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07/04/22 礼拝メッセージ ステファン・ロネッティ師 主 題:主のみ

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07/04/22 礼拝メッセージ ステファン・ロネッティ師 主 題:主のみ
07/04/22
礼拝メッセージ
ステファン・ロネッティ師
主
題:主のみことばが早く広まるように
聖書箇所:テサロニケ人への手紙第2 3章1-2節
ステファン・ロネッティ師:宣教団体「ホワイトフィールド」の総責任者。ニュートライブ・ミッショ
オンの宣教師として、インドネシアのタリアボ・インディアンに伝道され、その後はグレイス・コミュ
ニティ教会の宣教牧師として主に仕えて来られ、現在は「ホワイトフィールド」の総責任者として世界
中を旅しておられる。14ヶ国で現在132人の開拓の牧会者たちを支援している宣教団体。
今朝、皆さんが私をこの浜寺にお招きくださったことを感謝します。皆さんがビデオを見てくださっ
たように、インドネシアにおいて私はすばらしい神のみわざを見ることができました。私が救われたの
は19歳のときでした。ローマカトリック信徒として育てられました。6人兄弟の5番目として生まれ
ました。神が私が19歳のとき福音を示してくださったとき、私は大変驚きました。その後しばらくし
て、私は福音を一度も聞いたことがない人に福音を伝えるための訓練を受け始めました。1979年、
妻とともにインドネシアに行きました。インドネシアにおいて17年間、様々な部族の人たちに働きを
しました。1996年にアメリカに戻り、グレイス・コミュニティ教会の宣教牧師として務めました。
そこでの6年間の働きの後、神は私をホワイトフィールドでの働きに召してくださいました。私が神に
感謝し喜んでいることというのは、私がこれまで仕えてきたあらゆる仕事はすべて福音に携わることだ
ったということです。神が私を救ってくださったそのとき以来、私はこの福音が早く広く伝わって行く
ことを願っていました。そして、神が最初に示してくださったことの一つは、世界にはまだこの福音を
一度も聞いたことがないグループの人たちがいるということです。私は神が自分のことを用いてくださ
るなど思わなかったのですが、でも、神が求めることをやりますと、そのように自分自身を明け渡して
この働きに就いていって、インドネシアにおいて神は私たちを大いに用いてくださいました。そして、
神は今私をホワイトフィールドの働きを通して、世界中に教会を建てて行こうとしている開拓伝道者た
ちを支えることによって、福音の働きに従事させてくださっています。
皆さんに心からお伝えしたいことは、神が、私たちが「はい、神さまやります!」というときにどの
ように私たちを用いてくださるのか、本当にすばらしいことがそこで為されて行くということです。偉
大なる使徒であるパウロのことを思っても同じことが言えるでしょう。彼が心から願っていたその持っ
ていた情熱は、この福音が世界中に早く広く広まって行くことでした。彼は神が人々にこの福音が告げ
知らされること、福音を宣べ伝えることを願っていたということを知っていました。パウロは使徒26:
16-20でこのように言っています。
「起き上がって、自分の足で立ちなさい。わたしがあなたに現われたの
は、あなたが見たこと、また、これから後わたしがあなたに現われて示そうとすることについて、あなたを奉仕者、
また証人に任命するためである。:17 わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣
わす。:18 それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰に
よって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。』:19 こ
ういうわけで、アグリッパ王よ、私は、この天からの啓示にそむかず、:20 ダマスコにいる人々をはじめエルサレ
ムにいる人々に、またユダヤの全地方に、さらに異邦人にまで、悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい
行ないをするようにと宣べ伝えて来たのです。」 、これはアグリッパ王の前においてパウロが為した証のこ
とばです。彼はアグリッパ王に私が召されたこの神の召しというのは、人々に福音を伝えることにある
