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“十字架につけられたキリスト”

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“十字架につけられたキリスト”
“十字架につけられたキリスト”
ルカによる福音 95
“十字架につけられたキリスト”
23:26-38
いよいよ福音書のクライマックスです。ナザレのイエスがローマ総督ピラ
トの判決を受けて直ちに処刑される所です。現代の法律ですと、たとえ死刑
の判決があっても、法務大臣がハンコを押すまでは執行されないですね。日
本では判決確定後 6 ヶ月以内に法務大臣の執行命令が下ると、絞首刑の形で
執行されることになっています。ローマ法では判決と同時に直ちに執行でき
ることになっていた上、祭司長らとユダヤ議会は一刻も早くイエスを始末し
ようと急いでいますから、過ぎ越し祭の安息日までに強行してしまう方法を
取りました。
ところでこの十字架刑の場面の描き方ですが……四つの福音書とも非常に
簡潔にサラッと事実だけを記録して、刑の残酷さとか苦痛の激しさには触れ
ません。処刑を見守った見物人の罵りの言葉とか、イエスご自身のお口から
洩れた二、三のお言葉から、それを想像させるに過ぎません。刑の執行の仕
方も実は色々あって、ロープで吊し上げて炎天干しで死ぬまで曝しておく方
法から、足をねじ曲げて釘で打ち付けたり、両手を釘づけにして外傷と出血
で衰弱させたり、不自然な姿勢で心臓に極度の負担を与えたり、その方法は
一様でないのですが、このとき主がどんな姿勢でどことどこを釘づけにされ
たかは、福音書には何も記載されないのです。
かろうじてヨハネ伝の中で、復活されたイエスがトマスにおっしゃったお
言葉「あなたの指をここにつけて、私の手を見なさい」などから、最小限の
ことが分かるだけです。詩人や画家は自分が受けた感動を相手に伝えようと
して、十字架の苦痛を彼らなりに描こうとしますが、福音書記者はただ一言
「彼らはそこでイエスを十字架刑にした」と書くだけです。原文ではたった
の二語
、あとは読者の想像にゆだねています。
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“十字架につけられたキリスト”
こんなことに気づきましたのは、何年か前「聖衣」という映画を見たとき
のことです。イエスを十字架につけたローマ軍の隊長が、その後長い間、当
日の釘が打ち込まれる時の槌の音にうなされるのですね。「私はあの罪の無
い人を、あのように苦しめて殺した……」という意識が最後に隊長を信仰に
導くという筋だったように記憶しますが、福音書自体にはそういう苦痛のリ
アリズムがないのです。
昔の説教者たちは、キリストのお苦しみをできるだけ生々しく描けば、そ
れだけ福音の感動も大きいと考えたようですが、どうやらこれは福音書の強
調点とは大分離れていたのかも知れません。こういう直接のナマの感動とい
うのは、まあ讃美歌の一部にもありまして「あぁ私の罪が、そこまで主を(オ)
苦しめした!」と涙を流す感動も美しいと言えば美しいですが、でもこうい
うものは生々しければ生々しい程、覚めてみると根の浅いものであることが
よくあります。必ずしも全部の涙が浅いものだとは言いませんが……
結局福音書は、そんな読む人までが手足が痛くなって、気分が悪くなって
くるような感覚には訴えないで、むしろもっと深い所で自分の罪と死を見る
ように、十字架の上でそのあなたの死を引き受けて、罪を持って行って下さ
った方を見るように……と別なセンスに訴えているのだと思います。では先
ずクレネ人シモンの場面から……
1.シモン、十字架を負わされる。
:26.
