...

2014年2月22日(土) ブエノスアイレスからウシュアイアへ 昨日寝たの

by user

on
Category: Documents
20

views

Report

Comments

Transcript

2014年2月22日(土) ブエノスアイレスからウシュアイアへ 昨日寝たの
(その4 パタゴニア編)
■2014年2月22日(土) ブエノスアイレスからウシュアイアへ
昨日寝たのは12:45分、今日は早朝7:45の便なので、早起きして空港に6時までには着いてお
かなければならない。国内線なのだからアエロパルケから出ると思っていたらエセイサ空港出発だった。
タクシーは市内を抜け、高速道路に入ると猛スピードで飛ばし35分で空港に着いた。2度目のエセイ
サ空港だ。チェックインは並ぶ列を教えてもらったのでスムーズだった。荷物を預けることはあまり心配
ではなくなった。最初のころは不安だったが、普通のバッグでも荷物は意外と大丈夫なのだ。
この時間帯はウシュアイア行きが2本もある。アルゼンチン航空AR1884便が6:55分発で、エ
ル・カラファテ経由、私が乗るAR1880便が7:45分発でトレレウというところを経由する。
トレレウはバルデス半島観光拠点の街である。トレレウは、ウェールズ地方からの入植者によりできた
街らしい。
チェックインの時うっかり言い忘れ、窓側の席でなく通路側になってしまい、景色を見ることができず
残念。迫力ある景色は着陸直前にチラッと見えただけだった。5時間のフライトでやっとウシュアイアに
着いた。空港内に両替がなくどうなるかと思ったが、ドルがそのままで通用してしまう。むしろドルをそ
のまま使った方が有利である。ここでは1ドル=8ペソだった。
空港から街に行く手段はタクシーしかない。迎えの人が何人も名前を掲げて待っていたので、もしやフ
リーの車はないのでは?と焦った。しかし、空港ターミナルビルの外に出るとすぐにタクシーが見つかっ
て良かった!空港の周りは何もなく閑散として、気温も真夏とは思えないほど涼しい。
いよいよ極北のパタゴニアに来たという感慨が湧き上がってきた。
ホテルまでは5分ほど、呆気ないほど近かった。運転手は親切で優しそうな人。出身はもう少し北の方
(暖かい方)だが、ウシュアイアには30年も住んでいるという。この街は安全で静かなので住みやすい
と言っていた。
ウシュアイアの街は、海岸からすぐに急な坂が始まる坂の街である。
私のホテルは坂の一番上にあり、眺めはいいが中心
街までは少し距離がある。それでも、ここは30分も
あれば隅々まで歩けるほどの小さな街なので全く問題
ない。パタゴニア地方は物価が高い。ホテルも昨日泊
坂の街 ウシュアイア
まったブエノスのホテルと比べると、同じ50ドルで
も部屋のグレードは雲泥の差がある。
木造の手造りドミトリーという感じ。バス,トイレ
が共用なのが困る。ただ、ホテルの人はみな親切で、
宿泊したホテル(ホテル パタゴニア)
主人(といっても若いが)はツアーのことなどいろいろ教えてくれた。
主人の情報で、今日はペンギンのコロニーに行くことにした。Pira-Tour(ピラ・ツアー)というツアー
41
会社だけが催行しているツアーで、海からペンギンを眺めるのではなくて、ボートで渡ってペンギン島に
上陸するという。
ツアーは、14時40分マイクロバスに20
人ほどのメンバーを乗せて出発。
国道3号をウシュアイア湾に沿って東に進み、
ウ
シ
ュ
ア
イ
ア
マルティーリョ島
ハーバートン牧場からボートでマルティーリョ
島に渡る。
メンバーはアルゼンチン人のほかにカナダ人,
ブラジル人など。ガイドはスペイン語と英語で
交互に説明してくれる。メンバーのほとんどは
グループなので一人は少し寂しいが、一人は一
ペンギンツアー(位置関係)
人の良さがある。私のほかにもう一人だけ個人
で参加している人がいた。
スタートして1時間ほど走ると景色が俄然良くなり、進行方向左側(北側)に雪を頂いた山脈が見えて
きた。道の両側には原始林のような林が果てしなく続いている。所々で多くの木がなぎ倒されているのは
何故だろう?国道3号から分かれて砂利道に入り、16時10分ごろハーバートン牧場に到着、ボートに
乗り換える。風除けフード付きのボートで、外見はと
ても小さく見えた。はたして全員乗れるだろうか?と
思ったが、乗ってみると案外広くて20人くらい乗れ
るボートだった。
走り始めるとエンジン全開で、フードの隙間から冷
たい風と水しぶきがかかり震え上がるほどだ。15分
ほどでマルティーリョ島に着いた。
浜辺にはペンギンが群れをなしている。ペンギンは
ボートでペンギン島に向かう
2種類、小形のマゼランペンギンがほとんどで、ジェ
ントゥーペンギンが少しいるとのこと。
ガイドの指示により、メンバーは揃って静かに上陸
する。人の歩けるところはロープで区画されていて、
それ以外の場所を勝手に歩くことはできない。
上陸するとみな待ちきれずに次々とシャッターを切
る。ペンギンは人が近づいても全く逃げない。ガイド
からはペンギンを興奮させると危険なので、3m以内
に近づかないようにと注意されていたが、1mくらい
まで近づいても問題なかった。
接近して見るペンギンはとにかく可愛い。ペンギン
は数えきれないほどの数いて、ありのままの姿で生息
している。これがペンギンの生活環境で、この厳しい
中で懸命に生きているのだと思うと、何だかとても愛
おしさを感じる。
口ばしを上に向け喉を反らし、面白い鳴き声を出し
ているのは何だろう?ユーモラスとも異様ともいえる
その姿と鳴き声だ。あちこちでそんな求愛行動?が見
られ本当に可愛い。
周りを見回すと、海のかなたに氷に覆われた山々が
42
夥しい数のペンギンが生息する
最果ての島の風景
マゼランペンギン
見え、本当に最果ての地に来たなぁーと感じる。
この旅で初めて「凄い!」
「凄い!」を連発した。
思う存分ペンギンと最果ての風景を写真に撮った。
動画でもユーモラスな鳴き声とその姿をとらえること
ができたと思う。この島に1時間もいて、何だかペン
ギンに申し訳ない気持ちだった。
夏でもこれほど寒いのに、冬になれば極寒,強風の
なかどのように生きているのだろう。こんな厳しい環
境で生きているペンギンが本当に愛おしくなった。
島を離れ再びハーバートン牧場に戻り、水生ほ乳類,
北方の魚類,クジラなどの研究施設に併設されている
展示館を見学。屋外でクジラの骨を見ながら説明を聞
いていると冷たい雨が降ってきた。
19時ころハーバートン牧場を後にして帰路に着く。
途中、パタゴニア独特の「強風で傾いた木」を見るこ
とができた。それらの木は丘の上にあり風を遮るもの
がないため、常時烈風に晒されこのように傾いてしま
ったのである。パタゴニアの厳しい自然を象徴する木
として有名だ。
ジェントゥーペンギン
雨が次第に強くなる中、ウシュアイアに帰ってきた。
20時半頃だった。ウインドブレーカーのフードだけ
なので、雨に濡れ体が冷える。ここで初めて寒いパタ
ゴニアの洗礼を受けることになった。
満足に昼食を摂ってなかったので、暖かい夕食を食
べようとレストランに入る。熱いオニオンスープで体
を暖めた。ピザはとても大きくて、残した分を持って
帰りホテルの主人に差し入れした。
強風で傾いた木
冷えた体でホテルに戻ると、部屋は暖房がきいてい
て暖かくホッとした。今考えると、ペンギンの島にいる間に雨が来なくて本当によかった。この雨がこの
まま明日も続けば、ツアーの面白さは半減するので思い切って今日行っておいて正解だった。
今日はペンギンツアーに参加できて満足だ。明日はティエラ・デル・フエゴ国立公園に行こうと思って
いるが、もしこのまま雨が降り続いていたら次の日にするしかない。
■2014年2月23日(日) ウシュアイア
朝から天気が悪い。雨は降っていないが、厚い雲がかかってどんよりと暗い。今日はティエラ・デル・
フエゴ国立公園に行くために、朝9時半頃からバス停を探したりいろいろ情報収集した。
バスの出発する場所がわかり、バスは9時から1時間ごとに出るというが時刻表がないのでよくわから
ない。次は10時にあるはずなのだが、全くその気配はない。インフォメーションで訊くとバスはあるは
ずだというが、誰も待っている人はいないし、あてが外れてしまった。
国立公園に行くツアーがあるかどうか訊くと、日曜日に開いているツアー会社を教えてくれた。そこに
行ってみるが、午後2時にならないと開かないようだ。今日は歩いていても風が冷たく寒い。
昨夜のように雨が降ると最悪なので、雨が降っても何とかなるようにフード付きウインドブレーカーを
着て、防水ズボンをリュックに入れて持ち歩いている。風が強く冷たくフードをして歩いているので視界
43
が狭く歩きにくい。一旦ホテルに戻って出直すつもりで帰ってきた。
ホテルの入り口で日本人と出会い挨拶した。その人はスーパーに食物を買いに行くというので、一緒に
付いて行くことにした。スーパーでパンとハムを買いホテルに戻り、お茶を飲みながら話す。
