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谷崎潤一郎の初期作品群について

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谷崎潤一郎の初期作品群について
谷崎潤一郎の初期作品群について
2年4室
山木
Ⅰ
谷崎潤一郎の生い立ちと作品
谷崎潤一郎、といえば文壇を代表する大作家である。『細雪』という代表作の表題なら耳
にしたことがある人は多いだろう。今回私は谷崎文学の草創期に書かれた作品群を扱うに
あたって、まずは谷崎が作家を目指すに至った経緯や動機などを理解するために、生い立
ちと、今回扱う作品の梗概をまとめておこうと思った。
谷崎潤一郎は、明治 19 年(1886 年)東京都日本橋に事実上の長男として生を受ける。
(実
の長男は生後三日目に死亡した)生家は酒問屋、活版印刷所などの商売を営んでおり、生
活水準は上流階級に属するほうであった。その後、潤一郎を含めて四男三女を設けた谷崎
家であったが、父親、倉五郎が商売の才に恵まれなかったため次第に没落してゆくことと
なる。谷崎家はそのために日本橋の実家を離れ、下町への移住を余儀なくされた。これら
の出来事がのちの潤一郎の人格形成に影響を与えたことは想像に難くない。しかし谷崎は
このような逆境にもかかわらず小学校時代は首席の成績を収め、文学への開眼も果たす。
明治 31 年(1898 年)
、十二歳にして谷崎は先輩の始めた回覧雑誌に作品を発表し、また翌
年には塾に通い英語と漢文の学習を始める。さらに明治 34 年(1899 年)には父の反対を
押し切って東京府立第一中学校(現、日比谷高校)に入学、明治 38 年(1905 年)に卒業
し、同年第一高等学校英法科に入学する。一高時代にも谷崎は文芸部委員などを務めて『校
友会雑誌』に作品の発表を続けた。明治 41 年(1908 年)に一高を卒業した谷崎は東京帝
国大学国文科に入学するも、経済的理由による中退を余儀なくされる。しかし小説への情
熱は冷めることなく、明治 43 年(1910 年)ごろから『新思潮』や『スバル』へ「象」「刺
青」「麒麟」などの短編の発表を開始、本格的な創作活動に入った。明治 44 年には永井荷
風に激賞されて文壇での地位を確立。その後も本人曰く遅筆ながらも、精力的な活動を続
け、「痴人の愛」「春琴抄」や源氏物語の現代語訳、そして「細雪」など珠玉の長編を複数
書き上げる。そして昭和 40 年(1965 年)、享年 79 歳でその堂々たる生涯を閉じたのであ
った。
5 歳ごろの谷崎
63 歳ごろ
谷崎の初期作品と言っても、いくつもの書籍に収録されるような有名な短編から、全集
でしか目に出来ないほどの小品まで存在し、その数は少なくない。そこで今回は、新潮文
庫「刺青・秘密」に収録される七編を研究対象とし、いくつかの梗概を記しておく。
出世作「刺青」の舞台は江戸の町である。刺青師の清吉は、「光輝ある美女の肌を得て、
それへ己の魂を刺り込む」という年来の宿願を持っていた。やがて現れた理想の肌を持つ
女は、純粋な小間使いの娘であったが、清吉は彼女を麻酔薬で眠らせ、背中一面に巨大な
女郎蜘蛛を彫る。翌日目を覚ました娘の美しさの前に、清吉はひれ伏す。
「少年」は変わって明治時代、谷崎が少年時代を回想するかたちで書かれている。下町
に住む小学生の「私」は、裕福な同級生信一と親しくなり、自宅を訪れるようになる。そ
れに学校で幅を利かせる仙吉を加えた三人は、信一の異母兄弟の姉、光子をいじめて遊び
故知らぬ愉悦を感じる。ある夜に「私」と仙吉は光子のピアノの音が聴こえる西洋館へ忍
び込んだが、そこで光子に燭台にされて這いつくばらされる。そののち光子は「此の国の
