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1960(昭和35年)

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1960(昭和35年)
1960
(昭和35年)
関東インカレ
1部
箱根駅伝予選会
不参加
箱根駅伝
−
■戦 績
◦第39回関東学生陸上競技選手権大会
4 ×100MR
5 位
43秒 9
(井上輝一・横田昌男・棚倉正孝・中西英一)
◦全日本選手権東京予選
400M
横田 昌男
2位
100M
井上 輝一
予選 3 位
1500M
双木 佑宣
予選 7 位
◦第 3 回東京都選手権大会
200M
横田 昌男
1 位
23秒 0
200M
井上 輝一
2 位
23秒 4
◦関東ジュニア・インター・カレッジ大会
4 ×100MR
6位
(高橋俊彦・鶴岡仁・平林清造・井上輝一)
200M
井上 輝一
準決勝 5 位
400M
平林 清造
予選 4 位
1500M
双木 佑宣
予選 5 位
400MH
高橋 俊彦
予選 4 位
☆昭和35年度関東学生陸上競技ランキング
100M
3 位
10秒 8 棚倉 正孝
200M
5 位
22秒 2 棚倉 正孝
400M
9 位
50秒 3 横田 昌男
◦第37回東京箱根間往復大学駅伝競走予選会
不参加
部長
小林 孝輔(法学部教授)
OB会長
坂入虎四郎
監督
有元 善運
主将
中西 英一
主務
鈴木 庸久
新入部員
佐藤 法章
高橋 俊彦
鶴岡 仁
平野 雅貴
57
1961
(昭和36年)
関東インカレ
−
箱根駅伝予選会
−
■概 要
箱根駅伝
−
400M
棚倉 正孝
1 位
51秒 8
体育会史より
1500M
平林 清造
2 位
4 分19秒 3
第12回対東北学院大学定期戦 -戦績報告-
5000M
平林 清造
5 位
前年度の勝者、青山学院の棚倉主将より、優勝カップ
110MH
高橋 俊彦
2 位
17秒 5
の返還、そして両校々旗を掲揚して12時より試合が始め
走高跳
寺田 忠義
4 位
1 M60
られた。グランドは、日照りの為か固く選手諸君は、走
走幅跳
寺田 忠義
5 位
5 M77
りにくかった様子で(その為か)練習時の記録もだせな
砲丸投
寺田 忠義
5 位
8 M63
い状態で、記録的にはなにも望めなかった。
円盤投
寺田 忠義
2 位
27M34
しかし、本学は、選手層が薄いのにかかわらず、全員
棒高跳
平野 雅貴
1 位
3 M40
一丸となって戦い最後まで接戦で、
(一番)最後の八百
槍投
藤城 功雄
5 位
36M26
米リレーで勝敗が決まった。これで本学の七連勝。
800MR
3位
■戦 績
◦第40回関東学生陸上競技選手権大会
2 部200M
◦関東学連加盟校第 4 回木月リレー競技会
6 M63
棚倉 正孝
予選 2 位22秒 9
走幅跳
佐藤 法章
4 位
100M
井上 輝一
予選 2 位11秒 6
◦東京十大学対抗陸上競技大会
400M
平林 清造
予選 1 位52秒 9
(法政大学・明治大学・専修大学・立教大学・東洋大
学・東京大学・学習院大学・東京農業大学・一橋大学・
本学)
◦東京陸上競技選手権大会
200M
棚倉 正孝
予選 2 位22秒 9
棚倉 正孝
2 位
22秒 9
800M
平林 清造
5 位
2 分01秒 8
3 M30
◦第12回東北学院戦
棒高跳
鶴岡 仁
5 位
青山学院 33点
4 ×400MR
4位
東北学院 20点
100M
棚倉 正孝
1 位
11秒 2
◦第30回全日本学生陸上競技選手権大会
100M
井上 輝一
2 位
11秒 3
100M
棚倉 正孝
予選 2 位11秒 5
200M
棚倉 正孝
予選 2 位22秒 5
400M
棚倉 正孝
2 位
50秒 9
400M
平林 清造
3 位
51秒 5
1500M
平林 清造
2 位
4 分20秒 6
◦東京都下選手権大会
5000M
大沼
3 位
18分02秒 0
200M
井上 輝一
4 位
23秒 6
110MH
高橋 俊彦
1 位
18秒 2
200M
鶴岡 仁
5 位
23秒 9
110MH
藤城 功雄
3 位
19秒 3
三段跳
藤城 功雄
6 位
13M20
棒高跳
鶴岡 仁
1 位
3 M30
円盤投
寺田 忠義
3 位
24M25
◦国体千葉予選
走幅跳
佐藤 法章
2 位
6 M51
100M
棚倉 正孝
1 位
10秒 9
走幅跳
藤城 功雄
3 位
6 M34
走高跳
寺田 忠義
1 位
1 M65
◦第38回東京箱根間往復大学駅伝競走予選会
走高跳
鶴岡 仁
2 位
1 M60
不参加
走高跳
高橋 俊彦
3 位
1 M60
槍投
藤城 功雄
2 位
41M87
槍投
佐藤 法章
3 位
41M60
部長
小林 孝輔(法学部教授)
4 ×200MR
1 位
1 分33秒 2
OB会長
坂入虎四郎
監督
有元 善運
主将
棚倉 正孝
◦三大学対抗陸上競技会
新入部員
高橋 系起
(東京大学・東京農業大学・本学)
山崎 斉
(井上輝一・平林清造・佐藤法章・棚倉正孝)
100M
58
200M
棚倉 正孝
1 位
11秒 6
寺田 忠義
1962
(昭和37年)
関東インカレ
2部 5位
箱根駅伝予選会
不参加
■概 要
箱根駅伝
−
1500M
岩崎 省三
2 位
4 分20秒 4
体育会史より
5000M
阪田 耕一
3 位
16分40秒 0
主将 井上輝一
110MH
原 雅美
1 位
16秒 2
陸上競技部も、ここ数年念願の関東学生陸上競技対校
800MR
1位
選手権大会に於て、一部校として活躍する事が出来まし
(井上輝一・高橋俊彦・鶴岡仁・平林清造)
たが、今年は不運にも二部転落という憂目に会い、部員
一同悲憤の涙にくれつつも、
「来年は必ず一部昇格」の
◦第31回全日本学生陸上競技選手権大会
決意に燃えている時、私のような若輩に主将の重責を渡
400M
平林 清造
準決勝
51秒 8
され、いささか困惑している次第ですが、バトンを手渡
400MH
高橋 俊彦
準決勝
56秒 0
された以上必死になって、二部転落の汚名をぬぐい去り、
一部昇格を達成しようと強く心に誓いました。
◦東京十大学対抗陸上競技大会
幸いにも、我が陸上競技部には将来部を背負って立つ
(法政大学・明治大学・専修大学・立教大学・東洋大
素質のある下級生が多数いますが、彼らの現在の段階で
学・東京大学
は、陸上競技に対して明確な目標を立てたり、自分で練
学習院大学・東京農業大学・一橋大学・本学)
習方法を見出し、確りと自己管理して練習向上するとい
400M
平林 清造
1 位
50秒 8
う事は困難な事だと思います。我々上級生こそよき指導
ハンマー投
後藤 祥一
4 位
44M70
と統率をもって、下級生を目標へと導くべきだと確信し
走高跳
浜島 栄一
5 位
1 M75
ます。
しかし現在の我々が果して立派な指導者たり得るか、
◦第41回関東学生陸上競技選手権大会
また良き指導方法と力を備えているかというと、正直に
総合 2 部 5 位 27点
告白して、充分であるとは言い難いと思います。月日も
2 部200M
平林 清造
浅く、無我夢中で部員を引っ張っていた自分ですが、い
2 部400M
平林 清造
3 位
51秒 0
たづらに孤軍奮闘してあせったりしても、車輪は空回り
2 部110MH
原 雅美
2 位
16秒 7
するばかりだと思い、上級生と協力しこれからの幾多の
2 部400MH
高橋 俊彦
3 位
56秒 3
難題にもめげず立ち向かっていこうと決心しました。
2 部3000MSC 岩崎 省三
5 位
10分07秒 0
より強くなる為、また優れた実績と栄ある伝統を残し
2 部ハンマー投後藤 祥一
2 位
43M59
て下さった歴代の主将に劣らじと、部員の強化、指導、
2 部走高跳
浜島 栄一
4 位
1 M75
統率する事は勿論、練習方法も、ハード・トレーニング
2 部走幅跳
吉田 弘
4 位
22秒 8
を基本とする科学的なトレーニングを行い、部員の実力
向上をめざして是が非でも関東インター・カレッジに於
◦第13回関東ジュニア学生陸上競技選手権大会
いて二部総合優勝を勝ち取ろうと心に固く誓っていま
110MH
原 雅美
5 位
16秒 0
す。
二部優勝を境に、我が陸上競技部も実力が向上し、中
◦第39回東京箱根間往復大学駅伝競走予選会
大、日大等と互角に戦うことが出来るのは明らかですし、
不参加
少しの遜色もない名実ともに天下の青山の陸上競技部
から、間近にせまった東京オリンピックに多数の選手を
送り出したいという大きな夢を抱いています。
部長
小林 孝輔(法学部教授)
高校生の勧誘、新人強化に力を注ぎ、現役の記録向上
OB会長
坂入虎四郎
により陸上競技部の充実を図り、必ずや近い将来、輝か
監督
有元 善運
しきその時を迎える日のせめて土台だけなりと築きた
主将
井上 輝一
いと考えています。
主務
大井 素宏
新入部員
浅田 裕
岩崎 省三
金子 信夫
後藤 祥一
◦三大学対抗陸上競技会
阪田 耕一
鮫島 徳哲
(東京大学・東京農業大学・本学)
関 淑代
高瀬 英孝
原 雅美
■戦 績
100M
井上 輝一
1 位
11秒 1
浜島 榮一
400M
平林 清造
1 位
51秒 5
吉田 弘
59
1963
(昭和38年)
関東インカレ
2部 3位
箱根駅伝予選会
10位
■概 要
体育会史より
過去の合宿生活をふり返ってみると苦しいこと、楽し
いこと、色々あるが今年は箱根駅伝出場も成ったことだ
箱根駅伝
−
てきた。これは永久のナゾとなるであろう。 -Y
(富山県古沢村にて)
■戦 績
し、このための強化合宿におけるこぼれ話を、当時の練
◦三大学対抗陸上競技会
習日誌から拾って、書いてみよう。
(東京大学・東京農業大学・本学)
〈昭和三十八年〉
総合優勝 本学 95点
○七月三十一日(水)晴
2 位 東大 85.5点
午後十一時五十分、上野発。一路合宿地富山県古沢村
3 位 農大 60.5点
に向う。各駅での旅だが皆大張りきり。
○八月二日(金)晴
◦第42回関東学生陸上競技選手権大会
古い麦ワラ帽子をかぶって大得意顔、スタイリストは
総合順位 3 位
雑魚共と決定的な差をつける為にこうするんだと嘘ぶ
2 部200M
金子 信夫
6 位
22秒 6
く。 -A
2 部5000M
岩崎 省三
3 位
15分25秒 4
○八月三日(土)晴
2 部20KM
岩崎 省三
2 位
1 時間07分25秒
口をモグモグいつまでも皆食べ終る頃、調子が上る腹、
※大会新
そしていつも一番最後に礼儀正しく、
「大変おいしくい
2 部20KM
丸山 英樹
6 位
1 時間11分16秒
ただきました。
」
2 部110MH
原 雅美
2 位
16秒 6
○八月四日(日)晴
2 部110MH
高橋 俊彦
3 位
17秒 3
裸で泳ぎまくって、腹一杯食って、そのままのスタイ
2 部400MH
高橋 俊彦
1 位
56秒 4
ルで夜のアスファルトや、田舎道を、遠々一時間半、た
2 部3000MSC 岩崎 省三
4 位
9 分49秒 0
だひたすらに走る。ただAは途中、キジ射ちでスタイリ
2 部 4 ×100MR
4 位
44秒 3
スト型なし。
(金子信夫・池谷経一・高橋俊彦・吉田弘)
ゴルフ場に素晴らしい美女出現。それ!かけ声勇まし
2 部 4 ×400MR 5 位
く彼女に突進、何言かささやいて帰ってきたが、その為
(鶴岡仁・奥平亮三・原雅美・高橋俊彦)
に本日のゴルフ場にての練習は中止。 -S
2 部走高跳
浜島 栄一
5 位
キャラメルを配りながら自転車伴走。走っている者の
2 部棒高跳
塚本 馨
4 位
3 M60
苦しさも知らず、全く甘い野郎。でも帰りは道を間違え
2 部砲丸投
周藤 芳朗
2 位
11M74
て、夜遅く帰宅。
「現実は甘くない。
」と語る。 -O
2 部ハンマー投後藤 祥一
3 位
43M96
○八月五日(月)晴
2 部やり投
5 位
54M79
鈴木 能至
3 分32秒 6
1 M70
中休みのレクレーションに立山へ登山。素晴らしい彼、
60
バスから落ちた荷物を取りに行く、あのスパート。また
◦東京十大学対抗陸上競技大会
帰路、十七キロメートルを一気に駆け降りるこの根
(法政大学・明治大学・専修大学・立教大学・東洋大
性。 -I
学・東京大学・学習院大学・東京農業大学・一橋大学・
Oは途中で引き返して留守番。何をしていたかは、内
本学)
緒だそうだ。
総合順位 5 位 37点
○八月六日(火)晴
100M
金子 信夫
5 位
11秒 5
スプリンターS。やはりスタート、
ダッシュは抜群。女
100M
池谷 経一
6 位
11秒 6
の子に手を出すが如くなり。夜は夜で自分だけ一人で聞
200M
金子 信夫
5 位
23秒 5
かせて、聞かせ終わると、後はグーグー。全くC調なり。
1500M
岩崎 省三
5 位
4 分10秒 7
赤い血を吐きバッタリと、血の気の無い顔してうなり出
110MH
原 雅美
2 位
16秒 1
す。
「俺はもうだめだ。ウーン。
」後でわかったことだが、
4 ×100MR
4 位
44秒 4
赤い血は夕食後に食べたスイカでした。 -T
(金子信夫・池谷経一・吉田弘・鮫島徳哲)
○八月七日(水)晴時々小雨
4 ×400MR
奇跡!初めて残す最後の夕食。お陰で空から水が落ち
(奥平亮三・阪田耕一・高橋俊彦・吉田弘)
6 位
3 分40秒
走幅跳
吉田 弘
4 位
6 M59
走高跳
浜島 栄一
6 位
1 M70
棒高跳
塚本 馨
3 位
3 M40
棒高跳