彼は埼玉の人でKさんといい、今朝、南極クルーズから戻ってきたところだそうだ。10日間で5,5
00ドルとのこと。彼は本当に旅慣れていて、延べ17年間も旅をしてきたそうだ。
世界中で行ったことのない国はイラク,アフガニスタン、それと北朝鮮だけとのこと。10年前には南
米を20ヶ月かけて回ったということなので、とにかく“仕事”より“旅”という人のようだ。昭和23
年生まれなので私と同学年だ。
ティエラ・デル・フエゴ国立公園へのバスはほとん
どが9時に出発するが、今日は天気が悪く客が少ない
ので、9時以外のバスはやめてしまったのではないか
ウシュアイアの街
とのこと。9時のバスで行くと9時半ころ Muelle(ム
エレ)というところで降りて、そこから海沿いに歩く。
ウシュアイアの海岸
以前彼は3時間くらいかかってビジターセンターまで
歩いたと言っていた。そして帰りのバスは14時,16時半,18時とあるので、天気次第で遅くまでい
ても早く帰ってきても良いという。ティエラ・デル・フエゴ国立公園なら、わざわざツアーで行かなくて
もバスに乗っていけばいいとのこと。バスで行った方が自由に動き回れるのでよさそうだ。
ウシュアイアは天気が悪いのが普通で天気の良い日
は少ないので、雨さえ降らなければよしとしなければ
ならない。いずれにせよ明日の好天を期待することに
ウシュアイアの街
しよう。
14時半にホテルを出て、
「世界の果て博物館」に行
壁に
「ウシュアイアはマルビナスの首都」
と書かれている。
マルビナスとはフォークランド諸島のこと
く。パタゴニア地方の開拓の歴史,動物の剥製などを
展示した小規模な博物館だった。興味深かったのは、先住民ヤーガン族の生活の実録フィルムが見られた
ことだ。1,933年にイタリア人探検家が撮影したもの。
ヤーガン族は毛皮を何枚か組み合わせて作った簡単な衣服で、寒さをしのいでいたことが分かる。片方
の肩は丸出しで、寒さには相当耐性が強くなっていたことが伺える。
彼らが食べていた、コブシ大のパンのように見える固まり何だろう?ウシュアイアは夏でもこれだけ寒
いのに、充分な防寒着もなくよく厳しい環境の中で生活できたものだ。
でも、我々観光客は厚着をしているのに、現地の若者は半袖で平気なのだ。訊くと、当然のようにこの
44
気候に慣れているのだという答えが帰ってきた。7,
8分の動画で貴重な記録映像を見ることができて良か
った。記念スタンプを捺したかったがどこにも見当た
らなかった。
18時半にKさんとスーパーに夕食の食べ物を買い
に出る。途中で日本人の女性から声をかけられた。そ
の女性はIさんといい、いろいろ情報を教えて欲しい
とのことで、後でホテルに来るように伝えて別れた。
スーパーでパンとハム,鶏モモ肉のグリルとビールを
買いホテルに戻る。
先住民ヤーガン族の生活の実録画像
途中でIさんが追いかけて来たので、3人で揃って
ホテルの食堂で話す。彼女は秋田県出身で介護福祉士として5年間働いたが、どうしても世界一周がした
くて仕事を辞めて旅に出たという。
日本に帰るのは6月だそうだ。エクアドルで1ヶ月間スペイン語の勉強をしたが、まだあまりできない
という。英語もあまり得意ではなさそうで、日本語が
話せる人を見つけるといろいろ情報を得ているという。
彼女はトレッキングが好きで、レンタルのテントを借
りて食糧持参で歩き回る行動派だ。Kさんもそのタイ
プ。彼がいろいろな情報を与えていた。
買ってきたチキンを食べながら、Iさんを交えて旅
談義。Kさんは、海外のプラント建設現場で18年間
勤め、あとの17年間は旅をしているとのこと。仕事
よりむしろ旅に生きているような人で独身だという。
私はいろいろなしがらみがあり、せいぜい1ヶ月が取
れる最長の休みだと言ったら、二人ともそれが普通と
頷いた。女性は結婚すると長期の休みを取るのが難し
いので、独身で会社を辞めて旅に出る人が多い。世界
を旅したいという強い希望があるときは、そうするの
が一番だと賛同した。
今まで一人で寂しかったが、日本人どうし自国語で
話すのはとても楽だ。話が盛り上がってしばし楽しい
時を過ごした。Iさんが帰ってからもKさんと話した。
彼に、
“せっかく世界を見て歩いた貴重な経験があるの
に、自分の中にしまっておいたら勿体ない”と言った
ら、いずれブログ等で発表したいとのこと。
色鮮やかな大型の花が咲いている
その時は是非知らせてほしいとメルアドを渡した。
彼は明日5時起きで、プエルト・ナタレスからパイネに行き、徐々に北上してチロエ島からプエルト・モ
ン、その後サンチアゴに向かうとのこと。
KさんもIさんも元気で旅を続けて欲しい。ホテルのインターネットがやっと通じたので、今日はこれ
からメールをチェックして早めに寝ることにする。
■2014年2月24日(月) ウシュアイア
今日は幸運なことにとても良い天気。ウシュアイアにきて、最も良い天気である。
今日は9時のバスでティエラ・デル・フエゴ国立公園に行く。
雨模様なら中止にしようと思っていたが、
好天に恵まれツイている。昨日約束していたIさんと連れのYさんと合流して、3人で行くことになった。
45
バスは9時ちょうどに出発。国立公園
事務所で入園料を支払い、9時40分にト
レッキング出発点の Retorno(レトルノ)
ウシュアイア
アルゼンチンとチリ国境
に到着。
すぐ目の前に美しい山と海、それと海
ロカ湖
トレッキングルート
面に映る山の姿があり、澄んだ景色に圧倒
されてしまう。それに太陽の光が景色に輝
きを与えてくれた。
ビーグル水道
9時45分レトルノをスタート。ここ
から8kmのトレッキングだ。ビーグル水
道沿いに広がる雑木林、その中にトレッキ
ティエラ・デル・フエゴ国立公園トレッキング
ング用のトレイルを作ったもので、ところ
どころある倒木は移動せずに道幅分だけ切
断して通れるようにしている。
結構アップダウンがあり、足元が悪く
8kmといっても普通の道路を歩くのとは
だいぶ違う。平坦な道路なら1時間で5~
6km歩けるが、このトレッキングコース
は8km歩くのに3時間ほどかかるという。
夏といってもここはパタゴニアである。
昨日のように途中から雨が降り寒くなると
困るので、シャツを2枚重ね着しその上に
セーター、さらにウインドブレーカーとい
うように厚着した。
最初の2,3kmは二人の女性と一緒
出発地点(レトルノ)
に歩いていたが、彼女たちは国道3号の終
点まで行くという。私は景色を楽しみながらゆっくりと歩きたいので、強行軍をするという二人と別れて先
に行ってもらった。私はロカ湖まで行き15時のバスで戻るつもりなので、そんなに速いペースで歩く必要
はない。寒さに備えて厚着してきたが、今日は日が照って1時間ほど歩くと暑くなってきた。
途中でシャツ1枚とウインドブレーカーを脱いだ。
上り坂が続くと息が切れる。道には要所に目印の黄杭
が打ち込まれているが、時々見過ごして道に迷いそう
になった。ラパタイア湾に沿ったルートだが、ほとん
どは林の中で海が見える場所を歩くことは少ない。
時々浜辺に出るが、そこから見える景色はいかにも
雑木林の中を行くと時々海岸に出て、素晴らしい景色が見られる
パタゴニアという感じでとてもいい。
6kmほど歩いたあたりからずっと上り坂が続き、
とてもしんどくなった。途中切り株で休みながらパン
を食べていたら、アルゼンチン人の3人のグループに
追い抜かれた。
この上り坂の状態がずっと続くと、足の踏ん張りが
厳しくなると不安になったが、しばらく進むとあとの
46
朽木が横たわる原野
残り約2kmはほぼフラットな道で助かった。
最後の1kmほどは自動車道路に沿った道で安心感があった。
Puerto Arias(プエルト・アリアス)方面と Lago Roca(ラーゴ・ロカ:ロカ湖)方面への分岐点からロ
カ湖の方に進む。ロカ湖からラパタイア湾に注ぐのがラパタイア川で、その岸辺に沿って草の生い茂った道
を歩く。ここは湖と山の調和がとても美しい。
気持ち良い天気の中、鼻歌交じりで歩いていると、12時45分、急に風が強くなり始めた。空は曇り始
め、気温も急に下がり体感温度がかなり低くなったため、すぐにウインドブレーカーを着る。
さらに進むとキャンプ場があり、その先にロカ湖が
あった。ロカ湖は別名 Acigami(アシガミ)湖という
らしい。湖はエメラルドグリーンの水を湛え、吹き始
めた風に波音を立てていた。
この湖の対岸に見える山はチリ領である。ロカ湖の
急に空が曇り風が強くなってきた
中央部付近を横切って国境線がある。
もう辺りは寒々として来て、私とアルゼンチン人の
カップルだけで人気はなかった。
迎えのバスが来るというロッジを探すが、それらし
き建物が見つからない。仕方なしにさっき通り過ぎた
ロカ湖(アシガミ湖)
ロッジまで戻ることにする。逆方向に歩き始めると、
さっき別れた二人の女性と出会った。国道3号の終点まで歩いて戻り、
ロッジで昼食を食べたのだという。バスが迎えに来るのはそのロッジ
だとのこと。
ロッジには13時15分着、ここからはラパタイア湾が見える。景
色を見ながら昼食を食べ、バスを待つ間に記録を書いた。
