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特 集 - 建築技術支援協会
記憶に残る私の仕事、そしてあの街 「 中野 時衛 官から民への変革期・バブル期の大仕事 」 飯泉 勝夫・吉田 倬郎・中野 時衛・加納 英範・伊藤 誠三 「 紀州路 歴史的建築探訪 」 安部 重孝・菊池 清・筒井 勲・野村 信之・ 石井 嘉昭・貝原 尚夫・ 小鹿 紀英・塚部 彰・松本 信二 「 優良建築長寿命化への期待 6 」 職 後 一 考 「 高度 化 伊藤 誠三 IT社会の世にどう対応するか」 特 集 報 告 1 「 クラシックレコード遍歴」 「 法輪寺三重塔再建裏話 」 阿部 市郎 太田 統士 報 告 2 「 水天宮建替計画工事見学 」 安部 重孝 建築余話 観・想・考 サーツ出来事 美術館を訪れる 「 東京都庭園美術館 」 建築部会報告・戸建住宅部会報告 研究会便り LLB 集合住宅部会報告・マンション管理組合支援事業部便り・ 趣味 COLUMN 「 オーディオの音へのこだわり 」 駒形 信行 サーツカレンダ・サーツ界隈・編集後記 タウンハウス研究会便り・新入会員紹介・会員情報 *1 湯浅伝統建築群保存地区 *2 長保寺 多宝塔前にて *3 浄妙寺 多宝塔 01 0 02 07 09 10 12 15 14 13 16 PSATS Report --- Vol.067 WINTER 「官から民への変革期・バブル期の大仕事」 中野 時衛 1. はじめに 3. 苦労したこと 昭和 60 年に電電公社が民営化して NTT になり、NTT 今考えてみると、外注が期待できないバブル期に、少人 グループの電話局跡地などの遊休地開発を目的として日本 数で慣れない大規模プロジェクトを内部で構造検討と構造 全国の主要都市でのオフィスビル賃貸を主力業務とした 計算し、図面も半分程度は自ら書かざるを得なかったこ 不動産会社が設立された。電話局・鉄塔の設計を主要な とが全て苦労の原因であった。私は当時構造設計の責任 業務としていた電電公社の建築技術者がこの不動産会社 者であり、我々構造担当は外部の意匠事務所と設計を に異動し、慣れない事務所ビル・商業ビル等の設計を手掛 進めることになったが、我々にはない商業・ホテルなど けることになった。今回、ここで述べる基町クレドプロ の経験が豊富な意匠事務所の提案することについていく ジェクトはこの一連の仕事の 1 つであり、今振り返って ことで精一杯であり、毎日が必死であった。数ヶ月に一度 みるに私が一番苦労した思い出深い仕事であった。 の意匠事務所の本拠地である大阪での打合わせが、流儀 2. プロジェクトの概要と設計の経緯 このプロジェクトは、もと電電公社の中国電気通信局 があった広島市中区基町の敷地に、高さ 150m のホテル 棟(地上 35 階、地下2階)と高さ 60m の商業棟(地上 11 階、地下 2 階)の建物建設とその間にそれぞれ形状が 異なる大小 5 基のモール屋根を設置することであった。 この建物の設計は、バブル絶頂期の平成元年に始まり、 建築センターの高層評定を平成 2 年 12 月に取得し、大林 組他5社の JV により平成3年 3 月に着工し、3 年後の平 成 6 年 4 月に竣工した。 設計体制は、当初は日建設計と日総建、総合設備コン サルタントが担当しており、後で NTT ファシリティーズ、 NTT 都市開発が設計監理、構造設計、設備設計に参画す ることになった。 構造関係で大臣認定が必要であったものは、①高さが 60m を超える超高層建物の安全性、②基礎の浮き上がり 防止用に地盤アンカーを使用していること、③モール屋 根で 3,000㎡を超える骨組膜構造を採用していること。 の 3 つであった。 が異なる組織同士のせめぎ合いで疲れるとともに本当に 辛かった。 電電公社のインハウスの設計組織でぬくぬく育ったもの が、世間の風の冷たさを初めて知ったということであろう。 次 に 苦 労 し た こ と が、 広 島 の 地 盤 の 難 し さ で あ る。 太田川デルタの豊富な地下水、透水係数の大きな砂質地 盤、盤膨れしない限界ということで地下の床付け位置を GL-10.55m し て い る。 観 測 地 下 水 位 は GL-2.85m で GL10.55m では底盤に 7.7t/㎡被圧することになるため、地盤 アンカーを浮力対策に採用している。GL-10.55m あたりは、 N 値 10 ~ 20 の砂礫層であり、 直接基礎は無理があるため、 GL-23.5m 以深の N 値 50 以上の砂礫層を支持層とする 場所打拡底コンクリート杭とし、深度 18m までの沖積 砂層の液状化に対してもこれで抵抗させることとした。 モール屋根の設計は、5 基のそれぞれ形状が異なる膜 付き屋根をホテル棟と商業棟の間に掛け渡したもので、 高層棟間の風が吹き抜けになる空間で、非常に風荷重が 大きく、また、ホテル棟と商業棟で振動特性が異なる建 物間に設置するということで、慎重な設計が求められた。 現在ならコンピュータ・ソフトで対応できるかも知れな いが、当時は一基のモール骨組がそれぞれ異なる曲率を もっており形状の把握が難しく、荷重拾いもままならな い状況であった。 当時私は丁度厄年(42 歳)であり、このために困難な 仕事を抱えてしまったと思っていた。阪大の井上豊先生 が部会の主査で評定がスムーズに終了したこと、評定が 終了して意匠事務所に褒められたことなどで、この仕事 を無事やり遂げた達成感が生まれた。 参考文献と写真: 基町クレド -Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/ 「高度 IT 化社会の世にどう対応するか」 伊藤 誠三 1985 年 頃 か ら だ っ た か, 米 国 で デ ジ タ ル デ バ イ ド 情報技術の高度化,端末機の普及で情報の伝達手段の (digital divide)という状況が問題になっていた.情報格 一般化でその内容が思想の拡散,感情の交錯に及んで社 差と訳され,コンピューターやインターネットに対する 会問題の発生に至るようになった.IT 化社会の進展はと 習熟度や活用度の違いによって人の能力に格差が生ずる どまることを知らない変革を予見させている. という現象が進行していた.其の頃,私はホノルルに駐 在し,米国の有力設計事務所とのジョイントベンチャー 最近,人工知能の開発が話題に乗り始めた.ある卓話 で或るプロジェクトを担当していたが,日本では漸くワー 会で,宇宙物理学者,松田卓也氏の「日本から超知能を プロ機が普及し始めた頃で,あまり厳しく考えられてい 作り,シンギュラリティを起こそう」という講演を聴く なかったように思う.