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イラクの破壊?どこから話し始めようか。私は去年12ヶ月のうちの7ヶ月

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イラクの破壊?どこから話し始めようか。私は去年12ヶ月のうちの7ヶ月
イラク:破壊 ダール・ジャマイルによる記事;トムディスパッチ特派;2005 年 1 月 7 日
イラクの破壊?どこから話し始めようか。私は去年12ヶ月のうちの7ヶ月をイラクで取
材して、それを書き表すという考えにさえ、とまどいを感じている。
イラクに対する不法な戦争と占領は、ブッシュ政権によると3つの理由によって行われた。
第一の理由、大量破壊兵器。いまだ発見されないが。第二の理由、サダムフセインがアル
カイダとつながりをもっていたから。つながりは一度も証明されたことがないとブッシュ
氏は自ら認めているが。第三の理由、イラク国民を自由にするため。侵略の作戦名が「イ
ラクの自由」だったし。
さて、その言い分ではイラクは今や自由な国のはずである。
私はその自由化されたというバグダッドとその周辺に断続的に 12 ヶ月を過ごした。4 月の
ファルージャ包囲攻撃のときにはその中に住んだ。そして一度ならず頭の上を米兵から威
嚇射撃された。私は南方北方中央イラクの広い範囲を取材して回った。そのころはまだ外
国人レポーターはイラク国内を移動することは易しかったが、私が 2004 年の始めの数ヶ月
に見たことはその年の残りの期間におこる恐ろしいことをすでに示していた。2005 年には
もっと恐ろしいことが起こるのは疑いない。忘れ去られた 2004 年の前半にもどって、占領
の初期にさえイラク国民がどんな過酷な目に遭っていたかを記憶にとどめておくのも価値
がある。 それでイラク人にとってわれわれ1の侵略と占領は、なにからの解放なのか。--人権か
らの解放である。(アブグレイブ刑務所での虐殺はイラクでは毎日そこでもここでも起こっ
ていることである。); きちんと機能していたインフラからの解放である。(機能不全
におちいった電気供給システムと天然ガスパイプライン。道という道にあふれてくる下
水。); 住むための町全体からの解放である。(飛行機からの爆弾その他の方法でファ
ルージャの大部分がぺっちゃんこにされた。)
イラク人は苦々しい仕打ちに合わされ、混乱させられ、ブッシュ政権の無数の嘘によって
もたらされた破滅の真ん中に住まわされている。私は活動の初期からこの国でイラク人た
ちと知り合った。文字通り「解放」されたそのイラク人たちは、侵略・占領の結果として、
家族を米兵に殺されているか友人を米兵に殺されている。侵略・占領の結果はそれだけで
はない。大規模な失業と石油価格高騰のために、毎日の食べ物や燃料を買うための十分な
お金もなく、先程述べた無数の恐怖の中に暮らさせられている。破られた約束、壊された
インフラ、破壊されたイラクの町々は 2004 年の最初の何ヶ月で明白に見て取ることができ
た。悲しいことに私が目撃したイラクの破壊は悪くなる一方である。イラク人の生活は侵
1 ダール・ジャマイル氏を含む米国人のこと。侵略と占領に加わっている国の国民は「われわれ」に含ま
れる。
1/15
略直後にさえも恐ろしいものではあった。だがそれは米国による占領が始まる前の前奏曲
であった。占領による恐ろしい事態の兆候は明らかであった。こなごなになったインフラ、
そこら中に満ちあふれている米軍による拷問、急速に増え始めた武装抵抗運動。
2/15
破られた約束
報道の初心者の目にも、はやくも 2004 年の最初の数ヶ月間で、米国がもたらした「自由」
の本当の意味は、イラク人にとって
ニュースでも何でも無かったことは明
らかだった。2
米国のメディアが、アブグレイブ刑務
所3での米軍の恐ろしい所業を報道する
ことに決定したはるか以前に、「解放
者」米軍がイラクで拷問を行いイラク
国民に辱めを与えていることを、多く