15時の迎えのバスがなかなか来ない。他社のバスはどんどん来る
のに、サンタ・ルシア社のバスだけがなぜか来ない。バスが来るたび
LAGO ACIGAMI の立札
に寒風の中、ロッジから駐車場に出るが違う会社のバスなのだ。
来たバスの運転手に訊くと“もうすぐ来る”の一点
張り。バスは15時25分になってやっと来た。そこ
には、Iさんたちの姿もあった。
バスは30分でウシュアイアに戻り、皆と別れてホ
テルに帰る。メールをチェックしオリンピックの結果
を見る。結局オリンピックの録画は見ることができな
かった。このホテルは一人部屋と2段ベッドの大部屋
がある。私は一人部屋だが、1泊2,000円ほどで
泊まれる大部屋は若者が多い。Kさんは大部屋に泊ま
っていた。若者が多く、ユースホステルのように自分
厚着の観光客と半袖の現地若者(バスを待つ)
で食器を洗い、冷蔵庫も共用で使いとても仲がいい。
必ず挨拶をするし、みなとても礼儀正しく居心地のいいホテルだ。
ホテルのオーナーの話だと、2,3軒隣に日本人が経営している店があり、彼はそことも取引していると
のことだった。
明日はウシュアイアからエル・カラファテに飛ぶ。最南端の街ウシュアイアとも、あとしばらくでお別れ
しなければならない。
47
■2014年2月25日(火) ウシュアイアからエル・カラファテへ
8時起床、今日もいい天気だ。今日は13時35分発の便でエル・カラファテに向かう。昨日市内でド
ルをペソに交換した。普通の店で両替できる。1ドル=10ペソだった。
これまで1ドルが、メンドーサでは11ペソ,ブエ
ノス7~8ペソ,ウシュアイア8ペソというように、
レートに大きな差があった。
なぜそれほどレートが悪いところと良いところがあ
るのか?アルゼンチンの経済が不安定のためこれほど
までにレートが変動するのだと思っていた。
勿論ベースにはアルゼンチンの経済情勢があるが、
政府がドルの流通量をコントロールしていて公には取
引が制限されているためなのだということがわかった。
そのため、ヤミでドルが公定レートより高く買い集め
今日も晴天に恵まれた
られ、ドルの必要な人にさらに高い値段で流れている
からなのである。ブエノスでもフロリダ通りに行けば、1ドル12ペソで交換できるという情報が旅行者
の間で広まっているとのこと。だからドルを直接使えば1ドル8ペソの公定レートで換算されるので損な
のだ。ホテルの支払は現金のみでカードでの支払いはできない。ドルで支払うと214ドル、ペソだと1
704ペソなので、1ドル8ペソの率だ。市内で両替したら1ドル10ペソだったので、もっと換えてお
くべきだった。
出発時刻が気になるが、ペソで払うだけで436ペソも差がでてしまうので、両替してから払うことに
する。時刻は11時なので30分以内に空港に着きたい。昨日両替した店がなかなか見つからなかったの
で、手当り次第に店で訊いてやっと両替することができた。
店の前でタクシーを拾いホテルに戻って支払い、バッグを引き取って空港に向かう。これだけで400
ペソ以上差が出るのだ。空港には11時半に着きチェックインもスムーズにいき、念願の窓側の席を確保
できた。来るときは通路側で悔しい思いをした。アルゼンチン航空AR1893便はウシュアイアからエ
ル・カラファテまでの便だが、ブエノスアイレス行きと組み合わせて飛ぶ便のようだ。13時35分発な
のに13時ころ案内放送があり搭乗した。本当にこの便でいいのか不安になり、スチュアーデスに確認し
たところこの便でいいという。
飛行機は予定時刻より早く13時15分に飛び立った。離陸してすぐに見えた景色は、言葉では言い表
せないほど素晴らしかった。窓から夢中で写真を撮った。飛行機はパタゴニアの大地の上を飛びエル・カ
ラファテに到着。エル・カラファテ空港は湖に面し、
それ以外は不毛の大地という感じ。短い草が生えた赤
滑走路
上空から見たウシュアイア
茶色の大地である。少し割高だったが、迎えの車を頼
パタゴニアの大地の上空を飛ぶ
んでいたのでスムーズにホテルに着いた。
ホテルは市の中心から1kmほど離れたところだった。ホテルの窓からはアルヘンティーノ湖が望める。
意外だったがエル・カラファテは寒いどころか暑いほどだった。ウシュアイアは最果ての地という感じ
で、日が照っても気温は低いが、ここは天気がいいと暑いくらいである。地形の影響もあるだろうが、緯
48
度がこれだけ違うと気温には大分差があるようだ。
アルヘンティーノ湖への行き方を教えてもらい、歩いて行ってみる。市の中心のリベルタ大通りに出る
までに15分ほど要した。リベルタ大通りをまっすぐ西に進み、少し北方向に行くとアルヘンティーノ湖
に沿った道路に出て、そこをまたしばらく行くとやっ
と湖の姿が見えた。
湖岸近くには白鳥が何匹か見えた。この辺りは爽や
かな風が吹き抜けて、とても清々しい気分になった。
何人か子供連れがのどかな昼下がりのひと時を過ごし
ていた。
アルヘンティーノ湖に通ずる道
ここに住んでいる人は、景色が良くいいなぁーと素
直に思う。しかし、野菜などはブエノスアイレスから
トラック便で来るということなので、生鮮食料品は高
くて大変だろう。
ここは観光の街なのである。ウシュアイアのように
最果てという感じは全くない。ここから80kmのと
アルヘンティーノ湖(エル・カラファテ市内)
ころには氷河があるのだが、そんなことは信じられないほど暑いのである。5~6km歩いて帰りにスー
パーに寄って買い物をしてホテルに戻った。
■2014年2月26日(水) エル・カラファテ ペリト・モレノ氷河
昨日早く寝たせいか4時半頃目覚めた。よほど早く起きなければならない時は別として、目覚ましがな
くても早めに目覚める。今日も天気は良さそうだ。朝夕は冷えるが、日中太陽が出るとここエル・カラフ
ァテは比較的暖かいところなのだ。ホテルの窓から見える山の斜面に朝日が当たり、とても美しく輝いて
見える。空気が澄んでいるように感じられる。
7時に朝食を食べに食堂に行くと、日本人の若者二人のグループがいて軽く挨拶。二人とも携帯で何か
懸命に調べていた。バイキング形式(と言ってもたいしたものはないが)でパンにチーズ,コーヒー,ミ
ルクそれにフルーツ。モモは一個まるごと食べた。
旅も後半に入り、やっと腹の調子が戻り、食べ物を自由に食べられ体力も回復してきた。ただ、野菜が
どうしても不足する。昨日はスーパーでトマトを買って大きめのを2個食べた。ただハウス栽培のようで
トマト本来の味がしなかった。野菜補給
のため無理やり食べたという感じ。
今日はいよいよペリト・モレノ氷河を
ウプサラ氷河
見に行く。8時に迎えのマイクロバスが
来た。初め乗客はわずかだったが、次第
に増えて最終的に17人のグループに
なった。3人のフランス人家族,イギリ
エル・カラファテ
ス人のペアーとアルゼンチン人のペア
ー,アルゼンチン人の家族3組、それと
ペリトモレノ氷河
日本人私1人といったところだ。
最初に挨拶するとすぐに打ち解けて
ペリト・モレノ氷河、ウプサラ氷河 位置関係
今日一日の仲間という意識になる。
49
車は、昨日歩いて行ったアルヘンティーノ湖岸を
過ぎ、しばらく走るとカラカラやチマンゴといった
鳥の生息する地域に着いた。広い荒野で遠くに鳥の
姿が見える。
一旦停止してそれらの生態の説明がありすぐに走
り出した。この辺りには、ニャンドゥという小鹿の
ような動物やきつねなど野生動物が生息している。
次に Estancia Rio Mitre(エスタンシア・リオ・
ミトレ:リオ・ミトレ牧場)という牧場で30分ほ
アルヘンティーノ湖(南端)
ど休憩。馬がいたりヒツジがいたりのどかな牧場で、
ヒツジは放し飼いにされていて、昼寝をしたりのんび
りと草を食べている。ほんとうにのどかで平和な所だ。
アルヘンティーノ湖に沿ってしばらく走り車から降
ろされた。アルヘンティーノ湖はとても広く、ホテル
を出てから走っても走っても、ずっと湖の姿が見える。
すでにロス・グラシアレス国立公園内に入っており、
遠くには氷河が見える。
この地点から歩いて氷河に向かう。このツアーは国
リオ・ミトレ牧場
立公園内をトレッキングしながら氷河に接近していく
唯一のツアーということだ。国立公園内の物は、例え石一つでも持って行ってはいけないとガイドは厳し
い。足元は石がころがる湿地帯で靴が濡れる。
モレノ氷河の姿が次第に大きくなり、写真に納めな
がらトレッキングしていく。中に太った人がいてその
人にペースを合わせながら一列になって進む。
今日は暖かく“こんなに暖かいとは思わなかった”
とガイドに言うと、
“今日は風がないから特別の日で
す。とてもラッキーですよ”という答えが返って来た。
1.5kmくらい歩いただろうか、そこから再び道路
に戻り、マイクロバスに乗り11時半に氷河の入り口
に着いた。天気は絶好で、陽は暖かく風は涼しく爽や
ペリト・モレノ氷河をバックに
かである。
ここから自由時間となりそれぞれ自由に見て回る。
オプションで船に乗る人は14時集合、乗らない人は
15時に集合する。私は船に乗ることにしたので2時