小田切 茂
4 位
3 M40
砲丸投
周藤 芳朗
3 位
11M35
◦第14回関東ジュニア学生陸上競技選手権大会
3000MSC
岩崎 省三
3 位
9 分31秒
◦第40回東京箱根間往復大学駅伝競走予選会
総合順位 10位
総合記録 9 時間44分08秒
部長
小林 孝輔(法学部教授)
OB会長
坂入虎四郎
監督
有元 善運
コーチ
額田
主将
鶴岡 仁
主務
平野 雅貴
新入部員
飯多 一郎
池谷 経一
奥平 亮三
須斎 英樹
鈴木 能至
周藤 芳朗
塚本 馨
中澤 通訓
丸山 英樹
柳生 喜男
61
1964
(昭和39年)
関東インカレ
2部
箱根駅伝予選会
3位
箱根駅伝
14位
■戦 績
◦第43回関東学生陸上競技選手権大会
部長
小林 孝輔(法学部教授)
2 部400M
川勝喜久雄
5 位
53秒 7
OB会長
坂入虎四郎
2 部1500M
岩崎 省三
5 位
4 分09秒 1
監督
有元 善運
2 部5000M
岩崎 省三
2 位
15分45秒 6
コーチ
片岡 光
2 部20KM
岩崎 省三
2 位
1 時間05分05秒
主将
高橋 系起
※大会新
主務
山崎 斉
2 部400MH
奥平 亮三
3 位
60秒 0
新入部員
一瀬 優
川勝喜久雄
2 部400MH
原 雅美
6 位
68秒 6
金野 武
熊本 武明
2 部400MH
川勝喜久雄
3 位
59秒 1
椎名 満
柴川 勝儀
2 部3000MSC 岩崎 省三
1 位
9 分42秒 2
高瀬 隆一
高橋 勲
2 部 4 ×400MR
4 位
3 分38秒 8
森 洋
安形 保夫
2 部棒高跳
小田切 茂
2 位
3 M60
山口 義文
渡辺 昌充
2 部棒高跳
金野 武
6 位
3 M40
2 部走幅跳
山口 義文
4 位
6 M77
2 部三段跳
椎名 満
2 位
14M08
2 部砲丸投
周藤 芳朗
4 位
10M74
2 部ハンマー投渡辺 昌允
1 位
48M68
2 部ハンマー投後藤 祥一
4 位
42M17
◦東京十大学対抗陸上競技大会
(法政大学・明治大学・専修大学・立教大学・東洋大
学・東京大学・学習院大学・東京農業大学・一橋大学・
本学)
総合順位 6 位 39点(トラックの部:23点 フィール
ドの部:16点)
100M
池谷 経一
3 位
11秒 2
200M
池谷 経一
2 位
23秒
400M
川勝喜久雄
4 位
51秒 6
110MH
原 雅美
2 位
15秒 9
4 ×100MR
2 位
44秒
(金子信夫・池谷経一・山口義文・川勝喜久雄)
走高跳
浜島 栄一
6 位
1 M70
三段跳
椎名 満
4 位
14M02
棒高跳
小田切 茂
3 位
3 M70
ハンマー投
渡辺 昌允
1 位
51M39
1964年 7 月16日~ 7 月23日
箱根駅伝出場前の夏
富山合宿
立山称名の滝をバックに
◦第41回東京箱根間往復大学駅伝競走予選会
総合順位 3 位
総合記録 12時間01分30秒
◦第41回東京箱根間往復大学駅伝競走
総合順位 14位
総合記録 13時間07分25秒
62
1964年 7 月23日
合宿最終日
富山県営グランドにて
忘れ得ぬアイグルハート氏の功績(校友会90周史より)
1964年(昭和39年)執筆 加藤 愼蔵
日本の陸上競技が学校の運動会から発足して、今日の
当時の選手名を想起すると実に多士輩々である。江、鯰
国際的な陸上競技に発展した過程と同じに、本学の陸上
江、黒川、熊田、坂岡、加藤(慎)
、小方、福田、唐木、
競技部々史も運動会から始まり、遠く明治三十五年頃に
団、松下、岡本、池野、由比、森滝、安松諸先輩等を擁
その端を発している。
して、全日本の中学界で、江の短距離、熊田の跳躍、坂
岡の棒高、小方の槍、坂入の中距離に、八百米リレー、
競技部に流れる精神
千六百米リレーはその勇を誇り、大いに本学陸上競技部
単に勝つことだけでなく、真面目に精進し人間を鍛え、
の陣容を天下に知らしめた。
競技人として優秀なばかりでなく、一個の人間として完
全国中学校陸上競技大会において、点数が学習院と同
成されること、同時に、相互に融和し、O・Bと部員が
位になり、四百米、八百米、千五百米で坂入先輩が中学
一家族としての団結を構成することである。この精神は
校記録を保持した。また、帝国大学運動会の招待千六百
時に強弱はあったが、今日まで一貫して継続されており、
米リレーにおいて優勝、優勝旗を獲得、東京高等師範運
今後も、この誇りを堅持すべきであろう。
動会の招待六百米競争に、全国の中学代表を集めて、坂
入先輩が優勝、優勝旗を獲得した。
運動会時代
明治三十五年頃は、今日の正式な陸上競技会もなく、
今の大学の前身である高等部陸上競技部
インターカレッジもなく、未だ日本がオリンピック大会
大正九年頃から高等学部が陣容を整え始め、中学部の
にもアジア大会にも参加していない黎明時代であった。
勢力が高等学部に移動するにつれ、高等学部の陣容が一
当時有名な運動会としては、本郷東大、駒場の農科大学、
層整備され、強化されるに至ったのであった。現本学陸
大塚の高等師範等の大運動会があり、各校代表選手の招
上競技部の前身である高等学部の陸上部の創立者とし
待六百米競争が呼び物で、これが当時の陸上競技会で
ては、投擲の北村淑、跳躍の熊田富夫、中距離の故落合
あった。明治三十五年頃の本学は競技部はなく、野球部
一策、名マネージャーの林省三、諸先輩が挙げられ、そ
が日本の草分けとして活躍し、日本の野球界の大元老、
の創始者としての活躍は目ざましいものがあった。つい
早大の橋戸頑鉄、慶大の亀山万平、法大の武満国雄先輩
で中距離の坂入、走幅跳の岡本、短距離の松村諸先輩が
が青学中学生として、野球に専心すると同時に、他校の
高等学部に入り、また次の年、跳躍の加藤、短距離の森、
運動会には本学代表選手として出場、当時本学に亀山万
投擲の池野、坂本諸先輩が入部、インター・カレッジで
平ありと名声を博した。その後大正五年頃に、荒井、藤
活躍した。大正十一年の日本選手権大会において坂入氏
村、藤原、福井、入江、白鳥諸先輩が発起となり、中学
は八百米に優勝し、日本選手権を獲得、また大正十三年
陸上部の母体となる徒歩部が設置された。校友会徒歩部
頃に高木正征氏が百米を十一秒〇で走り、日本選手権保
の部費として、一ヶ年金弐拾円あった。徒歩部の大会を
有者となった。当時の世界記録が十秒九の時代である。
駒場の農科大競技場で催し、故村上精一先生を初代の部
このように前記の多士輩々が、インター・カレッジに、
長に推戴して参加者は約三十名であった。この徒歩部大
日本選手権大会に活躍し、本学陸上競技部の真価を天下
会が中学陸上部の発足の因となったのである。当時は正
に知らしめたのである。これらの輝かしい戦績の裏面に
式に部員が練習するでもなく、野球がグラウンドを専有
は、コーチとして奉仕的に、物心共に指導していただい
し、野球の練習後に二、三人が思い思いに練習したにと
た、当時農業大学在学の故森田俊彦氏の心労を忘れては
どまっていた。当時は芝浦で極東選手権大会が開かれ、
ならないのである。氏は当時選手であったが、氏の指導
芝浦の川をせきとめてプールとした時代で、陸上競技に
によって本学競技部は強くなったのである。また学校側
トラックとフィールドの競技種目があることを日本人
としては故石坂学院長、古坂前院長、故村上精一先生、
として初めて認識した時であった。徒歩部の名称でもわ
山本邦之介先生等の庇護も忘れ得ぬ陰の指導者であっ
かるように、ただ走ることを考えていた時代だったので
た。特にE・T・アイグルハート氏は部員の競技の面か
ある。
ら身のまわりに至ることまでお世話下さった。氏はアメ
黄金時代の中学陸上部
リカの大学時代、中距離ランナーとして活躍しておられ
大正八、九年頃に徒歩部は陸上競技部と改称し、東京
日本に赴任なされた当時は、未だ日本の陸上界ではスパ
においてというよりは、日本の中学界における陸上競技
イクを使用していなかったので、休暇で帰国された時、
会の名門として、その有名を天下に馳せることに至った。
アメリカより初めて陸上のスパイクを日本に持ち帰り、
63
その普及に及んだとのことで、日本陸上競技史上にも忘
位、三千米障害六位とその活躍はものすごかった。
れられぬ存在である。この前記の華々しい活躍の後継陣
もちろん本学陸上部再建に、先輩として、加藤慎蔵、
容として加藤満、土井長治、中村徹男、岸本誠司、菊岡
阿部義一、岡本博正、由比盛清、松崎巍、安田茂、有元
博、枝本義人、遠藤彪諸先輩等が全日本、関東選手権に
善運等の諸先輩方中心の御支援があったことは忘れが
活躍をした。当時、グラウンドがないため現在ある図書
たいことである。
館前から都電通りに向ってダッシュの練習を行い、ス
その後、二十七年に西野主将のもとに二部優勝、
ピードのあまり正門に激突し、気を失いタンカで運ばれ
二十九年、斎藤主将のもとに二部優勝、三十年に三浦主
たという話もある。
将、三十一年に山辺主将、三十二年に小池主将、三十三
年、三十四年に中西主将、最近では、棚倉、井上、鶴岡、
グラウンドの変遷
高橋、そして現在岩崎と歴代名キャプテンをずらりと並
陸上競技部のグラウンドとしては前記のように、戦前
べて、本学陸上競技部の一貫した精神を受け継ぎ、本学
においては無く、校内の道路を活用したり、当時東都唯
の運動部にあって、その輝かしい戦績を維持している。
一の駒場東大農学部実科のグラウンド(二八〇米)を借
近年特筆すべきことは、横田昌男先輩(昭和三十六年
用したり、東京農業大学(現在の中等部)に行ったりし
卒)が岡山の全日本I・Cにおいて四百米で本学陸上部初
ていた。多摩川河畔(現東横線と多摩川大橋中間)に
の五十秒を割る四十九秒八の大記録で入賞されたこと
四百米トラックを初めて持ったのは昭和五年頃、これも
である。
戦時中は畑となり、戦後は東急に返還して、今野球場が
できている。そして世田谷の桜新町に初めて日本陸連公
陸上競技部の日本陸上界における貢献
認第三種トラックを作成したが、グラウンド狭少のため
我陸上部が日本陸上界に及ぼした貢献は非常に大い
現在の綱島へ移転したのである。
なるものがある。(一)、報知新聞社主催の横浜―東京間
短縮マラソン競争の決勝点に本学が選ばれ、輝かしいマ
東北学院戦の起こり
ラソン日本のゴールとして陸上史にその名をとどめて
現在東北学院大と定期戦を催しているが、第一回大会
いる。(二)、インター・カレッジの運営競技会の開催に
は昭和六年に仙台で開催された。この大会は、当時東北
当って、坂入氏、加藤(慎)氏が陸運の秘書をつとめら
大におられた辰野堅吉氏の肝入りにより成立したもの
れ日本陸上界に大いに貢献された。(三)、一九六四年東
である。当時、辰野氏は本学競技部の良き指導者であら
京オリンピック大会の競技役員として、本学競技部の先
れた。第一回大会以後、一年おきに遠征し、昭和十二年
輩諸氏を多数送っているということである。加藤慎蔵氏
を除き、戦前十一回、戦後十六回と今なお続けられてお
(競技連絡部長)、松崎巍(競技連絡委員)、鈴木康兄
り、両校の親睦を図り伝統を維持している。
(競技監察)、有元善運(競技連絡副部長)、境誠(近代
五種審判員)、石尾章(競技連絡委員)、以上の諸先輩で
戦後の陸上競技部
ある。最後に、最近の本学陸上競技部の活動状況につい
終戦を迎え、本学も平常に戻り、部活動も動き出した
て、部員は四十余名の大世帯となり岩崎主将のもとに、
のは昭和二十三年頃である。
本学陸上競技部に流れる伝統をしっかりと握りしめ、一
我競技部も昭和二十三年に活動を開始し、二十四年に
致団結して、競技に強くなることはもちろん、立派な人
三浦一男先輩を主将に、マネージャーに五十嵐隆先輩と、
間形成を目指して心身ともに日々鍛えている。
戦後の混乱期を陸上競技部再建のために非常に貢献さ
翌昭和四十年のインター・カレッジは戦後五度目の二
れその活躍は目ざましいものがあった。当時は米不足で、
部優勝を勝ち取る覚悟でいる。また今年は長距離陣も
試合前は力が出ないというので先輩の家庭に米を借り
十五名と充実、箱根駅伝出場のための選手の気迫は頼も
に行ったという。二十五年のインター・カレッジでは本
しい限りである。
学にその人有り、とうたわれた小池六郎先輩が最終種目
来年は五十名を超えるとも考えられ、今後陸上青山の
マラソンにおいて見事得点を獲得、一部を堅持したと言
名をより一層高める所存である。
う話もある。氏は翌二十六年に全日本において五千米三
64
第41回箱根駅伝本番までの裏話
1965年(昭和40年)執筆 岩崎 省三 1965年(昭和40年)度卒
『皆さん、明けましておめでとう御座います。こちら
と言う個人競技のスポーツにとって10人が団結してリ
NHKの放送班でございます。空もきれいに晴れ渡り、こ
レーする面白さは全く別世界を行くもので、中長距離ラ
こ東京の読売新聞社前には、この全くの駅伝日和に、お
ンナーが夢中になるのも無理のないことです。個人と団
正月の二日ではございますが、数千の人々がおしかけ、
体の長所を最高に結びつける場としてこの上ない楽し
今や遅しと箱根駅伝のスタートを待っている所でござ
さを持っております。
います。私達はこの正月の二日、三日の両日に渡り大学
駅伝の熱戦の模様を皆様に実況放送することになって
☆わが青山学院の箱根駅伝初出場は昭和18年の第22回
おります。
』
『第一放送車!』
『はい、こちら第一放送車
大会で、16時間41分59秒で走破した記録が残っています。
です』
『スタートの準備はいかがでしょうか?』
『はい!
