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Untitled - 東京大学サステイナビリティ学連携研究機構(IR3S)

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Untitled - 東京大学サステイナビリティ学連携研究機構(IR3S)
巻頭エッセイ
仲上健一
なかがみ けんいち
立命館大学政策科学部教授
(専門は水資源環境政策)
政策科学は関連する学問領域を横断・融合し
て、問題解決のための政策を構築することに特
徴がある。政策課題として、二一世紀に入り顕
在化した地球温暖化、極限災害、民族紛争、ま
た日本における東日本大震災・福島第一原発事
故、さらにはアジア太平洋地域諸国の政治・社
会・経済システムの転換等々があげられる。こ
れらの政策課題の規模は拡大し、解決を図るた
めの困難さは一層増しつつあり、「政策科学の挑
戦」はこれからも続くであろう。政策科学を提
唱したハロルド・ラスウェルが、政策科学を「社
会における政策作成過程を解明し、政策問題に
ついての合理的判断の作成に必要な資料を提供
と定義
する科学」 (Lasswell and Lerner(1951))
してから、六〇年が経過した。政策科学は、①
政策過程および社会プロセス全体との関連の意
識、②問題解決志向、③多様な科学的方法とい
う研究アプローチの重要性を強調するという政
策過程の明示化をめざし、民主主義の技法とし
ても意義を有するものであることは認められつ
つある。
政策科学の出発点として「問題の発見」があ
る。果たして、われわれは、どのように問題を
発見するであろうか。また、本質的な問題を発
見できるのであろうか。
足尾鉱毒事件の田中正造や、神社合祀反対運
動すなわち自然保護運動の南方熊楠らの超人的
な警鐘が一〇〇年以上前の「問題の発見」であ
り、その先見性は驚嘆に値する。これらの先人
の強烈な意志は、政策の科学化の領域を超えた
真の「問題発見」であろう。二〇世紀最大の発
明といわれたフロンによってオゾン層が破壊さ
れる危険性の発見、さらに地球温暖化による影
響の指摘は、単に人間の問題意識だけでなく、
科学的知見による裏付けに依拠している面も否
定できない。
問題を発見することにより、問題を解決でき
るという保障は存在しない。問題を発見しない
限り、解決できないのは必然であるが、今日の
社会においては多様なステークホルダーのもと
での複雑な調整や、さらには意思決定は簡単で
はない。そこには、多くの論争があり、意思決
定過程をめぐる利害対立は鮮明である。政治・
政策・官僚・民主主義という領域においては、
まさに「
〈決め方〉と〈決まり方〉
」の科学が求
められるのである。
2
政策科学から
サステイナビリティ学への展開
地球環境の激変、
経済のグローバリゼーショ
ンの加速による経済システムの破壊、民族紛争
の激化、人間関係の崩壊は、明日へ向かって生
きる希望を人類から奪いつつある。問題を発見
し、解決するためには、情報が決定的に重要で
ある。とくに、高度情報化社会において情報量
が急激に増大することにより、もはや「情報の
量」より「情報の質」が求められ、さらに、そ
の情報により、どのように意思決定するかがよ
り深刻な意味を持ち始めている。
「知の構造化」を目指すサステイナビリティ
学の目標は、
「地球システム、社会システム、人
間システムの再構築と修復」
にある。
すなわち、
「これらの三つのシステムおよびその相互関係
に破綻をもたらしつつあるメカニズムを解明し、
持続可能性という観点から各システムを再構築
し、相互関係を修復する方策とヴィジョンの提
示を目指す」と規定されている。戦後復興する
ための科学が「生きるための個別専門科学」で
あったのに対し、サステイナビリティ学はいわ
ば、「死なないための超学際的科学」
といえよう。
サステイナビリティ学は、自然科学・社会科
学・人文科学の融合を可能とする新しい学問パ
ラダイムであり、客観主義であった科学に人間
性を、真理探究中心であったスタイルに問題解
決的志向を組み込むものである。そこには、
「類
としての人間」の可能性と限界性を認識しなが
ら、
「死なないための超学際的科学」の第一ステ
ップが示されている。もちろん、これまで、人
間が考究してきた学問の蓄積は膨大な量あるが、
まず「有限性」を認識することを出発としてい
る。それは、現状の肯定が盲目的な「無限性」
につながり、超学際的科学の必要性を否定する
からである。これらの研究対象領域は、それぞ
れ個別の専門科学に基盤を立脚しながらも、そ
の限界性を乗り越えるための目的性が求められ
る。
サステイナビリティ学における時代状況認識
は、
「政策科学」とも共通するものであり、政策
科学の六〇年以上にわたる学問的蓄積、さらに
は「政策科学」を学んだ人材は、サステイナビ
リティ学の発展にとっても極めて有効である。
この超学際的科学同士の共通点・相違点を明確
にすることにより、両者の発展の可能性が広が
るものと思われる。
3
特集
サステイナビリティ研究
に向けた立命館大学の
新たな取り組み
五年たった
サステイナビリティ学研究センター
仲上 『サステナ』で立命館の活動に
ついて特集するのは、二〇〇九年一月
発行の『サステナ』第一〇号以来で、
これが二回目です。今日の座談会は、
大きく分けて二つのテーマで行いたい
と考えています。
一つは、前回の特集以降、立命館は
どのような活動をしてきたのか、とく
に国際的な活動について振り返ってみ
たいと思います。そのなかで浮かび上
がってきた問題点などについて、意見
をかわしてみたいと思います。
もう一つのテーマは、これから将来
に向けての新たな取り組みです。サス
テイナビリティの研究は国際的な側面
が非常に大切ですので、ここでも、国
際的な部分を中心に議論したいと思い
ます。
サステイナビリティ学連携研究機構
(IR3S)は、サステイナビリティ
分野での国際連携を進めるために、ネ
ットワークのネットワークをつくると
いうことを提唱してきました。国内の
ネットワークをつくり、そのネットワ
ークを国際的なネットワークにつなげ
ていくという構想です。その考え方に
私は共感を抱くものです。
立命館も国際ネットワークづくりを
進めています。
立命館の建学の精神に、
「自由主義と国際主義」
、
「自由にして
清新」
ということがうたわれています。
サステイナビリティ研究の国際的新展開
座談会
4
立命館大学政策科学部教授
(専門は,アジア太平洋地域の都市環境管理,
水資源・環境政策)
Zhou Weisheng
立命館大学政策科学部教授
(専門は,資源エネルギー・環境政策,システ
ム工学)
に当たって、二〇〇七年一月に立命館
大学サステイナビリティ学研究センタ
ー(RCS)を開設しました。それか
ら五年以上が経過しました。今日は第
一期のセンター長の周先生と、第二期
のセンター長の中島先生におこしいた
だきましたので、座談会の最初のテー
マである、これまでの国際的な展開に
ついて、まずお二人にお話していただ
周 瑋生
ます。
そのような立命館の特色を生かして、
サステイナビリティ学の研究を展開し
ていきたいと考えて、二〇〇七年に協
力機関としてIR3Sのネットワーク
に加わりました。IR3Sにおける立
命館の役割は、「調和社会の構築への戦
略的イノベーション」という言葉で要
約しました。協力機関として参加する
なかがみ けんいち
国際的な展開は立命館の一つの大きな
特色で、立命館は全世界の四〇〇以上
の大学と協定を結んでいます。これは
日本では早稲田に次いで二番目に多い
数です。国際社会の発展に資する知的
社会貢献を進めていて、国際協力事業
として、たとえば中国の大学の先生方
を研修というかたちで受け入れるなど、
海外の大学と深い付き合いをもってい
5
(司会)
仲上健一
きたいと思います。
中国から高い評価を受けた
湖州プロジェクト
仲上 最初に周先生から、中国との関
係で進めてこられたプロジェクトのご
紹介をお願いします。
周 サステイナビリティ学の研究は、
中島 淳
立命館大学理工学部環境システム工学科教授
(専門は,土木環境システム,湖沼水質管理,
排水処理技術,水環境工学)
私の理解では、一つは時間軸、すなわ
ち世代間のサステイナビリティ、もう
一つは空間軸、すなわち地域間のサス
テイナビリティ、それともう一つ対策
軸、すなわち政策のサステイナビリテ
ィの、少なくとも三つの軸で、重層的
なアプローチを行うべきであると考え
られています。IR3Sでは、低炭素
型社会、循環型社会、自然共生型社会
なかじま じゅん
ちかもと ともゆき
立命館大学理工学部建築都市デザイン学科教
授
(専門は,建築都市環境システム,建築都市環
境設備)
という三つの社会像を提起して重層的
にサステイナビリティ学の構築を進め
てこられました。
二〇〇七年に立命館大学がIR3S
に参加するにあたって、調和型社会、
とくにアジア地域を視野に入れた広域
循環型経済社会システムの構築という
テーマを分担することになりました。
具体的には、IR3Sと浙江大学と湖
近本智行
6
に協力してマスタープランとパイロッ
トモデル事業の設計に参加しました。
経済、
環境、
社会という三つの領域で、
一一の大きな分野、約一〇〇のプロジ
ェクトに対して、設計から実施まで協
力しました。
湖州市プロジェクトには一〇〇億元、
日本円で一三〇〇億円ぐらいが投資さ
れています。最初は、日本側が半分、
中国側が半分の投資をするという案が
あったのですが、いろいろな事情で中
国単独の投資になりました。
研究面では、まず、分散型エネルギ
ー最適化システムを評価するツールを
開発し、具体的なケーススタディを行
いました。湖州市を対象にして、バイ
オマスや風力や太陽光、それに未利用
エネルギーも含めて評価し、最適化エ
ネルギーシステムの構築に貢献しまし
た。第二に、湖州市を対象にして、都
市と農村がいかに連携してローカル低
炭素社会を実現していくのかという研
7
トであるとともに、大学の枠を超えて
大学と行政が連携して進めるプロジェ
クトでもあります。中身としては、湖
州市が推進している新農村建設、循環
経済創成、そして持続可能な社会構築
などに協力し、人材交流を促進して、
理論と実践の両面からサステイナビリ
ティ学の展開に資するものです。
立命館チームは、浙江大学と湖州市
立命館大学政策科学部教授
専門は,産業政策・都市工学・建築学,国土計画,
地域経済学)
州市の三者で協力協定を締結した、い
わゆる「湖州プロジェクト」の推進役
を立命館大学が担うことになりました
(図1)
。
湖州プロジェクトは、アジア地域の
循環型社会をどのようにしてつくって
いくのか、その実証研究を日中が協力
して推進していくものです。これは、
日中間の国境を超えた合同プロジェク
モンテ・カセム
Monte Cassim
図 1 IR3S と
浙江大学,湖
州市3 者の協
力協定締結式
(2006 年 10
月 13 日,浙
江大学).
究を行い、戦略型行政計画マネジメン
トシステムを導入し、湖州市のサステ
イナブルな長期計画の構築に協力しま
した。第三に、自然共生型日中安全安
心農業システムの構築に関する研究を
進めました。日本はカロリーベースで
食糧の約六割を海外に依存している一
方、中国では食品の「安全安心」も大
きな社会問題として浮上しております。
すなわち安全安心な食糧の生産と安定
供給は日本にとっても中国にとっても
重要な戦略課題です。湖州市は太湖に
隣接している農業地域で、農業面積が
非常に大きく、日中の双方にとって安
全安心な食糧の基地、農業団地をつく
る適切な地域であり、日中協力による
モデル農業団地の構築を模索していま
す。第四は、竹林の総合利用と二酸化
炭素の吸収源としての役割分析です。
世界の竹林は中国に有り、中国の竹林
は湖州にあるといわれています。湖州
市は世界で最大な規模をもつ竹林の産
地です。地域の自然資源を活かしなが
ら、経済発展、生態保護と二酸化炭素
吸収源の拡大といった一石多鳥型のパ
イロットモデル事業を取り組んでいま
す。第五は、中島先生、仲上先生を中
心にした太湖流域の水管理、汚染水処
理の研究です。
また、人材育成の面では、湖州市の
農村幹部を呼んで日本で研修を行いま
した。逆に、立命館大学の学生を太湖
に送って、実際にフィールドワークを
毎年行ってきました。
水だけではなく、
農村建設や廃棄物処理の問題にも関わ
ってきました。
「湖州プロジェクト」では、外務省
からも日中研究交流支援事業として支
援を得て、「調和型社会総合モデル構築
に関する日中共同研究」というテーマ
で、二〇〇八年にシンポジウム実施し
ました(図2)
。日中間の国際シンポジ
ウムを、学術研究発表だけでなく、日
中若手フォーラム、日中市長フォーラ
8
図 2 外務省
支援事業:湖
州調和型総合
モ デ ル 地区
構築日中シン
ポ ジ ウ ム
(2008 年,湖
州市).
ムを併催し、現地視察も行いました。
湖州プロジェクトはいまは一区切と
なりましたが、
成果としては国際連携、
他分野横断、研究支援、人材育成など
を進め、中国側から「湖州モデル」と
して高い評価をいただいております。
課題としては、産業界の連携と参加が
あまりなかったことが挙げられます。
日本の産業界、中国の産業界も加わっ
て、さらにプロジェクトを推進するこ
とができればと考えています。
琵琶湖で学ぶMOTTAINAI共生
学と中国との交流
仲上 周先生から湖州プロジェクト
のご紹介いただきましたが、中国と立
命館との関係はそれだけにとどまらず
に、教育面でもいろいろなことが行わ
れてきました。中島先生から少し事例
を紹介していただけますか。
中島 サステイナビリティの教育に
ついての国際的な動きとして、「ESD
の一〇年促進事業」があります。ES
Dは「持続可能な開発のための教育」
(
Education for Sustainable
)の略称で、二〇〇二年
Development
のヨハネスブルグサミットで日本が提
案し、
二〇〇五年からの一〇年間を
「国
連ESDの一〇年」とすることが国連
で採択されました。それに関連して文
科省もいろいろな補助金を出し、立命
館でもいくつかの実践を行っています。
また、文科省には「現代的教育ニー
ズ取組支援プログラム」(現代GP
( Good Practice
)
)というのもあって、
すぐれた教育プロジェクトに対して財
政支援を行っています。立命館大学で
は、その一つとして、
「琵琶湖で学ぶM
OTTAINAI共生学」が選ばれま
した。これは学部の教育ですが、立命
館大学のびわこ・くさつキャンパスに
近い琵琶湖や周囲の地域を具体的なフ
ィールドとしながら、文理総合学習を
9
図 3 中国新農
村の排水処理を
見学する ESD
(海外スタディ).
行うカリキュラムです。柱の一つにし
たのが、国際的な視野をもつというこ
とです。海外に学部の学生を連れてい
き、環境の問題や、土木や建築など基
盤技術をみせたり、海外の大学との交
流もするということをしています。
これまでに、中国、カナダ、ベトナ
ム、タイにいきました。中国に関して
は、周先生に開拓していただいた湖州
市との関係から、浙江大学をカウンタ
ーパートとしています。湖州市にはこ
れまでに三回目いきまして、湖州を中
心とした環境関係の施設をみたり、農
村と都市のコミュニケーションを学ん
だり、さらに太湖の環境について学ん
でいます。太湖はよく琵琶湖と比較さ
れますが、琵琶湖は水深が深く太湖は
水深が浅いという地形的な違いがあり
ます。多くの人々が利用している重要
な水系である点は共通で、太湖では水
質の問題が近年大きくなっています。
私の専門は水の処理で、浙江大学に
は農村集落の排水処理を専門とする教
授がおられ、学生に新しい施設をみせ
てくださっています(図3)
。私にとっ
てもそれをみるのが非常に楽しみで、
面白いことに、訪問するたびに速いス
ピードで施設の技術が向上しています。
当初は人工的なウェットランドに植物
を植えて水を流していました。近頃で
は曝気して水質をさらによくしていま
す。排水処理した水は太湖に入ります
ので、窒素やリンを除去することが重
要で、曝気することで窒素の除去が可
能になります。学生に中国の取り組み
をみせるとともに、私自身にも学べる
ことがあります。
基礎を重視する日本と
社会への貢献を重視する中国
仲上 二つの事例をご紹介いただき
ましたが、この二つにとどまらず、立
命館と中国の関係は深いものがありま
10
す。また、日本と中国の関係もますま
す深くなっているのですが、IR3S
の研究報告会で話題になったのは、研
究のスタイル、あるいはプロジェクト
の成果をどのようにみるのかといった
ところで、中国と日本でかなり違いが
あるということです。
中国の場合には、
現実の問題があって、
研究者としても、
それをどのように解決していくのかと
いう面が非常に重要視されています。
それに対して、日本の研究者は、研究
のレベルで提案をしたら大体終わりだ
という意識が強いようです。その間に
挟まって、湖州プロジェクトでは、私
も周先生も苦労し、なかなか理解して
もらえなかったこともありました。周
先生は日中の両面をよくご存知ですの
で、両者の相違についてどのように考
えておられるでしょうか。
周 日本にも中国にも両方とも各自
の特徴があります。日本人のノーベル
賞受賞者はこれまでに一九人です。日
本が基礎を大事にして一生懸命研究し
てきた結果だと思います。中国の研究
者には不安定な面があり、企業活動も
やらなければいけない、プロジェクト
資金を確保しなければいけないと、研
究以外のことに、大量の時間、多くの
精力を使わざるをえない現実がありま
す。これは基礎をじっくりと研究する
ことではマイナスです。
一方で、大学がいかに社会のために
貢献するのかという点では、中国大学
のやりかたに、日本も参考にすべきと
ころがあるかと思われます。たとえば
湖州プロジェクトでは、市長助役クラ
スの人を浙江大学から湖州市に出向さ
せましたし、浙江大学の研究者は現地
の人々と組んで研究プロジェクトを立
ち上げて製品化するところまで進めま
した。町のため、社会のために直接に
貢献することが大いに奨励され、また
それにより大学教授の研究費確保、個
人や研究チーム全員の福祉向上や収入
の増加、ひいては社会への出世にも寄
与できるので、中国では積極的に進め
られている産社学研連携のやり方です。
日中韓の連携を深める
周 日本は、かつてOECDに、環境
と経済を両立できた先進国であると評
価されました。後発者利益がないまま
に、近代化に向けてたえず課題を克服
してきた過程で得られた成功の経験と
失敗の教訓は、日本のみならず、人類
社会共有の財産だと思います。
それを生かすためには、とくにアジ
アとの関係を深めていくことが大切だ
と思います。私が研究代表を勤めてい
る立命館グローバルイノベーション研
究機構(R‐GIRO)助成の五カ年
研究プロジェクト「低炭素社会実現の
ための基盤技術開発と戦略イノベーシ
ョン」では、日中韓を中心にした東ア
ジア低炭素共同体構想を提唱し、二〇
11
図 4 東アジ
ア低炭素共同
体構想.
