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横光利一﹃旅愁﹄ ︱︱ パリとの格闘

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横光利一﹃旅愁﹄ ︱︱ パリとの格闘
横光利一﹃旅愁﹄︱︱パリとの格闘
一
西
村
靖
敬
横光利一の﹃旅愁﹄第 一 篇︵初 出﹃東 京 日 日 新 聞﹄
﹃大阪毎日新聞﹄一九三七年四月一四日∼八月六日︶の冒
頭近くには、日本から長い船旅を続けてきていよいよ翌日にマルセイユ上陸を控えた主人公矢代の心境が次のよ
うに記されている。
彼は今の自分を考へると、何となく、戦場に出て行く兵士の気持ちに似てゐるやうに思つた。長い間、日本
︵1︶
︵2︶
がさまざまなことを学んだヨーロツパである。そして同時に日本がそのため絶えず屈辱を忍ばせられたヨー
ロツパであつた。
︵3︶
さらにこれに続けて、﹁明日はいよいよ敵陣へ乗り込むのである﹂と畳み掛けられる。
﹁歴史の実習かたがた近代文化の様相の視察﹂のためにパリに向かう矢代にあって、﹁戦場に出て行く兵士の気
(7
7)
千葉大学人文研究 第三十六号
︵4︶
持ちに似てゐる﹂とか、﹁敵陣へ乗り込む﹂といった表現は穏やかではないが、これから始まろうとするこの青
年のパリでの生活は、そしてさらには日本帰国後の生活は、まさにパリやヨーロッパとの﹁闘い﹂であり﹁格闘﹂
︵5︶
︵6︶
と形容できるものなのである。そして、これまで必ずしもあまり注意されてこなかったと思われるのだが、パリ
︵7︶
と格闘するのは何も﹁日本主 義 者 ﹂ の 矢 代 だ け で は な い 。 彼 と 対 立 す る ﹁ ヨ ー ロ ッ パ主 義 ﹂ を 自 認 す る 久 慈 も ま
た、﹁ここは戦場と同じだね。頭の中は弾丸雨飛だ﹂と矢代に向かって言うのである。さらには、彼らと議論を
︵8︶
闘わす文学者の東野についても、﹁文字を書くことを専門としてゐるものは、東野のみならず、結局は何らかの
意 味 で 、 世 界 の 誰 も 彼 も ひ そ か に パ リ と 闘 つ て ゐ る ら し い 風 だつ た ﹂ と あ る 。 つ ま り ﹃ 旅 愁 ﹄ と は 、 そ の 思 想 的
立場の違いこそあれ、登場人物たちのそれぞれのアイデンティティをかけた﹁パリとの格闘﹂の物語と言い得る
のである。
特に矢代がそのパリとの﹁闘い﹂や﹁格闘﹂の果てに到達した地点は確かに﹁日本主義﹂や﹁ナショナリズム﹂
、
﹁国粋主義﹂の名で呼ばれ得るものであり、それらについては、作者横光の思想とも深く関連付けられながら、
こ れ ま で さ ま ざ ま に 論 じ ら れ、評 価 さ れ て き た。本 稿 は、本 作 品 に お い て 矢 代 の み な ら ず 、 多 数 の 人 物 た ち に
よって展開され る﹁日 本 主 義﹂や﹁日 本 文 化 論﹂
、そして﹁ヨーロッパ主義﹂や﹁ヨーロッパ文化論﹂をも今日
の時点であらためて批判的に検証、検討しようとするものである。
(7
8)
二
だが﹃旅愁﹄について論じる前に、短編ながら﹃旅愁﹄と同様に主人公の渡欧が物語の主軸をなし、その意味
で﹃旅愁﹄のエチュードとも位置付けることのできる﹁厨房日記﹂
︵﹃改造﹄一九三七年新年号に初出、同年四月
一日刊行の﹃歐洲紀行﹄に収載︶を見ておきたい。この小品にすでに後の﹃旅愁﹄の特徴のいくつかが垣間見え
るからである。
この作品では、ヨーロッパから帰国してきた梶によって、妻の芳江や友人たちに独特の比較文化論、すなわち
︵ ︶
アル・クロイゲル﹂の娘とされているのも明らか
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日本文化論とその対となるヨーロッパ文化論が披瀝される。この作品の前半部で梶が語るのは、日本人の友人に
連れられてパリのモンマルトルにあるトリスタン・ツァラ︱︱作品中では、﹁トリスツアン・ツアラア﹂と表記
︵9︶
されている︱︱の自宅を訪問した際のエピソードである。その際にツァラらに向かって梶が開陳した文化論につ
いて検討する前に、その前提としていくつかの指摘を行なっておきたい。
まず、この人物ツァラについて、﹁スヰスのシユールリアリストたちの発会式のとき彼ら一団の頭目であつた﹂
︵ ︶
という解説がなされているが、文学史的、文化史的に見て、これは明らかに事実誤認である。ここでいう﹁スヰ
ので、正しくは、一九一六年にスイスのチューリッヒで発足した﹁ダダ﹂の﹁発会式﹂であって、一九二四年に
スのシユールリアリストたちの発会式﹂というのは、﹁丁度ヨーロツパ大戦の最中﹂にあったこととされている
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パリで公式に運動が開始される﹁シユールリアリストたち﹂のそれではあり得ないのである。
次に、ツァラの妻が﹁スエーデンのマツチ王と呼ばれたイ
横光利一﹃旅愁﹄︱︱パリとの格闘
ワ゛
千葉大学人文研究 第三十六号
に誤りである。ツァラの結婚相手は確かにスウェーデン出身ではあるが、﹁マツチ王﹂クロイゲルとは縁もゆか
りもないグレタ・クヌートソンという、画家でもあり詩人でもあった女性だからである。姓の違いからしても、
このような誤認がなぜ生じたのか理解に苦しむところである。
これらは単なるケアレスミスによるものかもしれないが、﹁ドストエフスキイ﹂や﹁シユールリアリズム﹂に
たびたび言及し、少なくとも﹁知識階級﹂の一員には違いない︱︱その職業は不明だが︱︱梶にあっては、決し
て黙過できるものではなかろう。このようなミスを犯した時点ですでに梶は知識人としての資格の大半を喪失し
てしまうはずだからだ。だがさらに、以下に述べるように、この種の事実認識︱︱実は事実誤認なのだが︱︱が
!
︵ ︶
ゐた一人である。
︵ ︶
はなく﹁ダダ﹂である︱︱のリーダーであるツァラと﹁スエーデンのマツチ王﹂クロイゲルの娘との結婚は、ヨー
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こ の 人 物 の 思 想 的 意 図 を 支 え る 役 割 を 担 う 仕 組 み と も な っ て い る こ と か ら し て、事 態 は よ り 重 大 で あ る 。 こ こ
で、次の一節を引用しよう。
ツアラアはその義父のごとき実業家の集団に対して、まんまとスヰスで一ぱい食はせた怪物だ。彼とクロイ
!