米国では IT 技術の活用で労力が軽 機会があった. シンギュラリティというのは松田氏の概念 減されると,合理的にレイオフが実施されるという格差 規定によれば, 「超知能が生れる事であり,それにより, が現実化するのを目の当たりにした.日本でパソコンの 科学技術が爆発的に発展を遂げ,人類社会が大きく変わ 普及が進行し,実際に実務労力が軽減されてもデジタル る時点,又は出来事を言う」とある.又,超知能とは人間 化の投資費用は一般経費に吸収され,雇用に関しては関 の知能をはるかに上回る知能を持つ存在という.そして, 係がなかったように思う.その為,数年たって,人余り PEZY Computing 創業者の斎藤元章氏の「あと 10 年で が大きな負担になり,大量の人員削減が悲観的に行われ 6 リットルに 73 億人の脳が納まる」という予測も紹介さ ることになったのではないかと感じていた. れた.途方もない世界の話であるが,それが 2029 年に 更に四半世紀を経て,世界的に情報化社会は超スピー 始まると予測される第 2 の産業革命で,日本がそれに乗り ドで進展したのであるが,実態はどうであろうか.実際, 遅れると,たちまち発展途上国に堕ちてしまうという話 情報の量的交錯は凄まじいものであるとはいえ,それで だ.国際的レベルで言うと現在,日本の現状は周回遅れ 人の生き方がどのように変わったのだろうか.米国の小学 だそうだ.講演の冒頭で,壇上の小さなラップトップコンピュータ 校では児童に端末機が配られ,指導,試験も画面を通じ に話しかけて,人工知能との会話を実演し, 「講演の終了 て行われ,新知識も検索技術を通じて児童が探し出すと 予定時刻の 10 分前になったら教えてね」 と頼んでいたら, いう例もあると聞いた.児童はもう指先の操作だけにな その通り,その時刻にベルが鳴った.最近のロボットの り,字も書かなくなったし,自分で考えるということを 人工知能のソフトが納まっているらしかった.何とも衝撃 しなくなったという.このように容易に得られる情報を 的な講演で自分は IT 技術に関してずっと寝ぼけていたと うのみにする環境は悲劇的ではないか.日常,知りたい 思い知らされたような講演だった. ことを WEB 上で検索すると,ウイキペディアというのが とはいえ,果たして人工知能は人間の脳を越えられる 真っ先に一般的知識を教えてくれる.しかし,私はこの のか,将棋の世界では既にコンピューターが人に勝った 情報の信頼性は 60%程度ではないかと考えている. というが,それは単に膨大な量のデータを高速に学習, 設備システムの開発も驚くべきものだ.1965 年頃, 処理するという数理上の問題ではないのか.大学卒業以来 構造設計担当者が真空管を使ったオルガンほどの計算機 60 年近く,建築の創造の畑にいる者にとっては全く違和 で構造計算をしていた姿が記憶にあるが,今では卓上で 感のある世界だ.世界中の建物のデータを検索処理して 設定入力するだけでソフトが計算し,出力してくれる. も,最近,大騒ぎになった新国立競技場のザハ案のよう しかし,この安直さが姉歯事件を引き起こすことになっ なものは生まれないだろうし,東京オリンピックのエン た.世界一のコンピューターを目指す開発予算計上で, ブレム騒動は情報検索によって生まれたデザインが糾明 「2番ではいけないんですか」と国会で話題となった事も されたということなのだろう. まだ記憶に新しいが,この設備に1棟のビルの建設を要 見かけの情報,安易な通説の津波に呑み込まれない, した.運転には1時間当たり,数百万円の電気代がかか あくまでも人間性を失わない環境をどう維持してゆくか, るそうで,開発費に比して大活躍の話はあまり聞かない. 対応を真剣に考えねばならない時ではなかろうか. この「京」ももうすでに 4 位に堕ちているそうだ. 1 PSATS Report --- Vol.067 WINTER 優良建築長寿命化への期待 - 6 建築の長寿命化という命題の考察の一環として残したいものはどんなものか,会員諸氏のお考え,ご経験を聞いてきま した.歴史的に重要な意味を持つ建物も現今の実利上の理由から安易に解体される実例が前号でも紹介されました.限ら れた土地の中で急速に高度化する社会構造に解体・更新はやむを得ないこととしなければならないのか.更にいろんな 局面を観察してゆきたいと思います.今号も5氏に御願いしました.(編集担当) 1/2000 の水理模型を作るという仕事がありました。 海底 「社会資本整備」 石井 嘉昭 の地形を忠実に再現してほしいという要望でした。スパ 1.はじめに ンが50m、桁行250mの上屋を鋼管トラスで造りま 少子高齢化の時代社会資本を有効に利 した。 用し将来に残していく努力が求められて 高度成長期に入り庁舎の集約合同化が推進され、各地 います。私は国土交通省の官庁営繕部で国 方都市に合同庁舎が建設されました。 初めて鉄骨鉄筋コン 家機関の建設に従事してきました。 クリート造11階建の合同庁舎の構造設計を担当しま 国の施策に伴って必要になる施設があります。世間で した。地方建設局にも電算機が導入されました。建築研 は「箱物」と呼んでいます。時代の要請に応じて変化し 究所に指導してもらいながら動的解析をしました。 てきた国の施策と、 施策に基づいて建設された官公庁施設 3. 筑波研究学園都市 の建設に如何にかかわってきたかを記したものです。 東京の一極集中を排除して地方に分散させるという 官庁営繕部は、 昭和20 年に誕生した戦災復興院を経て 政府の方針で、昭和38 年9月の閣議了解により建設が 昭和23 年に建設省が設立され営繕局が誕生しました。 決定され、首都圏にある41 の研究機関の移転すること 当時の先輩たちは応急的な庁舎や公務員宿舎米軍の施設 になりました。 実施部隊として昭和48 年に建設省に筑波 や、労働災害病院、県庁舎、などの建築を手がけてきまし 研究学園都市営繕建設本部が設置され本格的に建設が た。昭和28 年には国立国会図書館の公開コンペが実施 進みました。工業技術院の担当になり連日発注業務に されその事務局を担当しました。昭和39 年に実施され 追われていました。 たオリンピックの為の陸上競技場や屋内体育館の建設 昭和55 年3 月までには、予定されていた国の試験研究 に携わった先輩たちの話を興味深く聞きました。 機関、大学等の施設が移転・新設され、都市施設もほぼ 2. 地方建設局での仕事 完成しました。 その後、 都心部の施設整備が進み周辺部の 私が建設省に入った昭和40 年代は、地方の建設局で 工業団地等への民間企業の進出も活発化してきました。 法務出張所や税務署など単独庁舎の設計を自前で実施 現在、 筑波研究学園都市は、 人口約20 万人弱、 国、 民間合わ していました。 