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契丹文墓誌より見た遼史
序論 遼史研究の新しい課題 契丹は北方に起源し、文教を発展させる余裕がなかったので、その記述は本来寥寥たるもので、 聖宗の時に至って始めて国史を修撰した。聖宗朝までの契丹古史はおそらく追述綴補に基づくもの だが、興宗・道宗時代にはすでに国史が成立していた。遼末金初の兵乱を経て、典章散失しほとん ど遺るものがなかった。元朝が『遼史』編纂に参考し得たのは、耶律儼・陳大任二家の書だけだっ たが、『遼史』を見る限り、それら原資料がすでに疎略を免れないものであった。史官はほかに史 料を捜す余裕もなく、かつ遼史に対する理解も乏しかったので、遼の二百余年の歴史の記述は『宋 史』の十分之一にも及ばず、正誤並びに存し、抵牾の互見するところばかりであった。後世の学者 はそこに捉われて真偽を辨じえず、とりわけ契丹の古史に渉るものは想像が實證より多いことが免 れない。 近年來、遼代の出土資料が陸続と発見され、遼史研究に再生の機会をもたらしている。とくに契 丹文墓誌釈読の迅速な進展はこの再生の機会を勃然たらしめるものである。本書は契丹文墓誌釈読 の成果を遼代漢文史料と漢文石刻に結合して相互に比較し証明する方法を採り、長期にわたる契丹 歴史上の眾說紛紜として定論無い諸問題、さらには先人が未だ踏み込んだことのない領域を全く新 しい視角から観察し、研究した成果である。 本書第一部「氏族と部落」が対象とするのは遼の皇族耶律氏、遙輦氏、遼の后族諸姓氏及び契丹 諸部落の内容、性質、相互関係などの問題である。契丹の社会組織を分析することでその通時的な 推移及び共時的な構造上の特徴を観察し、遼の皇族の橫帳、遼の后族の国舅帳の構成および時代に よって段階的に異なる特徴を解明する。 第二部「皇族と外戚」が対象とするのは、契丹文墓誌に出現する遼の皇族、后族の重要人物の房 族世系であり、これを基礎に『遼史』の皇族表と外戚表に增補訂正を行う。 第三部「習俗と文化」が対象とするのは契丹文墓誌に反映された契丹人の命名習俗、契丹人の親 族呼称及び女性に対する尊称、契丹人の婚姻習俗、契丹人の自稱及び漢人に対する呼称、言語の角 度より観察した契丹と近鄰諸民族の間の文化的関係である。 以上の三方面の内容は均しく契丹人自身の記述を主要な根拠とし、契丹文と漢文双方の資料を対 比することで詳細な究明を加え、帰納して成ったものである。本書の最大の特色は契丹文字資料を 広汎に利用して契丹の歴史を考証したことであり、これは先人が未だ曾て開墾したことのない領域 であり、著者が今後も努力を継続する方向でもある。本書の研究成果は遼代漢文史料が記述する史 実の再認識、先人が漢文史料に捉われて提出した論点の再検討に対し、真偽を分別し、闕漏を補填 する価値をもつものである。。 契丹人の歴史を研究するには、契丹人の視野から契丹人の世界を観察せねばならない。契丹文墓 誌は豊富な史実考証の材料を有するが、契丹文墓誌解読の結果が表明するところでは、同時代の漢 文史料と比べて、契丹文墓誌はモンゴル史研究における『元朝秘史』と同様に漢文史料には見られ ない契丹人自身の歴史の真相を具えている。遼代には、契丹・漢二者の政治文化並行の政策が實施 され、大は国号から、小は文翰に至るまで、双管の制でないものは一つもなかった。しかし詳細に 立ち入ってみると、その奧妙さは今まで通論として理解されてきたところのように単純ではない。 たとえば国号について、漢文史料には「大契丹」と「大遼」が何度も交代し、甚だしくは並用され 1 た時もあったようにあるが、興宗時代より天祚帝時代に至る全ての契丹文墓誌には、「大契丹」が 見えるだけで、「大遼」は見えない。