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外食の大衆化と飲食空間のジェンダー化 - DSpace at Waseda University
外食の大衆化と飲食空間のジェンダー化 ―関東大震災後の飲食場の再編成―(福田) 早稲田大学 教育・総合科学学術院 学術研究(人文科学・社会科学編)第 62 号 289 ∼ 306 ページ,2014 年 3 月 289 外食の大衆化と飲食空間のジェンダー化 ―関東大震災後の飲食場の再編成― 福田 育弘 1.災害のもたらす変化 日本は長い歴史のなかで,たえず地震や火事に襲われ,そのたびごとに復興し,社会的文化的な 次元で新たな展開をみせてきた。とくに近代化という点でいえば,1923(大正 12)年の関東大震 災と 1941(昭和 16)年 - 1945(昭和 20)年の太平洋戦争とその後の復興が時代を画するものであっ た。この 2 回の災害からの復興は,生活文化や風俗の面でも,現代につながる変容をもたらした。 いやむしろ,実態にそくしていえば,こうした災害が西洋的な生活様式の普及をもたらしたともい えるだろう。たしかに,西洋的な生活様式は,明治初頭以来,一部の上層階級において浸透してい たし,震災前からすでにいくつかの要素は,より下の階層,大正期(1910 年代)に形成されつつ あった俸給生活者や官吏などを主たる構成要素とした中産階級,いわゆる「新中間層」に広まりつ つあった。しかし,それらの生活様式やそれにともなう生活感覚がよりひろく大衆化したのは,震 災後の復興期のことであった 1。 ただし,ここで忘れてならないのは,こうした西洋化としての近代化が,単純な西洋化ではない ということである。外国文化を自文化に調和させることで,違和感のない独特の文化へと変容させ る過程を,文化人類学者のトービンは「ドメスティケーション」と定義した 2。まさに震災後の西 洋化は,それまでの単純な西洋の模倣,西洋の一方通行的受容でなく,西洋の文化を日本の側から 変化させて受容するドメスティケーションであった。 こうした震災後の復興による近代化,あるいは近代化の加速という点については,東京という都 市の近代化に焦点を当てて論じた著作や(越沢明や初田亨の一連の著作),あるいは最近では東日 本大震災(2011 年)の影響もあって当時の社会や社会意識の変化について社会史の視点から論じ た著作はあるものの 3,飲食行動に焦点を当ててその変容を検討した論攷はほとんどない。ここで は,当時刊行されたさまざまな飲食店ガイドや,東京案内をはじめとした東京の繁華街に関するエ セーのほか,都市をめぐる当時の学問的研究などの史料や文献を通して,復興による飲食空間の近 代化を背景に生じた飲食行動の変化と,その背後にある飲食の感性の変容を探ってみたい。ここで 290 外食の大衆化と飲食空間のジェンダー化 ―関東大震災後の飲食場の再編成―(福田) いう飲食の感性とは,飲食物や飲食空間の選択や好みであり,さらにそれらによって形作られつつ, そうした選択や好みを導く飲食行動の規範感覚である。ブルデューの用語をかりれば,震災後のプ ラティック(行動)とその背後にある身体化された行動図式であるハビトゥスの変容を,飲食とい う領域で検討するものといえるだろう 4。飲食が繁華街の欠かせない構成要素である以上,それは また同時に,従来あまり顧みられなかった飲食という視点からの盛り場論(繁華街論)の試みでも ある。しかも,先ほど言及した西洋文化のドメスティケーションがもっとも顕著な領域こそ,実は 飲食なのである。その点でも,震災後の飲食の変容の検討は,東京の都市空間の変容の検討に通じ るはずである。 2.復興における設備の近代化と西洋的感性 1923(大正 12)年の関東大震災震災はとくに東京市の西半分を破壊した。「震災で,前東京の七 割が灰燼に帰した」5 とされるが,当時の 15 区からなる東京市自体が今の東京特別区の東の地域に 当たる区域であり,現在もっともにぎわう繁華街である新宿も渋谷も市外であった 6。当時の東京 は,旧武家屋敷街である本郷・駒込・麻布などの西よりの「山の手」地域と,商店や歓楽施設の建 ち並ぶ日本橋・銀座・浅草などの東よりの「下町」から構成されていた。ともに,江戸時代以来の 文化や伝統を受け継ぐ地域である。そのなかで壊滅的な打撃を被ったのは,下町であった。被害は 地震によって生じた大規模な火災のため,非常に大きなものになった。『江東区史』は「焼失家屋 総数四〇七, 九九二戸」「罹災人口一, 五〇五, 〇二九人」「死者九万一千人余」と記録し,焼失家屋 は東京の総戸数の「六割四分」,罹災人口は総人口の「六割五分」に当たると述べている 7。それら の被害のほとんどが当時の東京市の東の地域に集中しており,いわゆる東京の下町が壊滅した。 震災後の変化,とくに生活文化の変化を考えるとき,この下町の壊滅という事態は重要である。 そこは江戸情緒を残す都市空間であり,震災後の状況を語った著作の多くが,震災がそれまで下町 に色濃く残っていた江戸の面影を一新したことを語っている。たとえば,日本画家で小説家・随筆 に お う 家でもある水島爾保布は『新東京繁昌記』の冒頭で「「江戸」は滅びた」8 と哀悼の念をこめて記し, 日本美術史家の安藤更生は『銀座細見』で「震災が,古い東京を木葉微塵に打ち砕いてしまふ前ま では,彼等[尚古主義者の江戸っ子]を満足させるやうな場所もあつた」9 と解説している。都市 風俗の微細な観察を考現学として実践した民俗学者の今和次郎は,新しい風俗に対する親近感をに じませた『大東京案内』で「下町は,一番震災の痛手を被つて,江戸情緒といひ下町趣味といふ性 質のものは,劃期的に過去帳へ葬られてしまつた」10 と述べ,あちこちで震災によって江戸的なも のが一掃されたと指摘している 11。ここで重要な点は,今が指摘するように,それまでの伝統的な 生活や生活感覚と結びついていた年中行事の多くが亡び,新たな年中行事が生み出されたことであ る 12。