アメリカ映画の the King of Kings では黒人のシドニー・ポワチエがシモ
ンを演じていました。クレネは今のリビアの一部ですから、クレネの原住民
であれば黒人という解釈でしょうか? でもこの場面で何の説明もない所か
ら考えれば、シモンはクレネ出身のユダヤ人と考えた方が自然でしょう。こ
の人が田舎から祭りに出てきた所、死刑囚の行列とぶつかって、ローマ兵か
ら強制的に十字架担ぎに徴用されてしまいます。不運といえば不運ですが…
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“十字架につけられたキリスト”
…人間何が幸いするかわかりません。彼の二人の息子アレキサンデルとルポ
スは後のローマ教会で人々によく知られる指導者になったらしいことは、マ
ルコのペンがほのめかしています。まるで事故のような鉢合わせでしたが、
何とこのことがきっかけになって、シモン自身が救われたか、それとも後か
ら息子たちが信仰に入ったか、そのどちらかです。
26.彼らがイエスをひいてゆく途中、シモンというクレネ人が郊外から出て
きたのを捕えて十字架を負わせ、それをになってイエスのあとから行かせた。
死刑囚は自分の十字架を刑場まで運んだものです。映画では縦の柱も含め
て全体を引きずって歩くように描かれますけれど、縦の柱は刑場に立ててあ
って、横木だけを担いだ例も多いようです。
何故シモンに肩代わりさせたか、その理由は多分鞭で打たれたイエス様が、
担いでお歩きになれない位衰弱しておられたとしか考えようがありません。
この時主がお歩きになったコースは大体推定されて、昔から Via dolorosa と
言われています。Via はラテン語で「道」、dolorosus(-a)が「苦痛に満ちた」
です。したがって Via dolorosa は「苦しみの道」です。今日エルサレム市内
のその道の傍らに「クレネ人シモンの会堂」と呼ばれる小さな建物があって、
この故事をしのばせています。
でもここの中心点はやはり、イエス様の全くの孤独ですね。肩代わりした
のは何と十二弟子の一人ではなかったのです。「牢獄の中へでも、死の中へ
でも一緒に御伴します!」と言った弟子たちが誰一人近寄らず、偶然道で出
会った外地の人が、それも進んでお助けしたのではなく、強制されて途中か
ら木を運んだのだった……と著者のルカの冷徹な目がのぞいています。この
時イエスについてきたのは、エルサレムの婦人たちの群だけです。
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2.悲しみ嘆く女たちへのお言葉 :27-31.
27.大ぜいの民衆と、悲しみ嘆いてやまない女たちの群れとが、イエスに従
って行った。
これは単に処刑の際の習慣だった……と書いている本と、そうじゃなくて
なおイエスを愛し崇拝する人たちもいた……と書いている本と、説明は両方
あります。単なる習慣として儀式みたいに喚いたとも思われませんし、弟子
たちさえ去った今、この人たちの気持ちというのは、失敗したメシアへの同
情、憐憫以上のものであったとも考えられません。
次のお言葉は、決して同情を拒否なさった意味ではありますまい。むしろ
この瞬間イエスのお心は全く別な所にあって、エルサレムよ悔改めよ! この
ままでは最も悲惨な裁きがこの町に下る。むしろその恐ろしさを思って泣け
……という趣旨です。
28.イエスは女たちの方に振りむいて言われた、「エルサレムの娘たちよ、
わたしのために泣くな。むしろ、あなたがた自身のため、また自分の子供た
ちのために泣くがよい。 29.『不妊の女と子を産まなかった胎と、ふくませ
なかった乳房とは、さいわいだ』と言う日が、いまに来る。 30.そのとき、
人々は山にむかって、われわれの上に倒れかかれと言い、また丘にむかって、
われわれにおおいかぶされと言い出すであろう。
山や丘に押しつぶされて埋まってしまう方がましな位の耐えられない悲惨
をいまに見る、という意味でしょう。ホセア書 10 章に同じような表現があり
ます。その前の「不妊の女と……ふくませなかった乳房」の所は、これはわ
が子の悲惨な最後を見ずに済むからです。21 章でも語られた A.D.70 年のエ
ルサレムの悲劇を予見していらっしゃるわけですが、最後の一行余りは、エ
ゼキエル書の予言に由来します。
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31.もし、生木(青木)でさえもそうされるなら、枯木はどうされることで
あろう」。
エゼキエル書 20 章に「神の裁きがネゲブの森に下る」という言葉があって、
恐ろしい山火事が森を焼き尽くすように、青木も枯れ木も焼き滅ぼされる…
…という件があります。後でお調べになる方は、エゼキエル書 20 章の 47 節
です。しかもすぐ後の 21 章の説明から見て、青木は正しい者、枯れ木は悪し
き者の絵です。
もしこの絵に基づいてのお言葉であったとすれば、ここの「生木」という
より青々とした立ち木ですが、青木は正しい人、メシアである大事な人……
その人が今受ける恐ろしい運命を見て、それ以上の運命に備えせよ……とい
うことを言われたのです。つまり、最初の「わたしのために泣くな。むしろ、
あなたがた自身のために泣け」を更に劇的な形で繰り返して締めくくるお言
葉です。
3.十字架刑の執行 :32-34a.