さらに后族の姓氏について、漢文史料には契丹人は耶律氏で なければ蕭氏であり、この二姓以外のものはほとんどいないとあるが、契丹文墓誌には耶律氏と並 ぶような、耶律氏と通婚する各氏族を総括する姓氏は一つも出現しない。契丹文、漢文は遼代に並 行していたが、決して対訳に用いられていただけではないのである。要するに、契丹文が表現する ものは、契丹人自身の世界であるが、漢文が表現するものは、契丹人が漢人に見せた別の一個の世 界だったのである。契丹人が遼の領域に属さない漆水郡と蘭陵郡をそれぞれ耶律氏と蕭氏的の地望 とみなしたのは、通説のように「中原文化を仰慕した」からでは決してなく、諸般の政治的措置の 一つであったに過ぎない。契丹文字資料からこうした「仰慕之情」がみじんも窺われないことがそ れを明らかにしている。 長期にわたって、遼史研究は定説に捉われて相互に踏襲された誤った結論が深く根を張り、それ に盲従するものは多かったが、懐疑を呈するものは無かった。これが遼史研究が進展しなかった原 因の一つである。 たとえば、遼の皇族耶律氏の本義に対する解釈として、日本・中国・ヨーロッパの多くの学者は みなそれをモンゴル語の「牡牛」に比定してきたが、その論拠は歴史比較言語学的根拠をもたない 虚構の基礎に建てられた推測であった。ここから進んで遼の后族蕭氏の本義をモンゴル語の「牝馬」 と解釈することは、さらに想像が實証より多い臆断である。 「白馬青牛」伝説の起源は非常に遅く、 後に契丹の始祖伝説に附会されたものである。近年これに対する専論がすでにあるが、耶律氏と蕭 氏の本義につき異議を提出することは今なお無い。契丹文墓誌の解読が証明するところでは、「耶 律」の本義は「牛」とは全く関係なく、契丹社会を牛をトーテムとする耶律氏と馬をトーテムとす る蕭氏という二つの半族によって構成されるとする論点は完全に無稽の談である。相互に矛盾し、 錯誤が頻出する遼代漢文史料の範囲内で、いわゆる新研究を進めることは、一つの論点を満足させ ても他には及ばず、その論点と矛盾するその他の資料の存在を解釈できず、真の意味での研究の突 破口を獲得できないものである。『遼史』卷33營衛志下/部族下の八部を組成する氏族の名稱の中に 審密の存在が記録されていないことを根拠に、「二審密は八部の外に在り、独立自存である」とす る誤解が主張されているが、契丹文墓誌は拔里氏が耶律氏とともに一部の中に在ったことを証明し ている。遼代の人物の房族世系に関する記述の紊乱がつとに多く指摘されているが、その原因は決 して簡単に史官の記述あるいは伝聞の誤に一概に帰することはできない。たとえば遼太祖淳欽皇后 の仲兄室魯及びその後裔の房族の問題は、漢文史料には記述がない(あるいは意図的に隱諱された のかもしれない)が、室魯はもと淳欽皇后の母が前夫との間に生んだ仲子であり、母の改嫁に隨っ て後父のところに行った。室魯は子が無く、異父弟阿古只の子を過継して後とした、このため室魯 の後裔が属する房族は曖昧でわかりがたいという結果になったのである。契丹文墓誌だけがこの史 実を明確に記録し、それによって一連の関連問題が氷解するのである。 現在までの契丹の歴史に関する研究が依拠するものはもっぱら漢文史料である。限られた漢文史 料であれこれ臆測し、各の一家の見を持ち、高下正誤を分かちがたいというのが、契丹文史料を遼 史研究に應用しうる以前の遼史研究の情況であった。筆者の遼史研究の代表作である「匣馬葛考」 が、『遼史』では五里霧中にあった匣馬葛の房族世系を考証し得たのは、契丹文墓誌に対する先行 研究に基づくものである。漢文史料の不足で隘路に行き詰まった遼史研究を展開するために、21世 紀に入ると、契丹文字の遼史研究に対する重要性が認識されるようになった。ここ数年発表された 論文のうちには、部分的に解読された契丹文字資料を遼史の難解な問題の考証に用いようと試みる 努力が看取される。