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「憐れみ」から「良心」 - 慶應義塾大学学術情報リポジトリ(KOARA)

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「憐れみ」から「良心」 - 慶應義塾大学学術情報リポジトリ(KOARA)
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「憐れみ」から「良心」へ : ルソー倫理学の転換点
佐藤, 真之(Sato, Masayuki)
三田哲學會
哲學 No.124 (2010. 3) ,p.77- 107
Ce texte tente d'examiner á nouveau le sentiment de "pitié", jusqu'ici considéré comme l'une des
notions les plus importantes dans l'interprétation de la philosophie morale de Rousseau. En
pratique, en se focalisant sur le changement de la de´finition de la "pitié" lors du parcours de
l'approfondissement des pense´es de Rousseau, depuis le "Discours sur l'Origine et les
Fondements de l'Inégalité parmi les Hommes" à "Émile ou De l'Éducation" (ou en clarifiant la
définition de la "conscience", celleci apparaissant à nouveau dans ses pensées pendant cette
évolution), ce texte tente d'identifier "l´évolution" la plus importante profondément liée à la base
de la philosophie morale de Rousseau.
Cést la conversion radicale de la position éthique du "cons séquentialisme" comme le principe de
non-nuisance (the harm principle) ("Fais ton bien avec le moindre mal d'autrui qu'il est possible")
qui fait des conditions relatives la norme au sujet de l´équité d'un acte, en la "dé ntologie"
("Faisà autrui comme tu veux qu'on te fasse") qui fait de l´'egalité entre chaque individu un
principe fondamental.
Journal Article
http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00150430-00000124
-0077
哲
学 第 124 集
投 稿 論 文
ῑ憐れみῒ から ῑ良心ῒ へ
ῌῌルソῌ倫理学の転換点ῌῌ
佐
藤
真
之῍
De ῏Pitiéῐ ◊
a ῏Conscienceῐ
ῌL’évolution de la Philosophie Morale de J.-J. Rousseauῌ
Masayuki Sato
Ce texte tente d’examiner ◊
a nouveau le sentiment de ῏pitiéῐ,
jusqu’ici considéré comme l’une des notions les plus importantes
dans l’interprétation de la philosophie morale de Rousseau.
En pratique, en se focalisant sur le changement de la définition de la ῏pitiéῐ lors du parcours de l’approfondissement des
pensées de Rousseau, depuis le ῏Discours sur l’Origine et les
Fondements de l’Inégalité parmi les Hommesῐ ◊
a ῏E
≈mile ou De
l’E
≈ducationῐ (ou en clarifiant la définition de la ῏conscienceῐ, celleci apparaissant ◊
a nouveau dans ses pensées pendant cette évolution), ce texte tente d’identifier ῏l’évolutionῐ la plus importante
profondément liée ◊
a la base de la philosophie morale de Rousseau.
C’est la conversion radicale de la position éthique du ῏conséquentialismeῐ comme le principe de non-nuisance (the harm
principle) (῏Fais ton bien avec le moindre mal d’autrui qu’il est
possibleῐ) qui fait des conditions relatives la norme au sujet de
l’équité d’un acte, en la ῏déontologieῐ (῏Fais ◊
a autrui comme tu
veux qu’on te fasseῐ) qui fait de l’égalité entre chaque individu
un principe fondamental.
῍ 慶應義塾大学文学部非常勤講師 ῍倫理学῎
῍ 77 ῎
ῑ憐れみῒ から ῑ良心ῒ へ
は じ め にῌῌ議論の照準
本稿の議論はῌ ルソ῎の著述のうちに現れる一つの ῑ矛盾ῒ に着目す
ることから始まる῍ その ῑ矛盾ῒ とはῌ さしあたってῌ ῑ憐れみῒ (pitié)
なる概念の諸規定がῌ 彼の複数の作品のあいだでそれぞれに異なってお
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
りῌ ルソ῎の思索をῌ テクスト横断的にῌ 一つの完成された ῑ体系ῒ と見
なそうとするときにはῌ それらが両立しえないものであるという事実を指
している῍
予め断っておけばῌ このような ῑ事実ῒ そのものへの言及はῌ それほど
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
目新しいものではない῍ それはῌ もっぱら ΐ言語起源論῔ の執筆時期に関
する文献学的な考証῍῍つまりルソ῎の死後 (1781) に公刊されたこの著
作の実際の ῑ完成ῒ を ΐ不平等起源論῔ ῏1755 公刊ῐ に先立つものとみ
なすかῌ あるいはその後に位置付けるか῍῍においてῌ この論争に解決を
もたらしうる最も有力な証拠の一つとして既に幾人かの研究者のあいだで
取り上げられῌ テクスト間の比較検討がなされている1῍ この論争の末にῌ
ポルセがこの問題に与えた最終的な解答はῌ ΐ言語起源論῔ 内での ῑ憐れ
みῒ に関する記述のῌ ΐエミ῎ル῔ ῏1762 公刊ῐ におけるそれとの ῏ボ
キャブラリ῎におけるῐ 類似からしてῌ この著作の完成が ΐ不平等起源
論῔ の公刊後から ΐエミ῎ル῔ の執筆に至るまでの中間の時期にあたると
するものであった῍
ちなみにῌ ポルセは自身の見解を擁護するために次のような仮説を立て
ている῍ すなわちῌ ルソ῎によって ῏ῑ自己愛ῒ とともにῐ 自然状態の独
立的な個人のうちに存するとされた ῑ憐れみῒ の感情はῌ 当初ῌ 万人が万
人に対して狼であるようなホッブズ的な自然状態観を ῑ打破するῒ ための
一つの反証事例として ΐ不平等起源論῔ に採り入れられた῍ この作品の段
階における ῑ憐れみῒ はῌ このごく限られた争点への一つの反応でしかな
かったがゆえにῌ その発生の条件と作用のメカニズムについての理論的な
῏ 78 ῐ
哲
学 第 124 集
整合性に未だ ῒ曖昧さΐ を残していたῌ と῍
確 か にῌ ῔不 平 等 起 源 論῕ の う ち で ῒ憐 れ みΐ はῌ ῒあ ら ゆ る 反 省
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
(refléxion) に先 立 つΐῌ 人間の ῒ唯一の自 然 な 美徳ΐῌ つまり ῒ一つの自
ῌ
ῌ
然的感情ΐ であると言われながらῌ それがそのまま同時に ῒ寛大ῌ 仁慈ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
人間愛ΐ そして ῒ親切や友情ΐ といった ῒあらゆる社会的な美徳ΐ を生み
出す源泉であるともされており ῐOI 154῎5῎ 強調は引用者ῑῌ 自然的であ
ῌ
ῌ
ῌ
ることが ῒ前反省的ΐ (pré-réflexive) な状態ῌ すなわち全くの非社交 ῐ非
社会ῑ 的な状態を意味するルソ῏の議論の前提῍῍ῒ憐れみによってῌ 私
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
たちはῌ 他人が苦しんでいるのを見ればῌ 何の反省もなしに助けに行くΐ
ῐOI 155῎ 強調は引用者ῑ῍῍からすればῌ ῐῒ憐れみΐ のῑ これら二通りの
記述のあいだにはῌ 何らかの ῒ架橋原理ΐ が存在しなければならないと考