のイラク人はすでに知っていた。
たとえば 2003 年の 12 月にバグダッド在住のある人はアブグレイブ刑務所での虐殺につい
て私にこう言った。「なんで米軍はこんな虐
殺をするんだろうね?サダムフセインでさえ
そんなことはしなかったよ。これは良くない
行いだ。米軍はイラクを解放しに来たのでは
ないよ。」そして追いつめられて悩む人たち
がよくやる、暗いジョークが出回りはじめて
いた。アブグレイブ刑務所から最近釈放され
た人が私のインタビューに答えて言った「ア
メリカ人は私の家に電気を送る前に私の尻に
電気を送った」という言葉は、このごろバグ
ダッドでとてもよく知られているブラックユー
モアである。
2 「2004 年に初めて知らされたアブグレイブ刑務所の虐殺は米国人にとってはニュースだったが、イラク
人にとっては米軍による拷問はニュースではなく占領の初期 2003 年半ばから知られていた」という意味。
米軍がイラク人に対して殺人・強盗・強姦・拷問を広く行っていることはロバート・フィスク氏、ジョ
ン・ピルジャー氏なども詳細に報告している。
3 Ab Ghraib Prison
3/15
サディク・ゾマン4は私が見
た中でかなり典型的である。
サディク・ゾマンは、2003 年
7 月にキルクークの自宅から
米軍に拉致されてティクリッ
ト近郊の米軍施設に監禁さ
れ、1 ヶ月後に昏睡状態でサ
ラハディン総合病院5に捨て
られた。
マイケル・ホッジス中
佐6がサインをしてい
る医学カルテには、ゾ
マン氏は「熱中症によ
る心臓麻痺」と書いて
いるが、そのカルテは
彼の頭は棍棒で殴られ
ていることに言及して
いない。
4 Sadiq Zoman
5 Salahadin General Hospital
6 Lt. Col. Michael Hodges
4/15
また彼の陰茎・足裏
に電気による焦げが
残っていることにも
言及していない。鞭
で打たれた跡が彼の
身体の上から下まで
残っていることにも
言及していない。
私は彼の妻のハシミ
ヤ7と 8 人の娘をほと
んど空っぽになったバ
グダッドの自宅に訪れ
た。彼らの持ち物は彼
らの暮らしを支えるた
めに闇市にほとんど売
られてしまったのであ
る。ゾマンがうつろな
目で見つめる天井の扇
風機がゆっくり回って
いた。小さなバックアッ
プ用自家発電機が家の
外でうなりを立ててい
る。この近所ではバグ
ダッドのほとんどの部
分と同じように、1 日のうち平均 6 時間しか電気が来ないのである。
彼女の娘のレーム8は大学生である。彼女は家族全員の気持ちを「私は米国人がこのよう
なことをするのを憎んでいます。米兵が私の父を拉致したときに私の命も取ったのです。
私の父、私の祖国、私の命を破壊したことに対する、米国人への当然の報いを願っていま
す。」と代弁した。
7 Hashmiya
8 Rheem
5/15
2004 年の 3 月に彼らの家に私が行ったときすでに、アブグレイブ刑務所でイラク人に対す
る広範な拷問を共謀して行ったことで、米兵の一人が軍法会議にかけられていた。その米
兵はそれ以来ごくささやかな禁固を受けているが、イラク人はそのことについて全く冷や
やかである。イラク人は(彼らが望んだことでもない)空虚なブッシュの約束を聞かされ
るのみである。ブッシュ政権は「イラク人拘束者に対する扱いを適正なものにする」と約
束したが、それは「安全で繁栄するイラク国の建設を援助する」という空虚な約束と同じ
である。
2004 年に、このような「凶悪なことを行っている米兵に対して社会正義を適用する」とい
う空虚な約束が、「アブグレイブ刑務所に拘束されているイラク人囚人への面会を透明・
便利にする」という約束がされた。これらの約束は、愛する家族が拘束されている刑務所
の門の前で、取り乱しながら待っている家族に対して行われたはずのものである。焼け付
くような 5 月の陽光の下、私は厳重に警護され、カミソリ刃有刺鉄線9で囲まれた埃っぽく
陰鬱なアブグレイブ刑務所の外にある「面会待機場所」に出かけた。この恐ろしい建物の
