったのです。もし私たちの仲間であったのなら、私たちといっしょにとどまっていたこと でしょう。しかし、そうなったのは、彼らがみな私たちの仲間でなかったことが明らかにされ るためなのです。 108.反キリストは交わりから離れていきます!だからといって、OICに来なくなったから と言って、その人たちが反キリストであると言うわけではありません! 109.わたしたちが話しているのは、キリストにある共通のからだについて話しているので す。 教会を替える人たちのことを話しているのではありません。 わたしたちは、交わりをやめる 人たちのことを話しているのです。 110.彼らはこう言うでしょう。「この教会にはいいところが一つもない…堕落している。 形式的になりすぎる。カリスマ的すぎる。律法的過ぎる。自由すぎる。彼らはただわたしのお 金がほしいだけだ。わたしはただ一人でキリストを経験することができる」…そして彼らは、 キリストのからだから離れていきます。 111.よく聞いてください。世の中にはたくさん、さまざまなスタイルの教会があり、言い 訳をするのは簡単です。 112.キリストのからだから離れていくものはだれでも、注意人物です。彼らはそもそも、 そのからだの一部だったでしょうか?彼らはそもそも生まれ変わっていたのでしょうか?それ とも、反キリストの精神が、彼らに働いているのでしょうか。 113.誰でも、教会に行きたくないとあれこれ言い訳をする人は、この御言葉に対処しなけ ればなりません。 114.ヨハネは、彼らが誰なのかわかるだろう、と言っています。彼らは、信仰から離れ、 ほかの人が信仰を持つのを妨げるのに利用されているのです。 115.ヨハネが教えたように…わたしたちは、愛と赦しの精神を持つべきです。非難した り、 皮肉っぽくなったり、また批判的になるのではなく…愛をもつのです。愛はいくつもの罪を覆 いかぶすからです。 116.1ヨハネ 2:20 あなたがたには聖なる方からのそそぎの油があるので、だれでも知識 を持っています。 117.ここで、ギリシャ語のknow(知識を持つ)はoida {oy'-da}…で、これは「直感的に知 る」という意味です。これは、意識的な理由付けをのぞいてでも、何を本当と感じるかという ことに基づいています。 118.つまり、あなたはただ知っているのです!あなたの中にある何かが、彼らの言ってい ることややっていることが、ただ正しくないと、キリストから来るものではないということを 訴えるのです。 119.1ヨハネ 2:21 このように書いて来たのは、あなたがたが真理を知らないからではな く、真理を知っているからであり、また、偽りはすべて真理から出てはいないからです。 120.1ヨハネ 2:22 偽り者とは、イエスがキリストであることを否定する者でなくてだれ でしょう。御父と御子を否認する者、それが反キリストです。 121.誰が偽り物なのですか?誰が反キリストなのですか? 122.それは、イエスの神性を否定する者たちです。 エホバの証人、モルモン教、そして そのほかのカルトです。 123.あなたにはわかるでしょう! 124.彼らは一人残らず、イエスを愛している!イエスは素晴らしいと言うでしょう! 125.でも、聞いてみてください…イエスは神ですか? 126.「えっと…彼が救われるための道です。」 127.そうですね、でもイエスは神ですか? 128.「彼は父なる神の最初の子…神の子です。」 129.そうですね、でも、イエスは神ですか? 130.ヨハネが言うように、このようにしてわかります。 131.1ヨハネ 2:23 だれでも御子を否認する者は、御父を持たず、御子を告白する者は、 御父をも持っているのです。 132.1ヨハネ 2:24 あなたがたは、初めから聞いたことを、自分たちのうちにとどまらせ なさい。もし初めから聞いたことがとどまっているなら、あなたがたも御子および御父のうち にとどまるのです。 133.1ヨハネ 2:25 それがキリストご自身の私たちにお与えになった約束であって、永遠 のいのちです。 134.聞いたことを、自分たちのうちにとどまらせなさい。逃さないでください。どうして でしょう?それは、それが約束だからです…永遠の命なのです。 135.わたしたちに用意された場所にはもやは、悲しみも、痛みも、苦しみもありません。 そこでは、イエスがわたしたちの目から流れる一粒一粒の涙をふき取って下さり、全てをあた らしくして下さるのです!!!!! 136.ですから、もう一度言いますが、わたしたちは誰が反キリストであるかわかります。 それは、1番目に、彼らは信仰から離れていく(19節)、2番目に、キリストの神性を否定 する(20-15節)、そして最後に、キリストにある家族をだまそうとするからです。 137. 1ヨハネ 2:26 私は、あなたがたを惑わそうとする人たちについて以上のことを書 いて来ました。 138.これらの反キリストは、あなたを信じさせようとして、単純な神のことばの教えより も、雑誌や、歪められた解釈を用います。 