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HOMMAGES - 大阪大学大学院文学研究科・文学部

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HOMMAGES - 大阪大学大学院文学研究科・文学部
HOMMAGES
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着物姿の似合う大先輩
柏木 隆雄
高岡先生がご退職になる。時間が経つのは加齢とともに早くなるが、あと3年
ですね、2年ですね、と言っていたのが、つい昨日のようで、じっさいその時を
迎えると fugit tempus をしみじみ実感する。それは高岡さん(先生と呼称すべきだ
けれど、日頃のさん、づけでお許し願おう)の方が、いっそうその感が深いので
はないか。
思い起こせば高岡さんを初めて見たのは学部3年の頃か。いまは言語文化研究
科棟が立つ場所に古い木造2階建ての文学部校舎があって、そこは廊下に音を殺
すための黒いゴムが細く長く敷いてあり、雨など降るといかにも陰気で、湿っぽ
かった。あれは多分フランス哲学の澤潟教授の授業だったか、主任教授和田誠三
郎先生のパスカルの授業だったか。先に席に着いていると、少し遅れて先生では
ない、大学院生と思われるきちんとした身なりの男性が、颯爽と現れ(その時ど
んな服装かは思い出せないが、サッソー、という感じは今に強く残っている)、後
の三人掛けの机に腰掛けるや、その前の机にある本かケースかを、持っていた長
く細い、恰好いいこうもり傘を逆さにするや、さっと把手の方を伸ばして引き寄
せた、その仕草がいかにも自信満々の、心もちキザながら、嫌みにならず、とも
かくカッコよかった!その人が高岡さんだった。おそらく修士2年か博士1年。
秀才、という感じが和田教授の秘蔵っ子という説明がなくても実感できた。
それから程ない頃だったと思う。もう修士に進学していたと思うけれど、梅田
へ仏人教師のジャン・ルイ・ルゥス氏を案内して、中村啓祐助手を中心に院生が
飲みに行く会があり、集合場所は阪急梅田駅。今こそ3階の近代的な改札だが、
当時は大阪万博前で、阪急百貨店の地上入り口とホームが並んでいて、乗客と買
い物客が犇めいていた。皆が揃うまでワイワイその改札前でいると、大島か、紬
の着物に懐手をした若旦那風の男が悠々と近づいてくる。みんながやぁ高岡さん
だ、と安心の声で言った。私は亡くなった両親が染め物屋をしていたからか、和
服にはなにかノスタルジーがある。その堂々たる、そして粋な登場にまた目を奪
われてしまった。紺の紬も素晴らしかったが、その羽織紐の立派なのに驚いた。
実にいい品だった。後で聞くと、高岡さんはそれこそ京都の室町かそこらの、着
....
物にかかわる仕事を父上がなさっていて、彼はそのぼんぼんという。以来高岡さ
んは私には「着物の似合う男」としてしっかり刻み込まれることになった。その
場に後に高岡夫人になる厚子さんもいたはずだが、厚子さんは確か洋装だったよ
うに思う。
中村啓祐助手が仏政府給費留学生としてナンシー大学に留学し、高岡さんが助
手代理を勤められたが、ご本人も翌年仏政府給費留学生としてポアティエ大学に
留学することになり、そのあと平田靖氏が引き継がれ、さらに私が修士2年目だ
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ったけれど助手代理を勤めて、教授になられてすぐの原先生にいろいろご迷惑を
おかけした話は他の場所で書いたので省こう。フランスで学位を取るのがなかな
か難しい時代、きちんとラシーヌ研究で博士論文を書き帰国、すぐさま恩師の和
田先生が阪大退職後行かれた南山大学へ招かれ、やがて阪大に帰られるのは本誌
の年譜に詳しい。私は神戸女学院大学でそれこそ天国のような生活を送っていた
が、思いがけず阪大に来ることになり、また高岡さんとご一緒に愉快なお酒を飲
んだり、また学生指導の件でいろいろ指示を仰ぐことができるようになった。大
高先生がお元気な折は、石橋界隈でお二人で私を見つけると、「おい、柏木!」と
無理やり酒席に呼び込まれて、こちらも嫌いな方でなく、つい深酒することにな