中にいる誰かに面会する許可を与えられることにまだ希望を持ちながら、この荒れた一区
画で辛抱強く待っている憂鬱そうな多くの家族たちから、私は恐ろしい話を次から次に聞
いた。
堅く踏み固められた埃っぽい土の上に、リルー・ハメッド10は白いディスダシャ11を着て一
人で座り、乾いた熱い風にターバン12が力なくはためいている。彼は 32 歳になる息子のアッ
バス13を分厚いコンクリートの壁を通して見ようとするかのように刑務所の高い壁をしっ
かりと見据えていた。
私の通訳のアブー・タラット14が、「私たちに話をしてくれますか」と彼に聞いてから数
秒後に、リルーはゆっくりと頭をこちらに向け「神の助けを待ちながら私はこの地面に座っ
ている」と簡単に答えた。
彼の息子は一度も違法行為を行ったことはない。米軍の家宅襲撃15を受けて(当然何も武
器が出てこなかった)、彼はそのときに米軍に拉致されて以来、6 ヶ月間アブグイレブ刑
務所に拘束されている。リルーは「面会を 3 ヵ月後の 8 月 18 日に許可する」という渡され
たばかりのしわくちゃの面会許可証の紙切れを手に持っていた。
私がそこでインタビューしたほかの人々と同じように、リルーは米軍の軍法会議に何の慰
めも見出していない。数百人の囚人が釈放されたことにも慰めを見出していない。「この
9
10
11
12
13
14
15
razor-wire
Lilu Hammed
dishdasha 衣装の名称
head scarf
Abbas
Abu Talat
raid
6/15
軍法会議はナンセンスだ。イラク人が法廷で傍聴することを許していると米軍は言うが、
実際はできないのだ。これはインチキな法廷だ。」
そのときに米兵を満載したハンヴィー16の車列が来た。小さな窓から銃口が外を狙ってい
る。巨大な埃の雲を巻き上げ、そこにいるすべての人は埃の雲に包みながら、刑務所の正
面玄関にその車列は停止した。やはり囚われ人の親であるサミール夫人17は埃の雲を手で
振り払いながら「私たちがいま置かれているこの位置を世界の人々が知ることを望みま
す。」と言った。それから「なぜ米国はこんなことを私たちにするのでしょうか。18」と
悲しげに付け加えた。
2003 年の夏に私は、親切な 55 歳の、かつて英語教師をしていた女性にインタビューした。
彼女はサマラ、ティクリット、バグダッド、アブグレイブの刑務所に 4 ヶ月間拘留されて
いた。「夜の間眠ることを許可されなかった」と彼女は私に語った。彼女は一日に多くの
回数の尋問を受けた。そのとき十分な食事も水も与えられなかったし、弁護士に会うこと
も許されず、家族に会うことも許されなかった。彼女は言葉による虐待、精神的虐待を受
けた。
それでも彼女が言うには最悪の待遇ではない。最悪の待遇ははるかに悪かったのである。
彼女の 70 歳になる夫も拘留され、彼は暴行された。7 ヶ月間の暴行と尋問のあとに、刑務
所内の米軍留置所で彼は死んだ。
彼のことを話しながら彼女は泣いていた。「私は夫がこいしい。19」
彼女はすすり上げ、立ち上がって私たちにではなくその部屋の空間に向かって話した。
「私はあの人を本当に失った」彼女は水を跳ね飛ばすかのように手を振り、それから自分
の胸を抱いてさらに泣いた。
「なぜ米国はこんなことを私たちにするの?20」彼女はただ理解できないのである。彼女
は二人の息子も同様に米軍に拉致されたことを語り、彼女の家庭は完全に粉々になったこ
とを語った。しくしく泣きながら「私たちは何にも間違った悪いことはしなかった。21」
と言ったのだ。
インタビューが終わってから車のほうに移動しながら、もう 10 時になっていることにわ
れわれみんなが気づいた。いまのバグダッドではこの時間に外出するのは危険である。そ
れで、彼女の恐ろしい話を我々が聴いてくれたと感謝し、私の時間を使ったことに感謝し、
16
17
18
19
20
21
Humvee 米国製軍用車両。
Mrs.Samir
Why are they doing this to us?
