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VIII 地球深部へ VIII-1 何が駆り立てるのか ここで述べる過去は、私が

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VIII 地球深部へ VIII-1 何が駆り立てるのか ここで述べる過去は、私が
VIII 地球深部へ
VIII-1 何が駆り立てるのか
ここで述べる過去は、私が地球深部掘削科学を目指す気持ちになった顛末です。ここでも科学
的問題の成果についても尐しは記述しますが、それはあくまで舞台装置です。旧来より、日本の
大学には講座制という硬い制度がありました。白衣の巨塔とか象牙の塔とか呼ばれた、一人の教
授の下に徒弟のような研究者・技術者・研究補助者集団があり、教授の命令一下全て教授に成果
を捧げる図式が明治以来続けられてきました。明治開闢以来しばらくはその方法でよろしかった
し、人事を含めた外国との交流や、学問の発展に応じて柔軟に体制を組み直しができれば問題は
ないはずです。残念ですが、大きくなった組織は必ず硬直化します。日本の地球科学界にも、第
二次世界大戦以来の世界の科学的進展は容赦なく襲い掛かってきました。フランスの黒船 Jean
Charcot の話の中で、トータルな地球科学的観点に欠けたわれわれが、世界から遅れを取ってい
た事情に驚かされた事件については、II-3 で既に詳しく話しました。私自身の所属した講座の
永田武教授は、外国暦も長く、国際的立場でプロジェクト(单極観測)を進められたかたでした。
当時は外務省や文部省の対外政策は狭く、いくつかの国際プロジェクトは、大学教授が省庁から
依頼されて渉外に当たっていましたが、永田教授も例外ではなく、单極条約から国際地球物理年
(Intenational Geophysical Year, 1957-1958)を経て、ついに文部省に「单極地域観測統合推進
本部」と言う組織を作られました。私は年齢的には永田教授からすればちょうど孫弟子に相当し
ますから、先輩や他の防波堤もありまして、余り講座制度の負担は感じなかったばかりか、研究
室の諸先輩多くの方は国外での研究暦が長く、研究室は自由な雰囲気でした。しかし、学会全体
を見る限り、日本には研究室間の交流などを含めて自由な雰囲気は非常に狭いと感じました。
話が前後しますが、私の考えの順列で書こうとしますと以下のようになります。私が気象大学校
に在職した 1977 年から海底地殻熱流量測定で海の仕事に熱を上げ始め、1980 年頃から海洋底、
殊にプレート境界の地殻構造探査に、村内必典(さだのり)教授(千葉大学理学部)の指導の下に本
格的に参加する機会をえました。’Sadanori’と言えばアメリカの同業者仲間では村内教授を指
すほどに、海洋底地殻構造探査では有名な研究者で、单極調査にも参加されたかたです。地殻構
造探査は大型エアガン(空気銃式音源)を使った地震音波式反射・屈折法調査が主でした。大掛か
りな地震構造反射探査(MCS)は、海上保安庁・水路部(現:海洋情報部)の担当でしたから、われわ
れは主として屈折法探査を受け持ちました。内容は II-3 でお話した通りの方法です。屈折波を
遠距離飛ばすために、盛んに火薬(TNT 含有)も使い、最大で 1 トンの火薬の塊を水深 120m 辺り
で発破した場合もあります。日本製の導火線は 1m で凡そ 100 秒で端末間が燃焼します。日本製
と断ったのは、国外では全く違った規格の導火線もあったからです。1 トン火薬の場合、探査船
は停船し、4m 程の導火線に点火と同時に滑り台から投下し、探査船は全速前進で離脱します。
滑り台の滑り具合が悪かった場合もあり、さすがにこの時には、余り良い気持ちではありません
でした。北太平洋では凡そ 1000km ほど海の向こうの北西太平洋から、東北大学周辺の観測点ま
で音波が届きましたので、陸域の地震予知研究グループと共同観測もできました。何度かの経験