えたくなる῍ ポルセの言うことに従えばῌ ルソ῏はここでῌ 人間の ῒ自然ΐ
から ῒ社会ΐ への移行 (passage) という回路をῌ 何の媒介もなしにῌ あまり
にも性急かつ安易な仕方で接続してしまっているῌ ということになる2῍
だがῌ ῔言語起源論῕ に至ってこの ῒ憐れみΐ の規定にしかるべき ῒ修
ῌ
ῌ
正ΐ が施されたことでῌ この ῒ移行ΐ の問題が解消されたとポルセは説明
する῍ 実際ῌ ルソ῏はこの作品において次のように述べることになる῍
社会的な感情はῌ 私たちの知識とともにῌ 初めて私たちのうちで発達
する῍ 憐れみはῌ 人間の心に自然なものではあるがῌ それを働かせる
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
想像力 (imagination) がなければ永遠に不活発なままにとどまったで
あろう῍ ῐLangues 395῎ 強調は引用者ῑ
このような表現がῌ 一見して ῔不平等起源論῕ における ῒ憐れみΐ の規
定῍῍あらゆる ῒ反省ΐ に先立つ῍῍と齟齬をきたすものであるかのよう
に思われるわけである῍ しかしながらῌ ルソ῏の理論 (doctrine) はこう
して ῒそれほどシンプルではないがῌ ずっと明晰なものΐ になったῌ とポ
ῐ 79 ῑ
ῒ憐れみΐ から ῒ良心ΐ へ
ルセは言う῍ ここではῌ ῒ想像力ΐ が人間の ῒ自然ΐ から ῒ社会ΐ への移
行を媒介するものであると明言されておりῌ 自然においてあくまで潜在的
なものにとどまっていた ῒ憐れみΐ がῌ 実際には ῒ社会的な感情ΐ として
発現することになるῌ というわけである῍ ポルセによればῌ この ῒ想像
力ΐ こそがῌ ルソ῏の発見したῌ ῒ前反省ΐ から ῒ反省ΐ への途上にあっ
て両者を繋いでいたであろうミッシングリンクなのである῍
だがῌ ポルセのようにῌ ῒ想像ΐ と ῒ反省ΐ をῌ ルソ῏によってそれぞ
れ何らかの仕方で明確に区別された独立の概念であると解してῌ 彼の理論
における ῒ矛盾ΐ῍῍ポルセにとっては ῒ曖昧さΐ である῍῍の ῒ修正ΐ
ῌ
ῌ
ῌ
をそこに ῐつまりは複雑化した議論にῑ みとめるのには無理がある῍ 実際
に ῔言語起源論῕ のその他の箇所を見る限りῌ ルソ῏が両者を意識的に使
い分けていたと考えることさえ難しい῍ というのもῌ 上の引用は直ちに次
のような幾つもの語彙の入り混じった議論へと続いているからである῍
私たちはどのようにして憐れみに心動かされるのであろうか῍ 私たち
自身の外に身を置くことによってῌ つまりῌ 苦しんでいる存在に同化
ῌ
ῌ
する (se identifier) ことによってである῍ 彼が苦しんでいると判断す
るのでない限りῌ 私たちが苦しむことはないのであってῌ 私たちはῌ
自身のうちでではなくῌ まさに彼のうちで苦しむのである῍ この転移
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
がいったいどれほど多くの獲得された知識を前提としているか考えて
ほしい῍ 私がそれについての何の観念も持っていないような不幸をど
ῌ
ῌ
のように想像する (imaginer) というのであろうか῍ 他人が苦しんで
いることを知りもせずῌ またῌ 彼と私のあいだに共通するものがある
ということを知らなければῌ 他人が苦しんでいるのを見ながらῌ どう
ῌ
ῌ
して私が苦しむだろうか῍ 決して反省 (refléchir) したことのない人
間 はῌ 寛 大 で も 公 正 で も 憐 れ み 深 く (pitoyable) も あ り え な い῍
ῐLangues 395῎6῎ 強調は引用者ῑ
ῐ 80 ῑ
哲
学 第 124 集
このように ῑ想像ῒ と ῑ反省ῒ はῌ ルソ῎によってほとんど同義である
かῌ 不可分のῌ 区別し難い言葉として用いられているのである῍ ではῌ ポ
ルセがそのような証拠能力の定かならぬ材料を自身の主張῍῍彼にとって
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
結局 ῑ矛盾ῒ は存在しない῍῍の決定的な裏付けとみなさねばならなかっ
たのはなぜか῍ それはおそらくῌ ῑ憐れみῒ の定義にルソ῎が ῑ修正ῒ を
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
加えねばならなかった理由をῌ もっぱら単一の概念それ自体にある ῏理論
上のῐ ῑ曖昧さῒ の問題にあるとみなしてῌ これをその他の ῑ道徳ῒ に纏
わる人間の感情を表す諸概念との連関における総体的な位置付けの問題の
うちに見ようとしなかったからである3῍
実際ῌ ΐ不平等起源論῔ から最終的に ΐエミ῎ル῔ にまで至る ῑ憐れみῒ
の定義の変遷のうちには4ῌ ルソ῎の道徳理論においてこの概念の果たす
ῌ
役割の根本的な変化とῌ それによって生じる各作品のあいだのほとんど修
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
正不可能な ῑ矛盾ῒ が存在しているのである῍
したがってῌ 本稿の課題はῌ この ῑ矛盾ῒ をテクスト読解上の ῑ所与ῒ
として受け入れたうえでῌ 思想家が自身の用いる同一の語彙の一貫性に致
命的な支障をきたすような変更をあえて加えねばならなかった理由をῌ た
んなる無用心や明晰さの欠如に帰すことなしに明らかにすることである῍
ただῌ こうした読解の姿勢はῌ ともすればῌ 思想家の操る概念の背後に
透徹した体系性の存在を見るというῌ 第一義的な ῑ解釈者の倫理ῒ に反す
るもののように思われるかもしれない῍ しかしながらῌ 本稿がこうした読
解を貫くことによって証明を試みるのはῌ ῑ憐れみῒ の定義変更に象徴さ
れるこの決定的な ῑ方向転換ῒ を行えばこそῌ 思想家がῌ その着想以来保
ῌ
ῌ
持し続けてきた ῑ問題意識ῒ そのものを見失うことなくῌ 思想に一貫性を
保ってῌ ついには一種の体系的な表現を伴ってこれに応答することに成功
したῌ という事実なのである῍
῏ 81 ῐ
ῒ憐れみΐ から ῒ良心ΐ へ
第一章 ルソῌ道徳感情論の再読
そもそもῌ ῒ憐れみΐ の定義変更によってルソ῏が解決を与えようとし
ῌ
ῌ
ῌ
た問題がῌ 本当は何であったのかはῌ 未だ明らかでない῍ その解明に取り
組むに際してῌ まずそこに何らかの糸口を見つけようとすればῌ ポルセが
したのと同じようにῌ ῔不平等起源論῕ 以来のルソ῏の根本的な ῒ問題意
識ΐ を再び掘り起こすことから始めねばなるまい῍ これが本章における主
題となる῍ それはῌ おそらく ῒ対ホッブズΐ という部分的な表現にとどま
らないῌ ῔エミ῏ル῕ にまで続くルソ῏固有の問題圏というものを明らか
にするであろう῍
そのうえでῌ もう一度ῌ 各作品間のテクストの比較に立ち戻るのでなけ
ればῌ 上述の ῒ方向転換ΐ の意味とその射程を正確に測ることも困難なも
のとなる῍ ῒ憐れみΐ の定義変更はῌ おそらくその背後に存するであろうῌ
思想のより大きな深化の ῒ痕跡ΐ であるにすぎない῍ そうした観点に立っ
たうえで初めてῌ 比較される諸῎のテクストのなかにῌ これまで見落とさ
れてきたῌ その ῒ証拠ΐ を発見することもまた可能となろう῍
第一節 ῍自然本性῎ への回帰
ῌ
ῌ
ῌ
周知のようにῌ ルソ῏はῌ 本来善良な ῒ自然本性ΐ (nature) を持つ人間
が ῒ社会ΐ のうちでいかにして堕落したかῌ という議論を繰り返し展開し
ておりῌ その前提となる議論の大まかな枠組みそのものは ῔不平等起源
論῕ から ῔エミ῏ル῕ に至るまで変わるところがない῍ まずは ῔不平等起
源論῕ の記述に拠りながら両作品の土台を成す ῐῒ自然状態ΐ から ῒ社会
状態ΐ に至るῑ 共通の筋書きを概括しῌ 道徳に纏わるさまざまの感情を展
開の軸としてこれを振り返ることにしよう῍ そのなかでῌ ῒ憐れみΐ の感
情のῌ この作品における固有の存在意義を際立たせるようῌ 改めてテクス
トを詳細に追跡する῍
ῐ 82 ῑ
哲
学 第 124 集
1755 年に公刊されたこの作品はῌ もともと 1753 年にディジョンのア
カデミ῏によって提起されたῌ ῒ人῎のあいだの不平等の起源ΐ を尋ねる
問いへの応答として構想されたものである῍ ルソ῏はこの論題そのものか
ら大いにインスピレ῏ションを得てῌ その後彼の思想の一貫した主題とな
る議論にこれを反映させている῍
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῒ不平等の起源ΐ を論じるにあたってはῌ なによりまずそれ以前の状態
をῌ つまり人間が ῒ平等ΐ でありえた状況を想定しなければならないはず
である῍ そこでルソ῏は ῒ自然状態ΐ をこの ῒ平等ΐ の状態であると定義
しῌ あたかも人類の進化を遡るようにῌ 思考のうちで ῒ現代人ΐ からその
ῌ
ῌ
ῌ
特 殊 な 条件や属性 ῐ後天的な情念ῌ 知識ῌ 技術ῌ または身分ῌ 地位ῌ 民
ῌ
ῌ
族ῌ 人種といった諸῎の社会的構成物῍῍こうしたものから生じる差異は
決して ῒ人間ΐ の所与ではないのであるから῍῍ῑ を剥ぎ取っていく῍ 人
間が ῒ自然本性ΐ の状態に戻るのはῌ この方法的な ῒ回帰ΐ5 が人間に
ῒ普遍的ΐ な特性に到達したときである῍ ῒ自然本性ΐ という人間の共時的
基礎の抽出の過程がῌ ここでは歴史という人類の通時的基礎への遡及との
アナロジ῏になっているのである6῍
ルソ῏によればῌ これは ῒ人間の現在の性質のなかに根源的なものと人
為的なものとを識別しῌ さらにῌ もはや存在せずῌ かつて存在したこと
もなくῌ おそらくこれからも存在しないであろう一つの状態ῌ しかもῌ
それについての正しい観念を持つことが私たちの現在の状態をよく判断
するために必要であるような状態を十分に認識するΐ ための方法である
(OI 123)῍ このようなやり方によって初めてῌ 全ての人間が同じ条件の下
に存在しているであろうようなῌ あらゆる考察の出発点となる状態ῌ つま
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