ここまでの所では、イエス様だけが話題になっておりましたが、ここで急
に二人の犯罪人が出てきます。これは既に判決が出ていたものを、ついでに
執行したものかも知れません。「彼は罪人のひとりに数えられた」というイ
ザヤ書の言葉を、主ご自身が二頁あまり前で引用しておられますが、多分そ
ういう意味で、最低の所まで下りて盗賊どもと一律に処刑されたことを福音
書は伝えるのでしょう。
32.さて、イエスと共に刑を受けるために、ほかにふたりの犯罪人も引かれ
ていった。 33.されこうべと呼ばれている所に着くと、人々はそこでイエス
を十字架につけ、犯罪人たちも、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につ
けた。 34.そのとき、イエスは言われた、「父よ、彼らをおゆるしください。
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彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。
町の住民の間ではゴルゴターとかゴルゴルターとか言われていた場所です。
ルカはアラム語やヘブライ語を知らない読者のため、また町の地理にも親し
くない人たちのために、地名の意味をギリシャ語に言い換えて
「さ
れこうべ」と訳しています。後にルカ伝がラテン語に訳されますと Calvay
となります。聖歌の中にも「カルバリ山より絶えず流れる」とか「わが重荷
は去れりカルバリ」という歌があります。カルバリは「されこうべ」という
地名をラテン語に訳されたものが英語訛になったものです。
ところで、この場所がどうして「されこうべ」と呼ばれたかはよくわかり
ません。ギリシャ正教会では「昔アダムの頭蓋骨を埋めた場所だ」と言い伝
えていますが、因縁話めいてあまり根拠はありません。それよりも素人を納
得させそうな説明は、「あそこは昔から刑場で、刑死者のドクロが散乱して
いた」というのですが、これはユダヤ人の清浄・不浄のセンスから考えてあ
り得ないだろうとされます。別の説明は「岩肌の地面がつるっとして、頭蓋
骨のてっぺんのようだったのではないか」これは当たりかも知れません。あ
の辺りを掘ってみれば分かるのでしょうが、この 1650 年ほどの間に聖墳墓教
会とか、色々な建造物が建ってしまったので確かめようがありません。いつ
か解体して確かめるとよいのですが……
34 節のイエスのお言葉は、人間には言えない重い内容の言葉ですね。後半
の意味は、直接には刑を執行したローマ兵たちのことを「何をしているのか
知らずに、一つの意志の道具として命令を実行している」者として憐れんだ
とも説明されます。でもこれはもっと広い射程を持っているのでしょう。つ
まり、イエスを殺すことに手を貸した人たち全部……祭司長、ファリサイ人、
貴族……それに今眼の前で自分を侮辱して罵る群衆全部を含めて、その人た
ちのために執り成しをなさった言葉として噛みしめてみると、これは今も生
きているすごい言葉です。
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「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずに
いるのです」
その彼らの中に自分を置いて見た人には、十字架の上から語られたこの言
葉は、また新しい意味と力を持って響きます。
4.十字架の上のイエスを嘲笑する人たち。 :34b-38.
34b.人々はイエスの着物をくじ引きで分け合った。というのは、刑の執行
に当たった四人のローマ兵のことです。ヨハネ伝によると、長い上衣は裂い
たらしいが、編んだじゅばんは裂かずにくじで分けたと言います。あの「聖
衣」という映画に使われていたのは、そのくじ引きで一人に渡った分です。
こういうのは皆兵士の役得だったらしいのです。この後、処刑を見物した野
次馬や議員たちの絵が描かれます。
35.民衆は立って見ていた。役人たちもあざ笑って言った、「彼は他人を救
った。もし彼が神のキリスト、選ばれた者であるなら、自分自身を救うがよ
い」。 36.兵卒どももイエスをののしり、近寄ってきて酢いぶどう酒をさし
出して言った、 37.「あなたがユダヤ人の王なら、自分を救いなさい」。
「酸い酒」というのは、どこの国でも安物の最低の酒らしく、米朝さんの
落語でも、「東の旅」という伊勢参りのネタの中で、喜八と清八の二人が玉
造の二軒茶屋で「酸いぃ酒一杯飲んで……」見送りの連中と別れを交わす所
があります。
兵士たちにしてみれば、やんごとないユダヤの王様が喉が渇いて、もった
いなくもあえいでいなさるから、わしらの安酒でオクソスでもお口に合うか
どうか、献上したつもりなのでしょう。
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38.イエスの上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札がかけてあった。
とあります。これは総督ピラトのブラック・ユーモアでしょうね。祭司長
たちは怒って抗議したのですが、ピラトは取り上げなかったと言います。
「わしが書いたものは、わしが書いたものである」(ヨハネ伝より)と突
っぱねたそうです。ピラトの皮肉は、「ユダヤ人の王というものは、せいぜ
いこういう者だ」という毒のある宣言と、それに「ローマの支配下で王を自
称する者はこうなると心得よ」という見せしめもあります。
そして、誰もが「こんな無様な王様はない。神のメシアがこんな死に方を
するなどは、最も恐ろしい冒涜だ。よくこれで神のキリスト、神の子だと言
ったものだ」とあきれ果てる中で、実は本当の神の子が、本当の救いを成し
遂げておられる姿を描いているというのが、福音史家ルカの筆の、まさに憎
い所です。
《 ま と め 》
初めに「十字架につけられたキリスト」という表題を掲げました。
実はこの題は昔のユダヤ人に聞かせれば失笑を買ったものです。そうでな
ければ、聞いた人は「何と不敬虔な」と眉をひそめたものです。神が油を注
いだメシア、神のキリストというからには、そんなぶざまな敗北者のような、
呪われた犯罪人のようなみじめったらしい最期を遂げる筈はない、と考えた
ものです。第一「死ぬキリスト」などあり得ない。栄光に輝いて、世界を支
配してこそ神のキリストではないか!