震災はまさに,ハードの面(建築や設備)で江戸の都市空間を破壊しただけでなく,ソフト の面(行動様式や感性)でも江戸的な生活感情を一新したのだった。 明治以来,政府は「市区改正」という名の東京の近代化計画をもちながらも,古くから残る江戸 外食の大衆化と飲食空間のジェンダー化 ―関東大震災後の飲食場の再編成―(福田) 291 の街並がそれを十全に実現することを妨げていた。都市政策の専門家,越沢明は『東京の都市計画』 (1991)で,東京の人口が飛躍的に増加し(1887[明治 20]年の約 100 万人が 1920[大正 9]年に 約 240 万),第一次世界大戦の戦争景気により東京南部の湾岸地帯に重工業地帯が形成され,東京 駅の開設にともなう都市と都市郊外の鉄道網の発達によって丸の内オフィス街が発展し始めたとい う重要な事実を指摘したあと,「このようななかで,都市インフラ整備は遅々として進まず,路面 電車の混雑はひどくなり,道路は満足に舗装がされず,晴れの日は黄塵が舞い,雨が降れば泥だら けの状態であった」13 と描写している。事実,先程の水島爾保布は震災前の東京を「泥都」14 と形 容している。 震災後に進められた帝都復興計画は,当初の予算 7 億 2 千万円が 5 億 7 千 5 百億円余りに大幅に 削られたものの,1923 年の国家歳入が 15 億 2 千万円であることからみても,それでも相当大規模 なものであり,これによって都内が区画整理され,道路幅が拡がり,震災 7 年後の 1930 年までの 比較的短期間に幹線道路を中心に道路網が整備された。この点について越沢明は「これは明治の市 区改正の遅々たる歩みと比べるとまさに画期的な壮挙であった」と述べ,「近代街路の設計思想が 日本で確立した」と評価したうえで,「戦後の高度経済成長期の街路よりも歩道の幅が広く,ゆっ たりとしている」と補足している 15。もともと,政府主導で行われた都市整備は,復旧ではなく復 興であった。つまり,かねてからあったものを作りなおすのではなく,新たな帝都東京を作ろうと いうものであった 16。震災によって江戸的都市空間が一掃され,新たな帝都の建設が実現したので ある。 ここで重要な点は,こうしたハード面の整備は,新しい生活風俗の代表ともいえる,和服を脱ぎ 捨てて洋服をまとった「モダン・ガール」の誕生をうながしたことである。都市風俗の明敏な観察 者であった今和次郎は「何故モダン・ガールは東京に現はれたと云へば,その一つの原因は実に街 路の新式化,欧米化にあると云へる」と鋭い指摘をしたあと,復興による道路の舗装によって泥都 に不可欠だったゴム長が不要になり,「紅色のヒール,黄色のヒールの靴でもつて憂慮なく𤄃歩出 来る」ようになったと説明している 17。 都市空間の近代化が近代的風俗や近代的感性を生み出すという展開は,日本では多くの面で観察 できる。長い時間をかけて内発的に近代化が進行したヨーロッパに比べ,日本ではヨーロッパで 200 年近くかかった近代化が西洋化として,つまり外からもち込まれた改革として,わずか数十年 の間に政府の主導という上からの圧力をともないながら行われたのである。それはハード面の変革 と拡充がソフト面の変化をうながす過程でもあった。あるいは,そうまで断定できなくとも,少な くとも建築物や設備の近代化が,生活習慣や生活上の感性の変化をうながす傾向が強かったとはい えるだろう。道路の整備がハイヒールを履いたモダン・ガールの出現をうながしたように,物資的 条件の整備が人々の感性に変化をもらすという過程が,日本的なドメスティケーションを特徴づけ る枠組みの一つである。こうしたドメスティケーションによって,新生した東京という都市空間で の食べ方も変容をこうむっていく。そうした変容をになったのが,すでに震災前から東京に展開し 292 外食の大衆化と飲食空間のジェンダー化 ―関東大震災後の飲食場の再編成―(福田) ていた二種類の外食空間,百貨店の食堂とカフェであり,震災後それらの外食空間は男女に振り分 けられていくのである。 3.百貨店の隆盛と女性の外食空間 西洋料理が洋食として一気に大衆化するのは,震災後のことであった。 フランス料理を基調とした西洋料理は,明治政府の欧化政策によって,政治家や高級官僚,華族 や企業経営者などの上流階級に次第に定着していく。1874(明治 7)年には,宮中ではじめて諸外 国の大使を招いた午餐会で西洋料理が供されており,現存するメニューからは,その料理が当時と してはいささか古典的すぎるほど正統なコース仕立てのフランス料理であったことがわかる 18。 この後も,宮中の宴会をはじめとして,政府高官や財界人のレセプションではこうしたフランス 料理のコースが出されていく。しかし,それは当時の西洋諸国の一流ホテルや公式宴会がフランス 料理を基調にしていたからであり,当時の日本人にとっては,フランス料理というより,なにより もまず近代文明をもたらした西洋の料理であることが重要であった。つまり,受容する側からみて, 料理の領域でフランスはまだ西洋からさほど区別されていなかったのである。1872(明治 5)年に 外国人要人の接待に対応するため政治家や財界人の支援で東京の築地に作られたホテルレストラン 築地精養軒も西洋料理店であり,その後長いあいだ最上級の西洋料理店として存続する 19。 歴史家の前坊洋の丹念な調査からは,より大衆化した形式と価格の西洋料理店が明治中期には早 くも全国に拡がりをみせ,ライスカレー 20,コロッケ 21,カツレツ(のちのトンカツ)22 などの料 理が多くの店で出され,ハイカラ好きな一部の人々に受け入れられていたことがわかる。すでに調 理面で日本的なドメスティケーションが行われていたのである 23。これらの洋食は,ご飯のおかず として出され,カレーやその亜流ともいうべきハヤシライスなどは,日本の伝統的な丼もののよう に,ご飯の上に具材の入ったルーがかけられて供された。 