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悔い改めて帰れ - えりにか・織田 昭・聖書講解ノート

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悔い改めて帰れ - えりにか・織田 昭・聖書講解ノート
悔い改めて帰れ
五旬祭の福音 10
悔い改めて帰れ
3:11-19
「悔いる」と「改める」の二字をつないで作った、日本語の「悔い改める」
は、聖書の思想とはだいぶ食い違うように思います。「悔いて改める」“悔
い改め”は、聖書の“repentance”と同じではありません。
ルカが福音書と使徒言行録で使ったギリシャ語の方から言うと、その本来
の意味は「考え方を根本的に変える」ことが中心になります。これに対して、
イエスがいつも弟子たちと群衆に語られたヘブライ語(ないしアラム語)の
方からいうと、「帰る」、「元のところへ戻る」意味が強くなります。浸し
のヨハネが「悔い改め」の浸しを行ったというのも、あれは「立ち戻り」の
バプテスマ、「神に帰る」バプテスマだったとは、マタイの研究の時にも申
しました(第 5 講,書籍版 p57)。その続きとしてここを読むと、「立ち返っ
て 立ち戻れ」とでも言うかのように、二つの同義語で畳み掛けるように、そ
うです、「馬から落ちて落馬せよ」と似た反復の表現で、「帰れ」―“come
back”―“回来”(huilai)という感じになっているのです。(最後のは
中国語)
ちなみに、このフレーズをヘブライ語に訳し戻したら、どうなるのだろう
と思って、国際聖書協会の現代ヘブライ語訳を開いてみましたら、さすがに、
「立ち返って立ち返れ」とは書いてなくて、「悔いて」のような感じの言葉
(Wjfr.x'it.hi)を添えています。私に訳させたら、古文に近くなるでしょうが、
強調の不定詞を添えて“WbWv
bWv”「立ち戻って立ち戻れ」……つまり、「何
が何でも立ち返れ」、「間違いなく戻って来い」と訳したいと思います。当
日ペトロが本当にその表現を使ったかどうか、録音もビデオも残っていませ
んから、断定はできませんけれども、「何が何でもまず帰れ」という意味の
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悔い改めて帰れ
言葉を使った公算は大です。ルカとしてはそれをギリシャ語で表現すると、
になったのだと思います。朗読に使える
おとなしい日本語に訳せば、「悔い改めよ、つまり、帰って来るのだ」とな
りますか……。
どこへ帰るか……というと、「神に」とは書いてありませんが、新改訳の
「神に立ち返りなさい」は、ルカの意図をよく出していると思います。少な
くとも、口語訳の「本心に立ちかえりなさい」よりは良いでしょう。「本心」
などに「立ちかえって」いては間に合わないのです。生ける神の足元へ、取
るものも取り敢えず帰って来い、というのです。自分の本心だとか、自分の
実績だとかはもう拠り所にはならない。自分の人格だとか沽券だとかに未練
を持つ限り、本当の「立ち戻り」はできないのです。私の悲しさも醜さもす
べて知り抜いておられる方が、
「そのまま今すぐ、身を低くして戻って来い」
とおっしやるのが、「悔い改めよ」の意味の土台になっていることを、まず
観察した上で、この 3 章にあるペトロのスピーチを取り上げます。エルサレ
ム神殿「美しい門」の傍らで癒された障害者が、跳び撥ねながらペトロとヨ
ハネの後を追うところから。
1.癒しの奇跡に幻惑されるな。どこを見ているか! :11-13a.