と言ったのです。そして、この証の最後の部分に彼は「悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい行な
いをするようにと宣べ伝え」ることが、自分の務めであることを大胆に宣言しています。
このような福音宣教の働き、それに携わって行くに当たって、パウロが一番よく理解していたことは、
この働きは祈りなしには行なうことができないということでした。そして、そのことを今日私たちはⅡ
テサロニケの手紙の中から学んで行くことができるのです。このテキストを通して私たちは福音がどの
ようにより効果的に、より早く人々に伝わって行くことができるのか、そのことを見て行きます。福音
が最も効果的に広まって行くためには、その福音宣教のわざが祈りの中になければいけません。祈りと
いうその環境の中にあって福音が伝えられて行く、そのことが大事であるという理由は、祈りが為され
るとき、私たちは皆、自分の力ではなく神の力に頼っているということを知っているからです。私たち
が祈るとき私たちは神に依存しているのです。そして、私たちが神に依存するときに神の力が私たちを
通して現わされる、神はそのように働いてくださることができるのです。パウロは一度も人に祈ってく
ださいと求めることを恥ずかしいとは思いませんでした。ローマ15:30でパウロはローマの教会の
人たちに祈ってくださいと願っています。「兄弟たち。私たちの主イエス・キリストによって、また、御霊の
愛によって切にお願いします。私のために、私とともに力を尽くして神に祈ってください。」と、エペソの教会
に対して、エペソ6:18-19で祈ってくださいと願っています。「すべての祈りと願いを用いて、どん
なときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限り
を尽くし、また祈りなさい。:19 また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知ら
せることができるように私のためにも祈ってください。」、そして、コロサイ人への手紙の中でも4:2-4
で「目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。:3 同時に、私たちのためにも、神がみことばのため
に門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように、祈ってください。この奥義のために、私は牢
に入れられています。:4 また、私がこの奥義を、当然語るべき語り方で、はっきり語れるように、祈ってくださ
い。」と言っています。
どうぞ、Ⅱテサロニケ3:1から見てください。皆さん、考えてください。パウロがいったいどんな
人たちに対して祈ってくださいと願っているのかを…。パウロ、偉大な使徒、宣教師であったこの人が
テサロニケの教会の人たちに私のために祈ってくださいと願っているのです。この手紙が書かれたとき、
テサロニケの教会の人たちは、イエスを信じてからまで2年位しか経っていませんでした。非常に若い
教会だったのです。けれども、パウロは彼らに私のために祈ってくださいと言うのです。3:1「終わり
に、兄弟たちよ。私たちのために祈ってください。」、パウロはこの教会の人たちに二つのことを祈ってく
ださいと言います。
◎パウロがテサロニケの人たちに祈ってくださいと願った二つの祈り
1.福音のメッセージが早く広まって行くように。
2.神が彼らを救い出し守ってくださるように。
それゆえにパウロは、テサロニケの教会の人たちがこの福音宣教の働きのために、また、パウロたち
の守りのために祈ってほしいと願っているのです。
1.福音のメッセージが早く広まって行くように
3:1
a)早く広まるように=1節「…私たちのために祈ってください。主のみことばが、あなたがたのところでと同
じように早く広まり、」、もし、私がここで言われていることと同じことをインドネシアのタリアボの人
たちに話をするなら、私はきっとこのように言うでしょう。野に生えている野生のじゃがいもが山一面
に一気に広がって行くそのようにと。ここで使われている「早く広まり」ということばは私たちに分かり
易く言うなら、これは競争のことです。パウロがここで言っていることは、福音が早く広まるようにと
語ったそのメッセージがまるで競技をしているように一気に走り抜けて行く、早く広がって行くことを
指しています。復活の朝、女性たちがイエスの墓に向かって走って行く姿がありましたが、その「走る」
というのと同じことばがここで使われています。つまり、福音が走って行くということです。コリント