就職課の鈴木勝三先輩がよくその話をして下さいます。
スタート付近は黒山の人で身動きも出来ぬ程です。わず
「俺達の頃は10人揃えるのが大変で、おまけに食糧難と
かに走路とスタートライン付近に少々のすきまがあり
きて随分苦労したよ。そうそう第二日目ゴールで我が校
ますが、各校の選手が神経質に体温を冷ますまいと、そ
の選手を待っていたがなかなか来ず、遂にちょうちんを
の僅かなすき間を縫って行ったり来たりしております。
下げた頃夕闇せまった東海道をトコトコゴールに向
どの大学も応援団や応援に駆けつけた友人やOBの人達
かって来たっけ、あの時は感激しちゃって目のやり場に
が熱気した顔で選手に激励したりして非常に緊張した
困ったよ。」私達はその話を聞くたびに“今に見ていろ”
瞬間が続いております。間もなくスタートするものと思
と興奮するのでした。
います。空ではこの模様を捉えんものとパタパタとヘリ
コプターが舞っておりますが、それがスタートを一層せ
☆昭和37年 4 月僕が入学した時、すぐ箱根を走りたいと
き込ませるようです。あっ!スタートラインに選手が並
思った。ただしそれは、はかない望みに過ぎなかった。
び始めました。参加15校右より昨年度優勝校の中大、続
先ず選手がいないこと、当時実際に長距離を走っていた
きまして日大、国士大、東洋大、順天大、日体大、早大、
のは阪田(現経 4 )だけだった。10人以上選手がいなけ
法大、明大、専大、立大、青学大、教大、農大、神大の
ればいけないのと、その連中がかなりの実力を持ってい
順です。今回のレースでは中大、日大の優勝戦線に伝統
なければならないからだった。昔は選手が揃えば出場出
のある早大、明大、それに新鋭の国士舘や順天がどのよ
来たが、今では東海道の交通が激しいとかで、トップと
うに絡むかが見所でしょう。また、22年ぶりにこの箱根
そう離れない実力を有していなければ出場出来ない。そ
駅伝に古豪慶大や農大を倒し激烈な予選をへて参加し
れで、その予選通過たるは大変なものなのです。以前は
ております青山学院が伝統あるこのレースをどのよう
ランナーの横を応援団のトラックが、ワンサカワンサカ
に乗り切って行くか等も見逃せぬ一つの面白さでしょ
応援し、四斗ダルを叩きながら伴走出来たが、現在では
う。……』
それが一切禁止された。一般自動車が多くランナーは車
と車の間を縫って大変な危険を犯し冒険をして走って
☆この箱根駅伝に出場することこそ私達が数年前から
いるから無理もないことだが残念なことである。それで
血眼になって、あがき求めて来た憧れの灯火だったので
も一人が20km以上走り東海道を鶴見、戸塚、平塚、小
す。日本のマラソンは世界のトップレベルにあります。
田原、箱根とリレーして行く醍醐味はなんとも言えない
このマラソンを支えるものは実は駅伝競走なのです。特
ものである。“何とか出場したい”“何とか”それで始
にこの大学駅伝は第一回大会が大正 9 年という古き時
まったのが選手集めであった。
代に始まり、途中戦争などの困難にも遭遇しましたが、
9 月浅田(現法 4 )が入ってきた。総勢 3 人で地盤固
実に今回で41回という多くを数え、名実共に栄えつつあ
めすることを誓い合った。高校を回った。強くて頭の良
るのです。学生は特にこのレースに出場することを一生
い奴を求めて。しかし強いのはいなかった。丸山(現法
の誇りとし最大の喜びとしています。このレースに出場
3 )奥平(現経 3 )飯多(現法 3 )が入部してきた。叩
したい為に大学の門を叩く者が非常に多いことも事実
けば伸びそうな連中だった。それから後に“走る天才”
です。先頃ボストン・ウィンザー両国際マラソンで二連
こと異名をとる高瀬(現英 4 )が入ってきた。この連中
覇した重松選手もこのレースに出場したくて、40回大会
が第 1 年目の主力だった。
の時特別参加としてはるばる九州から福岡大を代表し、
夏、富山で合宿をした。朝 5 時半に起きてゴルフ場を
立命館大と共に関東に足を運んだのです。陸上競技など
2 時間突っ走った。腹ペコペコで小屋に戻り朝食を摂っ
65
66
た。これが一つの試みだった。昔の人は腹が減っては戦
りだが、そんなときは一年に一度位しかない。試合のと
が出来ぬと言ったが、我々は空腹時に人間の限界にまで
きは先ず今日は調子が良いか悪いか気になる。うまく走
突入し、20kmや30km走るのは朝メシ前というふうに習
れるだろうか。自分と相手とを意識して奴は何時ヘバル
性をつけたかった。二つ目の挑戦は風のない34度の炎天
だろうか。俺はどのへんで苦しくなるのだろう“ちき
下という時を選んで30km競走に挑むことだった。人間
しょう”負けてなるものかと考え、調子が良いと歌の一
の限界にせまると瞼がにぶくなり、頭だけがぎらぎらと
章節が口の中で繰り返され、調子が悪いと早く終わって
動き神経が高ぶり、安眠出来なくなってくる。練習時間
くれ、あと距離はどの位だろうなどと思うのである。
になると恐怖を感じ、始まる30分前くらいになると、そ
昭和38年11月23日江戸川で予選会が行われた。前々日
の日の練習の予想される最も苦しい瞬間の続きが頭に
までのレース展開の目標はスタートをマイペースで走
込み上げてきて吐き気をもよおし、体がだるくなり一歩
ることだった。それを前日になって僕は明日スタートで
も動くのが嫌になるのだった。練習に出るのは、あたか
良いポジションに出ようと皆に言ってしまった。結果的
も人が投身自殺をするため、目をつむって、断崖絶壁か
にはこの言葉が命取りとなってしまった。実力はついて
ら飛び込むような気持ちだった。練習が始まれば逆にと
いたがレース経験のない全くの新人が多かったため、
ても救われ、30分から一時間位は非常に楽しく走れるも
レース当日、スタートをあせったのだった。僕を信じて
のであるのだ。こんな生活を都会に住む者が、田舎の人
言われた通りスタートした連中はオーバーペースに蝕
里離れた所で続けてくると誰しも狂ってくるのだった。
まれ、前半で力を使い切り、後半他校の連中に抜かれる
“帰りたい”“帰してくれ”毎日毎日寝ては夢起きては
苦しいレースとなった。人が自分を抜くのにどう対処す
うつつ幻のであった。これが色恋なら味わってもみたい
ることも出来ぬ程辛いことはない。人は気楽にガンバレ
がである。やっとの思いで合宿から解放され、自主ト
と言うが、頑張って走れるものなら走りたい。しかし頑
レーニングに励んだが、又々栃木は大田原の合宿で新敵
張っても走れない状態が自分に襲い掛かってきている
ブヨ(虫のこと)とも戦い、進んで己が実力をつけるた
のは全く厳しいことである。選手は自分の力を使い果た
めに走らねばならなかった。しかし県の係の手違いで連
し、精も根もつき、ただ夢遊病のごとくゴールにたどり
れ込み宿に押し込まれたのにはまいった。
着いたのであった。全力を振ってぶつかったのに記録は
風呂に入るたび大丈夫かなと心配した。休みが終り学
良くなかった。ペースがある事は中長距離者の心得であ
校が始まる頃から槍の中澤(現法 3 )陸上ホッケーの長
るが、ときとしてあまりに勝をあせるがため自分を失う
島(法 4 )SCAの国枝(法 4 )応援団の見波君(法 4 )
ことがある。無我夢中ということは許されないのである。
が手をいや、足を貸してくれメンバーに加わってくれた。
OBや応援団の人達が懸命に声援してくれたのに空しく
練習は増々度を加えた。綱島においては、トラックを走
破れた。今迄の練習の積重ねがゼロのように思われた。
りスピードをつけ、又横浜往復や多摩川往復で持久力も
何のために努力して来たのだろう。自分を信頼してつい
つけた。神宮では絵画館や球場の周囲を40回50回と回り、
てきてくれた皆に対して非常に悪いと思った。しかしし
無言で二時間走り続けるのだった。
かしである。全員一、二年生であり、予選通過ラインに
予選会が近づいて来たので綱島に合宿して学院に
せまること平均一分で来年度の確信はつかめたのであ
通った。冬の夕暮は早く学院から戻って全員が集まり練
る。それだけが唯一の救いだった。皆に心から詫び小岩
習を開始する時は、暗く闇に包まれ遠くの外灯を頼りに
駅前のラーメン屋でドンブリをぱくつき、来年度の誓い
真暗なトラックを何回も何回も走るのだった。タイムを
を立てたのだった。
読んでくれる者は懐中電燈でストップウォッチを見た
又々頭の良いヤツで、走れるのを探しに高校を回らな
り、時にはマッチをすって秒針をのぞき込むのであった。
ければならなかった。今回はついていた。優秀なのが
冷たい夜風をさえぎり走りながらマッチの明かりを見
入ってきた。熊本、安形、森、それに山男の高瀬、一瀬、
るのは、何とも侘しい限りだった。今頃他の人はコタツ
ESSの須斎、皆個性は強いがしっかりとした奴らだった。
に手足を伸ばし、楽しく話がはずんでいることだろうか。
昨年は10人の駒が揃わなかった。しかし今年はチーム
練習は“ファイト”と、声は掛れども一度走り出したら
ワークを第一に平均した実力をつけることを目標に出
終わるまで無言だ。ただひたすらゴール目指して走るの
来る。どんなに故障者が出ても常に10人は健在な者がい
である。よく人は走っている時何を考えているのかと聞
るようにしたい。我々中長距離人にはオフシーズンがな
くが心配事があるときは別として、走っている時は自分
い。冬は駅伝、その外はトラック競技の季節だからだ。
で考えるのではなく頭に浮かんでくると言えば正確だ
強いて言えば夏だが、駅伝を目指す我々にとっては最も
と思う。練習では早くノルマを果たせれば良いとか、タ
鍛えるときが夏だった。七月とは言え残雪今だ多い立山
イムはどの位だろうとか、重心が完全に腰に乗っている
に登り、標高2000~2500mの高原トレーニングに挑んだ。
か、足の動きは、手の動きは腰を中心にバランスがとれ
台風に逢い山小屋に閉じ込められ生命の危機を感じた
ているだろうかと気になる。調子の良いときは鼻歌交じ
が、お互いに助け合い、そのときの選手同士の結びつき
は後の訓練に大きな役割を果たすようになった。四日後
走っているようだ。終わるとパン 2 切れをかじり牛乳を
台風の中を病人をかかえ下山、富山市に入った。皮肉に
飲んで学院に向かう。合宿費は自分持ちなので止むを得
も翌日台風が去った。
( 5 時起床)10マイル走る(10時)
なかった。夕方集まり、よく大倉山の心臓破りの坂を20
スピード練習( 3 時)400mトラック50周する20kmレー
発走った。坂の中頃まで登ると皆の呼吸がゼーゼー聞こ
ス。ユースホステルに戻ったら食事も喉を通らぬ生活が
え、額にかいている汗が冷たく感じ、手の先は血の気失
始まり、昨年より一層きつい練習となった。
い真っ青になって、肝心の足までが言うことを利かなく
夏、綱島で合同練習をしたが、奥平のおばあさんが危
なる。それでも、もがいてもがいて登るのだった。
篤ということで彼はあまり練習に出てこなかった。無理
予選会が間近になった。立教、教大、農大、慶応、神
もないおばあさん子の彼は心配でならないのだろう。彼
大、亜大、横市大、学習院、上智と敵情視察が続けられ
はチームで 5 番位を走る強い選手だった。彼が練習に出
ていたが、勝つ目算はあった。我々の目標は打倒慶応
てこないことはチームとして痛いことだった。私は彼に
だった。慶応に負けるな、レース後半慶応の選手を見た
おばあさんのお世話は兄弟全員で順番にやってもらい
ら決して遅れをとるな!場合によったら彼を突き倒し
練習に出てくるように言った。彼は何か言いたそうだっ
てでも、相手に負けてはならないと肝に命じた。チーム
たが再び参加した。ところがしばらくして彼のおばあさ
ワークは取れて来た。選手の実力もかなりついた。レー
んがこの世を去ってしまわれた。彼は悲しみにくれてい
ス経験もかなりある。万全を尽くしたつもりだった。が、
たようだが、私は又、この世に生ある者は一度は死を経
大穴があきそうな気がして心配だった。
験するものだ。生ある内に心行くまで仕えるが生を失っ
た人に対してメソメソするな、と言ってしまった。彼は
☆昭和39年11月22日の肌寒い日、多摩動物園の前で待ち
お葬式の次の日から、腫れぼったい目をぶらさげ走って
に待った箱根駅伝予選会のスタートが行われようとし
いた。誰かが私の影で言っていたっけ“あの人は恐ろし
ていた。応援団の人々が声をからして声援してくれた。
い人だ。人が死んでも練習に出て来いと言うんだから。”
寒風を突き各校一斉にスタートした。オリーブオイルを
と。しかしその彼も私をわかっていてくれたのか、土浦
全身に塗って過去まる 2 年間の祈りをこめて、青山学院
の合宿のとき足の裏を大きく手術したが、三日後に包帯
の選手は走った。グイグイ走った。10km地点で折り返
をぐるぐる巻いてビッコを引き引き練習に参加した。毎
し見ると立教、教大の選手に混じって我が校の選手がつ
日練習に参加した。毎日練習後取り変える包帯が血に染
らつらと続いて走っているのではないか。“あと半分頑
まって真っ赤であったが何一つ言わなかった。
張ってくれ”皆にそう伝えながら走った。ゴールしてみ
昨年の失敗はレース経験不足であった。だから試合と
ると次から次へと来る選手の中に我が同士の姿が見え、
云えばいつも出場した。よく飯多がレースの途中、吐く
慶応を完全に圧していた。走る天才高瀬は興奮しきって
ので驚いた。あんなにも鍛えられた人間では考えられな
勝利に酔っていた。阪田も目を潤ませていた。その中に
いことだが。三鷹のロードレースのとき血の混ざったゲ
一人自分の使命を果たしヤレヤレと胸をなでおろして
ロをした。彼は淋しそうに私を見たが、私はゴールまで
いた男もいた。
走り通すように言った。
先程、大穴があきそうだと漏らしたが、実は奥平が
夏まで 2 番で走れた丸山が膝をローラーにぶつけ怪