11.その男がペトロとヨハネに付きまとっていると、民衆は皆非常に驚いて、
「ソロモンの廊」と呼ばれているところにいる彼らの方へ、一斉に集まって
来た。 12.これを見たペトロは、民衆に言った。「イスラエルの人たち、な
ぜこのことに驚くのですか。また、わたしたちがまるで自分の力や信心によ
って、この人をあるかせたかのように、なぜ、わたしたちを見つめるのです
か。 13.アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神
は、その僕イエスに栄光をお与えになりました。
最後の行の「僕」という単語
が、イザヤ書にある「主の僕」の訳語
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と同じなのは、ただの偶然とは思えません。
前回、私たちは、こういう記事を読む場合、癒しの奇跡そのものに幻惑さ
れてはならない、という警告を聞きました。「信仰があれば癒される。信仰
が無いから奇跡は起こらない」という流儀でこれを見て、それにあやかろう
とすると、一方ではたまたま、「治った!」という人が出ます。これは確か
に心理療法でも民間療法でも、体質によっては確かに効く人が出るわけです。
恐ろしいのはそこから先です。
その治った人が、教会で「信仰の模範」のようにもてはやされる……と同
時に、どうしても治らない人は、「不信仰の見本」にされて肩身の狭い思い
をする。かてて加えて、その奇跡をするという人が、まるで使徒かイエス御
自身のように崇められるようになります。アジる宗教家の側では、第一コリ
ント書(12:9,28,30)などを根拠にして、「今日の教会にも同じ賜物はある
はずだ。「無い」というのは信仰がないだけのことだ」と盛り上げます。奇
跡を与え給うキリストを崇めると言いながら、実は人間様の肉の願望を神と
する結果になりかねません。
ペトロは、そんな期待のこもった卑しい視線を、体中で感じていたのでし
ょう。でも彼は、そんな人間の宗教的願望をたたき潰すような言葉を民衆に
向かって告げます。「何を有り難がっているか。この私とヨハネの信仰の力
でこの人を歩かせたと、思いたいのか。ノー! 頭を冷せ。」「この癒し自体
は、あなたがたが求める商品の見本ではない。それに、私の同僚ヨハネもこ
の私も、奇跡のメーカーでもスポンサーでもない。ただの道具に過ぎない。
生ける神があなたがたに『見よ』とおっしゃるのは、ナザレのイエスの栄光
である。」
2.人間の判決が生ける神の業によって逆転した! :13b-15.
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ところが、あなたがたはこのイエスを引き渡し、ピラトが釈放しようと決
めていたのに、その面前でこの方を拒みました。 14.聖なる正しい方を拒ん
で、人殺しの男を赦すように要求したのです。 15.あなたがたは、命への導
き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させ
てくださいました。わたしたちは、このことの証人です。
14 節に「聖なる正しい方」という言葉が出ます。これは単に「無実の人を」
と い う 意 味 で は あ り ま せ ん 。 “ the Holy One ” , “ the Righteous ”
(
)は、どちらも神の聖なる性質、義なる性質を代
表する者としてのメシアの尊称です。完全な義を身に着けて神の業に聖別さ
れ、神の事業に献げられた者を指す言葉です。福音書によれば悪霊でさえイ
エスを見て、「あなたの正体は『神の聖者
』だ!」と言
って畏れた(ルカ 4:34)と言うのです。
15 節では、「命への導き手」という言葉が出ます。ヘブライ書にもこの「先
導者」
という表現が二回、父の家へ道をつけた方という意味で使わ
れています。とすると、ペトロの意図はこうです。「あなたがたの“先導者”
として天への道を開く使命を帯びた方―神の聖と義を代表して来られたそ
のお方を、あなたがたは「偽者」と断じて、宗教的には神聖冒涜罪を押しつ
け、政治的にはローマ皇帝への反逆罪に仕立てあげて処刑した」と……。「あ
の方の中には、死んだ人間に命を与えようとされる神の聖なる御意志がこめ
られていたのに、このエルサレム神殿で礼拝を続けてきたあなたがたが、な
んと、神の救いを拒否したとは……!」
ペトロは、言葉を続けます。
「今、そのあなたがたの目の前で、そのイエスが奇跡を起こされた。生れ
て以来歩けなかった障害者を立たせて、歩かせて、跳びはねさせている。こ
れは神御自身が、あなたたちの判決を逆転なさったのだ。その生きておられ
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るイエスを、私たちはこの目で見たから、確信をもって証言できる。」ペト
ロとヨハネのこの証言は、目の前にいるもう一人の生きた証人(癒された障
害者)に裏付けされていました。
3.イエスの名と、イエスによる信仰が力のすべて。 :16-19.