る。あの頃、30 代半ば過ぎ。高岡さんも 40 前。力溢れて、意気天を衝く、といっ
た風貌で頼もしかった。
入試問題作成委員を一緒にした試験前夜、高岡さんのお宅で泊まらせて頂くこ
とになり、ご馳走になった挙げ句、お酒も浴びるほど飲んで、下の息子さんと一
緒にお風呂に入ろうと誘った思い出も懐かしい。
さて今、時は流れて、高岡さんの退職を迎える。私の時が来るのも須臾の間だ
ろう。兄事して早 40 年以上過ごしたことになる。その間沢山の事柄で、その度ご
とに実に有難いお心づくしとご配慮を頂き続けてきた。この機会に篤く感謝する
とともに、二人揃って渋い着物を着、古九谷の酒器か、古伊万里で、白鷹一献を
傾ける機会のしばしばあることを祈念しつつ、この文、耄碌ゆえの間違いあらば
ひたすらご寛恕を乞う。
(大阪大学文学研究科教授)
上 2000 年の正月。自宅で年賀状を眺める。
左 友人と姫路城にドライブしたときのワン・ショ
ット。阪大生一回生のころか。
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「加代ちゃん」と呼んでいただいて
柏木加代子
いつの日からか、私は高岡幸一先生に「加代ちゃん」と呼ばれています。高岡
先生の甘いやさしい京都風のお声には、いつもほっとするような安堵感があるの
です。私が高岡先生ご一家とお付き合いをすることになったのは、もう 20 数年前、
夫人の厚子先生のご紹介で、豊中の観世流能楽師、故山本真義先生のお宅で謡と
仕舞を教えていただくことになった頃でした。当時、厚子夫人の謡の調子や仕舞
の優雅さは、私の能楽への憧れをいっそうかき立てました。パリに比較的長く生
活し、日本文化について考える時間が多かった私には、毎週月曜日のお稽古日が
待ち遠しいものでした。
山本先生宅での厚子夫人との会話は、良きにつけ悪しきにつけ?いつも幸一先
生の話題で盛り上がります。ご自身も趣味人でおられる高岡先生は必ずといって
良いほど私たち(実は厚子夫人)の発表会に出席して下さり、山本先生の能楽ご
公演にはいつもご夫妻で観賞されていました。結婚されて、幼子をつれての南仏
ポワチェでの生活、そして先生のお酒の上での失敗談など、幸一先生のプライヴ
ェートな側面を厚子夫人から楽しくお聞きしました。また私もおなじように我が
家の事情もお話しましたから、幸一先生にとって私はどこにでもいて、どこにで
もいない「加代ちゃん」になってしまったというわけです。
二人の息子さんたちが、いつの間にか大きくなられ、「はっと気がつくと、男が
三人、家にいる」と幸一先生がおっしゃったことがあります。男親というのは、
はっとしないと周りが見えないのでしょうか。厚子夫人によれば、ご長男の就職
のため服を買いに出かけられたとき、ご長男の洋服をあれこれ見ている厚子夫人
に、買う予定のなかったご自分の服も見てくれ、と言われたそうです。おそらく
厚子さんの注意を引こうとされたのですね。厚子夫人にとっては、いつまでも妻
離れのできない愛しい夫、というところでしょうか。私は先生の純粋な人柄がと
ても愉快にまた素敵に思われるのです。
ところでいったい「学問」とはどういうものなのか。「学問」をする意味はどこ
にあるかと、私はいつも考えています。身近に「文学は人を作るのだ」と豪語す
る人もいますが、私は「そんなこと、よう言うわ」といつも聞き流すことにして
います。それでも高岡先生を見ていると、その人間的で温かいお人柄はやはり
「学問あってこそ」と納得してしまいます。
高岡先生のお父様が亡くなられたとき、先生は研究室前の廊下を走られ「転ん
で大怪我」という、九死に一生を得る体験をされました。お父様が先生の身代わ
りに亡くなられたのではないかと、オカルティックなことを、つい考えがちにな
ってしまいます。昨年私は最愛の父を亡くしました。人生への覚悟をその時強く
意識し、切ない思いをしました。その直後、東京の学会で厚子夫人と二人で昼食
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する機会を得ました。そのとき夫人は、ご自分が近年お母様を亡くされたときの
ことを思い出されながら「死んだ人はその人の子供の血の中に生きているのよ」
といって慰めてくださいました。世代から世代へと家族の絆を大切にしておられ