係長さん描いた1/100 の図面をも とに1/50 の詳細図を描いていました。階段の詳 細や便所のタイル割りなどT定規の時代です。 「青少年の健全な育成」と言うという文部省の 施策により、全国に14 の少年自然の家が計画さ れ、その第1 号としての国立室戸少年自然の家が 建設省に委任されました。若い職員に設計が任 され皆で楽しんでいました。 経済が発展し、都市に人口が集中するにした がって河川の汚染が進行し、公害問題が注目さ れ て き ま し た。瀬 戸 内 海 の 汚 染 の 原 因 と 解 決 法 を 探 る と い う 通 産 省 の 政 策 で、瀬 戸 内 海 の 2 中央合同庁舎第6号館赤れんが棟 せて約300 に及ぶ研究機関・企業、 約1万人以上の研究者 きたい建物の一つです。 を擁する我が国最大の研究開発拠点と なっています。 次に、もう一軒のとても美味しい鉄板焼きのお店を 4. 中央官街整備計画 ご紹介しましょう。 宮川食鳥鶏卵株式会社から、 築地三丁 昭和50 年代に入ると、 官庁施設も超高層の時代へ突入 目の交差点に向かって、二本目の路地を左に入ると、す しました。通商産業省の庁舎を始め、昭和58 年に完成し ぐに目につく古い板塀の二階建ての建物があります。こ た中央合同庁舎第5 号館で、中央官庁を集中するという ちらのお店も有名ですから、訪れた方もおられることで 中央官衙の目的は概ね達成されました。当時私は構造担 しょう。お店の名前は、 「kurosawa」で、築80年以上の古 当で建築基準法38条の大臣認定の為の委員会に何度 い軸組木造の住宅を改装しています。東日本大震災の直 か出席しました。また最高裁判所に出向して、東京高等・ 後に訪れたときには、被害が出ていてもおかしくないと 地方・簡易裁判所の合同庁舎の設計に参加しました。 思っていましたが、 コップの一つも壊れなかったとのこと 昭和58 年に完成したこの庁舎は,地上19 階,地下3 階建 でした。路地裏の住宅密集地の中にうずもれていますの てで,150 を超える法廷を持ち,延べ床面積は約14 万 で、前面の路地からの入り口部の他は、両サイドが少し 平方メートルという大きな庁舎です。 覗ける程度で、外からは、あまり見えませんが、押見板壁 法務省旧本館は創建時の姿に復原され、平成7 年に に古い和瓦の入母屋屋根がしっとりとした落ち着いた 完成しました。 国の重要文化財に指定された外観は、 霞が 雰囲気を醸し出しています。 関官庁街の景観をさらに魅力的なものとしています。明 内部は、板張りの床と真壁で濃茶を基調とした、落ち 治28 年にエンデとベックマンによって設計され、 竣工し つた雰囲気での美味しい食事となります。黒澤明監督の た司法省はネオバロック様式の庁舎です。平成3 年に 写真が飾ってあったり、監督とのつながりを連想させま 復原改修工事が始められ、平成7 年6 月大臣官舎大食堂 す。一階は、ステンドガラスの入った窓のある洋室と、 (現法務史資料展示室) を含め、 当時の姿に復原されました。 坪庭の見える和室が一体となった食事の空間で、大きな カウンターの席が中心になっています。階段を上がる 言われるコーヒーラウンジなどがあります。 他にも、 掘り 「築地の古い建物と美味しい料理」 貝原 尚夫 炬燵のある座敷もあるようです。この建物も、料理とと もに是非とも残っていってほしいものです。 ご存知の方もおられるかと思いますが、 築地警察署にほど近い築地二丁目の交差 点に、人の目を引き付ける外壁からも緑青 「印象に残る超高層建築」 の吹いた古い3階建ての建物があります。 小鹿 紀英 1階は、鶏肉の加工場と小売カウンター 今を遡る30 数年前、私が鹿島に入社し が、外部からも確認できます。1階は、道路に面する2辺 て配属されたのが武藤研究室であった。以 が、全面ガラス窓とガラスの入ったドアで、道路から見 後引き続き、後継の小堀研究室に籍を置き える限り、耐震要素が見当たりません。 現在に至るが、その間多くの超高層ビルに 木造3階建てと言われていますが、あの東日本大震災 関わってきた。関わり方は様々で、新築時 でも、 被害にあったようには見えなかったので、 鉄骨補強 の地震応答解析を担当したもの、2000 年告示波による されているようにも思われます。小生は、60年以上の 耐震性を検討したもの、昨今話題の長周期地震動対策を 鶏肉嫌いですので、内部に入ったことはありませんが、 施したもの、観測記録に基づきシミュレーション解析を とても目を引くいぶし銀のような建物です。 実施したもの、などであるが、その中から印象に残る 時々、お店の外に多くの方が並んでいますが、水炊き 超高層ビル代表2 例を取り上げて、所感を述べてみたい。 の材料が有名の様ですから、それを買われる方なので 尚、名称は竣工当時のものを用いた。 しょうか。ネット情報では、 「宮川食鳥鶏卵株式会社」で、 1901年の創業の様です。東京都選定歴史的建造物 赤坂プリンスホテル新館 にも認定されているようですので、是非とも残してゆ 1982 年11 月に竣工した赤坂プリンスホテル新館は、 3 PSATS Report --- Vol.067 WINTER など様々な要因はあったにせよ、名建築と言われた建物 がこの世から消失したことに寂しさを感じる。超高層の 保存が極めて困難なことは十分承知の上で、同じく名建 築と謳われたライトの旧帝国ホテル本館のように、せめ て一部だけでも移築して保存するなどの術はなかった のだろうか。 東京都庁舎 1990 年12 月に竣工した都庁第一本庁舎は地上48 階、 第二本庁舎は地上34 階の超高層ビルで、赤プリととも に丹下健三氏の代表作の1 つであり、まさに東京都の シンボルと言える建物である。ノートルダム寺院の模写 だとか、 バベルの塔をもじって「バブルの塔」 と揶揄する 向きもあるが、その形状の美しさ、外観の優美さはまさ に名建築の称号に値する。 構造的にはスーパーストラクチャー方式を採用して おり、各棟8 本のスーパーカラムと高さ方向の要所階に 設けられたスーパービームで大架構を形成し、19.2m の 地上40 階建ての超高層ホテルで、当時鹿島本社のある 無柱空間を実現している。 また、 高さ方向にセットバック 赤坂見附に降り立つと圧倒的な存在感を持って私の目 している第二本庁舎では、スーパービームの配置と部材 に飛び込んできたものだった。それは、霞が関ビルから サイズの工夫によりねじれ変形を抑制している。 連綿と続く超高層の鹿島に入社したんだという実感と 幸いにもこの建物では長周期地震動対策を担当する 誇りを感じる瞬間でもあった。 