139.1ヨハネ 2:27 あなたがたの場合は、キリストから受けたそそぎの油があなたがたの うちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべ てのことについてあなたがたを教えるように、‐‐その教えは真理であって偽りではありませ ん‐‐また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるの です。 140.さて、ヨハネが言おうとしているのはこういうことです。油を注がれた聖霊の宿る、 生まれ変わったあなたが、神のことばから受け取っているもの以外には何も他人に教える必要 がないと言うことです。パウロがガラテヤの人々に教えたのと同じように。。。 141.エホバの証人がくれようとする、「ものみの塔」という雑誌を読む必要はないので す。モルモン教の信者が教えようとする、聖書とは余分にある3本の本はいりません。神のこ とば以外は、何も必要ないのです。神の御霊が教えてくれるからです。 142.ヨハネ 14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる 聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのこと を思い起こさせてくださいます。 143.「えーっと」ある人は言うでしょう。「どうして教会に来なければいけないのです か?」これは、御言葉を引用するのにふさわしい例です。20節をもう一回見て、実用してみ ましょう。 144.1ヨハネ 2:20 あなたがたには聖なる方からのそそぎの油があるので、だれでも知識 を持っています。 145.Know(知識を持っている、知る)という言葉のギリシャ語にあたる言葉が、直感的 に知る、という意味だったことを思い出してください。聖霊の声に耳を傾けてください。これ は正しい考えだと感じますか? これらの聖書箇所を全て読んでみて、ヨハネは本当に、教会 にいく必要がない。と言っていますか? 146.反キリストの魂は、御言葉を引用するのが大好きです。ヨハネは、明らかに偽教師た ちのことを言っています。彼は、教会に行くべきではない、と言っているのではありません。 147.ヘブル 10:25 ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえっ て励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。 148.1ヨハネ 2:28 そこで、子どもたちよ。キリストのうちにとどまっていなさい。それ は、キリストが現れるとき、私たちが信頼を持ち、その来臨のときに、御前で恥じ入るという ことのないためです。 149.もう一度、キリストの再臨に対する約束が書かれています。そして、それはキリスト を信じ、キリストのうちにとどまる者への恵みに対する約束でもあります。 150.1ヨハネ 2:29 もしあなたがたが、神は正しい方であると知っているなら、義を行う 者がみな神から生まれたこともわかるはずです。 151.わたしたちはどのようにすれば、わたしたちが生まれ変わったと知ることができるで しょう?どうしたら、自分が神の御霊を持っていて、反キリストのそれではないことがわかる でしょう?どうしたら、ヨハネが警告するように、堕落して犠牲者になってしまうのを防ぐこ とができるのでしょう? 152.29節…「義を行う者がみな神から生まれたこともわかるはずです。」 153.義を行うのです!どうやって? まず、信じていないことはなかなか実行できません。 ですから、私たちは信仰の上に土台を築く必要があります。 また、なんでも実践を積めばどんどん上手になります。 義を行うことにおいても同じことが言えます。 不確かさの中では、確かだと確信できるものを実践しなければなりません。 それは、神のみことばです。 疑いのあるときは、信頼のおけるものを実践しなければなりません。 それは、神の完全で主権あるみこころです。 弱さと恐れの中では、力と勇気の源をもとに実践しなければなりません。 それは、聖霊の力です。 失望の只中では、私たちが希望を見出せるものを実践するのです。 ローマ 15:13 どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満た し、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。 154.義を行うのです!ただ、神のことばによって正しいことをするのです。 155.ヨハネが教えるように…光の中を歩みなさい。暗闇を避けなさい。神の命令に従いな さい。互いに愛し合いなさい! 156. テトス 2:11 というのは、すべての人を救う神の恵みが現れ、 12 私たちに、不敬 とこの世の欲とを捨て、この時代にあって、慎み深く、正しく、敬 に 生活し、 13 祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの 栄光ある現れを待ち望むようにと教えさとしたからです。 157. .祈りましょう。