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チ ュ チ ェ )思 想 と マ ル
チエチ ェ.思想 と マ ル ク ス ろひらかれた朝鮮労働党中央委員会会第六回総会においてキム・イル ソンほ戦後復興経済の基本方針を報告した(cqLL,).キム・イルソンは戦 争中前線、後方での労働党の中核としての役割を高-評価しながら、 停戦と祖国統一の問題に関連して'停戦は完全な平和でないから平和 な建設ほできないとか、あるいほ平和になったからと安逸にながれる 叉方をいましめつつ、停戦の勝利をうちかため、チョソソにおける恒 久平和と祖国の平和的統一のために、ねばりづよ-たたかうことが必 要であると力説しながら戦後の人民経済の復興についていう。「人民経 済復興発展の基本方向は、‥-過去におけるわが国の経済発展の歴史 的条件とまたおかれている状況を正し-分析したうえできめねばなら (五四-五六年)、㈲ ない」と。そして三つの基本的段階を設定した.すなわち糾準備段階 (半年ないし一年)、㈲人民経済復興三カ年計画 五カ年計画がそれである。叫は準備と整理の段階であり㈲において戦 前の水準をとりもどし(fB)㈱ほ工業化の基礎をきづ-ための、工業化 チュチェ思想とマルクス思想 思想 の第1段階となるものであった.工業の復興発展の基本方向として、 戦争の過程であらわれた工業の弱点、植民的的肢行性の1掃のためr 工業の配置がえと、各部門において順序立てて復興することを提案し けだし、動員、利用することであり、二つにほ技術者の不足を、調整 配置、条件の保障、再教育事業、あるいは外国からの技術援助等によ って確保することであり、三つ目として労働力の量の確保として帝人 労働力(商業、逓信、保健、文化、教育棟閑、軽工業部門等に) いた(a).このこと ソの労働者の絶対多数は旦雇い人夫として無知蒙昧な状態におかれて、 ほ労働力の源泉ほ土地をうばわれた農村の貧農と没落した小市民であ ったため(EB)、ブルジョア的意識がつよ-のこっており'またチョソ 制の採用、あるいは労働者階級のなかで思想活動を強化することなし にほ遂行されえないものであった。日本の植民地支配下のチョソソで は党政権機関、経済機関の活動家の水準をたかめるための集団的協議 にすみやかに現実性にかえてい-かにかかって」 にするかどうかに'またこれらすべての可能性をいかにうま-、いか 員したり'火田民を「その希望にしたがって」工業部門に転用するこ とであった.「問題ほわれわれが国の主人にふさわし-仕事をりっば を動 十二-十三時間におよぶ労働時間と低賃金制とは労働者の文化的、技 l がなされ、八月八日にほ韓米相互防衛条約が締結された(a).このこ シソトンでほ戦争再開のさいにほ軍隊と機構を送る旨の〓ハカ国宣言 た。このようなプランが可能であるかどうか。一つは内部資源をみつ 一九五三年七月二七日、朝鮮軍事休戦協定が締結された。しかしヮ §3 建設の五カ年間に労働者の物質的、文化的水準とその階級的意識はた 術的水準をきわめてひ-い状態におしとどめていた。解放後の平和的 農村陣地をかためる問題ほきわめて重要な意義をもって]-いたのであ る(57)。キム・イルソンほ協同化にさいして玖原則として、㈲農民の の革命的な民主基地を鉄壁のように強化すること」 チュチェ思想とマルクス思想 かまり、三カ年の戦争の過程で政治的自覚もたかまったとほいえ、五 労働経歴をもつ労働者はわずかに四%、半数以上は1年未満の労働経 農民や戦争で破産した小市民たちが工業部門に流入し、10年以上の 土地を統合しての共同経営(分配は土地と労働による)㈲土地・生産 化すること(組合内の民主主義、階級的思想教育、労働規律と秩序の 強化)o これらの原則にもとづいて農業協同組合を即労働互助班、拘 がってはじめほ小規模に (これは自然成長性でほかならずしもない。積 極的に宣伝、教育、説得しなければならない).恥自覚の程度にした 歴しかもっていなかったこと、また北半部で小南晶生産がしめる比重 とい いう.「問題は農民の自覚のていどとかれらの意識水準にある」 うのがその主張である。