ゲルとのこの家での漫然とした微笑は、ヨーロツパのある両極が丁丁と火華を散らせた厳格な場であつた。
!
恐らくそれは常人と変らぬ義理人情のさ中で行はれたことだらう。梶は知性とはそのやうなものだと思つて
!
スイスで﹁街の有力者全部﹂に﹁一ぱい食はせた﹂ダダ︱︱前述の通り、正しくは﹁シユールリアリズム﹂で
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論 理 で は 理 解 不 可 能 な ﹁ 両 極 ﹂ の 融 和 で あ り 、 こ れ こ そ 、 ヨ ー ロ ッ パ 的 知 性 を 超 越 し た 日本 的 な
=
!
化の一切の根底はこの無の単純化から咲き出したもので、地球上の総ての文化が完成されればこのやうにな
ぬ。つまり、生活の秩序を完成さすためには人間は意志的に無になる度胸を養成しなければならぬ。日本文
ふものだと云つてくれ給へ。日本人は社会の秩序を何より重んじるから、自然に個人を無にしなければなら
﹁ そ れ は 見 栄 で も 責 任 で も な い 。 世 の 中 の 秩 序 を 乱 し た と 感 じ る も の が、自 分 の 行 為 を 是 認 す る た め に 行
と梶に説明した。梶は友人に向つて云つた。
﹁日本人の腹切りは見栄でやるのか責任を感じてやるのかと、この婦人が訊ねるんですよ。
﹂
ると、日本人の義理人情の細やかさから説明しなければならなかつた。梶の横に通訳のやうにゐた友人は、
と訊ねた。梶は咄嗟のこととてすぐには返事出来なかつた。もし外人の了解出来る適当な解釈をしようとす
﹁日本人はどうして腹切りをするのです。
﹂
すると、今まで梶の横で誰とも話さなかつたむつつりした一人の婦人が不意に梶に向つて、
それでは続いて、問題の梶の﹁義理人情﹂論が展開される有名な一節を以下に引用しよう。
そもそも事実に反するものでしかなかったのである。
正当性を主張するための伏線となっていることは疑い得ない。ところが、梶の思惑に反して、このような設定は
﹁義理人情﹂のなせる業だというのである。これが、この引用箇所の後で梶により披瀝される﹁義理人情﹂論の
ロッパ的知性
!
るものだといふ模型を造つてゐるやうな社会形態が、日本だと思ふと云つてくれないか。つまり知性の到達
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!
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︵ ︶
出来る一種の限界までいつてゐる義理人情の完璧さのために、も早や知性は日本には他国のやうには必要が
﹂
ないのだと思ふ。
このような梶の所論に対し、本作品が発表された直後に、横光らに対抗するプロレタリア文学陣営の中条︵宮
︵ ︶
本︶百合子は﹁﹃迷ひの末﹄︱︱﹃厨房日記﹄について﹂
︵﹃文芸﹄一九三七年二月号︶を発表して、﹁ともかく何
︵ ︶
判したのだった。そして、﹁義理人情﹂を天まで持ち上げる横光に対し、ロンドンへの留学を通して夏目漱石が
か ヨ ー ロ ツ パ 的 で な い も の を 抽 き 出 し て 、 こ れ が 日 本 で あ る と 云 ふ た め に 、 ひ ど い 無 理 を し てゐ る ﹂ と 痛 烈 に 批
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︵ ︶
自然であるべき人間相互の関係を歪め、そこから生じた不調和や偽善に対して、人間的な、自覚をもつ我、及び
﹁日本の義理人情といふものをも客観的に把握し解剖する力を獲得した﹂とし、﹁旧来の義理人情といふものが
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︵ ︶
という梶の発言が見られたが、本作品では続いて、いわば﹁地震文化論﹂とでも呼ぶべき日本文化論が開陳され
先の引用部には、この﹁義理人情﹂に関連して、﹁日本文化の一切の根底はこの無の単純化から咲き出した﹂
中条百合子の批判や指摘は、全体として妥当なものと言うべきであろう。
自 然 的 人 間 情 緒 が 捲 き 起 さ ざ る を 得 な い 軋 轢 と 相 克 と を 描 き得 た ﹂ と 、 漱 石 の 方 を 賞 賛 し た の だ っ た 。 こ れ ら の
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だといふことです。︵中略︶一回の大地震でそれまで営営と築いて来た文化は一朝にして潰れてしまふので
﹁日本といふ国について外国の人人に知つていただきたい第一のことは、日本には地震が何より国家の外敵
る 。 梶 は 、 ツ ァ ラ の ﹁ 日 本 は ど う い ふ 国 です か ﹂ と い う 問 い に 答 え る か た ち で 、 こ う 述 べ る 。
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す。すると、直ちに国民は次の文化の建設を行はねばならぬのですが、その度に日本は他の文化国の最も良
!
い 所 を 取 り 入 れ ま す 。 一 世 代 の 民 衆 の 一 度 は 誰 で も こ の 自然 の 暴 力 に 打 ち 負 か さ れ 他 国 の 文 化 を 継 ぎ た す 訓
!
!
!
!
!
用することのみに向けられる習慣を養つて来たのは当然です。このやうな習慣の中に今ヨーロツパの左翼の
来 た の で す 。 そ の た め 全 国 民 の 知 力 の 全 体 は 、 外 国 の や う に 自然 を 変 形 す る こ と に 使 用 さ れ ず に 、 自然 を 利
!
練 か ら 生 ず る 国 民 の 重 層 性 は 、 他 の ど こ の 国 に も な い 自然 を 何 よ り 重 要 視 す る 秩 序 を 心 理 の 間 に 成 長 さ せ て
!
知性が侵入しつつあるのですが、しかし、これらの知性は日本とヨーロツパの左翼の闘争対象の相違につい
!
て考へません。従つて同一の思想の活動は、ヨーロツパの左翼の闘争が生活機構の変形方法であるときに、
!
!
!
!
!
︵ ︶
横光利一﹃旅愁﹄︱︱パリとの格闘
文化の断絶をも超越して万古不易なものとして受け継がれてきたというのであろうか。ここには、大いなる自己
化史においてどのように位置付けられるのであろうか。﹁義理人情﹂のみは、地震によって宿命付けられてきた
する。それならば、先に力説した日本人や日本文化のいわば真髄とされる﹁義理人情﹂は、このような日本の文
それに起因するいわば文化の断絶と、その結果として歴史的に形成されてきた﹁国民︵文化︶の重層性﹂を強調
ここで梶は日本に関し、﹁一回の大地震でそれまで営営と築いて来た文化は一朝にして潰れてしまふ﹂と述べ、
﹂
動です。︵後略︶
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!
日 本 の 左 翼 は 日 本 独 特 で あ る と こ ろ の 秩 序 と い ふ 自然 に 対 す る 闘 争 の 形 と な つ て 現 れ て し ま つ た の で す 。 こ
!
れ は ど う し た つ て 絶 対 に 負 け る の は 左 翼 で す 。 つ ま り 、 そ れ は 自然 に 反 す る か ら な ん で す 。 ヨ ー ロ ツ パ の は
!