16.あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。そ
れは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたが
た一同の前でこの人を完全にいやしたのです。
イエスの「名」というのは、イエスの権威、イエスの本質、イエスその方
の持つ内容と重みです。奇跡はそれを裏書したのです。
奇跡の報告は決して、私たちの都合の良い時に、私たちの苦痛が取り去ら
れ、死を免れる……というような安易な期待の保証ではありません。神には
不可能は無いのです。必要とあれば、純粋で一途な信仰など無い所にも、癒
しの奇跡を起こされますし、また必要とあれば、今までは軽い病気だ、死ぬ
ことはない……と高をくくっていた人を、アッと言う間に悪性の病気に変え
て死を見させる奇跡をもなさいます。私自身、泌尿科に 2 年半通院した後の
実感は、奇跡的治癒も、奇跡的発病も変わらないということでした。どちら
も、同じように主の栄光を輝かすのですが、たまたま許されて、二つの可能
性のはざまで生かして頂きました。
ですから、ペトロも言うように、奇跡の治療師などを崇めてポカンとして
いる暇はないのです。また、癒された病人が癒されなかった病人よりも、一
途で純粋な信仰を持っていたなどと思い込んで、感心していられるような気
楽なものではありません。そういう「信仰があれば癒される!」という説教
を、私は若い時に、イヤというほど聞かされました。しかし、本当のところ
は、イエスの栄光が、故あってたまたま、その形で現れただけ(:13)なの
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です。「でも……」と、反論者は食い下がるかも知れません。16 節には、「そ
の名を信じる信仰によるものです」とあるのはどう説明するか……? しかも、
次の行には、「イエスによる信仰が」この人を完全に癒したと、ペトロは言
います。「やはり、病者の信仰の強さが関わって来るのではないか?」―そ
ういう人たちもいます。
ところで、この二つの行に出る「信仰」は、だれの信仰なのでしょう。普
通はこの不幸な障害者の信仰だと考えます。しかし、この男はペトロと目を
合わすまでは、なにがしかの施しを期待していただけではなかったか……。
これに対して、「いや、彼には少なくとも、『イエス・キリストの名により
……さあ、歩いてみよ』と言われた時に、ペトロの手にすがって立ち上がる
だけの信仰があった」という反論もありましょう。でも、その程度のものを
“キリストへの信仰”と言えるか……? この疑問に対しては、「その癒され
た人の、これから成長して行く信仰も考慮に入れられている」と見る見方も
(Gustav Stählin:NTD)あります。
)を、
“the faith awakened
また、後の方のフレーズ(
through it”と訳して、「イエスの名によって信仰が、この人の中に生まれ
て、それが奇跡を可能にした」と説明する人(Haenchen)もいます。ブル
ース F.F.Bruce もまた、この病者がキリストの名に信仰で応答したのだと説
明しています
これとは反対に、「信仰」はその癒された人の信仰を言うのではなく、使
徒ペトロとヨハネの信仰がこの奇跡を可能にした、という見方もあります。
私に使徒行伝を教えた マーチン・クラーク氏も、そう説明されました。注解
書の中では、マーシャル Howard Marshall が、この解釈もあり得ると書い
ています。山本泰次郎氏は、「キリストの生前には、使徒たちは奇跡の人で
はなかった」が、「ペンテコステの日を境として、全く別人となり、今つい
に、この驚くべき奇跡を、やっつけてしまったのである」(使徒行伝の研究)
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と、使徒たちが聖霊を頂いた経験と、奇跡を行う力とを結びつけて説明して
います。シュラッター Schlatter も、
「まず第一には、使徒たちの信仰……」
と書いています。
私自身は第三の可能性に注目するのですが、これは、誰が奇跡を頂くだけ
の信仰を持っていたか、誰が奇跡を起こす信仰を持っていたかなどここでは
詮索しないで、この「信仰」《
》という言葉を、例えばパウロがガ
ラテヤ書で、「信仰が来る以前は……信仰が来た今は……」(ガラテヤ 3:
23,25)と言っているのと同じ意味で、「信仰による救い」、「信仰を生み出
して人を救いにいれるキリストの福音」を「信仰」と呼んでいる、と見る見
方です。(修辞としては「換喩」― metonymy と言えます。)この角度