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ῌ
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ῌ
ῌ
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ῌ
ῌ
りῌ 人間が真に ῒ平等ΐ であると言われ得る状態が現れる῍
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
こ う し た 思 考 実 験 の 末 にῌ ル ソ ῏ は 自 然 状 態 を 生 き る ῒ未 開 人ΐ
(l’homme Sauvage) すなわち ῒ自然人ΐ (l’homme naturel) 像をあえて具
体的に描写することを試みῌ そこで彼らに必要とされた能力がῌ 現代人に
ῐ 83 ῑ
ΐ憐れみ῔ から ΐ良心῔ へ
比してῌ いかに限られたものであったかを強調することになる῍ 文明化し
た人間にとってῌ 自然状態とはῌ いかにも何かが欠落した状態である῍ し
ῌ
ῌ
かしながらそれはῌ 何かが欠乏した状態ではない῍
社会の基礎を検討した哲学者たちはῌ みな自然状態にまで遡る必要を
感じたがῌ 誰もそこに到達することはなかった῍ ῐῐ結局誰もがῌ た
えず欲求ῌ 貪欲ῌ 抑圧ῌ 欲望や傲慢について語ってはῌ 社会のなかで
得た諸観念を自然状態のうちに移し入れていたのである῍ 要するにῌ
彼らは未開人について語りながらῌ 社会人を描いていたのである῍
(OI 132)
ルソ῏の言う自然状態においてはῌ 各人が ΐ自足῔ 可能な環境にありῌ
自分の必要を満たすために他人の助けを求めることもなかった῍ したがっ
てῌ この独立的な個人は未だいかなる ΐ社会的῔ な欲求や感情ῌ 観念も持
ῌ
ち合わせていなかったと考えねばならない῍ ΐ未開人῔ において純粋に生
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
得的 ῑ自然的ῒ であったと考えられうる性質とはῌ まず ΐ自己保存῔ のた
めのごく限られた必要に基づく ΐ自己愛῔ (amour de soi-même) の感情
である῍ ときに彼の脳裡に何らかの観念が浮かんだとしてもῌ それは彼の
保存の欲求 ῑである ΐ自己愛῔ῒ に応じたῌ 具体的ῌ 個別的な対象につい
てのものに限られていたであろうからῌ それらを比較したり推論に用いた
りする ΐ理性῔ の働きもまだ極めて単純なものにとどまっていたであろ
う῍ ΐ未開人はῌ あらゆる種類の知識を欠いておりῐῐ彼の欲求はῌ その
肉体的な必要以上に出ることはな῔ かったのである (OI 143)῍
語の厳密な意味における ΐ自然状態῔ とはῌ このような個῎人の自足的
な ΐ平等῔ と ΐ非社交῔ の状態を指している῍ そして ΐ未開人῔ とはῌ そう
ῌ ῌ ῌ ῌ ῌ ῌ
した状態を生きるのに足るだけのῌ ほとんど最小限のものしか持たない存在
ῌ ῌ ῌ ῌ ῌ
のことでありῌ それだけが考えられうる限りにおいて純化された存在として
ῑ 84 ῒ
哲
学 第 124 集
の ΐ人間῔ に共通の性格 ῑ普遍性ῒ を担保しているῌ ということになる῍
第二節 ῌ自尊心῍ の発生
さてῌ 人間精神の発達に第一に作用しῌ 未開人を自然状態の無垢から引
き離すのは ΐ他人῔ である῍ ΐ社会῔ はῌ 少なくともその最も原初的なも
のについてはῌ それを作ろうと望んだ人῎によって作られたのではない῍
偶然による環境の変化7 が未開人同士を引き合わせῌ 互いに ΐ依存῔ する
ことを強いたのである῍ そしてῌ 彼らは互いに発達せざるを得なかったの
である῍
ここでῌ 自己保存のための自然的感情であった ΐ自己愛῔ がῌ 自分とそ
の 他 の 人 ῎ と を 比 較 す る ΐ理 性῔ に 刺 激 を 受 け て ΐ自 尊 心῔ (amour
ῌ
propre) という非自然的な情念に変質する ῑもしくはῌ 自然な感情とは区
ῌ
ῌ
ῌ
別されるもう一つの後天的な情念8 が人間の心のうちに分岐するῒ とル
ソ῏は言う῍ およそ全ての ΐ不平等῔ 現象の根底に潜むものであるという
点ではῌ この情念の発生こそがその真の起源でありῌ 人῎の堕落を生む原
因である῍
自尊心と自己愛とを混同してはならない῍ この二つの情念はその性質
からしてもその効果からしても非常に異なったものである῍ ῐῐ自尊
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
心は社会のなかで生まれる相対的 (rélatif) でῌ 人為的 (factice) な感
情にすぎずῌ それは各個人に自己を他の誰よりも重んじるように仕向
けῌ 人῎に互いに行なうあらゆる悪を思いつかせるῐῐこうしたこと
がよく理解されればῌ 私たちの原始的な状態ῌ 真の自然状態において
は自尊心は存在しないと私は言おう῍ というのもῐῐ自分の力の及ば
ない比較ということにその源を発する感情がῌ 彼の心のなかに芽生え
るなどということは不可能だからである῍ ῑOI 219, note.: 強調は引
用者ῒ
ῑ 85 ῒ
ῒ憐れみΐ から ῒ良心ΐ へ
ῌ
ῌ
ῌ
この ῒ自尊心ΐ の ῒ相対性ΐ はῌ いわば即 自 的 な存在であった ῒ未開
ῌ
ῌ
ῌ
人ΐ がῌ 対自的な ῒ自我ΐ として自らを眺めるようになるという意識構造
の変化 ῐ社会化ῑ に起因するものである9῍ つまりῌ 一般に ῒエゴイズムΐ
と呼ばれるものはῌ ルソ῏にとってῌ ῒ反省ΐ を引き鉄として生じる一つ
ῌ
ῌ
ῌ
の後天的な属性であるにすぎないのである῍ ῒ自尊心ΐ という情念はῌ ῐ強
弱ῌ 貧富ῌ 貴賎等῎ῑ 他人と自分との立場を階層的な上下関係のうちに捉
えῌ その上下いずれかに己の身を置くときにその都度感じられるものであ
りῌ それゆえに欲望を自己保存の必要を超えて際限なく増殖させる原因と
なる10῍ ホッブズが ῒ自然状態ΐ として描写したのはῌ この ῒ自尊心ΐ の
ῌ
ῌ
ῌ
ῒ自尊心ΐ に対する闘争の尽きることのない ῐそれ自体社会的であるよう
なῑ ῒエゴイズムΐ の世界であったことになる῍
第三節 ῎不平等起源論῏ における ῌ憐れみ῍
῔不平等起源論῕ において ῒ憐れみΐ が登場するのはῌ そのような ῒ自
尊心ΐ の支配する社会においてなおもῌ ῒ自尊心ΐ から引き出されるまが
ῌ
ῌ
い物の道徳11 とは別の仕方でῌ そこに生きる人間の心に直接働きかけるῌ
道徳的行為の純粋な動機が ῐ生得的なものとしてῑ 存在することをルソ῏
ῌ
ῌ
ῌ
が証明しようとする文脈においてである῍ ῒエゴイズムΐ に先立つ独立的
な個人に具わる道徳的な感情とはいかなるものであろうか῍ それこそῌ
ῒ自然人ΐ のうちに普遍的にみとめられる本性の ῒ善良さΐ (bonté) にル
ソ῏の与えた最初の具体的な表現であるということになろう῍
自尊心を生むものは理性でありῌ それを強めるものこそが反省であ
る῍ 人間にῌ 自分のことばかり振り返らせῌ 己を煩わせ苦悩させる全
ῌ
ῌ
てのものから彼を隔離するものがまさに反省なのだ῍ 要するにῌ 哲学
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こそが人間を孤立させるのである῍ 苦しむ人の傍らでῌ 死にたければ
死ねばいいῌ 私は安全だῌ と密かに言うのは哲学のおかげなのだ῍
ῐ 86 ῑ
哲
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学 第 124 集
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哲学者が 自分と殺される者とを同一化しよう (identifier) とし
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て自分のなかで反抗する自然を押しとどめるには 耳に両手をあてて
ちょっとした理屈をこねさえすればいいのだ 未開人はそんな結構な
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才能を全く持ち合わせていない 知恵と理性を欠いているために 彼
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はいつも軽と人類の最初の感情に身を委ねる 喧嘩を分けて
紳士諸君が殺し合いをしないようにしてやるのは 身分の卑しい者で
あり 市場の女たちである OI 156 強調は引用者
最も堕落した習俗
たとえば哲学 でさえ破壊することが難しく そ
のうちにあってなおも人間を無私の行為へと駆り立てる 人類の最初の感
情
とは 憐れみ
のことである ルソによれば これは ある状況に
おいては 人間の自尊心の貪婪さを鎮めるために また この自尊心の発
生以前には 自己保存の欲求 自己愛 を鎮めるために与えられた原理
であり その内実は 同胞の苦しむのを見ることへの生得的な嫌悪感
で
あるという (OI 154) 現実に社会において各人の道徳的な振舞いにさま
ざまの程度の差が見られるのも この原理が人間の心理に及ぼす 残して
いる 影響の大きさの違いによる というわけである
ただ 上の引用のうちで語られているとおり この 嫌悪感
の現れに
は 常に同時に 自分と苦しむ者との 同一化
という心的作用が伴って
おり 憐れみ
を自然な感情であると断言するルソの真意は まさに
ῌ
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ῌ
こうした要素の自然さについてのより明解な説明を抜きにして 容易に汲
み取ることの不可能なものに見える そこで彼は 憐れみ
における 同
ῌ
ῌ
一化
の作用としての側面を強調する際にこれを 同情
という言葉に置
き換えて 次のような主張を展開しているのである
同情 (commisération) とは 苦しむ者の立場に私たちの身を置く感
ῌ
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情であるにすぎない それは 未開人のうちでは不分明な (obscur)
87 憐れみ
から 良心
へ