間と少しの自由時間だ。
ツアーメンバー(休憩)
ペリト・モレノ氷河遠景
氷河正面の林の中には、木で作られた長い遊歩道
が設けられ、いろいろな方向から氷河を見ることが
できる。ペリト・モレノ氷河は全長20kmで、先
端の幅は2km,高さは60mほどあり、とても規
50
模の大きい氷河だ。展望台が何か所もあり、氷河のいろいろな姿を見ることができる。
最初の1時間でほとんど歩き回り、いろいろな角
度から氷河を眺めた。
とにかく『凄い!』の一言。
周辺は比較的気温が高いので、氷は活発に崩落し
15分に1回は崩落があるという。1日に2mほど
進むとのことで、できれば大崩落の瞬間を目撃した
い。崩落する音が雷のように鳴り響くが、見える場
所ではなくほとんどが側面なのである。かなりの頻
度で崩落が起こっていることがわかる。
12時半ころから、正面の一か所にずっと立って
展望台を繋ぐ遊歩道
崩落の瞬間を動画に納めようと頑張って待ち続けた。15分経過しても何も起こらない。30分経った頃、
左の方でごく小さな規模の崩落が起きた。
小さな波が立ち、落ちた氷の塊が水面に浮かぶ。水面を見ると、どのあたりで崩落が起きたのかがはっ
きりとわかる。隣のドイツ人カップルも私と同じように懸命にその瞬間を待っている。
45分経過、2つ目の小さな崩落があった。そして3つ目の小さな崩落。崩落は一瞬で終わってしまう。
ペリト・モレノ氷河全景(正面)
私は左側と右側の1か所ずつ可能性の高い場所に目をつけ、今か今かと待つ。
私は大きな氷柱がゆっくりと、スローモーションのように倒れて来るというイメージを抱いていたが、
崩落は一瞬で終わってしまうのだった。音が伝わってくる頃には、崩落は終わってしまい気付いた時はも
う遅い。大きい氷の壁がゆっくりと崩壊するのは本当に稀なことだということがわかった。
1時間経過、小さい崩落が3回あっただけで、まだ目指している大きな崩落はない。1時間10分待っ
たが、結局期待していた大きな崩落は見ることができなかった。それでも、今か今かと期待感を持ちなが
ら清々しい空気の中、待つ時間はアッという間で楽しい時間だった。
14時になり、マイクロバスに戻る。メンバーの
中で船に乗る人は7,8人。大きな船で、100人
くらいは乗船していたと思う。
14時半に出航すると氷河に向かって進んでいく。
デッキに出てよいという合図があり、皆一斉にデッ
キに出る。風は少し冷たいがとても爽やかだ。
太陽の光が輝いて素晴らしい景色。次第に氷河が
近づいてきた。ここは展望台からは見えなかった左
側面の氷河である。
氷河に近づくと、船は静止して思う存分氷河を見
船で氷河にアクセス
51
せてくれる。
崩れ落ちて水面に漂う氷塊をロープで引き寄せて、
砕いて乗客に持たせてくれたりサービス満点だ。
ティエラ・デル・フエゴ国立公園のトレッキング
もそうだが、今日も天気に恵まれて思う存分楽しむ
ことができた。乗客はみな和気藹々、写真を撮りあ
う。私は一人なので頼んで写真を撮ってもらった。
15分ほど氷河の正面に滞留し氷河の景色を楽し
んだ。氷河の上方は太陽の光が当たって青く輝き、
何とも形容しがたいほど美しい。
氷河左側面に接近
皆同じ船に乗り合わせた“仲間”という意識も芽生えいろいろな人と話し合った。ドイツ人,オランダ
人,スウェーデン人,フランス人そしてアルゼンチン人。船の中はとてもいい雰囲気だった。
女性はノースリーブの人が多いのだが、寒くないのだろうか?
氷河左側面全景
氷河の景色を堪能した乗客を乗せ船は岸に戻る。徐々に遠ざかると氷河の全体像が標準レンズに収まる
距離になり、また写真を撮った。これで120ペソは安い。はじめ船に乗るかどうか迷ったが、ガイドに
訊いたところ「船は氷河の近くまで行く」ということ
だったので乗る気になったのだが、船に乗って本当に
良かった。ちょうど1時間でクルーズは終わり、全員
合流して帰途につく。
帰りは居眠りしながら、満足感に浸っていた。マイ
クロバスはずっとアルヘンティーノ湖を見ながら走っ
ている。この湖は氷河湖で、牛の胃袋のようにいくつ
にも分かれていて、あらゆるところで姿を現す。
後ろに座っているフランス人の家族は疲れたのか爆
睡している。左前の逞しい体をした、物静かなイギリ
左側面遠景
ス人の青年は何か本を読んでいる。船の上で彼に写真
を撮ってくれるように頼んだら、快く受け入れてくれたので好感を持った。
美しい景色を両側に見ながら17時にエル・カラファテに着いた。私は途中で下してもらい、スーパー
で買い物をしてホテルに戻った。
■2014年2月27日(木) エル・カラファテ ウプサラ氷河
今日はウプサラ氷河のツアーに参加する。ウプサラ氷河は船でしか行けない。
7時15分にホテルを出発して、17,8人乗せたマイクロバスは1時間ほどで、プンタ・バンデーラ
というアルヘンティーノ湖に面した船の発着ポイントに到着。ここで、いろいろな手段で集まって来た4
52
~50人の客を乗せ8時半に出航した。
船は定員100名ほどの大型船で、定
ウプサラ氷河(船+陸路)
員のほぼ半数くらいの乗客だ。
ウプサラ氷河(船)
View Point(最終地点)
今日の空は曇っている。船は広い運河
のような水路を進む。10時ころになる
クリスチーナ牧場
と雨が降り始めデッキに出ると寒いく
らいだ。さらに進むと、湖面に氷の塊が
浮かび、その数が徐々に増えてきた。
10時半巨大な氷塊が浮かぶ地点に
到着、撮影ポイントである。ここで皆、
氷塊をバックに思い思いにシャッター
ウプサラ氷河詳細
を切る。11時ころになると雨が止み
(雨の降る地域から抜け出たというべきか?)気温も少し上がってきた。
11時半、船はクリスティーナ運河のドン詰まりの
エスタンシア・クリスチーナ(クリスチーナ牧場)に
到着。のどかな景色の所だ。ここで上陸して牧場の由
来などの説明があった。
この牧場はイギリスから渡って来た家族が設立した
ものだという。30分ほど牧場を見学して昼食となる。
乗船してすぐ、係員がランチの予約を訊いて回って
いたが、この時に注文しておけば、名札付のテーブル
が用意されているということだったのだ。
運河のような水路を進む
それ以外の人は名札のないテーブルに座って、思い
思いに用意して来た物を食べる。私は持って来たサン
ドイッチで簡単に済ませた。
このツアーでは、富山から来たという私とほぼ同年
代の夫婦に出会い昼食後に話した。
ブエノスアイレスに暮らす叔母を頼って来たとのこ
とで、その子供(姪)が通訳と案内をする形で、叔母
を含め4人で旅行している。
日本語で話すのは本当に楽だ。彼ら夫婦はアメリカ
経由ではなく、
ドバイからヨ
巨大な氷塊が浮かぶ
ーロッパ経由
でリオ・デ・ジャネイロに入ったとのこと。イグアスの滝を見るため
にブラジルに入国しようとしたが、
ワールドカップの影響でなかなか
ビザが下りず諦め、
仕方なくアルゼンチン側から滝を見たのだという。
クリスチーナ牧場
昨日はペリト・モレノ氷河に行き、16時ころ全体の高さのほぼ半
分の高さの氷河崩落の瞬間を目撃したそうだ。
私としては頑張って待
っても見られなかったのでとても羨ましかった。
昼食後、
14時に4台のジープのようなオフロード車に分乗してク
リスチーナ牧場を出発。
ウプサラ氷河は直接船でアクセスすることができるが、
枝分かれし
たもう一方の氷河を見るには、
ここから陸路で近づき最後は歩いてい
くしか方法がない。今回のツアーは後者なのである。
4台の車に分乗し悪路を行く
車はアップダウンの激しい悪路を行く。
天井の鉄パイプに掴まり物
53
凄い振動に耐えながら45分走った。その後20分ほど歩いてやっと氷河に辿り着いた。
車を降りたところは200年前までは氷河が残っていたところで、氷河に削り取られた岩肌にはナマナ
マしいキズ跡が残っている。大きな岩がゴロゴロした、宇宙の別の星と錯覚するようなガレ場を歩き、や
っと氷河の姿が見えて来た。
ここからは歩いて氷河にアクセス
氷河に削られた岩肌
氷河の前にはエメラルドグリーンの氷河湖が横た
わり素晴らしい眺め。このツアーが特別なものだというのは、氷河を上から見下ろせるところなのだろう。
直接船でアクセスできる氷河は、昨日のペリト・モレノ氷河と同じような見え方なのだと思う。
船で行き途中でジープに乗換え、最後は歩きでないと辿り着けない分だけ、美しさと見られた時の感動
は大きい。1時間ほど、素晴らしい景色を楽しんで氷河の説明などを受けた。
グリーンランドの氷河に比べれば、ウプサラ氷河へのアクセスはずっと楽なのだという。ここは風が強
かったが思ったほど寒くなく、ウインドブレーカーだけで問題なかった。
ウプサラ氷河
ウプサラ氷河
氷河湖とウプサラ氷河
こんなに素晴らしい景色が見られるなんて、苦労して来た甲斐があった。今回の旅はこれまで天候に恵
まれ本当にありがたい。
16時少しすぎにウプサラ氷河を後にする。また20分歩き、悪路を45分、クリスチーナ牧場に戻り
船に乗る。車の中では日本人4人のグループと一緒だったのでスペイン語を通訳してもらえて助かった。