レース 1 週間前に医者から“待った”をかけられていた。
我をした。膝に水が溜まり走れなくなった。多分普通の
胃潰瘍がかなりひどく、これ以上運動を続けると死ぬと
人なら競技を諦めるだろうが、彼は決して断念しなかっ
勧告されて、部に退部届けを持ってきた。彼は実力があ
た。歯を食いしばって毎日痛い足をひきずりグランドを
り残念だったが、退部届けだけは受け取らず、静養する
回っていた。彼の闘志には頭が下がる。オリンピックの
ように言った。聞くと食事療法でトースト一切れの生活
10月頃、日中、我々の先輩が走るのを見たかったので、
を続けていると言っていた。痩せて力が抜け見るも可哀
朝と夜に練習した。神宮前の坂は500mあるが良い練習
そうな姿だった。その彼に予選会の前日私は懇願した。
場だった。20発やるのが楽しみだった。全員よくまと
病気の発見が一週間遅れたと思ってレースに出場して
まっていた。朝 6 時半に学生館の前に集まりランニング
くれと。レース当日はおかゆか雑煮を食べ胃に負担のな
で池袋にむかうことも多かった。25kmレースは、起き
いように走ってくれ。彼は一瞬泣きそうな顔をして考え
抜けで苦しかったが走らねばいけないと思った。1 年生
ていたが、レース当日病人の彼がスタートに加わった。
もよく頑張った。3 年生は貫禄で終始先頭を走って皆を
他の連中の気持ちは複雑だったと思う。
リードしてくれた。
奥平との打ち合わせは、全員の士気を高めるための心
予選会がせまってきたので綱島でよく合宿をやった。
理作戦だ。①スタートだけでも② 5 kmまで走れたらな
冬の 5 時半に起きてトラックを回った。寒く冷たいので
んとか折り返し地点の皆と顔を合わせる所まで頑張っ
体から出る汗がみな白い玉をなし背や頭の上で凍って
てくれ、後は倒れる前に歩いてくれと言った。しかし彼
しまうのだった。後ろから見ると真珠を着た雪ダルマが
が倒れて意識を失うことも充分有り得るので心配だっ
67
た。レース中やっとの思いで10km走り皆とも顔を合わ
法4 岩崎省三 経4 阪田耕一 英4 高瀬英孝
せたので歩きたいという誘惑にかられた奥平に、森が奥
法4 浅田 裕 法3 丸山英樹 法3 飯多一郎
平さん貴方が今我々のチームで10番目を走っています。
商3 須斎英樹 経2 安形保夫 商2 熊本武明
後が続いてないので貴方が止まると平均タイムが落ち
商2 高瀬隆一 経2 一瀬 優 法2 森 洋
てしまうので、どうぞどうぞ走ってくださいと言ったと
法1 岩崎憲三 経1 阿部康男 法1 本間 彰
か。奥平はこれまで皆がどのような苦労をしてやってき
法1 古屋篤男 商1 石川 彰 経1 佐々木宏
たか身を持ってよく知っており、自分が皆のためになる
法1 平田明康 理1 秋元知紀 法1 山岡康朗
なら例え途中で力尽き倒れようと本望だとヤセた体に
ムチ打ち歯を食いしばり根限りに走った。エネルギーは
“箱根駅伝、本番までの裏話一節終わり”
腹になにもないので己が筋肉を食べながらの死闘の
レースであった。その結果どうであろう。古豪慶大、農
大を破り堂々 3 位で団体の予選通過が出来たのだった。
彼もそうだろうが、僕も今夜はじっと星でも眺めながら
高瀬 隆一
(九区一年)
須済 英樹
(二年)
鈴木 能至
(二年)
飯多 一郎
(七区二年)
森 洋
(六区一年)
肩の荷を下ろし、一人になってもの思いにふけりたいと
思った。僕について来てくれた皆に対して感謝の気持ち
で一杯だった。加藤先輩、有元監督夫妻、片岡コーチも
喜んで下さっている。カレッヂソングを応援団の人達が
指揮してくれた。歌っていたら又胸に込み上げてくるも
のがあった。小林先生ありがとう御座いました。この数
年、試験中も走り合宿を何十回も行い、出場した試合が
数十回を数え休む日も惜しみ練習した甲斐があったと
思う。
岩崎 省三
(二区三年)
丸山 英樹
(十区二年)
熊本 武明
(五区一年)
中沢 通訓
(八区二年)
一の瀬 優
(一年)
高瀬 英孝
阪田 耕一
(一区三年) (三区三年)
浅田 裕
(三年)
安形 保夫
(四区一年)
1964年
(昭和39年)7 月
箱根メンバー写真:予選会通過直前1964年(昭和39年)7 月
☆予選会を通ってからは大学側、体育会学生本部などか
ら補助が出て、思い切って練習に身を投じることが出来
るようになった。
☆昭和40年 1 月 2 日箱根駅伝の日には大木先生始め桜
井先生、小林先生がわざわざ駆けつけて下さいました。
体育会学生本部の人達、応援団、自動車部の協力が本当
にありがたかった。新聞部、トロージャン、神奈川県人
会や学院生の声援をいただき、胸に盾のマーク背に青山
学院とネームを入れたユニホームを着て堂々と走った。
結果は14位で13時間 7 分25秒に終わったが、第 1 日目の
箱根入り、最終日の銀座読売新聞社前に到着した時の感
激は一生忘れることのない事件であると思う。
☆本年は 3 年計画の年に当たり、4 年から 1 年まで全学
年が初めてむらなく揃い充実した年であると思う。頭の
良い強い奴も入部し本当に面白くなって来たと思う。面
白くなってきたところで、
“早大を喰へ”これが我等の
秘めたるスローガンである。最後に中長距離部員の氏名
を書いておこう。
箱根駅伝予選会通過後の集合写真
68
創部90周年に寄せて
高瀬 英孝 第41回箱根駅伝 1 区走者 1965年(昭和40年) 1 月 2 日- 3 日開催
我々も箱根駅伝に昭和39年11月多摩動物公園20km予
すから、自分自身の事と同時に、一緒に走る仲間の事を
選会にて、堂々 3 位で入賞して、本番の昭和40年 1 月 2
常に皆が気づかい、励まし合いながら、一つの大きな走
日 3 日の箱根駅伝に全関東大学の選抜された15校と一
る集団になる必要がある訳です。そのことは、知らず知
緒に、それまで女子大学というイメージの強い、我が母
らずの内に、その集団の仲間意識がその他のどんなス
校、青山学院大学が堂々と駅伝に参加できた事が、本当
ポーツよりも芽生えて、個々の人間の絆を強くするス
に今の私にも夢のような出来事で、私の65年以上の人生
ポーツだと考えています。まさに、“駅伝”は、この絆
の中で最大で、もっとも自分として、町会の人々、また
のリレーのスポーツなんだと感じています。この絆のリ
私の会社を訪問してくれる銀行関係の人々や業界の
レーのスポーツ“駅伝”こそが、日本伝統であり、現在
人々に、自分の歴史として誇れる出来事なのです。現在
のお正月でのテレビ観戦で日本中の家庭の人々が、この
では 4 チャンネルの日本テレビで、正月の特番としても
箱根駅伝のTV中継に夢中になり、釘付けになる理由で
てはやされ、各家庭では正月のおとそ(お屠蘇)を飲み
はないでしょうか。人間は一人では決して生きてゆけな
ながら、お雑煮を食べながら観戦される皆様が多くなり、
い、その為にも“駅伝”=タスキリレーこそが、人間の
本当に日本の正月の大きなイベントになっております。
絆に基づいた、もっとも人間臭い、また人間の人生その
そのように箱根駅伝が有名になれば一層皆さんに高瀬
ものがスポーツなんだと感じています。大きな声で“箱
さん本当にあの箱根駅伝で実際本当に走ったの…?な
根駅伝”バンザイと皆で叫ぼうではありませんか。箱根
どと疑問を投げかけられる事が多い訳です。そのため私
駅伝予選会では、青学のOBも現役も青学の教授も監督
はいつも自分のセカンドバッグの中に箱根駅伝での自
もコーチも、現役の父兄の皆様で“青学箱根駅伝”出場
分の走っている写真、その当時の新聞の切り抜き等を常
バンザイと叫ぼうではありませんか!!
に持ち歩いて、そんな人々に必ず見せるようにしており
ます。自分自身の現在の体型をみれば、当時のカモシカ
のような足でホッソリして、50kgそこそこしかなかっ
た体型から既に20kgも贅肉がついて、腹も出てしまっ
ていては、彼らがそんな疑問を持つのも当然だと思いま
す。私は箱根駅伝から学んだことがあります。それは、
若い時に苦しいこと、難行苦行をすればする程、その事
実、箱根駅伝に出場した事を、その当時から実に30年も
40年も経過しても「世の中の人々は評価してくれる」と
いう事実です。この人はあれだけ苦しい一般の人々では
中々できないスポーツ(箱根駅伝)に出場できた人なん
だ。だからこの人は「信頼できる人だ」とか「忍耐強い
人」「意志の強い人」等の評価が生まれてくるという事
実です。これは、私の人生にとって非常にプラスに働く
素晴らしい事だと思っております。特に私のような会社
経営を行っている人間にとっては素晴らしい側面支援
の役目を果たしてくれる訳です。私にとって箱根駅伝に
我が母校が終戦後に初めて出場できたという事も嬉し
い事実だったのですが、それよりもっと自分の心に深く
残っているのは、あの多摩動物公園での20km予選会で
本当に皆で励ましあいながら、なんとか10名が自分の持
てる力を全部出し切って、今ではこの世にいない奥平君
が、最後に10番目で予選会のゴールに入って、我がチー
ムが本番の箱根駅伝に出場できた事でした。そのことが
日本伝統の“駅伝”の本当の意味だと思っています。一
人でも欠ければ、そのチームは本番に出場できない訳で
69
1965
(昭和40年)
関東インカレ
2部 4位
箱根駅伝予選会
3位
■概 要
ある。が、これらの種目で自分が勝利を納めるためには、
体育会史より
毎日の研究と練習が最も大事ではあるが、しかし自分に
1966年度主将 鈴木能至
最も適する種目を選び出すことが優勝という最大の勝
“勝利”いつ聞いても良い言葉であり、又いつもこの
利を得る第一歩目の勝利だと思います。
言葉を掌中に携えておくことは、甚だ困難であることは
更にこれに練習を重ねて試合に臨み、早く自分の種目
いうまでもない。我々陸上の勝利とは、大きくわけて二
のペース配分を呑込み、どんな状態においても常に自分
つに分類されうる。即ち第一は自己の種目での勝利(個
の力を出せるように、いや出せるという自信を持つこと
人勝利)であり、第二は全体(総合)優勝である。第一
が必要だと思います。時には自分の実力以上の力を信じ
の勝利に全力を注ぐことの結果が第二の勝利につなが
ることも、勝利につながる一つの作戦でしょう。しかし
るのであるが、しかし我々の究極の目標は第二の勝利で
最も大切なことは、常に大きな希望を持ち、準備体操一
ある。たとえ個人種目で優勝しても、総合で優勝しなけ
つでも大きな体操をし、ここぞと思う時に十分な力を出
れば心残りの試合となるであろうし、又、自分が個人種
せるように、身体を、精神をほぐしておくことが、勝利
目で 2 位… 5 位、又は入賞しなくても、我が校が総合優
の信念に寄与する基本的なことと思います。
勝した時は、満足感で一杯となり、又、個人種目で優勝
した時は、その勝利は最も価値あるものとなるであろう。
■戦 績
陸上競技というものは、他の運動と違って、個人種目の
◦三大学対抗陸上競技会
運動と考えられがちであるが多くの個人種目の集合体
(東京大学・東京農業大学・本学)
なればこそ、個人の協力(団結)が、他の運動よりも、
総合優勝
強く打ち出さらねばならないのである。個人の優勝が必
100M
池谷 経一
1 位
11秒 4
ずしも総合優勝に結びつくとは考えられないのである。
100M
天野 正彦
3 位
11秒 9
良コンディションのもとで、たとえ優勝しても、自分の
400M
川勝喜久雄
1 位
50秒 8
最高記録よりも数段劣った記録であったとしたら、他人
400M
石川 彰
1 位
53秒 4
よりも勝っていたかもしれないが、自分自身に対しては
1500M
岩崎 省三
1 位
4 分06秒 5
必ずしも、打ち勝ったということは出来ないと大部分の
1500M
安形 保夫
2 位
4 分06秒 7
人は思うであろう。又、優勝(入賞)出来なくても、自
5000M
岩崎 省三
1 位
15分26秒 6
分の思い通りの試合が出来れば、自分自身に満足感を感
5000M
岩崎 憲三
3 位
15分38秒 6
じ、「次の試合にはぜひ入賞してやるぞ」という大きな
110MH
原 雅美
1 位
16秒 3
希望が湧いてくるのである。これこそ己の勝利に対して、
110MH
小松 正彦
2 位
17秒 4
大きな比重を占めるものであろう。しかし個人の勝利の
4 ×100MR
2 位
44秒 3
集合体である総合優勝というものにおいては、他の運動
(金子信夫・池谷経一・天野正彦・山口義文)
と同じように最初の種目の成績如何によって随分変
4 ×400MR
わってくるのであるが、しかし野球やテニス、柔道など
(石川彰・川勝喜久雄・森洋・鈴木能至)
のように、最初に強い者を出す(並べる)などという作
走幅跳
山口 義文
1 位
6 M90
戦を用いることは出来ないのである。プログラムの順序
走幅跳
青柳 博
2 位
6 M62
に従って、試合をせねばならぬため、最初に、ウィーク
走高跳
高橋 勲
4 位
1 M65
ポイントである種目から始められる時もある。しかし、
走高跳
青柳 博
5 位
1 M65
たとえその種目に入賞者が出なかったとしても、力一杯
棒高跳
小田切 茂
1 位
3 M60
の試合をすれば後に続く者にとって、どんなに力強い激
棒高跳
塚本 薫
2 位
3 M50
励になるかは、他の運動と同じであろう。
砲丸投
周藤 芳朗
1 位
11M67
競技する者にとって、勝利に結びつくものは、まず実
砲丸投
酒井 由雄
1 位
11M23
力、自信、自分のペースで試合をすること、無心に競技
円盤投
周藤 芳朗
1 位
33M14
することなどがあげられるが、しかし陸上競技において
円盤投
鈴木 能至
5 位
29M04
は、二十種目近くの競技があり、100Mの如く十秒前後
槍投
後藤 祥一
4 位
41M68
で終わるものもあれば、棒高跳のように高度の技術を用
槍投