女王」となり三人を奴隷のように扱うのだった。
「秘密」は初めて谷崎が『中央公論』(当時一人前の作家になるための登竜門)に作品を
掲載した記念すべき作。浅草の真宗寺に密かに住む「私」は、夜ごと女装して浅草を徘徊
し、「秘密」を楽しむ。あるとき、映画館で、かつて船中限りの関係を結んだ T 女に正体を
見破られるが、女は目隠しした「私」を人力車でどこかへ連れて行っては、「秘密の女」と
して Love adventure を楽しませる。しかし、好奇心から全ての真相を知ってしまった「私」
は女を捨て、より深い歓楽を求めるように傾いていく。
「二人の稚児」では、少し舞台を異にしている。女人禁制の比叡山で育った十三歳の瑠
璃光丸、十五歳の千手丸は、女性に対する憧れから次第に生じてきた激しい煩悩に苦しむ。
千手丸は女性を一目見たさに山を下り、そのまま俗界の人間となった。一方、山に残った
瑠璃光丸はある夜、夢に現れた老人から、前世に縁があった女性で、現世では鳥となって
いる者が絶命しようとしているから会ってやるようにと告げられる。瑠璃光丸は雪の中を
山の頂へ登り、その鳥をしっかりと抱き締めた。
Ⅱ
谷崎の初期作品に対する一般的な評価
谷崎文学は文壇に登場すると同時に大いなる新風を吹き込んだ。当時日本では自然主義
文学、すなわち簡素かつ率直に人間の本質を描き出そうとする文学が全盛を誇っていた。
一方谷崎は、豪華絢爛たる文章を武器に、欧州の作家ポーや詩人ボードレールを彷彿とさ
せ、第Ⅰ章に挙げたように耽美派、あるいは悪魔主義といった毒々しいほどの肩書きを授
けられるような新しい文学を創出したのである。どの時代のどんな場所においても新しい
ものは賛否両論と共に迎えられるものだが、谷崎文学も例外ではなかった。後の章に挙げ
るが、比較的谷崎に近い考えを持っていた永井荷風や上田敏らは、谷崎の作品を激賞する。
対して、小宮豊隆、佐藤春夫、さらに小林秀雄は、それぞれ谷崎を『ストライキングでは
あってもショッキングではない』『思想なき作家』『批評精神の薄弱』と呼び、当時の社会
環境における作品の批評を生業としていた評論家たちも、低評価を下している。(ただし、
佐藤春夫とはのちに親友となる一方で、谷崎最初の妻、千代の譲渡問題によって絶交する
など、両者の関係は数奇な運命をたどった。)
大正 12 年(1923 年)の関東大震災以降、谷崎文学の内容は、西洋文化への憧れと女性
美への畏怖を描いた衝撃的なものから、日本の伝統美を追求するものへいわば古典回帰を
達成した。類まれな描写力が伝統美と見事に絡み合い、谷崎潤一郎の作品は一層の評価を
得たわけであるが、それに伴う形で、初期作品群は文壇のみならず谷崎本人からも低評価
をくだされる憂き目に遭ってしまった。
谷崎の初期作品を評価しない傾向はごく最近まで継続していた。そして、この数年のう
ちに、再び初期作品が脚光を浴びようとしているのである。それはなぜだろうか。
まず、初期作品が評価されなかった点について考えてみたい。その理由は、概して「無
思想」という点に集約できるようである。初期作品と同時代の自然主義(島崎藤村、田山
花袋ら)、少し下って大正時代の白樺派(武者小路実篤、志賀直哉、有島武郎ら)、新現実
主義(芥川龍之介、菊池寛ら)は、いずれも思想と理想なしには存在し得ない文学形態で
ある。一方谷崎や永井が属する耽美派は、芸術至上主義的、すなわち思想をもたない文学
として完成してしまったともいえる。思想を必要とした時代には、耽美派はそぐわなかっ
たのではないか。日本人の根幹に訴えかけ、思想に劣らぬほどの重厚さを備えた谷崎円熟
期の美意識に比べれば、どこか軽薄で不誠実な印象さえ与えてしまったのではないか。初
期作品が評価されない理由はそのようなところにあるのではないかと思う。