一〇年の日中韓環境大臣会議にて賛同
を得られて、現在はそれを具現化する
ための研究を進めています(図4)
。同
構想の実証研究の一つとして、中国の
旅順で国際低炭素総合モデルパークと
いう国際協力事業を進めています。日
中韓連携で低炭素社会の実証モデル事
業を行い、東アジア低炭素共同体構想
の実現へと発展させていこうという考
えです。小宮山宏先生に顧問になって
いただいて、いまはマスタープランの
設計をしている段階ですが、日中関係
が厳しい現在、残念ながら少し停滞し
ている状態です。
日中でサステイブルキャンパスを
目指す
仲上 近本先生は、サステイブルキャ
ンパスをつくっていくということで、
中国の大学との交流もしていらっしゃ
いますが、中国から学びうるものとし
て、何か感じていることがあるでしょ
うか。
近本 私がお付き合いさせていただい
ているのは中国の同済大学緑色建築能
源研究中心におられる譚先生で、博士
号を東京大学で取られましたので、そ
のころからの知り合いです。譚先生は
日本で空調機器メーカーに勤めた実務
経験もあって、現在では同済大学のサ
ステイナブルキャンパスのリーダーと
して活躍されています。大学のエネル
ギー計量システムを中国の国家プロジ
ェクトとして立ち上げ、それをもとに
エネルギー使用の改善や、キャンパス
計画につなげられています。
私も立命館にくる前には設計事務所
に勤めておりましたので、実務経験が
ある点が共通し、学内のエネルギーの
マネジメントをどのように行っていく
のか、それをキャンパス計画にどのよ
うに使っていくのかなど、関心が共通
するところもあります。それで、学生
12
を同済大学に連れていき合同ゼミをや
ったりして研究の刺激的なところを教
えてもらったりしています。
日本と中国は、夏は高温多湿で、冬
は反対に低温低湿となりやすい環境で
快適性を確保するところは共通すると
ころが多く、日中で環境共生となる技
術は一致することが多いように思いま
す。低コストを実現しながら普及を目
指すと、日中間での協力は欠かせない
ように思います。
周 エネルギー環境技術分野におけ
る日中の格差が依然として大きいです
が、急速に接近しています。循環型社
会、低炭素型社会、生態共生型社会を
核とするサステイナブルな社会の構築
における理論体系にはほとんど大差が
ないどころか、中国が日本より進んで
いる側面すらあるといえます。
研究力を国際的に発信するために
仲上 中国との関係が話題の中心にな
っていますが、カセム先生は立命館ア
ジア太平洋大学の学長を二〇〇四年か
ら五年間務められ、現在は立命館の国
際担当の副総長として全世界とのネッ
トワークを担当されています。そのよ
うなご経験を通じて、立命館の国際的
なネットワークについて、サステイナ
ビリティに関連して、何か感じておら
れることがあるでしょうか。
カセム 立命館が抱える大きな課題の
一つは、自分たちがもっている研究力
を、国際的に可視化できていないこと
にあると思っています。立命館がもっ
ているものの割には、海外での認知度
が上げられていない気がします。それ
をどのようにして改善したらいいのか
といったときに、悩ましいのは、立命
館のなかのさまざまな業務が縦割りに
なっていることと、立命館の広報が研
究力を海外へ発信することにあまり熱
心ではないことです。今後はそれを戦
略的に変えていくことを考えなければ
なりません。
たまたまドイツから帰ってきたとこ
ろですので、
ドイツの話をしましょう。
立命館はチュービンゲン大学、ゲッテ
ィンゲン大学、ケルン大学と付き合い
があります。ゲッティンゲン大学はわ
れわれのサステイナビリティサイエン
ス研究センターに関心をもってくれて
います。しかし、センターで行われて
いる研究が向うの先生方にみえるよう
になっていません。
ドイツでは、三年ぐらい前からエク
セレンスイニシアティブというのを打
ち出しています。国が五年間の大型補
助を出して、研究を高度化していくこ
とを重視しています。そのなかで英語
の授業を行っていきましょうというの
もあるのですが、日本には、文科省が
進めている国際化拠点整備事業(グロ
13
ーバル三〇)というのがあって、海外
からの留学生を受け入れられやすいよ
うにしましょうということで、どちら
かというと、英語で教育することに力
を注いでいます。ドイツのエクセレン
スイニシアティブは、日本のグローバ
ル三〇よりも目的がもっと社会貢献型
であると感じました。学際的な領域で
環境を取り上げて、哲学から心理学、
脳科学までをつないでいくようなこと
を進めています。
ゲッティンゲン大学は、そのエクセ
レンスイニシアティブでいろいろなパ
ートナー大学をもっていて、さらに、
より特化して一つの大学と付き合いた
いと考えています。できるならば、わ
れわれのサステイナビリティ学研究セ
ンターがゲッティンゲン大学のパート
ナーに位置付けられたらいいという希
望を私はもっています。われわれのセ
ンターの五一人の力をどのように合わ
せて向こうと付き合っていくのか、新
しい課題に挑むことになります。
発展途上国への貢献の仕方
カセム もう一つ、エジプトの話をし
ましょう。日本は、エジプト政府の要
請に応じて、エジプト日本科学技術大
学というものをつくろうとしています。
少人数の大学院教育、研究が中心の大
学をつくるプロジェクトで、その戦略
運営会議のメンバーに立命館が入って
います。
エジプトは中国と似ているところが
あって、国のさまざまな課題を解決す
るために大学は貢献するよう要請され
ています。日本の国立大学のように、
縦割り型の学問体系を教える大学をつ
くったのでは、物足りないのではない
かという心配があります。学際的なか
たちの大学をつくっていくようにする
のが立命館の役割であると考えていま
す。
エジプト日本科学技術大学ができた
ならば、エジプトの人材育成も大事だ
けれども、もっと広く、ナイル川の流
域にわたる人材育成、あるいは北部ア
フリカにわたる人材育成が大事だと私
は考えています。
エジプトはアフリカ、
中東の食糧基地です。それはナイル川
があるからです。ナイル川流域に関わ
っていく人材が求められているのです。
エジプトの人たちは、私の研究に関
心をもってくれています。気候変動と
農業の関係です。
気候変動の研究には、
温室効果ガスの排出を抑えて温暖化を
防止する緩和策と、気候が変動したと
きの適応能力を高める適応策がありま
す。私は、農業の適応能力をどのよう
に高めるかという研究もしていて、エ
ジプトの人たちが関心を寄せてくれて
います。
ナイル川流域では、農業と気候の関
係をみている人がほとんどいなくて、
エジプトはすごく焦り出しています。
14
立命館サステイナビリティサイエンス
研究センターが、気候の問題、土壌の
問題、水の問題などさまざまな問題を
つなげて、基礎的な研究から地域開発
のソフト面に至るまで、ナイル川流域
に貢献できるところがあるのではない
かと思います。
私がどうして気候変動と関わる問題
に関心をもつようになったかといいま
すと、私の母国のスリランカの問題が
あります。スリランカは紅茶の産地で
すが、高品質の紅茶の生産が過去一〇
年間で四割も減っています。本当にい
い紅茶をつくっているところの土地が、
砂と石になってしまっています。それ
には気候変動も関係しているでしょう
し、その他の問題も関係しているので
しょう。原因は調べてみないことには
わからないので、スリランカの大きな
多国籍企業とともに調査を始めていま
す。かつてはスリランカの紅茶の七割
ぐらいを大企業が生産していたのを、
その土地を一度国有化して、それから
二〇年後ぐらいに安く民間に売って再
民営化しました。今では約七割の紅茶
を小規模農家が供給しています。再民
営化の際に多国籍企業が買った土地が
あって、そこで生産が減ったというこ
とは政治的な問題になりかねませんの
で、減少した理由は、きちんと調査し
てからでないとうっかりしたことがい
えません。その調査をスリランカのナ
ショナルサイエンスファウンデーショ
ンも応援してくれるというので、JI
CAの共同事業として進めていこうと
しています。
周先生もおっしゃったように、中国
やエジプトやスリランカでは、社会に
役に立つ大学が求められています。そ
の面で、立命館がいろいろな取り組み
をしていければ、立命館の研究が国際
的に可視化されて、世界中に立命館の
応援団が増えてくると期待されます。
ドイツのような先進国とも、中国やス
リランカやエジプトのような発展途上
国とも組んで、サステイナビリティと
いうことを通じて国際的に貢献してい
くことに、われわれのサステイナビリ
ティサイエンス研究センターが土台に
なっていけばといいと思います。
知行合一でいきたい
仲上 私は、六月にトルコのユーフラ
テス川にいき、七月にナイル川にいき
ました。ナイル川の問題はかなり大き
くて、ナイル川五〇〇〇年の歴史をど
のようにみるのかという大きな構えを
もって取り組んでいく必要があると考
えています。アスワンハイダムができ
てから急激に問題が出てきました。カ
イロより下流部では、農業の管理がか
なり厳しくなっています。ダムができ
る前は、洪水もありましたが、自然に
任せたやり方で対応して、持続的な農
業が行われていました。人工的なダム
15
ができたために水は安定しましたが、
難しい問題が生じました。
ナイル川でもユーフラテス川でも、
大きなプロジェクトを進めるときには、
世界銀行などが入って、どれくらいの
コストがかかってどれだけの効果があ
るのかという費用便益分析が行われて
います。ところが、プロジェクトを計
画した時点といまとでは、気候変動が
おこったり社会も変化したりして事情
が異なり、最初の費用便益の計算と現
実の間にはかなりのギャップが生じて
しまっています。もう一度プロジェク
ト全体を見直して、これからどのよう
な国づくりをしていくのかという視点
から、
新たな検討する必要があります。
研究者は、研究をして論文を書くだ
けではなくて、地域や国が変わってい
くことにどのように関わっていくのか
というところまで出していく必要があ
ると思っています。研究者には広い見
識が求められているのですが、中島先
生は理論と実践の両者についてどのよ
うに感じておられるでしょうか。
中島 私は技術屋で、どちらかという
と一つ一つの問題を解決する人間で、
大きなスコープをもってサステイナビ
リティとかをいえるような立場ではな
いのですが、研究者も行動していかな
ければいけないということは常日頃か
ら考えています。知と行の両者が必要
です。王陽明のいう「知行合一」です。
知と行がいいバランスで、双方が補い
合いながら進んでいくのが非常に重要
だと思います。
一つの例を出しますと、バングラデ
シュは地下水のヒ素汚染が非常に深刻
です。バングラデシュの西方のクルナ
というところの地下水を調べている留
学生がいます。その地域のヒ素汚染は
すでに調査されていて、ヒ素濃度が高
い井戸は、使ってはいけないというこ
とで赤いペンキが塗られています。と
ころが、それに代わって水を供給する
対策がうまく根づいていないために、
汚染されている井戸をいまも継続して
使っているところがあります。
現地にいってみますと、コミュニテ
ィにはいろいろな装置が入れられてい
ます。深い井戸も掘られていて、その
水にはヒ素は入っていません。
しかし、
それらがうまく使い切れていないので
す(
(図5)
。コミュニティに導入され
た技術が、そこでは持続可能ではなか
ったということです。
途上国において一番持続可能でない
のは、非常にハイテクな技術です。入
れるのにお金がかかりますし、維持管
理に非常に高い技術を必要とします。
そのようなハイテク技術をもってきて
もうまくいかないというのは誰でもわ
かることなので、ローテクといわれる
ような技術を入れるのですが、ローテ
クを入れても、どのように管理してメ
ンテナンスしていくのかというシステ
ムがなければうまくいきません。難し
16
図 5 使われなくな
った砂ろ過装置(バ
ングラデシュ,クル
ナ市近郊).
いのがコミュニティにおける組織づく
りです。各家庭でも、どれだけオーナ
ーシップをもてるかどうかが大切です。
単に技術をもってくればいいのではな
くて、社会開発的なことが非常に重要
です。
バングラデシュの場合には、カウン
ターパートとしてクルナ工科大学とそ
の地域のNGOがあります。NGOは
社会開発的なことを中心に行っていま
す。立命館大学も含めた三者で、その
地域に一番適した技術、安価で住民が
維持管理していける技術を検討して、
地域のサステイナビリティに貢献しよ
うとしています。ここでも大事なのは
知と行のバランスです。技術と社会開
発のいいバランスをとっていくことが
持続可能の条件だと思います。
環境への意識を変えていくには
仲上 中国の太湖にいきますと、日本
の外務省が関係したプロジェクトでつ
くられた浄化槽が無錫にあります。装
置をつくるのは難しくないのですが、
維持管理がうまくできていません。装
置をつくった最初のうちは、地域の農
民もきちんと管理します。しかし、そ
のうちに、毎日丁寧に管理するのがど
うもなじまないということなのか、維
持管理が行われなくなってしまいます。
維持管理まできちんとしていくには、
意識を変えていかないとなりません。
最初は、湖を守ることが重要だという
意識をもってもらうことです。湖を守
るには対策技術が必要で、対策技術を
維持するには地道な努力が必要です。
地道な努力を続けるには、これが大事
だといつも思っていなければなりませ
ん。技術は根付かせるには、いくつか
のステップを踏んでいかなければなり
ません。
中国でも農民の意識が環境保全に向
かって変わってきているのかどうか、
17
周先生はどのようにお考えでしょうか。
周 いまも話にありましたように、途
上国にとってはハイテクよりもローテ
クが非常に重要な場合があります。ロ
ーテクは、日本にとって大きな産業に
なる可能性があります。日本がすでに
商業化した技術を海外に移転していく
のです。維持管理する技術も同時に移
転することが大事です。
日中両国は、エネルギー環境分野だ
けでなく、医療、福祉、食品、観光な
ど多分野において、真の互恵補完関係
にあると思います。今日の議題から離
れるかもしれませんが、政治家、マス
コミはもっと社会的責任を果たして、
両国の福祉と発展に寄与できる言動を
してもらいたい次第であります。
日本は管理システムから始まる
仲上 中国の話ばかりではなくて、足
元の立命館をみましても、節電対策で
かなりいろいろな器具や設備を導入し
ましたが、それで終わりではなくて、
意識の面も変えていかなければなりま
せん。その点で、近本先生はどのよう
に感じていますか。
近本 日本では、きちんとした体制を
つくらないと動かないようになってい
るように感じます。まずマネジメント
の体制をつくり、管理することから始
めるように思います。中国では、誰が
どう管理するかということとは無関係
にまず技術を導入し、さらに新しいも
のに次から次へと変えていくダイナミ
ックさを感じます。
それは日本にはなじみにくく、管理
のできる体制をきちんとつくって標準
化するところからやっていかないとう
まく進まないようです。
ストックよりもフロー?