す で に 自 然 に 反 し た も の を 自然 に 返 さ う と す る 左 翼 で あ る の に 対 し て 、 日 本 の 左 翼 は 自然 に 反 さ う と す る 運
!
千葉大学人文研究 第三十六号
矛盾が潜んでいると言わざるを得ない。先に見た中条百合子の批判も、﹁義理人情﹂というものが超歴史的に存
在するものではなく、まさに特定の歴史性を刻印されたものに他ならないという認識に基づくものだったのであ
る。
また、言葉の示す概念を厳密に規定するのではなく、むしろ用語の多義性を利用して、悪く言えば悪用して、
自説を強引に押し通す論法がここに現れていることも併せて指摘しておかねばならない。それは先の引用箇所に
頻出する﹁自然﹂という語についてである。最初に現れるこの用語は、﹁自然の暴力﹂︱︱地震を意味する︱︱
とあるので、﹁自然界﹂と言い換え得るものであろう。ところが、数行先に﹁秩序といふ自然﹂という言葉遣い
る。梶は、ツァラにとって﹁日本のことなど霞の棚曳いた空のやうに、空漠としたブランクの映像のまま取り残
言の反応に対する梶の受け止め方が記されている。だがこの箇所にも、実は文化史的に論ずべき問題が潜んでい
霞 の 棚 曳 い た 空 の や う に 、 空 漠 と し た ブ ラ ン ク の 映 像 の ま ま 取 り 残 さ れ て ゐ るの だ ﹂ と 、 ツ ァ ラ の そ の よ う な 無
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が出てきてからは、それ以降の﹁自然﹂は﹁自然界﹂をいうのではなく、いつの間にか社会秩序や社会体制を意
味 す る 社 会 的 、 政 治 的 な 意 味 合 い に 転 化 し て し ま っ て い る の で あ る。そ し て こ こ か ら、永 遠 に 不 滅 の ︵ ? ︶
﹁秩
序といふ自然﹂︱︱そして、この社会的﹁自然﹂は、自然界の地震と同様の﹁暴力﹂性を具備しているというの
だろうか?︱︱に挑もうとする﹁日本の左翼﹂の必然的な敗北という結論が導き出されてくるのである。ここに
は明らかに用語や概念の混乱に加えて、論理の飛躍が露呈している。
︵ ︶
ところで、このような梶の比較日本文化論に対し、﹁ツアラアは梶の友人の通訳を聞くとただ頷いて黙つてゐ
︵ ︶
ただけだつた﹂と記され、﹁文化国が相接して生活してゐるヨーロツパ人には、東洋の端にある日本のことなど
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︵ ︶
︵ ︶
ら、繁昌しません。
﹄ か う 梶 は 云 ひ た か つ た 。 し か し 、彼 は た だ 駄 目 だ と 云 つ た だ け で そ の 夜 は 友 人 と 一 緒 に 家
とは言い切れない。だが、このツァラの質問に対して、﹁
﹃日本ではシユールリアリズムは地震だけで結構ですか
とさらにツァラから梶に尋ねる場面があることからも、梶が推測するほど、ツァラが日本に対し無関心であった
されてゐるのだ﹂と忖度してしまうのだが、このすぐ後で、﹁シユールリアリズムは日本では成功してゐますか﹂
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2
へ帰つて来た﹂とあり、梶はまともな返答や説明を行なっていないのである。このような梶の言動には、極論す
れば、日本人である自分にはヨーロッパのことがわかるが、相手のヨーロッパ人には日本のことはわかるはずが
︵ ︶
︵ ︶
ないという、彼のきわめて自己中心的な思い込みや姿勢が見え隠れしている。梶は、ツァラ邸に﹁アフリカ土人
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︵ ︶
︵ ︶
白人文化を超える可能性を秘めたものとしてとりわけ
=
注 目 し た も の こ そ 、 ア フ リ カ な ど の 黒 人 文 化 ・ 芸 術 だ っ た の であ る 。 そ し て 、 ツ ァ ラ は ア フ リ カ の み な ら ず 、 オ
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たと言えようが、ツァラがヨーロッパ外の、ヨーロッパ
ロッパ外の社会や文化に範例を求めようとした。この点では、梶や作者横光とも問題意識をある程度共有してい
たツァラは、第一次世界大戦に帰結した伝統的なヨーロッパの価値体系︵パラダイム︶を打ち壊すために、ヨー
ついては全く思い及ばない。だが、それらはツァラにとっては単なる室内装飾品ではないのである。ダダを興し
をとめてはいるのだが、これらのアフリカの彫刻や面がツァラにとってどのような意味を持つものであるのかに
の 埋 木 の 黒 い彫 刻 ﹂ や ﹁ 無 数 の ア フ リ カ 土 人 の 黒 黒 と し た 彫 刻の 面 ﹂ が 所 狭 し と 異 様 に 陳 列 し て あ る の に 一 応 目
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横光利一﹃旅愁﹄︱︱パリとの格闘
怪しむに足りないところであろう。梶は、このようなツァラとの更なる対話や相互理解を自ら拒んでしまったの
化に広い関心を持っていたツァラが梶の属する日本や日本文化に対しても一定の関心を持ち合わせていたことは
セ ア ニ ア や 中 南 米 の 文 化 な ど に も 広 く 関 心 を 有 し てい た 。 し た が っ て 、 こ の よ う に ﹁ 非 ヨ ー ロ ッ パ ﹂ の 社 会 や 文
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千葉大学人文研究 第三十六号
三
であり、彼の日本文化論はきわめて一方通行的で自閉的なものと評せざるを得ないのである。
︵ ︶
︵ ︶
それでは次に﹃旅愁﹄の検討に移ろう。作品の主人公である矢代耕一郎は、﹁歴史の実習かたがた近代文化の
︵ ︶
に見えず憂鬱に沈み込んだ。眼の前に出された美味な御馳走に咽喉が鳴つても、一口二口食べるともう吐き
ことが出来なかつた。︵中略︶眼の醒めるばかりの彫刻や絵や建物を見て歩いても、人の騒ぐほどの美しさ
新しい野菜と水ばかりのやうな日本から来た矢代は、当座の間はからからに乾いたこの黒い石の街に馴染む
まず矢代のパリに到着した当座の様子を見てみよう。
様相の視察に﹂パリに来ており、﹁歴史の著述を一つする﹂ことを当面の目標としている青年である。
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︵ ︶
矢代は絶えず日本人としての自分を過度といってもいいほど意識し、この上ない違和感にとらわれている。だ
気 を も よ ほ し て 来 て コ ー ヒ ー と 水 ば か り を 飲ん だ 。
