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イングランドの誕生
イングランドの誕生 →出典:ウィキペディア 1. 「七王国」ヘプターキーの時代 グレートブリテン島に侵入したアングロ・サクソン人(アングル人・ジュート人・サク ソン人)はノーサンブリア、マーシア、イーストアングリア、エセックス、ウェセックス、 ケント、サセックスなどの 7 つの王国を建設し、覇権を争った。このイングランドに 7 つ の王国が並立した 829 年までの 380 年間を七王国時代と言う。七王国時代の初めに有力だ ったのはアングル人の王国であった。そのため、ローマはこの地はアングル人の土地と言 う意味でアングリア(Anglia)と呼んだ。このアングリアをアングロサクソン風に言うと イングランドとなる。8 世紀には七王国のうちアングル人の王国マーシアにオファ王(在位: 757 年 - 796 年)が登場し、イングランドに覇を唱えた。オファはフランク王国のシャルル マーニュと対等にわたり合い、西のウェールズとの境にオファの防塁を築いた。七王国時 代の最後に現れたのはサクソン人のウェセックスで 829 年にはウェセックス王のエグバー トが統一を達成した。この時代の重要な考古学的遺跡は 1939 年に発掘されたサットン・フ ーで、イースト・アングリア王国の船葬墓である。 2. ヴァイキングの侵入 しかしこれと同時にデンマークのヴァイキングであるデーン人の侵入が活発になってきた。 このデーン人の侵入に対抗してイングランドの中興を担ったのがアルフレッド大王である。 しかしその後もデーン人の侵入は続き、1016 年にはデンマークのクヌートによってアング ロサクソンの王がイングランドから追い出され征服王朝であるデーン朝(北海帝国)が成 立した。 その後アングロサクソンによる王朝が復活したもの、デーンやドーバー海峡の対岸にある ノルマンディー公のイングランドに対する干渉はますます強くなってきた。こうした状況 の中でエドワード懺悔王が嗣子のないまま死亡すると、その後王位についたエドワードの 義弟ハロルド・ゴドウィンソンに対して 1066 年、ノルマンディー公ギョームとノ ルウェー王ハーラル 2 世が異議を申し立 てて、イングランドに侵入した。 3. 北海帝国 北海帝国の領域北海帝国 (ほっかいてい こく、1016 年 - 1042 年)は、カヌート (クヌーズ)大王がイングランド・デン マーク・ノルウェーの 3 国の王に就いた ため成立した国家連合。現在のスウェー デン南部もその支配下に置いた。 しかしカヌートの死の数年後、イングラ 1 ンドではアングロ・サクソン系王朝が復位し、北海帝国は崩壊した。帝国支配の裁量はす べてカヌート大王によるものであったため、カヌートが死ぬと帝国は四分五裂し、死後 7 年目にはカヌート大王の王家(スキョル家)に残ったのはデンマーク一国のみとなった。 しかし、イングランドではデーンローの地域に大きく名残りを残した上、イングランド語 (英語)にもデーン人の言葉(古ノルド語)が残る。 4. クヌーズ(カヌート)1 世 クヌーズ 1 世クヌーズ 1 世(Canute / Cnut / Knut I、995 年 - 1035 年 11 月 12 日)は、 ノルマン系デーン人で、イングランド王・デンマーク王・ノル ウェー王を兼ねた王(イングランド王在位:1016 年 - 1035 年、 デンマーク王在位:1018 年 - 1035 年、ノルウェー王在位:1028 年〈1030 年説あり〉 - 1035 年) 。クヌート、カヌート、クヌ ットなどとも。 デンマーク王スヴェン 1 世の子。 母はスラヴ人レフ族(ポラ ニェ族)の族長でポーランド統一者であるミェシュコ 1 世の娘 シフィエントスワヴァ[1][2][3](嫁ぎ先で王妃グンヒルトと呼 ばれた) 。同じくミェシュコ 1 世の子であるポーランド国王ボ レスワフ 1 世(勇敢王)は叔父にあたる。ただし、 『ヘイムスクリングラ』[4]、 『クニート リンガ・サガ(英語) 』[5]によれば、母はヴェンドの王ブリスラヴの娘のグンヒルド(en)と されている。 父スヴェンおよび叔父ボレスワフ 1 世配下のポーランド諸侯と共にイングランドに侵攻し て活躍した。1014 年、父が戦死した後、その後を継いで戦い続けて勢力を拡大した。それ をもって 1016 年、アングロ・サクソン封建家臣団の会議でイングランド王に推挙され、即 位することとなった。1018 年には兄ハーラル 2 世の死によりデンマーク王位を継承した。 その後はノルウェーやスウェーデンに遠征して勢力を拡大した。1028 年にはノルウェー王 位も兼ねることとなり、3 国の王位を兼ねて「大 王」と称された。ここに、広大な北海帝国を築 き上げたのである。 1035 年、41 歳で死去した。死後、後継者争い が起こって、北海帝国はクヌーズの死後わずか 7 年で崩壊した。 5. デーンロウ デーンロウ(Danelaw)は、古英語 Dena lagu に由来する言葉で、9 世紀後半以来ヴァイキン グ(デーン人)の支配下に置かれたイングラン ド東部地域を意味する。 この地域にはアングロ・ サクソンの法制とは異質な慣習法や独自の方言、 風習が残った。 2 デーンロウの範囲:黄色の部分ほぼ今日のヨークから南、ロンドン北方に至る地域がデー ンロウと呼ばれ、ノーサンブリア地方全域とミッドランド地方南東部に当る。主な定住地 はレスター、リンカン、ノッティンガム、スタムフォード(英語) 、ダービーであり、これ らは「五市地方(英語) 」とも呼ばれる[1]。 歴史 デーン人を中心とするヴァイキングは 9 世紀半ばからしばしばブリタンニアに侵攻を繰り 返し、マーシア王国などアングロ・サクソン諸王国の大半を征服した。ただひとつ残され たウェセックス(Wessex)のアルフレッド大王(在位 871 年 - 899 年)が 878 年エディン トン(Edington)の戦いでデーン人首長グスルム(Guthrum)を破り、ウェドモーアの和 議を結んだ。その後、886 年アルフレッドはロンドンを奪回して第二の和約を結び、領土を 画定した。 デーン人は次第に農民化してデーンロウ地域に定住し、やがてアングロ・サクソン王国の 支配下に入ったが、デーン人内部の慣習法まで介入できなかった。このため、デンマーク 系の慣習法は「ノルマン人の征服」 (1066 年)以後まで長く残存した。 ただし、イングランド北東部に侵入した当初はデーン人も政治・社会・文化の面において 一体性があったわけではなく、また当時のテムズ川以北さらにハンバー川以北の地域は、 ウェセックス王国から見ればデーン人の侵入に関係なく「異国」に近い地域であり、そも そもウェセックス王国の法や慣習の及びづらい地域であったという点も考慮すべきである。 なお、デーン人の言葉(古ノルド語)から英語に入った単語はいくつもあり、 law (後期 古英語では lagu)もそのひとつである。 3