人への手紙の中で、パウロはクリスチャンの生涯が競争と同じであると言っています。ヘブル人への手
紙の中でも、クリスチャンの生涯はまるで競争を走り抜けて行くようなものだと言っています。ですか
ら、パウロがこの福音宣教について祈りを願うときに、どのように福音の働きを見るのかというと、そ
れは早く走っているかのように広まって行くこと、そのためにぜひ祈ってくださいとテサロニケの人た
ちに願うのです。まるで、福音が競技者、ランナーのように、一生懸命走り続け、できるだけ早く、最
後まで手を抜かずに一気にゴールに向かって走り抜けるように、パウロはここで言う通り、福音宣教の
働きが早く伝わることを願っていました。決して、遅れをとってゆっくりのろのろと広まることを願っ
ていたのではありません。
b)あがめられるように=そして、この「早く広まる」ことに関連してパウロがそのお願いの中で言う
ことは「またあがめられますように。」です。これは、福音がその人のところに伝えられて行くときに、そ
の福音を受けた人たちが、福音を通して完全に内面から変えられること、そのことを表わしています。
私たちが福音を受けたとき、その福音は私たちを完全に変えてくれて、神をあがめる者としてくれまし
た。つまり、その「あがめる」という行為をもって福音があがめられるのです。
私はパウロが二つお願いをしていると言いました。その一つ目は、福音が人々に早く伝えられて、そ
れを通して神があがめられるようにということでした。でも、その最初のお願いの中でパウロは一つの
ことばを加えることによって、より分かり易く、例を示して、私たちがそれを理解できるようにとした
のです。見てください。「あなたがたのところでと同じように」と言っています。テサロニケの人たちはパ
ウロがいったい何を言ったのか、よく分かったと思います。パウロは彼らに、彼らのところに福音が最
初に来たとき、彼らがどのようにそれを受けたのかということを言っているのです。パウロは彼らがパ
ウロをまねする者になったと言っています。そして、周りの人たちに対して福音の模範となっていった
姿をほめています。そして、彼らはこの福音を熱心に人々に伝えていったゆえに、パウロがもう一度テ
サロニケに戻って来て、他の人たちに福音を伝える必要がなくなったと言うのです。だから、パウロが
願っていることは、テサロニケの人たち、あなたがたがその教会の中でやって来たように、つまり、彼
らがそれを受け入れて、それによって変えられて、そして、人々に福音を伝えて、それが受け入れられ
て、神があがめられてきたのと同じように、私が今いるところでも、同じようにその働きを私がするこ
とができるように、ぜひ、私のために祈ってくださいと言うのです。
パウロはこの手紙をコリントの町で書いています。私たちはコリントの人たちがどんな人物であるか
を聞いています。彼らはあまり良い人たちではありませんでした。コリントに福音が伝えられていった
とき、コリントの人たちはテサロニケの人たちのようにはそれを受け入れませんでした。事実、使徒の
働き18章にこのことが記されていますが、福音がやって来たとき、コリントの人たちはその福音を拒
絶しただけでなく、イエス・キリストを冒涜したのです。18:6「しかし、彼らが反抗して暴言を吐いた
ので、パウロは着物を振り払って、「あなたがたの血は、あなたがたの頭上にふりかかれ。私には責任がない。今
から私は異邦人のほうに行く。」と言った。」 、パウロはこのテサロニケ人への手紙をコリントの町で、そ
のような迫害に満ちた環境の中にあって書いたのです。だからこそ、パウロはこの福音が早く広まるよ
うに、それを通して神があがめられるように祈ってくださいとお願いしているのです。パウロがコリン
トの町で経験したことは、余りにもひどい状況だったゆえに、彼は恐れを抱き、そして、語ることを止
めていったのです。使徒18:9-10を見てください。このコリントでの状況が余りにもひどいもの
であったので、神はパウロの前に幻で現われてくださるのです。そして、このように言われました。「あ
る夜、主は幻によってパウロに、「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。:10 わたしがあなたととも
にいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから。」と
言われた。」、皆さん、想像できますか?使徒パウロが恐れていたということ。
昨日、私は大阪の町で非常に高いビルに行くことができました。そこから、大阪の町を見たのですが、