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ある。
船に乗り合わせ、その後滞在先のロンドンからパリにやってきた宇佐美千鶴子に向かってこう述べさえするので
が 、 次 第 に ﹁ 矢 代 は パ リ の 静 か な 動 か ぬ 美 し さ が 少 し づ つ 頭 に 沁 み 入 つて来﹂
、さ ら に は、マ ル セ イ ユ ま で 同 じ
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﹁あなたなんかは物の批評眼を養ひに来たんですよ。パリなんてところは、僕らの生きてゐる時代に、これ
︵ ︶
以上の文化が絶対に二つと出ることのない都会ですからね。見ただけでもう後は一生の間、何んだつて安心
﹂
して批評が出来ませう。︵後略︶
︵ ︶
これらの描写に表れているように、矢代の心は、一方ではパリやヨーロッパに対する違和感と嫌悪、他方では
尊敬と賞賛という相反する感情に引き裂かれ、その二つの間を微妙に揺れ動くのである。
久慈は笑ひが口中へめり込んでいくやうな苦苦しい微笑を浮べると、急に嘲るやうに低声になつた。
ことが唯一のヒユーマニズムの道なら、それなら、東洋のヒユーマニズムはどこへ行つたのだ。
﹂
﹁ こ ん な に 東 洋 人 が 軽 蔑 さ れ て ゐ て 、 こ ん な に 植 民 地 を 植 ゑ つ け ら れ て、な ほ そ の 上 に 彼 ら の 知 性 を 守 る
のが成立すると思ふのか。
﹂
﹁ 僕 ら が こ の 世 界 の ヒ ユ ー マ ニ ズ ム に 参 加 し よ う と 努 力 せ ず に、学 問 の 進 歩 が あ り 得 る か。道 徳 と い ふ も
久慈は、はたツと言葉の途絶えたまま少し拳を慄はせた。
返しにした日本への愛着の念を強めていく。たとえば、二人は次のような議論を闘わす。
ロッパ心酔者の久慈との日々の論争の中で、次第に前者の心情、すなわちヨーロッパに対する批判と、それを裏
だが、やはり同じ船でパリにやってきて、﹁社会学の勉強といふ名目のかたはら美術の研究が主で﹂あるヨー
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﹁ ヒ ユ ー マ ニ ズ ム に 東 洋 と 西 洋 の 別 が あ る か 。 そ れ が な け れ ば こ そ、僕 ら は そ の 理 想 を 信 仰 す る ん ぢ や な
横光利一﹃旅愁﹄︱︱パリとの格闘
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千葉大学人文研究 第三十六号
いか。
﹂
﹁自分が、知識階級だといふ虚栄心で、東洋と 西 洋 と の あ る 区 別 さ へ 無 い と 思 ふ 習 練 を 永 久 に 繰 り 返 す の
かね。つまり、それは君の練習だよ。
﹂
﹁ そ の 習 練 が 分 析 力 の 結 果 な ら 、 そ れ は 世 界 を 守 る 道 と い ふ も の だ ろ。誰 も 動 か す こ と の 出 来 ぬ 道 と い ふ
ものは、たつた一つ厳然としてあるのだ。それを探すのが分析力だ。いつたい、分析力に西洋も東洋もある
ものか。同じ共通のもので負けてれば、負けてる方が弱いのだ。それだけは仕様があるまい。
﹂
と久慈はとどめを刺すやうに片肩を引き降ろして矢代を見据ゑて云つた。
︵ ︶
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﹁ 負 け た と こ ば か り よ り 君 に 見 え ぬ の だ よ 。 勝 つ て る と こ ろ ま で 負 け に す る の が 分 析 力 だ。見 て 見 ろ、こ
﹂
こ の こ の ざ ま は 、 こ れ で 全 身 が 生 き て ゐ る と い へ るの か 。
さらには、
れてしまつた大切なものが、日本にだけたつた一つあるやうに思ふ。どうもそれは他の国にはなくなつてし
だ。これを君は愛国心と云ふかもしれないが、そんなものぢやない。何といふか、たしかに世界の人間の忘
かし、僕はどんなに世の中がひねくれたつてかまはない、日本だけは滅んでくれちや困るとひそかに思ふの
うだつてかまやしないと思つてる人間がゐさうに思へて仕様がないのだ。何んだかさういふ気がするね。し
﹁僕はこのごろ本当のことを正直に云ふと、日本の知識階級の中に世の中なんか滅ばうとどうしようと、ど
3
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まつたものだ。それが世界から無くなれば、世界は今ににつちもさつちもいかなくなるにちがひないと思ふ
貴重な、ある云ひ難い精神だ。
﹂
﹁それや何だい?﹂と久慈は不明瞭な矢代の云ひ方に腹立たしげに云つた。
﹁ か う い ふ 歌 が 日 本 の 昭 和 の 時 代 に あ る 。 大 神 に 捧 げ ま つ ら ん 馬 曳 き て 峠 を 行 け ば 月 冴 ゆ る な り、と い ふ
のだ。こんな素朴な美しさといふか明るさといふか、とにかく涙の出て来るやうなものがまだまだ民衆の中
︵ ︶
に満ちてゐる。︵中略︶ところが、日本と支那の知識階級はこのままゆけば、いまに西洋乞食になつてしま
﹂
ふことだけは間違ひない。︵後略︶
矢代に言わせると、久慈などはさしずめ﹁西洋乞食﹂の部類に属するのだろうが、ここで矢代が、ヨーロッパ
になく日本だけに存在する﹁貴重な、ある云ひ難い精神﹂を、﹁大神に捧げまつらん馬曳きて峠を行けば月冴ゆ
るなり﹂という和歌を引き合いに出して説明しようとしていることは非常に示唆的である。すなわち矢代は、﹁厨
房日記﹂の梶の﹁義理人情﹂を通り越して、神道を拠り所とした日本主義に傾斜していると考えられるのである。
折しも時のフランスでは人民戦線政府が成立して、七月一四日の革命記念日を頂点に左翼と右翼の衝突は激烈
を極め、対外的にはナチスがすでに政権を掌握していたドイツとの間で一触即発の情勢となっていた。矢代の目
に は、こ う し た ヨ ー ロ ッ パ の 騒 然 と し た 社 会 情 勢 が、合 理 主 義 を 中 核 と す る ヨ ー ロ ッ パ 社 会 や 文 化 の 末 路 と 映
る。彼はやはり久慈に向かってこう述べる。
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千葉大学人文研究 第三十六号
﹁そんなら君は、ここのヨーロツパみたいに世界に戦争ばかり起すことを支持してるのだ。合理合理と
︵ ︶
追つてみたまへ、必ず戦争といふ政治ばかり人間はしなくちやならんよ。それは断じてさうだ。日本は
﹂
世 界 の 平 和 を 願 ふ た め に 、 涙 を 流 し て 戦 ふ と い ふ や う な こ と が 、 必 ず 近 い 将 来 に あ る に ち が ひな い 。