こうして,明治期において,上流階級のかぎられた飲食空間で出されるフランス料理風の豪華な コース料理と,西洋料理店で食されるドメスティケーションされた西洋料理という二つの傾向が あったことがわかる。その後,大正時代末期になって,日本風にドメスティケーションされた西洋 料理が,一品だけで食事として食べられることから「一品洋食」と呼ばれて親しまれるようになる と,それと区別したかたちで,前菜・スープ・アントレ・メイン・デザートと時系列で順に出され る豪華なコース料理は,フランス語のターブル・ドート(table d’hôte)を誤解したうえで,その訳 語である「定食」と称されるようになっていく 24。震災後の急速な東京の近代化は,まだ客層の限 られていた洋食,とくに前者の「一品洋食」をより広い層に広めていく。そして,それをになった のが,百貨店の食堂であった。 日本の百貨店は明治 30(1900)年代に高級呉服店が百貨店に姿を変える形で誕生した。その後, 明治末にそれまでの伝統的な座売り方式 25 を現代までつづく陳列販売方式に代えて近代化の第一 歩を踏みだした 26。ただ,呉服店が洋服部を作ることをきっかけに百貨店に転身したということも 外食の大衆化と飲食空間のジェンダー化 ―関東大震災後の飲食場の再編成―(福田) 293 あって,震災前までの百貨店はおもに高級官僚や財界人,宮内庁関係者や華族といった上流階級が 顧客の中心だった 27。 こうした顧客をもった百貨店がすみやかに大衆化するのは震災後のことである。そのきっかけと なったのは,震災後に打撃を受けた多くの百貨店が仮営業所で生活必需品の販売を行い,好評を博 したことだった。その後,各百貨店はこの経験を生かし,従来からの高級品だけでなく日用品もあ つかうようになり,当時形成されつつあった俸給生活者を中心とする都市中間層の消費受容にこた える存在になっていく。 ちなみに,震災後,新たな百貨店の消費者となる都市の中産階級は,震災による打撃をさほど受 けず,そのため当時急速に住宅地として開発されだした東京西郊の「山の手」に住むようになって いった。彼らが容易に百貨店のある銀座や日本橋といった繁華街にやってくることができたのは, 震災前からあった市電のほか,震災後に加速度的に発達した省電(現 JR)と私鉄各線や地下鉄 28, 円タクや円太郎といったタクシーや乗合バスなどの都市交通機関の発達があったからである。ここ でもハード面の近代化が新たな消費動向を助長していることがわかる。 震災が百貨店にもたらしたもう一つの変化は,下足預かり制度の廃止であった。それまですべて の百貨店で客は入り口で履物を下足番に預けて店に入っていた。日本で家屋に入るときは履物を脱 ぐのが当たり前で,店に入るさいにもこの習慣は維持されていたのである。これは「呉服店時代の 名ごり」29 ともいえるが,土足で店に入るということに店側も客側もふくめ当時の人々に大きな抵 抗感があったと考えたほうがいいだろう。つまり,感性の問題である。しかし,震災後,日用品を 求めて大挙して押しかける客を前に,百貨店は下足預かり制度を廃止せざるをえない状態に追い込 まれた。当時,百貨店を経営学の点から分析した松田慎三は「震災の齋せる画期的事件は,下足廃 止の実行である。震災後の実情は下足廃止を必然的ならしめ,此処に大衆化の束縛条件は打破され た」と述べている 30。 この土足で入場という新たな行動様式は,飲食行動にも大きな影響を与えていく。下足置き場で あった地下が売場として活用できるようになり,やがて地下は震災後もっとも必要とされた食料品 の売場となり,さらに後には一部で食堂になっていくからである。下足預かり制度の廃止は,百貨 店が飲食物を商品として取り込むきっかけとなったのである。 実は日本の百貨店は震災以前の早い時期から店内に食堂を設けていた。はじめて食堂を開設した のは日本橋の白木屋で,1903(明治 36)年のことだった。ただし,食堂といっても,在来の店を 誘致したもので,提供されたのは,汁粉,そば,鮨という簡単な和食だった。その後,白木屋は 1911(明治 44)年の改築時に 100 人を収容できる自前の食堂を開設し,メニューも増やし,洋菓 子のほかランチとしてサンドイッチなどの洋食も登場する。 もともと,日本の百貨店は欧米の百貨店をモデルとしながらも,子どもづれの女性客を意図的に ターゲットにする店作りをめざしていた。初田亨は『百貨店の誕生』のなかで「家族連れで百貨店 を訪れるのは,日本の特色の一つでもあった」31 と述べ,さらに「家族連れといっても夫婦と子供 294 外食の大衆化と飲食空間のジェンダー化 ―関東大震災後の飲食場の再編成―(福田) の組み合わせではなく,多くは婦人と子供の組み合わせだった」32 と補足している。これは周到に 欧米の百貨店を調査した結果,欧米の百貨店の顧客のほとんどが女性であることをふまえて意図的 に選ばれた戦略だった。初田が「欧米に学びつつも,日本独自の百貨店をつくっていった」33 と概 括するように,日本の百貨店自体がドメスティケーションの成果であった。つまり,日本の百貨店 は,欧米のように女性だけでなく,子どもづれの女性客を意図的に呼び寄せようとしたのである。 まさにその戦略を具体化したのが百貨店の充実した食堂であった。もっとも顕著な事例は三越で ある。1907(明治 40)年に日本橋店に食堂を設けて以後,改装と拡張のたびごとに食堂を充実させ, 1921(大正 10)年に本店 6 階に面積約 855 平方メートルで 600 人収容できる大食堂を作り,洋食 を大幅に導入して 40 種以上の品目を揃え,さらに翌年には洋食部として 300 席の第二食堂を設置 している 34。ただし,初田によれば,「当時の客は和食が七割,洋食が三割くらいで,御飯時分を 除いて洋食部に入る客の方がはるかに少なかったという」35。 様相が一変するのは震災後である。