皆さんはとてもすばらしい町をもっておられます。そして、私はそこで町中を見渡してそこに住んでい
る人たちのことを思いました。大阪にはどれ位の人が住んでいるのですかと近藤先生に聞きましたとこ
ろ、800万人と。800万の人が住んでいるこの大阪にあって、いったいどれ位の人がイエス・キリ
ストを信じているのだろうかと思いました。皆さん、コリントにいたときのパウロのように、余りにも
多くのクリスチャンは恐れを抱いています。そして、その恐れのゆえに私たちは口を閉ざしてしまって、
人々に福音を伝えることを止めてしまうのです。でも、神がパウロを励ましてくださったように、恐れ
ることなく、口を閉ざすことなく、福音を伝えて行くことができるようになるためには、私たちは私た
ちが普段もっている見解と違う考え方をもたなければいけません。この800万の人々がいるこの町に
おいて、神は確かに多くの人たちを選んでおられるはずです。そして、私たちに与えられている責任、
また、すばらしい特権というのは、その神が選んでおられる人がだれであるのかということを、福音を
伝えることによって見出して行くことです。パウロはこのテサロニケ人への手紙を教会のリーダーたち
に書いたのではありません。教会のすべての人たちに書いたのです。これは、説教者、牧師、執事たち、
教会学校の教師たち、そのような人たちに書いたのではなく、すべての信徒たちに向かって書かれたこ
となのです。私たちが恐れを抱いているときでも、私たちは福音を伝えて行かなければいけません。そ
して、私たちはそれを通して、いったいだれが救われるのかを知ることができるのです。私たちは今朝、
一つの賛美をしました。多くのアメリカの教会ではこのような古い讃美歌は余り歌わなくなっています。
私は自分の持って来たノートの中に今皆さんが歌ってくれた讃美歌の歌詞を書いてあるのですが、準備
をしているときにこれを使うべきかどうか、皆さんはこの讃美歌を知らないかもしれないと思いました。
でも、皆さんが「罪に沈む汝が友に」という曲を歌ったときに驚きました。その原詩はこのように書か
れています。
「滅びて行く人たちを救い出せ、死んで行く人たちを気遣い、そして、その罪の悲しみの中
から、また、死の墓の中から彼らを救い出せ、間違った人たちのために涙を流し、倒れている人たちを
立てるように励ましなさい、イエスについて、彼らを救うことができるイエスについて、告げ知らせな
さい。」と。パウロがコリントの教会で、人々が彼のメッセージを拒んでいたその中にあって、パウロは
テサロニケの人たちがどのようにこの福音を受け入れてくれたのかを思い起こしたのです。そして、そ
のテサロニケの教会、若いクリスチャンたちが多い、信仰の幼いクリスチャンたちが多いその教会に向
けて、パウロは手紙を書いたのです、私たちのために祈ってくださいと。彼はテサロニケでそれが起こ
ったのと同じように、コリントにおいても神が崇められるようにと願って、この手紙を書いたのです。
けれども、福音が早く広がることには困難が伴うことがあります。それが妨げられることがあるゆえに、
パウロは2番目の祈りの課題を上げるのです。
2.彼らが救い出されること、また、守られること
3:2
2節「また、私たちが、ひねくれた悪人どもの手から救い出されますように。」 と、コリントにおいてパウ
ロが宣教の働きをしていったときに、それが妨げられた理由は、そこにこの働きを妨げようとする人々
がいたからです。だからパウロは、このように福音宣教の働きを妨げる者たちから私たちが守られるよ
うに祈ってくださいと願ったのです。そして、これがどんな人たちなのかをパウロは説明します。
a)「ひねくれた」=最初にパウロは、この人たちは「ひねくれた」人物だと言います。この「ひねくれた」
ということばはギリシャ語では「オトポン」と言いますが、それは場所がそぐわないとか、ふさわしい
場所にいないとか、いる場所がないという意味があります。コリントにおいてパウロの働きを妨げた人
たちは、神が人を造られたその目的に沿わず、パウロたちを迫害し苦しめる人たちであったと言うので
す。彼らはいるべき場所、するべきことをしていなかったのです。この「オトポン」ということばを説
明するのに非常に良い例があります。実は、それは先週私とウィラー先生が東京で経験したことですが、
電車を待っていたときに起こったのです。私は日本の文化や日本がどういうところなのかを余りよく知
らないのですが、丁度、ラッシュタイムで電車が非常に混んでいる時間帯でした。私たちは一つの車両
にこんなに人が入るのかと驚いたのですが、私たちはプラットホームを歩きながらできるだけ人の少な