矢代のこの発言は一九三六年七月になされているのだが、中国との全面戦争から日本が太平洋戦争に突入して
いく歴史を改めて想起すれば、これは極めて意味深長な発言と言えよう。
続いて、第三篇以降の日本帰国後の矢代の心の動きを中心に追ってみることにしよう。これまで見てきたよう
に、パリを舞台とする第一篇・第二篇では、主として久慈によって担われた﹁ヨーロッパ主義﹂と矢代の﹁日本
主義﹂とがそれなりに釣り合いをとりながら対峙していたと言えるのだが、第三篇で舞台が日本に移ると、これ
ら二つの﹁主義﹂のバランスは一挙に崩れていく。それに決定的な作用を及ぼすのは、﹁ヨーロッパ主義者﹂久
慈の不在である。矢代が帰国した後も、久慈はヨーロッパに留まり、彼と帰国した矢代との間で一、二度手紙の
︵ ︶
やり取りは行なわれるにしても、第五篇の末尾でようやく帰国してくるまで、久慈の存在感はほとんど無に等し
﹁ヨーロッパ主義﹂と﹁日本主義﹂の対立の図式は後者の方に大きく傾いていくことになるのである。
の 再 会 と 彼 女 へ の 思 い で あ っ て、も は や 矢 代 と の 思 想 的 対 立 で は な い。こ の よ う な 作 品 世 界 の 変 容 に 伴 っ て 、
では、矢代ではなく久慈の行動や心理に焦点が当てられるのだが、叙述される中心はパリ時代の元恋人真紀子と
思わしめるような、魂の抜け殻のような人物になり果てていたのである。確かに本作品の最終篇に当たる﹁梅瓶﹂
い。加えて、矢代が再会した久慈は、﹁何ぜともなく、ふともうこの男は死んで帰つて来たのかもしれないと﹂
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矢代は、日本とその文化のアイデンティティの核として古神道を発見し、以下の引用に見られるように、これ
にのめり込んでいく。
﹁王のものは王に還せ、神のものは神に。
﹂
と矢代は深夜眠れぬ時などひとりかう呟いてみたりしながら、世界の言葉の中でもつとも恐るべきこの深さ
を持つた言葉の描く波乱丈畳の世界を空想した。さまざまの破局の飛び散り砕け、浮き沈み消滅してゆく中
で、唯ひとり原始のさまを伝へ煉り上つて来てゐる日本といふ国家、これはも早国家といふべきものではな
︵ ︶
子に向かって次のように古神道の包容性と普遍性、優位性を強調し、彼女との結婚の障害を取り除こうと努める
のである。
﹁︵前略︶一切のものの対立といふことを認めない、日本人本来の希ひだと僕は思ふんです。ですから、た
横光利一﹃旅愁﹄︱︱パリとの格闘
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く、宇宙の諧調を物言はず光り耀かせた厳とした白光元素の象徴とも見える﹁神のもの﹂そのもののやうな
優しみの国となつて映じて来るのだつた。
︵ ︶
る。二人の結婚には、﹁彼の九州の先祖の城はカソリツクの大友宗麟によつて、日本で最初に用ひられた国崩し
だ が、こ の よ う に 古 神 道 を 信 奉 す る 矢 代 に と っ て、最 大 の 難 題 は カ ト リ ッ ク 信 者 で あ る 千 鶴 子 と の 結 婚 で あ
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と呼ばれた大砲のために滅ぼされた﹂という因縁が大きな障害として立ちはだかるのである。しかし彼は、千鶴
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千葉大学人文研究 第三十六号
︵ ︶
とへばキリスト教や仏教のやうに、他の宗教を排斥するといふ風な偏見は少しもないのですよ。千鶴子さん
﹂
なんかの中にもこの古神道は、無論流れてゐるものです。︵後略︶
︵ ︶
そして、こうした﹁神のもの﹂そのものの日本という認識を権威付けるために、西洋人ラフカディオ・ハーン
う。ところが、不思議なことに今の世界の数学界で、もつとも花形として登場して来てゐるヒルベルトらの
き、日常もつとも僕らが眼にするものの中から、それを選び出すとすると、やはり先づ幣帛以外にないでせ
今もなほ人心の底を貫いて動かぬものが国民の母体となるより仕様がないんだし、さういふ考へに達したと
ありませんからね。さうなれば、誰が何と云はうとも自然の勢ひで、かつて太古から動かなかつたもので、
れぞれ別に動くやうぢや、戦力も続かないだけぢやなく、だいいち平和時にしたつて、心の落ちつく母体が
を一変させてそれらに新しい秩序を与へなければならぬといふ場合、学界の集団と、政治家と民衆の力がそ
うからね。早い話が、経済の充実にしても、軍備の拡張にしても、生産力の増強といふ点からしても、人心
﹁︵前略︶それはともかく、戦争が起ればなほさら、祭りの幣帛が国民の中心にならざるを得なくなるでせ
そしてまた、中国との戦争が避け難いものとなってきた状況の中で、矢代は次のように説く。
に出されたりもする。
︱ ︱ 作 中 で は ﹁ ヘ ル ン ﹂ と 表 記 ︱ ︱ の ﹁ 日 本 の 神 道 に 流 れ て ゐ る 道 徳 こ そ 世 界 最 高 の道 徳 ﹂ と の 見 解 が 引 き 合 い
4
1
位相幾何学が、この幣帛の姿に近づいて来たといふことになつては、僕ら日本人の太古の姿も、実に驚くべ
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2)
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0
き暗示力を蓄へた新鮮な光を放つて来たといふべきですよ。何も僕はこれをさう科学的に考へたくはないの
ですが、しかし世界中の人心が科学祭りでもやらなくちや納りがつかぬといふやうな、凄愴な極点に達した
︵ ︶
場 合 に は 、 な ほ 勁 く 光 が 増 し て 来 る ば か り で す か ら ね 。殊 さ ら そ の 光 ま で 消 し 停 め て し ま ふ 要 も な い で
せう。
﹂
ここには、古神道が日本文化の中核を構成するのみならず、科学によって主導されたヨーロッパ文化をも包摂
する人類文化総体の指導原理であるとの認識が表明されているのである。そして注目すべきことは、このような
古神道イデオロギーは矢代一人によって鼓吹されるのではなく、たとえば東野によっても次のように唱道される
のである。
︵ ︶
﹁︵前略︶そろそろ大戦乱が始まりますよ。うつかりすると、本当の平和は戦争かもしれないからな。まア、
︵ ︶
﹂
そ の と き に な つ た ら 、 御 幣 が ど ん な 働 き を す る も の か 、 見 て ゐ て 御 覧 なさ い 。
4
3
︵ ︶
立場にいたのであった。事実、日本主義者の矢代に対しては、﹁君は人間の過去ばかり考へたがる。それはいか
東野はパリでは、﹁僕は右でも左でもないよ﹂と言って、対立し合う矢代と久慈の双方から一定の距離を取る