当時のレストランガイドやレストラン探訪記からは,百貨 店の食堂の充実ぶりと繁昌する様子が伝わってくる。「時事新報」の記者だった白木正光編の『大 東京うまいもの食べある記』(1933)は発売とともに人気を博し,2 週間後に再版,約 1 ヵ月後に 6 版を重ねたという影響力のあったガイドである。このガイドは銀座の百貨店,松屋の食堂につい て「七階大食堂の外,地下室食堂では一品洋食,喫茶が主です」36 と紹介している。さらに,上階 の食堂のほかに地下に食堂のある百貨店がいくつも登場しており,震災後,下足預かりの廃止で空 いた地階スペースの多くの部分が食料品売場から食堂になっていったことがわかる。当時,洋食が メインとなるレストランが地下に別途設置されるほど,洋食の需要があったのである。しかも,そ こで食べられる洋食は,明治以後,上層階級の公式宴会料理となったフランス風のコースで出され る「定食」ではなく,簡易に食べられる一品ものの洋食だった。ちなみに,ここでいう一品洋食の 三越「第二食堂」1922(大正 11)年 『株式会社三越 100 年の記録 1904–2004』101 頁 外食の大衆化と飲食空間のジェンダー化 ―関東大震災後の飲食場の再編成―(福田) 295 代表が実はカレーライスであり,さらにハヤシライスやチキンライス,場合によってはトンカツ, ちょっと新奇なところではマカロニ料理であった。つまり,料理自体はすでに明治期に発明された ドメスティケーションされた西洋料理であった。その点では,新しさはない。しかし,そうした料 理が大規模な食堂によって,多くの人々に広まった点は画期的だった。 では,より一般的に,百貨店のメインの飲食空間である大食堂では,どのような料理を,どのよ うにサービスし,だれが消費者となっていたのだろうか。上記のガイドは店頭の様子を「ずらりと 並んだ食べ物の見本棚,洋食,和食,支那食,雑といった風に大体分類してある」37 と描写している。 この描写からは,日本人には馴染みの入り口に蝋細工による料理のサンプルが展示され,和洋中な んでもありの多様性が百貨店の食堂の特徴だったことがわかる。サンプルの展示は,和洋中と多様 な料理があるために,とくに外食の初心者や地方からの買い物客には好都合だった。日本独自の料 理のサンプルの店頭での展示も,実はこの時期に東京で行われるようになった慣習であり,それを 広めたのも百貨店の食堂だった。 注文の仕方にも特徴があった。料理のサンプルを見て気に入った料理の食券をあらかじめ購入 し,空いている席に座って給仕にわたすというチケット制が採用されていたからである。店側から すれば大人数の客を効率的にさばくためのサービスの簡便化であり,客にとっても多様な目新しい 洋食や中華をいちいち名前を覚えて注文する必要がないというメリットがあった。 さらに,百貨店では子ども連れの家族客に対応するため,子ども用のメニューを用意するように なる。今も残るあの「お子様ランチ」である。三越が 1935(昭和 10)年の増築で「御子様ランチ」 を設けたのがお子様ランチのはじまりである。「御子様ランチ」は「御子様献立」という子ども専 用のメニューに載せられていた。専用メニューには,そのほかにも「御子様弁当」や「御子様寿シ」 「子供パン」などがあり,「赤ちゃんの御菓子」さえ出されている。子どもづれの客に幅広く対応し たメニューである。現代までつづくお子様ランチと同じように,これらの子ども用料理には子ども の喜ぶ童話の情景や彩り豊かな模様のついた食器が用いられている。こうした状況を分析した初田 は「子供連れの客に対して細かな配慮をしていた様子がわかる」と記し,「それだけ家族連れの客 を大切にしていたことを示している」と結んでいる 38。このような子どもづれの家族が外食できる 点が,日本の百貨店のレストランの大きな特色である。欧米の百貨店ではレストランが併設されて いないだけでなく,外食自体がいかなる形態においても子どもづれで行われることは,まずないか らである 39。 このような「百貨店式の食堂」が東京中に広まっていったことを『大東京うまいもの食べある記』 は伝えている。食品見本,食券制度,和洋中なんでもありの食堂は,大衆の外食欲望に適合した 形態であり,そうした食堂を経営して成功するものが続出した 40。ところで,ここで注意すべき点 は,より仔細にみれば,このような外食の大衆化が飲食行動全般の西洋化を軸に進んできたことで ある。つまり,料理のレベルでは洋食が軸になっていたのである。それは,多くの百貨店が洋食中 心の食堂を別に設けていた事実からも推測できる。しかし,事態をより鮮明に示しているのは,銀 296 外食の大衆化と飲食空間のジェンダー化 ―関東大震災後の飲食場の再編成―(福田) 座に震災後開店した小松食堂の事例である。小松食堂は銀座の老舗料亭,松本楼の経営する食堂で, 銀座に詳しく銀座を愛したジャーナリストの松崎天民はその著書『銀座』で,「和食洋食何でも出 来るのが,評判になつて居る」41 と述べ, 『大東京うまいもの食べある記』の編者である白木は「松 本楼の料理の大衆化」42 であると明快に断定している。大衆化とは洋食化のことであり,老舗の料 亭でさえ和洋中なんでも出す店を作る必要があったのである。 また,食べ方という点では,下足預かりの廃止にともなって,下足のまま椅子に座って食べると いう様式が伝統的な日本料理店にもおよんだ。料理レベルではない飲食行動の西洋化である。松崎 や白木は,銀座の有名な牛鍋店松喜やそばの名店である麻布の更科が一階部分を椅子とテーブルに したことを,注目すべき大きな変化として取りあげている 43。こうした驚きと悔恨をともなう事情 通の叙述からは,かえって一般の人々の飲食に関する感性の変化がうきぼりになる。 そして,もっとも重要な点は,百貨店の食堂が新たな顧客として当時まだ外食の習慣のあまりな かった女性を獲得したことであった。