名前は訊いてはいないがとても親切な人だった。フランス人の夫婦も同乗していて、何と!生後2ヶ月
の赤ちゃんを連れて揺れる車に乗っていたのである。もの凄い揺れで天井に頭がぶつかりそうになるくら
いなのに、平気で乳飲み子を連れてくるのには本当に驚いた。
再び船に2時間ほど乗り、プンタ・バンデーラに19時半着。朝乗って来たのと同じ車が待っていてく
れて20時半にホテルに着いた。13時間以上に及ぶ長くハードなツアーだった。ウプサラ氷河を見るこ
とができた満足感で一杯だ。
■2014年2月28日(金) プエルト・ナタレス
朝5時、携帯の目覚ましで起きた。今日はバスでプエルト・ナタレスに向かう。
6時20分食堂で朝食。スウェーデン人の7,8人のグループがどこかのツアーに行く準備をしている。
54
パンにハム、チーズを挟んで即席のサンドイッチをたくさん作っていた。
ホテルの支払いは宿泊費が203ドル(ペソだと1,605ペソ:正規レートで換算すると1ドル=
7.9ペソとなる)
、ツアー料金(ペリト・モレノ氷河ツアー:360ペソ、ウプサラ氷河ツアー:900
ペソ)については、実勢レート1ドル=9~10ペソで今回は9ペソ換算で147ドルとなり、合計35
0ドルである。従って市内で1ドル=10ペソで交換してペソで支払うのが最も有利だが、市内で3,4
軒訊いてみたところ、両替所があるからそこに行きなさいと言われてしまった。従ってエル・カラファテ
では1ドル7.9~8ペソの通常レートだろうと思う。
結果的にブエノスアイレスやメンドーサの市内でもっと多くのドルを両替して、数千ペソを持ち歩くの
が最も良かったことになる。しかし、それが分かったのは最近だから仕方ない。結局このホテルではすべ
てドルで支払うしかなかった。カードで支払えば結局公定レートになるので同じことだが。
このように、ブラジルやアルゼンチンなど自国の通貨が弱い国は、市内のヤミ両替で有利なレートで交
換して、現地通貨で支払うのが最も得である。偽札を掴まされなければの話であるが。南米では、中国の
ように偽札に出会うことはなかった。
バスターミナルには7時少し前に着いた。すると、ウシュアイアで一緒にティエラ・デル・フエゴ国立
公園のトレッキングに行ったYさんという女性に偶然会った。これからエル・チャルテンに行くとのこと
で、Iさんとは別の人と一緒だった。
プエルト・ナタレスへのバスはCOOTRA社(クートラ社)が毎日8時半発、ZAAHJ(ザージ)
社が曜日によって8時,14時のバスを運行している。ほとんどの乗客は窓口に寄らずそのままバスに向
かうところを見ると、当日にチケットを買う人は少なく事前に購入しているのだろう。クートラ社の窓口
が7時半に開きバスのチケットを買うことができたが、窓側の席は売り切れていた。
バスは時刻通り発車。走り始めると、広大な平原に点々と灌木が見える景色が続く。最初は全く草の生
えていない荒地だったが、徐々に草が生えた土地に変わり、所々羊や馬,牛が放牧されている。この辺り
の土地は広大だが、動物のエサになる植物が充分育たないので牧畜もそれほど本格的に行われていない。
3時間走ってもこんな風景がずっと続き、パタゴニアの広さを実感する。右側遠方に雪を被った高い峰
が見え、頂上の雪が太陽に輝いて美しい。その後1時間走ってアルゼンチン側国境の街 Rio Turbio(リオ・
トゥルビオ)に到着。私の隣に座っていた女性はここ
で降りた。
この街を出ると上り坂となり国境についた。すぐにア
アルゼンチン~チリ国境(チリに再入国)
ルゼンチン側の出国審査が行われ、必要書類を書いて
パスポートに出国スタンプをもらう。いたって簡単で
広漠とした土地に牧場が点在する
30分で全員が終わった。
次にチリ側の入国審査。ここでは入国書類,税関申告書を書き、荷物の検査を受けてOKとなる。チリ
からアルゼンチンのメンドーサに入国した時はバッグの中を調べられたが、ここではX線を通過するだけ
で終わった。全員が終わるのに1時間ほどで、メンドーサの時と比べて30分ほど短かったように思う。
国際線バスの運転手は、入出国審査の面倒も見なければならないので結構大変だ。運転手は腹の大きく
出た人の良さそうなおじさんだった。
チリに入国すると下り坂になり、どんどん坂を下りると10分ほどでプエルト・ナタレスに着いた。5
時間半のバスの旅だった。
55
バスターミナルで明後日のプンタ・アレーナス行きのバスのチケットを買う。すでに結構予約が入って
いて9時発の便は満席、11時発になった。プンタ・アレーナスまでは約3時間、サンチアゴ便はプンタ・
アレーナス発19時だから充分間に合うだろう。余った時間で是非マゼラン海峡を見てみたい。
プエルト・ナタレスのホテルはバスターミナルから
車で5分ほど。ホテルから市の中心までは歩いて7,
8分という位置関係だ。部屋にバス,トイレはなく共
用になっている。
ホテルで地図をもらい市内を散策する。アルゼンチ
ンからチリに入ると心なしか田舎っぽく感じる。人,
ホテル(We are Patagonia)
中心部の交差点
建物どちらもそう感じるが、これはアルゼンチンとチ
リの文化の差ではないだろうか。また、アルゼンチン
人は白人の比率が多いが、チリ人は先住民との混血が
多いように思う。
プエルト・ナタレスはエル・カラファテに比べると
とても鄙びたところで、その名の通り港町である。街
の中心部はほんの数百メートルの範囲で、そこを外れ
るとすぐに海となる。
海に出ると対岸には雪を頂いた峰が連なって見える。
街のメインストリート
しばらく歩くと街の輪郭が分かってしまうほど小さな
街である。ここ数日レストランで食事していないので
久しぶりに入ってみる。家族で経営している感じのレ
港(Puerto)
ストランで、専門のシェフがいるようではない。サーモンの鉄板焼きを注文。せっかく日本から持って来
消防車格納庫(?)高さが不揃いな扉
民家(右下がりの屋根)
56
た醤油を忘れてきて残念。サーモンの塩焼きにスパイス、トマト、オニオンをみじん切りにしたソースを
かけて食べる。久し振りに口に合った食事をすることができた。
このプエルト・ナタレスはエル・カラファテより寒い気がする。今日は曇りで風も吹いて、ウインドブ
レーカーなしでは寒いくらいだ。でも街を歩いていると、半袖の男性やノースリーブの女性がいるのには
驚く。スーパーでワインとチーズを買ってホテルに戻る。ゆっくり明日のパイネ国立公園の計画を練るこ
とにしよう。
■2014年3月1日(土) プエルト・ナタレス パイネ国立公園
6時起床。シャワーとトイレが部屋にないのは本当に不便だ。昨日フロントで朝食の時刻を訊かれたの
は食堂が狭くせいぜい4人ほどしか座れないためだった。このホテルの主人は若いがしっかりしていて親
切だ。朝食は、パンにバターを塗ってハムとチーズを挟んだサンドイッチとミルクコーヒー。タクシーを
呼んでもらうつもりでいたが、歩いて5分だと行き方を教えてくれた。
バスターミナルには7時10分に着いた。Via Paine(ヴィア・パイネ)というバス会社で出発は7時
50分だった。乗客は7割程度。
パイネ国立公園内はどのバス会社も経由地が決まっていて、①アマルガ湖 ②プデート ③公園管理事
務所 の3か所である。乗客は自分の目的地に合わせて乗降場所を決める。
まだ早朝のせいか、バスの中は少し寒い。少し喉がいがらっぽく体調がやや心配。
バスは所々草が生えた、不毛の大地といった感じの
中を走る。道の両側は、低い丘が迫っているところ、
広々とした場所もある。遠くに雪を被った高い峰が
時々見え隠れする。
途中の休憩所で、パイネ国立公園の入園許可証に必
要事項を記入,サインするよう用紙が配布された。
この場所はとても風が強く、寒い風が吹き荒れる場
所だ。ここからは悪路でバスの揺れが凄い。
徐々に景色が変わり、山や湖が見え始めた。この時
点で、これから行くところの素晴らしい景色を予感さ
初めはこんな風景がずっと続く
せる。
10時にアマルガ湖に到着。入園料18,000ペソ(チリ人は半額)を払い手続きを済ませ、10時
40分アマルガ湖を出発。既に国立公園内に入り、山
と湖がいろいろな姿で見え隠れする。
11時20分、2番目の経由地プデートで下車。プ
エルト・ナタレスを出発して2時間半かかった。
プデートはペオエ湖に面し、パイネ・グランデ・ロ
アマルガ湖の山小屋(入園許可証を提出)
ッジまでのペオエ湖遊覧船の発着するポイントであ
る。ロッジに行く人は、さらにその先のグレイ氷河
方面を目指す人たちだ。私はここで降りて、この辺
プデート(ペオエ湖畔)
りを歩いてみようと思っている。
地図で方向を確認して11時半にスタート。まずサルト・グランデという滝を目指す。バスの通る道路
57
といってもアップダウンが激しい。
そんな道路を歩いていくと、低い木がみな焼かれている。これは、馬を放牧した時に食べさせる草を育
てるためだそうだ。ほとんどの木が黒く焼け焦げていて、何だか痛々しい。しかし、ここは自然環境が厳
しいので草の生育も悪く、放牧のためにはこのような手段が必要なのだろう。