しかし、契丹文字資料によって遼史研究の道を切り開くのは、言うは易いが、 行うことは甚だ困難である。困難の最たるものは、これらの資料を使用する前提条件として、それ 2 らを正確に解読せねばならないということである。この点をなしえないと、かえって迷路に陥って しまうことになる。すでに発表されている契丹文字資料の解読には、それ自身多くの問題が存在し ている。単に言語文字学の釈読成果として論ずるならば、証明を要する一つの意見となしうる。し かし、確實なものとしてそれを史学考証の論拠として用いることは、問題にならないわけにはいか ない。現在の契丹文字の解読成果について見ると、原資料に対する理解が確實無謬のレヴェルに到 達しているとはいいがたい。このためいくつかの曖昧模糊とした釈読はそれを論拠として特定の史 実を論断するには不適当である。いくつかこうした事例を挙げておこう。 1 契丹の「橫帳」の本義と性質に関する多くの研究は、全て契丹語を解さずに錯誤に至った結論 である。契丹小字は三つの表音字で「橫」の音韻hədurを書きつづり、二つの表音字 で「帳」の音韻gwərを書きつづる。hədur はモンゴル語の「橫」を示すhündelen、特に女真語とダ フール語の「橫」を示すhətun/hundulの音韻形式と似ており、gwərはモンゴル語系統の言語にある 「家」を示すgerと似ている。これによれば、よく連用されている は間違いなく『遼 史』にいう「横帳」にほかならない。筆者の遼史研究のもう一つの代表作である「契丹横帳考」が 発表されるまで、漢文資料に囚われた説はみな「橫帳」の本義を「黄帳」・「大帳」・「特設之帳」 などと論じていた。契丹小字墓誌に現れるhədur gwərも、「族系」と誤釈されていた。実際のとこ ろ、漢文の「橫帳」は契丹語の「橫」と「帳」の直訳に由来するもので、通説の如き奇怪な意味は ない。hədur gwərを「族系」と誤釈したばかりに、契丹小字の「惕隱司」を表示する ja dəu-n(直訳は「兄弟」の属格形」)を「橫帳」であると誤解を重ね、橫帳の本義は皇帝と兄弟と 呼び合う人であるとする曲解に至っている。ja dəu-nはそもそも契丹の官職名digin(惕 隱、突厥語täginに由来する)の意訳なので、属格語尾-nが付けられると官府名となる。『遼史』 に明確に記述されるように、橫帳諸皇族の遼太祖との関係は決して兄弟に限られるものではない。 こうした歴史の真實を無視した解釈は、遼史研究に混乱をもたらすだけというよりない。 2 遼朝の国号は、1982年からずっと「哈喇契丹」と誤釈されてきたが、「哈喇」halaは契丹小字 ・契丹大字 hulʤiを誤った推定音であり、その推定の過程は歴史言語学の基本的常識か ら外れるものであるため、最近は再び「哈喇」を自己否定し「胡老」hulaoに改め、「遼」の意訳と する説が現れた。しかしhulaoの推定の根拠は契丹大字ulʤiと音韻上まったく関係がない女真大 字hutuをlaoと誤解することに基づくものなので、さらにそれを地理名称である「遼」の意訳と 関連づけようとして、モンゴル語のhola(遠い)と同一視する努力も比較言語学の基本的常識の欠 如を暴露するものである。遼朝の国号hulʤi kitaiにあるhulʤiは、1206年にチンギス=カンが建 てた国号yeke mongol ulusにあるulusと、さらに闕特勤(Kül Tegin)碑にあるulysないしソクド 語のUlušとも深遠的な連繋をもっている、その本義はともに「国家や領地を形成する人眾」から「国 家」への語義変遷を辿ってきたものと考えられる。hulʤi kitaiの後に続くgurは、漢語の「国」を 契丹語化して読んだものである。