ものであってもいきいきとしている しかし 文明人にとっては解明
された (développé) ものであっても弱しいものである 事実
同情は 傍で見ている動物が 苦しんでいる動物と内面で深く (intimement) 自らを同一化すればするほどますます力強くなるであろ
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う だから 次のことは明白である すなわち このような同一化
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は 推論の状態においてよりも自然状態におけるほうが はるかに密
ῌ
ῌ
接であったに違いない OI 155 強調は引用者
理性と知恵とが あたかも人が耳を塞ぐように内面の自然を取り囲み
反省は その向おうと欲するところからむしろ自身を遠ざける 自尊心の
持つ構造的な特徴と こうした精神の働きが 全て人間を互いに 差異
ῌ
化
する傾向を持つものであり 実際に社会のうちで身につける諸の特
ῌ
ῌ
殊な属性のうちに個人を閉じこもらせるものであるのだとすれば 文
明人
でも 哲学者
でもなく むしろ 未開人
こそが いとも容易く
他人 の境遇 に自己を 同一化
することができるという主張は ル
ソの 自然本性 論
からほとんど自明の事柄として導かれるもので
あることがわかる
つまり 未開人
の姿は 定義上 極限まで平等化された 自然人
ῌ
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ῌ
の描写であるのだから 互いに極めてよく似ているのである 彼らのあい
だには もはや自他の垣根が存在しない 自然状態を生きる 未開人
は 逆説的な表現ではあれ 社交性
を剥ぎ取られた存在であるがゆえ
に いかなる障碍もなしに 同情
しあう 憐れみ
は もともと 私
たちのように 弱く またそれだけ多くの不幸に陥りやすい存在にふさわ
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しい素質
であり 人間が用いるあらゆる反省に先立つものであるだけ
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ῌ
に いっそう普遍的
な感情なのである OI 154 強調は引用者
したがって 不平等起源論 における 憐れみ
の規定をめぐって
ポルセがその 曖昧さ
῍῍すなわち 憐れみ
によって人間の 自然か
88 哲
学 第 124 集
ら社会への移行ΐ がῌ 何の媒介もなしにῌ あまりにも性急かつ安易な仕方
ῌ
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ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
で行われているῌ というルソ῏の議論の展開の強引さ῍῍とみなしたもの
はῌ ῒ自然状態ΐ をめぐる以上のような理論的前提を無視した読解に基づ
くものである῍ ルソ῏にとって ῒ憐れみΐ はῌ ῒ苦しむ者の立場に自分の
ῌ
ῌ
身を置く感情ΐ であると表現されながらもῌ 相変わらずῌ たんに個人の
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῒ自然ΐ のうちで自己完結するかῌ あるいはῌ ῒ自然から自然へΐ と向う感
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
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ῌ
情で あ る に す ぎ な い῍ 確かにῌ この ῒ同情ΐ の ῒメカニズムΐ について
はῌ それが ῐ二人以上のῑ ῒ未開人ΐ のうちで ῒ何の媒介もなしにῌ あま
りにも性急かつ安易な仕方でΐ なされるῌ という以上に正確で具体的な描
写はできまい῍ しかしῌ それによって ῒ自然人ΐ が ῒ社会ΐ に出るという
ことにはならないのである῍῍῔不平等起源論῕ においては῍
この作品のうちではῌ 人間の ῒ自然から社会への移行ΐ がῌ ῒ憐れみΐ
によって成し遂げられることはない῍ 彼にとってῌ 少なくともこの時点
ῌ
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でῌ ῒ自然ΐ と ῒ社会ΐ を繋ぐ ῒ架橋原理ΐ が ῒ自尊心ΐ の他に必要であ
ῌ
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るとは考えられていなかったのである12῍ ῒあらゆる社会的な美徳ΐ でさ
ῌ
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ῌ
ῌ
え ῒ憐れみΐ から生じるῌ であるとかῌ この感情が ῒ種全体の相互保存に
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
協力するΐ といった記述は ῐOI 155῎6῎ 強調は引用者ῑῌ それだけを見れ
ば確かに読者を戸惑わせるものであるがῌ これらはむしろその逆説性を際
ῌ
ῌ
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ῌ
立たせるレトリックである῍ ῒ憐れみΐ が人間の利他的振舞いの淵源であ
りῌ それがどんなに多大な社会的効用を生み出すにしてもῌ それらは相変
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
わらず独立的な ῒ個ΐ の感情に発する行為の派生的な帰結であることに変
わりはない῍ このことはῌ 既に作品の序文でも予め強調されていたことで
ある῍
人間の魂のῌ 最初の最も単純な働きについて省察してみればῌ 私はそ
こに理性に先立つ二つの原理が認められるように思う῍ 一方はῌ 私た
ちの充足と自己保存とに強く関心をもたせるものでありῌ 他方はῌ あ
ῐ 89 ῑ
憐れみ から 良心 へ
らゆる感性的な存在 なによりも私たちの同胞が死んでいくのを あ
るいは苦しんでいるのを見ることに自然な嫌悪をもよおさせるもので
ῌ ῌ
ῌ ῌ ῌ ῌ
ある そこ 人間の魂の 最初の最も単純な働き に社交性 (sociabilité)
ῌ
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ῌ
の原理を入り込ませる必要などはなく これら二つの原理を私たちの
精神が協働させたり 組み合わせたりすることができる状態にあるこ
とから まさに自然法のあらゆる規則が生じてくるように私には思わ
ῌ
ῌ
れる 人間は同情という内的な衝動に少しも逆らわない限り 他
の人間に危害を加えたりしないであろう OI 125῎6 強調は引用
者
そもそも 社会的な要素を徹底的に排除した末に現れる 自然 に 何
らか社会的な要素を再び潜り込ませたうえでそれを掘り起こすなどという
のは滑稽な議論でしかない13
第四節 ῌ不平等起源論῍ における道徳感情論の帰結
さて 不平等起源論 における 憐れみ の位置付けをこのように
辿ってきたところで ルソの道徳理論にある根本的な 問題意識 を明
確にすることがどの程度可能となるであろうか 本章の最後に考察を加え
なければならない点を以下の二つの問いに整理しよう 一点目῍῍
憐れ
ῌ
ῌ
ῌ
み の普遍性を謳いながら 道徳 の社会的起源 人間は本来的に社会
ῌ
ῌ
的動物である といったテゼ をルソが頑なに拒絶し 個人の 自然
本性 にこれを基づかせようとした背景にはどのような意図が存在したの
か 二点目῍῍不平等起源論 の試みが 結局その意図に対してどれほ
どの確度をもって応ずることができたのか
1) 道徳感情論の着地点
まず ポルセに倣って ホッブズを主たる論敵とした 性悪説的な自然
90 哲
学 第 124 集
状態観に対する ῒ憐れみΐ のアンチテ῏ゼとしての役割をῌ ῒ道徳ΐ ない
ῌ
ῌ
し ῒ社会 ῐ秩序ῑΐ の理論῍῍ ῒ哲学者たちΐ によって ῒ自然法ΐ と呼ば
れるものの理論῍῍の成り立ちの比較を通して考えてみよう῍
先に見たとおりῌ ルソ῏はῌ ῒ哲学者たちΐ が ῒ自然状態ΐ にまで遡る
必要を感じながらῌ ῒ社会の基礎ΐ たる自然に社会のなかで得た諸観念を
移し入れて理論を捏造したことを非難した῍ ῒ真の自然状態ΐ においては
存在しえないものῌ つまり社会のなかで生まれる相対的でῌ 人為的な要素
῍῍ルソ῏によってそれらは ῒ自尊心ΐ という語のうちに集約される῍῍
をῌ 彼らは構築さるべき ῒ社会ΐ の基礎となる ῒ個人ΐ にとっての所与の
性質としたのである῍
しかしῌ ῒ相対的なものΐ からῌ それがあたかも ῒ絶対的ΐ で揺るがし
難い基礎であるかのようにして作られた ῒ社会ΐ はῌ そのじつ砂上の楼閣
ῌ
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ῌ
ῌ
ῌ
であるにすぎず14ῌ ῒ絶対性ΐ と ῒ普遍性ΐ とを欠いたその場限りのもの
でしかない῍ そこにはῌ 力の偏在 ῐ不平等ῑ とῌ その特殊な状況において
のみ維持されうるような ῒ秩序ΐ がある῍ ホッブズにとっての ῒ自然状
態ΐ が ῒ戦争状態ΐ でありῌ 彼の提案する ῒ社会状態ΐ の ῒ平和ΐ がῌ 元
の状態に復する可能性と常に隣り合わせのものであることはῌ その一つの
例であるにすぎない15῍
つまりῌ ῒ人 ῎ のあいだの不平等ΐ の哲学的な ῒ起源ΐ はῌ ῒエゴイズ
ムΐ に陥る中途半端な ῒ自然本性 ῐ観ῑΐ にあった῍ 理性と反省と自尊心
῍῍これらが ῒエゴイズムΐ を生み出す要素であってῌ ῒ自然本性ΐ のリ
ストからのその排除はῌ ῒエゴイズムΐ から捻出された近代の ῒ哲学者た
ちΐ の ῒ理論ΐ とῌ これを後ろ盾とする ῒ社会秩序ΐ そのものに対するラ
ディカルな批判に直結しているのである῍
そして ῒ憐れみΐ はῌ このような批判から出発したルソ῏がῌ こんどは
自身の展開する道徳理論に ῒ普遍性ΐ を担保すべくῌ 人間の ῒ自然本性ΐ
のうちに見出した生得的感情である῍ この感情がῌ ῒ未開人ΐ の体現する