ことができ、両庁舎のトータル155 か所にオイルダンパ それまでの、超高層は四角い平面形で造るもの、とい を設置することにより、南海トラフ巨大地震時にも防災 う常識を覆す画期的なデザインで、大きくはV 字型、かつ 拠点としての機能を維持できるような制震改修を計画 各ウィングは各客室部分が雁行した平面形を持つこと が特徴である。 緑の中から水晶がそびえたつ、というのが設計者の 丹下健三氏のコンセプトだったそうで、その言葉通り煌 びやかな美しさの中にも構造的機能美を併せ持ち、角度 によっては躍動感を、また正面に立つと優しく包み込ん でくれるような包容力をも感じさせる多面性を持った フォルムでもあった。 構造的には、播繁氏により様々な設計的配慮がなされ ており、 雁行するルームプランに一致するようにXY 直交 2 方向に組まれた4m グリッドのラーメン架構に、武藤 先生開発のスリット壁を巧みに組合せ、水平剛性を確保 するとともに、この平面形状故のねじれ変形を抑制する ために、捩れ剛性を高める工夫もなされていた。 2000 年代に入って、骨組みをそのままモデル化して 立体精算モデルで地震応答解析をする機会に恵まれた が、合理的に設計されたこの建物が十分な耐震性を有し ていることが確認できた。 天井高の低さ、 設備老朽化、 それを受けた集客力の低下 4 した。19.2m の大スパン中央に制震架構を設置すること 本来防水仕様にしたいバルコニー、外廊下の床面からの から、 工事階に当たる部署の方々には一時期場所を明け渡 下階への雨浸入、かぶり不足による鉄筋錆発生などであ していただく必要があり、 都庁内で綿密な部署移動計画を る。次に築20 ~25 年の第2 回目大規模修繕時期は給排 立案されての工事で、 民間のテナントビルでは到底不可能 水管の継手廻りの腐食による更新・更生工事、劣化して であったろうと思われる。 現在改修工事の真只中にあり、 きた屋根防水工事改修などがあり、これまで障害発生毎 2021 年に完了予定であるが、 耐震性がより増強された都 に応急的に小修繕を繰り返し、系統だった大規模修繕を 庁舎は今後何十年間もその雄姿を見続けられるであろう。 実施してこなかったつけがまとまってきたマンションで これが経済論理最優先の民間ビルとの大きな違いで、 ある。次に築35 ~40 年ごろの第3 回目大規模修繕時期。 名建築かどうかが残すべきか否かの判断に微塵も考慮 これまで問題の少なかった給排水管工事、電気設備、玄 されないことは残念でならない。 関扉、サッシ、手すりの取替え、エレベーター、機械式駐 車場、舗装等の外構、耐震化等目白押しで、金額も多大と なる。修繕積立金が不足のまま問題を先送りにして、必 要な工事ができないケースも多々ある。このころからマ 「マンションの一生」 塚部 彰 ンションの将来、居住者自身の将来も考えざるを得ない 最近は毎週どこかでマンションの管理 段階となる。これまでマンションの将来を見据え、前 に関するセミナーが開催されている。数年 もって修繕積立金の値上げ、定期的大規模修繕を実施し 前までは大規模修繕工事の進め方、長期修 てこなかった管理組合はお手上げである。居住者自身の 繕計画といったものが多かったが昨今の 高齢化、お金を使うことへのためらい、時代の生活スタ テーマはどこでも「高齢化」、 「 長寿命化」 イルの変化、マンション陳腐化、賃貸化、空き家増加、理 だ。セミナー、相談会などででる管理組合理事からの声 事のなり手が無いことによる管理組合運営不全を経 は残念ながら大半が目の前に切迫した工事への対応で精 てスラム化へと進む。 いっぱいであり将来に向けた準備のことは眼中にないの 築50 ~60 年以降のマンションへの対処の方法は建て が大半である。優良なマンション長寿命化ヘのカギは若 替え、大規模コンバージョン、土地売却、定期的大規模修 い段階からの管理組合の取り組み方にかかっている。 繕による延命である。あとはスラム化となる。建て替え ここで年齢別によるマンションの課題とその後の一生 は容積率不足による余剰床確保困難、合意形成長期化、 を考えてみる。 ( 表1)築10 ~12 年の第1回目大規模修 居住者高齢化などにより極めて困難なのが現状である。 繕工事の内容は多くが新築時の設計・工事に関する不備 こうしてみると極めて現実な方法は定期的大規模修繕 による修繕である。例を挙げるとタイルの接着力不足、 による優良マンション維持となる。民間マンションの 表1 マンションの一生 5 PSATS Report --- Vol.067 WINTER 最古参は都内にある四谷コープラス(写真1)と言われ 「建築物の価値とコストの把握 ている。建物修繕を繰り返し円滑な管理組合運営が継続 ―優良建築長寿命化への期待―」 松本 信二 されてきた結果であろう。横浜の現役である三井物産ビ ル(写真2)の事例及び鉄筋コンクリート材料のこれま 建築物は何らかの使用目的に対してある での知見から見ると、マンション構造躯体自体は100 年 コストを投じて実現するものである。同じ 大丈夫であろう。設備、建物仕上げ材などを取り替え、 コストを投じるのであれば、寿命が長い 年数を重ねた歴史性に価値感を見出すことができれば ほど経済的である。しかし、いくら寿命が 優良マンション長寿命化は十分可能であると考える。そ 長くても、長寿命化することによって価 してそのカギをにぎるのは活発で継続的な管理組合運営 値が低下していく場合には、経済的と言えないことも であり、さらにその裏には住まいであるマンションを ある。したがって、建築物の価値とコストの関係を十分 終の棲家として思い、地道な管理組合活動を支える若干 に把握しておくことが大切である。 の区分所有者がいるかどうかである。 建築物の価値には、大きく分けて、実用的な価値と 文化的な価値がある。実用的な価値は建築物を使用する ときの直接的な価値であり。各種の生産活動を行った り、建築物の中での生活を効率的・健康的に行なったり することのできる価値である。文化的な価値とは、歴史 的な価値や広い意味でのデザイン的な価値である。実用 的な価値はある程度数量化できるが、文化的な価値は 極めて主観的であり、数量化が難しい。 次に、 コストの問題を考える。 イニシャルコストは比較 的把握しやすいが、維持管理や環境変化などを考慮した 長期的なコストの把握は非常に難しい。維持管理コスト の中でも室内の日常的な温湿度管理や建物外周部の 防水・清掃等は比較的把握しやすいが、大規模な改修や 写真1:四谷コーポラス 竣工昭和31 年 用途変更などになるといろいろな都合により変化する のであらかじめ想定することはほとんど不可能である。 このように考えてくると、建築物の価値の把握もコス トの把握も相当難しいと言わざるを得ない。 しかし、 長寿 命建築の検討が無意味であるということではない。