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ジョン・W・バージェス小伝
ジョン・W・バージェス小伝 中 谷 義 和 バージェス(John William Burgess, 1844–1931)は、草創期から形成期の、さらには展開期の アメリカ政治学の文脈にあって極めて重要な位置にいる。ソミットとタネンハウスの『アメリ カ政治学の展開』(1967年)はアメリカ政治学史の標準的テキストのひとつに挙げられること が多いが、その副題を「バージェスから行動論まで」とし、バージェスをアメリカ政治学史の 起点に据え、「ジョン・W・バージェスといえば、多くの人々にあって熱狂的なドイツかぶれ だとの記憶以外にはなかろうが、よくみると、彼はアメリカ政治学の“父”にあたる」と述べ ている1)。また、オダム編『アメリカ社会科学の巨匠たち』(1927年)のなかで、ラ米史家の シェパード(W.R. Shepherd, 1871-1934)は、バージェスを教育者・公法学者・歴史家として 傑出しており、「この世紀にあって、社会科学の巨匠に列されて然るべき研究者のひとりであ る」と位置付けている2)。 バージェスは、既に、リーバー(Francis Lieber, 1800-1872)のもとで構想されていた政治学 の教育と研究の充実を期すべく、1880年に、コロンビア大学に3年制の「政治学院(School of Political Science)」を創設している。これはアメリカで最初の政治学大学院となる。その後、 1 8 8 6 年にコロンビア大学にあってアメリカ最初の政治研究誌=『政治学クォータリー (Political Science Quarterly)』の創刊をみているが3)、これはバージェスの尽力に負うもので あると共に、その創刊号に自らも「アメリカン・コモンウェルス―国民との関係における変 化」と題する長文の論文を寄せている4)。また、同誌の編集委員を長く務め、その後も、時評 的論文を含めて多くの論文を寄稿してもいる。 さらには、バージェスの尽力もあって、コロンビア大学の政治学・経済学・歴史学・公法学 の分野に錚々たるメンバーが揃うことにもなる。そのなかには、ローマ法と比較法学のスミス (Edmund Monroe Smith, 1854-1926)、社会統計学のメーヨー・スミス(Richmond Mayo-Smith, 1854-1901)、政治経済学者で『社会諸科学辞典(Encyclopedia of the Social Sciences)』 (1930-35年)の編者のセリグマン(Edwin Robert Anderson Seligman, 1861-1929)、社会学のギ ディングス(Franklin Henry Giddings, 1855-1931)、アメリカ植民地史のオズグッド(Herbert Levis Osgood, 1855-1918)、公行政のグッドナウ(Frank Johnson Goodnow, 1859-1939)、「新歴 史(new history)」提唱者のロビンソン(James Harvey Robinson, 1863-1936)、政治思想史と南 −133− 政策科学8−3,Feb.2001 北戦争・再建期研究のダニング(William Archibald Dunning, 1857-1922)がいる5)。かくして、 コロンビア大学はやがてアメリカにおける政治学教学の先導的位置を占めることになるのであ る。 バージェスは、南北戦争の暗雲迫る1844年8月26日に、テネシー州中部のジレス(Giles) プロ・ユニオニスト 地区のコーナーズヴィル(Cornersville)で、奴隷主ながら、南部ホイッグ派で統一支持派の 家庭に生まれ、南北戦争(1861-65年)の勃発を少年期に迎えている6)。この内乱に際し、テ ネシー州は「南部連合」に参加することになったとはいえ、同州の世論は割れ、州民のなかに は連邦軍に従軍する人々も多いという事態を生み、また、「北部支持派」や連邦統一派に対す る弾圧も苛酷を極めた。この点で、バージェス家の人々は南部ホイッグ派の悲劇の象徴例に位 置していると言えよう。 少年時代には、クレイ(Henry Clay, 1777-1852)、ベル(John Bell, 1797-1869)、ジョンソン (Andrew Johnson, 1808-75)、デーヴィス(Jefferson Davis, 1808-89)、スティーヴンズ (Alexander Hamilton Stephens, 1812-83)らが「逃亡奴隷法」や「1850年の妥協」などの時局に ついて論ずるのを父に連れられて聴いたという。1859年に、テネシー州中北部のヒマラヤ杉の カレッジ 町レバノン(Lebanon)の「カムバーランド(Cumberland)大学」に入学するも、1862年2月 に南部軍が北部テネシーで退却するなかで帰郷を余儀なくされている。間もなく、離脱派がバ ージェスに南軍への入隊を強要するに及び、テネシー州ジャクスンの連邦軍本部に逃げ込み、 斥候や兵站兵として兵役についている。