い所を捜しました。そして、電車が入ってくるのを待ちました。ドアが開いて、そのギリギリのところ
まで人がいたのですが、目の前のドアに入ろうとしたとき、横に立っていた女性が私の耳元で「女性だ
けです」とつぶやきました。私は何を言われているのかよく分からなかったので、周りを見回してもう
一度彼女の方を見ると、その女性ははっきりとした口調で「女性だけです」と言うのです。私たちはい
るべき場所にいなかったのです。私たちは「オトポン」だったのです。そこにいるべきではなかったの
です。それと同じようにこの福音宣教の働きを妨げていた人たちは、ふさわしいいるべき場所にいなか
ったのです。彼らは神がしようとされることに、大胆に公にそれを妨げようとしていたのです。
b)「悪人ども」=けれども、それだけではありません。パウロはもう一つのことを付け加えます。「悪
人ども」と言います。
「オトポン」ということばは彼らが実際に行なう外側の行動のことを指しますが、
パウロが使う2番目のことば「悪人ども」というのは、福音宣教の働きを妨げる者の内側がどんな特徴を
もっているのかを表わすことばです。つまり、彼らが行なっていた行動、
「オトポン」、ふさわしいこと
をしなかった行動というのは、内側の彼らの心から出ていると言うのです。これがテサロニケの人たち
に対してパウロがどうぞ救い出されるようにと願っている対象の人たちだったのです。パウロを妨げて
いる人たちでした。なぜなら、このような特徴をもった人たちというのは、福音が早く広まって行くた
めの妨げとなる人たちだったからです。見て分かるように、パウロは情熱をもって早く福音が広まるよ
うにと願って働きをしていました。けれども、そこには様々な妨げがあったのです。けれども、パウロ
は福音を伝えることを止めたり、もういいですと言ってどこかへ行ってしまうことなどなかったのです。
なぜなら、祈りがその閉ざされている扉を開いて、彼らが大胆に福音を伝えることができるカギである
ことをパウロはよく分かっていたからです。
ときに、私たちがこのように私たちが伝えたいメッセージに対して心を閉ざす人たち、それを拒む人
たちに対して、私たちは正しい対応をすることがありません。ときに、私たちが福音を語るときに、そ
の人たちは私たちを小ばかにし私たちを愚か者であるかのように扱い、私たちがどこかおかしいのでは
ないかと、そのような態度をとることがあります。また、ある人たちは私たちが現実がどういうものか
をまったく理解していないかのように対応するので、私たちは苛立ちを覚え、いやな思いをすることが
あります。そして、その苛立ちというのは、私たちにそのような対応をする人たちに向けられることが
あるのです。私たちがその人たちに愛をもって、また、あわれみの心をもって接する代わりに、苛立ち
のゆえに彼らに対して悪い思いを抱くこともあるのです。でも、パウロはテサロニケの人たちがそのよ
うな印象を、このような福音を妨げる人たちに対してもってほしくないと願ったのです。それでパウロ
は、なぜその人たちがそのような対応をするのかという理由を私たちに教えてくれるのです。それがこ
の2節の最後の部分に記されていることです。彼は言います。「すべての人が信仰を持っているのではない
からです。」と。これが彼らがパウロたちに対して抵抗したその原因だったのです。彼らは福音に信仰を
おくことをしない、それをしたいと思わない人たちです。彼らは単に場所がふさわしくない、場所をも
っていないだけでなく、彼らは信仰をもっていなかったのです。この世にはたくさんの人たちが福音を
受け入れないでいます。そして、その中のある人たちは福音の敵となります。なぜなら、彼らは信仰を
もっていないからです。皆さん、ご覧になってお分かりでしょう?わずか2節の間にパウロは、二つの
グループの人々、福音に対してどのような反応をするのかを明確に示しています。一つは肯定的なもの
であり、もう一つは否定的なものです。私たちは福音を伝えるときに、人々がそれを拒絶すること、そ
れに対して攻撃をすることに驚いてはいけません。けれども、私たちが覚えておかなければいけないこ
とは、彼らが私たちに人間に対して妨げているのではなく、攻撃をしているのではなく、拒絶している
のではなく、彼らは神のことを攻撃し拒絶しようとしているということです。ですから、パウロはテサ
ロニケの人たちに対して、二つのことを願ったのです。一つは、彼らの福音宣教の働きが早く広く広ま
って行くようにと、そして、2番目は、この福音宣教の働きを妨げる者たちから彼らが守られ救い出さ