価値 の把握については、数量化しやすい効率・安全・健康・ 環境等の側面をできるだけ明確にし、文化的な価値につ いては、価値の項目を洗い出し、いろいろな意見を整理 しておくことが重要である。コストの把握に関しても、 イニシャルコストや定常的な維持管理コストを的確に 把握すると同時に大規模な用途変更などについてはい 写真2 三井物産横浜ビル:明治43 年竣工 ろいろな可能性を検討しておく必要がある。 優良建築というのは単なる長寿命建築ではなく、長期 的に見て、建築物の価値がコスト投入にふさわしい建 築である。このような観点から、実施例のデータベース を整備し少しでも定量的に判断できるようにしていき たい。 6 「紀州路歴史的建造物見学旅行」 安部 重孝、他参加者 実施日:平成 27 年 10 月 12,13 日 参加者:安部重孝,飯泉勝夫,伊藤誠三,金森捷三郎,加納英範,菊池 清,小藤捷吾, 菅澤光裕,筒井 勲,中野時衛,野村信之,正岡智子,吉田倬郎 の 13 名 行 程:12 日 JR 御坊駅 12:00 集合,直ちにチャーターのマイクロバスで全行程を巡り,13 日和歌山駅発くろしお 28 号,新幹線のぞみ 50 号で帰途に,新大阪にて解散した. 訪問した歴史的建造物は以下の通りです. 第 1 日目:道成寺,法蔵寺(鐘楼),広八幡神社(本殿,楼門),湯浅町伝統建造物群保存地区,浄妙寺(本堂,多宝塔), 長保寺(大門,本堂,多宝塔),善福院(釈迦堂),旧谷山家住宅・旧柳川家・旧松村家住宅 第2日目:丹生都比売神社,奥の院,金剛峯寺(大門,不動堂),慈尊院(多宝塔),金剛三昧院(多宝塔), 丹生官省符神社(本殿),宝来山神社,粉河寺,根来寺(大門,多宝塔,不動堂),郭百甫医院郭家住宅 以下に参加者に御願いした感想文を掲載します.掲載写真は訪問した建物のうち,多宝塔を中心にしました. (順不同). ◯安部重孝: 私にとって,紀伊徳川の和歌山・高野山は ◯野村信之 「丹生都比売神社」 訪ねてみたいところでした.道成寺は天台宗の古刹で,西国 二日目も好天と交通事情に恵まれ,順調に最初の訪問地に 巡礼五番であり,仁王門,三重塔,本堂はそれぞれ,奈良時代 到着できた. 空海を高野山に導いたとの高野御子大神等4柱 の中門, 塔, 講堂の跡に建てられ, 本堂は重文指定がされてい をそれぞれに祀るため本殿は春日造り4棟から成っていた. る. 木造千手観音立像・木造菩薩立像2 躯(伝日光・月光菩薩) 昨年正遷宮(総合的に行う必要な修理の竣工に伴う神事) が は国宝とのことである. 行われ, 新しい朱色が朝の光に映えていた. 菅澤さんから, 今回は多くの多宝塔がみられ通となる良い機会 であるとの説明があり, 通になれるのかと期待を膨らませた. 湯浅町湯浅伝統的建造物保存地区は熊野三山へ続く宿場町と して栄え, 我が国の醤油発祥の地ともいわれ, 醤油醸造業関連 の町屋や土蔵が良く残され,全国初の醤油の醸造町として, 平成18 年, 重要伝統的建築物保存地区として選定されている. ◯飯泉勝夫 「伝統的建築物探訪記」 今回の探訪の高野山は二度目で10 年前の2005 年2 月に宿坊 に泊まり精進料理をいただき朝のお勤めに参加し, 雪が積も り寒い中を奥の院に参拝した.今回は天気も良くもみじは 紅葉しており, 見学は根本大塔と御影堂と奥之院での中の橋 から一の橋まで数多くの墓碑を見て, 国宝の金剛三昧院多宝 ◯菊池 清 「PSATS 研修旅行に参加して」 塔を見学した. 高野山に再訪できた事は良かったが, ここは広 初めてPSATS の研修旅行に参加しました. 菅沢さんの該博な く短時間では見学しきれず泊まりがけで見学したいと思った. 知識にただただ感嘆するとともに,これから,遅ればせなが ら, 日本の建築の歴史を勉強しようというモチベーションを 与えてくれた貴重な研修旅行でした. ◯吉田倬郎 「やぶにらみ報告」 和歌山は,奥深い.和歌山市,高野山,そして鯨で知られてい る大地を中心とする, 極めて限られたスポットを訪れたこと ◯筒井 勲 「新品同様 ピッカピカ」 はあっても, 大半は私にとって未知の地域であった. この度, 今回の歴史的建造物探訪の旅は, 古色蒼然たる寺と豪華絢爛 御坊から高野山にかけて,しらみつぶしに文化財建造物を たる神社を巡る旅であった.広八幡神社,丹生都比売神社, 見て回るこの度の研修には,大きな期待を持っていた.天候 丹生官省符神社など神社は伊勢神宮の遷宮の伝統からも にも恵まれ,期待通り,あるいは,期待以上の,実りある研修 伺えるように, 出来るだけ手を加え新品同様に保つ習いであ ができ, ありがたい限りである. それらの一端を下記に記す. ると感じた. 日光の東照宮, 平安神宮なども豪華絢爛であり, ・浅町重要伝統家希建造物群保存地区 歴史の長さを感じさせる古色蒼然たる貫禄が少ないと感じ みそ蔵を中心とする街並みが,独特のたたずまいとともに ていたが常に建立された当時の心意気を感じさせるもので よく保存されている. 軒下の雨よけなど, 多雨地域の特徴か. あるとも言える. 丹生都比売神社は弘法大師との結びつきが 入口周りのしつらえも, きめ細かい. 強く空海を高野山に導いた高野御子大神がまつられ当社の ・丹生都比売神社 周囲に数多くの高野山の堂塔が作られていた. 当社の駐車場 これを「にうつひめじんじゃ」と読むのは難しい.和歌山 で多数の僧侶を見かけた.何の目的かはわからないが不 からバスで,紀ノ川に沿って, 1 時間ほど上り,さらに20 分 思議な光景であった.神仏混淆の歴史は古く昔から神社と ほど山を登ったところにある.現存する本殿は,室町時代に お寺は,郷は神社,家族はお寺と宗教的にも共存共栄の関係 復興され,朱塗りに彫刻と彩色を施した壮麗なもので,一間 にあったのではないか.高野山の多宝塔,根本大塔も神社の 社春日造では日本一の規模を誇り, 楼門とともに重要文化財 如く賑々しい光彩を放っている. に指定されている.参道にある太鼓橋がよく知られている 7 PSATS Report --- Vol.067 WINTER が,あいにくと修理中. 10 月26 日が,次男の二人目, 29 日が 等を兼ね右側に応接室が付属する. 外観はバルコニーを設け 長男の第1 子の出産予定日で, 安産のお守りを2 つ購入. つい た正面のみモルタル塗り, 他は下見板張りとする独特の意匠 でに娘の子にも,お守りを購入. 2 人の孫は後日無事誕生. で, 広く親しまれている. 実は, 私の和歌山出身の友人の友人 お陰様で, 母子とも健やか. 宅である. かつて訪問されたこともあるそうだが, 今は使って ・金剛峰寺不動堂 いなくて, 中に入るのが躊躇われるようなものだ, とのこと. 