このような発想は生産力の上昇l生産閑系と (1五-二〇戸で).Ti既存の協同組合を強 が大き-、これらが労働者の階級的自覚と革命性をたかめるうえで支 の三形態に分摂し、これ 用具をすべて共有(分配ほ労働のみによる) らの三形態がかならずしも叫-㈱-㈲と段階的にたどる必要はないと あったのである。 視することから出発しているきわめてオリジナルなものといえよう。 いう図式を境械的に適用するというのでほな-、チョソソの現実を直 1・三)(OLL,)によると北半部の経済構造の三つの要素として叫社会主義 農村の協同化とともに人口の過半数を占める都市の手工業および私営 「こんごの農業発展のためのわが党の政策にかんして」 的国営経済、㈱社会主義的もし-は半社会主義的性格をおびた協同経 商工業等の資本主義的経済形態をもしだいに社会主義経済形態に移行 させていかねばならなかった。 おいて社会主義的要素をいっそう拡大'強化するという問題でもっと 牧場、農機械賃料所、牛馬賃料所'消費組合等がある.工業と農業に 協同組合に二一・五%が加入し、社会主義的経営としてほ、国営の農 についてもその報告をみることができない。べク・ボンの であるが、同年末の第七回総会に関しては著作選集、著作集のいずれ のキム・イルソンの報告については前述のように知ることができるの だものではなかった。われわれは朝鮮労働党中央委員会第六回総会で ところでこれまでのべてきた自立経済復興路線ほ、平坦な路を歩ん も緊急なことほ、南北分断という状況下では'北半部において、農村 「金日成 の協同化を積極的におしすすめることが重要な意味をもつのである。 「祖国の統一をかちとるための闘争でもっとも重要な問題はわれわれ 伝」(盟)によってうかがい知るにのみである.すなわち分派主義者、教 条主義老はマルクス・レ-ニソ主義の古典にものっていないような戦 七-八%を協同経営が、二-三%を個人経営が占め、農業においては 済、㈲資本主義的および小南晶経済である個人経済があげられている0 これを工業、農業別にみると、工業は工業総生産の九〇%を国営が、 (五四・十 が、こうした労働者の思想を階級的に武装させることが大きな課題で あるいはアメリカ帝国主義老の流す思想の影響等にょるものであった 障をあたえていたこと、さらに日本帝国主義支配当時ののこりかす、 自発性を尊重すること 三年の現状としては自己の階級的立場を正し-認識していない労働者 もす-な-なかったのである。これは多-の労働者が人民軍に参加し、 「(そのためには) 二 ヽ して糾社会主義経済形態'㈲小商品経済形態、㈱資本主義経済形態を ヽ 後経済建設に反対し、現代修正主義者は「国際分業」論にもとづいて、 ヽ あげ'㈲、㈲を叫へしだいに移行させる客観的基盤があるとして「北 ヽ 半部における社会主義基礎建設のための党の任務」は工業の植民地的 ヽ 鉱石その他の原料を生産して売ればいいので、機械製作工業など発展 きせる必要などないのだと主張したのである。五三年八月の第六回総 ヽ 披行性および技術的後進性を克服して、社会主義工業化の基礎をきず くことであり'その中心ほ重工業を優先的に発展させながら同時に軽 ヽ 会、九月キム・イルソンのソ連、中国訪問、十月'興南、威興'元山 の現地指導、十二月第七回線会、十二月二八日降仙製鋼所の指導。こ ヽ (五五・十二・二八)(61)をおこ 帝反封建民主主義革命の課題と北半部でほ「わが党と人民政権と大衆 アメリカ帝国主義の植民地略奪政策という状況のもとで南半部での反 の革命の性格を、国土の分断、民族の分裂、南半部につ-りだされた かかっていたのである。前記の報告にいたるまでのプロセスをみてみ ょう。「著作選集」-にほ次の三つの報告がある.「党員の階級的思想 前にし、五七年からの五カ年計画をようや-つ-りあげる時点にさし (五五・四・一)、「官僚主義 えるばかりでな-、わが国の統1独立をたたかいとる決定的な力量に の手先どもの侵略に反対して共和国北半部を防衛する強力な力量にか 政治的、経済的'軍事的にいっそう強化し、これをただ帝国主義とそ 決起させるべきであり、わが革命の根源地である北半部の民主基地を 内部に資本主義的要素が残っている条件のもとで、清算された階級の たのであるが、はじめの報告でほ党内の階級的思想教育を強化する必 いっそう促進するための経済節約と財政規律の強化について討議され は階級的思想教育の強化'党の活動作風を改善する問題、経済建設を 家活動のい-つかの問題について」 (五五・四・四).