から読みますと、2 行目は(「を信ずる」は原文にはなくて、「彼の名の信
仰による」
ですから)「キリストの名と
切り離せない、キリストに属する信仰、つまり福音」、あるいは「キリスト
の名(権威)がその本質的規定であるような信仰の使信」となりましょうか。
3 行目の、後のフレーズ
も、「キリストを通して成り
立っている信仰による救い」、「キリストのお陰で可能になっている救い」
という意味になります。私はこの解釈が一番自然なように思えるのですが、
どうでしょう。新共同訳の「イエスによる信仰」は、その意味を出そうとし
ているのだと思います。
いずれにせよ、この足の悪い人が“真剣な信仰で応答したから”とか、ペ
トロが、かつての弱いペトロ(ルカ 22:54-62)とは全く別人のような“凄
い信仰を持っていたから”というのではなくて、信仰の命の種を内蔵したキ
リストの福音によって(本当はキリストの命と力で)この奇跡は生まれたの
です。(このことが
と
…… の意味でありましょう。)
もちろん、ペトロがここまで念を押して語っても、まだ、「ペトロ様のお
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力で私の病気を治していただきたい」とか、「父を救ってください…… 娘の
命を返してください」と、それしか求めない人はわんさといたのでしょうが、
ペトロはもう、そういう“癒し”の続きなど考えてはいなくて、聖なる神が
復活させて命への導き手とされた主の僕―神の聖者、神の義の現れ、イエ
ス・キリストに注意を向けて欲しかったのです。
4.悔い改めること─つまり、立ち返ることの緊急性。 :17-19.
17.ところで、兄弟たち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指
導者たちと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています。 18.
しかし、神は すべての預言者の口を通して予告しておられたメシアの苦しみ
を、このようにして実現なさったのです。 19.だから、自分の罪が消し去ら
れるように、悔い改めて立ち帰りなさい。
ペトロは信仰の福音(「イエスによる信仰」:16b)が凄い力で人間の体を
変えたことを―それも、生まれてこのかた寝たままか、辛うじて座るかし
かできなかった身障者を、一瞬のうちに立ち上がらせて、歩き回らせて、飛
び上がらせていることを、「イエス・キリストの中に神の命が働いている。
その証拠を見よ」と宣言した瞬間、もう奇跡や癒しのことは忘れたかのよう
に、目の前にいるユダヤ人同胞の霊の生き死にだけに的を絞って語ります。
五旬祭の時のスタイルと同じです。
でも、17 節の言葉は、何か優し過ぎることはないでしょうか。イエスを処
刑した人たちを、まるで初めから「庇うような」話し方だとは思いませんか。
10 行前では、「あなたがたはこのイエスを引き渡し…… 殺してしまった」
(:13-15)と喝破したペトロの口から、「諸君が神の聖者を殺したのは、
知らなかったためだった。大祭司も議会も知らずに罪を犯した。だからこそ、
今度は間違いなく神の意図を正しく受け止めて、立ち返れ。」まるで弁護し
ながら(?)悔い改めを呼びかけている……ような響きに聞こえます。
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悔い改めて帰れ
不思議と言えば不思議ですが、イエスを憎んで処刑したこの人たちをペト
ロは、恐ろしい言葉で断罪はしないのです。それは、天の父がすでに、イエ
スを復活させて、引き上げなさって、その人たちに命を与える業を完了して
おられたからです。この 5 行は確かに、表面だけみれば、論理的に矛盾して
いる(?)ようにも見えます。17 節と 18 節に注意してください。「[17]あ
なかがたと指導者たちは知らずに、つまり、イエスが神のメシアであること
を見抜けないで、また、この方に神の救いの計画が全部こめられているのを
知らずに、恐ろしい行為をした。しかし[18]まさにその、あなたがたの行為
により、神は、以前から預言者たちの口から予告されていたこの計画を遂行
なさった」(参照-Stählin)。
こういう箇所は多分、創価学会などでは、キリスト教の矛盾を衝いてクリ
スチャンを攻撃するための“マニュアル”に入っているのではないかと思い
ます。確かに、人間の側から見える狭い範囲で判断する限りは背理ですけれ
ども、歴史を動かす神の視点が“二重写し”になっていることを見逃さなけ
れば、神の憐れみが見えてくる箇所です。
ペトロはこの人たちに、何とかして救いを受けて欲しい一念から、「イエ
