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名誉会員 村田健郎博士を偲ぶ

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名誉会員 村田健郎博士を偲ぶ
名誉会員 村田健郎博士を偲ぶ
中澤 喜三郎
本会名誉会員
2009 年 7月27日村田さんが逝去されました.1923 年生まれの
後にHITAC 5020,5020E/Fと呼ばれる国産大型コンピュータ
85 歳でした.私どもは関係者も含め常日頃から気安く単に村田さ
の開発に邁進することになります.これは高速トランジスタを基本
んと呼ばせていただいていたので,ここでも村田さんと呼ばせて
素子とし,18MHz の高速 clockにより基本的に直列の構造の
いただきます.村田さんは柔道 4 段,身体の鍛え方は尋常では
低コストで,外国大型機に匹敵する性能を狙ったもので,多数
ないはずと思っていたので,御逝去の報は誠に残念です.
のレジスタを受動素子である電磁遅延線で実現し,命令セットア
村田さんが創成期のコンピュータ分野の仕事にかかわるよう
ーキテクチャは32ビットを基本とする村田さんの考えに沿うもので
になったのは,工学部数学力学教室の雨宮先生の TACプロジ
した.当時日立もRCA 社と提携をしましたが,村田さんはこれに
ェクトに携わることに始まります.TAC は,当時英米で開発され
も強く反対で,国産の 5020 系の開発は中央研究所で実施され,
た電子計算機の開発を目指し文部省の機関研究費により東大
入出力系は別とし,CPU 系のハードはもちろん,OS や,コンパイ
と東芝が共同開発(雨宮先生が事務方を担当)したプロジェク
ラ等のシステムプログラムも自力開発を推進しました.
この努力は,
トで,基本素子に真空管,主記憶装置にRAM であるブラウン
全国共同利用の東大大型計算機センターや,気象庁の数値予
管記憶装置を用い,命令セットは英国 EDSACを下敷きに,さら
報用のシステムとして国産大型機の時代を開かせる先駆けにな
に割算命令,浮動小数点演算をも予定
ったのです.5020 系の機械は後に国産
したシステムでした.村田さんは大学側
の名機と評されましたが,村田さんは次
の一人として2 ∼ 3 年東芝研究所に派
の開発に向かわれました.
遣されていましたが,筆者が TACにか
次に村田さんが取り組んだのは,通
かわるのは1949 年秋に通称東芝 TAC
産省の大型プロジェクト制度による超高
が東 大に設 置され,調 整が始まる直
性能電子計算機の開発でした.これは
前,雨宮・村田さんの下で大学院に進
1970 年代の海外勢のシステムに劣らぬ
学が決まったときが最初でした.しかし,
システムの開発を目指した MSIと高速
村田さんがこのときにも予想していたごと
ICによるシステムで,仮想記憶と,キャッ
く,TAC はなかなか稼働するに至らず,
シュメモリを備え,さらにマルチプロセッ
東芝の関係者も1 ∼ 2 年で引き揚げて,
サ構成が可能な第一線のシステムでし
TAC が動かないのは,真空管の寿命
た.このシステムは後に HITAC 8800,
故障が問題だからだという俗論も流され
8700として製品化され,東大大型計算
ていました.村田さんは TACをこのまま
機センターを始め,気象庁,国鉄みどり
放り出すわけにはいかないと院生の筆
の窓口,銀行オンラインにも使用されま
者と二人で細々と本当の問題は何かを
した.
探っていた最中,1957 年 10月4日の朝日新聞のコラム欄で“超
その後,外資勢の攻勢に対抗するための通産の施策による
スローモーの電子計算機”という形で指弾されて,学内の幹部
国産メーカの系列化で日立は富士通社とMシリーズ(IBM 社の
を含め大騒ぎとなりました.村田さんは多大の国家予算を使い,
マシンの互換機)を開発することになりました.村田さんはもはや
技術的に何が悪いのかの経緯も明らかにできないで済ますわけ
自分のやるべきことはないと,コンピュータ開発の第一線から離
にはいかない,問題点も探られつつあるので,初期 TACは全面
れることになりました.