坂を上りきると道路は行き止まりとなっていて、この先、車で来た人もすべて歩かなくては行けない。
ここからはノルデンフェールド湖の美しい姿を見
ることができる。目の前にはパイネ・グランデ
(3,500m)と、パイネの角と呼ばれる Cuernos
del Paine(クエルノス・パイネ2,600m)がす
ぐそばに迫って見える。
そして、ここには『強風注意』の立札が掲げられ、
凄まじい強風が吹き抜ける場所だった。
ノルデンフェールド湖
ここから、ノルデンフェールド湖岸に沿って歩くと、
次第に波の音が高くなってくる。体に水しぶきがかか
る。ノルデンフェールド湖からペオエ湖に流れ込む川
の入り口が狭くなっていて、流れが急流に変わり落差
が滝になっているのである。
水しぶきは強風に乗ってまともに降りかかってくる。
“強風地域につき注意”
こちらは風下なので、水しぶきがカメラのレンズに
かかり、どんな画像が撮れたかわからない。
やはり、パタゴニアは凄い所だ! 風の大地とはまさ
にこのこと。その強さは台風に勝るとも劣らない。
こんな所に家を建てたらたちまち飛ばされてしまう
だろう。鉄骨で造った橋がグニャグニャに曲がって、
途中でヘシ折れていた。ここは10分と居られない場
所である。もとの場所に戻り、今度は湖に沿った高台
サルトグランデ(正面)
の道を行く。上っていく途中多くの人とすれ違う。こ
の先の景色を見て来た人で皆一様に満足顔だ。
案内図では1時間ほど歩くようになっていたが、
20分程度で着いてしまった。着いたところはサル
ト・グランデを上から見下ろすポイントだった。
ここはさっきの場所よりさらに強風。息ができない
ほどで、涙が止まらない。風は谷の下から上に吹いて
くるので、谷底に落ちるようなことはないが、これが
逆方向の風なら、風圧に押されて非常に危険だ。
こんな自然の猛威がごく普通に見られるパイネ国立
公園は本当に凄い所だ。自分がこんな場所にいること
サルトグランデ(上から)
が、何だか信じられない気持ちだ。
驚異的な自然そのままの姿に触れ、満足してプデートに戻る。プデートでの見どころはこのあたりだけ
だ。ここで、プデートからバスでアマルガに戻り、アマルガ湖の周辺を歩くかどうか悩んだ。喉が痛くあ
まり無理しない方が良いこと、天気も下り坂の模様なので、13時半プデート発のバスで戻ることにした。
58
パイネ・グランデ(3,500m)
クエルノス・パイネ(2,600m)
このバスを逃すと、19時のバスまで5時間半も待たなくてはならない。まだまだパイネの見どころは
あると思うが、あまり無理せずに帰ることにしよう。
帰りのバスでは早起きの疲れが出たのか、ぐっすり眠った。今日は途中まで天気が良く、ここ数日の中
では最も条件に恵まれた日であった。
パタゴニアの天気は一日の中に四季があると言われるほど変化が激しい。帰り道でも15時半ころから
急に風が強くなった。朝、休憩をした地点に再びたち寄ったのだが、ここもかなり強風が吹く場所だった。
大袈裟ではなく、バスが倒されるのではないかと思うほどの風だ。こんな所で生きている人は、何を感
じ何を楽しみに生きているのだろう。ここでは、人どうしが親しく挨拶を交わす姿をよく見かけた。
手を取りあい抱き合って言葉を交わし、親愛の情を表し、とても人と人の繋がりが濃いという感じを受
けた。勿論日本的な情の深さの表現とは異なるが、自然条件の厳しい土地に住むことで、感情表現がより
強くなるのかも知れない。こうして見てくると、今日のバス運転手の人懐こさそうなところといい、チリ・
パタゴニアの人々に対して、本当に“みんないい人、ありがとう”という気持ちで一杯になった。
皆素朴で人懐っこく、気さくで情に厚い人だと感じる。チリの人はアルゼンチンの人に比べると、先住
民(モンゴロイド系)とのハーフが多いせいか、顔はどちらかというと東洋人的で親しみが湧く。
建物なども見栄えには拘らず、実質的な面を重視しているように思われる。パタゴニアのような自然の
厳しい環境に生きる人々は、みな心温かくいい人ばかりのように思えてならない。
バスは16時40分プエルト・ナタレスの街に帰って来た。この街も昨日少し歩いただけで、隅から隅
までわかってしまうほど小さな街だ。帰りにスーパーでパンとハム、シャンパンを買いホテルに戻る。
このホテルの女性はとても愛想がいい。ホテルの主
人の奥さんか?
買い物したスーパー
明日は11時のバスでプエルト・ナタレスからプン
タ・アレーナスに向かう。プンタ・アレーナスはチリ・
建物の色が自由で面白い
パタゴニアの中で唯一空港がある街だ。プエルト・ナタレスからは少し南下することになるが、プンタ・
アレーナスはマゼラン海峡に面しているので是非行ってみたい。
明日は19時のフライトでプンタ・アレーナスからサンチアゴに向かうが、それまでの間にマゼラン海
峡を是非見たいと思っている。歴史を変えたマゼラン海峡を是非この目で見ておきたい。
これでパタゴニアの旅も終わり、明日からは徐々に北上して日本に帰る。ペルーから始まってチリ北部
59
砂漠地帯、そして南米大陸中央部からパタゴニアに来て今日が最後の日である。明日プンタ・アレーナス
を飛び立てば、あとはサンチアゴ→リマ→アトランタと帰るだけだ。ここまで何もなく無事に来れたこと
が本当にありがたい。
■2014年3月2日(日) プエルト・ナタレスからプンタ・アレーナスそして帰途へ
久しぶりにゆったりとした朝を過ごした。今日は11時のバスなので余裕がある。9時に朝食、このホ
テルのフレッシュオレンジジュースはとてもうまい。いつものようにパンにハムとチーズ、ミルクコーヒ
ー。食後メールのチェック。ほとんど毎日インターネ
ットで日本と繋がるので、日本で起きていることとの
ギャップ,距離を感じることが少ない。
今日からいよいよ帰りのモードに入る。今日はプエ
ルト・ナタレスからプンタ・アレーナスに行き、市内
を2~3時間見てから空路サンチアゴに向かう。サン
チアゴのホテルは来るときにも宿泊したホテル(リビ
エラホテル)なので勝手がわかっている。
バスは時刻通り11時にスタート、フェルナンデス
という会社のバスだ。バスは1時間,2時間と果てし
バスに乗る前に荷物を積み込む
なく続くパタゴニアの荒原をひたすら走り続ける。
時々羊や馬が放牧され、牧場だということがわかる。
多分この土地は放牧にしか向かないのだろう。冷たく
乾燥した風が常に吹き抜ける土地で、エサになる草も
あまり伸びない。2時間と少し経って海が見えてきた。
道路は舗装されているので昨日と違って揺れはほとん
どない。しばらく左側に海を見ながら走り、2時間半
ほどでプンタ・アレーナスの街に入った。
空港で降りたい人は寄って降ろしてくれるというこ
とだが、このまま空港に行くのは早すぎるので、プン
タ・アレーナスの街を見てから空港に向かうことにし
パタゴニアの荒原がずっと続く
ている。プンタ・アレーナスにはちょうど14時に到
着、ガイドブックどおりきっちり3時間だった。
共通のバスターミナルはなく、フェルナンデスとい
うバス会社の単独のターミナルだった。係員に荷物を
預かってもらいたいと頼んだら快く引き受けてくれた。
身軽になって街に出る。この街はプエルト・ナタレ
フェルナンデスのバスターミナル
清潔で美しい街並み
スに比べて大きな街だ。それにヨーロッパの街のよう
に清潔で美しい。
まず何より先にマゼラン海峡に行ってみる。バスタ
ーミナルはほぼ街の中心にあり歩いて数分で海に出た。
海峡に面して記念碑が建っている。遠くに大型の船
60
が2,3隻ゆっくりと航行している。海峡といっても
かなり広く、対岸は遥か彼方に見える。天気は悪くな
い。気温はさほど低くなく風も弱い。海面に波はほと
んど立っていない。
冬になるとどのようになるのだろう。確かに、長さ
マゼラン海峡発見の記念碑
マゼラン海峡(思ったよりずっと広い)
何10kmもある水路が行き止まりなのか、突き抜け
ているのか見極めるのは難しい。
パナマ運河ができるまでは、太平洋と大西洋を結ぶ
のはこのマゼラン海峡だった。この海峡発見のお陰で、
海の難所と言われたホーン岬を通る必要がなくなった
のだから、歴史的な大発見といってよいだろう。
同 側面
海岸通りを歩いていると、倉庫の壁に絵が描かれている。1つの建物だけでなく、3つの建物(倉庫)
にまたがって1つの絵になっている。勿論建物の所有
者は同じ人なのだろうが、何だかとても面白いと思っ
た。スペイン語圏の国では、どこも建物の外壁は公共
のキャンバスと考えられているような気がする。
アルマス広場は歩いて10分ほどだった。市の中心
部はそれほど広くなく歩いて回れる。
アルマス広場には観光客が多かった。広場の中心に
はマゼラン像が建っている。先住民を足下に踏みつけ
倉庫の壁に描かれた絵
光る先住民の足先
屈服させたことを誇っている像で、私はあまり好きで
はない。強力な武器を持たない先住民が哀れだ。
昔は力づくで土地を奪ったのだから、戦いに負けた
方は従うしかない。先住民の血を引いているモンゴロ
イド系の人は、この像を見てどう思うのだろうか?