仲上 日本は経済成長の過程で、管理
のあり方がより高度化してきたと思っ
ていましたが、
原発の事故をみますと、
何かのきっかけでかなり厳しい大きな
失敗をしてしまう危険性が日本にはあ
るような気がします。日本の脆弱性に
ついて、カセム先生はどのようにご覧
になっていますか。
カセム 大震災の後で私が思いました
のは、日本は、環境的な資本のストッ
クを大事にするという発想よりも、利
潤を追求する管理システムの方を重視
する方向に変わってきたのではないか
ということです。
その象徴的なものとして、一つの例
を挙げますと、古代米の種子を保存す
るということがきちんとしたかたちで
行われていません。地域で昔からつく
られてきたお米の種子を、その土地の
お年寄が保存しているのならまだいい
方です。万一、何らかの大きな環境危
機があって、もともと地域に存在して
いた非常にたくましい遺伝子に頼らな
18
ければいけないと
いうことなったと
きに、どこにいっ
たら古代米の種子
があるのかわから
ないのがいまの状
況です。
自然を開発し、
利潤を得るための、
非常に繊細な維持
管理システムを日
本はつくってきま
した。しかし、環
境アメニティサー
ビスの資本のスト
ックは大切にされ
てきませんでした。
私は日本で八年間
ほど兼業農家をし
ていました。米を
つくる私の水田が
ある谷間の向こう
に墓地があり、そのあたりは砂まじり
の土です。田んぼには深さ六〇センチ
から八〇センチぐらいの黒い土があり
ます。それは人間の努力で蓄えてきた
資本です。そのような資本のストック
をいまの日本はきちんと評価しなくな
っています。日本の歴史のどの段階で
そのようになったのでしょうか。
さきほども話に出ましたように、五
〇〇〇年の歴史があるナイル川下流の
農業をアスワンハイダムが変えてしま
いました。
私の母国のスリランカには、
二〇〇〇年もの間、維持管理してきた
巨大なため池がありましたが、近年の
コンクリートダムづくりの陰で、ため
池を維持するいろいろな技術が衰えて
きています。ストックを大事にするこ
とから、
フローを大事にすることへと、
近代化のどこかで変わってきたように
思います。その原点に戻る必要がある
のではないかと感じています。
私は、日本の繊細な維持管理を評価
します。ただし、それはどちらかとい
うと都市に向いているものだと思いま
す。農村や自然があるところでは、ナ
イル川から日本が学べるものがある気
がします。それがどのようなものであ
るのかは吟味しないといけませんが、
大震災がわれわれに示したのは、繊細
な維持管理に何かが欠けている事実で
はないかと思います。
人に投資する
仲上 管理が緻密に制度化されるな
かで、人間が本当に幸せになっている
のかという問題もあるかと思います。
幸福といいますと、すぐにブータンを
思い浮かべますが、幸福は他の国のこ
とではなく、毎日の自分たちに関わる
ことです。持続可能であるためには、
幸福の問題についても本格的な議論が
いるのではないかと思います。
カセム その通りだと思います。社会
19
システムを維持することを考えたとき
には、幸福も含めて、違った側面から
考えてみることも大切だと思います。
日本には貨幣経済以前から続いてい
るような長寿企業があります。長寿企
業はさまざまな危機を乗り越えて今日
に至っています。先日、京仏具小堀と
いう一七七五年に創業した会社の社長
さんとお会いしました。いろいろな工
夫をしながら人に投資をしてきたとい
うことをおっしゃっていました。人に
投資をすれば、どのような危機がきて
も柔軟に動けるからです。
会社が危機に向かったときに、会社
を助けるには、新しい市場を開発する
とか何かしらイノベーティブなことが
必要です。イノベーションを達成する
ために、普通の企業はお金を借りて行
おうとしますが、そこの社長さんは、
自分の貯金からやるべきだとおっしゃ
っています。そうでないと人に自由度
が与えられないというのです。貯金か
らなら、イノベーションがうまくいか
なくても、それほど影響しません。借
金して失敗したら恥だといいます。
いまの日本が緻密にやっているとこ
ろは美しいです。しかし、急に予測で
きないものがきたときには対応できま
せん。人への投資は大切で、日本が国
際的に貢献できるものがあるのではな
いかと思います。
仲上 危機に対応できないというこ
とでは決め方の問題もあると思います。
日本が開発途上であったころには、即
座に決めることができました。いまは
なかなか決められません。イノベーシ
ョンでやろうとしても、それにお金や
人を注ぎ込む余裕がなくなりつつある
ようにもみえます。
カセム そうです。問題は余裕です。
余裕をどうつくるのか。時間でつくる
か、お金でつくるか、資源でつくるか
……。
仲上 最後は笑顔でつくるというの
もあるかもしれません。
RCSの第二ステージ
―サステイナブル価値の創造と定着
仲上 これからの立命館が取り組ん
でいく課題に話を移したいと思います。
立命館サステイナビリティ研究セン
ター(RCS)は、二〇一〇年四月に
中島先生が第二代目のセンター長にな
って第二期行動計画がスタートしまし
た。
「サステイナブル価値の創造と定
着」を理念に掲げ、立命館大学だけで
はなく、立命館アジア太平洋大学の人
も一緒になって、文理融合・機関横断
で研究に取り組んでいます。そのあた
りのことをまず中島先生にご紹介して
いただきたいと思います。
中島 二〇一〇年からRCSの第二
ステージを始めるに先だって、あえて
抽象的な議論を半年ぐらい行いました。
地球システム、社会システム、人間の
20
システムの三つのシステムの結節点に
主眼を置いた研究を推進するというこ
とで、ベースとなる三つのコンセプト
として、
サステイナブルな人間の生活、
サステイナブルな人間の活動、
そして、
サステイナブルな人間の生存を掲げま
した。それにもとづいて個々の研究の
位置づけを整理して、研究を進めてき
ました。
サステイナブルな人間の生活という
コンセプトからは自然共生型生活圏の
研究という課題が出てきますし、サス
テイナブルな人間の活動というコンセ
プトからは低炭素社会構築の研究とい
う課題が出てきて、サステイナブルな
人間の生存というコンセプトからは水
資源ガバナンスの研究という課題が出
てきます。具体的な研究はいろいろあ
りますが、自然共生型生活圏の研究で
は、例えば、森林、林業の研究があり
ます。日本における林業の復活、木材
の活用、森林から出るバイオマスの利
用、あるいは森林の保全などです。京
都や大分、先ほどお話があった湖洲の
竹も含めて、いくつかの地域で研究を
進めています。低炭素社会構築の研究
では、先ほど周先生から紹介がありま
したように、大連、旅順の国際低炭素
総合パークにつながるような低炭素社
会構築のための研究を進めています。
東アジアへと拡大していくのがこらか
ら目指す展開です。水資源ガバナンス
の研究では、太湖周辺の水浄化方式の
研究や、気候変動による水資源への影
響評価を分析してこれまでに評価され
てきたものの見直しをしていこうとし
ています。
それ以外にも、教育との連携で、サ
ステイナビリティキャンパス構想や、
キャンパス内に残された自然林の教育
に使うことなども行っています。
仲上 IR3Sが進めてきたことの
基本を受け継ぎながら立命館らしさを
出していこうということで、「サステイ
ナブル価値の創造と定着」という理念
を掲げました。価値を創造して、さら
にそれを定着させるところまで進めて
いきたいということです。また、立命
館は京都にありますので、千年を超え
る古都の長い歴史を踏まえてサステイ
ナビリティを考えることのできる、格
好の立地条件もあります。
中島 立命館大学には衣笠、朱雀の京
都市内の二つのキャンパスに加えて、
びわこ・くさつキャンパスがあり、立
命館アジア太平洋大学のキャンパスは
大分県別府市にあります。これらのキ
ャンパス全体を結ぶ役割をRCSは担
っていこうとしています。
仲上 二カ月に一回ぐらい、四拠点全
部で議論をしています。
立命館
グローバル・
イノベーション研究機構
仲上 周先生からは、二〇〇八年四月
21
に設立された「立命館グローバル・イ
ノベーション研究機構(R‐GIR
O)
」も含めて、今後の取り組みを紹介
してください。
周 サステイナビリティ学は未完成
の学問であり、大学としても研究者と
しても非常に重要な課題ですから、継
続して取り組んでいきます。ここで、
教育、研究、国際協力の三つの視点か
らお話したいと思います。
教育面では、『サステイナビリティ学
入門』という教科書を編集し来年の二
月に出版する予定です。立命館サステ
イナビリティ学研究センターの仲上先
生、中島先生、カセム先生にも編著者
としてご執筆いただいています。
文系、
理系の一回生、二回生を対象に基礎教
養を教えるものです。
研究面では、一つには、文理融合の
アプローチからサステイナビリティ学
の研究手法の確立が大事だと考えてい
て、新しい「政策工学」の創成を提案
しています。冒頭に申し上げましたよ
うに、
サステイナビリティの研究には、
時間的サステイナビリティと空間的サ
ステイナビリティと、もう一つ政策的
なサステイナビリティが必要です。い
かにして最小のコスト、最小のリスク
で最大の効果を創出するのか。そのた
めに、工学的な手法で政策を最適化す
る手法を生み出していきたいと考えて
います。
研究面の二番目は、いま話に出して
いただいた立命館R‐GIROです。
R‐GIROは、持続可能な社会形成
のために解決しなければならない課題
に対して、環境、エネルギー、食料、
材料・資源、医療・健康、安全・安心
などの領域を研究対象として、多くの
研究プロジェクトが進行しています。
われわれRCSでは、技術、社会、経
済の三軸から低炭素社会を実現するた
めの基盤技術開発と、どのような戦略
イノベーションを起こすかということ
を提案する研究を進めています。
国際協力の面では、来年度以降のプ
ロジェクトとして、国際エネルギー環
境セキュリティ研究拠点を構築できな
いかを検討しています。とくに日韓中
の三カ国を中心とした「東アジア原発
安全保障システム」
(別称:東アジア原
子力共同体)をどのようにしてつくっ
ていくのかというテーマがあります。
日本では「原発ゼロ」にするなどさま
ざまな議論をされていますが、日本の
原発がゼロになれば日本は安全でしょ
うか。周辺国同士間では互いに影響し
合う恐れがあるため、一緒になって安
全システムを組まなければ、日本も絶
対に安全とは考えられません。
また、日米中の連携で、幸福指数と
経済成長とサステイナビリティの相関
関係を研究していこうと考えています。
日中の比較では修士論文がすでに一つ
できていて、幸福指数と経済成長の相
関について非常に面白い結果が出てい
22
ます。アメリカをどのように入れるの
かいま検討しているところです。
もう一つ付け加えますと、今年の一
一月一五、一六日にRCS主催の特別
セッションとして、ポスト三・一一の
災害救援復興の管理をテーマに、マサ
チューセッツ州立大学と立命館サステ
イナビリティ学研究センター、そして
中国のいくつかの大学と共同で、仲上
先生の基調講演を含めて、日米中研究
者同士の議論をもつことができました。
私のチームでは、中国四川大地震の救
援復興の経験を踏まえて、異なる社会
制度下の救援復興ペアリングシステム
の設計に向けて検討を進めています。
都市が連携を結んで災害時に助け合う
ペアリングシステムは、中国国内で確
実な成果を得ていますので、国境を超
えた国際ペアリングシステムの構築も
重要だと考えます。
仲上 災害救援では、二〇〇四年のス
マトラ島沖地震による大津波の後で、
カセム先生が先頭に立って立命館はイ
ンドネシアやスリランカに小学校をつ
くりました。国際ペアリングは、日本
だけの問題では、世界との関係で大切
なことだと思います。
サステイナビリティサイエンスの
宣教師として
仲上 カセム先生は、別府で新しい研
究拠点を作られ、また独自にいろいろ
な展開もされていますので、少しご紹
介をいただきたいと思います。
カセム サステイナビリティサイエン
スのなかにイノベーションをどのよう
に入れていくのか、いろいろな新しい
考え方が出てきます。大学や企業のな
かだけでイノベーションが進められる
のではなくて、広くオープンなかたち
で、つまりオープンイノベーションを
おこしていくことに立命館は貢献して
いきたいと考えています。
そのときに、
古狸たちだけがやるのではなく、若い
人々から年配の方々までが入り混ざっ
て、国内・国際の交流ができるような
拠点にRCSがなってほしいと思って
います。
地球規模の課題を取り上げて、
三~五年で成果が出るようなプロジェ
クト企画を展開して、いろいろな方々
の協働で新しい知恵を生み出していき
たいと考えています。
サステイナビリティサイエンスとい
うのはすごく広い概念です。研究を進
めていくためには、サステイナビリテ
ィサイエンスのエッセンスは何である
のかをよくつかんでおく必要がありま
す。RCSは研究センターでありなが
らも、周先生が先ほどおっしゃったよ
うな教材づくりにも貢献していかなけ
ればなりません。
いま私はサステイナビリティサイエ
ンスの宣教師のように、実験的にサス
テイナビリティの講義をしています。
サステイナビリティサイエンスのエッ
23
センスは何であるかということを若い
学生に明確に伝えたいと思っていて、
連続四回の講義を、日本語や英語で行
っています。進化している新分野で、
関係する領域がたくさんあって、エネ
ルギーとサステイナビリティ、気候と
サステイナビリティ、観光業とサステ
イナビリティなど、いろいろなサステ
イナビリティがありますので、話した
いことがたくさんあります。知的好奇
心としていろいろなケースに興味があ
るというだけではなしに、具体的に社
会に貢献するムーブメントをおこして
いくにはいろいろなケースをみていく
ことが大切だと思いますので、いろい
ろな具体的なケースを話そうとしてい
ます。
仲上 去年は英語でやられて、私はほ
ぼ全部出ましたが、夕方の六時から八
時三〇分までの予定で、八時半には終
わらなくて、九時半とか十時になるこ
ともありました。非常に熱心な講義で
す。
生物多様性を守るために
カセム 学問が進化していく構造をセ
ンターのなかにもたせなければいけな
いと思っています。サステイナビリテ
ィサイエンスとは何であるかを問いな
がら、いろいろなケーススタディを取
り上げ、そこからまたフィードバック
して、サステイナビリティサイエンス
を豊かにしていくのです。
研究部門では、私は先ほどもいいま
したように、気候と農業に取り組んで
います。人間が生存するためには食が
必要で、
農業は数多くの人の生業です。
農業は気候変動の影響を受けます。世
界の秩序が荒れないためには自給能力
を高めることが大切です。先端的な緑
化技術を導入することも、伝統的な技
術を見直すことも大切です。
生物の多様性を復元する仕事にも取
り組んでいます。それは昔から行って
いて、あまりにも楽しくやり続けてい
たために、APUの学長にされてしま
ったのではないかという疑いをいまだ
にもっています。
生物多様性が大事だとよくいわれま
すが、われわれが理解している生物の
数はごくわずかです。熱帯雨林には一
〇〇〇万から三〇〇〇万の種があると
いわれていて、一〇〇〇万種だとした
らわれわれが知っているのは一八パー
セント、三〇〇〇万種だとしたら六パ
ーセントにすぎません。すべての種を
知ろうとしたら、いまの科学者の数で
は少なすぎます。三〇〇〇万種と科学
者の数は全然マッチしていなくて、大
学でいくら研究者を養成しても足りま
せん。
「こんなことでは、いつまでたって
も環境資本について最も基本的なこと
さえ知ることができない、先は暗いな
あ」と、ある韓国出身のポスドク相手
24
に話をしていたら、
「先生、一週間くだ
さい」といって、一週間後に、
「先生、
これをやるべきです」と提案してきま
した。それを研究のひとつの基盤にし
ようと考えています。
何かといいますと、世界中の植物の
インベントリ(目録)をつくるための
仕組みづくりです。僕らが死んだ後で
も継続していくような仕組みです。早
い話でいえば、スマートフォンを活用
して、
市民に写真を撮ってもらいます。
市民を科学者に仕立てて、インベント
リ作成を展開していけば、それをつく
るのに必要な科学者の数が飛躍的に増
えるだろうということです。一年前ぐ
らいに始めたところ、すごい勢いでフ
ァンが増えています。基本は、葉の普
通の写真と日に照らした写真です。葉
の大きさ、形、縁の具合と葉脈がわか
れば、九五パーセントくらい類型化し
て分類できます。それでわからないよ
うなものがあったときに、科学者を送
り込めばいいのです。実験的に京大の
演習林で、京大と立命館の共同事業と
して始めています。また、韓国、スリ
ランカ、マレーシアで実験しようとチ
ームをつくりつつあります。
われわれがインターネットに出した
のをみて、アメリカの国土地理院のよ
うなところとか、オーストラリアのチ
ーフサイエンティストとか、いろいろ
なところから声がかかってきています。
研究者だけでなくて、アイスクリーム
屋さんからも社会貢献したいという連
絡がありました。意外と人間の本質に
触れて、感動させるものがあるようで
す。
サステイナブルキャンパスの将来
仲上 立命館は茨木に新たにキャン
パスをつくろうとしていますが、その
新しいキャンパスとともに、既存の衣
笠、びわこ・くさつ、APUのキャン
パスもサステイナビリティの視点を入
れて変えていこうとしています。その
ことについて近本先生から紹介してく
ださい。
近本 立命館では、サステイナブルキ
ャンパスを対象に、地球環境委員会を
二〇一〇年二月に設置しました。委員
長は川口清史総長ですが、委員会を立
ち上げたのは仲上先生です。
地球環境委員会でターゲットとして
いるのは、立命館大学だけではなく、
小学校、中学校、高等学校も含めた立
命館の全学園です。学園全体でサステ
イナブルキャンパスをつくっていくの
が目標です。茨木に新キャンバスをつ
くる計画がありますが、そこは最初か
らサステイナブルキャンパスを目指し
ます。衣笠キャンパスでは、先導研の
プロジェクトで選定された環境配慮型
の体育館が建設中ですし、びわこ・く
さつキャンパスでは、コンソーシアム
をつくって、環境に配慮した箱物を単
25
に建てるだけではなくて、建物そのも
のを実験場とし、そこにいろいろな研
究アイテムを持ち寄って、さらなる環
境配慮を追求する研究を進めようとし
ています。
中学校、高校も、深草から新しく長
岡京に移転する予定で、すでに建設中
です。環境配慮を大きくうたっており
ます。建物の環境性能を評価する建築
環境総合性能評価システム(CASB
EE)
の評価点で四・九という評価で、
学校施設としては高得点を、低コスト
で実現しています。
節電については、それぞれのキャン
パスで節電目標を立て、それに向かっ
て行動計画を実施するとともに、ホー
ムページで、どれだけ電力を使ってい
るかという数値を毎日公表しています。
数値を見える化することで、それを意
識するように誘導して、少しでも節電
に向かって取り組んでもらおうとして
います。
大学は八月が休みになりますので、
世間で電力需要がピークになるときに
はあまり電力を使いません。試験期間
の直前に、学生が熱心に授業に出席し
ますので、例年七月の半ばぐらいが電
力使用のピークです。今年も、梅雨明
けとともに暑くなり、そのタイミング
でピークがくるので、一部のキャンパ
スでは目標達成にかなり苦戦しました。
広報のタイミングと、実績にどうやっ
てつなげていくかというところで苦労
している状況です。
仲上 バンクーバーにあるブリティ
ッシュコロンビア大学とは二〇年以上
の付き合いで、立命館から毎年一〇〇
名の学生を一年間送り出しています。
ブリティッシュコロンビア大学のUB
Cが、サステイナブルキャンパスで世
界で一番レベルが高いと聞いています。
そことの共同研究が進めば今後の展開
が大いに期待できるのではないかと思
います。
地道に着実に
仲上 二〇〇八年の北海道洞爺湖サ
ミットに合わせて札幌でG8大学サミ
ットが開かれ、立命館大学からも川口
総長が参加しました。
『サステナ』第一
〇号の巻頭エッセイで川口総長が、G
8大学サミットの成果を受けて、サス
テイナビリティキャンパスづくりに取
り組んでいくということを書いていま
す。一気に成果は出ませんが、地道に
やってきたいと思っています。
皆さまにこれまでのまとめと、今後
の課題、そして貴重な意見をいただき
ました。サステイナビリティサイエン
スの発展のために、サステイナブルな
社会の実現のために、立命館は今後も
さらに頑張っていきたいと考えていま
す。時間がきましたのでこれで終わり
ます。本日はどうもありがとうござい
ました。
26
ビジネスが成功する条件
タイの浄化槽製造業界が元気がよい
と聞く。バンコク近郊では分譲住宅や
アパートの建築がラッシュで、それら
のトイレ排水には浄化槽の取り付けが
義務化されているからだそうだ。確か
に街を車で走っていても、球形のタイ
製浄化槽を店頭でみかけることが多い。
ただし、我が国の一九八〇年代と同様
に、トイレ以外の家庭雑排水は無処理
放流であるから、都市河川や運河の有
機汚濁は今後より深刻となろう。
このところ、バンコク近郊の浄化槽
メーカーを、いくつか訪問させてもら
った。工場の敷地には、製品がずらっ
と並べられており、
出荷を待っている。
なるほど、活気が感じられ景気はよさ
そうだ(図1)
。ある社長は、テレビ会
議ができるという自慢の自動車を見せ
てくれ、ある部長は、これからミャン
マーにビジネスの交渉に行くという。
タイの浄化槽メーカーの視点は、国内
はもとより、東南アジアの近未来市場
を見据えている。
いくつかタイの工場をまわるうちに、
会社の持つ特徴の違いに気がついた。
それはあたかも、三〇年前の我が国の
状況であったかも知れない。まずは、
浄化槽メーカーには、躯体を製造でき
る設備と技術がなければならない。し
たがって、ポリエチレンなどの樹脂加
工の経験が豊富なメーカーが、その候
補企業にあげられよう。タイにおいて
も、まずはこうしたメーカーが浄化槽
製造に参入し、ビジネスとして成功し
ているようだ。
こうしたメーカーでは、浄化槽は主
たる製品ではなく、むしろ種々の貯留
容器、椅子やテーブル、道路工事用標
識、大型玩具など、様々なプラスティ
ック製品を成型生産している。
これは、
FRPの船舶を製造していたかつての
我が国の浄化槽メーカーを思い出させ
27
サステイナビリティ研究の国際的新展開
特集
タイの浄化槽から考えたこと
なかじま じゅん
中島 淳
立命館大学理工学部教授
(専門は,水環境工学,水処理工学)
る。FRP成型製造の設備と技術を有
したメーカーが、浄化槽の生産に参入
した頃の話である。
タイのプラスティック成型メーカー
は、どちらかというと浄化槽の中身や
水処理技術の知識に弱い。社内に経験
豊富な水処理技術者を有さない会社で
は、技術面には不安があるようだ。
一方で、水質浄化の技術を得意とす
る浄化槽メーカーも活躍している。環
境工学を学んだ技術者を有し、十分な
設計能力も持っていると見受けられた。
海外の経験も学習しているので、水処
理の技術面については信頼度が高いと
図 1 タイの浄化槽メーカーの工場敷地内には,成型されたタン
クがびっしりと並べられている.