I miss my husband.
Why are they doing this to us?
We didn't do anything wrong.
7/15
これについて私が記事を書くことに感謝し、そして夕食を一緒にして泊まっていかないか
と彼女は誘ってくれたのである。私は話す言葉がなかった。
「ありがとうございますが、失礼いたします。私たちは今すぐ家に帰らなければなりませ
ん。」と通訳のアブー・タラットが言った。このときまでに私たち全員が泣いていたので
ある。
バグダッドのハイウェーを満月の光の中で飛ばしながら、車の中でアブー・タラットと私
は無口だった。ついに彼は言った。「ねえ何か言葉が出せるかい?言える言葉があるか
い?」
私には無かった。まったくひとつの言葉も無かった。
破壊されたインフラ
イラクで起こるすべてのことは、粉々にされたインフラが背景になっている。ほとんど完
全に再建が行われていないことも背景である。米国人がもっとも得意とする点は、やはり
「約束」、そしてプロパガンダであった。CPA22がバグダッドのグリーンゾーン23からイラ
ク国を統治していた期間に彼らがお恵みをくれたことというのは、2004 年 3 月 21 日に出さ
れたようなものが典型である。「CPA はラマディ、ケルバラ、ヒッラのイラクの子供たち
にサッカーボールを 100 個寄付しました。ヒッラ出身のイラク人女性がサッカーボールを
手縫いしました。これらのボールには『我々すべてが新生イラクを担います』と美しく書
いてあります。」
しかし、新生イラクの標準24になったことは、50%を超えさらに増える失業、バグダッド
のましな場所でも 1 日に 6 時間しか電気が来ず、公共の安寧25はどこにもないというもので
ある。はるかさかのぼって 2004 年の 1 月でさえ、安全性の欠如のために再建プロジェクト
はほとんど完全に停止状態だったし、イラク戦争終結が公式に発表されて 9 ヶ月を経過し
た後も、イラクの状況は破滅の寸前である。ひとつ例を挙げると、飲用に適した水の欠
如26が、イラク中部と南部でほとんど普通になっている。
私はそのとき、水についてどのような再建がなされたのかを正確に報告するレポートのた
めに働いていた。水についてはベクテル社27が大きく責任を負っている部分である。
この巨大企業は入札なしで 6 億 8 千万ドル28の契約を 2003 年 4 月 17 日に密室で得ている。
22 占領統治当局。殺された日本人外交官は CPA の前身 ORHA のために外務省から働かされていた。
23 厚いコンクリート壁をめぐらせた占領統治のためのバグダッド内区域のこと。高級ホテルなど立ち並ぶ
区域。
24 the basics of that New Iraq
25 security
26 米軍はイラクの上下水道施設を破壊した。ジュネーブ条約違反。
27 ブッシュ政権の高官が幹部社員をつとめる会社。
28 $680 million = 680 億円 (1 ドル=百円の換算で)
8/15
2003 年 9 月には 10 億 3 千万ドル29に値上げしている。そしてベクテル社は 2005 年 12 月まで
に追加的に 18 億ドル30の契約をさらに得ている。
そのころ31は西欧の報道関係者がイラクを移動するのは今より32ずっと簡単であった。私は
バグダッドから南に下りながらいくつかの村々に停止して、イラクの人々の飲用水の調査
をするためにヒッラ、ナジャフ、ディワニヤにまでいたった。その途上では米国人が現在
「死のトライアングル」と呼んでいる土地を通過したのである。ヒッラの近くで、日に焼
け風雨にさらされた顔の老人が彼の水ポンプを私に見せた。空っぽの水タンクの横にその
ポンプは動かない状態で存在していた。電気が来ない33からである。彼の村で得られる水
には上水道施設で浸出した塩が混じっている。ベクテル社が、その村近辺の水処理施設を
再建する34契約の義務を果たしていないからである。近辺の他の村では塩水の問題はなかっ