で知ったことですが、火薬発破点真下の海底に敷設した自己浮上型地震計はほとんど再浮上しな
い、と言う多数の事例です。ショックでガラス浮球が潰れてしまうのでしょう。
図 VIII-1, 永田武教授(1981 年)。極地研究所所長を長く勤められた。
VIII-2 喧嘩しても良い仲間
時間的に戻って
かくして、地震予知研究の指導者であった島村教授(北海道大学理学部)らと
協力し、日本中の大学の海域機動観測班をお世話しながら、沖縄トラフ、小笠原海盆、单海トラ
フ、日本海から北西太平洋で、地震構造探査中心の地学的調査プロジェクト(DELP 計画:Dynamic
Evolution of the Lithosphere Program:1985-1989 年)を実行できました。その後は、引き続き
日本周辺の国々と共同調査研究を実行しました。海には国境はないのですが EEZ(排他的経済水
域)問題がありますから、日本海北部海域や单シナ海域では、外国(中国、ソ連:現ロシア)とも綿
密な事前打ち合わせをおこない、合計 4 年次に渡り日本海北部や单シナ海中央で共同作業をおこ
ないました。单シナ海の時も大型 TNT を使いましたが、軍の調達品で廉く入手しました。今度は
導火線に火のついた火薬弾を船舶から押し落として逃げるのではなく、落としてから 1 海里くら
い離れてノルウェー製の透明なチューブ式高速導火線で発破します。夜中の作業では、導火線内
部の火薬の火花が、水中を瞬時に駆け抜けて TNT に向かう姿は魅惑的な光景です。なにせ国交の
ない相手で本当に色々と問題がありましたが、中国からは広州・单海海洋研究所 Zhou Dhi(周蒂:
78 ページの写真)教授が懸命に努力して下さり、多くの問題は彼女が解いてくれました。彼女は
アメリカ帰りで、素晴らしく流暢な英語を使うので大いに敬服しました。日本にこられた時は寿
司店にお連れして、彼女の蟹アレルギー症を始めて知らされました。
図 VIII-2,広州单海海洋研究所とウ
ラジオストック太平洋研究所の仲間た
ち。
ソ連ではウラジオストック(この言葉はロシア語で「東方を征服せよ」との意味です)にある太
平洋研究所(Pacific Ocean Institute)の Boris Karp 博士が全面的に協力してくれました。あち
らの研究船 Professor Bogorov 号に乗った時には、ソ連崩壊寸前で、ベトナム戦争で活躍した花
形空母ミンスクや、原潜が港内で錆を浮かせたまま所狭しと係留されており、片や米・北朝鮮軍
艦が仲良く共同行動をしている現実など、驚く情景ばかりでしたが、外国人専用のキオスク
(Berioska)でも食料もアルコールも全くと言うほど手に入らず、さすがに困り果てた日もありま
す。1 ヶ月で体重が 15 キロも減ったのにはびっくりしました。この船舶で日本海に出て探査を
おこなった時には、日本の海上保安庁・新潟管区巡視船と自衛隊航空偵察機から非常に密接なア
テンドを受けましたが、その理由は P. Bogorov が往時は電波工作船だったからのようでした。
日本人が同乗しているのを SSB(船舶緊急連絡無線)で知ったようで、さらに厳しい監視がありま
した。私が舷側で望遠鏡越しに日本の巡視船を覗いた時には、巡視船が急接近し「そこで何をし
ているのか?」とロシア語で問い質してきましたが、ロシアの船員には何も通じなかった様子で
「何を言っているのだ?」と聞き直されたりもしました。もちろん外務省には届けが出ていまし
たから、巡視船に対して「この探査については外務省に問い合わせを出すよう」に話し、長い沈
黙の後一見落着しましたし、それ以上は現場でも格別な摩擦は起りませんでした。驚いた事実が
一つありまして、いわゆる GPS(全地球測位システム)が P. Bogorov に搭載されていましたが、
説明によるとその受信方式は米ソ両陣営の衛星がインテグレートされたものだそうで、精度は非
常に良い様子でした。結論はどうかと言いますと、海底の地殻構造探査では、海洋性地殻下部ま
で観るのが精一杯で、マントル内部まで詳しい情報を観察することがとても難しいと言う力不足
