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12No31
鈴木の世界史B講義録
31
周の封建制
12_No31.jtd
教科書 p40L3 ~ p41L7
2012.11.18 微改訂
1)殷の高度な文化は、支配領域の西の端である渭水流域にまで広まった。現陝西省岐山の「周原」におこ
った姫(き)姓を名乗る一族は、殷に朝貢してその先進文化を受容した。
2)BC11世紀、武王 ①参照 は牧野の戦い(BC1027/BC1046)で殷(紂王)を
滅ぼし【1:
】を建てた ②参照。この王朝名は故地の「周原」にち
なむ。首邑(都)は【2:
】《頻出》。右図のK(現在の西安市)。
弟の周公旦は、副都【3:
】を建設、中原の経営に着手した。右
図の J(現在の河南省洛陽市)。
BC770 年、ここに都を遷すことになる(後述)
①『史記』によれば、殷の紂王は凶悪な暴君で、紂王打倒の密議に加わ
った諸侯らを殺し塩漬けにした。篤実な西伯昌(周の文王)には、その長男を羹(あつもの、スープのこと)に
して食べさせた。西伯昌はこれを恨んで復讐の決意を固め国力を増大させ殷打倒を準備し、西伯昌亡き
あと次男の発(=周の武王)が殷に決戦を挑み勝利した。西伯昌から3代の周王に仕えた軍師は太公望。
②周は自らの支配を正当化した。徳が薄く力のみに頼る支配(=覇道)を行う支配者は天帝(上帝)から
見放され、別の姓の者に易 か えられる(易姓)。既に天命が革 あらた められた(革命)ことを悟って自
ら王位を譲るのが禅譲 ぜんじょう、それを悟らず武力で倒されるのを放伐 ほうばつ という。殷の末期、妲
妃 だっき は殷の第 30 代、紂 ちゅう 王を堕落させ、彼とともに酒池肉林を行い、罪人を炮烙 ほうらく の刑
で虐殺する等の残忍を極め、諸侯や人民の失望を招き天命を失ったが禅譲せず、周の武王(軍師は太公
望)らの率いる軍勢によって放伐された(殷周革命)。戦国時代の孟子は徳による支配(=王道)を称揚
し、このような理論を易姓革命思想としてまとめた。 → No31「諸子百家」の孟子ではこの説明を省略する。
3)周は殷の高度な青銅器文化は継承し青銅器の製作技術を独占したが、神権政治からは脱し、
【4:
】
(あるいは「【4】制度」)と呼ばれる統治組織を作った。基本は邑制国家であるが、構造は殷と異なる。
首邑(都)鎬京付近を直接支配
周 王
=大邑の支配者
6:
と
邑を与える
宗族(男系の血統を同じくする一族)内で
∥
守るべき規範
氏 族 制
7:
で支配層をまとめ国を治める。
貢納・軍役の義務
青銅器も
【5:
↑世襲
】
=一族・功臣
有力氏族
の首長
周王も各諸侯も、宗族(血縁集団)を組み、
血縁にもとづく【8:
・
・
】
という世襲の家臣団を編成、小邑などの封土
を分与し、共同で祭祀を行った。
封建は封土の授受と【9:
】・貢納義務を仲立ちにした主従関係 ※1 である。周王や諸侯は、自領内
の有力者に土地を与え卿・大夫・士という世襲の家臣団にして民を支配した。周王の力は諸
侯の統治する邑には及ばず、周は分権的であった。周封建では周王と家臣は周王の祖先を共
通の神とし、周王・諸侯と卿・大夫・士も血縁関係にあり、支配層は男系の血統を同じくす
る一族(宗族)を秩序づける規範(宗法)によって保たれた。 卿の文字を拡大すると→
《比較》同じ邑制国家だが、殷:有力な邑が他の邑を従えた/周:一族・功臣に邑を分かち与えた。
同じ「封建」だが、西欧:個人間の契約で成立/周封建:【10:
】で成立。
周は血縁を利用したため殷に比べて支配は強化されたが、血縁は次第に薄れ、諸侯は自立して、封建制
度は崩れていった!後に、中国でも「封建」とは前掲下線部 ※1 のような、封土の授受に基づく分権的
な統治組織を指す言葉として用いられた。
4)BC771 年、第 12 代で西周最後の王となった幽王が【11:
】地方から侵入した犬戎に敗れて殺
され、BC770 年、平王が都を【12:
】に遷した ※2。これを周の東遷と言い、東遷後の周を東周、
それ以前を西周と言う。東周は BC256 年、第 37 代赧王(在位紀元前 322-264、「たんのう」と読む)の時に秦に滅
ぼされる。 幽王の寵姫だったとされる美女褒姒(ほうじ)は決して笑わなかった。この話は No46 B面に収載。
春秋・戦国時代は中央集権制の成立、中国統一への過渡期
変化の要因は【13:
】の普及で辺境の開拓・深耕が可能となり農業が発展したこ
と。都市国家も領域を拡大し、【14:
】が形成された。商工業も発展し、豪族も登
場し、青銅貨幣が流通した。鉄製農具・牛耕の導入は家族単位での耕作を可能にし、氏族共
同体の解体を促進し、土地私有の観念も生まれた。新しい思想・文化も登場した。伝統的に
この時期を前後2期に分け、春秋時代、戦国時代と呼んでいる。
1)BC770 年、周の東遷(前掲※4)以降 BC403 までが春秋時代である。
2)BC403 年、【15:
】の分裂によってできた韓・魏・趙 10H が周王から諸侯と認められ
12_No31.jtd