すなわちチmソ ソ労働党中央委員会総会のはじめとおわりの報告である。この給金で をなくすために」、(同)'「社会主義革命の現段階における党および国 転換させなければならない。そのためには北半部で革命をさらに前進 させ、社会主義基礎建設のための課題を徹底的に遂行すべきである。 妄想'ふるい社会の思想ののこりかすがあり、南からのスパイの潜入 三 要性として五つの要田をあげている。③敵と長期にわたって対峠し、 社会主義への漸次的移行ほ、北半部における社会経済発展の必然的要 がある(Si).②戦後の復興期に増大した農民、都市小市民出身の大量 チュチェ思想とマルクス思想 求である」とのべ(餌)、五五年段階の北半部の三つの社会経済形態と 主義的勢力をわが党のまわりにいっそうかたく団結させ'かれらをア メリカ帝国主義とり・スソマン1殊に反対する全民族的な革命闘争に 教育をいっそう強化することについて」 なった年であり'この時期ほ戦後国民経済復旧三カ年計画の完遂を目 義を一掃し、主体を確立するために」) 活動家の集会で古典的な報告(「思想活動において教条主義と形式主 五年は主体確立のための転換期といわれ、キム・イルソンが党の宣伝 ヽ のような多忙なキム・イルソンのスケジュ-ルのなかに苦渋にみちた 自力更生への闘いの軌跡をみることができるのである。五五年四月労 働党中央委員会総会でキム・イルソンは「すべての力を祖国の統一独 「四月テ ヽ 団体をいっそう強化し'南半部と北半部人民のすべての愛国的、民主 -ゼ」といわれているものである。テ-ゼは現段階におけるチョソソ ヽ 工業と農業を発展させるという路線を貫徹させることだとし、重工業 の優先こそ'経済の自立性、国家の自主的発展につながるという。五 と任務にかんするテ-ゼ1」 立と共和国北半部におけ ほ戦後加入したもので、農民出身が六〇%をしめており、小南晶経営 とむすびつき小ブルジョア思想、意識をもちやすいということ。⑤党 がちで、知識人には自由主義的な傾向が残存している。⑧マルクス・ レーニン主義が徹底していない.④党の浅い歴史。党員総数の五〇% の労働者にほいまだ階級的自覚がじゅうぶんでな-、農民ほ菅を忘れ ほ-‥党員たちをさらに前進させるためであ.ります」とのべ党内の階 わが党がつみあげた業績は大き-、--勲功もじつに大きいものであ ります。--にもかかわらず欠陥について多-を語らねばならないの みな嘘つきで、活動はすべてあやまっているのではないか'と思うよ うな人がいるかもしれません。--それは大きなあやまりです.・・・・ 「会議でいろいろな欠陥が批判されたので、-‥われわれの活動家が チュチェ思想とマルクス思想 内の思想、政治活動が形式的におこなわれてきたこと。これらのこと 級的思想教育をいっそう強化するための教育活動の二つの重点として 叫マルクス・レ-ニソ主義の創造的な学習、研究をあげ、うのみ、横 械的晴唱、経文読み式をしりぞけ「理論的な内容と本質を体得して、 われわれの実生活にあうように適用できなければなりません」(朗)とい かわらず「われわれの1部のわかい幹部はマルクス主義の1般的理論 主義、形式主義の克服、経文読み主義の一掃を訴えた。第二の報告は イムプリチットに存在している分派主義的要素にふれ、1九二〇年代 多-よんだ人ほマルクス主義の理論にうといのです」(6)とのべ、理論 と現実とを創造的に媒介させねばならないと強調した.そして党内に い㈲(裏がえしていえば)自分のものを多く学ばねばならないにもか 分派行動、党の寛容政策のあやまった理解がなされていることを指摘 し、党内の階級的思想教育活動の基本方向と対策として叫(教条主義 はよ-知っているが、自国の歴史は知りません。一方むかしの書物を 戦時中から(餌)官僚主義をな-すための闘争があったが「このたたか 神の確立、軸党内の政治教育活動と学習方法の抜本的改正として教条 いは日常的で系統的なものとならず、主として一種のカンパニア活動 貫徹させ、党および政権機関の幹部にたいする指導を強化しなければ 思想教育を徹底化し、集団指導、党内民主主義(批判と自己裁判)杏 一掃するためには、正しい指導方法を確立し、幹部にたいする階級的 法である官僚主義と革命活動とほ両立しないと。