感です。また、大陸・海洋接合地域(地震発生帯)付近の構造は二重・三重に複雑で、海底地震計
20 台と容量 20 liter/100 気圧程度のエアガンの組み合わせ程度の装備では、地震発生場所の深
さまではとても追究し切れません。
図 VIII-3, 1994 年夏ウラジオストック港の朝。
VIII-3 深海科学掘削計画
Ocean Drilling Program(s)
1960 年代から始められたアメリカの深海掘削計画(Deep Sea Drilling Project: DSDP)は、紆
余曲折の末、1968 年から GLOMAR Challenger 号(10500 トン、以下 GC と略称します)を使って、
本格的な継続的科学研究計画となりました。IV-2 で話したように、その基本的目標であった「プ
レートテクトニクスと海洋底拡大説の検証」は既に、GC 第二・三節航海(1968-69 年)でほぼ証明
を終わりました。詰まるところ、DSDP の最大にして第一の目的「地球科学の大命題=プレート
テクトニクス・海洋底拡大仮説探求」に関しては、第一回戦の勝負で完璧に決着が着いてしまい
ました。ここではラモント(Lamont-Doherty Geological Observatory・LDGO: 現 LD Earth O)に
赴いていた日本研究者・斉藤常正先生(東北大学教授)が参加されています。この辺りの顛末につ
いては「地球科学に革命を起こした船」(Kenneth J. Hsue, 1992; 邦訳:1999)に克明に記録され
ていますので、そちらを参考にされることを期待します。
その後、1975 年から始まった国際深海掘削計画(International Phase of Ocean Drilling:
IPOD)は国際的に開かれた計画となり、日本も分担金を納入して参加するように勧められたよう
です。奈須紀幸教授(東京大学海洋研究所)が中心になって、日本から 250 万ドル(当時のレート
は 1 ドルが 360 円)の分担金を払い込んで、アメリカの主催の IPOD に参加しました。参加費用
250 万ドルと言っても、全体計画経費からすれば 16 分の 1 の権利しか買えないのですが、すべ
ての活動がこの比例配分によって規定されます。乗船者の数、委員会への出席者数(多尐の例外
もあります)などの割り当てについて、契約社会の掟を初めて体験した訳です。この仕事は 1983
年から新たに Ocean Drilling Program (ODP)となって継続します。その辺りの経緯については
奈須先生の書「海に魅せられて半世紀」(JAMSTEC 発行、2000 年)に詳述されています。奈須教授
の主催された ODP 研究連絡会議にも出席を許されて「海底測距技術の開発を進めるべし」などと、
随分勝手な発言をした記憶が残っています。今でもその一部は是非実行に移して貰いたいと思っ
ている概念的計画です。
図 VIII-4, 日ソ共同研究(1994-1995 年度)と日中共同研究
(1996-1997 年度)の成果報告書。
VIII-4 初めての体験航海
初めて ODP の航海に乗船を許されたのは幻の航海(GC 第 53 節航海:1977 年に予定されていまし
た)で、パナマのバルボア港を出て、カリフォルニア沖で海底に孔を空けて水圧を計測する実験
の予定でした。文部省の国際学術課長にも研究費補助金頂戴への御礼のご挨拶を済ませて、羽田
からロスに着き明日の乗り継ぎに備えて中華そばを食してホテルに帰った途端、電話のベルが鳴
ります。ロスには特に親しい知人はいないはずですし、不思議に思い受話器を取りますと、奈須
教授から「GC のスラスター(横方向に船を押すためのスクリュー)が故障したので、出港しない
から直ぐ帰国しなさい」とのお知らせです。次の朝の KAL 便で帰国しましたが、35 万円(乗り替
え可能な航空券と宿泊代)もの中華そばを頂いたのはこれが最初にして最後です。
この航海の目的は、海底堆積層内部の水圧プロファイル(水圧の深さ方向の分布)を測る仕事で