たが、吐き気、下痢、腎結石、腹痛、そしてコレラの例さえ起こっていた。これは私が訪
れた村々で常に見られること35であった。
その旅行の終わりに訪れたヒッラ、ナジャフ、ディワニヤの周辺と内部の村々はどこも飲
用可能な水が無かった。古代バビロン近辺のヒッラには水処理プラントと上水供給センター
があり、主任技術者サルマム・ハッサン・カデル36が管理している。カデル氏は彼の管轄
区域の村々のほとんどに飲用に適した水がなく、米軍に破壊された水処理システムを修理
するための配管も無く、ベクテル社とその下請けにコンタクトを取ることもできないこと
を私に述べた。
多くの人々が病気で寝込んでいることを彼は語った。「ベクテル社は調査も何もしないで
契約金を使い込んでしまっています。ベクテル社は浄水施設の建物にペンキを塗るが、そ
れは汚染水を飲んで死んでいく人々に浄水を供給するのに何の役にも立ちません。建物に
ペンキを塗る代わりに、水ポンプを一つ我々にくれ、そうしたらそれを使ってもっと多く
の人に浄水を供給できるからと頼みました。契約をとった米国人たちがここに来てから何
にも事態は変化していません。ベクテル社が契約金を使い込んでいることを我々は知って
いますが、証明することができないのです。」
ヒッラとナジャフの中ほどにある別の小さな村では、家のまわりを流れる汚い水を飲んで
いた。誰もが赤痢にかかり、多くの人に腎結石ができており、驚くべき人数がコレラに罹
患していた。一人の村人が病気の子供を腕に抱きながら「米国の侵略の前はもっとずっと
よかったよ。私たちは侵略前までは 24 時間水道が使えたんだ。今じゃドブ水を飲んでる
29
30
31
32
33
34
35
36
$1.03 billion = 1030 億円 (1 ドル=百円の換算で)
$1.8 billion = 1800 億円 (1 ドル=百円の換算で)
2004 年 1 月のこと
2005 年 1 月のこと
米軍は発電所を破壊した。ジュネーブ条約違反。
米軍は上下水道施設を破壊した。ジュネーブ条約違反。
上下水道の破壊は生物兵器を使用するのと同じ効果を持つ。腸管感染症を広めるための戦術。
Chief Engineer Salmam Hassan Kadel
9/15
よ。それしかないからね。」と語った。
翌朝私はナジャフ郊外の村に行った。そこはナジャフ水処理センターの管轄地域である。
地面に大きな穴がたくさん掘ってあった。すでにあった配管から水を得るために村人たち
が掘った穴である。夜の間に、その埃っぽい穴に水が溜まるのである。その朝、女たちが
穴の底に溜まった泥水の残りを汲んでいる間子供たちが穴の周りにぼんやり立っていた。
誰もが汚水のために病気にかかっているようであった。「高速道路の向こう側の工場にあ
る浄水をとるために数人の子供が道路を渡って殺された」と、村人が私に話した。
その 6 ヵ月後の 2004 年 6 月に、私はチュワダー病院37を訪れた。チュワダー病院はバグダッ
ドの巨大なスラム街であるサドルシティー38にあり、平均して 3000 人の患者を一日に治療
している。院長のカシム・アルヌウェスリ博士39は占領下で病院が直面している苦闘をす
ぐに語り始めた。「我々にはどの医薬品も足りないのです。」と彼は言った。そして占領
前にはこのような状況はほとんど無かったことを指摘した。「禁止されていることですが、
静脈注射管、注射針でさえ再利用せざるを得ないのです。我々にはほかの選択肢がありま
せん。」
それからもちろん彼は(私に話をした他の医師と同じように)すさまじい水問題のことを
指摘した。この区域ではどこも汚染されない水を得ることができない。彼は淡々と語り続
けた。「もちろんのこと、ここではチフス、コレラ、腎結石があります。通常はきわめて
稀な E 型肝炎さえ見られます。この区域では一般的な疾病になって来ているのです。」
下水がみちあふれガラクタがごろごろ転がっているサドルシティーの道を車で行くうちに、
「ベトナム通り」と壁にスプレーで書いてある。その字のすぐ下に「我々はここにお前た