踏みつけられた先住民の足が光っているのは、それ
に触れると幸せになれると言われているためだ。
先住民の足の先が幸せをもたらすという謂われを持
マゼラン像
っていることが、何か救いのように思えた。私はその足先に手を触れたが、私が見
る限り他の観光客で触れている人はいなかった。
何かの募金活動なのか、広場の一角で若者たちが大音響で打楽器のパフォーマン
スをしていた。顔がマチマチの6,7人の男女が、懸命に演奏している。周りには
61
私を含めて何人も集まって熱心に聴いていた。
アルマス広場からノゲイラ通りというメインストリ
ートをずっと歩く。時刻は15時半頃で、多くの店は
16時まで閉まっているようだ。
打楽器のパフォーマンスで募金活動
歩いていると重慶飯店というのが開いていた。今回
の旅で初めての中華料理だ。
ワンタンスープと五目チャーハンを注文。チャーハ
ンは海鮮や肉の入ったもので、なじみの味だった。
街のメインストリート ノゲイラ通り
量たっぷりのワンタンスープもうまかった。こんなパタゴニアの街にも中華料理店があることに驚いた。
16時を少し回り、そろそろ空港に行く時間である。タクシーを拾い“空港まで”と伝え、その前にフ
ェルナンデスのバスターミナルに寄ってもらうように頼んだ。空港までは市内から20kmで、メーター
で10,000ペソくらいかと思っていたが12,400ペソだった。
今日はスカイエアーという初めての航空会社で19時発H2026便に乗る。スカイエアーはチリ国内
線が主で、南北各都市に路線がある。
プンタ・アレーナスから乗る日本人が何人かいた。
この便はプエルト・モンに寄ってサンチアゴに向かう
が、これで行くとサンチアゴ23時15分着で夜遅い
ので、今回もコレクティーボで市内に入ろうと思う。
今回は勝手もわかっているしホテルも予約しているの
で安心だ。
飛び立って初めの1時間は、不毛の大地という表現
がぴったりのパタゴニア特有の景色だった。
しばらく行くと、山頂を雲に覆われたアンデス山脈
の風景に変わった。高い峰々が幾重にも重なってずっ
プンタ・アレーナス空港ターミナル
と続いている。そして海が姿を現し2時間ほどで緑が見えプエルト・モンに着いた。
プエルト・モンは前に一度来たことがある。チリでは最も良い所の一つではないかと思う。気候は日本
でいうと北海道か東北に近く、風光明媚で食べ物もおいしい。ここで2,30人降りたが、乗る人の方が
多くほぼ満席になった。プエルト・モンを飛び立った飛行機は、海や山など変化に富んだ景色の中、時刻
通り23時15分にサンチアゴに着陸。上空から見るサンチアゴの光は本当に大都市に来たことを感じさ
せる。同じ便でサンチアゴに着いた、25年目の勤続休暇を利用して1ヶ月間一人で南米を回ったという
女性と話した。
“南米はスペイン語ができないとだめですね”と、思ったより苦労したようだった。彼女は
ホテルに急ぐためタクシーで行くという。
私は少し時間がかかるが Trans-Vip 社のコレクティーボで市内に
入る。タクシーは34ドルのところをコレクティーボは11ドル。
この旅でサンチアゴは2度目なので余裕がある。
先日もそうだった
が、このミニバスは恐怖を感じるほどスピードを出す。今回も同じで
夜の街を猛スピードで飛ばし、リビエラホテルには0時半に着いた。
ホテルの人はもう顔なじみになっていて、何だか常連さんの気分。
リビエラ ホテル
明日は20時の便でリマに向けて飛び立つ。
62
■2014年3月3日(月) サンチアゴ
先日泊まった時 Wi-Fi に接続するのに苦労したが、今日はすんなり繋がった。日本電気協会から、委員
会報告書の最後の修正確認のメールが来ていた。日本の裏側にいる私にも瞬時に届くのだから、メールと
は便利なものだ。内容確認しすぐに“了解”の返信をした。
10時40分チェックアウト。空港までのコレクティーボを予約、フロントの女性が手際よく連絡して
15時半に迎えに来てくれる。フロントにバッグを預け、時間まで再びサンチアゴの街を歩く。
まず、アウマーダ通りとアルマス広場の方向へ。ア
ルマス広場は相変わらずの人出。出勤時刻なのか、こ
れから職場に向かおうとする人が急ぎ足で通り過ぎて
地下鉄サンタ・ルシア駅(ホテル最寄り駅)
いく。先日食べられなかった魚を食べにベガ市場に向
かう。先日は途中までしか行かなかったが、ベガ市場
の一番奥まで行ってみる。そこは大規模な野菜と肉の
アウマーダ通り
マーケットになっていて、多くの店が犇めいていた。
食堂が集まっている一郭に戻り、適当な店を探すが
思ったような料理が食べられそうな店が見つからない。
写真のメニューを掲げた一軒の店に入り、写真を見て
魚料理を注文。米と野菜が付いてくる。
魚の種類を知りたいので“何という魚?”と訊くと、
“ただ Pescado
(魚)
”
とだけしか答えが返ってこない。
質問の仕方が悪いのか、欲しい答えがもらえないのが
もどかしい。出て来たのは巨大な魚の揚げ物、大味で
メルセー教会
期待外れでガッカリだった。魚のマーケットがあるの
に新鮮な魚が食べられない。もう後の祭り。こんなこ
となら、自分でアジやセイゴのような魚を1,2匹買
って店に持ち込み、揚げてもらったほうがよかった。
せっかく醤油を持参して来たのに残念!
街をブラブラ歩く。アウマーダ通りから離れて適当
新鮮な魚が小売されている
に歩き、中華料理店を見つけて入るがここでも思っ
たものは食べられなかった。
顔を白塗りにした一団が、フォルクローレの太鼓
を大音響で鳴らし道路を練り歩いて小銭を集めてい
る。
ベガ市場
63
街にはそんな人々がたくさんいる。インディヘナの土産店に入ってみるが目ぼしいものが見つからない。
適当にマテ茶のティーバッグを買った。
ホテルの近くに戻り、サンタルシアの丘に登ってみる。頂上まで登ると思いのほか高くていい眺め。月
曜日なのに、カップルで一杯。観光客より地元の人の方が多い。勢いよく噴き出す噴水がとても涼しげだ
が、太陽が当たるところはとても暑い。
サンタ・ルシア要塞
サンタ・ルシア要塞(最下階)
この旅2度目で、サンチアゴの街も充分歩いた、そ
ろそろ時間になったのでホテルに戻る。
迎えのミニバスは時刻通りに来た。誰もいないので
訊くと乗客は4人とのこと。Trans-Vip の運転手はみ
な運転が上手いが、恐ろしくスピード出すので事故が
心配だ。最後の4人目を迎えるまでに40分、もっと
も最後の人は空港の近くだったので、そこからは20
分ほどで空港に着いた。早朝や深夜でなければ、時間
サンタ・ルシアの丘からの眺め
はかかるがタクシーの1/3の料金で行けるコレクティーボが便利だ。
サンチアゴ空港の国際線は手続きがやっかいだった。やっとのことでチェックインカウンターの列が分
かって並ぼうとすると、入り口で女性係員に行き先を訊かれ「リマ」というと、自動チェックインで手続
きするように指示された。日本人の青年2人が四苦八苦していて、その中の一人に教えてもらいやってみ
たが結局ダメだった。何度やってもダメなので、別の男性係員にカウンターの列に入れてもらい、やっと
のことで搭乗券をもらうことができた。
チェックイン手続きの効率が悪いためにこうなってしまうのだろう。出国手続きを終え、余った7,0
00P で買い物をした。これからリマに行くが、先日約束したタクシーのホセは迎えに来てくれるだろう
か?リマの空港から市内への交通がどうしても心配になってしまう。
サンチアゴからリマへのフライトは順調で時刻通り、チリ時刻で23時45分に到着した。チリとペル
ーの時差は2時間なので、ペルー時刻は21時45分だ。
ホセとの約束は22時なので気がかりだったが、バッグを受け取ってタクシー乗り場に行ったのは22
時半だった。ホセを探すが彼の姿は見当たらない。別のタクシー運転手が“自分の車に乗らないか?”と
誘ってきたが、
“実は3週間前にリマに来て、この名刺のタクシーに予約して迎えに来てもらうことになっ
ている”と伝えると彼が電話してくれた。ホセが電話に出たようで、私に“話せ”と携帯を渡してくれた。
私が自分の名前を言っても通じないので彼が代わりに話してくれた。すると、
“今家にいて迎えに来るこ
とはできないと言っている”とのこと。もしかすると“これから迎えに行く”と言ったかもしれないが、
本当の話の内容まではわからない。運転手は“彼はいくらで行くと言ったのか”というので“45ソルだ”
というと、
“それはムリ80ソルだ”と値段交渉になった。
ホセが来れないなら仕方ない、結局75ソル(3,000円)で決まった。正規のタクシーは70ドル
(ボッタクリなのだが)のところ、半分以下の値段の白タクなので、途中で強盗に変身するなどの危険性
が絶対ないとは言えない。しかし、私はつい3週間前にリマに来て、だいたいの事情が呑み込めている。
64
ホテルも予約してあるし、タクシーも手配していたことを知っているので、目の前の運転手も変なこと
はできないだろう。そう踏んで75ソルでこのタクシーに乗ることにした。
南米のタクシーはとにかく飛ばす。いつもヒヤヒヤものだ。それに道路が悪いのですごく揺れる。3週
間前に来た時と同じルートで街中を抜け、海岸通りに出たので安心した。彼が明日ホテルまで迎えに行こ
うか?というので、迷ったが頼んでみることにした。料金は50ソルで決めた。空港から市内と、市内か
ら空港ではこれだけ料金が違うのだ。空港から市内に向かうのは特別料金なのである。
ホテルに着くと、お世話になったオーナー主人と奥さんが快く迎えてくれた。明日の深夜出発するので
一日半の滞在でどうかと交渉したらOKしてくれた。このホテルはバスタブが大きくゆったりと湯に浸か
れるので本当にありがたい。アジア諸国もそうだが、南米ではバスタブがあることが珍しいのである。
明日はリマの街を歩き、夜にはいよいよ南米を離れる。
■2014年3月4日(火) リマ
9時に朝食、このホテルは目玉焼きを作ってくれる。
主人がドイツ語で女性客と話していた。とてもドイツ語が上手いので訊くと、何と!主人はドイツ人だ
った。では、なぜペルーに住んでいるのかというと、ペルー人と結婚したからなのだという。
ドイツ人と言われれば確かにそのようにも見える。最初からペルー人にしては少し顔が違うなぁーと思
っていた。それでは何故ペルー人と知り合ったのかと訊くと、二人ともイタリアで仕事をしていて知り合
ったのだとのこと。奥さんもイタリアで働いていたことがあるのだ。
そして結婚して、現在ペルーのリマでホテルを経営している。日本人からみると随分意外性のある人生
だと思う。10時にタクシーを呼んでもらいリマ北部にある“ラ・プンタ”という岬の突端に行ってみる。
30ソルというので結構高いなぁーと思ったが、いざ行ってみると40分もかかり結構遠いところだっ
た。地図を見てラ・プンタに行けば美しい半島の景色が見られると思っていたが、それほどではなかった。
ラ・プンタに到着
グラウ提督記念碑
1時間ほど周辺を散策して戻る。ラ・プンタから
市内に戻るバスは何本もあるようだ。いろいろな方
向に行くミニバスが引っ切りなしに出ている。
たまたま来たバスに呼び止められ、ミラ・フロー
レスに行きたいというと、近くを通るから乗れと、
半ば強引に乗せられた。乗合バスで、一応バス停は
あるが乗客がいればどこでも乗せてくれる。客の奪
い合いなのだ。多くの民間会社がこのようなバスを
運行している。
ドアを開けっぱなしで、客を呼び込みながら走る。
ラ・プンタの眺め(沖に見えるのはサン・ロレンソ島)
どんどん乗り、どんどん降りていくという感じ。猛スピードで車線を変え、他の車とギリギリの距離でし
のぎを削りながら走る。もの凄いエネルギーを感じる。車内にルートマップがあったので、手持ちの地図
と見比べながら、サン・イシドロというところで下りればミラ・フローレスが近いということが分かった。
65
1時間ほど乗ったと思うが、どこで下りようか、見覚えのある建物はないかと探していると、バスの車
掌はちゃんと覚えてくれていて、ここで下りろと教えてくれた。そして親切に次の角を右に行けばミラ・
フローレスだと、行き方まで教えてくれた。料金はたったの2ソル!