4
4
横光利一﹃旅愁﹄︱︱パリとの格闘
︵ ︶
すのではなく、﹁ヨーロツパももう底を突いた。今度こそはいよいよ東洋の勃興だよ﹂と述べ、﹁僕は忠義を竭す
4
6
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3)
4
2
ん﹂と苦言を呈してもいたのである。ところが、その東野が帰国後は矢代の思想的立場を相対化する役割を果た
4
5
千葉大学人文研究 第三十六号
︵ ︶
よ。誠忠︱︱これ以外に僕らにはあり得ない﹂などと公言しながら、次のように語るのである。
﹁僕は外国を歩きながら、日本精神といふことを絶えず考へ通して来たがね、とどのつまりは、日本精神と
いふことは、人を寛すといふことだと思つたね。それや怒るときは怒るがね、しかし、そこにまた何といふ
か、怒つてしまふと、ぱツと怒りを洗ふ精神が波うつて来るそのおほらかな力だよ。それが日本精神さ。そ
︵ ︶
れが八紘為宇といふ飛び広がるやうな光だよ。もしそれが無ければ日本は闇だ。また世界も闇だ。人類は滅
︵ ︶
僕らの国の中に起る敗北は、すべて敗北にはならず、玉砕に変じるといふ奕奕たる喜ぶべきわが国の特殊性
そして、婚約者となる千鶴子への手紙に、矢代はこう書き記す。
ける久慈のような強力な対立者を欠く矢代の思想的転回を強く後押ししたのは間違いない。
ナリズムのイデオローグの道へと突き進んでいったのである。このような年長者東野の思想的傾斜が、パリにお
このように、東野は帰国するや否や、﹁御幣﹂を賛美し、﹁誠忠﹂や﹁八紘為宇﹂を称揚するウルトラ・ナショ
﹂
ぶばかりだ。諸君青年はこの精神のために立てよ。ただそれだけがもう世界を美しくするのだ。︵後略︶
4
8
こうした矢代の言葉遣いもまた、日本が辿った歴史に照らし合わせる時、非常に感慨深いものがあろう。
を 感 じ ま し た の は 、 何 と い つ て も 、 僕 の 外 国 旅 行 の 賜 物 だ つ た と 思 ひま す 。
4
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(9
4)
4
7
四
以上、矢代の﹁日本主義﹂や日本文化論の推移を中心に﹃旅愁﹄を概観してきたが、今日の時点で改めて検証
してみれば、彼の立論やその論拠にはやはり大きな過誤が含まれていると言わざるを得ない。たとえば、先に引
用した﹁ヒルベルトらの位相幾何学が、この幣帛の姿に近づいて来た﹂という指摘について、沖野厚太郎氏は﹁詩
︵ ︶
的比喩として使用するならまだしも、学問的真実と見まがう口ぶりでもって矢代に語らせているのは、さすがに
︵ ︶
5
2
︵ ︶
とし、
などを挙げている。また河田和子氏は、﹁
﹃排中律﹄についても、横光はその概念を正確に把握していない﹂
︵ ︶
﹁﹃排中律﹄を、相反する命題が同等の権利を持って主張される︿二律背反﹀の問題として捉えており、明らか
5
3
﹁ 幾 何 学 に 似 た 淫 祠 の 本 体 に つ い て 触 れ た の を は じ め 、 日 本 の 古 代 文 字 の ワ を 零 の 発 見 と す るこ と ﹂
のとして﹂
︵ ︶
奇矯のそしりをまぬがれない﹂と批判している。さらに森かをる氏も、﹁いわゆる荒唐無稽な数学と思われるも
5
0
︵ ︶
はなく、﹁ギリシヤの幾何学だつて、イウエ、みたいな三つの辺からなる三角形が根本でせう。︵中略︶ギリシヤ
に意味を取り違えている﹂と指摘しているのである。そして、奇矯や荒唐無稽なのは何も彼の日本文化論だけで
5
4
横光利一﹃旅愁﹄︱︱パリとの格闘
﹁さうだ。あれは引き算を暗算でするのは、出来ないんぢやないかと思はすほど、のろのろしてるね。しか
る。たとえば、フランス人の買い物の際の暗算の遅さに関連して、こう述べる。
この種の厳密な論証抜きの奇矯な独断は、矢代のみならず、帰国後の東野の発言などにもしばしば見受けられ
の文明は三角形から発展した﹂などとするヨーロッパ文化論やヨーロッパ文明論も大同小異と言えよう。
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5
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1
千葉大学人文研究 第三十六号
し、そ れ と い ふ の も、誰 も 彼 も い ち い ち 紙 の 上 で 書 い て、答 へ を 出 す 練 習 を し つ け て ゐ る か ら だ よ 。 つ ま
り、暗 算 と い ふ 算 術 は 下 手 だ が、そ れ だ け 紙 を 基 本 と す る 代 数 が み な 上 手 だ と い ふ こ と だ 。 さ う い ふ こ と
は、云 ひ 換 へ て み る と、国 民 一 般 の 頭 が、も う 算 術 と い ふ 現 実 の 世 界 と 直 接 に 動 く 平 面 的 な も の か ら 離 れ
︵ ︶
て、代数といふ立体的な、抽象の世界で生活をしてゐるといふ證明になるんだからね、これでなかなか、西
﹁立 体 的﹂
=
﹁抽 象 的﹂
、﹁東 洋﹂
=
﹁算 術﹂
=
﹁平 面 的﹂
=
平面的なもの﹂を﹁基本とする代数﹂がなぜ﹁立体的﹂なのかは全く不明で
=
﹂
洋と東洋といふものは、開きが大きいよ。︵後略︶
この東野の発言において、﹁紙
﹁代 数﹂
ある。彼としては、﹁西洋・フランス﹂ =
﹁現実的﹂とでもいう対比を導き出したかったのだろうが、辻褄の合わない結果となってしまっている。
=
︵ ︶
彼らのこのような非論理的な独断は、きわめて短絡的、図式的、機械的な文化観とも結び付いている。たとえ
自然科学によって滅ぼされたという事実によって強く支え
=
合理主義の破綻はパリですでに確認済みの事実であり、カトリッ
=
西洋やヨーロッパが﹁所詮はカソリツクと自然科学﹂であるという彼の断定には、彼の祖先にまつわる因縁以上
あるならば、それは古神道を中核とする日本的原理によって超克され得るということになるわけである。だが、
クは、前述の通り、古神道によって包摂されるべき宗教に過ぎない。西洋が﹁所詮はカソリツクと自然科学﹂で
られている。そして彼にとっては、自然科学
彼の母方の先祖がキリシタン大名の大友宗麟の鉄砲
彼の言う﹁世界史﹂とは﹁西洋史﹂の謂いだが、このような彼の﹁世界史﹂観や﹁西洋史﹂観は、先述した通り、
ば 、 矢 代 は ﹁ 世 界 史 と い ふ も の の 内 容 も 、 所 詮 は カ ソ リ ツ ク と 自 然 科 学 の 歴 史 と 見 て も良 い ﹂ と 考 え る 。 こ こ で
5
7
(9
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5
6
︵ ︶
︵ ︶
︵ ︶
﹁カソリック+自然科学﹂という彼の西洋観それ自体がきわめて短絡
=