る厚子夫人の手のひらにおられる幸一先生は幸せだな、とつくづく思ったもので
す。高岡先生夫妻にお孫さんが授かったのは昨年のことでした。
私が幸一先生の学問に直接接することができたのは、学会誌でのご高論はとも
かく、ガリアの研究会においてでした。いつも先生の刺激的なコメントをはじめ、
先生がおられるだけで研究会が盛り上がり、その上幸せな雰囲気が漂うのです。
退職された後もお元気でますますご活躍されることをお祈りし、「加代ちゃん」
からの高岡幸一先生へのささやかな「送る言葉」とさせていただきます。
(京都市立芸術大学教授)
高岡先生の思い出
金f
春幸
高岡幸一先生にはじめてお会いしたのは、今から 30 年近く前、奥様の高岡厚子
先生が仏文の助手をしておられた頃、できあがったばかりの『ガリア』を幸一先
生の車で豊中の郵便局まで運ぶお手伝いをしたときであった。当時高岡幸一先生
はまだ南山大学に勤められていたはずなのになぜ運転手役をされたのか、後から
考えると不思議であったが、とにかく左ハンドルのフォルクスワーゲンに乗った
先生が、どうしてフランスで乗っていたワーゲンが日本の港にたどりついたのか、
そのいきさつを楽しそうに話され、そのきさくなお人柄が強く印象に残ったので
ある。その後、高岡幸一先生は阪大言語文化部に赴任され、またご夫妻からお宅
に招待されてごちそうになったり、一緒にマージャンをしたり(高岡先生は私以
上にマージャンが弱かったので安心した)、親しくさせていただいた。高岡先生が
辞書は借金をしてでも買えとおっしゃっておられたので、その教えに従い私は院
生の分際でグラン・ロベールやグラン・ラルースを買ったのである。
高岡厚子先生が梅花女子大学に赴任された後、私が後任の仏文助手になり、ま
た一年間の助手生活の後、今度は高岡幸一先生のおられる阪大言語文化部に職が
決まったというのも、ご夫妻からの「引き」のようなものがあったのだろう。22
年前の言語文化部フランス語教育講座は、大高順雄先生、岡野輝男先生という両
巨頭のおられた時代で、今とはかなり雰囲気が違っていた。高岡先生は個性の強
いお二人の間で巧みに調整され、また同時にうまく自己主張もされていたように
思う。お名前が「大高」「高岡」「岡野」としりとりのようになっていて、高岡先
生が仲を取り持つようになっているのも、偶然ではなく、そのように生まれつい
たとしか思われないのである。大高先生、岡野先生が退職された後、高岡先生の
ワンマン時代が来るかと思ったのだが、実際にはそうはならなかった。むしろ春
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木さんや私に後はまかせたという感じで引かれてしまったのは、少なくとも私に
は残念なことであった。ワンマンになるには、あまりにも優しい性格をお持ちな
のであろう。
高岡先生が話し好きで、お酒が入るとますます話に熱が入るのは、阪大のみな
らず、全国的に知られている。先生の話の中で一番好きなのは、サンスクリット
語やアラビア語やヘブライ語にまつわる語源やそれらの言語で書かれた物語の話
である。私もアラビア語を囓ってみたのだが、文字のややこしさに挫折してしま
い、サンスクリット語などは夢のまた夢に終わってしまった。高岡先生の退職記
念論集のタイトルをプラトーンの著作からとって「シュンポシオン」(饗宴)とし
たのも、酒がすすむにつれて古今東西の知をロゴスとパトスを綯い交ぜにしなが
ら語る先生にふさわしい言葉だと思われたからである。大阪大学にもアカデーメ
イアがあり、高岡先生がその中心におられたのである。
(大阪大学言語文化研究科教授)
思い出すこと
岩根 久
高岡先生をよくご存知の読者の方なら同じ経験をもっておられることだろうが、
先生の言葉には独特の味がある。たとえば、「そんな奴、どついたらなあかん。」
おもたせのワインに悦に入る。
2002 年8月 31 日 家族に「これ
が有名なサン・ジャック通りだ
よ」と説明しているところ。
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お酒を飲みながらの世間話で、「困った人」の話が出たりした時によく出る言葉で
ある。これは、「困らされた」人に対して「なるほど、それはお困りでしょう」と