しかし、初期作品についての低評価は、見直されつつある。その理由は現在の文壇の改
編に関係しているのではないか。これまで近代文学は何らかの使命と共に存在してきた。
その傾向はプロレタリア文学などに顕著に現れているほか、戦後も現体制を批判するよう
な小説、あるいは不条理な世間を風刺するような小説もしばしば書かれてきた。だがこの
数年、かつてのように痛烈で衝撃的な作品は生まれにくく、「小説は書き尽くされた、小説
の時代は終わった」との声も聞かれる。それを具現するかのように、芥川賞の最年少ダブ
ル受賞を筆頭として、「異例」の出来事が文壇では次々に起きている。あまりの「異例」続
きに文壇の将来を憂慮する声も多いのだが、私はそれらに違和感を覚えている。「異例」と
は、これまで意図的に避けられてきた部類の作品―きわめて若い作家や、前衛的な作風の
作品を評価することがようやく始まったということではないかと思うのである。本当に小
説を判断すべきなのは、評論家や審査員ではなく一般の人々である。文学賞の役割とは、
その一般の人々の目に出来るだけ多くの種類の作品が触れさせることではないのだろうか。
そして近年、谷崎の初期作品群が、そのような作品の中にようやく名を連ねるようになっ
たために、評価の見直しが進んでいるのではないだろうか。
Ⅲ
永井荷風と谷崎潤一郎
永井荷風は、谷崎より少し年長で同じ耽美派に属する文豪である。何度も記したように
永井が谷崎を絶賛したことで谷崎の作家としての地位が築かれたのであり、その意味で永
井荷風およびその批評の存在は谷崎論には不可欠だ。また、創作の点でも、谷崎は永井の
影響を受けていたのではないかとする説もあり、興味深い。実際に、谷崎の初期作品群は
西洋的な美を表現したものが多いのに対して、永井は代表作に「あめりか物語」「ふらんす
物語」が挙げられるなど、関連性が覗われる。
永井は評論「谷崎潤一郎氏の作品」で、「三箇の特質が見出される」としている。それは
端的かつ正確に谷崎の作品解釈の上での留意点を突いており、谷崎研究においてあまりに
も有名である。この章では、実際にその三点に着目しながら谷崎の作品を見ていきたいと
思う。
第一に「肉体的恐怖から生ずる神秘幽玄」。現在は「マゾヒズム」という言葉が充てられ
ることが多い。谷崎は心理的に被虐趣味があったとはよく言われ、本人も否定せずにいる
が、それが性的な意味合いでもあったのかは定かでない。しかし、作品を見る限り「肉体
的恐怖」が重要な要素となることがしばしばあるのは確かである。たとえば「刺青」にお
いては、小説の主軸そのもの、すなわち刺青という行為が痛みや苦しみを連想させる。ま
た、「少年」「幇間」についても、それぞれ主人公が女性に屈服する場面で幕を閉じる。こ
のように見ていくと、谷崎の小説は残酷で悪趣味なだけではないかと疑われるが、決して
そうではない。「少年」より、洋館の暗闇の中で「私」と仙吉が燭台にされる場面を例に挙
げることとする。普通なら、このような場面では額から流れる蝋の熱さ、それに耐え続け
る辛さばかりが強調されてしまうところである。しかし谷崎は、「光子の盛んな香水の匂い
が雨のように顔へ降った。」「銀板の上を玉あられの走るような、渓間の清水が潺湲と苔の
上をしたたるような不思議な響きは別世界の物の音のように私の耳に聞えて来る。」といっ
たように、肉体的恐怖を与えられた状態、すなわち極限状態において通常より鋭敏になっ
た感覚の描写を効果的に加えることにより、場面に美しさを与え、「神秘幽玄」を表現する
ことに成功しているのである。
第二に「全く都会的たる事」。これは谷崎が東京に生まれ育ったことに深く関連している。
谷崎の描く「江戸」や「東京」は、当時の農村に暮らしていた大半の人々の憧れとしての