的に設計し直し作り直して,稼働するようにしようという強い意志
そして,村田さんは元々興味のあった数学領域の有限要素
を表明し,筆者が CPU 系を担当し,ブラウン管メモリは村田さ
法など数値解析分野の仕事を取り上げ,大型数値シミュレーショ
んが実験からやり直し,作り直しを推進されたのです.このように
ンの研究に情熱を傾けられました.図書館情報大学,さらに神
通称「東大 TAC」の設計し直し,作り直しは村田さんの強力な
奈川大学で若い学生さんから大いに慕われたとのことです.村
推進力で1958 年夏スタート,各所の応援もあり翌年春には,稼
田さんは筆者のような会社関係者はもとより,それ以外の沢山の
働させることができたのでした.TACはその後,1962 年 7月まで
若者にとっても,魅力あふれたお人柄で,本質的に良き指導者,
東大工学部系等の計算に使用されました.
得難い教育者であられたものと思います.どうか安らかにお休み
TAC 稼働 1 年後,村田さんと筆者は共に日立製作所に移り,
ください.心から御冥福を祈ります.
(平成 21 年 8月18日)
情報処理 Vol.50 No.9 Sep. 2009
935
御 略 歴
1923 年 10 月 4 日
鳥取県米子市生まれ
1942 年 9 月
第六高等学校甲類卒業
1942 年 10 月
東京帝国大学第二工学部航空原動機学科入学
1945 年 10 月
東京帝国大学第二工学部航空原動機学科卒業(工学士)
1948 年 4 月
東京大学理学部数学科入学
1948 年 10 月∼ 1956 年 9 月
東京都立小石川高等学校教諭(定時制勤務)
1951 年
東京大学理学部数学科卒業(理学士)
1951 年 4 月
東京大学大学院理学部数学科関数解析専攻前期(旧制)入学
1953 年
東京大学大学院理学部数学科関数解析専攻前期(旧制)修了
1954 年 4 月∼ 1956 年 3 月
東京大学工学部非常勤講師(数学力学第 III 担当)
1956 年 10 月
東京大学工学部専任講師
1960 年 2 月∼ 1960 年 3 月
東京大学工学部助教授
1960 年 4 月∼ 1961 年 3 月
東京大学工学部非常勤講師
1860 年 4 月
株式会社日立製作所勤務(戸塚工場)
1961 年 8 月
株式会社日立製作所中央研究所主任研究員
1962 年 2 月
東京大学理学博士(ブラウン管記憶装置)
1966 年 2 月
株式会社日立製作所中央研究所第 7 部長
1967 年 8 月
株式会社日立製作所神奈川工場設計部長
1971 年 2 月∼ 1977 年 2 月
株式会社日立製作所神奈川工場副工場長兼超大型部長
1971 年 2 月
株式会社日立製作所神奈川工場技師長兼電子事業本部技師長
1973 年 11 月∼ 1983 年 3 月
電気通信大学電気通信学部非常勤講師(計算機設計特論)
1977 年 2 月∼ 1983 年 3 月
株式会社日立製作所中央研究所技師長兼ソフトウェア工場技師長
1978 年 4 月∼ 1983 年 10 月
東京大学理学部非常勤講師(情報科学特論Ⅴ数値解析担当)
1981 年 4 月∼ 1 982 年 3 月
東京大学工学部非常勤講師(物理工学特別講義第 2)
1983 年 4 月
図書館情報大学教授
1989 年 3 月
図書館情報大学定年退官
1989 年 4 月
神奈川大学理学部情報科学科教授
1994 年 3 月
神奈川大学理学部情報科学科定年退任
1994 年 4 月
神奈川大学理学部情報科学科特任教授
1999 年 3 月
神奈川大学理学部情報科学科特任教授定年退任
2009 年 7 月 27 日
逝去(85 歳)
1960 年 10 月
情報処理学会入会
1976 年 5 月
情報処理学会論文賞(対称帯行列を三重対角化するための新アルゴリズム)
1988 年 9 月
情報処理学会研究賞(仮想メモリ上での大規模線形計算)
1997 年 5 月
情報処理学会名誉会員
受賞・栄誉
936
1965 年 12 月
毎日工業技術賞(電子計算機の国産化 HITAC 5020)
1973 年 10 月
紫綬褒章(超高性能電子計算機の開発)
1973 年 11 月
工業技術院長賞(超高性能電子計算機に関する技術の開発)
1974 年 4 月
産業技術大賞(高性能電子計算機システムの開発と波及効果)
情報処理 Vol.50 No.9 Sep. 2009
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