柴川 勝義
5 位
41M29
し一日中競技をしなければならない種目とさまざまで
70
箱根駅伝
13位
2位
◦第44回関東学生陸上競技選手権大会
◦第42回東京箱根間往復大学駅伝競走予選会
総合順位 4 位
総合順位 3 位
2 部100M
池谷 経一
3 位
11秒 4
2 部200M
池谷 経一
4 位
22秒 6
2 部400M
川勝喜久雄
3 位
51秒 4
◦第42回東京箱根間往復大学駅伝競走
2 部400M
永渕 幸夫
5 位
52秒 0
総合順位 13位
2 部800M
阿部 康雄
3 位
2 分01秒 7
総合記録 12時間32分36秒
2 部800M
安形 保夫
4 位
2 分02秒 4
2 部1500M
安形 保夫
5 位
4 分08秒 0
2 部110MH
原 雅美
4 位
16秒 3
部長
小林 孝輔(法学部教授)
2 部110MH
小松 正彦
6 位
17秒 0
OB会長
坂入虎四郎
2 部110MH
石川 彰
4 位
58秒 0
監督
有元 善運
3 位
43秒 5
コーチ
片岡 光
(池谷経一・金子信夫・山口義文・川勝喜久雄)
主将
岩崎 省三
2 部走高跳
高橋 勲
6 位
1 M75
主務
鮫島 徳哲
2 部走幅跳
野田 裕
6 位
6 M68
新入部員
青柳 博
秋元 知紀
2 部三段跳
青柳 博
3 位
13M97
阿部 康男
天野 正彦
2 部砲丸投
周藤 芳朗
5 位
11M47
石川 彰
岩崎 憲三
2 部ハンマー投渡辺 昌允
4 位
49M23
江藤 有一
尾崎 勝司
2 部ハンマー投後藤 祥一
6 位
45M08
小野木弘道
小松 正彦
佐々木 宏
野田 裕
◦第34回全日本学生陸上競技選手権大会
平田 明康
古屋 篤男
100M
池谷 経一
予選 3 位11秒 2
本間 彰
松本 昌利
400M
川勝喜久雄
予選 3 位52秒 2
光武 徹平
山岡 庸朗
5000M
岩崎 省三
予選 7 位15分15秒 0
渡辺 明美
4 ×100MR
7 位
2 部 4 ×100MR
総合記録 11時間36分22秒
43秒 7
(池谷経一・川勝喜久雄・山口義文・小松正彦)
◦全日本陸上競技選手権大会
10000M
岩崎 省三
7 位
30分11秒 0
走幅跳
山口 義文
9 位
7 M10
◦東京十大学対抗陸上競技大会
(法政大学・明治大学・専修大学・立教大学・東洋大
学・東京大学・学習院大学・東京農業大学・一橋大学・
本学)
総合順位 4 位
100M
池谷 経一
3 位
11秒 4
200M
池谷 経一
2 位
23秒 1
800M
阿部 康雄
5 位
2 分03秒 2
1500M
安形 保夫
2 位
4 分08秒 8
1500M
岩崎 省三
3 位
4 分09秒 2
5000M
岩崎 省三
1 位
14分35秒 2 ※大会新
4 ×100MR
4 位
44秒 4
(池谷経一・天野正彦・山口義文・小松正彦)
走幅跳
山口 義文
2 位
6 M88
砲丸投
周藤 芳朗
5 位
11M38
71
大木
院長
桜井
先生
小林
先生
1965年 1 月 2 日 有楽町スタート地点
72
1965年 1 月 1 日 箱根駅伝大会 直前 鎌倉合宿 1966
(昭和41年)
関東インカレ
2部 4位
箱根駅伝予選会
3位
■概 要
箱根駅伝
14位
れもしない昭和三十九年の早春、綱島グランドを初めて走
体育会史より
り回ったその日は実に印象が良かった。合宿二日目の時で
クラブ紹介
あろうか、コーチが来た。小生、そのコーチによく目にか
主将の抱負 新主将 山口義文
けていただき徹底的にかわいがられ、振上足の練習、片足
陸上競技と他のスポーツとの関連を考えてみて、
陸上競技
跳でグランド一周等、
わけても雨の中でのダッシュ。高等部
の重要さを痛切に感ずるこの頃、陸上競技というものは大
女子選手と30M、50Mダッシュの競争、彼女はスパイクで
変な意味があるように思う。他のスポーツも全身を使って運
小生はアップシューズ、その上、 5 M、10Mのハンデスター
動するのであるが、陸上競技ほど全身を地面にたたきつけ
トであった。これでは如何に優れたダッシュ力を持っていて
るものはないと思う。そこに私はたまらない魅力を感じて現
も勝てなかった。コーチは言った。
「女の子に負ける様じゃ
在に至る。
そして正しく走ることができなければ記録は向上
ダメである。
」言葉に出ぬくやしさがあった。今年の春、そ
しない。投げるにしても跳ぶにしても正しく速く走る選手が
の女の子が本学に入った。
学校で顔を合わせる機会がある
強い。私達は少しでも早く走るために色々と研究する。とに
のでその度に、心の中に思い出として苦く湧き上がって来る。
かく走ることが基本なのである。例えばある跳躍選手が10
戦後初めて、
二回目の出場が決まった年のことである。箱
の技術と10の筋力を持っているとする。しかしスピード(走
根出場の為、長距離陣は強烈な練習が日常となった。箱根
る力)
が 5 しかなければ 5 のジャンプしかできないのである。
の合言葉と共に、予選会を目指して練習、又練習、選手を
さらにこの
“走る”ということが、陸上競技に限らず他の
育てる。即ち20㎞を走り切れる人数をそろえる為に、前主
スポーツ全てに通じるからまた興味深い。その為か陸上競
将鈴木(当時二年)
、同主務奥平(同)さん、そして鈴木さ
技に携わっている選手に他のスポーツをやらせてみてもうま
んと同じく槍投選手である中沢さん
(同二年)達が志願して
いし、以前全くやったことのないスポーツを実際にやらせて
走った。合宿の回数、日数が多くなったのは言うまでもない。
みてもその技術をマスターする時間は極めて短いのである。
連続出場を目指す昭和四十年の事、前回の箱根のメンバー
これは他のスポーツではあまり見られない傾向である。
は全員残っている。その上、新人を迎え張切っていた年で
すなわち陸上競技が“走る”ということからあらゆるスポー
ある。夏、山中湖合宿の後、高田の合宿の時、午前中はグ
ツの出発点のようである。しかし、他のスポーツ選手は走
ランド40周、
即ち16㎞走ることになった。道路を走るのとは
ることをあまり好まない傾向がある。これでは目指す技術
違いグランドは距離感が違う。裏日本はフェーン現象になり、
には到底おぼつかない。走っているうちに自分の身体の筋
連日35度を越えていた。走りながらホースからの水をあび、
力のアンバランスを知ることができるのである。ある時は速
バケツにくんだ水をかぶる日が続いた。冒頭の小生の比で
く、ある時はゆうゆう、なるべくやわらかいところを長時間
はない。暑さと自分のたたかいである。とにかくよく走る。
かけて走ることである。
長距離メンバーがふえたので鈴木、奥平、中沢さん達は本
私がこの“走る”ということに魅力を感じたのは小学校
来の種目や仕事に励んでいる。走りながら岩崎さん(41年
四年のときでした。ギラギラ光る太陽の輝きの下で真白い
卒、東京海上)の怒声が響く。就職内定後の指導講習の
短パンとシャツ姿で広いグランドをかけるあの快さは私だ
最中に来て走った。大学入学当時初めて競技をやる連中も
けのものであり、全く何んとも言えない。そんなふうにかけ
メキメキ、足?をあげて来た。食事の時さえ、連日の疲れか
ている自分が何んだか別の世界にいるように思えてならな
ら食欲の無いものまで無理に食べさせられる。食べなくて
いものでした。
は走れないからである。食事中のエピソードから一つ。食
そしてこの走ることの世界が私の唯一の心の安らぎの場
事ではほとんどの者は先を争い味噌汁を飲む。味噌汁が一
であると最近しみじみと感じております。私はこの世界を愛
番人気がある。100Mのスタートよりも早い者がいる。号令
し、そこで部員選手の心のふれあいを望んでおります。私
一下に一息をつかずに飲み込む。そしてオカワリ。10月綱島
達は高い目標と身近な具体的な目標とを頭のてっぺんにお
での合宿は特に長距離にとって生涯忘れられない思い出と
き、それに向ってまっしぐらに進むのです。そして今、私は
なろう。これが伝統となり、
競技部の中に続いていくであろ
この走ることの世界から得た何物かが私達一人一人の将来
うその合宿は、予選会をひかえ一か月の長距離合宿である。
の心の糧として生き続けることを願うのです。
新聞にも紹介された綱島学校間のマラソン通学もこのとき
合宿の思い出
これも一年後の今日、なつかしい思い出となっているが、今
合宿といえば常に生々しい思い出でいっぱいである。特
年もやるのかと思うと気が重いので有る。
である。この合宿には短距離陣が食事の世話に出張した。
(高橋記)
に小生にとっては最初の合宿が大学の競技生活において
忘れる事が出来ない思い出となっている。私事で申し訳な
箱根駅伝
いが、
ここにその一端を紹介させて頂きたい。運命の日、
忘
この度、優秀団体に選ばれ全く光栄の至りであります。
73
もっとも今回の選は連続の箱根出場の結果として選ばれ
が。いやしくも各クラブの幹部がリーダーシップを養う為に、
たのでしょう。そこに手ばなしで喜んでは居られないと改め
又部員をひっぱって行く上における問題点を論じ合うと
て感じて居ります。箱根出場は旧来の念願でありました。特
云った様ないわば青山学院大学体育会の浮沈にかかわる
に昨年の優秀選手に選ばれた岩崎省三氏の力におうとこ
重大なキャンプである。少し位金はかかっても盛大に行う
ろでございます。三年計画の箱根出場プランも第一年次に
べきである。次に場所だが榛名湖という場所そのものは大
おいて挫折し、やっと今年で十三位を確保し、昨年より一
変良かった。だが今少し暖房設備は何んとかしてほしかっ
位だけあがりました。箱根駅伝十位の壁は厚く容易な事で
た。その点昨年はめぐまれていたが。次に討論の内容だが
は有りません。特に今年は新興の亜細亜大、800Mに日本
各部とも活発な意見が出て大変良かったが、意見の重複が
記録保持者の森本氏を迎え張切っている駒沢大と本学を
かなりあった様に思われる。又議題に関係のない意見も多
入れて慶応、神奈川大、農大の常連と力が一段上の立大、
く見受けられ、これらが議事進行をかなり停滞させていた。
教大で五つの出場権を得る為の激戦であります。尚ダーク
でも昨年とくらべると、期日の関係もあったが、討論に随
ホースの防大も控えて居り、予断を許さぬ状態であります。
分と進歩があったと思う。最後にリーダース・キャンプに不
例年の様に合宿を重ねても他校も同様であるので力の接
参加のクラブも見うけられたがもっての他だ。又体育会長
近が見られます。上位常連校にしてしかり、優秀団体に選
の不参加もしごく残念である。
ばれ、尚一層努力精進をしなければと部員一同あらためて
思った次第で有ります。その上、昨年のメンバーの中から
■戦 績
岩崎省三、阪田耕一、高橋英孝さん等の卒業、他の二名
◦第45回関東学生陸上競技選手権大会
が家庭の事情で中退、退部と続き、五人の穴が出た。今
総合順位 4 位
年の予選では岩崎さんは一分だけタイムが遅くなったとみ
2 部800M
太田 徹
1 位
1 分58秒 1
ている。けれども予選会に通るか通らぬかのボーダーライ
2 部1500M
太田 徹
1 位
4 分14秒 7
ン上にある。いずれにしても、練習又練習でなければなら
2 部1500M
安形 保夫
4 位
4 分17秒 2
ない。大学に入って競技を始めた者達も一年後には大きな
2 部5000M
岩崎 憲三
6 位
15分27秒 4
進歩の跡が見られる。20㎞を一時間二十分位に到達出来
2 部20KM 岩崎 憲三
6 位
1 時間10分19秒
るがそれからが大変なのであります。何故なら箱根で使え
2 部3000MSC 太田 徹
1 位
9 分34秒 8
るのは十分前後の記録の者でなければならない。10人のメ
2 部 4 ×100MR
3 位
43秒 6
ンバーは揃う様でなかなか揃わない。そこに混戦が生まれ
(川崎卓・池谷経一・天野正彦・山口義文)
て来ます。九月に入り、
ほとんどの大きな大会は終わり全員
2 部 4 ×400MR
箱根体制に切り変りひまをみて走りまくっている。これも大
(尾崎勝司・太田徹・小松正彦・石川彰)
木院長先生をはじめ桜井先生、小林先生等数多くの方々の
2 部棒高跳
金野 武
4 位
3 M70
温かい声援があればこそと思って居ります。又、体育会本
2 部三段跳
青柳 博
2 位
13M75
部の協力や学院生諸君の御支持が支えとなっていると思
2 部ハンマー投重田 肇
3 位
42M58
います。この紙上をお借りして厚く御礼申し上げます。二年
2 部槍投
鈴木 能至
2 位
55M00
6 位
3 分37秒 2
連続出場から、この連続出場記録をのばしたいと念願して
いる次第であり、又上位入賞の出来るチームを目指して居
◦東京選手権
ります。
200M
川崎 卓
予選 7 位
800M
太田 徹
4 位
1 分56秒 4
800M
安形 保夫
予選
2 分01秒 5
リーダース・キャンプ参加感想
主務 奥平亮三
1500M
太田 徹
7 位
4 分05秒 4
私はリーダース・キャンプには昨年、今年と二年続けて
1500M
安形 保夫
予選
4 分02秒 0
参加させてもらったので、それと比較して良い点、悪い点、
走幅跳
山口 義文
6 M86
及び新たに取り入れてもらいたい点等感じたことを書いて
みよう。まず期間だけ昨年より一日のばしたのは良かった
◦第10回東京十大学対抗陸上競技大会
と思う。一泊では討論等している時間はない。でも出来得
(法政大学・明治大学・専修大学・立教大学・東洋大
れば三泊四日位でやるのも一案ではないか。そしてまる一
日位親睦の時間をおくことも必要ではないか。今の現状か
ら考えて各部々員は自分のクラブ以外の部の事は、その部
に友人がいない限り全然わかっていないと思う。それで