いえる。
さらに感心したのは、浄化槽やその
他環境設備の維持管理の重要さを認識
している会社があることだ。工場排水
などの水処理を設計して施工し、さら
に運転管理しているという。その一環
として浄化槽の製造を行っている。し
たがって、浄化槽の技術的な信頼度に
加えて、設置後の維持管理技術につい
ても、一定の水準を有するものと推察
した。設置後の施設を、自社で維持管
理してゆくことまでを含めた総合的な
ビジネスとして捉えて、会社の戦略を
考えているようだった。
以上をまとめると、タイの浄化槽メ
ーカーは、①躯体を製造できる能力、
②構造を設計できる能力、③機能を維
持管理できる能力、といった順に高度
化されているとカテゴライズできるよ
うだ。技術屋としての視点では、①~
③のすべてを有することが、優れてお
り好ましいと思う。すなわち、形とし
28
ての浄化槽だけでなく、技術で保障さ
れた構造を持ち、良好な維持管理によ
って、はじめて十分に清澄な処理水が
管理しやすい構造への改善案などの指
摘が可能になる。これらの指摘が、製
造プロセスにフィードバックされるこ
とにより、サステイナブルな浄化槽シ
ステムが築かれてゆくことを期待して
いる。
原発と浄化槽の関係?
さて、我が国は浄化槽先進国である
(図2)
。
世界中で使われている腐敗槽
(セプティックタンク)と違って、好
気性プロセスの入った処理を有する点
が、我が国の浄化槽の特徴である。か
つては、散布ろ床や平面酸化などのば
っ気をしない好気処理もめざしたが、
あまり成功しなかった。一九八〇年代
以降は、ブロワによるばっ気方式が主
流になる。したがって、電力を必要と
するのだが、家庭用浄化槽の電力消費
量は白熱電灯なみで、決して大きくな
い。機械的なポンプを使わない構造を
29
得られるのである。
①~③を有することによって、現場
からの構造の不備の指摘や、より維持
図 2 我が国は浄化槽先進国である.大震災後の仮設住宅では,きわめて短期間
で,浄化槽による下水処理を可能にした.
開発したことによる優れた成果である。
とはいっても、途上国においては、
分散型下水処理にまだまだ電力を使い
たがらない。浄化槽は電力を必要とす
るから、
とてもとても導入は難しいと、
アジアやアフリカの下水技術者は言う。
アジアでは、韓国、中国とタイでは、
ばっ気型の導入は、ほぼ可能になった
と考えている。マレーシア、ベトナム
がこの次あたりかも知れない。ばっ気
することは、電力も消費するし、した
がって地球環境への負荷が上がること
は間違いない。しかしながら、それに
よる浄化能力の向上は明白で、生活環
境の大幅な改善となることも間違いな
い。そこで、どちらを選択するのかと
いう時期が、いずれの国でも必ず訪れ
よう。
我が国のばっ気型浄化槽の普及の時
期が、原発による電力供給能力の向上
の時期に一致したのは、単なる偶然に
すぎないと思いたい。原発が、ばっ気
型の浄化槽を可能にした訳ではないと
信じてはいる。その一方で、テレビ、
冷蔵庫、エアコンなど家電製品の普及
と同様に、その時期の電力供給の拡大
によって、ばっ気型浄化槽の普及が可
能となったことも事実であろう。かと
いって、家電普及や浄化槽に、原発が
必要などとは、誰も言えまい。タイや
ベトナムあるいはマレーシアあたりで
の今後の原発是非の動向と、ばっ気型
浄化槽の普及との関連は、現代技術史
の興味深いテーマなのかもしれない。
生活排水の再生・
再利用へ
我が国が一九八〇年代に選択したも
う一つの事実は、浄化槽の合併処理化
(し尿と雑排水をあわせて処理)であ
った。現在のタイが直面しているよう
な、生活雑排水による河川水質の汚濁
を改善するために、
自治体や厚生省
(当
時)が、その推進に取り組んだ。汚濁
河川を抱えた自治体では、とくに重点
課題にされた。その選択は決して誤り
ではなかったであろう。
しかし、タイをはじめこれから生活
排水対策を、より具体化しようとする
国々では、必ずしも我が国の一九八〇
年代の選択を最善と考える必要はない。
合併処理浄化槽の普及は、我が国の環
境行政の成功例の一つだが、生活排水
を再生・再利用の観点から見直せば、
合併せずに分別した扱いが有利になる
可能性も否定できない。
それは、我が国と比較して降雨量が
少ない国・地域では、ますます必要に
なる考え方ではないだろうか。家庭で
使用した水は、排水であると同時にま
だまだ水資源なのだ。さらに言えば、
排水に含まれる物質(汚れといわれる
有機物(エネルギー)
、窒素・リンなど
肥料成分ほか)も、貴重な資源なので
ある。
排水の種類によって水量・水質が異
30
なることから、それぞれの国でその実
態をまず調べることが大切である。有
機物濃度が高く水量が少ない排水から
は、有機物の回収・再利用が効果的で
ある。他方、水質濃度は低いが水量が
多い排水では、水の再生・再利用が効
果的である。肥料成分濃度の高いし尿
しながら、降雨量の多い我が国では、
このような再利用は、残念ながらそれ
ほど深刻に認識されていない。したが
って、せっかく導入された再生・再利
用施設であっても、維持管理面などか
らその持続が難しくなっている事例も
多いと聞く。
バンコク近郊の住民アンケート調査
から、雑排水の再生・再利用の許容度
が高いものと判断された。そこで、雑
排水の中でも水量は多いが有機物濃度
が低い洗濯排水と入浴排水を選び、そ
の再生・再利用を検討している。その
実効性から、再生にはタイ製の浄化槽
を用いることとした(図3)
。幸いにし
て、タイの浄化槽会社は好景気なよう
なので、調査にもご協力をいただきな
がら、興味深いデータを収集している
ところである。タイの今後の浄化槽発
展に、何かしらのヒントを貢献できれ
ばよいのだが。
31
は、かつては分別収集・再利用されて
いたし、今日でもその利用について、
いくつかの魅力的な提案が報告されて
いる。
他方、低濃度・多水量の排水は、低
エネルギー消費での処理が可能なので、
再生・再利用の可能性が大きい。しか
図 3 タイ製の浄化槽を使って,家庭雑排水の再生・再利用を検
討している.
サステイナビリティ研究の国際的新展開
特集
複雑で多様な環境をみる目を持とう
小幡範雄
立命館大学政策科学部教授
(専門は,環境システム論)
おばた のりお
環境研究の多様化
環境を対象とした学問や知識は、環
境経済学、環境社会学、環境政治学、
環境工学、生態学、環境倫理学、環境
経営学、応用地理学など、さまざまに
ある。このように専門分化すればする
ほど、人間と環境のある側面だけを見
ることになる。現在、環境に対して総
合的・統合的な見方や視点が欠如し、
人間がどのような形で環境に対応すれ
ばよいかという問いかけが重要な鍵と
なってきている。どのようにすれば環
境全体を感覚的に理解できるようにな
るのでしょうか?
仏教の雑誌には次のように書かれて
いたのを思い出した。日常語に含まれ
ている大切な仏教思想というところで、
「おかげさま」という言葉の説明であ
る。「私たちの生命を保つための食物に
しても、それを生産している人々のこ
とはほとんどわかりません。それらを
運ぶ人々や国のことも知りません。ま
た、私たちを寒暖から身を守る衣類に
しても、自分が働いたお金で買ったの
だと思うかもしれませんが、そこに至
るまでの道のりはわかりません。ほん
とうに目の見えないところで働いてい
る人や限りない物の力や支えによって
生きることが出来るのであると痛感さ
せられます」
(岡本永治(護国寺貫首) :
大法輪、
二〇一〇年一一月号)
とある。
考え方はまさにLCA的な発想であり、
このモノの流れのなかで感謝の気持ち
を持つことが大切であるといっている
ような気がした。
人間(研究者)のタイプには三つが
あると思われる。
一つは、
I型人間で、
一つの分野の専門家である。例えば、
法律を専門とし環境法を研究している
人。経済学者で環境負荷の外部化をど
うすれば内部化できるか研究している
人などなどである。二つ目は、T型人
間で、二つの分野の専門家である。生
32
合的)分野をマルチに理解できる専門
家である。アリストレスやミケランジ
ェルなどの昔の人はこのようなスーパ
ーマルチ型の人間であった。
これらの三つのタイプにはそれぞれ
長短があり、どのタイプが一番良いか
は言えないが、多様な環境の現象を解
明し、理解し、政策立案までしようと
する場合はT型、Π型人間を志向する
ことが望まれる。
環境を分断して見ることの不都合
地球環境問題が深刻化した背景には、
経済と環境の不幸な分離がある。経済
と環境を統合することで、持続可能な
発展の概念・具体的方法論を構築する
ことには異論はないと思われる。しか
し、具体的な統合の方向性となると、
多くの課題があることも事実である。
つまり、生態と経済はともにオイコス
を語源にしており、システム境界内で
は、ともに類似した方法論、概念を用
いているが、経済システムから見れば
その境界外が生態系、生態系から見れ
ばそのシステムの外が経済ということ
になる。経済、生態双方が伝統的なシ
ステム境界に固執する限り、パラダイ
ム転換は起りそうにない。
この不幸な分離を超えるためには、
今までの環境・生態か経済・経営か、
というような二者択一的発想を転換す
る必要がある。その枠組みとして、図
1に示す環境思考Zモデルを提案して
きた。図1において、リンク(a)は、
人間(集団)相互の関係を表し、社会
科学が守備範囲としてきた。リンク
(b)は、環境と環境という自然相互
の関係を表し、自然科学が食物連鎖や
物質循環等に代表される生態系を対象
としてきた。
経済システムと生態システムがその
境界を拡大し統合化を目指すことは、
図1のリンク(c)を明確にすること
33
態系のシステムと経済学の両方が理解
できていてエコロジー経済学を研究す
る人。三つ目は、Π型人間で、複数(総
図 1 環境思考Zモデル.
にほかならない。環境からは当然、資
源・アメニティという有形、無形の恵
みを受ける。また、経済・経営活動を
維持するため、生じた廃棄物、排熱を
環境に放出する。しかし、環境への負
荷が過大になれば、場合によっては災
害、
健康被害というしっぺ返しもくる。
環境が不健全であれば、それの修復・
改善は不可欠になる。リンク(c)の
双方の矢印のバランシングを認識する
ことが、持続可能な発展を具現化する
制度・技術の設計(例えば、環境税、
包装廃棄物法、再資源化技術)
、産業構
造の再編、あるいは環境倫理、経済倫
理の醸成へのインパクトの鍵を握るこ
とになると考えるのである。
環境は、「広義には主体たる人又はも
のの存立する場でかつ主体との間にあ
る種の因果関係又は相互作用関係をも
つすべての場」と定義できる。
例えば、沿岸域は海と陸が接する空
間として〈存在〉するが、沿岸域の環
境水準が良いか悪いか、あるいはどの
ような価値をもっているかという〈状
態〉は評価する主体が沿岸とどのよう
な〈関係〉にあるかによって規定され
るということである。
これまでの環境研究においては、〈状
態〉の解明および〈状態〉の改善とい
う面からは数多くの研究・技術開発が
なされてきた。それに対して、主体と
環境系の〈関係〉に着目した研究は、
相対的に遅れているといえる。現在、
地球的規模の環境問題が世界的な関心
を集めているが、この問題は先進国と
途上国との関係調整なくしては解決で
きない問題である。あるいは価値観の
多様化、個性化のなかで個人や集団が
理想とする環境像、いいかえれば環境
に対する認識、意味づけも多様化して
おり、環境政策に対する社会的合意を
形成することがますます困難になって
いる。これらの問題を解決するために
は、人と環境をめぐるさまざまな〈関
係〉を解明し、
〈関係〉のシステムを調
整するための研究は今後ますます重要
となる。
サステイナブルでない
資源とエネルギー利用
人間は多くの資源とエネルギーを使
用している。地球は有限で閉じられた
空間であるため資源とエネルギーの有
限性も指摘されている。エネルギーの
使用は産業革命以来の伸びは著しいも
のがある。一九五〇年と二〇〇〇年を
資源・エネルギー利用で比較すれば、
人口は二・四倍、電カ生産は二・一倍、
石油消費は七・三倍などと五〇年間で
ものすごい伸びをみせている。
産業革命以降、エネルギーの消費・
使用は増加の一途をたどっている。原
料は石炭・石油・天然ガスという化石
燃料が主たるもので、残りを原子力、
自然エネルギーの水力などで賄ってい
34
地球は有限であるため、インプット
を大きくして、生産や消費に過度に資
源を消費すること自体サステイナブル
でなくなる。それとともに、廃棄物、
排出や有害物質も増加が見込まれるこ
ともサステイナブルではないのである。
私たちはインプットとアウトプットと
いう二重の制約のなかで生きていかな
ければならないのである。
いま廃棄物のほうを考えみよう。廃
棄物の発生量をマイナスに変化させる
ためには、物を消費するなかで廃棄物
の発生を少なくする
(
(廃棄物発生量/
物質消費量)の変化率)か、GDPに
占める物の消費の割合を小さくする
(
(物質消費量/GDP)
の変化率)
か、
GDPそのものを減らす(GDPの変
化率)かをしなければならない。
しかし、
GDPは小さくしたくない。
成長は続けたい。とすれば、結局のと
ころ、廃棄物の発生の少ない物を消費
するか物の消費を減らすしかない。こ
れば簡単なようで結構難しいのである。
今、レジ袋の辞退と、地産地消で露
地でできたトマトを買うことでの
発生の二つを考えてみよう。
トマトの生産はハウス栽培と露地栽
培とある。ハウス栽培は温室やビニー
ルハウスを作り、重油で暖かくしなけ
ればならない。一方、露地栽培はこの
ような施設やエネルギーは不要である。
一キログラムのトマトを作るのに、ハ
ウス栽培の場合は一万一九四九キロカ
ロリー、露地栽培の場合は一一七六キ
ロカロリーと、一〇倍ほどのエネルギ
ーがハウス栽培のほうは必要になる。
この条件で、一人年間あたりのトマ
ト消費量八・九キログラムをすべてハ
ウス栽培で作ったとすれば、
35
る。図2に示すように、私たちの生活
は資源・エネルギーを取り込み、排出
物・廃棄物を出すことで成り立ってい
る。
図 2 インプット・アウトプットモデル.
CO2
CO2
となり、なんと年間に一三八万キロリ
ットルの重油が使用されることになる。
トマトの半数が露地栽培で作られたと
すれば、七〇万キロリットル弱の重油
が必要である。
トマトの栽培でこれだけの違いがで
てくる。他に、きゅうり、なす、みか
んなどのことを考えれば非常に多くの
エネルギーを費やすことになる。
次に、
レジ袋の辞退を考えてみよう。
日本の一年間分のレジ袋に対して、
資源採取・樹脂製造に五六・八ギガジ
ュール、レジ袋製造に六・三ギガジュ
ール、分別回収に〇・一八ギガジュー
ル、焼却処理(電力回収)に一一・三
ギガジュール(この部分は全体を合計
するに際してはマイナスになる)
、
焼却
灰埋立に〇・一三ギガジュールが必要
になり、全体で五二・一ギガジュール
つまり四二万キロリットルの重油が必
要になる。これは、レジ袋すべてを皆
が辞退したという条件であり、日本の
最終エネルギー約四億キロリットルの
約〇・一%になる。もし、レジ袋辞退
率が二〇%(二〇〇七年三月現在では
一四%)なら、〇・〇二%の削減にな
る。
この二つの試算を比較すれば、どち
らの選択が良いのかがわかる。ここで
一言いっておきたいことがある。それ
は、レジ袋の辞退をするなと言ってい
るのではない。よく物事を見極めて選
択してほしいということである。見え
る化をしっかりとやる必要があるとい
うことである。
現在、さまざまな見える化の方法が
開発されている。全体をバランスよく
かつ分かり易く見ることが大切である。
その一つにエントロピーの概念がある。
エントロピーとは秩序を表すものであ
り、
秩序があればエントロピーは低く、
無秩序になればエントロピーは高くな
るというエントロピー増大の法則があ
る。これは、エントロピーの低い状態
では多くの仕事ができる能力があるが、
そのまま放っておけば、エントロピー
は高くなり、エネルギーは仕事をする
能力が低くなりいずれなくなるという
法則であるともいえる。ものづくりを
例にすれば、きれいな水や石油や材料
などエントロピーの低いものを使用し
て、排熱、排水やゴミなどエントロピ
ーの高いものを出しているということ
になる。
あるものを生産し廃棄するには、化
石エネルギーなどの低熱エントロピー
資源と淡水などの低物質エントロピー
資源、つまりこれら低エントロピー資
源の投入があってはじめて可能となる。
さらに重要なことは汚水、廃物などさ
まざまな環境負荷を与える高エントロ
ピーな副産物が発生することである。
このようにエントロピー概念によって
生産と廃棄を一体化して見ることが大
切になるのである。
36
『
日本書紀』
から始まる別府の竹
立命館アジア太平洋大学と竹
立命館アジア太平洋大学(APU)
は学校法人立命館が二〇〇〇年四月に
設立した日本初の本格的な国際大学で
す。APUが立地している大分県の別
府市では、別府温泉が全国的知られて
いますが、もう一つの名物は別府竹細
工です。主に使用されるのはマダケで
あり、大分県はマダケの竹林面積や素
材(竹材生産量)とも全国一位で、そ
のシェアが約四〇%を占めています。
私は二〇一〇年四月APUに来て、
竹は、昔より建材、農具、工芸品、
食材や飼料として幅広く利用され、
人々の生活に欠かせない有益な存在で
した。別府における「竹」と人間の関
わりは最初に生活用品から始まり、次
に工芸品に変化をしたと考えられてい
ます。別府と竹の歴史は古く、奈良時
代の七二〇年に完成した『日本書紀』
ェクトのなかに取り入れられた竹林総
合利活用プロジェクトがありました。
プロジェクトの対象地域である湖州市
安吉県は中国の十大竹郷の一つであり、
すでに大規模な竹産業が形成されてい
ます。当時の研究は、竹林の炭素固定
効果の調査をして、クリーン開発メカ
ニズム(CDM)認定の可能性を検討
することに集中されましたが、この地
のさまざまな竹製品の魅力に惹かれま
した。
「 think globally, act locally
」にしたが
って、地域に密着した環境関連の研究
をしようと考え、竹に着目し、特に竹
の利用について調べ始めました。それ
と、もう一つのきっかけとして、立命
館サステイナビリティ学研究センター
が浙江大学および湖州市と連携して二
〇〇八年から実施を始めていた調和社
会構築の戦略的イノベーションプロジ
37
サステイナビリティ研究の国際的新展開
特集
サステイナビリティと竹
銭 学鵬
立命館アジア太平洋大学アジア太平洋学部助教
(専門は,土木環境システム)
Qian Xuepeng
図1 別府竹細工(別府市竹細工伝
統産業会館のウエブサイトから).