使徒パウロや使徒ペテロがキリストの福音を伝え始めた時代というのは、
そういう時代、そういう考えの時代だったのです。その中で、十字架で処刑
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されてこのように死んだ方が、あなたや私の最低の悲惨と死を引き受けて下
さった。このどん底まで下りて、そこから復活した方を仰げ。この方から力
を受けよと教えたのです。
最後に使徒パウロの第一コリント書からその宣言を読んで、今朝の話を終
わります。第一コリント書 1 章の 18 節以下です。
十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちに
は、神の力である。……5 行とんで「そこで神は……」という所へ行きます。
21.……そこで神は、宣教の愚かさによって、―というのは「伝道という
愚かな道で」という意味ではなく、《このキリストの福音という、人の目に
愚かと見える内容によって》ということです。
神はこの愚かと見えるメッセージで信じる者を救うことに決められた。
22.ユダヤ人は目を驚かすような奇跡がないと信じられない、―これが「し
るしを請い」です。―ギリシヤ人は理性を納得させる理屈がないとありが
たくない。―「知恵を求める」です。 23.しかしわたしたちは、十字架に
つけられたキリストを宣べ伝える。―果たしてあなたはそこに、あなたを
救おうと必死になっておられる方が見えるか―このキリストは、ユダヤ人
にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、 24.召された者自
身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリス
トなのである。 25.神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いか
らである。
果たしてあなたは、この神の弱さとも見える十字架のキリストの中に、あ
なたを生かそうとなさる神ご自身の力強い手を見るか、です。
(1985/01/13)
《研究者のための注》
1. クレネ人シモンの息子たちへの言及は、マルコ 15:21 にあります。アレキサンデルと
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ルポスを知っていたのがローマ教会であったかどうかは分かりませんが、マルコは福
音書をローマで書いたというアレクサンドリアのクレメンスの証言が事実であれば、
ローマ教会であった確率は高いでしょう。ローマ書 16:13 に出るルポスが、このシモ
ンの子ルポスであったかどうかは断定できません。
2. 30 節の「山にむかって、われわれの上に倒れかかれ……」以下は、ホセア書 10:8 後
半への言及と思われます。
3. 31 節の「生木でさえもそうされるなら」の所については、David Bivin と Roy B.
Blizzard の Understanding the difficult words of Jesus の 120 頁以下の説明が参考に
なります。昔からここの解釈が難解とされた理由の一つは、「生木に」「枯れ木に」
の「に」が英語の in や with に当たる前置詞
になっていて、「生木でする」「生
木を使ってこれらのことをする」という表現の意味がよく分からなかったという点で
すが、「誰々に対して~する」という表現が
+ 前置詞
を使っている例は
マタイ 17:12 や創世記 40:14、出エジプト 12:12 等にあって珍しいものではありま
せん。E.シュヴァイツァーのマタイ伝は 17:12 の所で、ダニエル書 11:7 のΘ写本に
も言及しています。
4. 36 節の「酸いぶどう酒」
の所で言及した「酸いぃ酒」つまり「酸い酒」は、上
方落語「東の旅」の中に出るものですが、毎日新聞社刊の「米朝ばなし」の玉造の項
148 頁に出ています。
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