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ホーチミン市歴史散歩
上:マジェスティックホテル(1925 年ごろ撮影) 中:1915 年ごろのカティナ通り(現ドンコイ通り) 下:19 世紀末にオープンしたデパート、グラン・マガ ザン・シャルネー。現タックスデパート(P11 参照) 玉居子精宏[取材・文] ・Hoang The Nhiem[写真] 古写真提供:Xua & Nay 編集部 協力:ベトナムスケッチ編集部(中安昭人) ホーチミン市 歴史散歩 経 済 成 長 に 沸 く ベ ト ナ ム、 その最大の商都ホーチミ ン 市︵ 旧 称 サ イ ゴ ン ︶ に は﹁東洋のパリ﹂と呼ばれ た仏領期の名残が、美しい 建築物としてそこかしこに 点在している。そんな町を、 仏領期に撮影された古写真 と現在の風景とを見比べな がら歩いてみよう。見慣れ た場所の、知られざる歴史 5 の物語にきっと出会えるは ずだ。 1898 年に起工し、10 年の歳月をかけて建てられた旧サイゴン 市役所。現在はホーチミン市人民委員会庁舎 4 ていない。 ﹁ここに来れば、揃わない 19 1 4 年 に 創 設 さ れ た ホ ー チ ミ ン市最大の市場・ベンタン市場。この 類、乾物、生鮮食品、皮革製品、貴金 内の圧倒的な品揃えに目を見張る。衣 激動のベトナム現代史の生き証人 ものはない﹂と言われる状況は、現在 街がフランスの統治下にあった時代か 属と、あらゆる種類の商品が隙間なく も同じだ。この市場を訪れる人は、場 ら、戦火に見舞われ続けた 世紀を経 て、世界中から注目される経済新興国 がら博覧会のようだ。 芸術的に積み上げられた様子は、さな まさに歴史の生き証人である。ここか ても、電卓片手に厳しく値段交渉する、 子たち。だがたとえ﹁安い﹂と言われ これがベトナム流だ。 かつては鉄道のターミナルとして 心にあり続けてきた。 前は仏領インドシナの経済を支える交 駅があった場所。そう、ベンタン市場 る公園がある。これはかつてサイゴン ﹁とにかく何でもありましたよ。内地 ここから1700キロ離れたハノイに 向かう長距離列車が出発した他、当時 から世界でも有数の穀倉地帯であった メコンデルタ、またサイゴン市内にあ る中華街・チョロンなどと結ぶ列車が 駅に出入りしていた。だが長い戦乱を 経て、駅は郊外に移転し、鉄路の風情 ム鉄道総公社の社屋が建っている。実 往年のインドシナ鉄道会社、現ベトナ その駅跡から、市場前のロータリー を挟んで反対側へ目を転じてみると、 戦争中の暗部は今や過去のものに は消え去った。 めたものよ﹂ でね、遊びに行っては窓から汽車を眺 ﹁駅員だった伯父の家が駅のすぐ近く 通の要衝だった。 第二次大戦中、サイゴンに軍を進駐 させていた日本が設置した高専﹁南洋 学 院 ﹂に 学 ん だ 宮 脇 修 さん︵ サイゴンで少女期を過ごしたクッ ︶は、 クさん︵ ︶は、往時の駅を懐かしむ。 年以上前に目にした光景を今も忘れ 81 昔のベンタン市場前。左手の隅に旧サイゴ ン駅がある。馬車や人力車など今はなき乗 り物も。上の写真は現在のベンタン市場前 ベトナム戦争が終わってはや 年。 1964年から翌年にかけ、特派記 ベトナムは今、人口の6割を 歳以下 者としてサイゴンにいた作家・開高健 では凄惨な処刑劇が繰り返されていた。 でも少数派になりつつある。 はベトナム戦争たけなわの頃、この前 70 には驚きましたね﹂ ではすでになかった味の素があったの その名の通り、常に庶民の暮らしの中 の買い物客や旅行者が訪れる。かつて 熱気あふれる市場の正門とされる南 は﹁中央市場﹂という名称で親しまれ、 門を出ると、右手にこんもり木立が繁 朝 の 4 時 頃 か ら 夜8 時 ま で、数 万人 ベンタン市場は、店舗数約1500 軒、5000を超える人が働き、毎日 史散歩を始めてみよう。 