連邦国家の分裂と南北戦争という内乱の、さらには従 軍の体験はバージェスに強い影響を与え、その後、彼の政治学の方向に大きく作用することに なる。後年、従軍体験を回顧して、「神の恩寵を得て、この戦争から生きて戻れることになれ ば、流血と破壊ではなく、理性と妥協によって、どのように生きるかを人々に教えることに人 生を捧げたいと思った」と述べている7)。連邦国家の分裂と内乱という歴史的体験は、バージ ェスに強い「国家主義」と「ナショナリズム」への渇望感を生み、さらにはチュートン民族型 使命感と結合することになる。 病を得て除隊後、少時の回復期を経て、バージェスは、1864年秋にマサチューセッツ州の 「アマースト大学(Amherst College)」に入学し、1867年夏に卒業している。在学中には厳しい ピューリタン的教育を受けると共に、観念論哲学のシーリー(Julius H. Seelye, 1824-95)教授 の影響に強く浴し、「教育、成長、人格という点で、彼からほど強い感化を受けた人物はいな い」と述べている8)。また、卒業後は「コロンビア・ロー・スクール」のF・リーバーのもと で研究することを志すも、腸チフスを患い、これを断念している。その後、少時、マサチュー セッツ州スプリングフィールドの法律事務所で法律を学び、法曹界に入るが、シーリーの薦め を得て、1869年にイリノイ州ゲルスバーグ(Galesburg)の「ノックス大学(Knox College)」 の教授に転じ、歴史学と政治経済学を教えている。 1 8 7 1 年夏に、バージェスは、後に国務長官となるアマースト大学時代の旧友=ルート (Elihu Root, 1845-1937)と共にボストンからドイツに旅立っている。このドイツ留学は、プロ イセン公使に転じていたナショナリスト派のヘーゲル主義的歴史学者の泰斗=バンクロフト −134− ジョン・W・バージェス小伝 (George Bancroft, 1800-91)9)の示唆と援助に負うものであった。当時のドイツは折しも普仏戦 争の勝利に沸き、国家統一の過程にあった。いまだ「再建期」にあった母国を想起し、普仏戦 争から凱旋したドイツ軍の行進に胸を熱くしたと記している10)。 バージェスは、ゲチンゲン、ライプチヒの各大学を経てベルリン大学に落ち着いている。そ の間、ライプチヒ大学で経済学を歴史学派経済学のロッシャー(Wilhelm George Friedrich Rocher, 1817-94)から、またベルリン大学でドイツ史をドロイセン(Johann Gustav Droysen, 1808-84)とトライチュケ(Heinrich von Treitschke, 1834-96)から、ローマ史をモムゼン (Theodor Mommsen, 1817-1903)から、公法をグナイスト(Rudolph von Gneist, 1816-95)から 学んでいる1 1 )。この点では、当時のアメリカの研究者と同様に、バージェスも、いわゆる「ド イツ帰り(Germany-returned)」の研究者のひとりにあたる12)。 1873年夏に帰国後、シーリーの招きを受け、母校のアマースト大学の教授として赴任し、歴 史学と政治学を担当している。バージェスは、アマースト大学においてドイツ型の政治学大学 院の設置を期すのであるが、その実現を見るに至らなかった。そうした失意の状況にあって、 「コロンビア・ロー・スクール」のドワイト(Theodore William Dwight, 1822-92)の再三の招 聘を受けるに及び、1876年5月にニューヨーク市へ赴き、F・リーバーの後を継いでコロンビ カレッジ ア大学13)の「スクール・オブ・アーツ(School of Arts)」と「ロー・スクール(Law School)」 の教授に就き、歴史学・政治学・憲法・国際法を担当することになる。 コロンビア大学にあって、バージェスは、再び「政治学院(School of Political Science)」の 創設に乗り出している。当初は反対も強かったが、学長のバーナード(Frederick Augustus P. Barnard, 1809-1889)の協力も得て、1880年6月、コロンビア大学理事会は「政治学院」の設 置を決定している。その間、設置準備のために渡欧し、パリの「政治学自由学院(É c o l e Libre des sciences politiques)も訪れ、1880年9月に帰国している。その後も渡欧を重ね、ブ ライス(James Bryce, 1838-1922)やダイシ(Albert V. Dicey, 1835-1922)らとも親交を深くし ている。 かくして、ドイツとフランスの諸大学の教学体系も参考にして、「政治学院」は同年10月4 日に開学を迎えている 1 4 )。学院の便覧は次のように記している。「本校の目的は国内外の政治 的組織体のあらゆる課題について、歴史学、法学、哲学の3つの視点から全体的理解を期すこ とにある。したがって、その第1の目的は、政治諸科学の全部門を展開することに、第2の目 的は、青年が公務のなかのあらゆる政治部門に就き得るように準備することにある」15)と。