いう意味の暖かい言葉なのであって、本当にその人を「どついてもいい」、という
意味ではない。それが証拠に、「明日、ほんまにどつきましょか」と言うと、「い
や、それもなあ、止めといた方がええやろ」ということになる。
さて、高岡先生の知遇を得て以来、今日に至るまで先生のお宅にはよくお邪魔
している。初めてお目にかかったのは学生の頃で、刀根山の、今は公園で昔は池
だった場所のすぐ下が先生のお住まいだった。お宅に伺ったときに 16 世紀関連の
書籍を色々と見せていただいたり、お話を伺ったりした。ちょうど、16 世紀のこ
とを調べ始めていた時期だったので、大変勉強になり、ありがたかった。
それからしばらくして、先生は同じく刀根山の市軸稲荷のすぐ近くに住居を移
された。風流な日本家屋で、お庭がまたすばらしく、春夏秋冬、朝昼晩、それぞ
れの趣が深く味わえるようなお宅だったと記憶している。李朝の壺、由緒ある掛
け軸(高岡先生のお言葉だと「しょうむないもん」)、イタリアの 16 世紀の刊本
(これは「なかなか、たいしたもん」)などを見せていただいたり、毎度毎度、奥
様の絶品のお料理(奥様のお言葉だと「なーんも、たいしたもんやない」)をご馳
走になり、帰宅が明け方になることもあった。その頃だったか、宴会からの帰宅
がたまたま先生といっしょになり、話題が 16 世紀の詩の話になった。筆者が「デ
ュ・ベレーもなかなか優れた詩を書きますね」というと、「ロンサールに比べたら
あんなもんあかん」と一言のもとに却下された。確かにそうとも言えるが、その
後、デュ・ベレーが気の毒になって、筆者はややもするとデュ・ベレーの肩を持
つ傾向にある。まあ、他愛もないことである。
震災のあと、先生は現在お住まいの緑丘に引越しされた。そのお宅に伺った時、
奥様のお母様にお目にかかった。気品の薫るご婦人で、筆者の記憶に鮮烈に残っ
ている。お話する間、俳句の話も出たかと思う。ホトトギスの同人ということで
あった。その後、「小春」と題する句集をいただき、大変心を打たれた。先生ご自
身のお話ではないのだが、ぜひ記しておきたい記憶のひとつである。
高岡先生とは日頃お会いする機会も多く、また今後も親しくお付き合いさせて
いただけるだろうから、折を見て「しょうむないこと、書くな」と叱られるだろ
うと内心ひやひやしている。しかし、先生のことを書く機会など滅多にあるもの
ではないので、ご海容を期待して思い出話をさせていただいた。言い訳がましい
けれど。
「久々に積もる話や炬燵の間」
(坂本敏子著 句集「小春」より)
(大阪大学言語文化研究科教授)
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高岡先生と私
井元 秀剛
私が阪大に赴任した 1993 年当時、言語文化部フランス語教育講座には3人の教
授がいらしたのだが、高岡先生はその最年少で、私にとって最も頼れる上司とい
う存在であった。というのも年長の大高・岡野両教授は実にエラーイ先生で、新
米の若造が馴れ馴れしく話しかけられたりするような方々ではなかったからであ
る。そこへいくと高岡先生は、偉くないわけでは勿論ないのだが、(実際、先のお
二人が翌年おやめになると、先生はフランス語唯一の教授としての重責を担われ
ていた)、何とも優しいおじさんで、私も気軽に冗談が言えた。これには、赴任前
あの辛口の春木先生からもらった手紙に「高岡先生はいい人です」と書かれてあ
ったことも多分に影響しているかもしれない。ともかく、高岡先生は個人的なこ
とがらも気軽に打ち明けて話せる先生で、飲み会に連れて行ってもらっては、独
身の私は「誰かいい人いませんかねえ」などと相談していたのを思い出す。私が
盲腸で入院したときにはご夫妻で2回も見舞いに来ていただいた。車で来られる
のだが、鍵を車の中に忘れられ、電車で帰られたそうで申し訳ない。しかし私の
知る限り、このロックアウトは少なくとも3回はある。いかにも高岡先生らしい
ご愛敬である。
まあ、そんなふうにしておつきあいさせていただいた間に、私は先生の広範囲
にわたる深い教養と学識にたびたび舌を巻いた。私の専門が言語なので、よくコ
トバのことも話題になった。私が全く知らなかったアイヌ語についても教えられ、