した。LDGO の Mark Langseth 教授、Scripps Institution of Oceanography (SIO)の Richard Von
Herzen 教授たちの測定によれば、海底堆積層は海底の水圧より低い圧、つまり負の勾配を持っ
た水圧プロファイルを示し、渇水状態にあると言われていました。その原因を探るために、掘削
孔と船上との機器の間で水のやり取り(hydro-fracturing:水圧破砕実験他)をおこなう予定でし
た。この実験はずっと後になって LDEO の Roger Anderson 博士、Jose Honnorez 教授(ストラス
ブール大学)と von Herzen 博士の弟子である Keir Becker 教授(Miami 大学)により、Hole 504 B(ガ
ラパゴス沖の ODP 実験孔)における実測によりその理由が確定された経緯は I-1 で述べました。
余話:海底地殻熱流量。この頃は世界中の海底で、地殻熱流量を測定する事が盛んに行われて
いました。日本では安井正博士(気象庁海洋観測課長、後に気象大学校長)、上田誠也教授(東京
大学理学部、後に地震研究所)宝来帰一博士(LDGO、後に気象庁気象大学校)と渡邊輝彦博士(東京
大学地震研究所)が観測を、機器開発を友田好文教授(東京大学理学部、後に海洋研究所)が担当
しました。測定装置はアナログ式で温度勾配が 0.01deg/1000mm まで測れる道具でした。私が陸
上での地磁気測定と高圧実験をやめて、本格的に海の観測に没頭し始めたのは、私が気象大学校
に奉職した 3 年間に安井博士の指導によるものです。アメリカの測定器も性能は似たようなもの
でしたが、論理的な電子回路構成は日本の方が優れものでした。ただ当時は日本製電池やトラン
ジスターが低温に弱く、海底の低温(セ氏 1-2 度)で働かない事態が多々起こり弱ったものでした。
アメリカの電子部品が Military- specification(軍用規格)と言って、保証温度範囲が非常に広
いのとは異なり、格別に性能が劣った時代です。それ以上に困難だったのは、着底時に船上と海
底が細いワイヤー一本で繫がった測定器の船上からのコントロールで、ウィンチの運転には微妙
なセンスが必要でした。東海大学望星丸船長の佐藤孫七教授は「5000m のワイヤーの先での微妙
な重さの変化が手の平の感触で判る」と色々な作業をおこなっており、ある時には、亡失した海
底地震計を水深 4000m から引き上げた勇猛な船長でした。われわれにはそんな芸当は無理ですか
ら、ウィンチ操作は専門職にお願いするほかありません。私はこの測定装置の電子部分を低温で
も安定した操作ができ、記録もディジタル方式に切り替えようと企み、数年間頑張りましたが、
磁気テープの伸びや滑りによるワウフラッターと横方向へのすべりによる揺らぎ(スネーキン
グ)で生ずるタイミングの揺らぎが克服できず、ついに磁気テープへのディジタル記録方式を諦
めました。今の電子技術なら固体素子大容量メモリーがありますから何でもなくできたはずです
が、小型のテープレコーダーを自作でディジタル記録器に改造することは不落の難問でした。
VIII-5 驚き・怖れ
私にとって初めて裸で外国の研究者と長期間つき合わざるを得ない羽目になったのは、IPOD、
GC 第 58 節航海(横浜-那覇:1977-78 年)でした。航海主席研究者は小林和男教授(東京大学海洋研
究所)と George deVries Klein 教授(Michigan 大学)でした。Woods Hole 海洋研究所から Henry
Dick 博士、山形大学理学部から岡田尚武助教授などのメンバーが乗り込んでいます。Henry Dick
氏とはその後長いおつき合いになり、最近では 1998 年秋にインド洋单方海域、レユニオン島近
海の海底地溝帯(Atlantis Bank/Rift Zone)で岩石的な地殻・マントル遷移層を確定する作業に
ご一緒しました。地殻・マントル遷移層が見られた理由は、海底の深い割れ目に沿ってその部分