実は, ご縁があって30 年ほど前から国宝建造物を見る会とや せっかく登録された文化財の活用について, 何か手立てはな らに入っている.ただいま国宝建造物の数は,先日の松江城 いものか, と思わないわけにはいかないが, いかがなものか. を加えると, 216 件である.実は,高野山にある,これと多宝 塔は, 学生時代に見ている記憶はあるが物的イメージが判然 としていないため, 見た数には入れてなかった. この度, 念願 がかない, まだ見ていないものの数がやっと1 ケタになった. もっとも, 全部見られている菅澤さんには及ぶべくもないが. ・金剛三昧院多宝塔 この度の研修では,太塔も含め,多宝塔を随分見ることが できた.和歌山県北部,あるいは紀の川沿いに多宝塔が多数 ◯中野時衛 「粉河寺(こかわでら) 」 粉河寺は私の義理の父母の岐阜の実家に札が貼ってあると ころから,どこのお寺か気になっていました.聞くところに よると, 昔, 粉河寺を訪ねた時に, 改修工事中で瓦を寄進した お礼で毎年送ってくるとのことでした.本堂が巨大である ことと,石組みの庭園が印象的であった.大門そばのお土産 屋で買った大きな甘柿が名物だそうです. あることを,改めて知ったというべきか.中でもこの多宝塔 は, 優美さにおいて秀逸. ・宝来山神社本殿 続いて訪問する粉川寺や根来寺に比べると小ぶりで地味で あるが, 本殿は, 春日造りの4棟が横並びの両側に, 更に平入り の社があるという, 独特の構え. 修理中で, 前面からはうまく 写真が撮れず, 苦心の撮影. ・郭百甫医院郭家住宅 代々紀州藩の御典医であった郭家が,明治になって自宅に 建てたコロニアルスタイルの洋風建築. 1階は, 薬局や待合室 粉河寺本堂 金剛峰寺不動堂 善福院 釈迦堂( 国宝) 8 粉河寺石庭 東急インにて会食 ◯加納英範 「旅を終えて」 塔身がどう組み合わされているのか, 中に入ることのできた 今回2 度目の幹事となり, 旅行先の選定を春先より取り掛かっ 多宝塔もあって, よく理解でき, 有意義であった. た. 国宝となると和歌山県内では7点しかないが, 重文や近代 建築となると100 点を優に超える数となり, 道順を考慮しな がら内容を吟味しての選定には今回も苦慮した.二日間の 工程で30 棟程の建物を見学したが,平均年齢70.1 歳は最後 まで元気. バスが辿りつかないと, 希望者だけでもと言うのに 全員が目的地を探して走り回った. 他人が見たら不思議な集 団であろう.他の旅では体験できない,この充実した旅を, まだ参加された事のない方々にも味わってもらいたいものだ. ◯伊藤誠三「多宝塔ダイジェスト」 見学コース選択・設定の菅沢さん,加納さんの肝いりで沢山 の多宝塔を一挙に見ることができた. 四角い下重構造と円い 金剛峰寺 多宝塔 慈尊院 多宝塔 金剛三昧院 多宝塔 根来寺 多宝塔 「水天宮建替計画工事見学」 安部 重孝 江戸時代より、安産・子授かりの神として信仰されてき 明を受けた後、仕上げ中の現場見学を行った。建物は免震 た水天宮の建替計画工事を、昨年末、2015 年 12 月 4 日 装置の上にRC造地下 1 階の駐車場の上に、1 階建の社殿、 に、神田先生はじめサーツ会員 12 名で見学した。木造もあ 待合及び 6 階建ての参集殿と 3 棟が地上階を形成し、免震 り、免震もあるこの工事に興味があるとの筒井さんの提案 の効果を発揮している。社殿の構造はRC造であるが仕上 で,今年初めの竣工予定の工事中の見学であった。竹中工 げは木造で神殿の形状となっている。竣工後, 改めて参詣し、 務店設計施工の工事で、作業所会議室で設計・工事の説 次号の会誌には写真や資料も紹介する予定である。 工事作業所会議室にて設計・工事説明 工事作業所外観 9 PSATS Report --- Vol.067 WINTER 「法輪寺三重塔再建裏話」 太田 統士 はじめに 清水建設が元請けを買って出て工事が再開される事に 我が国最古の塔であった国宝法輪寺三重塔は、1944 年 なった。 とはいえ竹島/西岡の対立はより激しくなり、 文化 落雷により焼失した。 現在の塔は前住職井上慶覚師により 庁や建設委員会も明確な結論が出せず、結局は最低限の 1965 年( 昭40) 頃から再建計画が始められたが、用材が 鉄骨使用と云う曖昧なことで工事は1975 年( 昭50 年)3 月 確保された段階で1969 年( 昭44) 住職の逝去により資金 に完成した。 難で工事がストップしていた。 後に幸田 文女史らの貢献 憤懣やるかたない竹島教授は同年4 月9 日の毎日新聞 により1975 年( 昭50) に落慶したもので、これは法輪寺 夕刊に『「法輪寺三重塔設計と施工」秘術に抑えられた 即幸田 文としてよく知られている話である。ここでの 将来計画』と題して自説を発表、西岡棟梁を批判する非常 裏話は再建法輪寺三重塔の設計と工事にまつわる建築論 手段に出た。 争である。 飛鳥様式に基づく三重塔の復元設計は、我が師である 竹島教授の意見 竹島卓一教授の手になるものである。因みに竹島教授は 要旨は、明治30 年大の解体修理の際の実測図の書き 伊藤忠太先生の弟子で、 東洋文化研究所を経て名古屋工大 込み寸法が意外に少なかったことや、江戸時代の2回の 教授、 兼法隆寺国宝保存工事事務所所長として赴任。 修理で創建当時の姿が変えられていたと考えられること 後に中国宋時代の『営造法式の研究』により第36 回日 や、同時代の法隆寺や法起寺の塔など、多年の建築技法史 本学士院恩賜賞授与されている中国古代建築史の学究で から飛鳥様式に復元設計図を作成した。更にこの再建が ある。 昭和の時代の新築であることを重視、古代の寺院建築の 小生らは3年生の夏休に、法隆寺の工事事務所の片隅 構法的欠陥を補う意味と、 超高度な技能者でなくても施工 で解体部材の保存図作成( 美濃紙に烏口でトレース) の でき、更に遠い未来、木材や技能者不足でも修復可能なよ アルバイト。 「そんなもん描いただけでお寺解ったつもり うにとの配慮で、 鋼材補強を取り入れ設計した。 これに対し やったらあきまへんで」などと、通りかかった西岡( 常一) 西岡棟梁は「鉄材の補強なんて屁のようなもの。オレが 棟梁に皮肉られたこともあった。 つくれば木だけで千年でも二千年でももつ。法隆寺は現 残念ながら卒論は、 「 東京・名古屋の百貨店の昇降設備 に千三百年も保ってきたではないか」と。確かにお説のと 機能計画論」 となり3 名で調査、 執筆となった。 おりであるが、創建当時の姿で保ってきたわけで決して ない。 軒下に支柱を入れたり、 内部に隙間もないほどに補強 法輪寺大論争 剤を詰め込み、修理に修理を重ねてようやく保たせてき 三重塔再建を悲願としていた先代住職慶覚師は、浄財 たのである。 