ら、ホーチミン市の今と昔をたどる歴 て、新聞紙上をにぎわす現在に至るま ﹁お兄さん! Tシャッツゥ、安い で、その激動の1世紀を見続けてきた、 ヨッ!﹂と先制攻撃をかけてくる売り ベトナムの牽引車・ホーチミン市とし 20 ものだと言ってよいだろう。 が占める若い国で、戦争は既に過去の う書いた。 にした地下鉄敷設計画が現在進行中 新しい表情を見せてくれることだろう。 現されるとき、市場や広場はまったく なのだ。日本のODAを投入するこの 計画が実現し、かつての﹁駅前﹂が再 このコロニアル建築の社屋が隠し持 つ、そんな暗い事実を知る人は、地元 ﹁銃殺! 少年はヒザをガクリと折っ て、くずれおちた﹂ いだったという。彼は処刑の瞬間をこ こ の エ リ ア は、ま た 新 し い 局 面 を 場は、社屋前の歩道に積んだ土嚢の囲 迎えようとしている。市場前を出発駅 のルポ﹃ベトナム戦記﹄を片手に﹁現 32 場﹂へ赴く。今は跡形もないその処刑 25 6 7 60 絢爛たるベトナムの﹁銀座﹂ ガイドブックで紹介されるレストラ ンやショップの約半数が集中するドン コイ通り。ここは、カティナ通りと呼 ばれた仏領期から100年以上に渡っ りベトナム随一の繁華街として、サイ ゴンの﹁粋﹂を体現し続けてきた。 1954年、フランスからの独立後 には﹁トゥヨー︵自由︶ ﹂ 、 年の南北 聖母マリア教会。下は創建当時の写真で尖 塔は後から足された。広場のマリア像も後 年設置されたものだ 大戦時、日本軍の将校宿舎として使用 は意外な関わりを持っている。第二次 史を1925年に遡る名門で、日本と まず目に入るのが、サイゴン川に臨 んで建つマジェスティックホテル。歴 ティークを売る老人の声が聞こえてき な少女たちの若い声に混じって、アン の通りの風景にとけこんでいる。そん 片手に声をかける様子は、すっかりこ 年のビンさん た。路 上 で の 商 売 歴 ︵ ︶だ。 ﹁仏領期のお札を買わないかい。これ を飲んだ屋上のバーは今も健在だ。 2006年にホーチミン市を訪れた 外国人旅行者は235万人。その大半 新旧文化が混在する目抜き通り のなかで女神が優雅に微笑んでいた。 ンカフェでくつろぐのがフランス人の 数少ない娯楽だった。モダンなカフェ が増える中、今も、そのレトロな雰囲 表したが、マネジャー氏によると﹁お 民の年間平均所得を722米ドルと発 後のものが目白押し。政府は昨年の国 別世界だ。商品は、1000米ドル前 は寒いほど空調がきいていて、外とは グッチの正規販売店に入ってみた。中 とも象徴的に感じさせてくれる場所だ。 んな昔と今が共存するこの街を、もっ マンがすれ違う。ドンコイ通りは、そ ザイ姿の信者と、スーツ姿のビジネス の高層ビル。敬虔に祈りを捧げるアオ 教会の背後に目を向けるとガラス張り ア教会、右手にあるのが中央郵便局だ。 グッチを出てさらに通りを上がると、 並木が途切れ右手に市民劇場が見えて くる。ここもまた、波乱のベトナム現 代史に手荒く揉まれてきた。第二次大 戦中には空襲で損壊、1954年の南 北分断後の一時期は北部からの移住者 が仮住まいし、その後、南ベトナムの 下院議事堂となったのである。初期の 姿に戻されたのは 年、ベトナムが旧 宗主国の遺産を評価する余裕を持てる ようになったということなのだろう。 劇場に向かって左手が1880年創 業のコンチネンタルホテル。各国の政 治家、名士が宿泊者リストに名を連ね る。仏領期には、このホテルのオープ 1900年に完成した市民劇場︵旧オペラ 座 ︶。バ ロ ッ ク 様 式 の 建 物 で 装 飾 の 彫 刻 は フランスから持ち込まれたという 客様の半分がベトナム人﹂とか。 気を求めて立ち寄る人は少なくない。 昨 今、ド ン コ イ 通 り に、国 際 的 な 高級ブランドの出店が相次ぎ、話題と ホテルを過ぎてから通りは緩やか に上って広場に入る。正面に聖母マリ なっている。