が競り上がり露出しているのですが、地震波速度分布から定義されるモホロビチッチ面と同じも
のかどうかは、未だ議論の分かれるところです。
GC では採れた堆積物を 1.5m ごとに半割にして、片方を永久保存、片方を研究のために(破壊
試験も含めて)サンプリングします。そのうち最初のテストは、ハイドロカーボンの存在比検査
と年代の決定です。ハイドロカーボン(エタン/メタン比:エタンが多くなるのは即ち石油層が近
くにある証)の含有量がある閾値を越えると掘削作業は中止され、他のサイトに移動しなければ
ならない約束がありました。試料が乱れないうちに計る必要性から、古地磁気的測定も最初にお
こなうべき項目になっていました。そこで古環境解析の専門家、岡田尚武博士・Shell 社からの
研究員 Doris Curtis 博士と私は背中合わせに同じ計測室で、12 時間ワッチ(交代制)により働く
状況になりました。岡田博士と外国勢とのやり取りは、私に強烈なカルチャーショックを与えま
した。彼は LDGO から帰国して間もない頃だから当たり前だったと、今でも仰いますが、外国勢
など物ともせずに仕事を完全に自分のペースで進めるのです。ついに相方研究者に能力なしと断
言して、かれらを仕事部屋から遠ざけてしまいました。われわれの上司に当たる GC 科学担当官
(Staff Scientist)の Stan White 博士が取りなそうとしましたが、そのやり方も非常にまずく、
岡田博士は激怒してそちらも一蹴してしまい、あとは完全にわれわれのペースで仕事が進められ
るようになりました。
結論的には、いくつかの「小さな」成果が上がりました。まず、四国海盆(四国の单方に広が
る海底の名称)が最近の数百万年の間、一定の速度(4~6cm/年)で北上し続けている事実、海底の
玄武岩は一枚ではなく、堆積層の中に挟まれた溶岩の存在から、海洋底が拡大した後からも溶岩
の供給があり得るとの推定(off-ridge volcanism)、地磁気の逆転のしかたに二通りの形があり、
くるりと反転する「らしい」場合と、地球の双極子磁場が弱くなってからまた強くなる「らしい」
状態、逆転の時間は数十万年程度が必要な場合もあるなどの結論です。ここで「らしい」と言う
表現は、地磁気磁力線の構造は地球上の複数の観測点から同時に見なければ判らないので、地球
のたった一箇所のサイトから推定された報告は必ずしも全地球的な普遍性はないと言う理由に
よります。
次に GC 第 76 節航海(1980 年)で訪れた北アメリカ・バハマ沖(Great Bahama Basin)では岩石
物性の計測を担当しました。この時にはフロリダの Fort Lauderdale 港から出・帰港しましたが、
出港がちょうどクリスマス後の予定でした。乗船研究者は入港と同時に呼び集められましたが、
クリスマス休暇があるとは聞かされていません。アメリカ以外の国籍を持った 4 名(日、ソ、伊、
仏)は孤独で放り出され、航海食糧が補給前で食べるものもほとんど無い GC の中で暮らす羽目に
なりました。さりとて荷役用の港の周辺に便利屋(今ならさしずめコンビニエンス)か何かがある
という訳でもありませんから、これには本当に困りました。アメリカ人の非常に淡白な側面を垣
間見せられた訳です。ドイツ出身の Wolfgang Schlager 教授(Miami 大学)が気の毒がって、クリ
スマスに Key West への旅に招待して下さったのが強く印象に残りました。ここで一つ失敗をし
ました。さんご礁で泳ぐ場合は防護服を着用しなくてはいけなかったのですが、教授の警告を無
視して裸で泳ぎ、大波に乗ってさんご礁に叩きつけられて、軽い擦過傷を負ったまでは良かった
のです。さんご礁に住む子ムシ(褐虫藻?)が膝の皮膚に喰い込んで、それから数週間はひどく痒
くて、たまらない思いをさせられました。たまらずに船医を訪れますと「あー、これはさんご礁
病だよ」と言って、刺激の強い薬を塗ってくれましたので、数日後にすっかり良くなりました。