ῐ 91 ῑ
ῑ憐れみῒ から ῑ良心ῒ へ
ῌ
ῌ
ῌ
純粋な自然状態の ῑ平等性ῒ に密接に関連するものであることは既に見た
とおりである῍ これを個別的な行為の観点から見ればῌ 社会のなかで観察
される ῑ憐れみῒ の痕跡は全てῌ 個人が本来的には ῑ平等ῒ であることの
証拠 ῏顕れῐ であるということになる῍ だから日常の道徳的実践におい
てῌ 人は ῏奇妙な言いかたではあるがῐ その都度 ῑ平等ῒ を実現している
はずでありῌ あらゆる特殊な属性から逃れて ῑ普遍性ῒ の次元に接してい
るのである῍
こうした議論を踏まえてῌ ルソ῎の道徳感情論は次のような着地点を見
ることになる῍ すなわちῌ ῑ憐れみῒ という確たる自然的基礎の存在によっ
てῌ 無条件的に人間を道徳的ῌ 利他的行為へと導く ῑ格率ῒ (maxime) をῌ
まさに普遍的な法則として引き出すことができるῌ と῍
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a autrui comme
人にしてもらいたいと思うように他人にもせよ (Fais ◊
tu veux qu’on te fasse) というῌ かの崇高なῌ 理性に基づく正義 (jusῌ
ῌ
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tice raisonnée) の格率のかわりにῌ 他人の不幸をできるだけ少なく
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し て 汝 の 幸 福 を き ず け (Fais ton bien avec le moindre mal d’autrui
qu’il est possible) というῌ 前者のものほど完全ではないがῌ おそら
くいっそう有益なῌ 自然的な善良さによるもう一つの格率を全ての人
間の心に抱かせるのはῌ まさにこの憐れみである῍ (OI 156)
キリストの訓える ῑ黄金律ῒ の理想を差し置いてῌ 私的な利益追求が無
際限の欲望によって他人への侵害となるのを思いとどまらせているのはῌ
大抵の場合ῌ この ῑもう一つの格率ῒ に表現されるような人間の心理であ
る῍ いわゆる ῑ他者危害原則ῒ のような内容を持つこの ῑ憐れみの格率ῒ
はῌ 一切の ῑ反省ῒ に先立ちῌ したがってまた一切の ῑ社交性ῒ を持たな
ῌ
ῌ
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ῌ
い独立的な個人をも隈なく包摂する起源を持つがゆえにῌ まさに普遍妥当
ῌ
ῌ
ῌ
的な法則として通用する ῏道徳を基礎付けるῐ ものと言いうる῍
῏ 92 ῐ
哲
学 第 124 集
ῌ
ついでに言えばῌ ῐこれと対照的にῑ ῒ黄金律ΐ の説くものはῌ いわば完
ῌ
ῌ
ῌ
全なる ῒ社交性ΐ の原理である῍ このような高次の精神はῌ ῒ未開人ΐ に
とってその ῒ定義ΐ からして到達することの不可能なものである῍ 二つの
格率のあいだにあるのはῌ ῒ聖人ΐ のそれと ῒ未開人ΐ のそれとの違いな
のである῍
2) 残された課題ῌῌῌ平等῍ の非対称
しかしῌ 以上のような一連の議論を辿って導かれた ῒ憐れみの格率ΐ
ῌ
ῌ
ῌ
とῌ この ῒ黄金律ΐ とのあいだにある隔たりにこそῌ ῔不平等起源論῕ の
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
段階におけるῌ ῒ倫理学者ΐ としてのルソ῏の思索の限界が現れていると
は言えないだろうか῍
端的に言えばῌ 限界とはῌ 自然状態の ῒ平等ΐ を出発点にして開始され
ῌ
ῌ
ῌ
た議論がῌ その結果として ῒ平等ΐ に無関心なテ῏ゼ ῐῒ他人の不幸をで
きるだけ少なくして汝の幸福をきずけΐῑ を着地点として閉じられているῌ
ということにある῍ つまりῌ ῒ憐れみΐ の導く道徳の ῒ格率ΐ はῌ 社会に
おける各人の行為に何らかの制限を課す規範的根拠とはなりうるもののῌ
ῌ
ῌ
それに則って行為した結果生じることになる個῎人の境遇に対しては何の
影響力も持たないのである῍
ただῌ それが依然として ῒ問題ΐ であると言いうるのはῌ ルソ῏のこの
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ような結論がῌ たんなる事実問題についての考察の到達点ではなくῌ ῒ自
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
然本性ΐ による ῒ道徳の基礎付けΐ という権利問題の到達点とされている
からである῍ だから ῔不平等起源論῕ における彼の思索の ῒ限界ΐ はῌ 正
ῌ
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ῌ
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ῌ
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ῌ
ῌ
確に言えばῌ この ῒ憐れみの格率ΐ の規範としての成否にではなくῌ 彼の
議論の ῒ出発点ΐ と ῒ着地点ΐ とのあいだのずれに存するのである῍ これ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
を普遍的基礎のもたらす相対的帰結という理論の ῒ非対称ΐ の問題と言い
換えてもよいであろう῍
この作品においてはῌ ῒ自尊心ΐ の発生とῌ 自他の ῒ差異化ΐ というそ
ῐ 93 ῑ
ῑ憐れみῒ から ῑ良心ῒ へ
の構造的特徴のみがῌ 人間の ῑ社会化ῒ の唯一の回路であった῍ これに対
して ῑ憐れみῒ に託された役割はῌ ῑ同情ῒ という自他の ῑ同一化ῒ の作
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
用によって ῑ自尊心ῒ に干渉しῌ 競合することでそれに歯止めをかけるこ
とである῍῍ῑ普遍的基礎ῒ が効力を発揮するのはここまでである῍ しか
ῌ
ῌ
しῌ こうした理屈をもってしてもῌ ῑエゴイズムῒ だけが真の ῑ社交性ῒ
の原理であるというホッブズ的人間観とのあいだに本質的な違いが現れる
わけではなくῌ ῑ自然ῒ が社会的行為のうちにもたらす影響もῌ 諸個人に
おける ῑ程度の問題ῒ に還元されてしまうのである῍
この理論の ῑ非対称ῒ についてῌ ΐ不平等起源論῔ が ῑ憐れみῒ と ῑ自
ῌ
尊心ῒ という対立する感情に ῏原理的レベルでのῐ 明確な力の ῑ優劣ῒ を
付けられなかったῌ ということにその一因を窺うことができよう῍ この段
階における ῑ自然本性ῒ についてのルソ῎の考察はῌ その点でいまだ不十
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
分なものだったのである῍ ῑ自然人ῒ ῏ῑ未開人ῒῐ の定義そのものについて
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
は ῏方法的な ῑ回帰ῒ によってῐ 極限まで純化された存在であるというこ
とに揺るぎはない῍ しかしῌ その ῑ同情ῒ のメカニズム ῏ῑ苦しむ者の立
場に自分の身を置くῒ ことῐ についての具体的な描写がこの作品において
乏しくῌ 曖昧にされたままであることがῌ かえってῌ 安易に ῏ῑ想像力ῒ
といったῐ ῑ社交性ῒ に繋がる要素をそこに介在させることができないῌ
というルソ῎の理論に固有のディレンマをありありと示すことになるので
ある῍
第二章 ῌ憐れみ῍ から ῌ良心῍ へ
既成の ῑ理論ῒ に対する批判の文脈においてῌ その中心的な役割を担わ
せるためにルソ῎が ῑ憐れみῒ に与えた独特の構造はῌ さらに新たな ῑ道
徳の基礎付けῒ という課題に向う思索のなかで普遍的な ῑ格率ῒ ῏道徳法
則ῐ を支える根拠として持ち出されることになるのであるがῌ ここで読者
にその行き詰まりを見せることになった16῍ ΐ不平等起源論῔ で展開され
῏ 94 ῐ
哲
学 第 124 集
た議論からは 極限まで純化された 未開人 の 憐れみ による 同
情 と 最も堕落した 文明人 たちの 自尊心 の 闘争 とのあいだ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
にある 程度の ではない 質的な差異を明確に示すことができなかっ
たのである この理論の 非対称 という 彼の思索に固有の 問題の解
決は こうしてルソによって後回しにされることになった 自然本性
の再考に基づいて 彼が エミル
において 憐れみ の規定に変更を
施したのは まさに以上のような事情を踏まえてのことである と本稿は
考える 本章では 改めて エミル
のうちで 憐れみ の感情につ
いて記されたテクストを辿り その変遷の具体的な内容を確認していくこ
とからこの考察の検証を始めたい
第一節 ῏エミῌルῐ における ῍憐れみ῎
不平等起源論
では 憐れみ の諸規定から注意深く 社会的 な要
素が取り除かれていた これに対し エミル
での 憐れみ の扱い
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
においては こうした努力は完全に放棄されることになる むしろこの感
情は 自尊心 との構造的な共通点 すなわち 社会的 な 相対性 を
強調されることで これと全く同列に置かれることになるのである 結局
のところ 不平等起源論
においてかろうじて保たれていた 自尊心
との理論上の区別も消滅し それらは 程度の差 に還元される
作中 青年エミルに去来する感情が彼の心を動かし 他人の不幸を憐
れむ場面には 想像 や 反省 がそこに不可欠の要素とされ 抽象的
な 観念 の比較の作用が明確にみとめられるようになる 憐れみ の
発生には 理性 の介在が前提とされねばならない ということをルソ
は断言するのである17 ここには 確かにこの感情の定義のほとんど一八
度の転換がある
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