こうした官僚主義を で絶対多数の人民大衆を抑圧するための支配階級の反人民的な統治方 なかでとらえなければならないと思うのである。 なかで発表されたのであり'十二月の古典的論文は、そうした脈絡の の各分派を批判したのである(鶴)。「四月テ-ゼ」はこのような状況の 主義者がいなかったこと」によるとして、南半部、ソ連、中国、地方 細胞を組織できなかった」し「理論を正し-身につけた真のマルクス た歴史にふれチョソソ共産党は広範な勤労大衆のなかにふか-根をお ろすことができなかった。それは「上部組織だけあって工場や農村に 分であった。キム・イルソンはいう。封建制度や資本主義制度のもと ならないというものであった。総会の結語としての第三の報告はいう0 としてしかおこなわれませんでした」といわれるようにきわめて不充 に創立されたチョソソ共産党が、日本帝国主義の苛離な弾圧政策とも -1面としては共産党内部の派閥闘争のため短期間で破壊Lてしまっ にたいする) 主体思想の、㈲唯物弁証法的世界観の'㈱集団主義的精 の現象、国家的'社会的所有にたいしてふまじめな態度(党規律違反 、国家計画課題の未達成)、官僚主義的活動方法(へつらいとおごり}、 から、おこなわれている革命の性格と基本的任務、その発展のみとお しと遂行の方法について正確な理解がなされていないこと、利己主義 四 なければならないという原則ほありえませんoある人たちはソ連式が よいとか、中国式がよいとかいうけれども、もうわれわれの式をつ- べきであるが、形式におもきをお-べきでほな-'その経験の真髄を をまなぶことがたいせつですo ソ連の形式や方法を摸械的にみ のであるが'このなかでキム・イルソンはいう。「すべての問題をふか くほりさげず、主体に欠けていることが、思想活動におけるもっとも まなぶのに重点をお-べきであります」o るときがきたのでほないでしようかo おもな欠陥でありますo主体がないといえば語弊があるかもしれない 教条ではな-、行動の指針であり'創造的な学説であります。だから ならうべきでほな-'その闘争経験とマルクス・レ-ニソ主義の真理 が、じつさい、主体がはっきり確立されていません。‥-わが党の思 マルクス・レーニン主義はそれぞれの国の具体的条件にあうように創 「マルクス・レ-ニソ主義ほ だからひきつづき根気よ-ソ連に学ぶ 想活動における主体とほなんでしようかo‥・・われわれは'あるよそ の国の革命をしているのではな-、まさにチmソソの革命をおこなっ 造的に適用してこそ'その不敗の威力を発揮することができるのです0 その本質をとらえ、それをわが国の現実に正し-適用してこそ、その 兄弟党の経験もやはりそうです。われわれが兄弟党の経験を研究して ため、教条主義や形式主義のあやまりをおかすことになり'われわれ 「主体がほっきり確立していない の革命事業、に多-の害をおよぼすことになります.チョソソの革命を おこなうためにほ、チョソソの歴史を知り、チョソソの地理を知り、 チョソソ人民の風俗を知らなければなりません。」 キム・イルソンの バクチャンオク 指摘によると、朴昌玉は「カップ」に参加したチnソソのすぐれた作 家の闘争を無視した。宣伝部門の活動家は党中央委第五回総会の決定 コワン汐ユ にしたがわず、光州学生事件、六・一〇万才事件、三・一運動等の 紹介をおこたり、学校ではチョソソの歴史の講義をおろそかにし(67)I 地方の民主宣伝室にはソ連の五カ年計画の図表をかかげてもチmソソ の三カ年計画の、図表ほなかったり、人民学校にはマヤコフスキー'プ -シキンの写真をかけてもチョソソ人のものは一枚もないといった状 態であった。「活動において革命的真理、マルクス・レ-ニソ主義の 大綱領'「極左冒険主義路線を排撃し、革命的組織路線を貫徹しょう」 (三1・1二・1六)、(鰭)「チョソソの革命家は ≡一・五・二〇)、(68)「日本帝国主義に反対する武装闘争を組織し展 開することについて」 チnソソをよく知るべきである」 (四三・九・1五)、(a)等からも理解 されるように、チュ≠ェ思想は経験的、実践的にほ早-からつなぬか れていたのであるが、この時点で思想として自覚的に確立されたとい ぅべきであろう。