ま た、バージェスは、「政治学院」において歴史学・哲学・経済学・公法・法学・外交・社会学 を学ぶものとしている1 6 )。かくして、アメリカ政治学の礎石が据えられることになり、この学 院からビアード(Charles Austin Beard, 1874-1948)やメリアム(Charles Edward Merriam, 1874-1953)をはじめ多くの政治学徒を輩出することになる。なお、Th. ローズヴェルト (Theodore Roosevelt, 1858-1919)は、ハーバード大学を終えた後、コロンビア大学の「ロー・ スクール」でバージェスの教えを受けている17)。 バージェスは、1891年に、最初の著書にあたる『政治学と比較憲法(Political Science and −135− 政策科学8−3,Feb.2001 Comparative Constitutional Law)』(2vols)を公刊している18)。本書は、表題にも窺われるよ うに、歴史学と比較憲法学の学識を駆使して、「民族」・「国家」・「主権」について、また英 米独仏の政治体制を比較政治史的に論じた彼の政治論の代表作であり、その「人種主義 (racism)」や「主権論」に対する批判を含めて、広く注目されることになった。また、この時 期に、「アメリカ史シリーズ(The American History Series)」と題し、『中間期―1817-1858年 (The Middle Period: 1817-1858)』(1897年)、『南北戦争と憲法―1859-1865年(The Civil War and the Constitution, 1859-1865)』(2vols, 1901年)、『再建と憲法―1866-76年 (Reconstruction and the Constitution, 1866-76)』(1902年)のアメリカ史3部作を残してい る19)。 『中間期』は、1812年戦争をもってアメリカは「植民地ないし半植民地状況」を脱したとの 理解において、「無効宣言」論争や「1850年の妥協」などの、南北を分かつ争点に即して、内 乱に至る対立過程を政治史的に辿っている。その論調は、「連邦脱退と反乱は間違いであった という南部の得心が国民的活力の確立に絶対的に不可欠である」というナショナル派の立場に ある(Preface)。また、『南北戦争と憲法』は、「リンカーン・ダグラス論争」(1858年)や南 部における反奴隷制論、ジョン・ブラウンの蜂起(1856年)やJ・デーヴィスの政治観につい て論じた南北戦争論であり、「国民化(nationalization)」という歴史観において「州主権論」 や連邦離脱を批判すると共に、「不急の危機」に際した連邦政府の戦争発動権を「立憲的権利」 であると位置付けている。さらには、『再建と憲法』はリンカーン、サムナー、スティーヴン ズ、チェイスらの再建政策について検討し、この時期の外交関係の論述に及んでいる。こうし たバージェスの歴史叙述に底流しているのは、「歴史」とは「精神(spirit)」の顕現化であり、 「世界の文明化構想」の実現過程であるとするヘーゲル主義的歴史観である。この歴史観は、 また、「政治能力」の差異の認識において、人種主義的・民族主義的「使命」論を構成するこ とにもなっている20)。 このアメリカ史3部作の上梓後10年余りを経て、バージェスは『ヘイズ大統領の治世(The Administration of President Hayes)』(1915年)を公刊している。この書は、ヘイズ大統領の 母校であるオハイオ州「ケニヨン大学(Kenyon College)」の講演の文章化であり、ヘイズの 治世下(1877-81年)に至って、アメリカの立憲政は再確立をみたと位置付けている。 1880年代に至って、国際間相互理解を期すべくドイツとの交換教授企画が進められていた。 その発足に伴い、バージェスは最初の「ローズヴェルト客員教授 (Roosevelt Visiting Professorship) 」 に就き21)、1906年10月27日にベルリン大学で、皇帝出席下で就任講演を行っている。この講演 が「モンロー・ドクトリン」型外交姿勢と高関税策を批判し、アメリカは列強の地位を占める 必要があるとの指摘に及ぶにいたって、アメリカ国内の不評をかったとされる22)。 バージェスが政治学教学の充実に努めつつ、アメリカ史と政治学の執筆に腐心していた頃は 世紀の転換期にあたる。世紀転換期は社会的転換期でもあり、急激な都市化と工業化のなかの 矛盾の噴出との対応のなかで、アメリカは、独占に対する一定の規制策を含む多様な「改革的」 立法を急ぐと共に、「米西戦争(Spanish-American War)」(1898年)をもってキューバを保護 −136− ジョン・W・バージェス小伝 領化し、グアムとフィリピンを領有している。また、アジアにおいては日清・日露戦争が起こ り、ヨーロッパにあっては英独の対抗関係が強まる局面にもあたっている。