他人の忠告には耳を傾けるものだと得心した次第です。
Great Bahama Basin 縁の Hole534A で取れた基盤岩(Dolerite)の年代は、1 億 8~9 千万年と決
められたので、大西洋の一番古い海底基盤の年齢が確定しました。物理計測では、機器の取り扱
いの慣れ以外は格段新しい発展はありませんでしたので、この航海はあまり記憶が鮮明ではあり
ません。ただ、音波速度測定機器の概念と性能が判ったので、航海後陸上に戻ってから高圧条件
下の鉱物の剛性率を計測する、新しいパルス発振器(II-6 で説明しました)を造るために大いに
役立ちました。
続いて、同じ港から GC 第 78A(78 航海の前半部分)節航海(1980-81 年)でメキシコ湾、キュー
バ沖を経由してコスタリカに向かいましたが、作業の中心はメキシコ湾内部の石灰岩層とその下
の石油賦存層に関連して、メキシコ湾の古環境変遷を調べるものでした。ここでは音波探査によ
る層構造と、採集されたサンプルの船上での物理計測(音波速度、力学強度、熱伝導率などの)
量との関係を比較することがテーマです。音波探査のデータで、しかもマルチチャンネルの構造
記録(Multi-Channel Seismic 法は II-3 で説明しました)の結果を自ら解釈せよと命じられたの
は初めてですから、主任研究員に教授をお願いしたところ、2 日間に渡って丁寧な講義をしてく
れました。その解析と、掘削により得られた試料の船上計測の物性とを比較して意味づけするの
が仕事です。この航海で理解したことは、次のような事実です。即ち、船上の物理計測は、採取
された堆積物とか岩石に対して行うもので、主に地殻構成物質のうち比較的壊れ難い部分が回収
され測定にかけられます。これに対し、音波探査記録は現場の材料(硬軟混交で、塩水を含んだ、
温度も圧力も高い状態におかれた物質)から帰ってくる反射波ですから、ある深度から採取され
た試料の物性と、その深度周辺の反射波図からの解釈についてはあまり相関がなさそうです。そ
れは、反射波の分解能が数 m から 10m 卖位であるのに対し採取試料は数センチ卖位の大きさです
から、スケールも見ている物体も必ずしも同じと言う訳ではないと言う理由です。色々と理屈を
こね回して見ても、それほど意味のある解決方法はなさそうでした。孔内計測(Logging:掘削孔
内部における物理・化学計測)の結果と MCS との関連はまた別の話ですが、掘削孔から取り上げ
た試料についての物理計測結果には、あまり重きをおくべきではないと思っています。もっとも、
掘削技術が発達して掘削孔内の全ての部位から試料が回収されれば、新たな視点が生まれるかも
しれないと考えます。
VIII-6 孔内計測(Logging)
これは、中性子放射源・音波発振源・電磁場発振源と受信記録器、温度計、圧力計、磁力計、
孔径計、傾斜計などをまとめて繋ぎ合わせ、電力供給と信号回収用ケーブルで船上の測定装置と
繋ぎ、孔壁の状態を連続測定するシステムです。孔の上から底まで連続して測定できますから、
MCS のデータと直接比較できます。また、船上に回収された試料の深度は、掘削管の長さから推
定するのですが、100%の回収率でない限り真の深度は判りません。Logging と船上に回収され
た試料を同一のパラメーターについて測定して、採取された試料の真の深度を推定できます。と
ころが、船は波に揺られて数メートルは上下運動を繰り返しますから、Logging の深度もまたそ
れだけ不確定さが残ります。それを防ぐ装置がいくつか考案されていますが、完全な防振システ
ムは未だできていません。
この二つの航海は上述のように私の経験に、薄い記憶を残してくれた作業となりました。ただ、
イタリアから参加した Isabella Premole Silvia 博士 (ミラノ大学)は「とにかく参加した以上、
細大漏らさず自分の物にして帰る」と言って、とても下手な英語ながらあちこちに顔を出して喰
いつくハングリー精神の持ち主で、感心しました。数年後に他の関連の国際会議で再会した時に