によると、時の景行天皇が九州行幸の
帰途に別府に立ち寄った際、良い竹が
この地域に存在したといいます。景行
天皇の命により、食事のときに使用す
る籠である「メゴ」が作られました。
別府においては、
「室町時代」から本
格的に竹が工芸品などの産業として成
り立ちました。そして、江戸時代にな
り別府における「温泉」が有名になっ
て観光名所として発展することで観光
客の増加が竹産業のさらなる発展に貢
献しました。温泉観光で滞在している
人々のその場の生活で利用されただけ
でなく、
「お土産」という観点からも竹
産業は発展しました。
このような江戸時代における別府の
観光客の需要に応じた竹は、明治時代
に入り生活用品やお土産品だけでなく、
「工芸品」として高い技術が要求され
る域まで達しました(図1)
。一九八二
(明治三五)年には、その高度な技術
を発展させ、
後継者を育成するために、
別府と浜脇の町が共同で学校(現在の
大分県立大分工業高校)
を作りました。
昭和に入り、訓練所の整備(現在の大
分県竹工芸・訓練センター)も行われ
ました。戦時中においては、
「竹槍」な
どの軍需品として使用され、工芸品な
どは規制されるようになっていました。
新たな素材が誕生する一方で、別府
の竹産業は、一九三七年に竹組工輸出
組合を設立するなどして発展の道を探
り、一九五〇年には「バンブーハット」
の生産も行われました。しかし、昭和
中盤における「プラスチック」という
素材の台頭により竹産業は打撃を受け、
さらに追い打ちを掛けるように、一九
七一年の「ドルショック」が竹産業に
大きな打撃となりました。
持続可能な資源としての竹の利用
最近では持続可能な資源としての
「竹」のポテンシャリティに注目が集
38
まっており、竹の新しい利用法が続々
開発されています。
竹炭は、燃料以外に、土壌改良剤、
調湿、脱臭、入浴、水浄化などの新用
途が提案されています。
敷材など農業にとって非常に良い資材
です。
竹繊維は、竹を溶かして成分のセル
ロースを取り出し、レーヨン系として
加工されています。現在中国では、竹
繊維のタオルや、カーテン、衣服の市
場が大きく伸びています。
竹パルプは、繊維の長さが針葉樹と
広葉樹の中間であるというパルプ特性
を有し、湿気に強く、吸油性に優れて
います。鹿児島の中越パルプ工業川内
工場が一九九八年から地元産竹入り紙
の生産に取り組んでいます。
建築材料としての竹は、加工技術の
進歩により、
インテリアから、
集成材、
繊維板、セメント板などとして腰板、
フローリング、天井材として利用され
ています。最近、高強度の竹建材もで
きて、
柱材としても使えるようになり、
中国湖州市安吉県にある竹ハウスはす
べて竹建材でできています(図2)
。今
後木材の代替として、建築や家具など
39
竹酢液は、製炭の際の副産物として
得られる多種類の成分の混合物で、殺
虫、殺菌作用などの生物活性を有して
いると認識されています。
竹パウダーは、堆肥や飼料、畜舎の
図2 中国湖州市安吉県にある竹ハウス(筆者撮影).
への大量使用が期待できます。
竹利用について最も注目されている
のはバイオエタノールの利用です。す
でに大規模な実験プラントが京都府宮
津市と熊本県水俣市に作られました。
静岡大学中崎清彦教授の研究チームが
竹を超微細粉末にする技術を用いて竹
の糖化効率を従来の二%から七五%へ
飛躍的に向上させ、一キログラムの竹
から一一〇ミリリットルのバイオエタ
ノールが生産できたことが報道されま
した。中崎教授は、里山の生態系を壊
さずに採取可能な竹年間三三〇万トン
を原料とした場合、年間二二万キロリ
ットルのバイオエタノールを作ること
が可能であると試算しています。
竹の諸用途以外に、竹林の環境効果
も注目されています。竹の大気中二酸
化炭素の固定能力は植林される木本性
植物に比べて高いことが知られており、
管理方法によっては温暖化の低減の一
翼を担うことができるとされています。
図 3 中国浙江農林大学の CO2フラックス観測タ
ワー(筆者撮影).
中国浙江農林大学の研究チームが竹林
の炭素固定効果を定量的に測定し、管
理された竹林の炭素固定能力は放置竹
林の一・五倍であるとの結果を発表し
ました(図3)
。
ジレンマを解消するには
日本では、最近では、既存竹産業が
海外から輸入する素材に大きく依存し、
同時に代替品の進出によって、国内産
の竹の用途が著しく縮小し、一次生産
を含む竹産業が衰退しています。それ
により、有効に利用されていない竹林
が増えています。この放置された竹林
から、農地や里山へ竹が侵入するのが
顕著に見られるようになりました。こ
の現象は西日本ではよく見られる光景
となっており、段丘や丘陵地帯で特に
顕著です。竹林の侵入は放置された里
山だけではなく、スギやヒノキなどの
人工林でも見られ、木材生産を目的と
40
した森にも深刻な影響を与えつつある
と指摘されています。さらに、竹林が
侵入してその土地を優占するようにな
ると、生物多様性も減少します。まさ
に「竹公害」と呼ばれる状況を生み出
しています。
竹林の大量放置と竹原材料の大量輸
入によって、環境にやさしい素材であ
るはずの竹が環境に悪影響を与えてい
るのは、一つのジレンマといえます。
日本の竹産業の主ないくつかの問題と
して、海外竹原材料と製品の低価格の
影響、新用途の低認知度による需要の
弱さ、高齢化社会における後継者不足
が挙げられます。竹林の管理・伐採を
含む一次処理は低収益と労働集約型産
業であり、高い労働コストがこのジレ
ンマの直接の理由であると考えられま
す。そのために、ベトナム産の竹フロ
ーリングのコストは日本産のものの五
分の一しかありません。竹繊維の衣服
の認知度および購買行動について、ア
ンケートの結果によると、竹繊維を知
っている方が一割のみでした。ただ、
竹繊維の機能性と環境性を説明すると、
七割の方が購入する意向を示しました。
また、竹産業もほかの農業部門と同じ
く、深刻な高齢化と後継者不足問題に
直面しています。
それを解決しないと、
一部の地域の竹産業がなくなる恐れが
あります。
このジレンマを解消するには、竹を
原材料とした製品の大量生産が必要で
す。ただ、大量生産が必要とする竹の
絶対量が足りない、あるいは安定供給
ができていないと指摘されています。
また、既存の竹加工工程の効率を改善
できるところもたくさんあります。例
えば、現在竹フローリングの生産に有
効に使われる竹の量は原材料竹稈のわ
ずか三〇%であり、残りの竹粉などが
廃材とされています。今後、竹バイオ
エタノール生産の導入によって、竹林
の整備管理から、保管、物流、生産、
廃棄処理まで、竹生産ライフサイクル
に基づいた生産システムを整理構築す
べきではないかと考えられます。
二〇一二年六月にリオデジャネイロ
で開催された地球サミットで、
World
を
Business and Development Award
授与された、ガーナバンブーバイク•
イニシアティブは、ガーナに豊富な竹
を活用して、自転車のフレームを作っ
てバンブーバイクを市場に出し、関連
製品やサービスの提供もしています。
同様に、ザンビアのソーシャルベンチ
ャーであるZAMBIKEも竹製自転
車の生産およびグローバルの販売ネッ
トワークに成功したそうです。ユニー
クなデザイン、高付加価値の製品の開
発は中小竹企業がグローバル競争で勝
ち抜くためのカギですが、需要創出で
きるイノベイティブなビジネスモデル
も欠かせないと考えられます。
41
サステイナビリティ研究の国際的新展開
特集
サステナ教育? の奮闘
橋本征二
立命館大学理工学部教授
(専門は,環境システム工学,資源・廃棄物管理)
はしもと せいじ
大学に赴任して間もなく二年目が終
わろうとしている。学生相手は楽しい
が、教育のプロではない、すなわち、
教育に関するトレーニングを受けてい
るわけではない素人の筆者が、その教
育を担当しているということに違和感
も感じつつ、試行錯誤が続いている。
もっとも、大学は学びたい者が学ぶ
ところなのか、入学した学生をムリヤ
リにでも教育するところなのか。これ
は今日的な、根源的な問いである。筆
者は、学習したい者が好きなことを学
習すればいい、という前者のスタンス
でいたいと思うが(例えば、出席など
取らずともよいと思うが)
、
学生の期待
は後者かも知れないし、社会的にも大
学の役割は変わってきているようであ
る。前者であれば教育の技術は必要な
いかも知れないが、後者であれば効率
的に知識を伝達する技術や学生の潜在
能力を高める技術をきちんと習得する
ことも必要となるだろう。
この問題は、就職あるいはカリキュ
ラムという問題とも関連する。筆者の
所属する環境システム工学科は、いわ
ゆる「持続可能な開発のための教育」
(
「サステナ教育」?とでも言おうか)
の一翼を担うような教育を行うコース
であるが、この二年間の学生たちの就
職活動や実際の就職先を見ると、この
分野の人材の需要と供給には大きなギ
ャップがある。自身を振り返って、筆
者が衛生工学科という学科で学んだ時
代を思い起こしてもそうであるが、学
生たちの話を聞いていると、自分の専
門分野の説明に苦戦しているようであ
る。例えば、水の処理に関しては物理・
化学だけでなく生物の知識が必要とな
る。また、環境問題の解決には経済学
の素養も必要であるとして、当学科の
学生は経済学についても学ぶ。結果と
して「広く浅く」の学習となり、専門
性が主張しにくい。また、
「土木」や「建
築」などと違って、
「環境」や「サステ
42
ナビリティー」は専門分野としての大
きな労働市場がなく、大学で学んだこ
とが直接的には活かされない業界に就
職する学生が多い。もっとも、物事は
見方によって変わるのが世の常である。
環境問題の解決に向けては、社会の
様々な主体がそれぞれの立場で取り組
みを進めていかねばならないという視
点に立てば、そのような教育を受けた
学生が様々な業界に就職していくこと
は、
むしろ評価されるべきことである。
ただ、仕事と教育を直接結びつけるの
であれば、当学科で何を教えるべきか
(広く言えば、サステナ教育で何を教
えるべきか)
、
つまりカリキュラムの内
容について、継続的に考え議論してい
かなければならない。筆者の頭は、ま
だその一歩を踏み出したところにある。
一方で、
教育とはそもそも何なのか。
専門的な知識を習得することももちろ
ん重要なのだが、必要となる知識や技
術は時代や役割とともに変化するもの
である。とすれば、重要なのは、その
時々で必要となる知識を習得するため
の幅広い素養であり、それを習得しよ
うとする意欲や能力である。また、長
い人生においては様々な問題に直面す
ることになるだろうが、それを乗り越
えられると思えるような経験を持って
いることが重要であると思う。実は、
大学に赴任して一年目の一〇月、研究
室配属の募集にあたって、そのような
思いをベースに置きながら研究室の運
営方針を作り、これを研究室の案内に
掲載した(現在はウェブサイトでも公
開している)
。これは、研究室での活動
を通じて磨きたい「三つの力」と、そ
のための環境作りとしての「六つの運
営方針」から成る(図1)
。
高めたい「三つの力」としては、
「①
自ら問題を見つけ、対応を考え、改善
の方向を導く能動力」「②様々な事柄の
相互関係を考慮できるシステム思考
力」「③コミュニケーション力と国際感
覚」
を掲げた。
①の自ら考え動く力は、
今最も求められている能力と言えるだ
ろう。課題を見つけ、解決策を見いだ
し、それを実行する。この一連の力は
生きる力であり、得られる達成感は生
きる喜びでもある。②は、論理的な思
考力のことであり、全体像を把握する
ことで今まで見えなかったものを見通
せるような力のことである。様々な事
柄が複雑に絡み合う環境問題は、この
ような能力を磨くには格好の材料と言
える。
③のコミュニケーション力には、
文章力、プレゼンテーション力、対話
力、英語力などが含まれる。また、国
際化する時代においては、単なる言葉
の理解力だけでなく、異なる価値観の
受容力も大切である。
本エッセイを執筆するにあたり、「持
続可能な開発のための教育」について
少し調べた。これも壮大な教育である
と思うが、そもそも何を目標としてい
るのか。例えば、政府が策定した「我
43
が国における「国連持続可
能な開発のための教育の
年」実施計画」における
「育みたい力」を見てみる
と、「問題や現象の背景の理
解、多面的かつ総合的なも
のの見方を重視した体系的
な思考力」「批判力を重視し
た代替案の思考力」「データ
や情報を分析する能力」「コ
ミュニケーション能力」「リ
ーダーシップ」「人間の尊重、
多様性の尊重、非排他性、
機会均等、環境の尊重とい
った持続可能な開発に関す
る価値観」「市民として参加
する態度や技能」などが挙
げられている。結果論なが
ら、
研究室で掲げている
「三
つの力」はこれらと整合し
ているようである。
実のところ、これらの力
図 1 研究室で掲げた「3 つの力と 6 つの運営方針」.