スによる信仰」を持って欲しい一念から、この一見矛盾する、まるで彼らの
責任を庇うように聞こえる(?)言い方で、悔い改めを迫ります。「イエス
を処刑したあなたがたでも、『イエスによる信仰』によって、命と輝きを回
復できることを、知ってください」と。
《 結 び 》
「悔い改めて帰れ」というテーマでした。ペトロがここで、読み方によっ
ては背理・矛盾と批判されるくらいの表現まで使って、「あなたたちをも神
はお救いになりたい。だから、『自分はもう失格で無資格だ』と勝手に思い
込むな。拗ねるな。ふて腐れるな。悔い改めよ、つまり、帰って来い!」と
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悔い改めて帰れ
呼びかけたのでした。最後の行には、現代の私たちのいろんな瞬間に当て嵌
まる、力強い福音が込められています。
キリストの血で、あなたの罪が抹消されるという約束がここにある。「神
があなたの罪を全部拭い去ると断言される以上、何が何でも、今すぐ帰って
来い。」(:19,意訳・補足)それがペトロの呼びかけです。
(1778/07/02→1993/03/21)
《研究者のための注》
1. 「悔い改めて立ち帰りなさい」の前半「悔い改めよ」
動詞の語源からの意味よりも、ヘブライ語の
bWv
にはギリシャ語の
の意味が込められていると見て、
その本来の意味を正確に定義するために、bWv の第一義を直訳した動詞
は従って、「つまり、その真意は」の意味の and
を付け加えたと理解しました。
です。動詞
の意味については、第 7 講の註 5 を参照。
2. 二つの動詞が使われている意図を、前者は、「考えの切り替え」を主として意味する
のに対し、後者(戻って来い)はそれを決断と行動に表せという意味に区別して解釈
する人もあります。例えば、マガーヴィ James McGarvey は、2:38(
との並行から
)
と同一視します。浸しの命令の重視という彼の主張は
正しいとしても、その主張をこの対句に読み込むのは、釈義を逸脱するでしょう。英
訳では、A.V.以来“and be converted”と訳されることが多く、conversion というプ
ロセスの完結という具体的意味に解してあります。
3. 1976 United Bible Societies の現代ヘブライ語訳を観察すると、(普通は
の方を
方を
bWv
WbWvw9
と訳すのに―マタイ 3:2,4:17,使徒 2:38)後の
とし、
中では“WbWv
を
の
Wjr.x't.hi(悔いよ)と訳しています。私自身は本文
bWv”「立ち戻って立ち戻れ」を推測しましたが、あるいは MH のマタ
イ 3:2,4:17,使徒 2:38 のように
hb;Wvt]Bi WbWv
と言われたのかも知れません。
4. 「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」(:13,出エジプト 3:6) は、イエ
スの復活とここに示された奇跡を含む御業が、神の歴史と永遠の計画に繋がることを
示します。
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悔い改めて帰れ
5. 「その僕イエスに」の「僕」は
52:13
等に
db,[,
ですが、これは LXX のイザヤ 42:1,44:1,
の訳語として使われているものです。
6. 「聖なる正しい方」と「導き手」については、Stählin の注解
なります。なお
邦訳
125 頁が参考に
(ヘブライ 2:10,12:2)については、著者の「ヘブライ書
の福音」第 5 講と第 31 講をも参照してください
7. 「その名を信じる信仰」 :16a)
の「を信じる」
は新共同訳の解釈による補足ですが、直訳して「彼の名の信仰」の「彼の名の」を“性
質・根拠・相応等の属格”[cf.織田文法§265 の 1.a.(2)]と理解するなら、「彼
の名によって規定される」信仰、「キリストの権威、キリストの本質がその根本義で
あるような」信仰を意味します。さらに、この「信仰」をガラテヤ 3:23,25 のような
意味に受け止めれば、本文中で説明した解釈が成り立ちます。
8. 「イエスによる信仰」
は the faith through his または
through it(=his name)で、新共同訳は、この
the faith
を his と読んだ訳です。「キ
リストを通して(のお陰で)実現した信仰(福音→前項のガラテヤ 3:23,25 」と理
解しました。
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