この状況において、 バージェスの関心は、固有の「自由」と「文明史」観において、内外政策の展開や世界の動向 に傾き、批判的論調を強くすることになる。すなわち、「米西戦争」については、アメリカ市 民のなかに「新しい従属階級」を生み出すことになったとし2 3 )、また、ロシアの動向について は、「チュートン民族」の使命感において英米独の調和と結束の必要を訴えると共に、「ロシア は、現在のイギリスとの関係と同様に、今後25年間に合衆国に敵対するに等しい状態になろう」 と予言している2 4 )。バージェスが惧れていたのは、スラブ民族における「専政」は避け難いと の認識において、その体制の世界的拡大である。 バージェスは、既に、1912年にコロンビア大学を退職しているが、列強間の対立の深まりの なかで活発に執筆活動を続け、1914年の第一次世界大戦についてはドイツの立場を擁護し、エ ドワード7世(1841-1910年)が「ロシアの汎スラブ主義的目論み、フランスの復讐心、ドイ ツに対するイギリスの通商的妬み」をまとめるなかで、ウイルヘルムⅡ世は「チュートン文明」 を保守せざるを得なかったと主張している2 5 )。また、第1次世界大戦については、『1914年の ヨーロッパ戦争―その原因・目的・予測可能な結果(The European War of 1914: Its Causes, Purposes, and Probable Results)』(1915年)と『大戦とアメリカとの諸関係(America’s Relations to the Great War)』(1916年)を残している。 17年4月のアメリカの参戦はバージェスの消沈と苦悩を呼ばざるを得なかった。だが、戦後 に至っても、ドイツの戦争責任を放免する論陣を張るとともに、ドイツはボルシェヴィズに対 する保塁となり得るとしている。また、アメリカの国際連盟への加盟は「この国の憲法上の自 由を諸国民の世界的団体」の下位に置くことになると主張し、ヴェルサイユ条約の批准に反対 している26)。 臨戦と参戦のなかで、軍事・経済的に、また、社会・思想的にも総動員態勢と国家統制が強 化されることになり、戦後に至っても、その体制は介入主義的国家体制として一定の土壌化を みることになる。この局面に至って、古典的自由主義の内実が問われることになるが、これに 応えるべく、バージェスは、『統治と自由との調和(The Reconciliation of Government with Liberty)』(1915年)、『アメリカ憲法理論の近時の諸変化(Recent Changes in American Constitutional Theory)』(1923年)および『法の尊厳性―その構成(The Sanctity of Law: Wherein Does It Consist?)』(1927年)を残している。 『統治と自由との調和』は、統治と自由の極限状況としての専制とアナキーという対立的契 機の調和の模索において、アジア・アフリカやヨーロッパと南北両アメリカにおける両者の対 立と「自由」の制度化を歴史的に辿ると共に、アメリカ憲政に「統治(government)」と「自 由(liberty)」との調和が具現されているとの認識において、その漸崩の危険を指摘している。 また、『アメリカ憲法理論の近時の諸変化』にあっては、「米西戦争」が「アメリカの政治と憲 法史の転換点」にあたるとし、「共和国の衰退」の危惧のうちに、20年代に至る経緯を「審問 形式(interrogative form)」において回顧的に検討している。さらには、彼の最後の主著とな −137− 政策科学8−3,Feb.2001 った『法の尊厳性―その構成』は「制裁(sanction)」と「尊厳性(sanctity)」について論じ た法学的論述であり、「科学的方法」が政治と法の領域に及ぶに至ったとの理解において、こ の問題をローマ帝国以降の政治史に即して論じている2 7 )。だが、革新主義政策や対外政策に対 するバージェスの危惧と批判は、内外の介入主義的政策をもって社会経済的再編と「海洋帝国」 化の過程にあったアメリカの歴史的局面において、必ずしも共感を呼んだわけではなく、時代 と状況の変化のなかで孤立を深めざるを得なかった。 1930年10月にコロンビア大学は「政治学院」創立50周年記念を開催している。バージェスも この席に招かれているが、既に病弱にあり、翌31年1月13日、マサチューセッツ州ブルックリ ンで、その波乱の生涯を閉じている。時にアメリカは大恐慌の嵐の中にあった。 アメリカ史に即して彼の生涯を辿りみると、南北戦争の勃発を少年期に迎え、再建期の研究 生活の開始をもって自らの政治理念と歴史観を形成し、アメリカ社会の構造的変貌期のなかの 介入主義体制の生成と帝国主義的外交政策に、また第1次世界大戦の帰趨とアメリカの参戦に 危惧の念を深くし、晩年を20年代の相対的安定期に過ごし、ニューディールの展開をみること なく大恐慌のなかで生涯を終えたことになる。 その死後に彼の2つの著書の出版をみている。