都市ではなく、普通の現実として、小説の中で意識されないくらい深く染み込んでいる。
たとえば「異端者の悲しみ」での主人公、章三郎が住む長屋の描写は、次のようになって
いる。「日本橋の八丁堀の、せせこましい路地の裏長屋にあるこの二階の一室には、(中略)
外に何一つ美感を起させる物はないのである。四畳半の畳と云い、押し入れの襖と云い、
牢獄の檻房に似た壁と云い、(略)」これは農村にいては決して知りえない都会―東京の現
実である。ただし、谷崎の小説における現実とは、自然主義的に絶望を喚起するような類
のものではなく、あくまでプロットの地盤の役割しか果たさないことを留意しておかなけ
ればならない。いずれにせよ、その光景を容易く表現してしまう谷崎は、確かに都会的だ。
また、内容においても、力強く自立した女性がたびたび登場し(「刺青」の女、「少年」の
光子、「秘密」の K 女など)、先進的な面がよく見られる。
最後に「文章の完全なる事」である。この後には、「現代の日本文壇は人生の為めなる口
スチール
実の下に全く文学的製作の一要素たる文章の問題を除外してしまった」とあるから、おそ
らくこれは自然主義文学と対比させてのことである。自然主義の作家たちは文章を無碍に
している、と言ってしまえば語弊があるようだが、筆致だけを比べてみれば、圧倒的な芸
術的センスを備えた谷崎や永井、ひいては両者の源流を作った森鴎外らに分があるのでは
ないかと思える。また、谷崎の文章で殊に優れているのは、どれほど異常で倒錯した世界
や人物を描こうとも、文章は前後から少しも乱れることがない点である。永井は、「作品の
内容が極めて病的傾向を示す場合にも、其の辞句は依然として明確に文脈は整然として乱
れず」と記している。これは、違和感を持たせずに読者を異常な世界に引き込むためのテ
クニックではないだろうか。もし内容の異常さに比例して文章が奇妙な体裁をとったなら
ば、読者は読みづらさを覚えて逆に内容に対する興味を削がれてしまうだろう。当然、そ
こからは美など生まれるはずもない。異常さと冷静さが絶妙に噛み合っているからこそ、
互いの要素を引き立てあうことが可能になるのだろう。
Ⅳ
谷崎潤一郎とその研究について思うこと
ここまで、先行資料を参照しながら谷崎潤一郎の初期の作品について見てきた。先人た
ちの考察は非常に奥深く、私は多くの新たな発見をしたように思う。しかし、それらの研
究には何かが欠落しているのではないかともまた思うようになった。なぜなら、どの論文
を見ても、倒錯的な美意識に関する論ばかりが目に付き、谷崎の小説の本当に美しいとこ
ろ、たとえば情景美についてあまり触れられていないのである。それが衝撃的な内容であ
るゆえにやむなく生じる問題なのだろうが、谷崎の芸術的な才能を本当に評価するのであ
れば、その観点からも論じておくべきではないかと思う。
ところで、谷崎は映画を愛好したことでも有名である。「秘密」には映画館内での場面が
登場し、それから少しのちの短編「人面疽」では映画業界を舞台にしている。また、「春琴
抄」「細雪」をはじめとする数多くの作品は何度も映画化され、存命中は自身が大正活映な
どで製作に関わることも少なくなかった。そこで、改めて谷崎の小説を読み直してみると、
実に映像的ではないかと思えてくる。小説という形をとりながら、既にして映画的な演出
が施されているようなのである。
たとえば、ほとんど無意味な情景描写が延々となされているだけのような「幇間」の冒
頭で、段落ごとに描かれているものに注目してみる。実際に列挙すると以下のようになる。
〈向島の土手の様子→隅田川の流れ→花見船→船上の幇間→幇間を眺める橋や土手の民
衆〉俯瞰的な構図から、次第に一つのものへ対象を絞っていく様子がよくわかる。すなわ
ち、映画のズームイン・アウトなどのカメラワークを彷彿とさせる演出技法が用いられて