今年5月にオープンした 彼から手渡されたアルバムを開くと、 ピアストル︵仏領期の通貨単位︶紙幣 使った103号室にはその旨を記すプ 20 は掘り出しものだよ﹂ 68 レートが掲げられ、コニャックソーダ こに陣取り前線取材に出かけた。彼が され、ベトナム戦争中には開高健がこ が ド ン コ イ 通 り を 訪 れ る。観 光 客 に、 この通りを川べりから歩いてみよう。 優美なアオザイ姿の娘たちがチラシを 継がれている。 雰囲気は失われることなく、今に受け 起︶ ﹂と名前を変えても、その瀟洒な ベ ト ナ ム 統 一 を 経 て﹁ ド ン コ イ︵ 蜂 75 8 9 98 流転を経たベトナム経済の大心臓 ローマ 1940年にチョロンを訪問した日 本人記者はその経済力に驚嘆し、 ﹁華 僑の国の羅馬﹂と言葉を残した。その 業国有化に反発した華僑が国外に脱出、 トナム経済全体に好影響を与えている。 チ ミ ン 市 人 民 委 員 会 庁 舎。同 庁 舎 は、 して政治の中心にあった、現在のホー そのドイモイ生誕の場所といって良 いのが、仏領期にはサイゴン市役所と 意外と知られていない。 家規模に拡大されたものであることは、 チミン市で行われた改革の試みが、国 ドイモイ︵刷新︶政策。それが、ホー 導き出したのが、1986年に始まる 展が目覚ましい。そんな今日の活況を VISTA︵ビスタ︶という言葉も できるほど、近年のベトナムの経済発 ドイモイ、その揺籃の地へ ナム経済を牽引していくのだ。 ここではこれからも生み出され、ベト 数世紀前から変わらぬ華僑の成功譚が、 大ビジネスを動かすまで出世する︱︱ ﹁俺の出身? ゴーストタウン化したのである。 広東だよっ!﹂ 市場の氷屋で働く青年は朗らかに ﹁中華の店からもいいコックがいなく 笑 っ た。移 住 先 で 肉 体 労 働 か ら 始 め、 なったみたいだね。味が落ちたよ﹂ 市の西に位置する東南アジア最大の 実感は今にも通じるものだ。 年の落合茂さん 中華街、チョロン。映画﹃愛人/ラマ ビンタイ市場を覗けば、山積みされ ベ ト ナ ム 在 住 ン﹄では、少女が中国人と逢い引きを 重ねた退廃の街だったが、阿片窟や大 賭博場が軒を連ねたという往時の面影 はなく、今日では商売上手な華僑の勢 いばかりを見せつけられる、商都のな かの商都になっている。 ここを訪れるにはバスを使おう。旧 サイゴン駅発の市電と同じルートを走 るから、往時を手軽に追体験できるの だ。バスに乗ることおよそ 分、車窓 に中国寺院や漢字で書かれた看板が目 立ち始めると終点が近い。 ﹁あっちが市場ですよ﹂ 降車間際に車掌から言われた方向に は市場が立つ。 ﹁チョロン=大きな市 場﹂と呼ばれる街の大黒柱、ビンタイ 市場だ。 世紀初頭、華僑の富豪がつ くったという。 街路の突き当たりに重要な建築を置く に従い、市内きっての大通りであるグ ︵ ︶は暗黒時代の証左をそう語る。 物、正体不明の乾物類⋮⋮。まさに無 年で、チョロンは見 しかしこの約 尽蔵の物量で﹁繁栄﹂の一語に尽きる。 事 に 復 活 し た。海 外 在 住 ベトナ ム 人 エンフエ通りの突き当たりにそびえて ﹁ビスタ﹂というフランス流の街作り ︵越僑︶の力のおかげだ。越僑とは本 た鍋釜や衣類、大小の肉塊、野菜、果 1889 年撮影のシャルネー通り(現グエンフエ通り) 、中央を通る 運河は現在では埋立てられている いる。 1:現在のビンタイ市場。城郭のような構 えは当初と変わらない。物の運搬も人力が まだまだ主力だ 2:現タックスデパート(P4 参照) 3:グエンフエ通り。右手奥がホーチミン 市人民委員会庁舎 仏領期に中国風の建物が建てられ たとは奇妙だが、フランスがこの街を 87 来の華僑が多く、彼らの外貨送金がベ 2 3 ショロンと呼んだ時代、華僑は米の商 20 世紀初頭のビンタイ市場。もともとこの場所は沼地だったという だがベトナム戦争後、チョロンは激 いを主にして、インドシナ経済の実権 しい凋落を経験した。共産党による企 をも握るに至ったのである。 