片山龍峯『日本語とアイヌ語』(すずさわ書店)などを紹介してくださったのも先
生である。
そしてまた世間とは狭いもので、偶然私の父と先生のご子息との職場が一緒で
あった。同じ業界ならまだしも、全く別の仕事をしている東京の父が私より先に
2005 年8月 パリ、キャフェ・ド・フロ
ールにて、愛嬢とともに。
2005 年8月 リヨンのフルヴィエールの
丘を望む広場にて。
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ご子息と知り合いであったというのは驚きであった。そんなご縁もあって、私が
結婚する際には先生ご夫妻にご媒酌の労をとっていただき、以後家内ともども家
族ぐるみでおつきあいさせていただいている。自宅にお伺いしてまた驚いたのだ
が、先生は芸術の才能も豊かで、家具や調度品なども手作りである。フルートの
練習にも余念がない。音楽、工芸、歴史、文学、先生と話していると話題がつき
ることがない。先生は大学をやめられても、全く退屈することはなく、趣味人と
して生き生きと生活なさることだろう。なんだかうらやましい気がする。
(大阪大学言語文化研究科助教授)
高岡先生の思い出
徳永 雅
16 世紀の作家を研究している私は、仏文科の中でも、最も高岡先生のお手を煩
わせた学生の一人ではないでしょうか。
阪大に学士入学した者にとりまして、学部3年の時の授業は新鮮で刺激的なも
のばかりでしたが、その中でも、高岡先生のロンサールの講義は、その後モンテ
ーニュを研究していく上で基礎となる多くのことを学んだ忘れ得ない授業です。
講義ノートを繰ってみますと、イタリア語やラテン語に混じってギリシア語の走
り書きが見られ、板書された先生の文字を必死に書き取っていた当時の様子が、
ついこの間のことのように思い出されます。
大学院ではラ・フォンテーヌの講義を受けましたが、一度、受講生が私一人だ
けの時がありました。講義用のかなり広い教室でしたが、教壇に座られた先生は、
私に研究のことなどを尋ねて下さったり、ご自分の学生時代のこと、フランス留
学中のこと、お子様のことなどを、あの穏やかな口調でお話し下さったりして、
1時間半があっという間に過ぎたのを覚えております。
また、学会誌の校正の件で、急遽先生にお会いしなければならなくなり、当時
の刀根山のご自宅をお訪ねしたこともありました。電話で場所を伺ったのですが、
お家に近づくと、なんと先生がお宅の前に立って待っていて下さったのです!確
か和服をお召しだったように思います。(もしかしたら、これは私の幻想かもしれ
ません。しかし、記憶の中の先生は、確かに和服姿のやさしい微笑で私を迎えて
くださいました。)その時お話しした内容はあまり覚えていないのですが、壁に取
り付けられた手作り(?)の棚に、クラシックの CD が整然と並んでいたことと、
厚子先生が出してくださった日本茶と和菓子がとても美味しかったことは印象に
強く残っています。
昨年のガリアの研究会では、恐れ多くも、15 年来敬愛してきた先生と同じテー
ブルについてシンポジウムのパネリストを務めさせていただき、感慨もひとしお
でした。先生の、
「踊るサテュロス」の像のお話が印象的で、2400 年前に鋳造され、
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1998 年にシチリア沿岸から引き揚げられたというその像を、愛知万博へ観に行っ
てまいりました。先生がおっしゃっていた通り、躍動感があり、強さと優しさを
併せ持った実に美しい像でした。心に焼き付いた「踊るサテュロス」の印象とと
もに、先生の思い出は、これからもずっと私の中に生き続けることと思います。
(関西学院大学非常勤講)
初めての授業のこと
藤田 義孝
高岡先生の初めての授業で受けた衝撃は忘れられない。それは学部に上がって
2年目、4回生の春のことだった(当時は今と異なり2年までは教養部で、3年
から学部に上がり各専攻に分かれていた)。最初の授業の日、勇んで大学に出かけ
た私は、歩き回って教室を探した。文学部の授業は、文学部棟のほか、美学棟な
どいくつかの建物に分かれて行われていたため、学部に上がりたての頃は教室を
探してさまよったものである。だがそこは年の功。いかに方向オンチの私であっ