小手先の技術や伝統的な精神力だけだは対抗 を集めるためにも設計図が必要だと再建図を竹島教授に し得るもので無いことを悟るべきだ。 依頼。西岡( 常一) 棟梁の腕に信を置きながらも、古代の構 これにたいして西岡棟梁は、 『 木のいのち 法輪寺の 造的欠陥を補う意味と、将来の修復に配慮して鋼材補強 三重塔の再建と、竹島博士の所論の答えて』と題して4 月 を取り入れ、 近代的学術・技術の粋を設計に盛り込んだ。 15 日の同紙夕刊で反論。 ところがこの鋼材補強が西山棟梁の拒否に遭う。西岡 10 棟梁は代々伝承してきた法隆寺大工の技と、千年に耐え 西岡棟梁の反論 るヒノキの可能性の信奉者で、何故鉄を使わねばならな 概要は、 形だけでなく、 内部も飛鳥の工人のやったとおり いか。 「このままの設計では棟梁を降りる」とゴネ、関係者 に作りたい。鉄材を使って構造を変えるのは飛鳥人への を困らせることになったが、住職の取りなしでともかく 冒涜であり、復元に、新しいさかしら知識は捨てて、真の 1967 年( 昭42) 着工に至った。 しかし前述のように1969 年 飛鳥の魂に近寄るべきだ。 ( 昭44) に先代住職が亡くなり、資金難も加わりしばらく なるほど鉄は力が強い。しかしヒノキは生命力が強く、 工事が中断された形となった。 長い。 これは長年の経験から得た信念である。 法隆寺は慶長 後を継いだ二男の新住職の康世師も先代住職の悲願を 時代(1600 年代) の修理で鋳鉄のカスガイが使われ、法起 受け継ぎ、全国行脚などで資金集めに奔走されているの 寺の明治の修復でも鉄のボルトが使われていた。しかし を幸田 文女史が見て、復元に向け献身的な応援をされ、 サビがひどくその周りのヒノキも腐らせている。 鉄の生命 がサビで滅びるとともに建物全体の生命も終わらせてし まう。科学的でないというかも知れないが、私たち宮大工 は「千年の樹齢の木は千年保つ」 と云う。 木材の真の強さ、尊さをご存じない先生方が、鉄を強く 信頼することに私たちは不安を抱くのである。 飛鳥の工法 にたとえ欠陥があっても、むしろそのままに伝えるべき べきだ、 それがほんとうの復元ではないか。 以上が世にいう大論争である。法輪寺三重塔と云えば とかくに幸田 文女史と西岡棟だけがクローズアップ され、以上の秘話は忘れ去られようとしている。小生等は この経緯をつぶさに見て来たし、後年竹島教授の邂逅談 も伺っていた。 結論ではないが、元請けであった清水建設の工事主任、 八木悠久夫氏の述懐を引用させていただく。 「20 世紀の技術を駆使して古代飛鳥建築の理想を追求・ 再現しようとした竹島先生と、宮大工として代々伝承し てきた技術をもって再建を望む西岡棟梁の間には激しい 論争がありました。それはお二人の塔を愛する信念から 来るものです。何百年か後にその時代の人たちが塔を評 価してくださる。 それがわれわれ技術屋の宿命なのです」 西岡棟梁は小原二郎先生の「法隆寺を支えた木」 (1978 年NHK 出版協会) に取り上げられて以来、数々のマスコミ に登場しているが、竹島ばかりでなく、藤島亥治郎先生や 田村治郎先生とも激しくやり合っている。 2008 年、法輪寺を再び訪れた折りに、堂守をなさって いる先代住職のお嬢さんと竹島教授の事など懐かしく お話できた。 法輪寺三重塔(2008) 11 PSATS Report --- Vol.067 WINTER ・・・阿部 市郎 「クラシックレコード遍歴」 今年は長年の懸案だった蔵書とクラ 復帰したローゼンストック指揮第 1 回演奏会はドヴォ シックレコードの整理をしようと、夏前 ルザーク交響曲第 6 番「新世界」で大感激したが、共に から決意したが、何しろ 60 年余買いため 聴きに行った学友たちは全て他界している。 た本と 2000 枚近いLPレコードで、中に LPレコードの時代になって、弟がキングレコード は買ったことで安心して一度しか針を降 の録音技師をしていた関係で、ロンドンレコードが手に ろしていないレコードもあるが、いざ手放すとなると 入りやすいので、一気にコレクションが広がり、壮年 一枚一枚手に取りながら、買ったときの情景が思い出さ 時はフルオーケストラで交響曲はモツアルト・ベートー れてくる始末で、リストをつくるのにも意外に手間取って ベン、シューベルト、ドヴォルザーク、チャイコフス しまった。しかしその作業が気持ちの区切りにはなった。 キー、シベリウス、マラー、ブルックナーとどんどん 私のレーコード歴は家にあった手巻きのビクターの 増え、オペラ・オペレッタの名曲と言われるものも 蓄音機で小学校の高学年頃から、ドナウ川のさざ波・ ほぼ網羅し、ショパンのピアノ全集・ビィヴァルディ、 波濤を越えて・序曲「軽騎兵」・平岡養一の木琴などの コレルリのヴァイオリン等の器楽曲や室内楽曲も増え SPレコードに始まり、中学に入ってからは「未完成 てきた。そして、歳と共にバロック音楽に惹かれるよ 交響曲」「交響曲第 5 番運命」ウインナワルツの数々等 うになり、70 を過ぎてからはもっぱらバッハの無伴奏 を友人と貸し借りしながら鑑賞会をし、日比谷公会堂 ヴァイオリン曲やマタイ受難曲、フオーレのレクイエム の新交響楽団の定期演奏会でリムスキー・コルサコフ「シ など独り静かに書斎で聞くような心境になってきたが、 エラザード」(敵性音楽ではなかったので演奏出来た) 読書をするにも音楽を鑑賞するにもスタミナが必要で、 を聴きに行ったその夜、空襲で我が家が焼けて、朝焼 趣味を楽しむのも我が身が健康でないと,と痛感させ け跡で防空壕の中に入れたレコードコレクションの積 られている。今は買い直したCDで愛聴曲を聴きなが み重なった灰を見るという思いもした。戦後の楽壇に らこの原稿を書いている。 「再改定版第 2 版 あなたが知りたいマンションの耐震性」の刊行 「再改定版第 2 版 あなたが知りたいマンションの耐震性」を , 2 0 1 3 年 ( 平 成 2 5 年 ) 11 月 25 日の耐震 改修促進法の施行,地震保険制度の改訂等を含み,改訂を行いました.シンポジウム,講演会での利用,ホームページ からの購入依頼を期待しています. (改訂版執筆者:和田章,安部重孝,岡本直,子鹿紀英,丸山和郎) 12 「東京都庭園美術館」 東京都港区白金台5丁目21−9 JR 目黒駅,東京メトロ,南北線白銀台駅から約 10 分 に展示され,落ち着いてみることができた. のところ,港区白金台にある.公共の施設としては少々 改めて内装のアール・デコ様式とされる内装の解説に 行きにくいが,白金御料地と呼ばれた敷地にある旧朝香 よると,「主要な室の内装基本設計はフランスのインテ 宮邸である.旧邸敷地の大きな部分が旧朝香国立自然教 リアデザイナー,アンリ・ラパンが担当している。また 育園として分割されている.