ちの墓をつくる40」という文章(明らかに米国の解放者に宛てたもの)が書いてあった。
崩壊しつつあるインフラによって、今日バグダッド全体がサドルシティーがこうむってい
るのと同じ悪弊をこうむり始めていた。現在はさらに大規模にそうなっている。サドルシ
ティー再建の計画がさらに大きな契約金を獲得していく一方で、ほとんど常に再建の兆候
は何も見られない。それはバグダッドのほとんどにあてはまる。
燃料危機はガソリンスタンドで給油するのに市民を 2 日間並び続けさせ、大部分の時間に
街じゅうで自家発電機が回っている。サドルシティーのような待遇のよくない各地域では
一日に 4 時間しか電気が来ない。
37
38
39
40
Chuwadar Hospital
Sadr city
Dr. Qasim al-Nuwesri, the head manager
We will make your graves in this place.
10/15
破壊された都市
ぞんざいで高圧的な占領軍の方針が、イラクの生活でありふれたものになっている。「米
軍の家宅襲撃41が普通になっているので普段着を着たまま眠る」という人々に私はインタ
ビューをした。米軍のパトロールに対するレジスタンス戦士の攻撃を何度も受けるにつれ
て、米兵は動くものすべてに発砲している。もっと一般的なのは空からの爆弾による市民
の犠牲である。これらの身の毛もよだつ恐ろしい状況は、2 年に満たない占領の間に 10 万
人のイラク市民犠牲者を出した。
そして、ファルージャのことがある。爆撃と
砲撃によってファルージャの 4 分の 3 は瓦礫
になった。大部分の住民が自分の家(家々の
のほとんどは破壊され存在していない)に帰
還することも許されないままにファルージャ
の廃墟の中で今も42戦闘が続いている。昨月43
さまざまな方法で行われた虐殺は、2004 年 4
月に米国海兵隊がこの都市に対して行った包
囲攻撃のときに見られたものと同じである。
ただ、はるかに大きな規模で行われた点が違
う。今回はそれに加えて、住民からの報告と写真44による証拠は、米軍が化学兵器を使用
したこと、白燐兵器を使用したこと、クラスタ爆弾を使用したことを示している。2004 年
最後の週に街に戻ることを許された少数の住民は、米軍が作成したリーフレットを手渡さ
れた。そこには「街の中にある食べ物は何も食べないこと。街の中にある水も飲まないこ
と」という注意書きがある。
2004 年 5 月にファルージャ総合病院で、医師たちは 1 ヶ月にわたる最初の包囲攻撃で行わ
れた虐殺の種類を私に話した。整形外科医のアブドル・ジャバー博士45は、診察治療した
人々の数を追うことは、文書が失われたために非常に難しいと語った。これはファルージャ
から見てユーフラテス川の対岸にある総合病院が 2004 年 4 月に海兵隊によって封鎖された
ためである。2004 年 11 月にも同じく閉鎖されたように。
彼は、少なくとも 700 名の住民がその 4 月に殺されたと見積もっている。「私は 5 つのセ
41
42
43
44
home raid
記事の書かれた 2005 年 1 月 7 日現在
2004 年 12 月のこと
Dahl Jamail Iraq Dispatch とキーワードを入れて Google 検索すると、ファルージャ虐殺の証拠写真集に到
達できる。具体的な URL は
http://dahrjamailiraq.com/gallery/view_photo.php?set_albumName=album28&id=graphic_image
45 Dr. Abdul Jabbar
11/15
ンター(地域健康病院)で働いていました。これらの場所での死亡者数を集計するとその
数字になります。」と彼は言った。「だが同時に、私たちのセンターに到着する前に多く
の人々が埋葬されたことを考えておくべ
きです。」ジュラン区域46の近くから風
が吹いてくるにつれて腐乱死体からの悪
臭(2004 年 4 月いらい再びこの街にとっ