エミルはもう多くの観念を比べてみているから 苦しむ者の前で
95 ῒ憐れみΐ から ῒ良心ΐ へ
ῌ
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ῌ
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ῌ
何も感じないわけにはいかない῍ ῏῏こうして憐れみが生まれてく
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
る῍ ῏῏憐 れ み は 最 初 に 人 の 心 を 動 か す 相 対 的 な 感 情 で あ る῍
ῐEmile 505῎ 強調は引用者ῑ
そしてῌ ῒ憐れみΐ は ῒ自尊心ΐ の生ずるごく初期の段階においてῌ こ
ῌ
ῌ
れと同様の ῒ相対的ΐ な構造的起源から派生する弱い情念とされῌ ῐ理性
ῌ
ῌ
が狡猾さを得てῑ ひとたび ῒ自尊心ΐ が優勢となった後ではῌ 道徳的な振
舞いがこれら二つの感情のどちらに依拠するものであるかを判別すること
はもはや不可能になる῍῍それらは常にさまざまな程度で混ざり合う῍ 次
のような主張はこのことをよく表している῍
ῌ
ῌ
想像はῌ 私たちを幸福な人間の地位に置いて考えさせるよりῌ むしろ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
惨めな者の地位に置いて考えさせる῍ ῏῏憐れみは快い῍ 苦しんでい
る者の地位に自分を置いてῌ その者のように自分が苦しんではいない
という悦びを人に感じさせるからだ῍ ῏῏そういう心の動きにはῌ で
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
きるだけ個人的な利害を交えないようにすることが必要だとは言って
おこう῍ 特にῌ 虚栄心ῌ 競争心ῌ 名誉心などῌ 私たちを他の人間と比
べさせるような感情を起こさせてはいけない῍ ῏῏とはいえῌ そうい
う危険な情念はいずれにしても遅かれ早かれ生まれてくるῌ と人は言
う῍ 私はそれを否定はしない῍ ῏῏ただ私はῌ そういう情念が生まれ
てくるのを助けるようなことをすべきではないとだけ言っておこう῍
ῐEmile 504῎10῎ 強調は引用者ῑ
それでもῌ ῒ憐れみΐ が社会のうちに現れる利他的振舞いの主要な動機
ῐ建て前ῑ としてその役割を演ずるであろうことに変わりはない῍ ただῌ
ῌ
ῌ
ῒ憐れみΐ と ῒ自尊心ΐ とのこの理論上の同根性の明確化はῌ そこから生
じる利他的振舞いがῌ エゴイスティックな利益の追求にとって二次的で派
ῐ 96 ῑ
哲
学 第 124 集
生的なものにすぎずῌ 特殊で相対的な条件の下で発揮される場当たり的な
もの ῏まがい物の道徳ῐ にとどまるということを決定的にするのである῍
結局ῌ ΐエミ῎ル῔ において ῑ憐れみῒ は ῑ自然本性ῒ であることをやめ
ῌ
ῌ
ῌ
る῍ そしてルソ῎はῌ 改めて人間の ῑ自然本性ῒ についての考察をやり直
ῌ
すことになるのである῍ ῑサヴォワ助任司祭の信仰告白ῒ がこの作品のな
かで割り当てられたのはῌ よりラディカルな手段による方法的 ῑ回帰ῒ の
叙述であった῍
第二節 ῌ良心῍ῌῌ真の自然的感情を求めて
ΐ不平等起源論῔ において ῑ憐れみῒ はῌ ῑ自尊心ῒ ῏および一切の ῑ反
省ῒῐ に先立つものとされῌ 他人の不幸に対する内面的な ῑ同一化ῒ はῌ
ῑ推論の状態ῒ よりも ῑ自然状態ῒ におけるほうがはるかに密接であると
されていた῍ こうした概念の位置付けとその構造的性格はῌ こんどは ΐエ
ミ῎ル῔ において新たに考察される ῑ良心ῒ (conscience) に適用されるこ
ῌ
ῌ
ῌ
とになる῍ ῑ信仰告白ῒ の哲学的な叙述はῌ この ῑ良心ῒ の生得性の証明
にあてられておりῌ そのために採られた方法は人間の ῑ反省ῒ 能力そのも
のを改めて ῑメタレベルの反省ῒ に付すことであった18῍ これによってル
ソ῎はῌ ῑ良心ῒ こそῌ 一切の ῑ反省ῒ ῏およびそれが呼び起こす社会的で
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
相対的な情念ῐ に先立つ感情であることῌ すなわちῌ 真に自然的な感情で
あることを明らかにしようとする῍ ῑ信仰告白ῒ の議論を詳細に追うこと
ῌ
ῌ
ῌ
は本稿の主旨に外れるので別の機会に譲るが19ῌ そのさわりだけを述べれ
ばῌ この新たな ῑ自然本性ῒ の存在が明らかになるのはῌ 諸感情の出来す
る源泉に ῑ二つの次元ῒ ῏たんなる肉体的な欲求の次元とῌ 精神的な欲求
の次元ῐ を発見することによってである῍ ルソ῎はこれを次のような議論
のうちに表現する῍
人間の自然本性について深く考えῌ 私はそこにはっきりと違った二つ
῏ 97 ῐ
ῒ憐れみΐ から ῒ良心ΐ へ
の根源的なものが見出せると思った῍ 一方はῌ 永遠の真理の探究やῌ
正義と道徳的な美への愛ῌ その観照が賢者の至上の悦びとなるような
知的世界の領域に人間を高めるものでありῌ もう一方はῌ 人間を自身
のうちの低い方へ連れ戻し῏῏前者の原理から生まれる感情が人間に
感じさせるものを何もかも諸情念によって妨げる῍ これら二つの対立
する衝動に引きずられῌ 悩まされている自分をみとめてῌ 私はこう
思った῍ そうだῌ 人間は一つのものではない῍ ῏῏私は理性に耳を傾
けているときは能動的だがῌ 情念に引きずられているときは受動的
だ῍ そしてῌ 私が屈服するときῌ 何よりも耐え難い苦しみはῌ 自分は
抵抗することもできたのだと感じていることである῍ ῏῏何よりも自
分を愛するということが人間の自然な傾向であるとしてῌ それでも正
義の最初の感情が人間の心に生まれつき具わっているとするならῌ 人
間を単一の存在であるとみなす人にこの矛盾を取り除いてもらいた
い῍ (Emile 583῎4)
ῒ自尊心ΐ はῌ 物質的な欲望に引きずられて際限なく膨張しῌ ῐ文字通り
ῒ受動的ΐ なῑ 他人への依存状態に人間を陥らせることになる῍ ῒ理性ΐ
もῌ これを助長する手段である限りῌ この情念に従属 ῐ後続ῑ する能力で
あるにすぎない῍ しかしまたῌ これに抗って己の行いに対する後悔や呵責
の念を人の心に抱かせるものは何か῍ 肉体的な快楽を享受する一方でῌ こ
ῌ
ῌ
ῌ
の依存状態への不快感はいったいどこからやってくるのか῍ ῒ理性ΐ がῌ
こんどはこうした心の動きをも捉えようとたんなる肉体的な情念の奉仕者
であることをやめるとき ῐつまり ῒ私ΐ が ῒ能動的ΐ になるときῑῌ 依存
の無い ῒ独立ΐ の状態῍῍それこそが ῒ自然人ΐ の本来的なあり方であっ
ῌ
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ῌ
た῍῍をῌ ῐその情念より以前にῑ 肉体とは別の仕方で志向する欲求が存
在しているῌ ということが ῐ遡行的にῑ ῒ推論ΐ されるはずである20῍
ルソ῎が ῒ良心ΐ と名づけるのはῌ たんに物質的な ῒ自己保存ΐ への欲
ῐ 98 ῑ
哲
ῌ
ῌ
学 第 124 集
ῌ
求とも次元を異にする 精神の 自己愛 とも言うべき感情のことであ
る 個人の 独立 を志向する自然的な感情のこの二元的なあり方は
クリストフドボモンへの手紙῍῍エミル を断罪したパリ大
司教の 教書 に対するルソの反論の書で エミル の翌年 (1763)
には公刊された῍῍でも繰り返し言及されている そこでは 自己愛が
もはや単一な情念ではな く 二種類の自己愛の充足の仕方は異なってい
ること 秩序への愛 独立的な個人の平等への志向 が 実は 魂の
愛 精神の自己愛 の充足へと向うものであって この魂の愛が良心と
いう名を持つ ものであることが明言されている (Lettre 936)
では 信仰告白 での新たな方法的 回帰 によってもたらされた内
容を踏まえて 本稿の議論を整理してみよう このメタレベルの反省の試
みは 最終的に精神と身体の次元の相違にまで遡ることによって 人間の
自然本性 にいっそう深い起源に発する 良心 という感情を付け加え
ることになった 良心 は 不平等起源論 において 憐れみ に託さ
れていたのとほぼ同等の役割を与えられているが ここでは 未開人 の
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
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ῌ
ῌ
ῌ
持つ 身体 をも剥ぎ取られて より純粋に理念化された 精神的存在と
しての 自然人 の生得的感情であるということになる 憐れみ に比
ῌ
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ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
して 良心 は その属する次元が異なっているのである
結局のところ エミル において 人間の道徳に纏わる諸感情は
自然的かつ利己的である 身体的 自己愛 相対的かつ利己的である
自尊心 相対的かつ利他的である 憐れみ 自然的かつ利他的である
良心 というように新たに定義し直される῍῍作品中でも 自然な
という語は 絶対的な と言い替えられているので (Emile 494) こうし
た分類の座標軸をより明瞭なものにするには両者を置き換えても構わな
い
ただ ここで何より重要なのは 自然本性 のリストからの 憐れみ
の排除と それに代わる 良心 の追加が ルソのうちに残されていた
99 ῒ憐れみΐ から ῒ良心ΐ へ
自身の理論上のディレンマに抗する彼の思索の深化とῌ これに伴う倫理学
上の基本的な立場の ῒ転換ΐ とを前提にして行われたものだということで
ありῌ それこそが上述のような議論の整理と分類を通じて明らかになるこ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
となのである῍ つまりῌ ῒ良心ΐ は ῒ自尊心ΐ に対して絶対的な優位に立
ῌ
ῌ
つ῍ 両者はῌ もはや同じ次元において競合する感情ではないのであってῌ