各々のクラブを知り合う為にも又横のつながりをより密に
する為にも親睦の時間というものをもっと重視して良いの
ではないか。こう言うと費用の点で色々と問題があると思う
74
学・東京大学・学習院大学・東京農業大学・一橋大学・
本学)
総合順位 4 位
トラックの部 3 位 フィールドの部 4 位
800M
太田 徹
1 位
1 分58秒 0
800M
平野 憲司
6 位
2 分00秒 4
1500M
太田 徹
1 位
4 分04秒 0
1500M
安形 保夫
3 位
4 分07秒 1
◦第43回東京箱根間往復大学駅伝競走予選会
5000M
岩崎 憲三
2 位
14分59秒 4
総合順位 3 位
5000M
服部 和則
5 位
15分09秒 2
総合記録 11時間40分42秒
4 ×100MR
4 位
44秒 0
(小松正彦・天野正彦・川崎卓・山口義文)
◦第43回東京箱根間往復大学駅伝競走
4 ×400MR
総合順位 14位
4 位
44秒 0
(沖山哲・山口義文・中島洸・小松正彦)
走幅跳
山口 義文
1 位
7 M13
三段跳
椎名 満
2 位
14M37
ハンマー投
重田 肇
4 位
40M34
◦第18回東北学院戦
総合記録 12時間39分52秒
部長
小林 孝輔(法学部教授)
OB会長
坂入虎四郎
監督
加藤 愼蔵
100M
山口 義文
2 位
11秒 2
監督代理
永井 純
400M
太田 徹
1 位
51秒 3
コーチ
勝俣 忠義
400M
石川 彰
3 位
54秒 1
コーチ
中西 英一
1500M
太田 徹
1 位
4 分10秒 8
主将
鈴木 能至
1500M
安形 保夫
2 位
4 分12秒 1
主務
奥平 亮三
5000M
岩崎 憲三
1 位
15分35秒 6
新入部員
内田 八弘
太田 徹
5000M
服部 和則
2 位
15分50秒 4
沖山 哲
川崎 卓
5000M
安形 保夫
3 位
16分08秒 6
桑原 正雄
小林敬之祐
110MH
小松 正彦
2 位
16秒 4
重田 肇
渋谷 要
棒高跳
金野 武
1 位
3 M50
中澤 進一
中島 洸
棒高跳
小田切 茂
3 位
3 M20
服部 和則
平野 憲司
走幅跳
山口 義文
1 位
7 M10
山内 誠
走高跳
青柳 博
1 位
1 M65
走高跳
椎名 満
2 位
1 M65
走高跳
高橋 勲
3 位
1 M60
槍投
鈴木 能至
2 位
51M24
1996年 8 月16日〜22日
短長合同合宿(福島県・会津競技場/鶴ヶ城にて)
1996年11月 6 日
十大学対抗陸上競技選手権大会(400mハードル、石川選手)
1966年 8 月 夏合宿 合津若松城 太田も共に 75
箱根駅伝とかけっこ人生
丸山 英樹 1966年(昭和41年)度卒
76
私の大学在籍は昭和38年 4 月から42年 3 月。 2 年時
出場を果す。
(東京オリンピック開催)に箱根駅伝22年ぶり予選通過
現在63歳、当然まともな記録ではないが、又走ってい
で出場。立役者岩崎省三前監督の 1 年後輩。そして歴代
ます。今までを振り返ってみるに陸上競技を通じての
陸上部スーパ―スターの太田徹君の 3 年先輩になる。
「縁」が我が人生に大きく係わってきています。中学か
当時、青学陸上部は中・長距離陣の不振が続いており
ら高校も走る事を通じた人の縁で、大学入学も当時の綱
ましたが、岩崎先輩の熱い思いの下、一丸となり箱根駅
島グランドが引越して間もない自宅から 2 キロほど
伝出場をもって大いに活気づき、躍進していきました。
だった点と高校恩師・先輩の人の縁。就職に至っては当
まず、 1 年時は中・長距離陣数人の駒不足のため、協力
時就職部で陸上部OB鈴木勝三先輩の紹介に依る(長野
者を他クラブ(陸上ホッケー・空手・応援団・E.S.S等)
県内の鉄工所)。その会社は最初正式な陸上部は無かっ
の人達にも要請して、予選会に出場するも惨敗。しかし、
たが、同期入社で会津の工業高校卒の者(私が 4 年生夏、
この敗退が脱皮への踏み台となり、 2 年時も中・長距離
会津若松合宿で炎天下のグランド20キロ走を共に付い
専門選手だけでは足りず、高校時代野球・投擲・短距離
てきた者)が一緒に走りませんか、の縁からはじめた。
選手を含んでの編成チームで、当時新聞で評された「駅
それから自己新記録(1500m・5000m・ 1 万m、10マイ
伝の素人チーム」で臨んだ。いろいろな努力が実を結ん
ル・フルマラソン)続出。 2 年目には東京・新潟駅伝の
で予選会(多摩川20キロ)を 3 位で通過、41回大会の道
長野県チーム代表メンバーとして走った。この時偶然
を開いた。この時、青学創立90周年、学院をはじめ体育
だったが太田徹君(大学 4 年時)と同区間だった。そし
会・応援団・自動車部の応援で盛り上がっていました。
てもっと驚いたことに、私が集めた彼らから800m,1万m、
翌年41回(昭和40年)、私は10区アンカーを夢中でラス
走り高跳びで三人の国体選手が、しかも青年 1 万mで 6
ト争い(?)を演じ14位でのゴール。 3 年時の42回(昭
位、走り高跳び 3 位となり全国入賞をした。東京・青森、
和41年)は脚の故障で補欠に回るが13位の成績だった。
東京・新潟駅伝、県代表に 5 人も輩出する程だった。10
2・3 年時は私も同期の奥平マネージャーの補佐(車の
年間在籍し、中部実業団駅伝出場を最後に家の都合で退
運転を主に)として神奈川県を中心に東京近県の中・長
職した。その後は自営(父が故郷に戻り興した)の椎茸
距離の強い選手の勧誘活動に奔走もした。岩崎憲三・古
栽培業と新聞販売地区担当員・老舗旅館営業員等多業種
屋篤男・本間彰・阿部康男、そして翌年に太田徹・服部
に渉り転職をした。そして、一番永い勤め(22年間)で
和則・桑原正雄・平野憲司等、強力な諸君が入学した。
定年退職した保険代理業の道筋の最初を開いて下さっ
4 年時の43回(昭和42年)大会は 9 区を走った。この区
た方、それはあの小林孝輔教授です。
間は私の生まれ育った区域でもあったが、往路の12位か
最後に岩崎先輩の言葉を思い出している。それは「マ
ら復路の15位で総合14位に後退。駅伝チーム主将として
ラソンは人生の墓場みたいなもの」確か水戸マラソン
の面目が全く立たない苦い思いをした。
( 2 年生初マラソン)でマラソンは 2 度とやらないと
しかし、翌年(私卒業)以降は破竹の勢い。44回(昭
思った位苦しかった。その時おっしゃったのですが、今
和43年) 7 位で初のシード校入り、45回(昭和44年)は
ようやく意味が分かった気がします。来年の 8 回目完走
9 位となり連続シード権獲得、以後も予選突破で12回連
を目指したいと思っております。
1967
(昭和42年)
関東インカレ
2部 4位
箱根駅伝予選会
2位
■概 要
箱根駅伝
7位
からである。ところが現実のスポーツ界(青山学院大学
体育会史より
陸上部も含む)は、どうも本質を見失っている傾向があ
一年間をふりかえって(私のクラブ観とスポーツ観)
るようである。ただ勝てばいい主義のスポーツにどれだ
主将 山口義文
けの価値が見出せるだろうか。勝つことは一つの目標で
前主将鈴木さんからバトンを渡されてから早くも一
あると思う。私たちはその目標に向って大いなる前進を
年の歳月が流れた。青春の中で心身共に、最も鍛えられ
しなければならない。そのひたむきな姿がものすごく尊
ると言われている学生時代の最後の年に主将という大
いことは誰でも知っている。しかし、人はこの勝つこと
役を仰せつかったことは、すごく光栄であった。そこで
のみを強調するあまり、どうも利己的になる傾向がある
いろいろなことを学び、その責任の重大さをひしひしと
ようだ。ただ勝てばいい、あとのことなんかかまってい
感じました。これからグングン伸びようとする青山学院
られない、自分のことで精一杯だという利己心は、他の
大学陸上競技部の橋渡しが充分に出来たかどうか私に
部員への無関心さを誘い、他の部員が懸命に築き上げた
は分かりません。正直のところ、今の私は新主将石川君
協調という愛の宝の敵となってしまうようである。ここ
にそのバトンを渡し、ホッとしている状態です。一年も
でも、単に勝つことは最終的なものではないことがわか
の間に起きた沢山の出来事、そして、その度に考えたこ
る。一体何のためにスポーツをやっているのかを首をか
とを、ここに良い機会が与えられましたので、思うまま
しげたくなるような選手が見受けられた。その選手は相
ざっくばらんに記してみたいと思います。そうして、こ
手に負けたくないと言っていたが、何を根拠にしてそん
のような私のささやかな体験が新主将の今後の何かに
なことを言っていたのか私には未だにわからない。その
役立てられたらこの上もない喜びに思います。主将とし
人の負けたくないという心は、私が思うに、真の意味で
て私が一番悩んだことは陸上競技の持つ性格から、ブ
の純粋な闘志でなく「こんちくしょう、この野郎に負け
ロック別制がしかれ、そのブロックごとに最低一人の立
てなるものか」という相手を侮辱した試合精神だったよ
派なコーチが必要であり、それらのコーチを経験豊かな
うである。堂々と相手の前に立ちはだかるという強い自
OB諸氏に御依頼したが、誠に残念にも、そういう人達
分ではなかったようだ。すなわち、相手の心の中にとび
に限って実社会で活躍され、余暇にコーチをお願いする
込んでいくような本来のスポーツ人らしい生き方をし
というわけにはなかなかゆかず、結局はこの徹底が難し
ていなかったようである。又、賭け事のようにスポーツ
かったことである。主将、主務の上にさらに力強い牽引
を考えている人、私は大好きなスポーツをこんなふうに
車のごとき人が陸上競技には絶対必要だった。こういう
考えている人々が憎らしかった。全くこんな考え方をし
ところから端を発したかどうかわからないが、入部して
ている人は最初からやらない方がいいと思う。勝つこと
一年二年たつうちにグランドから次第に遠ざかってい
から一歩踏込んで、本質的なものに眼を向けることだと
く部員が見受けられた。本来なら絶対に、選手の競技へ
思う。いつでも、どこでも精一杯の自分、これでもかこ
の情熱は選手自身に求められるのであるが…今考えて
れでもかと懸命に歯をくいしばって頑張るあの清流の
みるとこういうことも少なからず影響を受けているよ
如き心意気、この心の中に生きてこそ、全てに通じる人
うに思う。これらの選手を食い止め、さらにまた他の選
生の鍵がつかめるのではないだろうか。中味のうすっぺ
手への影響を防ぐために、私は出来る限り暇を作って、
らな選手が、いくら速く走ったり、遠くへジャンプでき
一人一人の部員に接し、競技の技術的なことは勿論、ク
たとしてもそれにどれほどの意義があるだろうか、そん
ラブについての在り方、あるときは人生論、恋愛論と話
なものは機械に比べたら話にならないのである。物事の
をはずませ、互いに納得のゆくまで長時間にわたってお
本質を見失った人は必ず自分を駄目にする。だから、私
互いの意見をぶっつけあった。そこに共通点を見い出し、
たちは、走る世界の中から単に勝つことではなく、もっ
私と相手との心の結びつきを求めた。そして、その心の
と奥に潜んでいる人間としての生き方を学ぶことが大
結びつきをグランドまで延長させたのである。こうする
切である。話は変わるが、家庭の事情でどうしてもクラ
ことが私には走ること(ただ走ること)以前に大切なこ
ブから遠ざかっていく部員に対して、他の部員の眼は厳
とだと思ったからである。部員との納得のゆくまでの話
しかった。「他の部員の見せしめにならない。ドンドン
し合いの場を通じて、理解する心、信じあう心、それが
首切れ」ということらしかった。こういう問題部員を辞
ひいてはクラブ全体の協調につながってくると思った
めさせることはいとも簡単だった。しかし、そうするこ
からである。このようにして競技的に強くなったクラブ
とが果たして完全な問題解決になるだろうか。他の部員
こそが最後の勝利者となり得るにふさわしいと思った
の見せしめとは一体どういうことなのだろうか。これも
77
後からわかったことだが「自分は一生懸命やっているの
(沖山哲・小野木弘道・石川彰・太田徹)
に、あの人(問題部員)のことは放っておくのか」とい
2 部棒高跳
丸山 芳男
4 位
4 M00
うことらしい。全くもっておかしな話である。自分の好
2 部走幅跳
山口 義文
2 位
7 M12
きな陸上競技を目指して入部してきたのに他人がグラ
2 部三段跳
椎名 満
4 位
14M42
ンドに来れないから自分たちのやっていることは馬鹿
2 部ハンマー投重田 肇
3 位
41M68
らしいということは誠に幼稚な考え方である。彼ら問題
部員の表面的な事情しか知らないで、ただ首切れとはあ
◦第19回東北学院戦
まりにも自分よがりの考え方ではないだろうか。そうい
総合得点 青学33-東北33
う相手に対し、真に理解するという、思いやりのある広
トラック 青学20-東北16
い度量で見守ることが、クラブを大きく発展させる根本
フィールド 青学13-東北17
でもあると思う。競技に情熱を失っている者があったら
100M
山口 義文
2 位
11秒 3
元気をだせよ!とポンと肩をたたいてやる心意気がな
100M
川崎 卓
3 位
11秒 4
くてはどうして人間的に生きられるだろうか。たとえ、
400M
太田 徹
3 位
51秒 0
彼らに誠意がなくとも、それを求める以前に許してやり、
1500M
太田 徹
1 位
3 分59秒 4
もしそのことで相手がわからなかったら「こうなんだ
1500M
平野 憲司
2 位
4 分02秒 0
よ」と教えてやるくらいの度量がなくては真の意味での
1500M
日下 次郎
3 位
4 分03秒 1
クラブはできないと思う。表面的に判断して、
“お前の
5000M