て典型的なにおい)が彼の言葉を立証し
ていた。ジャバー博士は米軍の飛行機が
クラスター爆弾をファルージャに投下し
たはずだと述べた。「多くの人々がクラ
スター爆弾で負傷しました。もちろん米
軍はクラスター爆弾を使用したはずです。
クラスター爆弾で負傷した人々を治療し
ましたし、クラスター爆弾が落ちてくる
音も聞きました。」
もう一人の整形外科医ラシッド博士47はこう語った。「殺された人々の中で、女性と子供
は 60%を下りません。墓に行ってあなた自身で確かめることができますよ。」私はすでに
犠牲者の墓に訪れていた。私たちは実際に、おびただしい数の、明らかに子供のために掘
られた小さな墓を見た。ラシッド博士は、クラスター爆弾が投下されたことについてジャ
バー博士に同意してこう付け加えた。「私は自分自身の目でクラスター爆弾を見ました。
何の証明も必要ありません。クラスター爆弾の大部分が、私たちが治療した人々の上に落
とされたのです。」
病院が陥っている医療上の危機について語りながら、ラシッド博士は言った。最初の 10
日間の攻撃のあいだは、米軍は住民がファルージャからバグダッドに避難することを一切
許可しなかった。「患者をファルージャの中で移送することさえ不可能だったのです。私
たちの救急車を外に出て見てください。米軍の狙撃兵は私たちのセンターの正面玄関を狙っ
て撃つことさえしたのです。」病院の駐車場に何台かの救急車が実際にあった。2 台はフ
ロントグラスに銃弾の穴が開いていた。
二人の医師は、米軍からのコンタクトは無く、米軍からの援助も全く無かったと語った。
ラシッド博士は状況を次のようにまとめて言った。「米軍は医薬品を送らず、爆弾だけを
くれたのです。」
ファルージャの荒廃の真ん中においていた私たちの車に向かって歩いていたとき、一人の
男性が私の腕を強く引っ張り、大声で叫んだ。「米国人はカウボーイだ!これが奴らの歴
46 Julan quater
47 Dr.Rashid
12/15
史なんだ!インディアンへの奴らの仕打ち48を見てみろ!ベトナムは!アフガニスタンは!
それで今はイラクだ!こんなことで俺たちは驚いたりしないよ!」
そしてこの状態は、もちろん 2004 年 11 月の全面的包囲攻撃の以前のことだったのである。
2004 年 4 月のファルージャでの米軍の軍事行動はレジスタンス運動の台頭に終わった。
(2004 年の初めの数ヶ月間でそのほかの場所でもそうであったように)米軍のファルージャ
での軍事行動は、はるかに大きな規模で近づいてくる物事の単なる前触れであった。一番
最近の包囲攻撃は、「レジスタンスを鎮圧して、2005 年 1 月 30 日に予定されている選挙で
のセキュリティをもたらす」ことが目的であったが、2004 年 4 月の包囲攻撃がもたらした
結果はセキュリティ以外のものであった。
ファルージャ破壊の影響は、他の地域へ広く伝播し、ますます激化した。住民はモスル
(イラク第 3 の都市)に避難した。レジスタンス戦士に対する爆撃をさらに行うという米
軍の警告のためである。少なくとも一日に 1 台の自動車爆弾が主要な都市で爆発するとい
うのが普通の状態になった。バグダッドのすべての区域できわめて頻繁に戦闘が起こって
おり、それはラマディ、サマラ、バクバ、バラド49などの諸都市でも同様である。
戦闘の強まりは 2 面的である。暴力沙汰の歯車が一段あがるにつれて、米軍の戦術は単に
さらに高圧的になり、それに応じてイラク人のレジスタンスは大規模かつ効果的になりつ
づけている。モスルへのどんな包囲攻撃も、おそらくこの原動力を強めるであろう。
48 米国は建国の過程で先住民の 95%を殺害した。
49 Ramadi, Sammara, Baquba, and Balad
13/15
2004 年 11 月以来のファルージャ攻撃の後遺症は何かというと、報道管制にもかかわらず、
「ファルージャの路上やモスク内に放置された死体を犬が食らっている」ことはイラク全
土に野火のように広まり知られるところになっている。そしてこのような目撃証言は、イ