は、こちらには全く進歩がないのに、彼女はアメリカ研究者と「対等にやりあえる英語使い」に
なっていたので、やはり精神的にタフでないといけないと思い、それだけに強烈な印象が残りま
す。この航海の最後ではアメリカ人の大らかさの癖が出て、暮れから正月にかけては陸上の作戦
推進本部(テキサス農工大学)でものんびりしているらしく、船舶からの報告・質問に反応があり
ません。結局孔を深く掘りすぎて石油賦存層の頂点まで掘ってしまい、ベトベトのピッチが出て
来たところで大騒ぎになりました。直ちに掘削中止命令がきました。主任研究者 (Wolfgang
Schlager 博士)は違反行為のかどで、後に ODP のブラックリストに載せられ、参加できなくなっ
たなど、ひどい状況に置かれたようでした。その後 Schlager 博士にはお会いしていませんが、
暫くドイツに帰っていたけれど、再びアメリカの大学に復帰したという噂です。
GC 号第 87 節航海(1982 年)は加賀美秀雄助教授(東京大学海洋研究所)と Daniel Karig 博士
(Rhode Island 大学)主席の下で、单海トラフの掘削に挑戦しました。单海トラフは東を静岡
県東の駿河湾奥から発して单下し、御前崎单方で西に曲がって、紀伊半島沖から四国沖の海底に
張りついた一種の地溝帯(緩やかな窪み)ですが、これは日本本州单方の四国海盆(フィリピン)
プレートが日本本州の下に潜りこむために発生した海溝の一種です。今日では日本の研究者にと
ってはおなじみの場所ですが、巨大地震の巣が散在する海域としても有名です。しかも、トラフ
は全体的に東から西に向かって階段状に深くなる幅の広い谷を形成していますから、ここに堆積
した泥の大部分は、静岡県駿河湾や天竜川河口あたりから出された物質が流れ落ちて溜まった物
です。单海トラフ沿いの最近の巨大地震では、世界第二次大戦終了を挟んで、東单海地震(1944
年、マグニチュード 7.9)と单海地震(1946 年、マグニチュード 8.0)の地震が知られており、ど
ちらも津波や震災で多くの損害を蒙りました。そのような理由により单海トラフは、地震防災や
海洋底研究の対象として非常に多くの調査活動がおこなわれてきました。船舶を利用した地震探
査については、II-3 で述べた通りです。その一部に、日仏共同研究をきっかけとした、有人潜
水調査船「しんかい 6500」による調査があります。その結果、トラフ周辺では冷湧水の存在や、
その周辺に住み着いた化学合成生物群集(シロウリガイやハオリムシ)、泥マウンド、巨大断層、
炭化水素か炭酸ガス噴出の痕跡などが一面に観察されています。
单海トラフは、ずっと以前の 1960 年代から行われてきた地殻熱流量探査から、非常に不思議
な結果をもたらしていました。一般に、海溝付近では熱流量が低い(40mW/m2 程度以下)のが常識
的でしたが、单海トラフ沿いでは、東から西部にかけてその 2 倍程度の高い熱流量が広い幅をも
って分布しています。これが不思議な謎としてずっとわれわれの心の中に沈積していました。そ
こで私は、GC 号第 87 節航海では海底下の熱流量計測に挑戦する運びになりました。方法として
は、原理的には卖純な作業で、海底下の温度プロファイル(平均的にはセ氏 30 度/1km 程度)を測
定し、また採集された堆積物(トラフでは 2km ほどの厚みがあります)試料の熱伝導率を計れば熱
流量(=熱伝導率x温度勾配)が計算できます。温度を測る道具は既に 1970 年代の終り頃、上田
誠也教授(地震研究所)と共同で開発した、電子ディジタル方式のものが使われており、槍型の
堆積物用 Byrns 採水器の先端に埋め込まれていました。これをさらに改良したものが Woods Hole
海洋研究所の Richard vonHerzen 博士により造られ、本航海で使うピストンコアラー(APC:海底
に押し込んで堆積物を円柱型に切り取る装置)先端に埋め込まれていました。この装置は中々良
く考えられていて、大よそのサイズは厚さ 4mm、幅 15mm、長さ 50mm で、APC の切歯の壁に埋め