宮邸建物は 1993 年東京都 正面玄関にある女神像のガラスレリーフや大客室のシャ の有形文化財に指定され,一般公開された.欧州留学中 ンデリアなどはフランスの宝飾デザイナー,ガラス工芸 の朝香宮鳩彦王は 1925 年にパリ万国博覧会を見学して, 家でもあったルネ・ラリックの作品である」とある.建物 ラパンやラリックの作品に接して感銘を受け, 「アール 本体の設計は宮内省内匠寮(担当技師は権藤要吉)だそ デコの館」と称されるこの邸宅を建てるきっかけとなった うだが,外観に何かを求めるというのは無理というもの という. だろう. 私が初めてこの建物を訪れたのは初公開の頃だったと オープン以降,ここでは接客用の広間を利用した茶菓 思う.アール・デコ内装が残された旧宮邸という評価だっ 付きのサロンコンサートがしばしば行われているという たが,私は 1972 年から数年,ブリュッセルに滞在して 案内があったが,この建物にふさわしい催しと言えよう. いて,ビクトル・オルタ邸など,アールヌーボー時代の 裏側に建てられていた元東京迎賓館が中規模ホールの 本物に馴染んでいた所為もあり,何とも淋しい気分がした 映像展示室,売店,管理棟新館として改築された.今後, ことを思い出す.その後,東京都庭園美術館として改装, 美術館として機能を発揮するに違いない. 増築で美術館機能の整備のため,長らく閉館されていた この頃,盛んに建てられた西洋館は主に接客用で, が, 2014 年 11 月 22 日よりリニューアル開館したと知っ 私的には日本家屋も同時に建てられることが多かったら て出かけたのだった. 「フランス国立ケ・ブランリ美術 しい.この朝香宮もその例に漏れず,非公開ながら庭園 館蔵 マスク展」が企画されていた.建物自体が大規模 の奥まったところに残されている.正面玄関の一対の とはいえ,住宅であるから,各室も小さく展示物もその 青銅製狛犬,庭園の青銅燈籠も違和感のある付属物だが, 殆どが小品に限られる.世界各地の仮面が,旧居室の各室 西洋館建設の背景を知る資料ともいえる.(伊藤誠三) 正面玄関 庭園側立面 13 音楽の音への興味は、いつ頃から芽生えたのだろう。小学校の時は、音楽の授業も含 めて、音楽への興味は湧かなかった。 中学に入って、同級生に音楽の好きな友達がいた。いつも交響曲や器楽曲の話ばか りだが、彼の話を聞いても、格別音楽に興味がわかなかった。家に素晴らしいオーデイ オ装置があるらしく、 しきりに自宅に聴きに来ないかと誘いを受けたが、いつも断ってい た。だが、あまりしつこく言うので、1回行けばもう誘わなくなるだろうと思って、彼の家 に行った。かなりの金持ちらしく、外車が家の横にとめてあった。オーデイオルームと思 われる部屋に通された。見た事のないとても大きなスピーカーがあった。その印象が強 かったので、後で調べたら、放送局がモニター用に使う有名なスピーカーだった。何か 聞きたい曲があるかというから、 ドボルザークの『新世界』 を聞かしてもらった。 その音が 衝撃的だった。オーデイオの機械で、 こんなに素晴らしい音が出る事を、初めて知った。 その時から、 より良い音を求める旅が始まった。 高校生になって、冷蔵用のアイスボックスを、ある商店から譲り受け、秋葉原でコーラ ル社のスピーカーを買ってきてスピーカーボックスを作った。安いアンプとレコードプ レーヤーを買って鳴らしたら、一応それなりの音が出た。勿論満足のゆく音ではなかっ たが、 それでクラッシックをずっと聴いていた。 会社に入社した時、赴任したのは大阪だった。自宅が東京なので大阪勤務は不本意 だった。秋葉原には通えなくなると、がっかりしていたが、大阪には、秋葉原と同じような 日本橋電気街があった。そこのオーデイオ専門店に、足繁く通い、 レコードプレーヤー アンプ チューナー スピーカーを総額約30万円で買った。当時、私の初任給が、確 か約4万5千円しかなかったので、大半をローンで購入した。 スピーカーは、色々試聴し欲しいと思ったスピーカーは沢山あったが、予算の関係も あってドイツのブラウン社製にした。一般的には電気髭剃器で有名な会社ですが。 スピーカーはそれ程大きくないが、ピアノ・ヴァイオリン・アンサンブルの音がとてもき れいだった。 これをドイツ的な音というかもしれない。 大阪では、会社の独身寮で5年過ごした。寮はかなり多くの人が入居していて、私と同 じ様に、オーデイオに凝る人がいて、皆が競い合うように自分のオーデイオをグレード アップしていった。すごいオーデイオを買ったという話を聞いたので、その人の部屋に 聴かせてもらいにいった。見た瞬間、まずその製品の高級さに、びっくりした。殆どの機 器がハイエンド製品だった。 自分が好きな曲ですと言って、かけてくれたのが、小柳ルミ子 の『瀬戸の花嫁』だった。小柳ルミ子の曲にこんなに高価なオーデイオ機器が必要なの かなとは思ったが、音は凄かった。 スピーカーの後ろで、 まさに小柳ルミ子が本当に歌っ ている様な臨場感があった。 今振り返るとオーデイオの歴史は、技術変革の歴史であった。音源としては、 レコード のSP,LP,オープンリールテープ,カセットテープ、CD、MD、SACD、ハイレゾファ イル等それらは、音の再現性の進歩の証だった。 ただレコードとCDとの比較では、100%CDが良いとは言えない所があった。録 音の良いレコードを高級なカートリッジで聞いた時に、CDより音のリアリテイがあっ たからだ。音源がレコードの時代は、音の再現性のパーフオーマンスに大きく影響する のは、 スピーカー、 レコードプレーヤーのカートリッジ、 アンプの順で、現在のオーデイオ ではスピーカー、 アンプ、CDプレーヤーの順だと思う。 ずっとオーデイオに対する興味は尽きなかった。秋葉原に通い時代の変遷と共に機器 も買い替えを繰り返し、現在所有している機器は買い替えの4代目にあたり、CDプレー ヤー(マランツ) アンプ(ラックスマン) スピーカー(ウイーン アコーステック)それぞれ の製作会社のフラッグシップモデルで構成されている。映画が好きなので、天吊りの プロジェクター、100インチスクリーン、5.1チャンネル専用アンプ、5か所の天井埋 込みスピーカー、低音専用据置スピーカーも購入した。 これで自分が求める音の環境は全 部完成した。 ようやく自分が求めていた最高の音が聴こえるようになったと喜んでいた。 ところが思わぬ所に、 それを阻む伏兵がいた。 それは、 加齢に伴う耳の聴音機能能力の低下だった。 年齢と共に高い周波数が段々聴こ えなくなる。 今まで気づかなかったが、 高音が前よりクリアに聞こえていないように思う。 だからもう新しい機器を買っても意味がない。 これからは音ばかりにこだわらず、音楽 そのものをおおらかに受け入れて、楽しんで行きたいと思う。