これによってῌ 道徳的行為の内実が ῒ程度の問題ΐ に還元されることはな
くなるのである῍
第三節 絶対的な道徳の確立ῌῌ残された課題への答え
そしてῌ ῒ憐れみΐ から ῒ良心ΐ へῌ という ῒ自然な感情ΐ の変遷はῌ
ついには ῔不平等起源論῕ における道徳の ῒ格率ΐ を廃棄させῌ そこでは
ῌ
ῌ
ῌ
基礎付けることの不可能なものとされていた絶対的な道徳の ῒ格率ΐ を導
入させるに至るのである῍ 利他的行為を導く普遍的な法則をめぐって ῔エ
ミ῎ル῕ では次のような議論が展開されることになる῍
ῌ
ῌ
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ῌ
人にしてもらいたいと思うように他人にもせよという教訓 (Le précepte d’agir avec autrui comme nous voulons qu’on agisse avec
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
nous) もῌ 良心ないし感情の他には真の 基 礎 を持たない῍ というの
もῌ 自分でありながら他人であるかのように行動する正確な理由がど
こにあるというのか῍ ῏῏そのような取り決めはῌ 人が何と言おう
とῌ 善人にとってそれほど有利なことではない῍ それでもῌ 溢れ出る
ῌ
ῌ
ῌ
魂の力が私を私と同じ人間に同一化させῌ いわば私をその人のなかに
感じさせるときにはῌ 自分が苦しまないためにこそῌ その人が苦しん
ῌ
ῌ
ῌ
で欲しくないと思うのだ῍ 私は自己愛のためにその人に関心を持つ῍
したがってῌ この教訓の理由はῌ どんなところに自分が存在すると感
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
じても私に充足への欲求を抱かせる自然そのもののうちにあるのだ῍
ῐEmile 523, note.: 強調は引用者ῑ
ῐ 100 ῑ
哲
学 第 124 集
引用後半に述べられている 自己愛 が 精神的な次元で各人の独立を
志向する 良心 の別名であることは明らかである
この作品で改めてルソの採用した 格率 黄金律 は 不平等起
ῌ
ῌ
源論
において 理性 に基づく 崇高な 格率 であると言われてい
たものである その意味するところは それが エゴイズム を完全に
克服しうるような人物にのみ相応しい いわば 自尊心 の向こう側にあ
る 究極の 社交性 の原理であるということであった ところが 彼は
ῌ
ῌ
この 格率 について こんどは 理性 ではなく 人間の 感情 の
他にその 真の基礎 は存在しないと言い直しているのである そこに
は 不平等起源論
では困難であった 自他の 同一化 のメカニズム
についての具体的な描写が エミル
での 良心 の発見によってつ
いに可能なものになった というルソの確信がある
それはつまり 信仰告白 における自然的感情の二元論に至って 自
尊心 とは別の 自然から社会への移行 の新たな回路が開かれた と
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
いうことである しかし 人間の 自然本性 にうちに 社交性 を見出
すという 両者の語の定義からして矛盾するように思われる事態が 良
心 の発見によって可能なものになるというのはいかなる理由によってで
あろうか ルソの次のような言葉に注目しよう
ῌ
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これは疑いえないことだが 人間がその自然本性によって社交的であ
ῌ
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る あるいは 少なくとも社交的になるように作られているのだとす
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ῌ
ῌ
a son espéce) 別の生得的な感情
れば 自己の同類に関わる (rélatifs ◊
別の自己愛 によってのみそうなることができるのである 肉体的
ῌ
ῌ
ῌ
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ῌ
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ῌ
な 必 要 し か 考 え な い の で あ れ ば そ れ は 確 か に 人 間 を 近 づ け
ῌ
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ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
(rapprocher) ないで 分散させる (disperser) はずなのだ だから
良心の衝動が生まれてくるのは まさに自分自身についての また自
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
分の同胞についてのこの二重の関係によってかたちづくられる道徳の
101 憐れみ から 良心 へ
体系からなのである Emile 600 強調は引用者
引用後半の 二重の関係 とは 人間同士の関わりについての二つの相
ῌ
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ῌ
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ῌ
反するあり方 つまり 個人の遠心的傾向と求心的傾向とを示している
ῌ
ῌ
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ῌ
この一見した矛盾が 自然的感情の二元論的構造に基づくものであること
をルソは説明しているのである そして 何度強調してもしすぎること
がないのは 人間を互いに近づけようとするこの 別の生得的な感情
ῌ
すなわち 良心 もまた 相変わらず 個 に発する独立的な自己保存
充足 のための感情にすぎないということである
肉体的な必要のために引き起こされる 自己愛 ならば やはり物理的
に 分散 独立 した状態を各人に好ませるであろう しかし 精神的
ῌ
ῌ
ῌ
な 独立 のために引き起こされる 自己愛 良心 は 互いを近づけ
ῌ
ること῍῍これはもはや物理的な近さの問題ではなく むしろ各人の境遇
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
を近づける 平等にする ことを意味しているであろう῍῍を好ませるの
である ルソはこれを指して 人間の 自然な社交性 と呼ぶのであ
る
本稿の結び
さて以上が 憐れみ に施された定義変更を糸口に辿ってきた 道徳
に纏わる諸感情をめぐるルソの 主に二つの著作のあいだでの 思考の
変遷である 両作品のあいだで変化した思考によって 両作品のあいだで
一貫して彼の保持し続けた 問題意識 にどのような 答え が与えられ
たのか これまでの議論の要約を交えて この問いを総括して本稿の結び
としよう
不平等起源論 の着想以来の 問題意識῍῍それは端的に言って
道徳 をいかにして体系的に基礎付けるかというものであった ルソ
は 社会的秩序の正当性の根拠 基礎 を 個人 に見出そうとする同
102 哲
学 第 124 集
時代の ῒ哲学者たちΐ と理論の前提を共有していたがῌ 彼らの陥っている
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῒエゴイズムΐ の自家撞着にとりわけ自覚的であった῍ ルソ῏自らが社会
の構成要素をその最小の単位にまで還元したときῌ もはや疑いえない仕方
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
でそこに見出されたのはῌ ῒ憐れみΐ という平等への志向性を具えた ῒ個
人ΐ だったのである῍ ただῌ 彼の理論も初期の段階ではῌ 個 ῎ の ῒ憐れ
ῌ
ῌ
ῌ
みΐ が社会のうちにそのまま反映されるかは蓋然的であるにとどまった῍
ῒ自然から社会への移行ΐ にはῌ 依然として ῒ自尊心ΐ の迂回路を経ねば
ならなかったからである῍ ῐだからポルセの診断とは全く反対にῑ ῔不平等
起源論῕ はῌ ῒ自然ΐ と ῒ社会ΐ を ῒ何の媒介もなしにΐ 直結させること
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ができなかったのである῍
本稿ではῌ ῔エミ῏ル῕ をその解決編と位置付けた῍ それが ῒ良心ΐ を
導く ῐ自然的感情の二元論というῑ 新たな議論であることは確認したばか
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
りであるがῌ こうして精緻化した議論こそῌ むしろ道徳的行為の動機を純
ῌ
化しῌ ῒ自然ΐ と ῒ社会ΐ とを直結させるのである῍ 個人の自然な善良さ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
からῌ 社会における道徳的行為の無条件的な動機が必然的に導かれるよう
にῌ 理論に一貫性が与えられる῍῍こうして ῒ道徳ΐ は基礎付けられた῍
このことはῌ 各作品に掲げられた ῒ格率ΐ の変化ῌ つまりῌ ῒ他者危害
原則ΐ のようなῌ 相対的な条件を行為の正しさについての規範とする ῒ帰
結主義ΐ 的な道徳 ῐῒ他人の不幸をできるだけ少なくして汝の幸福をきず
けΐῑ からῌ 各人の平等性を第一の原則とする ῒ義務論ΐ 的な道徳 ῐῒ人に
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
ῌ
してもらいたいと思うように他人にもせよΐῑ21 への倫理学的な視座の転
ῌ
換のうちにはっきりと示されている῍ そもそもルソ῏が人間の普遍的な
ῒ自然本性ΐ のなかに追求した ῒ平等ΐ はῌ こうして漸く彼の理論のうち
で体系的な表現を伴って結実することになるのである῍
ῐ 103 ῑ
憐れみ から 良心 へ
注
◊tes de Jean-Jacques Rousseau, éd.