http://sekaishi.info
http://geocities.jp/sekaishi_suzuki/
た。これ以降、BC221 年の秦による統一までが戦国時代。東周は戦国時代も末期の BC256 年まで、形式
上は存続した。
3)春秋時代のまとめ
ⅰ)時代の呼称は、【16:
】が編纂したと伝えられる魯国の年代記『【17:
】』の書名にちなん
でいる。諸子百家の多くは戦国時代だが、【16】はこの時代を生きた。老子も同時代。墨子は春秋末。
ⅱ)周王の権威は形式上尊重され、覇者(はしゃ)と呼ばれる有力な諸侯が「周王を助けて外敵をうち払
う」(尊王攘夷)として諸国の同盟(会盟)の指導者となり、「春秋の五覇」と呼ばれた。斉(せい)の桓
公(かんこう)、晋(しん)の文公(ぶんこう)、楚(そ)の荘王(そうおう)は覚えよう。
ⅲ)≪頻出≫ 【18:
】の普及が始まった。この時代は、農具の刃先だけが鉄製。牛に犂を引かせ
る牛耕も始まった。両者とも本格的に普及するのは戦国時代。
(ⅳ)青銅貨幣の流通が始まった。
4)「春秋の五覇(ごは)」と位置を覚えよう。セレクトには異説もある。
斉(せい)王 桓公(かんこう)BC685-BC643 宰相は管仲。
晋(しん)王 文公(ぶんこう)BC636-BC628 楚を破る。
楚(そ)王
荘王(そうおう)BC613-BC591 晋を破る。
越(えつ)王 勾践(こうせん)BC496-BC465 ③「嘗胆」で夫差を破る。
呉(ご)王
闔閭(こうりょ)BC514-BC496 ①楚を破ったが越と戦い戦死。②そ
の子、夫差(ふさ)BC495-BC473 は「臥薪」で勾践を破る。
越に父を殺された呉王夫差は「臥薪」して越王勾践を破り、勾践は「嘗胆」して夫差を破り自
殺させた。
「臥薪嘗胆」とは復讐のため堪え忍ぶこと(初出は『十八史略』。
「嘗胆」単独なら『史
記』
)。呉越は宿敵同士で「呉越同舟」は有名。 斉から逆時計回りに覚えるとよい。
5)戦国時代のまとめ
①時代の呼称は、この時代のことを記録した『戦国策』という書名にちなんでいる。
②【19:
】の風潮広まる。晋の分裂によってできた韓・魏・趙が周王から諸侯と認められた
(BC403)ことはその典型とされた。
③周王の権威は完全に無視され有力諸侯は「王」を名乗る。斉 せい、楚 そ、韓 かん、秦 しん、魏 ぎ、趙 ちょう、
燕 えんの「【20:
】」は広い領土を支配する領域国家(領土国家)の段階に達していた。
都で特に有名なのは趙の都 邯鄲 かんたん、孟子が活動した斉の都【21:
】りんし があげられる。
④鉄製農具、牛耕が本格的に普及。これによって水路の開設、大規模な【22:
】、深耕が可能とな
った。その結果、家族単位での小規模な農業経営が可能になり、氏族制度は崩壊した。各国は、徴税・
徴兵のため広大な土地に散在する家族を個々に家族構成まで掌握する必要に迫られた。
⑤【23:
】が本格的に普及。新興商人層が成長、都市が発達した。【23】は No32 にイラストを
描いて覚えよ。統一貨幣ではない。特に刀銭、布銭(農具の形)は頻出。蟻鼻銭 ぎびせん は流通が楚に限
られていたことも出題された。
cf:半両銭(秦)、五銖銭(前漢~)は全国統一貨幣である。
⑥諸国は【24:
】をはかり、出身地、身分を問わず有能な人材の登用を行った。新たな思
想が必要とされ、独創的な思想、政策で士官する事が可能となり、【25:
】が登場する。
諸子百家のうち孔子、老子、墨子以外の多くはこの時代を生きた。
諸国は徴兵・徴税のために【26:
】を整備し、家族単位の小農民の直接把握に努めた。(④参照)
戦国時代末期には、「国民皆兵」の状態となり、戦争は数十万人を動員する大規模で凄惨なものになった。
⑦東周は BC256 年、第 37 代赧王(在位紀元前 322-264、「たんのう」)の時に秦に滅ぼされる。
秦による統一(BC221 年)をもって戦国時代は終わる。
6)「戦国の七雄(しちゆう)」は常識であるので、位置とともに覚えておこう。
⑦
いわゆる「故事成語」は春秋・戦国時代
を題材として後に書かれたものが多い。
⑥
太公望 たいこうぼう
周時代
牛耳を執る(現代語では「牛耳る」) 春
⑤
①
呉越同舟 ごえつどうしゅう
秋
臥薪嘗胆 がしんしょうたん
時
③
鼎 かなえ の軽重を問う
代
④
矛盾 むじゅん
戦国時代
虎の巻
03W(記入式)、06H(記号式) ①斉 ②楚 ③韓 ④秦 ⑤魏 ⑥趙 ⑦燕
①から番号順に唱えると覚えやすい。だいたい時計回りになっている。
BC4 世紀、諸子百家の一つ縦横家で同じ師の下に学んだ蘇秦と張儀は別々の君主に仕えて対決した。
蘇秦は⑥趙王に合従策(がっしょうさく東方6国①②⑤⑥⑦が連合して④秦に対抗)を建言したのに対し、
張儀は④秦王に連衡策(れんこうさく④秦が東方6国①②⑤⑥⑦それぞれと連合)を建言、勝利した。
彼らの弁論や権謀術策は、12 策からなる『戦国策』に収録されている。
08W他、Wでは頻出
②
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