それは,ガイドの「食堂を見廻すと大部分は女客」44 という 指摘からもうかがえるが,実はこのガイド自体が「序」で明確に述べられているように「一般中流 家庭の人々が家族連れで安易に行ける店に主力を置いて」45 書かれたものであった。このガイドが 好評を博したという事実も,女性たちが新たに外食の習慣を身につけつつあったことを物語って いる。 ところで,外食する女性は家庭の主婦だけではなかった。当時さかんに語られ出した「職業婦人」 は外食をせざるをえない階層であった。震災後の百貨店やカフェの増加やオフィス街の発展によっ て,百貨店の女性店員,丸の内オフィス街の女性事務員,さらにカフェの女給など,飛躍的に増加 した職業をもった女性たちは必要に迫られて外食しだした階層であり,彼女たちは慣行的に女性が 給仕する男性客中心の日本食店よりも,簡便で入りやすい洋食堂を好んだ。 こうした事態と平行して,伝統的な日本料理店,とくに高級料亭が衰退をたどりつつあった。こ れらの料亭では,仲居とよばれる女性による給仕が一般的であっただけでなく,客は高価な代価を 払って芸者を上げて遊ぶのが普通であった。高級日本料理店としての料亭について,松崎は『東京 食べある記』で,芸妓を上げることを当然として料理の味を第一に考えない料亭が衰退し,料理本 位の関西系料理店が東京に進出して繁昌している様子を,諦めの混じった愛惜の念とともに叙述し ている 46。 関西系の飲食店の展開は震災前からみられたが,震災後壊滅した東京の料理店に代わるように, 多くの関西料理店が銀座をはじめとした東京の繁華街に数多く開店した。特徴は,カウンター席を しつらえ,そこに座った客の前で調理をするというもので,店の作り自体から料理の味を重視し ていた。もっとも有名な店は銀座に本店と支店の 2 軒の店があった濱作で,『大東京うまいもの食 べある記』では「客の前で包丁を使ふ,純大阪式小料理の銀座進出に先鞭をつけた店」47 とされ, ジャーナリストの小野田素夢は『銀座通』で「大阪料理の「濱作」は銀座中のうまいもの屋の白 眉」48 であると絶賛している。 外食の大衆化と飲食空間のジェンダー化 ―関東大震災後の飲食場の再編成―(福田) 297 明治期に日本に本格的な西洋のコース料理が紹介されて以後,和食より西洋料理が宴会で好まれ た背景には,西洋における飲食行動の慣行から妻である女性も参加できる食事様式であったという 点がある。たとえば,先ほどの歴史家,前坊は明治期の法学者の妻と漢学者の日記を詳細に検討し, 日本料理と西洋料理が当時から使い分けられており,男性だけの公的性格の強い宴会では日本料理 店が,妻や家族をともなった比較的親密な宴会では西洋料理店が用いられていたことを明らかにし ている 49。つまり,高級料亭に代表される日本料理は男性だけの飲食空間だったのに対して,西洋 料理店は当初から女性的で家族的な飲食空間であった。この料理店における男女の住み分けが,女 性が簡便な一品洋食を気軽に食べられる百貨店式食堂の隆盛によって,震災後いっそう明確になっ ていく。これは男性が居酒屋でくつろぎ,女性がフレンチやイタリアンで談笑するという現代の状 況にまでつながる,日本独自の飲食空間の性別化現象である。 では,料亭の没落とともに男性の飲食空間はどこに移ったのだろうか。それが震災後に一挙に増 加する女給のいるカフェであり,カフェの変容形態であるバーであった。 4.カフェの氾濫と男性の享楽空間 カフェも百貨店と同じく西洋起源であるが,百貨店が経営者によって意識的に日本的にドメス ティケーションされたように,当初から日本的な変容をこうむっていた。日本最初のカフェとさ れるのは 1911(明治 44)年に銀座に開店したカフェー・プランタンである。経営者は洋画家の松 山省三で,パリへの留学がかなわなかった松山は,若い芸術家やインテリが集まるヨーロッパの カフェのような空間を作ろうとこの店を開いた 50。店内はパリのカフェに似たフランス風の内装で あった。しかし,ヨーロッパのカフェと異なる点は,各種アルコールやカクテルのほか西洋料理に 力点が置かれ,女給がいてサービスをすることだった。しかも,女給の髪型は和風で和服の上に洋 風のエプロンをまとっていた。そんな女給が西洋のアルコール類や洋食を客に給仕したのである (次頁の写真参照)。和食料亭の仲居や芸者の伝統が保持されたといってもいいだろう。いずれにし ろ,カフェは,洋風の内装で和風の女性が洋風の飲み物や料理を提供する点で,百貨店以上にドメ スティケーションされた日本風の飲食空間であった。 この後,同じ 1911 年に銀座にできたパウリスタやライオンのほか,大正期に銀座を中心にいく つものカフェが開店し,震災前年の 1922 年には東京には 33 軒のカフェがあった 51。当時のカフェ は,初田がいうように,「ヨーロッパに憧れる,芸術家や小説家などのインテリを中心とした人々 が多く集まる場」52 であり,実態はドメスティケーションされた空間であったとはいえ,当時の日 本の知識人にとってヨーロッパ的なものを感じさせる空間だった。 また,プランタンやライオンをはじめ,ほとんどのカフェでは洋食が提供されており,日曜や祝 日の昼には洋食だけを食べる家族連れも少なくなかった。とくに,ライオンは西洋料理の老舗,前 述の精養軒の経営で料理が美味いことで有名だった。ただし,ホテルやレストラン(西洋料理店) で出される洋食が「定食」,つまりコースが主流だったのに対して,カフェではおもに一品洋食が 298 外食の大衆化と飲食空間のジェンダー化 ―関東大震災後の飲食場の再編成―(福田) 1916(大正 5)年当時のカフェー・ライオン 『広告で語る天賞堂と銀座の 100 年』56 頁 出されており,百貨店の食堂と同じように,洋食の普及と大衆化に貢献していた。 しかし,女給が同席してサービスするというヨーロッパのカフェにはない特質のため,夜を中心 にカフェの客の多くは男性であった。やがて時代とともに,この女性による給仕という面が重視さ れるようになっていく。