キム・イルソはこの演説のあと庸をあたためる畷も な-降仙製鋼所を訪れ、年があけた一月三日には黄海製鉄所へ、三月 には竜城榛械工場へ、六月にはふたたび降仙を訪れている。(べク・ 五 真理を体得することが重要であり、その実理をわが国の実情にあうよ うに適用することがかんじんなのであります.かならずソ連式にやら チュチェ思想とマルクス思想 これまでみてきたように1九三〇年代の抗日パルチザソ闘争期の十 経験のねうちがあるのであって、そうでな-、そっ-りそのまままね て仕事をやりそこなえば、われわれの仕事に害をあたえるばかりでな -、兄弟党の貴重な経験まできずつける結果をまね-でしよう」。 益に服従させなければなりません」 ているのです.・・・・す.'(ての思想活動は、かならずチmソソ革命の利 同演説(十二月論文)は党の宣伝局動活動家の集会でおこなわれたも ・昏4 チョソソ労働党の思想であるチュチェ思想 チュチェ思想とマルクス思想 ボン「金日成伝」による) 同右。 てながら、チョソソ史にはきわめてすくない時間しかあてられていま せんでした」 (著作選集-'五九七ページ)。 延書県明月蒋でおこなった党および共育幹部会議での演説、ピョンヤ ソ外国支出版社、一九七三年。 りながら教ゝ見るというチョソソの革命伝統のなかでのみチュチェ思悲 チョソソ人民革命軍政治幹部及び政治教員におこなった演説'ピmソ ヤソ外国支出版社1九七三年. をささえるものは労働者であり農民であって、水をはなれて魚が生き られないように「基本大衆」の声に耳をかたむけ「基本大衆」に教わ 六 は理解されるoピョンヤソの中区域の丘にそそり立つチョソリマ銅像 にほチュチェ思想の旗のもとに自力更生を日ざすチmソソ人の希望が (未完) ′ 、 ( ′ ヽ ヽ_ノ ヽ_一′ ヽ_■′ 隊の朝鮮撤退及び朝鮮問題の平和的解決等の問題について協議するよ う申入れるという条項をあらかじめ拒否するものであった。 「すべてを戦後の人民経済復興発展のために」著作選集-'四一五-四 六五ペ-ジ。 二年八カ月で完遂'五六年末には1二二搾の超遂過遂行となった。 著作選集-'四四三-i-ジ. 同右。 著作選集-'四八1-五〇六。ヘ-ジo 同四九〇ペ-ジ。 べク・ボンⅡ、三五五-三五六ページ。 著作選集-'五〇七-五二二ペ-ジ. 1ペ-ジo 同五1 バクホンmン スンヨブ l九五五・十二・二八、著作選集-'五九二1六二〇ペ-ジ. (五二・二・一)著作選 甫半部からきたり・スソヨブ'カソ・ムソソク'ソ連派のホガイ、中 国流のバク・イルウ、バン・ホサン'地方主義のオ・ギソプ等。 「戦時中の中央党学校の課程案には世界史ほ年にl六〇時間もわりあ 同五六八ペ-ジ。 祖国解放戦争中の朴意永'李東輝事件。 「現段階における地方政権機関の任務と役割」 集-、三五二-三七三ペ-ジ。 著作選集Ⅰ'五六七ペ-ジ。 ワ ′ ヽ ′一ヽ ヽ■_■・′ ヽ_■′ 、-′ 、ヽ一′ ′-ヽ ′ ヽ ′-ヽ ′ 、 ヽ■′′ ヽ■′′ ヽ_■′ ヽー .-ヽ ′-ヽ これは、休戦協定第四条の高級の政治会議を開いて'あらゆる外国翠 象徴化されているのである。こうして第一次五カ年計画がほじまる。 註(51) (出) 61 6059585756555453 6362 (66)(65)(6 4) (67) Chuche Marxism and Jinya KAWAMURA* チュチェ思想とマルクス思想 S tJA4淑A KlmII years plan Song's plan had What was to be was is classicalwork going to be an RY address accomplished in 1955, made successfully and when the the three five years made. the issue of anti-Japanese partisans *哲学教室(Dept. of disputed carried 七 Philosophy) and how through? was the revolutionary spirit of