れるようにということでした。
それではどうなのでしょう?このことを知って私たちの生涯はどのように変わるのでしょう?私はそ
れに関して四つの事柄を考えます。
1)福音が広く早く広まって行くことというのは、キリスト教において当然起こるべき通常の事柄であ
るということ、そして、福音が人々に受け入れられたとき、それは人々の内側を変え、人々は神をあが
める者になって行くということです。それゆえに、ここにいる私たち一人ひとりが私たちの周りにいる
学校の友だち、職場の仲間、家族など、すべての人たちにこの福音を伝えて行く働きに携わっていなけ
ればいけないということです。これが神が私たちに期待しておられることであり、それがクリスチャン
としてあるべき普通の姿なのです。けれども、私たちの多くは恐れを抱きます。そして、口を閉ざすの
です。だから、福音は早く広まって行かないのです。私は皆さんに告白しなければいけないことがあり
ます。私はこの福音宣教の働きに長い間関わってきました。けれども、毎回、毎回、だれかに福音を伝
えるとき私は恐れをもちます。飛行機に乗っているとき、隣の人に福音を伝えたいと思うとき、その人
が私のことを気が狂っていると思わないかと恐れを抱きます。けれども、私はその恐れを打ち破って神
に信頼しなければいけないのです。そして、私がその人に福音を話し始めると、すぐにその恐れは消え
てしまいます。それは私の口を閉ざす、黙っていさせる誘惑でしかありません。だから、私たちは福音
を伝えなければいけないのです。ここにいるすべての人たちがです。
2)この福音が早く広まって行くように祈らなければいけません。お互いの働きを通して、教会の働き
を通して、そして、世界中で働いている宣教師たちの働きを通して。もし、私たちが毎日覚えて、福音
宣教の働きのために祈り続けるなら、私たちもその福音宣教の働きに携わっていなければいけないとい
うことを思い起こさせるのです。
3)迫害が、敵がやって来るときも、私たちは忍耐をもって立ち続けなければいけないということです。
私たちはそのような妨げがあることを予期しておかなければいけません。
「福音を宣べ伝えなさい」とい
う命令に従順であるとき、人々が皆さんに対して何らかの正しくない悪い反応を示して攻撃するとき、
皆さんはそれを予想しておかなければいけないのです。驚いてはいけないだけでなく、私たちが理解し
なければいけないことは、私たちを妨げる人たちは信仰がない人たちだということです。それゆえに、
彼らが福音を嫌うのは当然のことだということを覚えておかなければいけません。私がインドネシアの
部族の人たちに福音を宣べ伝えたいと願って、そのことを決めたとき、私の兄は革張りの椅子に座って
テーブルに足を載せて腕組みをしながら言いました。
「あなたは気が狂っている、なぜそんなことをした
いのか」と。私の実の兄です。それは私の心を傷つけました。でも、私はよく分かっていました、彼は
信仰をもっていなかったゆえに私がしようとすることを理解できなかったのです。ですから、忍耐をも
って我慢して、神が立ち続けて、神が伝えようとするメッセージを私たちは語り続けなければいけない
のです。
4)新しい教会を建て続けて行かなければいけません。皆さん、お気づきかもしれませんが、世界中の
いろいろな人たちが福音伝道の働きはどのようにすればいいのか、一人のクリスチャンが他の一人に対
して、他のクリスチャンがまた別の人に対して伝道して行くことによって為して行くと考えることが多
くあります。確かに、そのことは正しいことです。そのように私たちは1対1の関係において福音を伝
えて行くのですが、早く広く福音が広まって行くためには、教会が教会を建てて行くことです。使徒の
働き全体を通して私たちが教えられることは、使徒たちは出て行って単に1対1で福音を伝えるだけで
なく、それぞれの場所にあって彼らは教会を建てていたのです。そして、その教会がさらに多くの教会
を建てていったのです。そして、それが福音が早く広く広まって行く方法だったのです。
ですから、この浜寺聖書教会を私が思い起こすたびに、私は皆さんのためにこれら四つのことを祈り
続けます。皆さんが福音を宣べ伝え続けるように、皆さんが福音が早く広まって行くように祈り続ける
ように、敵からの攻撃があったとしても皆さんがしっかり立って神に忠実であり続けるように、そして、
この教会から新しい教会がどんどん建てられて行くように。
みことばに耳を傾けてくださってありがとうございます。
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