この傾向に拍車をかけたのが震災だった。震災後,より魅力的な女給をた くさんおいて他店との差別化をはかるカフェが増えていく。こうした女給中心の営業を大々的に 行ったのが,震災翌年の 1924(大正 13)年に銀座に開店したカフェー・タイガーであった。タイ ガーについて作家の松崎天民は「女給本位の銀座のカフエー 53 では,ライオン時代既に過ぎて,今 やタイガー時代を出現して居る程に,震災後の銀座の流れは,アブノルマルな進展を見せて居ます」 と述べている 54。松崎(1878 年生)より一世代あとの若い作家で,銀座のカフェをこよなく愛した 酒井真人(1898 年生)は『カフヱ通』のなかで,カフェの女給が別の店に移動すると,それにと もなって客も移動する事実を指摘し,「カフヱの黄金時代といふのは,取りも直さず女給の黄金時 代なのである」55 と断じている。 もはや,カフェは飲食がメインの空間ではなく,女性との疑似恋愛をアルコールが助長する空間 であった。こうしたカフェの数は震災後,急速に増加し,震災前の 1922 年に 32 軒だった東京市内 のカフェは震災翌年の 1923 年には 159 軒,1924 年に 226 軒と急速に増え,1929 年に 1000 軒を突 破し,1930 年には 1073 軒に達している 56。この数字には,震災を期に,1930 年にあいついで進出 した,美人座,日輪,銀座会館といった大阪の大手カフェもふくまれている。こうした大阪資本の 外食の大衆化と飲食空間のジェンダー化 ―関東大震災後の飲食場の再編成―(福田) 299 大手カフェは,すでに大阪で成功をおさめていた女給によるエロティックなサービスをより過激に 追求した。それを象徴するのが,すでに大阪のカフェに設置されていた隣が見えないほど衝立を高 くしたボックス席の導入である。照明を暗くした店内での高い衝立席では,かなりきわどいサービ スが可能だった。こうして大阪系のカフェは女給の濃厚なサービスで評判になり大繁昌する。安藤 更生は「銀座は今や大阪カフエ,大阪娘,大阪エロの洪水である」と慨嘆している 57。 一方,在来のカフェもこうした大阪のカフェのあけすけな商法に対抗するため,より若く,より 美しい女給を雇い,過激なサービスによって客を呼ぼうとするようになっていく。女給たちは店か ら固定給をもらうことはほとんどなく,客のチップが主たる収入源だったため,多くの客を自分の 常連にしてなるべくたくさんのチップをかせごうと,みずから過激なサービスに邁進するものも多 かった。 こうした傾向に警察当局が取締まりを厳しくするようになったのは当然の成り行きだった。事 実,いくつかのカフェが営業停止や改善命令を受けている。しかし,このような警察の取締まりに もかかわらず,カフェは増え続け,さらにより小規模で,より簡易なバーが銀座をはじめとする繁 華街の裏手にでき,女給による親密で濃厚なサービスで栄えていく。バーは大した料理も出さない うえに小規模であるため,開店も比較的容易であり,それがバーの急激な増加の理由であったと考 えられる。日本のバーは明らかに女給本位のカフェの変容形態であり,その簡略版であった。こう して,1930 年代になると,「エロ・グロ・ナンセンス」58 の時代が到来したといわれるようになる。 カフェとバーの増加にともなって,女給の数も急激に増加する。酒井は 1930 年の時点で女給の よりゆき むねつぐ 数を 1 万 5 千人余としている 59。すでに当時,村嶋歸之や大林宗嗣らの研究者によって女給の社会 学的研究がなされるほど,女給の存在は社会現象となっていた。 では,なぜ,これほどカフェが繁栄したのだろうか。酒井真人の『カフヱ通』の最後に,カフェ の経営者や商工会議所役員のほか,市役所の管理職や警察関係者の参加した座談会が収録されてい る。そこで市教育課長は,次の「三つの要素」を「カフヱの魅力」としてあげている。1「手つ取 り早く享楽されること」,2「経済的に異性に接しられる」,3「更に芸妓や女郎より遙かに女給は頭 脳の点に於て,向上して近代的であるから,例えば時事問題に触れても,それにバツを合せて行く 丈の才能を有してゐる。それ丈けに,男にとって,家庭で女房と対話しているやうな親しみと明る さを抱かせる」60。さすがに取り締まる側の分析だけに,正鵠を射ているといってもいいだろう。 簡便さ,経済性,近代的女性との擬似恋愛的交流というこれらの指摘は,その背後に没落してい きつつあった料亭と料亭での芸者を上げた酒食が暗に比較の対象として想定されている。踊りとか 三味線の演奏をはじめ芸妓が繰り広げるいろいろな技芸を評価する知識や教養(ブルデューのいう 「象徴的所有」によって「身体化された」「文化資本」61)が必要な料亭での遊興に比べ,カフェや バーでの女性との疑似恋愛はより直接的であり,費用も少なくてすむうえに,もともと特別な訓練 を受けた芸妓と異なり普通の女性であるため,気易く接することができる。まさに,男性が飲食を 口実に女性を消費対象とする空間の大衆化した形態がカフェであり,バーであった。そのような大 300 外食の大衆化と飲食空間のジェンダー化 ―関東大震災後の飲食場の再編成―(福田) 衆化は,百貨店式大食堂の隆盛と共通する,近代大衆消費社会の特徴でもあった。震災後,百貨店 式の食堂が中産階級の女性と家族連れの洋食を軸にした外食空間となったことに呼応して,カフェ は中間階級の男性が女性を束の間の性的対象とする,性と結びついたアルコール中心の空間になっ たのである。 事実,小野田素夢はいちはやくこうした現象に気づき,1929(昭和 4)年に『銀座通』で銀座に 数多く展開しているカフェとバーを紹介したのち,次のように述べている。 「カフエー,バーの方はこれくらゐにして,喫茶店を一周してみよう。その前に特にいひたいこ とは,一昨年あたりからの著しい現象であるカフエー,バー,レストラン,喫茶店の分解作用だ。 地震前は勿論地震後も猫も杓子もカフエーで,バーという専門的なものは非常に少なかつた。