10
は環境問題の解決やサステナビリティ
ーの実現に必要というだけでなく、企
業の採用担当者が求める一般的・普遍
的な力でもある。
日常の講義や実習も、
そのような力を高めることを背後に置
きながら行うべきものであり、極論す
れば、学習している知識や技術はその
力を高めるための材料と言ってもいい
だろう。このような考えのもと、
「三つ
の力」を磨く環境作りとして「六つの
運営方針」を掲げた。折角与えられた
機会なので、これについても紹介して
読者のご意見を仰ぎたい。
まず、「研究室の運営をできるだけ学
生主体で行う」ことである。ゼミの準
備や司会者・報告者の調整、合同ゼミ
の準備や各種イベントの開催、学生研
究室の物品管理や環境改善など、学生
主体で行い、大学院生や教員がこれを
サポートする。これにより、①能動力
や③コミュニケーション力を磨く。
次に、
「早く卒業研究・修士論文に着
44
手し、試行錯誤する時間をつくる」
。最
初の方針と同じく、研究も自主性に基
づいて行う。
悩む時間をたくさん作り、
教員はできるだけ疑問を投げかけ、学
生は自らそれに答えるように努力する。
これにより、①能動力や②システム思
考力を高める。
三つ目には
「
「事件は会議室で起きて
るんじゃない。
現場で起きてるんだ!」
を旨とする」を掲げているが、この方
針は学生の印象にも残るようだ。研究
を進める上では、現場に足を運んで観
察し、あるいは様々な人と対話するよ
うに仕向けている。良いものは、机上
の空論と現場の制約が行ったり来たり
してできあがるからである。
これには、
「三つの力」全てが関連する。
四つ目の「システム思考に基づいて
政策・企画の立案と評価に貢献する研
究を行う」は、
「システム」をその名に
掲げる環境システム工学科として重要
な方針と考えている。表面的な現象だ
けでなく、その背後にある様々な事象
を考慮して、
「システム思考」で政策の
立案や評価に貢献する研究を行ってい
く。これには、①能動力や②システム
思考力が関連する。
五つ目は「年に数回、他大学との合
同ゼミを開催し、卒業・修了までに学
会発表する」である。合同ゼミや学会
では、普段とは全く違った視点で意見
をもらうことができ、また、普段接し
ていない人にも分かりやすいプレゼン
テーションが求められる。これは、と
ても新鮮な「目から鱗」体験であり、
③コミュニケーション力の向上に役立
つ。
最後に、
「留学生・外国人研究者を積
極的に受け入れ、
研究室を国際化する」
である。国際化する世界に合わせて、
研究室もできるかぎり国際化し、異な
る価値観・意見と交流する機会を作る
ことを意図したものである。これによ
り③コミュニケーション力を高める。
以上、
「六つの運営方針」を掲げたは
いいものの、未だ十分に実現していな
いものが多い。それぞれの方針を具現
化するための仕組みについても、日々
改善点に気づいているような状況であ
る。運営方針自体も、この間に微妙に
変化してきている。新任の教員として
は、まだまだ考えの及ばないところが
多くあり、このような試行錯誤を繰り
返しているところであるが、今後も皆
さまのご指導を仰ぎながら、サステナ
教育、ひいては教育全般について奮闘
を続けたいと思う。
45
夢の島
夢の島と云っても、ある年代以上の人でな
いと、たぶん話が通じない。確かに現在の夢
の島は、広大な緑地とスポーツ施設や植物園
などがある都内でも有数の公園となっている
が、今から四〇年ほど前は、東京のゴミ処分
場として都内二三区から出るゴミを投棄した
ところである。そのゴミの量は一日九千トン
ほどになり、すべてここに捨てられた。
もともとは、一九四〇年頃に飛行場を作る
ため、東京湾岸の水深数メートルのところを
埋め立てたのが始まりで、しかし戦争中の物
資不足から中止されそのまま残された。とこ
ろが一九五〇年代になって、都内から出るゴ
ミの量が増大し、都はここを処分場として使
いはじめた。その頃のゴミは、生ゴミ・瓦礫
などあらゆるものの混合ゴミで、これを投棄
していた。それまでは、この島に遊園地やマ
リーン・ランドなどを造る計画もあったよう
で、自然に夢の島という呼び名が定着してい
たらしい。戦災で工場が焼失したため水質も
よく、一九五〇年頃まではここで海水浴をし
たという人もいる。ところがゴミの投棄が始
まって一〇年ほど経ってから、対岸の江東区
南砂町あたりは、夏になると南風にのった悪
臭や蠅の大群に襲われるようになる。これが
もとで各区にはゴミ焼却工場が作られるよう
になり、その後は焼却灰や不燃の瓦礫などの
搬入が続いた。もちろん各区の焼却工場がす
ぐに完成したわけではないから、混合ゴミの
投棄は一九六七年まで続いた。その間、悪臭
の防止と蠅の発生を抑えるため、ゴミの上に
覆土をかけ、さらにその上にゴミを投棄して
土をかけるサンドイッチ方式がとられた。そ
の後も同じ方法で新夢の島が作られ、さらに
は中央防波堤の内側埋立地などが造成され、
現在でも四代目・五代目の夢の島が作られて
いる。
東京湾は品川沖から江東沖に至るまで、
新しい土地が生まれていることになる。
実は、
山田利明
やまだ としあき
東洋大学教授
(専門は中国哲学)
46
夢の島の標高は三〇メートルあるという。こ
れは上野の山よりも高いそうである。その地
下にはかなりの量のプラスチック類があるは
ずで、遠い未来に炭化した塊が出るかもしれ
ない。
さて、東京都は窮余の一策としてゴミによ
る埋め立てを考えたのであろうが、それが土
地の造成になるとなると、また別の意味をも
つことになる。もっとも夢の島もその後の新
夢の島も、人が住むには至っていない。何し
ろ地中がゴミであるから、安全性や地盤の強
度となると心もとない。
しかし新夢の島では、
埋めた生ゴミから湧出するメタンガスを用い
て発電しているという。こうなると土地はで
きるエネルギーも得られる、もちろんゴミを
処理することもできる、という一石三鳥の役
割をはたすわけである。そのゴミの処理も、
高エネルギーによる焼却ではないから、きわ
めて低エネルギーの運搬にかかわるものだけ
ですむ。二酸化炭素の排出も抑制される。と
書くと何もかも良いことづくめのようになる
が、実際には問題点も少なくない。地下水を
含めた水質の保全、生態系の保全、衛生上の
問題など解決しなければならない。そして出
来上がった土地をどのように使うのかという
問題もある。
つい二、三年ほど前に問題となった香川県
豊島 て(しま。)瀬戸内海の風光明媚な島の一つ
であるが、産業廃棄物の不法投棄によって大
変な被害を受けた。ゴミの投棄は一歩誤ると
環境の破壊をもたらす。環境問題は、メリッ
トとデメリットのバランスシートだけでは判
断できない。それでも土地が出来てエネルギ
ーが得られて、
というのはちょっと捨て難い。
技術的にはある程度克服できるのであろうが、
例えばそこを緑地化して百年ほど放置してお
くなどの方法もあろう。
ゴミを宝の山と見る人達は昔からいた。こ
れを高エネルギーを使って処理するのはやは
りもったいない。ゴミを資源と考えたとき、
さてどのような使いみちがあるのか。年末に
なると決まって出されるゴミの山を見て、初
夢のような宝の山を思い描いただけのこと。
連載
エッセイ
47
大地の裂け目I
で辿りますが、雲の中で吹きつける霧はコー
トにあたって雨滴になりまったく視界がきか
ず、歌碑を辿ることがかなわず、
「おそらく、
真壁仁さんの書を読んで感動したからであろ
う。それが実相観入の道ででもあるかのよう
に、その夜ぼくは夢に霧吹きつけて雨滴とな
るあの雲の中を、木柵をよすがになお辿りつ
づけようとしていた」と綴っています(森敦
の随筆「雲中の道」
(藤原新也編『日本の名随
道』作品社)
)
。
筆
森敦の代表作『月山』は、月山のふところ
にある雪深い集落の七五三掛 (しめかけ)の注
連寺 (ちゅうれんじ)で冬籠りし、和紙の蚊帳で
繭の中の蚕のように寝起きし、「カイコは天の
虫いうての。繭の中で天の夢を見とるという
もんだ」といった幽界とその閉じ込められた
道 (みち)
――人と自然の共界
斎藤茂吉の生家は、東に蔵王連峰を仰ぐ、
山形県上山市の金瓶 (かなかめ)の地で、その
生家の近くに斎藤茂吉記念館があります。
森敦がこの記念館を訪れて、
あかあかと一本の道通りたり
霊剋 (たまきは)るわが命なりけり
の茂吉の歌の軸を見て、深い感動を覚えずに
はいられなかったと書いています。若き日に
友に教えられたのが思い出されてきたからで、
「茂吉はひたすらこの道をわが道として、悟
りともいうべき実相観入の境地に至ったので
ある」と綴っています。
森敦は、さらに蔵王連峰の熊野岳の茂吉の
歌碑を訪れるべく、途中の外輪山の刈田岳ま
90
大崎 満
おおさき みつる
北海道大学大学院教授
(専門は根圏環境制御学・植物栄養学)
48
和であるというのであり、感情移入によって
果される「写生」の究極は、
「生」の象徴とな
る、と纏めています(
『斎藤茂吉のヴァン・ゴ
ッホ――歌人と西欧絵画との邂逅』講談社)
。
つまり、茂吉にとって、
「写生」とは、
「生 (し
うつし」で「いのちをうつす」意味です。
ょう)
芥川竜之介もまた、おそらく『赤光』を通
して、「あらゆる文芸上の形式美に対する眼を
あける手伝ひもして」
(
「僻見」
「芥川龍之介全
集第 巻」岩波書店)もらい、さらに、ゴッ
ホの絵画を通して、頓悟にも似た芸術的体験
をし、ゴッホの眼をもって風景を把えること
ができ、それは芥川にとって、新しい美(特
に、絵画的美)の発見であったと、片野達郎
は指摘します。芥川は「僻見」で、
「ゴツホの
太陽は幾たびか日本の画家のカンヴアスを照
らした。しかし「一本道」の連作ほど、沈痛
なる風景を照らしたことは必しも度たびはな
かつたであらう」と、
「道」の絵に強い関心を
示しています。
芥川は茂吉とゴッホを導きとして「実相観
49
土俗世界との交差を見事に描いています。こ
の森敦の随筆も、茂吉の歌碑がまた『月山』
の繭のような幽界に誘 (いざな)わせるような
象徴として現れ、幻想的世界をみごとに描い
たといえます。しかも、ほとんど水墨画的色
彩の随筆に、茂吉の「あかあかと一本の道と
ほりたり」と鮮やかな色彩を添えます。森敦
もまた、自然の繭の抽象の中に隠棲していた
のでした。
斎藤茂吉は第一歌集『赤光』および第二歌
集『あらたま』で、フランス印象派絵画、特
にゴッホから少なからぬ影響を受け、ゴッホ
最晩年の絵画に、
「実相観入」を見いだしてい
きます。
茂吉の「実相観入」とは、
「実相に観入して
自然・自己一元の生を写し」です。片野達郎
は、茂吉のとなえた「写生説」を整理し、す
なわち、
「写生」とは「実相観入」
(対象とひ
とつになりきること)によって「生」を写す
ことであるが、この「写生」は、手段・方法
ではなく、主観や客観をも包括した全体、総
11
入」の世界を探っていきますが、遺書ともい
ってよい『或阿呆の一生』
(岩波文庫)へと力
尽きていきます。
彼は突然、―― それは実際突然だった。
彼は或本屋の店先に立ち、ゴオグの画集を
見ているうちに突然画というものを了解し
た。勿論そのゴオグの画集は写真版だった
のに違いなかった。が、彼は写真版の中に
も鮮かに浮かび上る自然を感じた。/この
画に対する情熱は彼の視野を新たにした。
彼はいつか木の枝のうねりや女の頬の膨ら
みに絶え間ない注意を配り出した。/或雨
を持った秋の日の暮、彼は或郊外のガアド
の下を通りかかった。ガアドの向うの土手
の下には荷馬車が一台止まっていた。彼は
そこを通りながら、誰か前にこの道を通っ
たもののあるのを感じ出した。誰か?――
それは彼自身に今更問いかける必要もなか
った。/二十三歳の彼の心の中には耳を切
った和欄 (おらんだ)人が一人、長いパイプ
を啣 (くわ)えたまま、この憂鬱な風景画の
上へじっと鋭い目を注いでいた。……
芥川は俳句を余技としていて秀作も多いの
ですが、
「実相観入」という茂吉の視点から読
むとまとまりすぎていて、その表面をなぞっ
ているようなもどかしさを感じさせます。芥
川は茂吉とゴッホの深淵を覗いて、自分には
そこまで下りていくことがとうていできない
と、自己の限界としてはっきり自覚していた
のではないでしょうか。遠くから眺めている
傍観者的な自分がみえていた、句集からその
ような気がふとします。
小林秀雄は、上野の展覧会で、ゴッホの画
の前で、愕然とした、とうとうその絵の前に
しゃがみ込んでしまった書きとめています
(
『ゴッホの手紙』角川文庫)
。それは、ゴッ
ホが自殺する直前に描いた有名な複製画でし
た。
熟れきった麦は、金か硫黄の線条のように
地面いっぱいに突き刺さり、それが傷口の
50
ように稲妻形に裂けて、青磁色の草の緑に
縁どられた小道の泥が、イングリッシュ・
レッドというのかしらん、牛肉色に剝き出
ている。空は紺青だが、嵐を孕んで、落ち
たら最後助からぬ強風に高鳴る海原のよう
だ。全管絃楽が鳴るかと思えば、突然、休
止符が来て、鳥の群れが音もなく舞ってお
り、旧約聖書の登場人物めいた影が、今、
麦の穂の向こうに消えた――僕が一枚の絵
を鑑賞していたということは、あまり確か
でない。むしろ、僕は、ある一つの巨(おお)
きな眼に見据えられ、動けずにいたように
思われる。
この「巨きな眼」
(思想)は、
「彼(ゴッホ)
には自然とは不安定な色彩の運動ではなく、
根源的な不思議な力で語りかける確固たる性
格なのであり、人間も、この力との直接的な
不断の交渉によってのみ、本当の性格を得る
と彼は信じてきた」といったもので、小林秀
雄が感じ取ったものも、茂吉の「実相観入」
に他なりません。たたみかけるよう次のよう
に述べていることからも、それは伺えます。
彼(ゴッホ)のナチュラリスムとは、自然
との不断の格闘のことであり、この格闘に
より、自然は人間の刻印を受け、人間は自
然の刻印を受ける。この一全体を、饒舌と
作為とによって解体しようとする現代に抗
して彼は「人間性(ユマニテ)
」と呼ぶので
ある。彼を駆り立てる彼に親しい魔神もそ
こにいた。
自然という言葉は現在でもなお混乱して使
われていて、それが、芸術・文化の理解に、
さらには環境に対する思想にもおよんでいて、
一種の鬼門となっています。自然という言葉
(ネーチャー)の訳語としての本
は Nature
来人を含まないヨーロッパの〈自然〉
(神‐人
‐自然の三分類としての〈自然〉
)と、日本語
伝来の「神韻」や「粋」
、
「精神」
、
「想」とい
うことばとともに使うことができ、そのよう
な意味を内に含むことができ、つまり人や人
の魂を含むことができる「自然」に明確に分
51
かれます(柳父章『翻訳の思想 「自然」と
』ちくま学芸文庫を参照されたし)
。
NATURE
したがって、先の小林秀雄の文章は「ゴッホ
の自然性(主義)とは、ネーチャーとの不断
の格闘のことであり、この格闘により、ネー
チャーは人間の刻印を受け、人間はネーチャ
ーの刻印を受ける」
と書かれるべきものです。
また、ゴッホの「人間性(ユマニテ)
」とは、
ネーチャーと人の融合した、
日本語伝来の
「自
然」と同義語になります。
そう理解すると、ゴッホは、強固に人とネ
ーチャーを分離するヨーロッパの精神構造の
基盤にぶちあたり、その岩盤に玉砕したとも
いえます。それは、日本語伝来の「自然」か
ら見ると、むしろヨーロッパ文明の病理との
壮絶な戦いであったともいえます。
さて、小林秀雄の感じた、
「巨きな眼」は、
「ゴッホは、写生しているときにみまわれる
「恐ろしいような透視力」について語ってい
ますが、語られているのは、肉眼というより
もむしろ心眼でありましょう。(中略)サン・
レミイの病院で書いた手紙の中に、こんな言
葉があります。
「君は、あるオランダの詩人が
言った言葉を知っているか、『私は地上の絆以
上のもので、
この大地に結びつけられている』
。
これが、苦しみながら、特に、いわゆる精神
病を患いながら、私が経験したことである」
です。
ゴッホが会得した「自然」は、ヨーロッパ
では形而下であるがゆえに、見向きもされな
かった大地(性)の思想(思索)にまでおよ
んでいました。そうすると、ゴッホの「道 (み
」はまるで、
「大地の裂け目」のような気
ち)
がしてきます。
ゴッホはジャポニスムの影響を強く受けた
画家で、特に、日本の浮世絵に傾倒しました
(J・V・ゴッホ‐ホンゲル編『ゴッホの手
(岩波文庫)
)
。
紙 テオドル宛 中』
日本の芸術を研究してみると、あきらかに
賢者であり哲学者であり知者である人物に
出会う。彼は歳月をどう過ごしているのだ
52
ろう。(中略)彼はただ一茎の草の芽を研究
し、
「実相観入」という概念を濃縮していきま
しているのだ。/ところが、この草の芽が
す。
彼に、あらゆる植物を、つぎには季節を、
東山魁夷の『道』も不思議な絵です。道立
田園の広々とした風景を、
さらには動物を、
近代美術館での東山魁夷展は、人の群れにも
人間の顔を描けるようにさせるのだ。(中
かかわらず、圧倒的な静寂が支配していまし
略)/いいかね、彼らがみずからが花のよ
うに、自然の中に生きていくこんなに素朴
た。その中でも、ひときわ『道』に引き込ま
な日本人たちがわれわれに教えるものこそ、 れます。八戸市の種差海岸の風景がもととな
真の宗教とも言えるものではないだろうか。 ったとの回想で、
「ひとすじの道が、私の心に
/日本の芸術を研究すれば、誰でももっと
在った。/夏の早朝の野の、道である。/青
も陽気にもっと幸せにならずにはいられな
森県種差海岸の、牧場でのスケッチを見てい
いはずだ。われわれは因習的な世界で教育
る時、その道が浮かんできたのである。/正
を受け仕事をしているけれども、もっと自
面の丘に灯台の見える牧場のスケッチ。その
然に帰らなければいけないのだ。
柵や、放牧の馬や、灯台を取り去って、道だ
けを描いてみたら ―― と思いついた時か
ら、ひとすじの道の姿が心から離れなくなっ
た。/道だけの構図で描けるものだろうかと
不安であった。しかし、道の他に何も描き入
れたくなかった。
現実の道のある風景でなく、
象徴の世界の道が描きたかった」と述べてい
ます(
『風景との対話』新潮選書)
。
魁夷は幼い頃から、自然と人間とは対立し
ゴッホは、こういった文章から、またその
絵から、人とネーチャーの融合した「自然」
を的確に捉えていたのは確かで、またその絵
に込められた思想に、日本で、画家よりは文
筆家たちが烈しく共鳴していきます。
茂吉は、
「人と自然の融合した実相」にせまる日本伝
来の「道」をゴッホに誘因されて深く再認識
53
ないとする感じ方、考え方が内部に芽生えて
いたとはっきり認識し、「少年の私は蝕まれた
青い果実であった。心身の病が進んで行くの
を、逆らい難い気持ちで見詰めている心と、
一方では救いへの祈りを、静かな浄福を宿す
風景に求めていたと考えられる」述べていま
す(
『日本の美を求めて』講談社学術文庫)
。
魁夷の描く心象画とは、〈人間の心の象徴とし
ての風景〉であり、また〈風景自体が人間の
心を語っている〉
、
そのような内観的視点で描
かれた抽象画です。
魁夷の描く森や自然は、大地を薄く被う、