ル ソ か ら の 引 用 は Œuvres Comple
publiée sous la direction de B. Gagnebin et M. Raymond, 5 tomes, Paris,
Gallimard, Bibliothe
◊que de la Pléiade, 1959ῌ1995 に拠る 以下 OC と略記し
ロマ数字で巻数を記す また 各作品タイトルの略号は以下のとおり
OI: Discours sur l’Origine et les Fondements de l’Inégalité parmi les Hommes,
OC, III.
Langues: Essai sur l’Origine des Langues, OC, V.
Emile: Emile ou de l’Education, OC, IV.
Lettre: Lettre ◊
a Christophe de Beaumont, OC, IV.
各引用文末には 上記の略号とともにアラビア数字で該当頁数を付してある ま
た 引用文中の は省略を 内は引用者による補足を表す
1.
この論争の具体的な経緯は ポルセが自身の編集による 言語起源論 の冒
頭に付した 注解 において簡潔にまとめられている (cf. Essai sur l’origine
des langues: ou il est parlé de la mélodie et de l’imitation musicale, ed. critique, avertissement et notes par Charles Porset, Paris, A. G. Nizet,
1968, p. 16ῌ24) また 言語起源論 の 憐れみ 概念の形成を 不平等
起源論 の執筆に先立つものであるとするスタロバンスキの見解について
は 右の 注解 におけるポルセの批判が全く正当なものであると思われる
ので 本稿ではあえて取り上げなかった
2. 文脈上の便宜のためにここで 自然から社会への架橋原理 と要約したもの
は ポルセにおいて 自然から歴史への移行の理論 (la théorie du passage de la Nature ◊
a l’Histoire) あるいは 他者の認知の理論 (la théorie
de la reconnaissance de l’autre) とも呼ばれているものである (Porset, op.
cit., p. 22).
3. あらゆる概念の 定義 が 関係するその他の概念との同一性や差異におい
て定まるものであるとすれば こうした表現が甚だ曖昧なものであることは
否めない だから ポルセの誤りの根本的な原因は 憐れみの 定義 を捉
える際に参照せねばならない対象領域への相対的な視野の 狭さ にある
と言い換えてもよい
4. ポルセも繰り返し述べている理由によって もはや 言語起源論 のテクス
トを本稿は言及の対象としない
5. 人類学者のルイデュモンは このような思考方法を 哲学的引き算 と呼
104 哲
学 第 124 集
んで ルソをデカルトに連なる 近代の個人主義の哲学者 たらしめる一
つの特徴であるとしている (cf. Louis Dumont, Essais sur l’individualisme:
une perspective anthropologique sur l’idéologie moderne, Paris, Seuil,
1983, p. 97) だが この哲学的な 反省 によってルソが発見した 近
代的個人 は 当の反省作用であるようなデカルト的自我とはまた別のもの
である
6.
私が自分の憶測から演繹しようとしているからといって その諸帰結が憶
測的なものになるということは全くない ある仮説は それに事実と同
じ程度の確実性を与えられなくても それを破壊することは不可能であり
二つの事実が現実のものとして与えられ それらが 未知の あるいはそう
みなされている一連の中間的事実によって結びつけられねばならないとき
それらを結びつける事実を示すのは 歴史があれば 歴史の役目であるが
歴史がない場合は それらを結びつけることのできる類似の事実を決定する
のは まさに哲学なのである そして 諸の出来事に関しては 類似 (similitude) が 事実を 人の想像するよりもはるかに少数の分類に還元する
(OI 162῍3).
7.
8.
Cf. OI 162
ルソは 感情 (sentiment) と 情念 (passion) をほぼ同じ意味において
用いているが ほとんどの場合 前者が自然なもの 後者が社会的 人為
的
なものを指すときに意図的に区別される したがって 感情 は肯定
的 善良な
ニュアンスのものを 情念 は否定的 悪しき
ニュアンス
のものを指す場合が多い ちなみにこれは 必要 欲求 (besoin) と 欲
望 (désir) の語を使い分ける際にも当てはまる
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9.
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感情の 主体 の意識
の このような実存的変容について エミル
では 自尊心の発達には 絶えず相対的な自我 (le moi rélatif) が働いてい
る (Emile 534) と明確な表現が与えられている
10. ポルセの 意に反する仕方で彼の
言葉を借りれば この 自尊心 のあり
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ようのみが 不平等起源論 においてルソの想定していた唯一の 他者の
認知の理論 の構造
であった 本稿 注 2 を参照
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11. こうした道徳と ルソが真の道徳と考えるものとの違いについては後に触
れる 自尊心は 本当の必要からではなく むしろ他人を見下ろしたいがた
めにまた より確実に成功を収めるためにしばしば親切の仮面を被るだ
けになお危険であるようなひそかな嫉妬常に他人を犠牲にして自分の利
益を得ようという隠れた欲望 である (OI 175).
12. 本稿 注 15 を参照
105 憐れみ から 良心 へ
13.
カッシラが指摘しているとおり もしこのような関心 憐れみ を社
会の起源だとするならば 奇妙な前後転倒を行っているわけで 始めと終わ
りを混同している ことになる
Ernst
Cassirer,
Le
Proble
◊me
Jean-Jacques
Rousseau;
traduit
de
l’allemand par Marc B. de Launay; préface de Jean Starobinski, Paris,
Hachette Littératures, 2006, p. 89.
14.
Cf. OI 125῎7
15. ここであえてホッブズに立ち入ることはせず 社会契約 の議論 の比較
にも言及しない 本稿において少なくとも言えることは ルソにおける
社会契約 が ホッブズのそれとは違って 自然状態 におけるある種の
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問題状況 の分析から直ちに導かれるわけではないということである こ
の点は 憐れみ を始めとした道徳に纏わる感情を扱う本稿の主題に大い
に関係している
16. 実際にこの時点でルソが 道徳の基礎付けに失敗した と述べているわけ
では決してないのであるから これは 本稿の 解釈 と さらに エミ
ル において彼の思索に進展が図られた後に振り返られたレトロスペクティ
ヴな意味合いとを含んだ表現であると解してもらいたい
17.
先に見たように これは 言語起源論 の記述と同様である 本稿第一章
の この作品からの引用を改めて参照されたい
18.
この メタレベルの反省 に用いられる 理性 は 不平等起源論 でル
ῌ
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ソが自尊心の奉仕者として槍玉に挙げたものを超越することになる 理
性 のこのような側面も 信仰告白 のなかで新たに描き出されることにな
る
19.
信仰告白 における 良心 の位置付けについてのより詳細な検討は 拙
稿 ルソ エミル における 充足 について 倫理学年報 第五
十七集
日本倫理学会編 2008 年 127῎8 頁を参照されたい
20. ここで述べられているルソの 二元論 が たんにプラトン的な古典的二
分法 精神/身体理性/情念
に重なるものではないということを強調して
おく必要がある 彼の主張において真の対立項を成しているのは 二つの
衝動 感情ないし情念
である この点については以下のテクストも参照
さ れ た い Luc Vincenti, Jean-Jacques Rousseau l’Individu et la
République, Paris, KIME
≈, 2000, pp. 62῎67.
21.
黄金律 の文言῍῍これにはいくつかのヴァリエションがある῍῍が
定言命法 ほど曲解の余地の無いものでは決してないにしても 人口に膾
炙した意味では まさに 義務論 的道徳の 格率 であるということを
106 哲
学 第 124 集
カントが ῏人倫の形而上学の基礎付けῐ の注釈において ῍皮肉をまじえなが
ら῎ 保 証 し て い るῌ Immanuel Kant, Grundlegung zur Metaphysik der
Sitten, in: Kants gesammelte Schriften, hrsg. von der Preußischen
Akademie der Wissenschaften, IV, Berlin, 1911, S.430 (Anm.).
῍ 107 ῎
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