それは『政治学の基礎(The Foundations of Political Science)』(1933年)と『あるアメリカ研究者の思い出―コロンビア大学の創立期 (Reminisciences of An American Scholar: The Beginnings of Columbia University)』(1934 年)である。前者は、コロンビア大学の学長=バトラー(Nicholas Murray Butler, 1862-1947) の「緒言(Forward)」とバージェス自身の「序言(Preface)」(1917年11月の日付)を付して 出版されている2 8 )。また、後者は、ほぼ幼年期から20世紀初頭に至るバージェスの「思い出」 を綴った未完の自叙伝であり、「アメリカの大学(The American University)」と題する1884年 のエッセーと2つの「ローズヴェルト教授」講演を「補遺(appendices)」として収録し 2 9 )、 バトラーの「緒言」と「後半期―1898-1931年(The Later Years: 1898-1931)」と題するバー ジェス紹介文を付して出版されている30)。 注 1)Albert Somit and Joseph Tanenhaus, The Development of American Political Science: From Burgess to Behavioralism, Allyn and Bacon, Inc. 1967, p.3. 2)William R. Shepherd, “John William Burgess,” Howard W. Odum (ed.), American Masters of Social Science: An Approach to the Study of the Social Sciences Through A Neglected Field of Biography, マ ス タ ー ズ Henry Holt And Company, 1927, p.23. この書において、社会科学の「巨匠たち」として、バージェスの 他に取り上げられているのは、「動態社会学」のウォード(Lester F. Ward, 1841-1913)、歴史学的政治学 のアダムズ(Herbert Baxter Adams, 1850-1901)、政治思想史・再建期研究のダニング(William A. Danning, 1857-1922)、社会過程論のスモール(Albion W. Small, 1854-1926)、「同類意識」論のギディン グズ(Franklin H. Giddings, 1855-1931)、制度派経済学のウェブレン(Thorstein B. Veblen, 1857-1929)、 フロンティア学説のターナー(Frederick J. Turner, 1861-1932)、「新歴史」学のロビンソン(James H. −138− ジョン・W・バージェス小伝 Robinson, 1863-1936)である。なお、「ダニング」の章をC・E・メリアムが執筆している。 3)『政治学クウォータリー(Political Science Quarterly)』(以下、PSQと略記)は「政治・経済・公法 の歴史・統計・比較の研究誌(A Review devoted to the Historical, Statistical and Comparative Study of Politics, Economics and Public Law)」を副題としている。また、この創刊号の「緒言(Introduction)」 において、スミス(Munroe Smith)は「政治学(political science)とは、文字どおり、国家の科学 (science of the state)にほかならない」としている(p.2)。 4)John W. Burgess, “The American Commonwealth: Changes in its Relation to the Nation,” PSQ 1, March 1886, pp.9-35. 5)スミス、メーヨー・スミス、オズグッド、グッドナウは、バージェスのアマースト大学時代の教え子 にあたる。また、この時代のコロンビア大学の政治学の教学陣の略伝については次を参照。A Bibliography of the Faculty of Political Science of Columbia University: 1880-1930, Columbia University Press, 1931. 6)バージェスの略伝は、主として、次の自叙伝に負う。John W. Burgess, Reminiscences of An American Scholar: The Beginnings of Columbia University, Columbia University Press, 1934, reprinted, AMS Press, Inc. 1966(以下、Reminiscences と略記).また、次のバージェスの経歴と紹介も参照。 “John William Burgess: 1844-1931,” A Bibliography of the Faculty of Political Science of Columbia University: 1880-1930, Columbia University Press, 1931, pp.3-7; William R. Shepherd, “John William Burgess,” in Howard W. Odum, ed., op. cit., pp.23-57. バージェスの研究としては次があり、参照した。 W.W. Willoughby, “The Political Theories of Professor John W. Burgess,” Yale Review 17, May 1908, pp.5984; Ralph Gordon Hoxie, John W. Burgess: American Scholar (Submitted in partial fulfillment of the requirements for the degree of Doctor of Philosophy in the Faculty of Political Science, Columbia University, 1950); Bernard Edward Brown, American Conservatives: The Political Thought of Francis Lieber and John W. Burgess, Columbia University Press, 1951, reprinted 1967, AMS Press Inc.; Bert James Loewenberg, “John William Burgess, The Scientific Method, and the Hegelian Philosophy of History,” The Mississippi Valley Historical Review 42, no.1, June 1955, pp.490-509; Wilfred M. McClay, “John W. Burgess & The Search for Cohesion in American Political Thought,” Polity 26, no.1, Fall 1993, pp.51-73, and idem., “Introduction to the Transaction Edition,” in John W. Burgess, The Foundations of Political Science: With a new introduction by Wilfred M. McClay, Transaction Publishers, 1994. 7)Reminiscences, p.29.この自叙伝において、バージェスは少年時代を回顧して、『アンクル・トムの 小屋』は「一般的状況の描写とすると、全くの誇張にすぎない」と述べている(p.5)。 8)Reminiscences, p.56. バージェスは、シーリーが「ヘーゲル主義者」であったとし、次のように記し ている。「彼は普遍的理性が万物の実質であり、各人はその小宇宙であると、また、理性の指針を意識 と表現に転化し、これを思想と行為および法と政策のルールとして具体化することが人々の存在の義務 と目的であると信じていた」と(Reminiscences, p.54)。また、ジョンズ・ホプキンス大学の政治学の 礎をすえたH・B・アダムズ(Herbert Baxter Adams, 1850-1901)は、1872年にアマースト大学を卒業して いるが、シーリー哲学にあって「歴史が最も壮大な研究」の位置にあると指摘している(H.B. Adams, “History in American Colleges: History at Amherst and Columbia Colleges,” Education 7, Oct.-Nov. 1886, p.179)。なお、新島襄(1843-90年)は、バージェスが卒業した1867年にアマースト大学に入学し、同様 に、シーリーの感化に強く浴したとされる。 9)バンクロフトは、ハーヴァード大学と自らも創立者のひとりとなった「ラウンド・ヒル・スクール (Round Hill School)」の教授を務め、『アメリカ合衆国史(A History of the United State, 10 vols.)』 −139− 政策科学8−3,Feb.2001 (1834-74年)を残している。また、政治家としても、ポーク大統領下の海軍長官に就き、アナポリスに 「海軍兵学校(Naval Academy)」を創設している。その後、駐英公使(1846-49年)、駐プロイセン公使 (1867-74年)を務め、また、1885-86年に「アメリカ歴史学会(American Historical Association)」の会長 に就き、1910年に「名誉柱廊(Hall of Fame)」のひとりに選ばれている。