ても、さすがに専門の授業が2年目ともなると、大して迷うことなく教室を見つ
けることができた。適当な席で待っていると、やがて高岡先生が前の扉から入っ
てこられた。教室で待っていた学生の数は 10 名に満たなかったように思う。その
年度の高岡先生の講義は、ラ・フォンテーヌ研究だった。ラ・フォンテーヌの寓
話といえば 17 世紀、フランス古典主義の真っ只中の作品であるから、それはもう
いかにもフランス文学的なフランス文学の授業なのだろうと思っていた。
さて、授業が始まるとコピーが配られ、先生の概説の後、実際にラ・フォンテ
ーヌのテクストを読んでいく。いっけんシンプルに見えるテクストも、いざ読ん
でみると古典フランス語に特有の構文や意味があり、思いのほか手ごわかった。
それでも、専門の授業を既に1年間受けてきたんだというささやかな自負に支え
られ、なんとか授業についていく。フランス古典主義のテクストを読み、先生が
2005年3月 「命わずかの笠の下涼み」と芭
蕉が西行歌もじりを詠った佐夜の中山にて。
パリ、ギィメ博物館にて。
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板書されるフランス語をノートに取る。期待通りの授業展開に、私は「うんうん、
これこそフランス文学の授業だよな」とひとり納得していた。……浅はかにも。
やがて、ラテン語やギリシア語が板書に登場。見慣れないギリシア文字に戸惑
いながらも「やはりヨーロッパ文化の根本は古代ギリシア・ローマにあるのだな
あ」と感じ入ったが、そんなのはまだ序の口。話が進むにつれてロマンス諸語の
語彙が当たり前のように引用され、サンスクリットが板書され、今昔物語の話が
出るに及んで、「自分はいったい何の授業に迷い込んでしまったのだろう」と呆然
自失。ギリシア語は学んだこともなく、教養のラテン語も途中で挫折し、フラン
ス語にさえ悪戦苦闘する自分が、はたしてこの授業についていけるのだろうかと
不安になった。
こうして初回の授業から打ちのめされた私だったが、諦めず出席するうち、高
岡先生の恐るべき博学にも少しずつ慣れ、柔らかな語り口調で紡がれる講義を楽
しめるようになった。なにより先生の優しいお人柄に触れていると、授業につい
ていけるのかという迷いや苦悩から解き放たれ、「ああ、仏文学者というのは仏の
ような文学者という意味なのだな」と納得してしまうのであった。あれから十数
年の時が流れ、私も今は大学でフランス語を教えているが、教師として研究者と
して日々功徳を積み、いつか高岡先生のようなありがたい授業ができればと思っ
ている。
(大阪薬科大学非常勤講師)
高岡先生の思い出
林 千宏
高岡先生には、一回生の選択外国語の授業からご指導いただきました。幸運にも
フランス語の最初の手ほどきを先生にしていただいたわけです。その後も多くの授
業を受けさせていただきましたが、なかでも今も印象深く思い出すのは、三回生の
ときに受けたフランス・ルネサンス詩の授業です。最初に先生から手渡されたのは
ロンサールの『新続恋愛詩集』中の一篇でした。«Rossignol mon mignonne, qui
dans cette saulaye / Vas seul de branche en branche à ton gré voletant, [...].»で始ま
るその詩を一見してまず驚いたのが、当時の綴字法そのままのテクストであった
こと。ギリシア語やラテン語の面影を残したその綴りを見て、「フランス文学」と
いうより「ヨーロッパ文学」と言うにふさわしい広がり、豊かさを感じ、惹きつ
ロシニョール
けられました。そして、「私の可愛い小夜啼鳥よ、この柳の茂みを / たった一羽枝
から枝へと気ままに飛び回る…」で始まるこの詩の爽やかな情景と躍動感に、自
分がこれまで乏しい知識に基づいてイメージしていた「フランス詩」とは、まっ
たく異なった世界が存在することを知りました。
この詩から始まった先生の授業は、まさしく「ヨーロッパ文学」いや「世界文
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学」というにふさわしい壮大なもので、十六世紀のフランス詩の一節からラテン