まるで皮膚のような柔らかさがあります。魁
夷の『道』も、そうするとまるで「大地の裂
け目」
のような気がしてきます。
薄い地表を、
人が歩み、踏み固め、
「地」が露わになって来
た。
『道』に人の営みの業を感じるとともに、
大地の傷の痛みとも感じ取れる感覚がそこに
あります。少なくとも、道の背後にはそのよ
うな感じが漂っています。
そこで、
魁夷の
『道』
の絵に、斎藤茂吉の短歌、
野のなかにかがやきて一本の道は見ゆ
ここに命をおとしかねつも
黒土に足駄の跡のつづけるを
墓のほそみちにかえり見にけり
を捧げたいと思います
(前者は
『 あらたま』
、
後者は『赤光』より)
。
エドヴァルド・ムンクもじつは「道」に大
変こだわっていた気がします。雑誌かなにか
で、ムンクの有名な『叫び』の解説を何気な
く読んでいると、フィヨルドに続くのは、橋
とばかり思い込んでいたのですが、それは橋
ではなく「道」だと書いてありました。ムン
クの『叫び』の絵の重要な構図として「道」
を描いているとすると、その道をどうしても
見たくなります。
スウェーデンのストックホルムで国際会議
があったさい、休暇をとり、ノルウェイのオ
スロにスウェーデン鉄道で向かいました。国
際列車の一等車ですが、列車はぼろく、椅子
は布がすり切れていたりで、鉄道は衰退にあ
54
るようです。オスロ中央駅から歩いて三〇分
ほどの静寂でこぎれいな Saga Hotel Oslo
に
泊。翌朝、小雨の降る中、オスロ中央駅から
歩いて、二時間ほどかけて、ムンクの『叫び』
を描いた場所を訪ねました。
ムンク美術館ホームページによると、「夕暮
れに友人ふたりと道を歩いている時、突然空
が血のように赤く染まった。疲れを覚えた私
は立ち止まり、柵にもたれた。青黒いフィヨ
ルドと町の上には、血の色に燃え立つ雲が垂
れ込めていた。友人達は歩き続けたが、私は
不安に震え立ちすくんだ。そして、果てしな
い叫びが自然をつんざくのを感じたのだっ
た」
。この場所は、オスロ市街南東のエケベル
グ地域の丘の中腹の道と認定されています。
港から住宅街の結構急な坂をジグザグにの
ぼり、車道に出て、さらに緩やかな登りをゆ
くと、U字カーブの所に、鉄製ワイヤーロー
プを張ったガードレールがあり、ワイヤーロ
ープを固定しているコンクリの壁に、ムンク
の『叫び』の場所であるとのプレートが嵌め
られています。
『叫び』の絵で橋の欄干のよう
に見えるのは道路の柵です。しかし、
『叫び』
の構図では、原風景そのままではないことが
すぐ分かります。柵が直線的に見えるところ
は、下り坂で、画のムンクの位置からはフィ
ヨルドも町は見えません。そもそも友人ふた
りは、道を下って先に歩いているわけですか
ら、実際のムンクと友人ふたりとの位置関係
は、画では逆になっています。柵のすぐ横に
フィヨルドが見えますが、
横は丘陵の斜面で、
その向かいの丘陵には、ムンク美術館があり
ますので、フィヨルドは遙か彼方に見えるだ
けです。
したがって、
『叫び』の画は、まるで魁夷の
描く心象画と全く同じ抽象化をへて、心の中
で再構成された構図が描かれているといえま
す。そしてまた、どうも、構図上、道が大き
な意味を持っているようにも感じられ、ムン
クの『叫び』にも、大地性が重要な要素とし
て込められている気がします。それは、ムン
クの画『二人の人間』についても、死者から
栄養を吸う森の、その地中にのびた木の根の
先に頭蓋骨が描かれていて、一種の輪廻の思
55
想を表現し、全体として〈生命のフリーズ〉
という総合的装飾のためには必要であるとム
ンクは説いています。その他にも根元の地下
に、骸骨や精霊を描いたりした画もあり、そ
の感覚は地下世界にこだわるケルト的大地性
を感じさせます。そこで、ムンクの『叫び』
の絵にも、斎藤茂吉の短歌、
赤光のなかの歩みはひそかに夜の
細きかほそきこころにか似む
を捧げたいと思います(
『赤光』岩波文庫)
。
さて、芥川龍之介は、茂吉について「近代
の日本の文芸は横に西洋を模倣しながら、竪
には日本の土に根ざした独自性の表現
(たて)
に志してゐる。苟 (いやし)くも日本に生を享
けた限り、齋藤茂吉も亦この例に洩れな
(う)
い。いや、茂吉はこの両面を最高度に具へた
歌人である」と述べています(片野達郎『斎
藤茂吉のヴァン・ゴッホ──歌人と西欧絵画
との邂逅』講談社)
。芥川が構造主義的な指摘
をしているのは驚きですが、芥川のいう横に
西洋を模倣した軸を外観‐内観と読み替え、
竪には日本の土に根ざした独自性の表現軸を
形而上(あるいは理性)‐形而下(あるいは
感性)と読み替えて、四象限図つくり、これ
を芥川の四象限図と呼ぶことにします(図参
照)
。
私見ですが、認識法を大まかには、
〈
「プラ
トンの洞窟」にとどまり個人の内部構造を徹
底的に問うことにより得られる認識(内観
法)
〉と〈
「プラトンの洞窟」から出て光の外
界を徹底的に解析することにより得られる認
識(外観法)
〉に分かれると理解しています。
外観法を支えるのは分析・分解的で、断片的
で、アトム的で、それらを統合しても基本は
モザイク的認識の世界観で、ヨーロッパ的で
す。一方、内観法を支えるのは、外部刺激を
極力断った脳内過程における認識法で、瞬間
的空間把握や感性や自然共生が主体の総合的
認識の世界観で、東洋的です。
竪(縦)軸は論理構成や一種の世界観に繋
がる形而上(あるいは理性)‐形而下(ある
56
いは感性)の対立の軸です。
芥川の四象限図でいうと、西北の領域は、
ヨーロッパの文化領域です。こういった領域
から眺めると、
ネーチャーはあくまで背景
(ラ
ンドスケープ)として存在することになりま
す。例えば、ネーチャーをこよなく愛したイ
ェイツの詩の「落葉」
(
『対訳 イェイツ詩集』
高松雄一編、岩波文庫)を詠んでみます。
私たちを愛(め)でてくれる長い葉に秋が
来た。
大麦の束に棲む鼠たちにも秋が来た。
頭の上のナナカマドが黄色になった。
濡れた野いちごの葉も黄色になった。
愛の終わる時がそこまで迫っている。
二人の悲しい魂はもう疲れてやつれ果て
た。
情熱の季節が過ぎる去るまえに別れよう、
うつむく
あなたの額に一つの接吻と一つの涙を残
して。
57
ワーズワースは湖水地方の近くで生まれ、
ネーチャーを歌った詩人です。ネーチャーを
賞賛し、その中での生活を賞賛し、人間をネ
ーチャーの一部のように感じて、限りなくネ
ーチャーに親愛の念をもっていたと思います。
しかし、例えば、
「万物の中を流るる運動と霊
とを感得せり」とか「自然はわれらの内心を
霊感し」といったフレーズ(
「ティンタン寺よ
り数マイル上流にて詠める詩」『ワーズワース
詩集』田部重治選訳、岩波文庫)が示すよう
に、
「霊」があたかも実在して人間とネーチャ
ーを媒介しているがごとき表現となっていま
ここでネーチャーは、象徴的に歌われては
いますが、あくまでも人を際立たせるための
ランドスケープの機能しか果たしていません。
イェイツは、アイルランド生まれで多分ケル
ト的土着的心象をもち、
象徴主義、
神秘主義、
さらにはオカルティズムにまで傾倒していき
ましたが、彼の内ですらあくまで、人とネー
チャーは分離されていると見てよいでしょう。
ヨーロッパでは、人とネーチャーは分離し
ていて、
さらに上空には神の領域があります。
この西北領域の芸術では、人はネーチャーを
背景(ランドスケープ)として処置するか、
あるいは神の造った原理を知るために分解し
組み合わせてパッチもしくはモザイク状の造
形として把握するかのどちらかになります。
印象派に至っても、さらにピカソ等のキュー
ビズムや抽象画にいたっても、この原理はほ
とんど変わっていないとみてよいでしょう。
日本や東洋の「自然」
(人とネーチャーの融
合・共存した思想・思考)からみると、シュ
す。また、ネーチャーは基本的にランドスケ
ープとして捉えられています。イェイツやワ
ーズワースをして、ネーチャーを深く愛し、
人間をネーチャーの一部のように感じていた
には違いないのですが、ヨーロッパ文化がそ
のような表現体系を持たないせいか、魁夷の
「心象」
、茂吉の「実相観入」といった、芥川
の四象限図における東南の領域の表現や精神
を見いだすのが困難だったようです。
58
ールレアリズムにいたっては、ほとんど「自
然」の否定で、人だけが異常に肥大したまる
でゾンビのような思想となってしまいました。
アンドレ・ブルトンの『シュールレアリズム
宣言』
(岩波文庫)の最後の数行(つまり結論)
で、
「この夏、薔薇は青い。森、それはガラス
である。緑の衣におおわれた大地も、私には
幽霊ほどのかすかな印象しかあたえない」
と、
いい切っていて、
「自然」の否定が明確です。
印象派絵画は、まだ表層的でしたが、大地性
を取り戻しつつありました。が、キュービズ
ムや抽象化絵画によって、大地も「自然」も
木っ葉微塵にされ、シュールレアリズムでと
どめを刺されたといってよいでしょう。
ヨーロッパは、ゴッホによって、あるいは
ムンクによって、一瞬、芥川の四象限図の東
南の領域に接近したものの、それらは彗星の
ごとく宇宙の彼方に飛び去ってしまいました。
すくなくとも、今、魁夷の「心象」
、茂吉の「実
相観入」をヨーロッパの絵画や文芸に見いだ
すことはできません。ヨーロッパは、
「自然」
の思想・精神・思考・文化・芸術を理解する
機会を失ってしまいました。
冒頭に掲げた、斎藤茂吉記念館の茂吉の歌
は、ゴッホの「道」を歌ったに違いありませ
ん。ゴッホの「道」と茂吉の「道」が一体と
なった、ある意味では痛ましいほどの、叫び
がきこえてくるような歌です。斎藤茂吉歌集
の『あらたま』の版で詠んで、弔いましょう。
59
あかあかと一本の道とほりたり
たまきはる我が命なりけり
(つづく)
連載
エッセイ
無駄死にはさせたくない
福島第一原子力発電所の事故で、原発から
東大の附属牧場に移され、現在も生きていま
半径二〇キロ圏内が警戒区域に指定され、人
す。
ウシは二〇〇〇頭以上が水や餌の欠乏で死
の立ち入りが禁止されました(二〇一一年四
月に指定、
二〇一二年四月から順次見直し中)
。 にました。かなりの数が野に放たれ、一部に
餌を与え続けた飼い主もいました。推測で、
警戒区域には人間に飼われていた多数の動物
一〇〇〇頭を超えるウシが生き延びました。
が取り残されました。ペットの数は不明です
農林水産省と福島県は、風評被害を抑えるた
が、食用の家畜は登録されているので、震災
めに、警戒区域のなかで生存しているウシを
前(二〇一〇八月)の数がわかっています。
殺処分させてほしいと飼育農家に依頼しまし
ウシが三三八五頭、ブタが三万一四八六頭、
た。二〇一〇年に宮崎県で発生した口蹄疫の
ニワトリが六三万三〇〇〇羽でした。
ニワトリはほぼ全滅しました。飢えと水が
ときには、家畜伝染病予防法に基づいて流行
与えられなかったためです。ブタもやはりほ
域内の家畜は全頭殺処分となりましたが、放
とんどが死にましたが、三四〇〇頭が、飼い
射性物質による汚染の場合は法律にもとづく
主がいたたまれなくなって放したり、自分で
処分ではないために、飼育者の合意がなけれ
逃げたりしました。その後、かなりの数のブ
ば実施できません。安楽殺に応じたのは、今
タは飢え死にしたり、安楽殺されましたが、
年の四月時点で八四〇頭でした。
残ったウシが何頭いるのか正確にはわかっ
生き延びたブタが野生のイノシシのなかに入
ていません。今年の夏の時点で、囲い込んで
り込んで遺伝子の撹乱をおこしている疑いが
いるのが四〇〇頭以上、外にいるのが約四〇
あります。また、学術研究用として二六頭が
林 良博
はやし よしひろ
東京農業大学教授
(専門はバイオセラピー)
60
〇頭とみられています。
外に放たれたウシは、
福島の厳しい冬を乗り切っただけでなく、ど
うやら子どもを産んでいるようです。
これら警戒区域で生き続けているウシに対
して、私たち研究者に何ができるのかを検討
する一般社団法人「東京電力福島第一原子力
発電所の事故に関わる家畜と農地の管理研究
会」を今年の九月に立ち上げました。研究者
として最も留意しているのは、ウシが生存し
ているという事実を前にして、生きている間
はウシのQOLを高めたいし、安楽殺するに
しても無駄には殺したくないということです。
私たちは、生き延びているウシを決して殺し
てはいけないとする立場をとるものではあり
ません。研究目的によっては、ウシを殺すと
いう選択もありえます。この研究会に協力し
ようといってくださる農家の方がたは、ウシ
を無駄死にさせたくないが、食用にはならな
くても研究に活かされるのならウシを死なせ
ることも認めるといいます。家畜として飼育
してきたのですから、何かの役に立たせたい
のです。
非常に不幸なのは、放たれたウシが二回目
の冬を越せずに餓死してしまうことです。逆
に、冬を越して子どもをどんどん殖やされて
も困ります。岩手大学の岡田啓司准教授は去
勢手術の陣頭指揮をとっています。これ以上
不幸なウシを増やさないためです。取り除い
た精巣から、
放射性物質の影響を調査します。
この機会に放射線の影響をきちんと研究し
ておくことは、こうした不幸な事故がおきた
日本の研究者の責任であり、すでに北里大学
の伊藤伸彦教授らは、放射性物質がウシの体
内のどのようなところに蓄積されているのか、
それがどのような影響を与えているのかを調
べています。また、人から離れたウシがどの
ような行動をするのかというテーマでの研究
も東北大学の佐藤衆介教授を中心に始まって
います。社団法人の名称に「家畜と農地の管
理」とあるのは、警戒区域内には人間が日常
的に入れないため、農地の雑草が茂って荒地
になり、さらには森林化していくことを防ぐ
ために、農地とウシの管理を一体的に研究す
ることが重要であると考えているからです。
連載
エッセイ
61
立命館大学理工学部
建築都市デザイン学科
近本智行教授
楽しい研究室で学生を育てる
自然に換気される建物を設計
――一八階は風通しのために特別に設けら
で、風上からだけでなく、風下からも
風が入り、建物全体の自然換気ができ
るようになっています。
れたフロアなのですか?
物を実際に設計するお仕事をされていたと
うかがっていますが……。
近本 そうです。一七階が食堂で、そ
の食堂の吹き抜け部分と、電気室、機
械室などが一八階にあり、そのほかは
風が通るためにつくられています。
この設計で換気ができるのか、事前
に実験したときには、実は、なかなか
うまくいきませんでした。一八階を風
が抜けるときに、外からの空気が、下
から上がってくる空気を押し込んでし
まったのです。それで、外の空気がエ
スカレーターシャフトに入ってこない
ような遮風板というガラスの壁を追加
で設置することにしました。遮風板に
外からの空気が当たることで、遮風板
――先生は立命館大学にこられる前は、建
近本 日建設計という設計事務所の
環境計画室に所属して、環境を考えな
がら設備設計の仕事をしました。例え
ば、東京の御茶ノ水駅近くの明治大学
のリバティタワーで自然換気計画を行
っています(図1)
。
この建物の一八階に穴が開いていま
すが、これは自然の風を利用した換気
をするためものです。一七階の食堂ま
でが教室階で、
縦方向の移動のために、
中央にエスカレーターが設置されてい
ます。そのエスカレーターのシャフト
を通じて風が下から上に抜けるように
なっていて、一八階に穴を設けること
62
図 2 ハイブリッド換気.
図1 明治大学リバ
ティタワーの自然換
気計画.
の内側が負圧になり、下からの空気が
引っ張り上げられるようになりました。
サステイナビリティを研究の柱に
に、違和感のようなものはなかったのでし
――設計の実務から大学の研究に移るとき
ょうか?
近本 日建設計にいたときに、ハイブ
リッド換気ということにも関わってい
ました。たとえば、千葉の幕張に建て
られたアジア経済研究所では、窓を開
けて自然換気をしながら空調もすると
いう、普通だとあまり考えにくいこと
をしています(図2)
。風などの自然の
力による換気と、機械の力による空調
を組み合わせて、環境への負荷を減ら
しつつ、室内の熱や空気の環境を維持
するのがハイブリッド換気で、設計の
実務をしながら国際共同研究などもし
ていましたので、自然な流れで大学に
移れたように思います。
何を置こうと考えたのでしょうか?
――大学にこられてからは、研究の中心に
近本 もともと設備設計をしていて、
エネルギーも扱っていましたから、室
内外の温熱環境の分析や、
住宅や建物、
都市で使うエネルギーを減らすサステ
イナビリティに関連する研究が柱にな
りました。最近では、環境教育にも関
わるようになってきています。文科省
の「スーパーエコスクール事業」や、
環境省の「学校エコ改修と環境教育事
業」といった、学校教育と関連したプ
ロジェクトに参加させていただいて、
小学校の環境学習でどのような教材を
取り上げたらいいのかといった議論も
行っています。
――先生ご自身が小学生相手に環境教育
をされることもあるのでしょうか?
近本 ワークショップなどで学校の
先生や設計者ともに、環境教育につい
て一緒に話し合って考えるということ
をしていますので、小学校に実際にい
63
って教えるわけではありません。
ただ、私の子どもの小学校で、PT
Aとしての活動の一環で、エネルギー
について、考えてもらえるような遊び
道具をつくって、学校にもっていきま
した(図3)
。足踏み式の発電機で電気
をおこすと、透明の筒の下にあるファ
ンが動いて、筒のなかに入っている発
泡スチロールが浮き上ります。一生懸
命に踏んで電気をより多くつくると、
より高く上ります。電気をおこすとい
図 3 足踏み式発電機を使った装置.
うことが、ゲームとして体験できるよ
うな装置です。
心地よさを追求する
――研究室にはいま何人ぐらい学生さんが
所属しているのでしょうか?
近本 われわれのところは、講師の小
林知広先生と客員教授の大窪道知先生
とともに、二五人の学生を指導してい
ます。大学院生一五人と学部生一〇人
です。それぞれの興味に応じて研究グ
ループをつくって研究を進めています。
室内環境・快適性グループ、屋外環境
グループ、サステイナブルグループの
三つがあり、週に一回全体で集まる会
議を行っています。
私はもともと東京大学の村上周三先
生の研究室で、コンピュータによる流
体解析の研究をしていたこともあって、
室内の空気の流れや熱の動きを分析し
て、人がどのような状態を快適と感じ
るかという生理量の検証をする研究を
進めています。
また、研究室に風洞実験室を持って
おり、建物のなかに入ってくる風の流
れや、
都市のなかの風の流れを調べて、
ヒートアイランドをどのようにしたら
解消できるのかといったまちづくりの
研究をしています(図4)
。
――三つの研究グループがあるということ
ですが、全体を貫く理念のようなものがあ
るのでしょうか?
――何がいい建物であり、何がいいまちで
近本 理念というと難しい感じがし
ますが、建物づくりでも、まちづくり
でも、いかにしていいものにしていく
のか、というのがあります。
あるのかという、評価基準のようなものは
あるのでしょうか?