ラク人の大部分の人々が今信じていること(すなわち、「解放者」は彼らの国を占領する
帝国主義者に過ぎないという確信)を強めているだけである。そしてレジスタンス運動は
伸張し、さらに強くなっている。
しかし、イラク人の間で伸張しているレジスタンス運動ははるか以前に予測されていたこ
とである。私がそれをはっきり知ったのは、バグダッドで毎日起こる自爆自動車攻撃のさ
なか 2004 年 7 月のことである。こなごなのフロントガラス、銃弾の穴が車体にあいた多く
の車がテレビスクリーンに流れたときに、私の通訳のハミッド50(暴力沙汰にすでに疲れ
果てた老人)が穏やかに言った。「始まったなあ。これはただの始まりだよ。彼らはけっ
してやめないだろう。1 月 30 日51以後だってね。」それは、もちろん長いこと約束されて
いた、「主権」をイラクの新政府に委譲するという日のことである。「その日の後はイラ
クでの暴力沙汰は弱まっていくであろう」と米国の当局が熱烈に予言するその日のことで
ある。きたるべき選挙については、これとおなじ論調の予測と同時に、その反対者の言う
とおりの現実の出来事を現在見ることができる。
3 週間前に私の友人(バクバから来た族長52)がバグダッドに訪ねて来た。我々はアブドラ
(彼の友人の老教授)と一緒に食事をした。食事をしているときにアブドラは、いまやイ
ラク全体でよく聞かれる心情を語った。「聖戦士53は彼らの祖国のために、米国人に対し
て戦いを行っているのです。このレジスタンス運動を我々は受容できます。」
ブッシュ政権は最近イラクに駐留する米軍の兵員を 13 万 8 千人から 15 万人に増やした。
きたる選挙をより安全に行うためであると当局は説明している。このような兵員の増派は
やはりベトナム戦争でもあった。その当時は深刻化54と呼ばれた。
私が疑問に思っていることは、来年の 1 月にもなおも「イラク:破壊」と呼ばれる記事を
書いているのだろうかということである。2004 年の最初の半年はまさに兆候であった。
2004 年終わりの恐ろしい数ヶ月が来るべき恐怖の香りを予言するであろうところの来年度
版「イラク:破壊」を書いているのだろうか?そして 2006 年には?2007 年には?
ダール・ジャマイルはアラスカ州アンカレジ出身の独立系ジャーナリストである。かれは
2004 年の 12 ヶ月のうち 7 ヶ月を占領イラクの中ですごし、報告を書いた。彼の記事はサン
デーヘラルド紙、インタープレスサービス、ネーション誌ウェブサイト、ニュースタンダー
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Hamid
2005 年 1 月 30 日のイラクでの総選挙のこと
sheikh from Baquba イラクは部族社会であり、族長は部族構成員に対する大きな調整能力と決定権を持つ
mujahideen
escalation
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ドインターネットニュース55(彼はニュースタンダードのイラク特派員として働いている)
かれはフラッシュポイントラジオのイラク特派員であり、BBC、デモクラシーナウ!、フ
リースピーチラジオニュース、ラジオサウスアフリカ56にも出演している。この記事はト
ムディスパッチ・コム57への最初の記事である。
55 the Sunday Herald, Inter Press Service, the website of the Nation magazine, and the New Standard internet news
site
56 the BBC, Democracy Now!, Free Speech Radio News, and Radio South Africa
57 Tomdispatch.com
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