文学、ギリシア文学の源泉に遡り、ときにはサンスクリット語まで飛び出すその
博識にはただただ圧倒されるばかりでした。例えば、香木を燃やした火に自ら飛
び込み、再生を遂げるというのモチーフ。ペトラルカやウェルギリウスのテクス
トを読みつつ、その緋色の羽を手がかりに、この伝説上の鳥が『カンツォニエー
レ』のラウラやカルタゴの女王ディードー、さらにはエウリディケーにもつなが
っていくことを精緻に検証していかれる様子は、とてもスリリングでした。
そういった膨大な知識に基づく読解もさることながら、先生の授業で何よりも
魅力的なのは、先生が詩作品を解説されるとき、その言葉によって往古の作品が
生き生きと脈動し始めることです。例えば、シチリアの詩人テオクリトスの『牧
歌』を紹介されるとき、それは二千年以上も前に書かれたとはとうてい思えない、
瑞々しい情景として立ち現れてくるのです。若い娘が町で見かけた逞しい拳闘士
に一目惚れし、家に戻るとそのまま十日十夜食事も喉を通らず眠ることもできず
恋に身を焦がした、という一篇を、先生はシチリアの思い出―その風景や町並み、
人々の気質―とともに語られました。その瞬間この一節は、先生の言葉によって
紛れもなく息づき始めました。ロンサールをはじめ多くの詩人たちは自らの詩が
時を超えて生き続けることを歌いますが、そのことをこれほど実感した瞬間はあ
りません。
先生の影響から、その後私はロンサールを中心に十六世紀フランス文学を研究
対象として選びました。日々辞書を傍らにテクストと向き合いながら、私もいつ
か詩をあのように語ることができたらと思います。高岡先生の授業は、遥かな目
標として私の心の中に生き続けています。
(大阪大学博士後期課程在学中)
高岡先生の「世界」
廣田 大地
もう4年前になるだろうか、トゥールの古城を見て回ったついでに、ポワチエ
を訪れたことがある。フランスに現存するキリスト教建築物の中で、最も古いと
されるサン・ジャン洗礼堂を目当てにして赴いたのだが、実は理由はそれだけで
はない。この街にかつて高岡先生が留学されていたということを聞き、どんな街
なのか見てみようと思ったのだ。残念ながら、今思い出そうとしても、正直、細
かいことはほとんど覚えていない。SNCF の駅を出て、坂を上ると、丘の上に街
が広がっていたこと。大学らしきものがあって、ここで高岡先生は勉強されてい
たのだろうかと思ったこと。街を包むように流れる川が美しかったこと。それか
ら、季節は確か3月の終わりで、空が青く、のどかな日だったことを覚えている。
旅行から帰ってきてしばらくすると、グルノーブル大学から書類も届き、夏か
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ら始まる一年間の交換留学が、もう間近に迫っていた。期待とそれ以上の不安と
で落ち着きをなくしていたとき、高岡先生が「世界が広がるよ。」と励ましてくだ
さった。何気ない一言だったのかも知れないが、先生の口から出ると何だか有り
難く聞こえてくる。高岡先生の頭の中には、あのポワチエの青空が広がっている
かのようだ。なるほど世界が広がるのか、よし頑張ろう、と思ったものだ。
そういえば、授業中に話されることも、スケールの大きなものが多かった。
ラ・フォンテーヌの授業中に、古代インドの仏教説話や『今昔物語集』との関連
についてお話されると、フランス文学を学び始めたばかりなのに、世界文学を学
ぶんだと心躍らせて、高岡先生のお話に聞き入ったものだ。そのころ先生の授業
にはたまたま受講生が少なく、他の人が欠席したときに何度か一対一で授業を受
ける幸運にも恵まれたのだが、授業の規模の小ささに対して、そこで繰り広げら
れる世界は実に広大なものだった。その世界文学が高岡先生独特の「キツネさん
がね・・・ネズミちゃんがね」といった柔らかな口調で語られると、まるで自分
の家で飼っている猫の話でも聞いているようで、そのギャップに思わずくすりと
微笑んでしまう。しかし、その楽しいお喋りの向うに、深い知識に基づいた果て
しない世界が続いているのを感じ、同時に身を震わせもした。そのような「世界」
に触れられたことは、私にとって忘れられない思い出となっている。
(大阪大学博士前期課程在学中)
1993年8月10日 タイ旅行の途中で家族とともに。
Fly UP