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見知らぬ観客37
英国はシャーロック・ホームズ(アーサー・コナン・ドイル原作)の昔から探偵小説の伝統があ り、その流れはアガサ・クリスティを経て今日まで脈々と受け継がれて来た。そうして、ミステリ小 説の分岐としてスパイ小説が誕生し、こちらも英国のお家芸となっている。老大国ながら英国には秘 密情報部という諜報機関が存在し、今ではアメリカのCIAの影に隠れてしまっているが、その諜報 能力は決してCIAにも劣らぬ実力を有している。なお、MI6(エムアイシックスと読む。ミリタ リ・インテリジェンス第6部門の略)といわれるのはその中で国外情報を管轄する諜報組織である。 英国を代表する純文学作家のひとりサマセット・モームは若い時分に秘密情報部に所属したことがあ り、その体験をもとに書いたのが「アシェンデン」というスパイ小説であることはよく知られてい る。それから、やはり秘密情報部にいたことがあるスパイ小説作家のイアン・フレミングが創造した キャラクターが007ことジェームズ・ボンドであり、MI6の諜報員という設定だ。このほか、英 国の国民的作家だったグレアム・グリーン、スパイ小説の巨匠ジョン・ル・カレ(写真上)もまた秘 密情報部に所属した経験があるという。一般的に秘密情報部はヒーローとして描かれることが多いの に比べて、CIAは悪役となることが多い。アメリカ映画の定石としてはCIA=悪、FBI=正義というイメージが昔から ある。 昨年末に浜大津のアレックス・シネマで見た「誰よりも狙われた男」(13年、英米独合作、アントン・コルベイン監督)は ル・カレの原作を映画化したスパイ映画の秀作である。ル・カレといえば同じく近年映画化された作品に「ティンカー、テイ ラー、ソルジャー、スパイ」という名作があり、わが国では「裏切りのサーカス」(11年、英仏独合作、トマス・アルフレッド ソン監督)というわかりにくい邦題で封切られた。原作が「ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ」というタイトルで日 本で出版されたのが76年という昔であることから、もはや世間に通じないということだろうか、映画の邦題を変えてしまった ようだが、それにしてももう少しほかに無かったのだろうか。MI6を俗に「サーカス」と呼ぶらしいが、そんなことはスパ イものに精通している人にしかわからない符牒であり、ふつうサーカスといえば空中ブランコなどを想像してしまう。それな ら、もとのタイトルのほうがよほどわかりやすいように思う。 「誰よりも狙われた男」は原題を尊重したタイトルであり、同題で翻訳出版されたのは一昨年末のことである。物語はMI 6ではなく、ドイツの諜報機関を扱っている。舞台がドイツ第二の都市ハンブルグであり、とくに最近ではイスラム過激派の 暗躍する土地となっているらしい。昨年の2月に急逝したアメリカの性格俳優フィリップ・シーモア・ホフマン(写真下、 「カポーティ」でアカデミー最優秀主演男優賞を受賞時)がドイツの諜報機関のテロ対策班長を演じる。恐らく遺作だと思う が、主演オスカーものの名演だった。 国際指名手配を受けるイスラム過激派のチェチェン人の若者がハンブルグに潜入したという情報を得たテロ対策班では、目 的が何かを探るためにしばらく泳がせようと考える。ところが、諜報機関の別チームは指名手配犯を野放しにすることはでき ないと身柄拘束に動く。テロ対策班とこのチームが激しく対立してつばぜり合いを演じているところへ、CIAのベルリン支 局が乗り出してくる。女性支局長はテロ対策班に接近して連携しようとするが、班長はかつて中東で の作戦にCIAの邪魔が入って部下を死なせるという失態を経験していて、それがトラウマとなりC IAを容易に信じようとしない(これが結末の重要な伏線となる)。 さて、テロ対策班は、例の若者がロシアの将校だった父親からハンブルグの銀行を介して莫大な遺 産を相続するためにやって来たことを知る。この父親は不正な手口で蓄財していたらしく、若者がロ シア政府から追われていることもわかる。それで、ハンブルグでは人権派の女性弁護士がかれを匿っ ているのだ。若者は父の遺産をイスラムのために役立てたいと考えていて寄贈先を探している。 いっぽうで、テロ対策班はハンブルグに滞在する高名なイスラム学者が中東の海運会社をフロント企 業として多額のテロ資金の供給に関与しているという情報をつかむ。そこで、班長は一計を案じる。 若者を説得してイスラム学者に遺産を寄贈させ、この学者が海運会社に送金するところで尻尾をつか まえようと画策するのだ。そこで、班長は弁護士を拉致して脅したりすかしたりしながら、協力して もらえれば若者の身柄の安全とドイツ滞在の許可を保障すると申し出る。弁護士もそれならと、若者 を口説いてこの囮作戦に協力させるのだ。 班長はベルリンに赴いて政府高官にこの作戦の承認を乞うのだが、この打合せに同席した別チームのリーダーはあくまでテ ロリストの身柄確保が第一だと主張して譲らない。ところが、同じく同席していたCIAの支局長が班長の肩をもって援護し たものだから形勢が変わり、高官も囮作戦を渋々了承する。 かくして、囮作戦が実行に移され、ハンブルグの銀行で若者と弁護士、寄贈を受けるイスラム学者が一同に会して手続きに 着手する。そうして、学者はリストの最後に例の海運会社を追加記載し、銀行に送金を依頼するのである。外で秘かに待機す るテロ対策班はそれを確認すると、いよいよ学者の身柄確保に動く。晴れて自由となった若者と弁護士らに見送られて、学者 は銀行の玄関から班長が運転手に変装したタクシーに乗り込む。というところで、とんでもない結末が待ち構えているのだ。 これ以上書くと未見のかたに差し障りがあるので書かないが、衝撃のラストには唖然とした。ホフマンが顔を紅潮させ地団駄 を踏むのである。 ホフマン以外の俳優陣もなかなか個性派揃いで楽しめた。ロビン・ライトという女優が知的でいかにもやり手そうなCIA の支局長を演じるのだが、颯爽として動じぬ立ち居振る舞いが素晴らしく、演技巧者のホフマンを向こうに回してよく健闘し た。この女優を改めて見直してしまった。それから、ハンブルグの銀行家に扮したウィレム・デフォーは、失礼ながらとても 銀行家というイメージではない人だが、見事にはまっているのには感心した。さすが、プロの俳優というかハリウッドスター である。(2015年1月1日)