れぬものである。彼は﹁倦くまで世界共通の宝を探すことだ。これこそどの国でも狂はぬといふものをただ一つ
そして、このような矢代のきわめて短絡的、図式的な文化論に対置されている久慈のそれも実は同じ謗りを免
的、恣意的であるが、彼の宗教観やキリスト教に関する認識もあまりにも一面的と言わざるを得ないのである。
しては全く言及されることがない。西洋
ほど、カトリックに対しては過剰とも言える意識を持っているのだが、同じキリスト教でもプロテスタントに関
の 確 た る 論 拠 は 示 さ れ な い 。 ま た 、 彼 は 東 京 ・ 上 野 の ﹁ 博 物 館 の 屋 根 に ま で カ ソ リ ツ ク は 来 て ゐ たの か ﹂ と 思 う
5
8
︵ ︶
いふものは、大切にしなきやならん。これを大切にせずに、僕ら近代人に何の誇りがあるといふのだ。何の
越したものぢやないなら、僕らは知らぬ顔の半兵衛出来ますかね。出来なけれや、どつちもの最大公約数と
﹁さうでせう。日本人の伝統が、かりに現実を超越したものだとしたつて、西洋から這入って来たものが超
言う。
探すことだ﹂と考え、﹁万国共通の論理﹂を追い求めるのだが、日本主義者の写真家塩野に向かって次のように
6
0
﹂
意義があるといふのだ。
︵ ︶
だがこの久慈の発言に対し、同席していた東野が即座に次のように一喝する。
横光利一﹃旅愁﹄︱︱パリとの格闘
﹁ し か し 、 最 大 公 約 数 の 単 位 は 一 だ 。 一 の 質 が ど こ だ つ て 違 つ た ら ど うす る 。
﹂
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2
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1
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千葉大学人文研究 第三十六号
これはなかなか手厳しい批判である。ヨーロッパやフランスを事実上唯一絶対の基準にして、日本の文化や社
会 の い わ ば 量 的 な 差 や 遅 れ を 慨 嘆 し て い た 久 慈 の 一 元 的 で、き わ め て 機 械 的 な 文 化 観 に 対 し 、 東 野 は 、 単 な る
﹁量﹂では測れぬ﹁質﹂の問題を持ち出して反駁したのである。
以上に見られるように、一方の﹁日本主義者﹂の矢代や東野、他方の﹁ヨーロッパ主義者﹂の久慈、いずれの
側もその視野はきわめて狭窄であり、思考はきわめて短絡的、図式的と評せざるを得ない。このような者たち同
︵ ︶
士 が 闘 わ す ヨ ー ロ ッ パ 文 化 論 や 日 本 文 化 論 が 果 た し て ど れ ほ ど の 意 義 や 有 効 性 を 持 ち 得 た か、疑 問 な し と し な
い。滝澤壽氏の指摘の通り、両陣営の主張とも、﹁その意匠にも拘らず素朴な信仰告白にも似ている﹂のだ。
︵ ︶
︵ ︶
そして、これに物語の構造上の不備が付け加わる。すなわち、日置俊次氏の指摘するごとく、本作品は﹁ヨー
︵ ︶
︵ ︶
ションに発展し得るものとは到底言えなかったとはいえ︱︱場面が描かれる﹁厨房日記﹂と比べてさえ、﹃旅愁﹄
ヨ ー ロ ッ パ 人 ツ ァ ラ ら と が 曲 が り な り に も 対 話 を 行 な う︱︱た だ し、そ の 対 話 は 真 の 相 互 理 解 や コ ミ ュ ニ ケ ー
﹁ ヨ ー ロ ッ パ と の 対 決 で は な く 結 局 日 本 人 同 士 の 対 立 に と ど ま っ てい る ﹂ と い う こ と に な る 。 こ の 点 で は 、 梶 と
6
6
日本人としての﹁独り相撲﹂
、さらには﹁独りよがり﹂に終わってしまったとさえ言えるのである。
そして、このような現実のヨーロッパやヨーロッパ人との生きた交渉を欠いた自閉的な矢代らの意識にあって
は、一九三〇年代のパリにあってはおそらくさほど怪しむに足りないはずであった黒人の女性と白人の男性の睦
(9
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6
3
、﹁日本人が西欧をどう見るかという議論は
ロ ッ パ を 描 き な が ら 、 ま と も な ヨ ー ロ ッ パ 人 を 一 人 も 登 場 さ せな い ﹂
6
4
あ っ て も 、 不 思 議 な ほ ど に そ の 逆 方 向 の 視 点 が 欠 落 し てい る ﹂ の で あ る 。 こ れ は 、 秋 山 和 夫 氏 の 表 現 に 従 え ば 、
6
5
は 自 閉 的 で あ り 、 後 退 し て い る と の 印 象 を 禁 じ 得な い 。 し た が っ て 彼 ら の ﹁ パ リ と の 格 闘 ﹂ は 、 結 局 の と こ ろ 、
6
7
︵ ︶
︵ ︶
み合いは、﹁どうしても一致することの出来ない人種の見本﹂と映り、﹁その二人の間の明白な隙間に、絶望に似
6
8
︵ ︶
﹁破綻を内包しつつも、対西欧認識の苦闘の歴史の上で、﹃旅愁﹄はその企図において恐らく幕末、明治以降最
終りに
た空しい断層を感 じて﹂しまうのである。
6
9
﹃旅愁﹄は帰
大の問題作だろう﹂という滝澤壽氏の評価には俄には首肯できないまでも、同氏が述べるように、﹁
︵ ︶
朝の翌昭和十二年、作家として油が乗り切った四十歳の利一が、フランスを中心とする西欧文明と我が国のそれ
との認識と対決をテーマとして筆を起こした渾身の作である﹂ことは間違いない。﹃旅愁﹄は、何といってもス
や動向によっては、作品の世界に奥行きが増し、さらには作品全体のトーンも大きく変容する可能性さえ否定で
五篇の末尾で日本に帰国してくる久慈はやがて上海に渡る予定であることが示唆されており、彼の上海での活動
また、本作品が作者横光の死によって未完のままに終った事実も考慮する余地があるであろう。とりわけ、第
であろう。
ケールの大きい、横光利一の畢生の大作であったのだ。この点は評価しておかなければ、公平を欠くことになる
7
1
きないのである。そういう意味では、四九歳という若さでの作者横光利一の早過ぎる死は惜しまれてよいのであ
る。
横光利一﹃旅愁﹄︱︱パリとの格闘
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7
0
注
千葉大学人文研究 第三十六号
︵1︶﹃定本横光利一全集﹄第八巻、河出書房新社、一九八二年、一一頁。漢字の旧字体は新字体に改めた。
︵以下の﹃定
本横光利一全集﹄からの引用についても同じ。
︶
︵2︶ 同前、一二頁。
︵3︶ 同前、六頁。
︵4︶ 作中で描かれる矢代の旅程は、作者横光利一のそれと大枠において重なる。すなわち、横光は﹃東京日日新聞﹄
・
﹃大阪毎日新聞﹄の特派員として、一九三六︵昭和一一︶年二月二〇日神戸からヨーロッパに向け出港した。新聞社
(1