込まれ、回収すると卓上計算機でデータを取り出せる大変な優れ者です。
その結果意外にも、海底下の熱流量分布が二重構造になっているのが判りました。海底下の比
較的浅い部分では熱流量が高く、深い部分では低く見えるのです。色々検討しましたが測定値に
は間違いがなさそうですから、これは地殻の何かが悪戯をしている、つまり僅かながら冷湧水が
あれば説明できると気づきました。しかも年がら年中流れているのではなく、時々流れればこの
不思議な構造を説明する事が可能です。時々とは、地震を発生させるような地殻の変形が間歇的
に起れば、そのたびに地下深部で温められた流体が、薄い上向きの断層面沿いに搾り出されて湧
き出すのではないか、と言う訳です。そうすれば、单海トラフ全体の高い熱流量も説明が可能で
す。
VIII-7 自分の実験
その後暫くは陸上の仕事が忙しく、ODP から尐し距離をおいた生活をしていましたが、ODP も
第二期間に入り、掘削船もより大きな JOIDES Resolution(以下 JR と記します)号に替わりまし
た。前項の考えを発展させて、われわれは 1989 年から 1990 年にわたっておこなわれた JR 号日
本周辺の大航海群(日本海二航海、单海トラフ一航海;玉木、末廣、平東大海洋研究所教授がそれ
ぞれ主任研究員)で、本格的な実験を試みましたが、実は失敗に終わりました。つまりこのよう
な計画を立てました。单海トラフのやや陸側に 1200m の深度の掘削孔を作り、decollment(デコ
ルマー:地下の地殻滑り面)を掘り抜きます。その後、孔の上部をケーシング(鉄管を差し込む)
により安定性を確保した上で、1100m の長さの温度計測ストリング(およそ 100m おきに感温サー
ミスタを組み込んだケーブル)を埋め込んで、地下温度変動を長時間にわたり測定し、地震発生
と地下温度の変動とを関連つける、と言う壮大な計画でした。実際に設計してみると、ケーブル
の長さが 1000m を超えるので、それに使われる銅線の電気抵抗値の大きさ(数十オーム)が問題に
なります。その上、掘削孔に入れたストリングを固定する方法が難問で、テキサス農工大学の古
くからの知り合い技官に相談に乗ってもらい設計をおこないました。その他、種々雑多の困難も
ありましたが、日本太洋電線社の大きな協力を頂きつつ設計と製造をこなしました。それで、現
場で孔を掘り始めたところ、孔底に掘削孔壁からの崩落屑が溜まり、結局温度計ストリングを掘
削船上で 900m に切り落とす事態になりました。そこまでは何とかトラブルを回避できましたが、
いよいよストリングを孔内に投入する段階で、とんでもない障害が待ち受けていました。
单海トラフ周辺は、黒潮本流の中心ですから、JC 号の周辺にも潮が渦巻いています。掘削ス
トリング(鉄管)の外径は 12-3cm もありますが、それが 3500m ほどの長さになりますと、まるで
タコ糸を吊り下げているような状況になります。凧を揚げた経験のある方はお解かりでしょうが、
タコ糸が風にあおられてブンブンと唸ります。潮流にさらされた細長い鉄管が、ちょうどタコ糸
のように唸りを上げます、つまり鉄管の中を降りていく測定装置が、高周波の振動を受けます。
ある程度は覚悟していましたが、ねじ類とかそれを支える冶具やセットスクリューとか、あらゆ
る物がはじかれて緩み・脱落してしまいます。結局われわれの設計した長期温度計は孔内に入る
寸前あたりで機械的故障を起こしたらしく、安定して着底できなかったようでした。その後一年
ほど経ってから、
「しんかい 6500」で現場を訪問しましたが、複数の掘削孔があり、お互いに設
定が似たもの同士になっていた上に、それぞれが 100m と離れていなかったために、本当の目的
孔には接近できず、長期温度計は結局捕捉できませんでした。こんな経験は今後の深海底実験に
は生かして、是非失敗しないような工夫をしたいものです。
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