カフ エー兼レストラン兼バー兼コーヒーハウスが総称してカフエーだつたのが,レストランはレストラ ン,カフエーはカフエー,バーはバーとやゝ画然と領分を描くようになつた。」62 ここで小野田が喫茶店といっているのは,アルコールを出さず,女性の店員がいても,注文を取 り飲み物や料理を運ぶだけで,客といっしょに座って接待をしない,いわゆる純喫茶のことである。 こうした「普通喫茶店」が東京市の統計に項目として登場するのは 1932 年からである 63。 こうして,小野田のいう「分解作用」によって,それまで男女の住み分けがあまりはっきりして いなかったカフェがバーとなって男性のものとなり,家族連れの女性をおもな顧客とした百貨店式 食堂とは明確に異なった飲食空間となっていく。見方を変えれば,震災後,エロを売りにしたカ フェやバーが乱立したからこそ,女性と家族連れをターゲットにした白木光男編の『大東京うまい もの食べある記』が好評を博したともいえるだろう。いずれにしろ,男性主体でアルコールをとも なった疑似性愛を楽しむバーは,それと対をなす女性中心で洋食を軸とした百貨店式食堂ととも に,震災後の復興のなかで日本独特の性別化した飲食空間を形成していく主たる構成要素だった。 5.大衆化する盛り場・銀座と都市空間の再編成 百貨店とカフェがもっとも賑わったのは,震災後,ただちに復興した銀座であった。震災翌年の 1924(大正 13)年 12 月に松坂屋銀座店が銀座の南寄りの場所にできると,半年後の 1925(大正 14)年 5 月には神田の松屋が銀座の北寄りの一画に店を構えている。ともに近代的なビルディング で,当時許容された限界の地上 8 階地下 1 階という巨大な店舗であった。 カフェの営業再開はもっと素早かった。松崎天民が『銀座』のなかで「「東京の復興は飲食物より」 と思わせたほどに,市内の何処へ行つても,先ず第一に店を開いたは,カフエーや小料理屋や,お でん屋や寿司屋の類であつた」64 と観察しているように,カフェはバラック仕立ての店舗で直ちに よしず 営業を再開し,飢えた人々に飲食物を提供した。小野田素夢は『銀座通』で,「ライオンが葭簀張 りでライスカレーを売り出した時,洋食に飢ゑてゐた私たちは何をおいても飛び込んだ」65 と述懐 し,9 月 1 日の震災からわずか 4 ヵ月後の 1923 年の暮れには,表通りに商店が並び,いわゆる銀 ブラ 66 がすでに復活したと述べている 67。 外食の大衆化と飲食空間のジェンダー化 ―関東大震災後の飲食場の再編成―(福田) 301 ただし,すでにみたように,百貨店もカフェも震災後,近代の加速化する消費社会を生きようと する人々の生活にあわせて急速に軽便化し大衆化していく。歴史家の今井清一は浅草で演歌師とし そ え だ あ ぜんぼう て生きた添田唖蝉坊の文章( 「浅草底流期」1928)を引いて,この時期を「事務的飲食時代」と形 容している 68。それは当然ながら盛り場としての銀座の大衆化を意味した。先ほどの松崎は『銀座』 き せ ん ひんぷく の随所で,震災前の「貴族的」で「富豪的」雰囲気だった銀座が,震災後に「貴賎貧福の交錯」す る空間となり,全体としては「大衆的」な場所になったと概括している 69。小野田素夢も『銀座通』 の冒頭で銀座を定義して,身分の違いや貧富の区別による「分けへだてがない」街とし,「白髪の 老人も断髪のモダン・ガールもブルジョワもプロレタリアもみな一様に」銀座を「愛する人」であ ると述べている 70。 かつての銀座は,高級官僚や財界人などの上流の富裕層のための繁華街であった。しかし,震災 後に銀座に集まったのは当時「社会階層として形成されつつあった都市の中産階級(学者,官僚, 軍人,会社員などの知識人,俸給生活者)の人々」であり,そこにはすでに紹介した松崎や安藤の ような「作家,芸術家など文化人」もふくまれていた 71。こうして,1920 年代後半から,ここにそ の一部を引用した銀座に関する著作や雑誌記事が大量に書かれることになるのである。銀座をめぐ る言説の隆盛自体が,実は銀座の大衆化を示しているのだ。 では,この銀座の大衆化とは,都市空間の編成という点では,どういう変化だったのか。かつて 銀座が憧れ,銀座が再現しようとする盛り場のモデルはフランスを中心としたヨーロッパであっ た。それは,日本最初のカフェの創立者となった洋画家のフランス志向によく現れている。しかし, 震災を機に,都市空間のモデルはアメリカへと軸足を移す。たとえば,大衆向けの百貨店の経営方 法はアメリカ式の百貨店にならったものであった 72。また,震災後に広まる「一品洋食」も当時の ガイドでは「米国風」と形容されている。 『大東京うまいもの食べある記』では,冒頭近くの「レストラン」の定義の項目で, 「普通の西洋 料理屋のこと。此の頃は米国風の簡単な一品料理が流行してゐるので,安直に食べることが出来ま す」73 と説明されている。事実,本文中には「米国風の一品料理で,美味しい洋食を手軽に食べさ せるので,すっかり当てた店」「米国式洋食堂」「米国風の一品洋食」「米国民の洋食」74 など,店の 説明にも「米国」という語が頻繁に登場する。はては銀座の中国料理店アスターも「米国式チヤプ スイ 75 で売出した店」76 と紹介されている。当時,米国の影響と感じる料理名としては,ビフテキ 4 4 4 の名が頻繁にあがっているが,このビフテキもライス,つまりご飯のちょっと贅沢なおかずとして 食べられていた。一品洋食の内容が前述のようにライスカレーに代表される日本化した西洋料理だ とすれば,ガイドに登場する「米国式」とは一皿料理で簡単にご飯かパン(アメリカ風のロールパ ン)で食べられる,その後の日本人に馴染みの「洋食」であったとみていいだろう。つまり,「米 国式」とは料理の内容よりも,食べ方をさした言葉であったと考えられる。効率重視の飲食行動が 時代の主流になっていたのである。 