バンクロフトについては次を 参照のこと。Lilian Handlin, George Bancroft: The Intellectual as Democrat, Harper & Row, 1984. 10)Reminiscences, pp.96-7. 11)バージェスはドロイセンを評して、その分析と総合力のバランスのよさという点で、彼に優る「研究 者に会ったことはない」と述べている。なお、バージェスの最初の著書=『政治学と比較憲法 (Political Science and Comparative Constitutional Law)』(1891年)はドロイセンに捧げられている。 12)1895-1896年がドイツ留学の最盛期で、この期間に514人がドイツの秋期セミナーに在籍していたとさ れる(Barry Dean Karl, Executive Reorganization and Reform in the New Deal: The Administrative Management, 1900-1939, Harvard University Press, 1963, p.267, n., 4)。 13)「コロンビア・カレッジ」は、1912年に「コロンビア大学(University)」に改称している。 14)「政治学院」の設立の経緯と教学体系の紹介については、バージェスの自叙伝(Reminiscences, ch.7) の他に次を参照。John W. Burgess, “The Study of the Political Sciences in Columbia College,” International Review 12, April 1882, pp.346-51; id., “The American University: When shall it be? Where shall it be? What shall it be?” in Reminiscences, pp.349-79. また、次も参照。A History of Columbia University: 1754-1904, Columbia University Press, 1904, pp.222-26. 15)Anna Haddow, Political Science in American Colleges and Universities: 1636-1900, D. AppletonCentury Company, 1939, p.180; Herbert B. Adams, “History in American Colleges: History at Amherst and Columbia Colleges,” Education 7, Oct.-Nov. 1886, pp.177-87. 16)John W. Burgess, op. cit., April 1882. 17)後年、ローズヴェルトの学生時代の印象を回顧して、彼の研究徒としての、また政治家としての資質 には優れたものがあったとし、さらには、「極めて知的ではあるが、やや、うわべを飾り過ぎたがり、 短気なところもあった・・・・。いずれは、この国の青年を冒険に引き込むことになろう」と感じたと回顧 すると共に、大統領としての内外政策を批判的に評価している。次を参照のこと。John W. Burgess, Recent Changes in American Constitutional Theory, ch.3, Columbia University Press, 1923; Reminiscences, pp.213-14. 18)Joh W. Burgess, Political Science and Comparative Constitutional Law, 2vols., Ginn & Company, 1891 (高田・吉田訳『比較憲法論』、明治4 1 年、早稲田大学出版部).訳者の一人である高田早苗の業績と 「早稲田叢書」については、内田満『日本政治学の一源流』(早稲田大学出版部、2000年)の第1章と第 2章を参照のこと。『政治学と比較憲法』は、日本語のほかにドイツ語、フランス語、イタリア語、ス ペイン語にも翻訳されている(Reminiscences, p.245)。また、C・E・メリアムは、次の最初の著書 (学位論文)において、『政治学と比較憲法』をもって政治学は「科学的形態を帯びるに至った」として いる。C.E. Merriam, History of the Theory of Sovereignty since Rousseau, Columbia University Press, 1900, p.179.