hulʤi kitai gurは契丹王朝が成立した後の国家政権を指すもの で、契丹人が建国初において部分的に中原漢族王朝の典章制度を参考したことは、このgurの後続 が物語っている。それに反して、1206年チンギス=カンはyeke mongol ulusを建てる際に、漢制を 参照しなかったので、その国号に漢語の借用語「国」を付けなかったのである。契丹人は王朝樹立 以前には、hulʤi kitaiのみを自称としたが、建国後はじめてgurがhulʤi kitaiに付けられるよう になった。このことは、部落連盟から国家への発展に正に対応するものである。 3 金朝の国号も契丹小字の誤訳によって「女真国」と誤断された。それを土台として、金朝太祖 の年号「天輔」が行使されるまで「女真国」を自称し、年号「収国」が史官の杜撰に出自するもの 3 だという追随説も現れた。しかし「女真」と誤訳された単語は、契丹小字墓誌におけるす べての出現環境を検討すれば、①太祖の出身部落「陶猥思迭剌部霞瀨益石烈耶律彌里」、②「惕隱 司」、③「(耶律氏)家族を相続する」の前にもっぱら出現するのであり、遼太祖の出身部落が「女真 迭剌部」となり、遼朝の皇族政教を司る機構が「女真惕隱司」となり、遼朝皇族たる耶律氏の家族 が「女真家族」となる可能性が全くないことはいうまでもなかろう。この単語が示す音韻から簡単 に『遼史』に載る契丹語の「金」を意味する「女古」にあたることがわかる。この単語はさらに「金 帳」・「金系図」など数多くの連語に出現される。とくに「金家族」は、チンギス=カン家族がか つて「金家族」と自称したことにも一致するもので、北族における古来共有の伝統が見受けられる。 故に、契丹小字墓誌 の実際の意味は「金国」となり、女真人は「女真国」という国 号を使用したことは一度もなかったことになる。加えて、金太祖の年号「収国」を史官の杜撰とす る説も、女真大字石刻『海龍女真国書摩崖』(初刻年代は金太宗天會元年十月)に現れる「収国」 年号を無視することによる臆断にすぎない。 4 筆者の「『耶律迪烈墓誌銘』与『故耶律氏銘石』所載墓主人世系考--兼論契丹人的名與字」 が2003年に発表されるまで、契丹小字の「名字」の「字」を示すʧur'ən-nはずっと「第 二等級」と誤釈されてきた。これによって遼朝に「第二等級の国姓」なるものが存在したという謬 論が導かれ、さらに太祖の子孫が「第一等国姓」であると推論された。契丹語を誤解して得られた 結論である。歴史の真實から乖離した説は短命に終わり、今日では筆者の解読結果が受容されるよ うになっている。 5 契丹文墓誌に見える宋魏国妃の弟を、『遼史』に見える撻不也駙馬の後を継ぎ道宗の第二女に 尚した人物とする推論がある。しかしその人物は『遼史』に殺害年次が見えるが、墓誌にはそれ以 降にある人物の葬礼に出席したことが見える。契丹文墓誌に頻見するような記述を全面的に理解で きなかったための誤断である。 6 契丹小字の「院」を表示するを「斡魯朶」「宮」と誤釈する説があり、それによって、契 丹社会組織の「院」「宮」の性質・意味が近いとする誤った推論が出現した。この謬説の遠因は、 「斡魯朶」を表示する契丹小字orduが長期にわたって「亡くなる」と誤釈されてきたことに ある。 7 契丹文墓誌に聖宗の庶子侯古が六院褭古直舍利房の後を継いだという記述があることだけを見 て、皇帝の庶子は斡魯朶に所属しえず二院のみに所属しうると推論する説がある。しかし、契丹文 墓誌にはなお多く皇族の子孫が橫帳三父房を承継する記述があり、これは庶子身分か否かとは全く 無関係である。 以上挙げた事例はみな契丹文字資料を遼史研究に用いるという志向と実際の操作との間に容易な らぬ艱難が存在することを物語っている。