服部 和則
1 位
15分19秒 0
やっていることは何だ!”とどなってみても選手はつい
5000M
岩崎 憲三
2 位
15分30秒 0
てこないのである。こんな、極小さなことで彼らを放り
5000M
安形 保夫
3 位
15分30秒 6
出してしまったら、彼らには何も残らないであろう。彼
110MH
生田 和美
3 位
17秒 0
らに残るのはクラブへの不信と、彼ら自身の心の弱さを
4 ×100MR
1 位
43秒 4
知るだけであろう。以上とりとめもないことを書いてし
(川崎卓・小松正彦・天野正彦・山口義文)
まったが、とにかく、走っているうちに何かをつかみ、
4 ×400MR
そこから得たものが、一生涯心の糧として生き続ける事
(沖山哲・鈴木・小野木弘道・石川彰)
が出来るそんなクラブに発展していってもらいたいも
走幅跳
山口 義文
1 位
7 M08
のである。己れの弱さに引きずり込まれることなく、積
走高跳
椎名 満
2 位
1 M65
極的な自分を考えていただきたい。常に自己に厳しく、
棒高跳
丸山 芳男
1 位
4 M11
お互いの協調によって生れる心通う暖かい環になって、
棒高跳
金野 武
2 位
3 M90
大きな目標に向って堂々と前進する青山学院大学陸上
円盤投
渡辺 芳次
2 位
31M48
競技部となることを祈っています。コーチ永井純先生を
槍投
渡辺 芳次
3 位
53M68
2 位
3 分33秒 2
中心とし、主将石川君!主務平田君!大健闘を期待して
います。終わりにあたって、最後まで、私を励まし、力
◦第11回三大学対抗陸上競技会
づけて下さった岩崎大先輩、更に四年生の皆さんに心か
(東京大学・東京農業大学・本学)
ら御礼を申し上げてペンを置かせていただきます。
総合優勝
100M
川崎 卓
3 位
11秒 3
100M
天野 正彦
4 位
11秒 3
◦第46回関東学生陸上競技選手権大会
400M
太田 徹
1 位
51秒 3
総合順位 4 位
400M
小野木弘道
4 位
54秒 5
4 分00秒 4
■戦 績
78
2 部200M
川崎 卓
5 位
23秒 2
1500M
太田 徹
1 位
2 部800M
太田 徹
1 位
1 分56秒 5
1500M
日下 次郎
2 位
4 分04秒 6
2 部800M
平野 憲司
5 位
1 分59秒 9
5000M
服部 和則
1 位
15分14秒 0
2 部1500M
太田 徹
1 位
3 分58秒 9
5000M
岩崎 憲三
2 位
15分48秒 4
2 部5000M
岩崎 憲三
5 位
15分11秒 0
110MH
小松 正彦
1 位
17秒 1
2 部5000M
服部 和則
6 位
15分20秒 4
110MH
生田 和美
2 位
17秒 9
2 部400MH
石川 彰
3 位
56秒 2
4 ×100MR
2 位
44秒 5
2 部3000MSC 太田 徹
1 位
9 分27秒 6
(川崎卓・小松正彦・天野正彦・山口義文)
2 部 4 ×400MR
4 位
3 分26秒 8
4 ×400MR
※大会新
(沖山哲・中島洸・小野木弘道・谷口太一)
2 位
3 分33秒 6
走幅跳
山口 義文
1 位
6 M95
鈴木 繁
鈴木 良人
走幅跳
片伯部雄二
4 位
6 M28
橘 良仁
谷口 太一
棒高跳
金野 武
1 位
3 M70
徳江 秀隆
丸山 芳男
棒高跳
丸山 芳男
2 位
3 M60
渡辺 芳次
砲丸投
高橋 勲
3 位
9 M99
砲丸投
重田 肇
5 位
8 M71
円盤投
高橋 勲
3 位
28M52
円盤投
重田 肇
5 位
26M46
槍投
柴川 勝儀
5 位
41M14
槍投
鈴木 繁
6 位
39M86
走高跳
青柳 博
3 位
1 M70
走高跳
椎名 満
4 位
1 M65
◦東京選手権
800M
太田 徹
4 位
1 分56秒 4
1500M
太田 徹
3 位
3 分55秒 9
5000M
服部 和則
予選 8 位15分23秒 6
走幅跳
山口 義文
6 位
6 M99
三段跳
椎名 満
8 位
14M 5
4 ×100MR
3 位
44秒 5
1967年 6 月15日
第19回青山学院大学対東北学院大学対抗陸上競技大会
(宮城陸上競技場)
(川崎卓・小松正彦・天野正彦・山口義文)
◦第36回全日本学生陸上競技対校選手権
1500M
太田 徹
5 位
3 分58秒 6
◦ユニバーシアード最終選手選考会
1500M
太田 徹
3 分52秒 1
1967年 6 月15日
第19回青山学院大学対東北学院大学対抗陸上競技大会
(宮城陸上競技場)
◦第44回東京箱根間往復大学駅伝競走予選会
総合順位 2 位
総合記録 11時間02分57秒
◦第44回東京箱根間往復大学駅伝競走
総合順位 7 位
総合記録 12時間02分01秒
部長
小林 孝輔(法学部教授)
OB会長
坂入虎四郎
監督
加藤 愼蔵
監督代理
永井 純
コーチ
勝俣 忠義
コーチ
中西 英一
主将
山口 義文
主務
椎名 満
新入部員
生田 和美
井上 洋三
岩沢 茂
小田島義男
日下 次郎
清水 茂
79
1968
(昭和43年)
関東インカレ
2部 2位
箱根駅伝予選会
シード校
■概 要
さて、合宿であるが、朝と夕の食事当番を必要とした。
体育会史より〈 1 〉
昼は各自で食べることになったが朝と夕は順番に食事
我が陸上競技部において、今年度は飛躍の年であった
当番を受け持たねばならなかった。従来なら食事のこと
と思います。年頭の箱根駅伝には第七位、春の関東学生
など気にせず、練習のことだけに専念すればよかったの
で二部二位となり、一部昇格。後半になって我が陸上競
だが、そういった点からもいつもの合宿とは異なり勝手
技部のコーチである永井純先生がメキシコオリンピッ
が違った。しかし反面、全員協力して行ったと云うこと
ク代表に選ばれました。全く喜ばしいことであります。
は自主的な合宿だったかもしれない。
永井先生の活躍によって青山学院大学の名が陸上競技
合宿に入る前、各自がその合宿に臨んでの目的を決め、
界に知れ渡るようになりました。そして我々にとっては、
入念に計画を立てる。そしてその計画に従って目的を達
大きな刺激となっています。
成させるところに合宿の意義と云うものが生れてくる。
今年は、今後大躍進を目指している我が部にとってそ
果たして、この合宿の反省において各ブロック共に、
“計
の第一歩を踏み出したと言ってよいでしょう。しかし、
画通り練習できた”という答えが出た。この合宿は成功
今年度の成績はフロックという感じがしないでもあり
だったと思うが、部員の中に“今回の合宿は、合宿とい
ません。箱根駅伝七位は、全日本学生で七位ということ
う感じがしなかったと云う声が多かった”ようである。
であり、その成績は他校のブレーキにささえられた感じ
なぜなのだろうか。計画通りに練習ができたと云うにも
でもあります。部員の面々もその事はよく感じとってい
かかわらず、そう云った声が出たことは……。やはり場
るはずです。来年一部に昇格しても、一部に残ることに
所が平常練習している綱島グランドであったことが原
精一杯であって、ここ二~三年がきびしいでしょう。と
因だろう。環境を変えて練習すると云うことは必要なこ
いうわけで、実際のところ来年の成績によって今年の成
となのかもしれない。綱島も確かにカントリーにはちが
績が本来のものとなるかが決まるわけです。それには部
いないが、地方の風景、空気、などと比べるとやはり汚
員、各々の競技に対する熱意いかんによるものでありま
れていると云わざるを得ない。朝は澄みきった風に吹か
す。競技に自から挑戦し、そこから答えをあみ出し、そ
れて、昼は雄大な自然をバックに、夕べはたなびく柴雲
れに不信を持ち、考え、それによって一層競技熱が増す
をながめ練習する。今までとは異なった、美しい自然の
ことであろう。一人一人信念を持ったものが集まって、
中でトレーニングに励むと云うことでおのずから意欲
クラブを形成しなくては、陸上競技部は成り立っていけ
が湧いてくる。我々はいつも工業地帯の汚れた環境条件
ないと思います。他人に言われて練習をし、なんら競技
の中で練習している故、そういったことが必要となるだ
に対して考えを持たない者がいくら、多く集まってもク
ろう。大学の緊急事態の中で、やむを得ないとは言え、
ラブ自体何の意味ももたない。現在、我がクラブはまだ
残念なことだった。
まだ不安定である。ただなんとなく競技をしている者も
もうひとつ。合宿費がきわめて安かったことは、よ
いる。しかし、それらの人達は、不信を感じながらも、
かったと思う。
競技に対してある信念をみつけつつ、その方向に進みつ
最後に、今回の合宿はとても意義があったことを確認
つある。中途半端な状態から我が部は現在ある方向に傾
して筆をおく。
こうとしている。我々は好転のきざしを見せつつある我
が部がなお一層発展するように努力しなくてはならな
■戦 績
い。諸先輩が築き上げた城を一層大きなものへと今後も
◦第47回関東学生陸上競技選手権大会
期待してください。我が部が陸上競技界に青山学院大学
総合順位 2 位(58.5点)※一部校昇格
の名をとどろかせて、青学大旋風を、巻き起こすでしょ
2 部800M
太田 徹
1 位
1 分55秒 2
う。
2 部1500M
太田 徹
1 位
3 分58秒 4
2 部5000M
太田 徹
2 位
14分50秒 6
2 部10000M
岩崎 憲三
4 位
31分40秒 8
体育会史より〈 2 〉
80
箱根駅伝
9位
八月十九日、大学はロックアウト。いつ授業が開始さ
2 部20KM
岩崎 憲三
3 位
1 時間06分08秒
れるか解らないと云う不安な状況の中で夏期合宿は行
2 部20KM
服部 和則
4 位
1 時間06分27秒
われた。学校の状態を考えて場所は東京から遠く離れず
2 部400MH
生田 和美
5 位
56秒 6
にやることとなり、通常、練習を行っている綱島グラン
2 部3000MSC 太田 徹
1 位
9 分24秒 6
ドと決まったのである。
2 部3000MSC 服部 和則
2 位
9 分28秒 2
2 部 4 ×100MR
6 位
43秒 9
2 部 4 ×400MR
2 位
3 分26秒 5
(谷口太一・石川彰・稲本多津郎・太田徹)
2 部棒高跳
丸山 芳男
6 位
3 M80
2 部走幅跳
本郷 茂
2 位
6 M95
2 部走幅跳
片伯部雄二
5 位
6 M67
2 部砲丸投
橘 良仁
3 位
11M88
2 部槍投
飯田 洋
6 位
54M22
◦第37回日本学生陸上競技対校選手権
800M
太田 徹
2 位
1 分51秒 5
※大会新
1500M
太田 徹
2 位
4 分02秒 2
800M
太田 徹
5 位
1 分52秒 8
1500M
太田 徹
3 位
3 分52秒 5
4 ×400MR
3 位
3 分29秒 1
◦全日本選手権
1968年 6 月
第20回青山学院大学対東北学院大学対抗陸上競技大会(東京都・
立川市営陸上競技場、1600mリレー、沖山−彦山−石川−稲本)
(彦山進・竹山勝・稲本多津郎・石川彰)
◦第45回東京箱根間往復大学駅伝競走予選会
シード校のため不参加
◦第45回東京箱根間往復大学駅伝競走
総合順位 9 位
1968年 8 月
短長合同合宿(新潟県・佐渡)
総合記録 12時間01分11秒
部長
小林 孝輔(法学部教授)
監督
加藤 愼蔵
コーチ
永井 純
主将
石川 彰
主務
平田 明康
新入部員
飯田 洋
飯山 一美
稲本多津郎
大島 滋
尾花 実行
河内 喜一郎
小平 務
竹山 勝
田中 英男
田村 雅明
彦山 進
本郷 茂
本多 直人
森 清美
柳田 進
吉岡 博美
1968年11月23日
東京都下陸上競技選手権大会(東京都・国分寺市国鉄グランド、
800mリレー優勝、彦山−石川−沖山−谷口)
1969年 2 月12日〜17日
短長合同合宿(東京都・大島町)
81
1969
(昭和44年)
関東インカレ
1部 10位
箱根駅伝予選会
シード校
■概 要
関東学生選手権で 3 年連続 3 種目優勝した時である。
体育会史より
1600mリレーに 2 位、5000mに 2 位を収め、合計34点獲
4 年間で得たもの
得した最終日、三ッ沢競技場は 1 日中雨にたたられて、最
太田 徹
悪のコンディションだった。数種目のレースを終え、身体全
私は 4 年間走った。いや陸上競技をした。精一杯やるこ
体に疲労を感じ、立っているのも疲れ、横になり、マッサー
とが出来た。青山学院大学の陸上競技部に入れたからこそ、
ジだけでレースに出場していた。前日に 3 回、当日 4 回の
走るだけでなく陸上競技をやれたのだと思う。私は年々、競
レースがあったが、その最終の種目、1600mリレーの時は、
技をやりながら、自分では何か、いろいろな事を得ている
1500mの決勝が20分前に終わったばかり、リレーのスター
ように思えてきた。私は、忙しい、疲れた、どこか一人で
ト直前に、グランドに出ていって、ただもう走るのみという
のんびり旅行にでも行きたい。ゆっくり温泉でもつかりたい
感じでした。雨の中、 4 回目のレース。ランニング、ランパ
と思っている時に、生活が充実しているように感じた。そ
ンはびしょ濡れで冷たく、着替えるものも濡れていました。
んな時は、毎日かならず規則正しい生活を送っていた。何
得点の事を考えず、ただ引き継ぐだけ。アンカーでしたので、
かしていなければ気がすまない性質で、何かをしていた、と
バトンを持って、ゴールに入れば…と思いました。精神的に
いう確信を得たい。私はそんな気持ちで、陸上競技をして
はかなりリラックスしていたようです。いよいよ一走がスター
きた。陸上競技をしている時は、何か、私は満足していた。
ト、私は 2 位、 3 位とほとんど同時に引き継ぎました。ア
私が、満足した陸上競技によって、何を得たか?