いるのである。すぐにでも映画の脚本として使用できるのではないかとさえ思える。さら
に、この描写は決して無意味なものではなく、それを通してわずか数頁の間に登場人物の
立場、風体、その上性格までをも瞬時に描ききっている。この瞬間性はまさに映画の特徴
の一つともいえ、それが同時に谷崎の特徴の一つともなっているのである。
また、谷崎の文章、特に冒頭部の一文ずつが長いことも、映画との関連性を感じさせる
一因ではないだろうか。たとえば前述の「幇間」は、文庫本にして四行から六行で一文を
なし、それが一段落となる段落が三つも連続する部分から始まる。一文が長ければ、それ
だけ描写は細かくなり、読者に場面に関する視覚的な印象を強く与えられるはずである。
すなわち、映画を見たときと同じような効果を読者に与えるのである。それとは対照的に、
江戸弁・東京弁を用いた簡潔な台詞は、説明的な要素がほとんど排除されていて、まった
く不自然な印象を与えない。これもまた、映像的な印象を妨げることなく、物語に臨場感
を加えることに役立っている。
ここまで冒頭部分を中心に取り上げてきたが、無論結末の鮮やかさにも特筆すべきもの
がある。「刺青」のあまりにも有名な末文は、「折から朝日が刺青の面にさして、女の背は
燦爛とした。」というものであるが、ここには谷崎の美意識が集約されている。それまでの
薄暗い夜の情景から一転して、突然眩しい朝日が差し込む様子。また、それは刺青を施さ
れることによって新しい生き方を得た女を表す隠喩とも受け取れる。わずか一行の末文に
これだけの内容を凝縮し、さらに映像的な美しさまで加えてしまうとは、谷崎の才能に感
服するほかない。ほかに、「二人の稚児」は、それほど有名な作品ではないものの、結末の
場面の美しさには心を奪われる。第一章で挙げたように、瑠璃光丸が鳥を抱き締める末文
は、次のようになっている。「彼女の肌へ蔽いかぶさるようにして、顔を伏せて居る瑠璃光
の、可愛らしい、小さな建築のような稚児輪の髪に、鳥の羽毛とも粉雪とも分らぬものが、
頻りにはらはらと降りかかった。」実は、その直前の場面までは、雪はほとんど吹雪くよう
に描写がなされているのである。しかし、結末の段になって、それは穏やかな、鳥の羽毛
と見紛う程に「はらはらと」降りかかる粉雪へと変わり、頂にのぼった瑠璃光の姿がしっ
かりと見えるようになる。瑠璃光の慈愛の姿が、確かに映し出されるのだ。少し都合が良
すぎる感もあるが、それがなければこの小説が最後に残す崇高な印象は薄れてしまう。
以上のように、谷崎の初期の作品は性的倒錯や女性崇拝などの要素を抜きにしても、な
お余りある美しさを備えている。さらに、その美しさは映像的で、当時の文壇としては非
常に画期的、斬新である。ゆえに、それ以降に様々な傑作を生み出すだろうことが容易に
予期されるのだ。もし谷崎がただ倒錯していて特異なだけの作家であったならば、きっと
作家人生の途中で文壇から飽きられてしまったに違いなく、現在もなお多数の支持を集め
る文豪の一人とはなりえなかっただろう。西洋的・日本的に関らず、あらゆる美を鋭く発
見し、それを切り抜いて一篇の小説に仕立て上げてしまう、谷崎のような小説家は、なか
なか見つけることが出来ない。
参考文献
群像日本の作家8
谷崎潤一郎(小学館)
刺青・秘密(新潮文庫)
うれしたのし文学史
(http://homepage3.nifty.com/bluesky/critique_japan/bungakushi.html)
芦屋市谷崎潤一郎記念館
(http://www.ashiya-web.or.jp/tanizaki/)
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