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0)
から委嘱された正式な渡欧の目的は、同年夏にベルリンで開催されるオリンピックの観戦記事の執筆であったが、同
年三月二八日から七月二四日までパリに滞在し、七月二四日から八月一一日までベルリンでオリンピックを観戦した
後、シベリア鉄道経由で同年八月三〇日に東京に帰着する。
︵5︶﹃定本横光利一全集﹄第八巻、七九頁。
︵6︶ 同前、同頁。
︵7︶ 同前、三九三頁。
︵8︶﹃定本横光利一全集﹄第九巻、河出書房新社、一九八二年、一九五頁。
︵9︶﹃定本横光利一全集﹄第七巻、河出書房新社、一九八二年、六三九頁。
︵ ︶ 同前、六三四頁。
︵ ︶ 同前、六三四頁。
︵ ︶ 同前、六四〇頁。傍点は西村。
︵ ︶ 同前、六三七頁。
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︵ ︶ 同前、六四四︱六四五頁。
︵ ︶ 同前、三〇︱三一頁。
︵ ︶ 同前、同頁。
︵ ︶﹃定本横光利一全集﹄第七巻、六四七頁。
︵ ︶ 同前、六四八頁。
︵ ︶ 同前、六四七︱六四八頁。傍点は西村。
︵ ︶ 同前、同頁。
︵ ︶ 同前、同頁。
︵ ︶ 同前、六四九頁。
︵ ︶ 同前、六四〇頁。
︵ ︶ ツァラはチューリッヒ滞在時に民族学、人類学、言語学等の文献を渉猟し、アフリカやオセアニアの﹁黒人詩﹂
︵ ︶ 同前、六四七頁。
の翻訳やダダ的翻案︵
﹁トト・ヴァカ﹂
︽ Toto Vaka
︾など︶を試みていたが、
﹁黒人芸術に関するノート﹂
︽ Note sur
`
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´
`
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9
1
︾
︵
︶
、
﹁黒人詩に関するノート﹂
︽ Note sur la poesie negre
︾
︵
︶などの論考も著している。
l'art negre
︵ ︶ ツァラには、
﹁プレコロンビアン芸術﹂
︽ A propos de l'art precolombien
︾
︵
︶
、
﹁芸術とオセアニア﹂
︽ L'Art
´
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2
9
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´
8
2
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︾
︵
︶などの論考がある。
et l'Oceanie
︵ ︶﹃定本横光利一全集﹄第八巻、六頁。
︵ ︶ 同前、一一三頁。
︵ ︶ 同前、四八頁。
︵ ︶ 同前、五一頁。
横光利一﹃旅愁﹄︱︱パリとの格闘
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︵ ︶ 日本文学研究資料刊行会編﹃横光利一と新感覚派﹄
、有精堂、一九八〇年、三〇頁。。
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千葉大学人文研究 第三十六号
︵ ︶ 同前、六頁。
︵ ︶ 同前、二〇八︱二〇九頁。
︵ ︶ 同前、一七〇︱一七一頁。
︵ ︶ 同前、三四〇頁。
︵ ︶﹃定本横光利一全集﹄第九巻、二七八︱二七九頁。
︵ ︶﹃定本横光利一全集﹄第八巻、五四六︱五四七頁。
︵ ︶ 同前、五〇四頁。
︵ ︶﹃定本横光利一全集﹄第九巻、二七頁。
(1
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2)
︵ ︶ 同前、六二〇頁。
︵ ︶ 同前、九七︱九八頁。
︵ ︶﹃定本横光利一全集﹄第八巻、一五七頁。
︵ ︶ 同前、一〇九︱一一〇頁。
︵ ︶ 同前、二三三頁。
︵ ︶﹃定本横光利一全集﹄第九巻、八五頁。
︵ ︶ 同前、八六頁。
︵ ︶ 同前、同頁。
︵ ︶ 森かをる﹁横光利一﹃微笑﹄論︱︱﹃旅愁﹄のイデオロギーのゆくえ︱︱﹂
、
﹃近代文学研究﹄第一五号、一九九
四九頁。
︵ ︶ 沖野厚太郎﹁モダニズムのたそがれ︱︱横光利一﹃旅愁﹄論 ︱︱﹂
、
﹃文藝と批評﹄通号八七号、二〇〇三年、
︵ ︶ 同前、一七七頁。
¿
︵ ︶ 同前、一二一頁。
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七年、七〇頁。
︵ ︶ 同前、同頁。
究﹄第一号、二〇〇三年、九〇頁。
︿文学的象徴﹀としての数学︱︱横光利一﹃旅愁﹄における綜合的秩序への志向︱︱﹂
、
﹃横光利一研
︵ ︶ 河田和子﹁
︵ ︶ 同前、同頁。
︵ ︶﹃定本横光利一全集﹄第八巻、六二二︱六二三頁。
︵ ︶﹃定本横光利一全集﹄第九巻、一九二頁。
︵ ︶﹃定本横光利一全集﹄第八巻、五四四頁。
︵ ︶﹃定本横光利一全集﹄第九巻、一九六頁。
︵ ︶﹃定本横光利一全集﹄第八巻、二〇四頁。
︵ ︶ 同前、五四頁。
︵ ︶ 同前、同頁。
︵ ︶ 同前、三〇一頁。
︵ ︶ 滝澤壽﹁横光利一のフランス︱︱﹃旅愁﹄をめぐって︱︱﹂
、
﹃クインテット﹄第二〇号、二〇〇〇年、六二頁。
︵ ︶ 日置俊次﹁横光利一における微笑の意味︱︱﹃旅愁﹄論へ︱︱﹂
、
﹃国語と国文学﹄第六八巻第六号、一九九一年
︵ ︶ 日置俊次﹁横光利一﹃旅愁﹄論﹂
、
﹃国語と国文学﹄第六九巻第二号、一九九二年二月、四六︱四七頁。
六月、四七頁。
︵ ︶ 秋山和夫﹁異国の都市空間︱︱﹃旅愁﹄の意味︱︱﹂
、
﹃国文学解釈と鑑賞﹄
、第四五巻第六号、一九八〇年六月、
一〇四頁。
︵ ︶ この点で象徴的なのは、矢代のフランス語に対する意識である。パリ到着早々、彼は久慈との共通のフランス語
教師であるアンリエツトからフランス語で質問されたのに対し、日本語で答える場面がある︵
﹃定本横光利一全集﹄
横光利一﹃旅愁﹄︱︱パリとの格闘
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千葉大学人文研究 第三十六号
第八巻、七三頁︶
。そして、帰国後母親に向かって、
﹁言葉なんか、日本 語 で 結 構 間 に あ ひ ま す よ。ど こ だ つ て 通 じ
る。むしろ外国語をうまく使ふ方が、日本でこそ尊敬されるが、外国人からは馬鹿にされる方が多いですからね﹂
︵同
前、四九七頁︶と述べるのである。
︵ ︶﹃定本横光利一全集﹄第八巻、一一九頁。
︵ ︶ 同前、同頁。
︵ ︶ 滝澤壽﹁横光のフランス︱︱﹃旅愁﹄をめぐって︱︱﹂
、前掲、五八頁。
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︵ ︶ 同前、同頁。
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