なお、コロンビア大学は「体系的政治学(Systematic Political Science)」シリーズとして、 全10巻の政治学叢書の発刊を予定したが、バージェス『政治学と比較憲法』、グッドナウ『比較政治学 (Comparative Administrative Law, 1893)』(浮田和民訳、早稲田叢書、1900年)とダニング『政治学 説史(A History of Political Theories, 1902, 1905, 1920)』(古賀鶴松訳、人文閣および富士短期大学出版 部、1942、 1943、 1975年)の出版をみるにとどまっている(Albert Somit and Joseph Tanenhaus, op. cit., 1967, p.31)。 −140− ジョン・W・バージェス小伝 19)書評としては次がある。W.G. Brown, “Review of John W. Burgess, The Civil War and the Constitution, 1859-1865,” American Historical Review 8, January 1903, pp.368-70; W.G. Brown, “Review of John W. Burgess, Reconstruction and the Constitution, 1866-1876,” American Historical Review 8, October 1902, pp.150-52. 20)The Civil War and the Constitution, 1859-1865, vol.I, p.44, Charles Scribner’s Sons, 1901; Reconstruction and the Constitution, 1866-1876, Charles Scribner’s Sons, 1902, pp.viii-iv, 244-45. 21)ドイツ側の呼称は「ウィルヘルム皇帝教授(Kaiser Wilhelm Professor)」である。 22)Howard Odum, op. cit., pp.32-34. 23)Reminiscences, pp.316, 321. 24)“Germany, Great Britain and the United States,” PSQ 19, no. 1, March 1904, pp.16-17. 25)“On Behalf of Germany,” The Open Court 28, Oct. 1914, pp.587-95. 26)Reminiscences, pp.21, 96; American Relations to the Great War, A.C. McClurg & Co., 1916, pp.169-70; Recent Changes in American Constitutional Theory, Columbia University Press, 1923, p.94. 27)バージェスは、「制裁(sanction)」と「尊厳性(sanctity)」を「法」の主要契機と位置付けると共に、 「尊厳性」は「法源の正統性(l e g i t i m a c y )」と「法の内実の合理性(r a t i o n a l i t y )」の両者の「確信 (conviction)」に発し、歴史的には、前者から後者への移動にその展開を読み取っている(The Sanctity of Law: Wherein Doest It Consist?, Ginn and Company, 1927, pp.8-9)。 28)John W. Burgess, The Foundations of Political Science, Columbia University Press, 1933; reissued with a new introduction by Wilfred M. McClay, Transaction Publishers, 1994. 『政治学の基礎』(1933年)は、『政 ネーション 治学と比較憲法』発刊後の必要な資料を補完し、その基礎理論部分を抜粋し、「国民 」・「国家」・「自 由」・「政府」の諸章をもって、ひとつの書に再編したものである(Reminiscences, p.256)。 29)“Inaugural Address, as first Roosevelt Professor at the University of Berlin”, delivered in the Aula of the University, October 27, 1906; “Uncle Sam!”, delivered in the Hall of the Staatswissenschaftliche Vorbildung, Cologne, December 3, 1906, and repeated at the Schloss in Berlin in the presence of German Emperor and his court, March 3, 1907. 30)Columbia University Press, 1934, reprinted 1966, AMS Press Inc. −141−