下りてみるとどのあたりかさっぱりわからず、言われるままに右に曲がって歩き始める。しかし、どの
くらい歩けばよいのか、近いのか遠いのか見当がつかない。
歩いているとタクシーがちょうど客を降ろしたところだった。乗って「パルケ・ケネディ」とホテルの
近くの公園の名を言うと、そこから渋滞の道を通り抜けて20分ほどで着いた。バスを降りた地点からま
だかなり距離があり、とても歩ける距離ではなかった。
とにかくリマは広い。人口が900万人というから、東京とはあまり変わらない大きさでミラ・フロー
レスだけでもかなり広い地域ということが分かる。
そこからホテルには戻らず天野博物館に向かう。アレキーパ通りに入り、真夏の太陽の中を歩いていく。
中央分離帯にあるベンチの木陰で一休み。アレキーパ通りを5ブロック行って、アルガモス通りを左に曲
がり10ブロックで天野博物館に着く。
思ったほど遠く感じることなく着いたのはいいが、何と!閉まっていた。まあ、そういうことはよくあ
るのだが、建物の外観を見るとそれほど大きな博物館ではなさそうだ。せっかく暑い中歩いてきたのに残
念。多分、もう二度と来ることがあるとは思えないが
諦めよう。
帰り道の途中で見かけた中華料理店に入り昼食。天
野博物館は閉館で入れなかったが、リマの市内を歩き
いろいろ見ることができたので良しとする。
帰りに道を間違ってしまい、暑い中余分な距離を歩
き15時にやっとホテルに辿り着いた。
足が完全に棒になっていた。ホテルで汗を流し、少
し眠ろうとするが、結局1時間半ほど横になっていた
だけで眠ることはできなかった。
天野博物館
残りの金が60ソルほどあるので、18時頃近くの
スーパーに買い物に行く。お馴染みのWangスーパーに入る。日本人がこの地に来て造ったソース、そ
れとチョコレートや香辛料などを買った。どうでもいいようなものだが、珍しいので買って帰る。
今回、土産は全くと言っていいほど買っていない。
荷物になるし、土産物に興味がなくなってしまったの
である。インカコーラを買って飲んでみたが、人工甘
味料の味が強くあまりすすまなかった。黄色をした液
体というのもあまりいい感じがしない。
リマは緯度が低く冬でも太陽が真上にあり、日中ほ
とんど日陰ができない。街を歩くととても汗をかく。
しかし、夜になると急に涼しくなり過ごしやすくなる。
さあ、これで南米ともお別れ、今日の深夜の便で帰
る。日本までの道中が長いので、ゆっくりと風呂に浸
珍しい調味料が並ぶ
かり汗を流して帰りに備える。
昨日予約したはずのタクシーが約束の時刻21時半を15分過ぎても迎えに来ない。一元の客がペルー
人タクシーと約束をしてもほとんど守られないということがはっきりした。ホテルの主人に頼んでタクシ
ーを呼んでもらう。タクシーを待つ間ホテルの主人と話した。
ホテルの主人クリスチアンの両親はドイツ人である。両親はイタリアに移住し彼が生まれた。イタリア
で成人した彼はホテルで仕事を始めた。そんな中、イタリアで仕事をしていたペルー人の女性と知り合い
結婚した。そして、今奥さんの生まれ故郷ペルーに来て、オーナーとしてホテルを経営している。
彼は現在52歳である。ホテルは現在改修中で、エントランスホールを広くしてエレベータを最新式に
66
した。彼はイタリア語,ドイツ語は勿論、スペイン語,フランス語,英語が話せる。
子供は17歳の男の子と9歳の女の子がいて、上の子は経済学、下の子はいつも暗い中ホテルのロビー
で勉強していて、どちらかと言えば芸術方
面に才能があるとのこと。彼の経歴を知る
と、とてもバラエティに富んだ人生だなぁ
ーと思う。オーナー夫婦とは、来たときと
帰るときに泊まったので随分仲良くなっ
た。ホテルの前で撮った写真を送ると言っ
て、固い握手を交わして別れた。
空港には22時半に到着、主人とは45
ソルということだったが、運転手には50
ソル渡した。
デルタ航空のチェックインのコンピユ
ホテル・チョルカーナ オーナー夫妻
ータシステムにトラブルが発生し、手続き
が一向に進まない。たまたま私の前に並んでいた青年と話をした。顔は外国人の顔だが、日本のパスポー
トを持っているので、
“日本人ですか?”と話しかけると、たどたどしい日本語で“そうです、私は日本人
です”という答えが返って来た。名前はA君という日本名だった。
チェックインを待つ間、彼といろいろ話をした。彼は複雑な経歴の持ち主だった。ホテル・チョルカー
ナの主人とはまた違った特異な経歴である。
彼の父親は日本人、母親はペルー人で、母の生まれ故郷はアレキーパとのこと。彼の父は、日本に本社
がある旅行会社に就職、ペルー支店勤務となった。そこで知り合ったペルー人女性と結婚して彼が生まれ
た。その後彼の父と母は離婚してしまい、父は別の女性と再婚した。
その後父は脳梗塞で亡くなってしまった。彼の母は、後にアメリカ人と結婚して子供が生まれた。彼の
弟になるその子は、アメリカ人の名前でアメリカ国籍を持ち、現在もアメリカで生活している。二人は異
父兄弟で、国籍は日本とアメリカである。
A君は今22歳で、小さい頃日本に9年間住んでいたというが、その時覚えた日本語は今完全に忘れて
しまったという。父と母が離婚してペルーに戻り母に育てられた彼は、スペイン語で育ち現在群馬県大田
市に住み、富士重工など工場の建設現場で働いている。4年前日本に来て働き始めたが、日本語はたどた
どしい。今、彼の母はクスコで、主にアメリカ人を相手にした旅行会社で働いている。
日本人の父との間に生まれた長男は、日本国籍を持ち日本に住んでいる。再婚してアメリカ人の父との
間に生まれた次男はアメリカ国籍を持ちアメリカに住んでいる。
話によると彼の父は浮気性だということで、それが原因で結局離婚することになってしまったようだ。
彼はペルーで生まれてペルーで育っているのに、
日本国籍を持っているので、生活のため一人で言葉
の不自由な日本に住む厳しい現状がある。
今回彼はペルーに3週間の予定で、母と恋人に会
いに来てその帰りだという。
何と複雑で過酷な運命なのだろう。彼とはスペイ
ン語とたどたどしい日本語を交えて話した。私がス
ペイン語でわからないことを質問すると、不自由な
日本語で懸命に説明してくれようとする。
日本語はひらがなとカタカナは何とか読めるが、
漢字は全くダメだという。聞くのはいいが、書くこ
日本国籍をもつA君
とと話すことは難しいようだ。4年経ってもこの程度だから、仕事が忙しく勉強する時間がないのではな
いだろうか?自由に読み書きできるようになるまでには、まだまだ時間がかかるだろう。
コンピュータトラブルのせいで2時間もの間話した。自分の運命に負けず、話していてとても爽やかな
67
青年だった。何か力になれることがあれば、という気持ちになって彼の携帯番号を控えた。世界にはいろ
いろな人生があるものだとつくづく思う。
3月4日深夜にペルーを出発して、日本には5日の夕方に着いた。
旅の期間中、何の事故もトラブルもなく,大した病気もなく無事帰って来れたことは本当にありがたい。
1ヶ月間にわたり自分の思い通りの旅ができたことで、望みが充たされ一つの区切りができた。
この記録は、何年か経って自分で読んだときに、その時の記憶をありありと呼び起こすことができるよ
うに、できるだけ詳しく行動を記録した。その意味では、この記録は自分のために書いたものだ。気が向
いたときに少しずつ書いたので、完成までに4か月半もかかってしまった。
書きながら記憶が曖昧なところは、地図やガイドブックなどを調べることで旅を反芻して楽しんだ。
(2014.07.24)
ビーグル水道
ティエラ・デル・フエゴ国立公園トレッキング
68
Fly UP