ンカーはリレーだけのものや400m専門の強力メンバーで、
陸上競技、特に走力を競う種目は、よく孤独のスポーツ
何人抜かれるかということでした。私はこの時、快心なレー
といわれる。私は練習時において、
一人で走っても決して孤
スをしました。 2 位争いどころか、スタートしてすぐ 2 位に
独ではなかった。走っている時は、
常に何か考えている。そ
はなされ、 4 位の選手に抜かれそうになった時、私の身体
して自分自身を追い込むことにより、精神力が肉体の限界
の中で、負けてなるものかと思ったとたんに、何か力がこ
を越える時、なんとも言えない満足感にひたることが出来
みあげてきて、急にスピードにのり、引き離し、 2 位へぐん
る。決して孤独ではない。精神が肉体に勝とう、と戦って
ぐんつまり、ラスト100mで抜いてしまったのです。抜いた選
いる。苦しみも楽しみに変えるのが陸上競技である。私が、
手は明大の400mで日本でかなりの上位にランクされていま
孤独感におちいる時は、優勝しなくてはならない試合の
す。ラスト50mぐらいからトップにせまったのですが、時す
レース直前だけである。私は 4 年目に、そのような試合を
でに遅し。しかし、 2 位でゴール、大会新でした。他の 3
多く経験した。敗れることは許されない。そのうち勝って
人のメンバーと大喜びし、今までの疲れもすっとんでしまっ
当然、好タイムを出さなくてはというようになってしまった。
て、雨の中でいつまでも、濡れていました。この時、私は
レース直前、精神的に激しく追い込まれ、何かが私に迫っ
精神力の勝利だ、と強く感じました。他の選手より多くの
て、おおいかぶさり、深い孤独感を味わう。私一人がなぜ、
レースをやり、休み時間も少ないから、互角に戦えたら上
こんなに追い込まれるのだろう。何か異変が起きて、レー
出来と思っていた。しかしその反面、いくらハンデを背負っ
スが延期になれば、と思うのである。スタートするとホッと
ていても決して負けるものか、と思いました。
する。走っている時の苦しみなんぞ、
スタート前と比べれば
私は実力の上の人とのレースが、とてもやりやすい。思い
大したことはない。私のレースは、 2 分か 4 分以内で終わ
切ってぶつかっていける、予想以上の力を出せる、精一杯
る。レースの前と後のたったこれだけの違いで、なぜ精神
やれる、そのような気がします。私はそんなわけで、 4 年
的に、こうも違うのだろう、とレース終了後の安堵感を味
間陸上競技をしてきましたが、自分でもやれる、という精
わった時にいつも思うのであった。どうして、試合前あんな
神力が少しずつ備わってきたような気がします。何でもやっ
に苦しまなければならなかったのか、こんなに気楽に勝て
てみよう、という精神をもった人間になりたい。陸上競技
たのに、楽勝だったのに…。
は私をそんな人間に近づけてくれたような気がします。4 年
陸上競技は、精神的にも強くなければ勝つことが出来な
間私にこのような経験をさせてくれた陸上競技を出来るよ
い。 4 年間で、強く感じたことは、やれるという精神力で
うな環境を与えて下さった皆様へ、感謝の気持ちでいっぱ
ある。私にもやれるである。精神力さえあれば肉体の限界
いです。充実した 4 年間を過ごさせていただきまして、あり
を越えることは、大して、難しくない。私がここでいう肉体
がとうございました。
の限界は自覚しているものであり、自分自身がもうだめだと
感じた時である。真の肉体の限界はもっと先にあるかもし
■戦 績
れないが、まず、少しずつその頂点に達するには、精神力
◦スポニチ選抜
が必要だと思う。
800M
精神力で走りぬいた経験がある。それは私の 3 年の春、
82
箱根駅伝
12位
太田 徹
1 分53秒 5
◦第48回関東学生陸上競技選手権大会
走幅跳
本郷 茂
決勝出場
総合順位 10位
走高跳
石川 嘉之
決勝出場
十種
清水 茂
20位
5607点
100M
竹山 勝
予選落
200M
谷口 太一
予選落
800M
太田 徹
1 位
1 分54秒 9
◦第53回日本陸上競技選手権大会
1500M
太田 徹
1 位
4 分07秒 7
800M
太田 徹
1 位
1 分52秒 7
5000M
徳江 秀隆
予選落
1500M
太田 徹
1 位
3分5秒0
10000M
服部 和則
決勝出場
30KM
尾花 実行
決勝出場
◦五ヶ国対抗陸上競技大会
30KM
井上 洋二
決勝出場
30KM
田村 雅明
決勝出場
800M
4 位
1 分49秒 0
30KM
本多 直人
決勝出場
20KMW
中澤 進一
7位
◦全日本大学選抜能登駅伝競走大会
400MH
生田 和美
予選落
3000MSC
服部 和則
8位
総 合 4 位 18時間45分58秒
4 ×400MR
5 位
3 分27秒 6
(彦山進・稲本多津郎・飯山一美・太田徹)
走幅跳
本郷 茂
決勝出場
砲丸投
橘 良仁
予選落
十種
清水 茂
太田 徹
※日本学生新
一日目 5 位 6 時間30分16秒
二日目 7 位 5 時間50分51秒
三日目 4 位 6 時間24分51秒
太田徹・柳田進・服部和則・河内喜一郎・徳江秀隆・本
4847点
多直人・井上洋二・斉藤邦明・尾花実行・青木律・田村
雅明・森猛・小平務・椎名通
◦東北学院戦
◦第46回東京箱根間往復大学駅伝競走予選会
総合 東北学院36点-青山学院30点
シード校のため不参加
100M
竹山 勝
3 位
11秒 4
400M
彦山 進
2 位
51秒 8
◦第46回東京箱根間往復大学駅伝競走
1500M
太田 徹
1 位
4 分00秒 6
1500M
服部 和則
3 位
4 分06秒 8
総合順位 12位
5000M
太田 徹
2 位
15分14秒 4
5000M
服部 和則
3 位
15分30秒
4 ×100MR
2 位
43秒 9
(本郷茂・竹山勝・片伯部雄二・外岡広一)
4 ×400MR
1 位
3 分27秒 8
(彦山進・鈴木繁・飯山一美・稲本多津郎)
走幅跳
本郷 茂
1 位
6 M99
走高跳
石川 嘉之
1 位
1 M90
走高跳
清水 茂
2 位
1 M80
棒高跳
丸山 芳男
1 位
3 M60
円盤投
清水 茂
1 位
35M46
円盤投
橘 良仁
2 位
33M86
槍投
飯田 洋
3 位
56M14
総合記録 12時間26分32秒
部長
小林 孝輔(法学部教授)
監督
加藤 愼蔵
主将
太田 徹
主務
中島 洸
新入部員
青木 律
石川 嘉之
海老根 明
椎名 通
外岡 広一
中島 三行
増田 俊英
森 猛
◦第38回日本学生陸上競技対校選手権
100M
竹山 勝
予選落
11秒 5
400M
彦山 進
予選落
50秒 6
800M
太田 徹
1 位
1 分52秒 1
800M
飯山 一美
予選落
1 分58秒 8
4 分00秒 9
1500M
太田 徹
1 位
20KM
井上 洋二
決勝出場
20KM
田村 雅明
決勝出場
20KM
尾花 実行
決勝出場
3000MSC
服部 和則
6 位
9 分07秒 0
1969年 5 月23日
第48回関東学生陸上競技選手権大会(国立競技場/選手入場行進)
83
●太田徹の勇姿●
84
太田徹さんとの関わり、思い出
中村 宏幸 1974年(昭和49年)度卒業
太田さんのことは、小学校の時からよく知っていまし
一方、太田さんの義兄さん(お姉さんのご主人)が、
た、と言いますのは、太田さんの叔母さんと私の母が親
交通事故で牛乳配達、販売が難しくなった折、私が大学
友であり、叔母さんが私の家の近所に住んでいたので、
1 年の夏ですが、夏季期間中、毎日、牛乳販売のお手伝
私も太田さんの従兄弟たちとよく一緒に遊んだ覚えが
いをしたことがありました。上大岡の日揮ビルに大量に
あります。勿論、太田さんのお姉さんも存じています。
牛乳を販売していましたので、朝 9 時から午後 3 時過ぎ
私が小学校 6 年生(昭和39年)の時に開催された東京
まで、牛乳の配達、販売、空ビンの回収と非常によい
オリンピックでは、当時、横浜市立南高等学校の生徒で
ウェイトトレーニングになりました。
あった太田さんが、聖火ランナーの一員として走ってい
私がよく聞かされました太田さんの 3 大格言は
たのを見ていました。
① 2 位、 4 位、 7 位にはなるな
私は、なんの躊躇いもなく、太田さんと同じく横浜市
②終わりよければ、全てよし、最後が大事だ
立南高等学校陸上競技部へ進みました。高校の夏季合宿
③陸上バカではいけない、もっと幅広い人間になれ
のお墓での肝試しでは、OBが現役で驚かす役であるこ
でした。
とを事前に知っていましたから、私たち現役は秘密で別
ある横浜市民大会では、コール締切直前にやってきて、
働隊チームを作って、OBを逆に驚かしてやろうと計画
アップも殆どせずに、そのままスタートし、あっと驚く
し、このワナにまんまと太田さん他数名のOBが引っか
1 分50秒 5 でゴールしました。
かりました。
当時800mでは、太田さんと永井純さんとの師弟対決、
3 年間の夏季合宿期間中は、太田さんの実家が牛乳店
大阪ガスの水野さんとの一騎打ちも見物でした。そして、
であったことから、毎年、貴重な牛乳を大量に差し入れ
新婚直後の箱根駅伝の予選会に応援に来られた時は、唖
て頂きました(感謝感激)
。
然とした記憶がありました。
85
太田徹氏との思い出
青木 国昭 1976年(昭和51年)度卒
1973年(昭和48年 3 月)の豊橋市での歓迎会合宿の激
十数階分を一気に上下する感覚で今でも印象に残って
励に見えられたのが初対面でした。この方が当時の
います。経路を変更してまで可能な限り目的を全うする
800m学生記録保持者であり、また、日本選手権も複数
ことに対して偉大さを感じました。その後、別添写真提
制覇している日本中距離界に君臨しており、さらに当時
供のように軽井沢での自主合宿、 4 年生(1976)時は、
の学生人気度No 1 企業である東京海上の社員で、スー
箱根の最終区間での棄権を受け強化合宿等例年より多
ツ姿、容姿など格好よく雲上人のように思えました。し
く取り入れ、太田先輩も精力的に指導に当たられ取り組
かし、実際は気さくで面倒見のよい頼りがいのあるお兄
んでまいりましたが、残念ながら予選落ちしてしまいま
さんという感じでした。さて当時の大学の週間練習日程
した。その後競技終了となった私にバイト(三越本店の
は月曜はフリー、火曜は 3 時に部室(当時は渋谷キャン
お歳暮担当)の世話やいろいろ飲みに連れて行っても
パスのみで理工だけ世田谷)に集合ブロック別練習、水
らったり、大変可愛がってもらいました。また、卒業後、
曜は午後から東横線綱島から徒歩10分ほどの綱島グラ
山形での小生の結婚披露宴まで来ていただき感謝して
ンド(野球場、テニスコート10面以上(?)
、ラグビー
おります。その後、松山に転勤されたとお聞きしており
場、乗馬クラブ馬小屋、400mトラック陸上競技場etc)
ましたが、まもなく逝去の連絡があり、翌年横浜での偲
においての合同練習、木曜はフリー、金曜は 3 時からブ
ぶ会に参加しました。もし、存命であったら箱根復活も
ロック別練習、土曜は午後から綱島での合同練習、日曜
短期間で成就できたのかなと思い、早すぎる死にいまさ
はフリーと言ったような日程でありました。火曜、金曜
らながら残念でなりません。再拝。
に長距離は織田フィールド(当時無料開放)又は代々木
公園でのペース走が主な練習メニューでした。そんな中、
太田氏は会社帰り織田フィールド又は代々木公園にお
ける練習に来ていただき、学生を引っ張ってくれました。
練習終了後は渋谷に下りて居酒屋、スナックなどに連れ
て行ってもらったことが思い出されます。いつごろか記
憶が定かではありませんが、1 年生か 2 年生の 1 月下旬
に伊豆大島で自主合宿をすることで、メンバーは太田氏
以下記憶無、当日大時化(おおしけ)で竹芝からの船が
欠航、それでも熱海からは大丈夫ということで熱海に新
幹線で向かい熱海から乗船。その時の船の揺れ幅の大き
さに気持ち悪いのなんのって、例えればエレベーターで
86
1976長野県軽井沢での自主合宿
後列左から
松原 3 年、太田氏、青木 4 年、東京海上の方
前列左から
阿部氏OB、東京海上の方
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