遼史の研究において視野を非漢文資料まで広げる初志は むろんのこと間違いではないが、これら非漢文資料を利用するにあたって、その解読結果が史実に 吻合するか否かを判定する能力が不可欠の前提条件である。正確な解読結果は当然ながら遼史研究 の視野を新天地に向ける窓口を開けることができるが、錯誤した解読結果はかえってそれを誤った 道に誘い込ませるのである。 遼史の研究は、すでに決定的な時期に入っている。研究者が漢文資料の垣根を破り、誤謬に陥る ことなく、真の理解を獲得するのに、唯一行いうる研究方法は契丹人の立場に立ってこの時代の歴 史を理解することである。しかしこうした研究方法の成立の基礎は、契丹文字の記録した内容の正 確な解釈に立脚せねばならない。契丹文字の研究成果は遼史の空白を補填し、遼史に存在する訛誤 を糾正しうる。しかし、真に契丹文字に含蓄された史実を正確に解読し遼史研究に用いることは、 4 たやすいことではない。 第一に、女真大字に対する立ち入った研究の素養が必要である。それは女真大字が表音方式及び 文字構成において契丹文字を参考しているからである。解読済みの女真大字は契丹文字よりずっと 多い、その字義と字音の両方の関連性をもとに契丹文字を考釈すれば、豊富な成果が得られる。女 真大字に関する最新の研究成果を知らず、誤りを含む資料を無批判に傍証とすると、必ずや誤りを 加重することにならざるを得ない。上述のごとく、女真大字 の『四夷館女真訳語』における誤 った表音をもって契丹大字 の音韻を推定し、さらにそれに基づき契丹大字の遼朝国号を解釈す るのでは、正確な結論は望むべくもない。 第二に、アルタイ言語に対する研究の素養が必要である。これは、契丹語がこれらの言語と深い 関係をもつからである。これまで解読された契丹語には、モンゴル語系がもつ特徴がはっきり読み 取れる。契丹文字資料を利用する前提としての、言語学から契丹語の文法現象を分析する『契丹語 言文字研究』(愛新覚羅烏拉熙春著、東亜歴史文化研究会、2004年)のような基本作業が必要であ る。 第三に、中古漢語音韻学に対する研究の素養が必要である。これは契丹文墓誌の内容が中原の漢 族王朝と文化上の密切な関係をもっていて、大量の漢語音訳語が含まれているからである。これら の音訳語の正確な解読は、墓誌の時代・墓主の帰属・遼朝の名物制度などの考証において極めて重 要である。例えば、契丹小字『大金習輦鎮国上将軍墓誌銘』(かつて『金代博州防御使墓誌銘』と よばれていた)の墓主が任ぜられた刺史州 kin ʤəu(忻州)が「沁州」と誤訳され、 『涿 州刺史墓誌』(かつて『澤州刺史墓誌』とよばれていた)の墓主が任ぜられた刺史州 ʤo ʤəu(涿州)が「澤州」と誤訳されたりした原因は、遼金時代の北方漢語における音韻対訳ル ールを知らなかったからである。その誤訳の結果は、さらにこれら墓誌資料を利用して立ち入った 研究を進めようとする学者を誤らせてしまう。 このように、少なくとも以上の三つの條件を満たして、はじめて契丹人自身の記述という斬新な 角度から契丹人の歴史を再検討することが可能になる。筆者は長年満洲・女真系統の言語文字と歴 史文化方面の研究に従事し、これを基礎に研究を契丹に拡張し、契丹文墓誌を解読する過程で絶え ず遼史研究の新問題を発見した。 本書はこの研究領域に踏み込んだ第一段階の綜合的成果であるといえよう。今後の契丹文墓誌の 不断の発見に従って、新しい資料は現段階の研究内容を修正・傍証・充實させ、さらに本研究が第 二段階に発展するための十分な活力を提供しうるであろう。これが遼史研究の新しい課題であり、 我々に示された輝かしい情景である。歴史言語学、古文字学の綜合的研究を堅實な基礎として開拓 された遼史研究は、嶄新な面貌と蓬勃たる発展によって、中国断代史研究中における最も生命力に 富んだ領域となるであろう。 5