1 20 10 11 50 10 20 サイゴン市役所を描いた絵はがき そんな歴史を知ってか知らずか、夕 暮れ時になると、ライトアップされた 庁舎前の広場には家族連れや若者が集 い、まるで縁日のようなにぎわいを見 せる。 ﹁ここは背景の建物がきれいだろ? 声、はしゃぐ子供たちの笑いに、フラ ンス建築の壮麗さもかすんでしまうよ うだ。 人民委員会庁舎からサイゴン川の 方 へ グ エ ン フ エ 通 り を 下 る と、右 手 にタックスデパートがある。そもそも の起源は、 世紀末に開店したデパー ト﹁ グ ラ ン・ マ ガ ザ ン・ シ ャ ル ネ ー 史 あ る と こ ろ だ。店 名 は、グ エ ン フ ︵シャルネー大百貨店︶ ﹂という、歴 エ通りの旧称シャルネー通りにちなみ、 それは植民地開発を指揮したフランス 人総督の名前でもある。 このデパート内で、雑貨ショップや スーパーをはしごすれば、多種類の土 産物を定価でまとめ買いできるとあっ て、旅行者には大人気。昔日と変わら ない繁盛を見せている。 対岸に咲く新都心の夢 ﹁涼みがてら遠くから来る家族連れが 年のバオさん 流しのカメラマン歴 はそう話す。 いう、家庭裁判所の姿は思い描きにく 足元に来てみるが、そこに昔あったと がそそり立つ。この近未来的なビルの 少し進むと市内における高層オフィ スビルの先駆け、 ﹁サンワータワー﹂ いるからね、そんな人たちを撮って写 様子となると、完全に想像の埒外だ。 い。さらにこの通り自体が運河だった 記念写真にはぴったりなんだ﹂ 19 真を買ってもらってるんだよ﹂ 綿アメやアイスクリームの売り子の 市電 中だ。振り返ると、ライトアップされ た人民委員会庁舎が白亜の城のように の全面的な戦争介入、南北統一と、ま 中央郵便局 ﹁ここに裁判所があったんですか? 全然知りませんでしたよ。運河のこと 話した。これから残業で取引先との さに激動のベトナム現代史をつぶさに ム人のしたたかなところだ。そしてま 聖母マリア教会 浮かび上がって見えた。 打ち合わせだという。唐突な質問にも 目撃してきた。 立ち並ぶ高層ビルを見上げながらサ イゴン川に到着。川べりの公園でベト た、重ねてきた歴史が渾然一体となっ コンチネンタルホテル も聞いたことがありませんね﹂ ビル内の日系企業に勤める男性・ロ この100年の間、街はフランスの アンさん︵ ︶は流暢な日本語でそう 植民地支配、日本軍の進駐、アメリカ 受け答えはスマートで、小脇に抱えた ノートパソコンが新時代のビジネスマ 足を踏み入れてきたそんな諸外国の 影響を、むしろ自国の文化の一部とし ナムの未来を担う若者たちが語らって た﹁混沌﹂がかもし出すこの街独特の ンを演出していた。 いる。外資企業の看板が並ぶ対岸の2 魅力は、これからも変わらずに輝き続 1941年 「日本印度支那協會」 により作成された地 図を元に作成。現在の鉄道路線は現サイゴン駅ま で。 ミトー行き鉄道および市電は廃止されている。 チャン (現 て上手に取り込んできたのが、ベトナ 区では、市が推進する新都心開発計画 けることだろう。■ オペラ座 (現市民劇場) 12 13 り ニ通 り) ガリエフンダオ通 チョロン地区 シャルネー通り 道 カティナ通り 市中心部 中央市場 (現ベンタン市場) (現グエンフエ通り) 鉄 き 行 ー ミト 家庭裁判所 (現サンワータワー) サ イ ゴ ン 川 ビンタイ市場 サイゴン市役所 (現人民委員会庁舎) グラン・マガザン・シャルネー (現タックスデパート) が、2020年の実現を目指して進行 右頁:薄暮のホーチミン市人民委員会庁舎。建築美 がひときわ輝く 左頁:サンワータワー。外資企業にとって、このビル に入居することがひとつのステータスになるともい われている 20 現サイゴン駅 マジェスティックホテル (現ドンコイ通り) サイゴン駅 インドシナ鉄道会社(現鉄道総公社) 鉄 道 1940年頃の サイゴン(現ホーチミン)市 29