近本 心地よさだと思っています。エ
ネルギーをいっぱい使って、物理的に
は心地よい空間になっていても、力づ
くで人工的につくられた空間では、あ
64
まり心地よさは感じないものです。エ
ネルギーをあまり使わないで、自然の
風を取り入れるなどして、室内環境を
よくできたとして、建物の周囲の環境
がいいものでなければ、やはり心地い
いとはいえないでしょう。自然の摂理
と環境をトータルに考えないと、本当
の経路空間の温度を変えると、ホール
に到着したときの感覚が変わります。
夏場の暑いときにホールのなかを無理
して冷やさなくても、途中で暑さを少
しずつ緩和していくようなことをする
と、最終的にホールに到着したときの
快適感がスッと上がるようになります。
ホールの温度が同じでも感じ方が違う
のです。心地よさを追求するには、人
の生理とか心理とかも併せて考えてい
く必要があると思っています。
――心地よさにはサステイナビリティと共
通するところがあるのでしょうか?
近本 共通部分は大きいと思います。
省エネルギーは無理強いしてできるも
のではありません。ポジティブに意識
的に省エネルギー行動をとっていける
ことが大切です。そのような行動を、
やんわりと誘導していくことが重要だ
と思います。
われても、無理があると長く続けるのは難
――省エネのために暑いのを我慢しろとい
65
の心地よさにはなりません。
兵庫県立芸術文化センターという約
二〇〇〇席のホールがあります。ここ
で、駅で降りてからどのような空間を
経由すると、ホールに到着したときに
快適に感じるのかという実験をしまし
た。人の生理現象を考えた上で、途中
図 4 風洞実験室での実験. 大阪の御堂筋の模型を作って,町並
みを変えることでどのような効果が出るかを研究している.
しいですね。
近本 外の温度を知らせるだけでも、
建物のなかで生活している人の快適感
は変わります。外の温度が上昇してき
たという情報が与えられると、快適感
が変化して、いままでの快適域よりも
少し高めに修正されます。それによっ
て省エネルギーを目的にした行動が引
き起こされると、自分も省エネに参加
しているということからくる心地よさ
も生じます。
一日のなかでも、昼間と朝方では、
快適と感じる温度が違います。部屋の
なかの温度を一定に保つよりも、一日
の間に快適と感じる温度が動く変化を
しょうか?
――研究室の学生さんが、それこそ心
地よくといいますか、研究をやりやす
くするような工夫も何かあるのでしょ
うか?
近本 われわれの研究室では、研究以
外にさまざまなイベントを行っていま
す。それが研究室の雰囲気をよくして
いる面があると思っています。
新入生歓迎会というのはどこの研究
室でもあるでしょうが、夏に流しそう
流しそうめん大会
います。生理量と、申告による心理量
とは必ずしも一致しません。一定の状
態で長く置くと両者は一致するように
なりますが、変化を与えたときの反応
には結構違いがあります。先ほどのホ
ールの例は、生理量の反応と心理量の
反応の差を利用して、ホールに着いた
後の快適感が増すような制御をしよう
ということです。
近本 実験室のなかでいろいろな温
度を再現して、被験者の脳内血流量、
深部体温、皮膚温度、脈拍などの生理
量で測っています。脳内の血流量は、
温熱に対する生理反応と連動していて、
まわりの気温が上がると血流量が増え
ます。また、血中のヘモグロビンが酸
素化しているか脱酸素化しているかの
変化も考慮しています。生理量の測定
と同時に、どのように感じているのか
ということを、被験者に申告してもら
――快適性はどのようにして評価するので
できるだけ邪魔しないように制御する
のがいいのです。
図 5 流しそうめん大会.
66
めん大会を行っています(図5)
。会場
は大学の近くのキャンプ場で、前日に
竹を切ってきて真っ二つにし、そうめ
んを流します。そうめんは冷たい水で
ないとおいしくないので、氷を使った
冷却装置をつくります。そうめんだけ
でなく、牛肉の塊を焼いてシシカバブ
のようにして食べたり、ウナギのつか
みどりをして蒲焼きにして食べたりも
します。うなぎは私の担当で、生きた
ウナギを買ってきて、近くの川に一回
放流して、子どもたちが手づかみで取
って、私がさばきます(図6)
。昨今は
ウナギの値段が高いので、川に放流し
たのが逃げないようにするのが大変で
す。
――子どもも参加するのですか?
――そのようなイベントは先生がお考えに
なっているか測定しました(図7)
。単
なる合宿だけではなくて、測定の実習
も一緒に行ったのです。
なるのですか?
近本 学生たちが企画しています。
企業とのネットワークを大切にする
――学生さんたちは研究室を出た後はど
のような方面に進むのでしょうか?
近本 進路としては、設計事務所、ゼ
ネコン、設備会社、ハウスメーカー、
デベロッパーなどです。
――環境やサステイナビリティを研究の柱
としている学生さんを企業は喜んで採用し
てくださるのでしょうか?
近本 そうだと思っています。もとも
と立命館大学には建築はなくて、理工
学部に建築都市デザイン学科が開設さ
れたのが二〇〇四年で、まだ一〇年に
もなっていません。それでも、環境設
67
近本 私の家族もきますし、近くにダ
イキン工業の工場があって、ダイキン
さんとは一緒に研究をしていますので、
ご家族が毎年参加してくださっていま
す。
また、授業で、企業の方に話をして
いただくことがあるのですが、授業の
後で、その先生方を交えて学生と一緒
に懇親会を行っています。
ゼミ合宿では去年は白川郷と飛騨に
出かけました。白川郷では合掌造りの
お宅に測定器を付けさせていただいて、
合掌造りのなかの熱環境がどのように
図 6 うなぎをさばく近本教
授.
備の分野で、立命館大学の名を全国的
に認識していただくまでになりました。
学生の進路ということでは、企業の
方々とのつながりを日ごろから大切し
ています。
先ほどもいいましたように、
企業の方にきていただいたときに懇親
会を行っています。お酒を飲みながら
気楽に学生の相談にのってもらうよう
図 7 白川郷の合掌造りでの熱環境の測定.
なことをしていると、採用してもらい
やすいということがあるようです。
拓されてきたのでしょうか?
――企業とのつながりは、先生ご自身が開
近本 私はもともと九州の久留米の
出身で、大学時代の博士号を取るまで
の九年間は東京でした。日建設計も東
京配属で、九カ月間だけ大阪で新人研
修を受けました。ずっと東京だったも
のですから、立命館大学にきて、京都
でうまくやっていけるのだろうかとい
う不安はありました。設計の実務から
研究へという変化は割と自然の流れだ
ったのですが、東京と京都では文化圏
が異なり、どちらかというと新しい人
を受け入れるのに壁をつくる土壌があ
るのかなという気がしていたので、地
域の変化は私にとって大きなできごと
でした。幸いにも、日建設計の新人研
修で九カ月間大阪にいたことが役に立
って、関西のいろいろな方々との交流
を進めていくことができました。
68
――企業との連携では、立命館大学は何か
支援してくれるのでしょうか?
近本 幸い立命館大学は事務方にポ
テンシャルの高い人がたくさんいて、
何か新しいことをやろうとしたときに、
きちんと支援してくださるので、あり
がたいと思っています。
モチベーションを自分で高めてほしい
――学生さんに対して、このようなことを
してほしいとか、このような職業人に育って
ほしいとか、お考えになっていることがある
でしょうか?
近本 研究でも仕事でも、まずは、楽
しくやってもらいたいと思っています。
それも、自分で考えて、自分で問題点
をみつけて、自分で問題点を解決する
方策を考えるようでないと、本当のと
ころは楽しくないでしょう。楽しくす
るためにも、自分でモチベーションを
高めて前に進んでいくことをしてほし
――いままででとくに印象深かった学生さ
いと思います。
また、社会とのつながりを多くもっ
てほしいです。研究そのものは、非常
に専門的な部分を掘り下げることをす
るのですが、専門的な分野で研究をす
ることや、技術を向上させることが、
社会にどうように還元していくのかと
いうことを絶えず考えながら研究をし
ていくことが大切です。そのために、
世の中の情勢をきちんと正しく把握し
てほしいです。
それと、誠実ということです。われ
われは自分自身のための研究をしてい
るのではありません。社会に生かすた
めに、誠実に研究をするのです。
んなどがいるでしょうか?
近本 学会の全国大会で学生たちが
交流懇親会を開くことがありますが、
一晩明けたら、立命館の学生が全国的
に有名になっていたということがあり
。基本的に学生がのびのび
ました(笑)
――最後に、今後の夢といいますか、目標
楽しくやっているからだろうと思いま
す。環境設備の分野で、立命館の存在
をかなり認識していただくまでになっ
たのも、いろいろな意味で、学生自ら
が情報発信をやってきているからでは
ないかと思います。
があれば教えてください。
近本 研究も実務も両立できる学生
がきちんと育っていってくれると嬉し
いです。学生は研究室からどんどん出
ていって社会で活躍するようになりま
すので、研究室のなかはいつも新しく
生まれ変わっているような気がしてい
ます。そのスピードに私もついていか
ないといけません。教員は、学生たち
をリードしていく立場ですから、日々
走り続けていかなければならないと感
じています。いまのところは、答えに
窮するような質問をしてくる学生はな
かなかいないのですが、そのうちに困
るようなことになるのかもしれません。
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では正確な推定を行うことが難しいた
め、地上観測データを解析に取り入れ
る必要があり、そのため、フィールド
調査も行いながら研究を進めていると
ころです。
本研究プロジェクトは、京都大学・
インドネシアの大規模植林地での調査
こばやし しょうこ
小林祥子
立命館アジア太平洋大学アジア太平洋学部助教
(専門は環境動態解析)
私たちの研究グループでは、インド
ネシア・スマトラ島の大規模植林地に
おいて、マイクロ波衛星データを用い
た森林のバイオマスを推定する研究を
行っています。人工衛星データを用い
るのですが、実際には衛星データだけ
生存圏研究所教授の川井秀一先生によ
って、一〇年ほど前に立ち上げられ、
現在は、京都大学・生存圏研究所、イ
ンドネシア・ガジャマダ大学、植林会
社、立命館アジア太平洋大学の共同研
究として調査研究が進んでいます。
私たちが対象とする産業植林地は、
熱帯林が伐採された後に森林が再生せ
ず、長い間にチガヤ草原となっていた
場所に作られたものです。この植林地
では、アカシアと呼ばれる熱帯早生樹
)が植えられて
( Fast-growing trees
いますが、その名の通り、成長がとて
も速く、六~七年ほどで二〇メートル
の高さになるため、近年は木材資源と
して注目されています。
現在、日本のパルプ・チップ材の七
〇%が輸入原料であり、そして輸入パ
ルプ材の原料の内の約八〇%が人工林
低質材と呼ばれるもので、早生樹もこ
れに分類されます。
現在、
日本企業も、
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植林地までは、スマトラ島のパレン
バン空港から車で四時間ほどかかりま
す。途中、市場に寄って、飲料水、そ
れからペンペ(魚をすり身にして蒸し
たもの)をお土産に買います(このペ
ンぺは、パレンバンの名物だそうで、
空港に行くとペンぺの入った段ボール
箱をいくつも持っている人を多く見か
けます)
。
三時間ほどして植林地内に入
った後も、延々と続くように思える植
林地の中を走り(図1)
、現地スタッフ
が働いている場所へ向かいます。植林
地内には、火の見櫓が所々に立ってい
るのですが、道中に毎回同じ火の見櫓
へ立ち寄るようにしています。高さ四
〇メートルほどの火の見櫓に登り、植
林地の様子や変化を観察しますが、目
の前に広がる見渡す限りの緑に圧倒さ
れます(図2)
。
植林地に滞在中は、植林会社のスタ
ッフの方とのミーティングを行ったり、
植林地内の調査へ出掛けたりします。
現地のスタッフの方の協力なしに、調
査はできません。私は、いまだインド
ネシア語を習得していないため、イン
ドネシアでの調査の際は、毎回、研究
メンバーの一人であるガジャマダ大学
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図1 スマトラ島の大規模植林地内の道.
東南アジアやオーストラリアなど熱帯
地域での植林事業に参入しており、そ
の面積は急速に増加しています。この
ことからも、遠く離れた海外の植林地
も、私たちの生活に関わっていること
が分かります。
図 2 火の見櫓から見た大規模植林地内.
図 3 観測地点での調査.
のラギール先生に同行してもらい、現
地の方とのコミュニケーションをとっ
ています。
また、植林地内の現場調査では、植
林会社のスタッフの方に車の運転をお
願いします。植林地内は、どこへ行っ
ても、森林と道路に囲まれた全く同じ
ような景色で迷ってしまいそうなので
すが、スタッフの方の先導によって、
車を走らせて観測地点へ移動していき
ます。私たちが対象とする一つの管理
区域だけでも、大阪府ほどの面積があ
る広大な面積ですので、朝から調査を
始めても、一日に八地点ぐらいが限度
です。
各観測地点では、葉面積や土壌水分
の測定、それから葉の採取も行い、葉
の含有水分量や葉の厚さなどを測定し
ます(図3)
。測定中には、ヒルに噛ま
れていたり、ハチの巣に遭遇して刺さ
れたりと、日常生活ではあまり体験で
きないハプニングもありますが、現地
S. Kobayashi, Y. Omura, K.
のスタッフに助けられながらフィール
ド調査を行っています。
そして、これまでの共同研究の成果
)
は論文としてまとめられています (*1。
今後も、いろいろな方のご協力に感謝
しながら、インドネシアでの研究を続
けていきたいと思います。
(*1)
and
of
Y.
Decomposition
Yamaguchi,
Sanga-Ngoie, R. Widyorini, S. Kawai, B.
Supriadi
“Characteristics
Powers of L-band Multi-polarimetric
SAR in Assessing Tree Growth of
Industrial Plantation Forests in the
Tropics”, Remote Sensing, Vol. 4 (10),
pp.3058-3077, 2012.
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忘れられた当たり前を探す¨
目からウロコのフィールドワーク⑨
的発展のありかたについて考えるフィ
ールドワーカーとして国内の農山村を
歩いてきた。それは自分にとって、そ
こで暮らす人びとを研究するという行
為であると同時に、彼らから地域や家
族とのつながりの大切さを教えてもら
うという過程でもあった。確かに自分
にも父方・母方の郷里がある。
しかし、
どちらとも「結びついている」という
実感は乏しい。それだけに、祖父の死
をどのように受けとめるべきかがずっ
と心に引っかかっていた。
祖父の郷里をフィールドワークする
おおち しゅんすけ
大地俊介
宮崎大学農学部森林緑地環境科学科助教
(専門は森林経済)
沖縄の離島でフィールドワークをし
ていた修士二年の春、母方の祖父が亡
くなった。
郷里の島での一人暮らし中、
脳梗塞で倒れ、家族が駆け付けた時に
はすでに意識不明の状態だった。そこ
で私は二晩、虚空をみつめたままの祖
父の傍で過ごした。島に生まれ、島で
死ぬことを望んだ祖父。祖父には臨終
の風景がどのようにみえていたのだろ
う。
団塊ジュニアとして東京郊外に育っ
た私は、主に森林資源に立脚した内発
この個人的な宿題について研究者と
して考える機会を得たのは、祖父の死
から一〇年ほど経った二〇一一(平成
二三)年だった。その前年に大学に職
を得た私は、鹿児島県薩摩川内市の地
域貢献事業に応募し、平成生まれの学
生たちとともに祖父の郷里・下甑島で
図1 フィールドワークに参加した学生と.右端が筆者.
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図 2 夏に訪れた祖父の
郷里.生命と物質が循環
する小さな世界のようだ
った.
図 3 草むした神社の鳥
居.人が減り,村は自然
に呑み込まれつつある.
フィールドワークを実施することにな
った。
下甑島は、九州の西方約四〇キロメ
ートルに浮かぶ甑島列島の一つで、南
北に細長く、削げ立った岩礁のような
島である。民俗学的資料の宝庫として
知られ、来訪神トシドンや数々の民話
で彩られた民俗世界が今も息づいてい
る。一方、離島を覆う過疎高齢の現実
は厳しく、戦前には一万人を超えてい
た人口が二〇一〇年には二七〇〇人に
まで減少し、典型的な限界集落の様相
を呈している。
私たちは研究テーマを「森から島の
暮らしを読み解く」
とすることにした。
海の存在感が圧倒的なこの島で、あえ
て森に注目してみようという試みであ
る。そして、私と学生たちは、次のよ
うなことを「再発見」していった。す
なわち、狭小な下甑島ではごく最近ま
で山林原野、田畑、磯場までが共的に
管理されていたこと。外部と隔絶され
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ているため、天然生林を自給的に利用
する慣習が発達しており、その中で椿
油生産等の稼業用の利用が展開してい
たこと。漁場保全や航行目標のため、
近世以前から魚付林を意識的に保全し
てきたこと、等である。つまり、下甑
島には里を媒介に森と海とが有機的に
図 4 海からみた魚付林.海と森とは一続きのものだと実感できる.
結びついた小世界が形成されており、
今日においてもその残照がしっかりと
捉えられた。
フィールドワークを通じてそのよう
な島世界を追体験していく過程はデジ
タル・ネイティブと呼ばれる平成生ま
れの学生たちにとって新鮮であったよ
うだった。彼らも、初めて沖縄でフィ
ールドワークをした時の私と同じよう
に、
「地域と家族とのつながり」をここ
で深く実感したことだろう。そして自
分にとっては、それを直接的に自分の
郷里で確かめることができたという点
で、特別な体験だった。自分の根っこ
の一部がこの島に続いていることを誇
らしく感じた。
晩年の祖父は、先祖を敬うことにま
すます篤くなっていった。祖母が亡く
なった後は息子たちからの同居の誘い
を断り、一人でも島に残ることを望ん
だ。その頃の仏壇を拝む祖父の姿が印
象に残っている。祖父は先祖に対する
勤めを果たすことで、島の有機的な結
びつきの一部になろうとしていたのか
もしれない。しかし、限界集落の現実
は厳しい。今後は村落自体が消滅する
こともめずらしくないだろう。祖父も
そのことを肌身で知っていた筈である。
自分もこれからずっと先祖と同じよう
に祭られ、祖霊として島に帰ってくる
ことができるのだろうか。大いに不安
だったにちがいない。臨終の際の祖父
のまなざしは、そのような安堵と不安
が綯い交ぜになったものだったのでは
ないか。
島に滞在中、祖父の墓参りをした。
そこからみた島の風景は森も海も里も
どこか寂寞としていた。民俗学者の宮
本常一は「自然はさびしい、しかし人
の手が加わるとあたたかい」
といった。
フィールドワーカーとして、また、孫
として、祖父に慎ましくも賑わいのあ
った昔の島の風景をみせてあげたい。
そんな魔法をみつけられないだろうか。
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