アメリカの影響は当時,物理的な事実としても存在した。震災直前に竣工し,震災にも耐えた丸 外食の大衆化と飲食空間のジェンダー化 ―関東大震災後の飲食場の再編成―(福田) 302 の内の丸ビルはアメリカ式ビルディングであった。そのため,震災後,丸の内には数多くのアメリ カ式のビルが建ち並び,一大オフィス街へと成長していく。 しかし,それ以上に大きかったのは,アメリカ文化の影響であった。当時,第一次大戦で疲弊し たヨーロッパの文化に代わって,ハリウッド映画やジャズがアメリカ風の大衆消費主義とともに矢 継ぎばやに日本に紹介された。松崎や小野田もアメリカの影響を語っているが,もっとも辛辣なの は『新東京繁盛記』の水島爾保布で,銀座の商店街を「俗悪野卑なアメリカ式コムマーシヤリズ ム」77 と断罪し,日本の都市空間を「アメリカ通り一丁目で売っている紙屑みたいなサンドウヰツ チ文明」78 と酷評している。このヨーロッパからアメリカへの典拠すべき空間の転換をもう少し冷 静に分析しているのは,『銀座細見』の安藤更生である。銀ブラをこよなく愛した安藤は「昨日ま での銀座は,フランス文化の下にあつた。今日では銀座に君臨するのはアメリカである」79 と述べ, 第一次大戦に参加したアメリカ人がフランス趣味になり,日本人はそのアメリカ人のフランス好み を通してフランスを模倣していると論じている 80。 第二次大戦後のアメリカの占領による日本のアメリカ志向より以前に,アメリカは一つの仲介項 として日本の都市を内側から編成しなおしつつあったことがわかる 81。その結果,百貨店式食堂の 簡易な洋食がアメリカ風と認知されて広まる一方で,カフェがバーとなることで,女性中心の飲食 空間の成立にともなって特殊な男性用の飲食空間が形成され,銀座に典型的にみられるように,そ れらがひとつになって日本の盛り場(繁華街)を形作っていったのである。その過程で,米国風と は,飲食領域において,行動と感性を近代消費社会に適合するよう効率重視で変換していく,ドメ スティケーションの装置として機能していたといえるだろう。 [注] 1 筒井(2011) ,p. 186–216。 2 TOBIN(1992) ,“Introduction: Domesticating the West”,p. 1–41(邦訳, 「序説 ―― 西洋を根づかせる[ドメスティ ケートする]」,p. 10–58)。 3 筒井(2011),北原(2011)。 4 BOURDIEU(1979),p. 189–248,p. 512–514(邦訳,Ⅰ,p. 259–343,Ⅱ,p. 295–299)。 5 今井(1978) ,p. 214。 6 近隣地区,とくに西の郊外の市町村を合併して,現在の東京にほぼ相当するいわゆる「大東京」が行政的に実現す るのは,震災から 9 年後の 1932(昭和 7)年のことである。 7 今井(1979) [2008],p. 52。 8 水島(1924) ,p. 4。 9 安藤(1931) ,p. 22。 10 今(1926) [2001 上],p. 312。 11 今(1929) [2001 上],p. 36,p. 310,p. 322。 12 今(1929) [2001 上],p. 322。 13 越沢(1999) ,p. 12。 14 水島(1924) ,p. 18。 外食の大衆化と飲食空間のジェンダー化 ―関東大震災後の飲食場の再編成―(福田) 303 15 越沢(1999) ,p. 69–71。 16 越沢(1999) ,p. 39–40。 17 今(1929) [2001 上],p. 60–63。 18 秋山(1976) ,p. 5,伊藤(2011),p. 43–44。 19 1872(明治 5 年)に建設された精養軒ホテルは,開業日当日に銀座から失火して京橋や築地一帯に広がった大火に よって消失したため,実質的には営業を行わなかった。実際に営業したのは,翌 1973(明治 6)年に跡地に再建さ れた築地精養軒である。築地精養軒もふくめた明治期の西洋料理については,宇田川(2008) 「第一章 黒船来襲か ら天皇の料理番まで 黎明期を支えた料理人たち」(p. 15–56)を参照。 20 カレーの日本への導入と変容の過程については,小菅桂子(2002) ,森枝卓士(1989) ,岡田哲(2000)などを参照。 なお,岡田(2000)によると「ライスカレーが登場したのは,明治 20 年代[1887–1896]である」(p. 208)。表記 法については大正期になると, 「カレーライス」という呼び名の方が多くなり,今日に及んでいる」という(p. 209)。 のちに検討する『大東京うまいもの食べある記』は昭和 8(1933)年刊行のレストランガイドであるが,店によっ てライスカレーとカレーライス双方の表記があり,後者の方がやや多い。 21 岡田(2000)によると「「大正三大洋食」の残るもう一つとなるコロッケも,明治中期の鹿鳴館時代[1883–87]以 降に現れ,明治 30 年代[1897–1906]半ばに一般化したものである」 (p. 213) 。 「大正三大洋食」とは,上記本文中 の「ライスカレー,コロッケ,カツレツ」という三つの料理である。 22 岡田(2000)によるとカツレツは明治 20 年代後半[1895 年頃]にすでに存在し,昭和 4 年[1929]にポンチ軒の 料理人が天ぷらで用いるディープフライの手法を応用して現在のトンカツが生まれたという(p. 164–196)。 23 前坊(2000),「第二章 はじめての西洋料理屋」,p. 21–63, 「第三章 鹿鳴館前後の西洋料理屋」 ,p. 65–120。 24 フランス語の table d’hôte(ターブル・ドート)は 19 世紀前半までフランスで auberge〔オーベルジュ〕 (旅館)や pension familiale〔パンション・ファミリアル〕 (家族経営の下宿)などで行われていた食事形式である(たとえば, フランスで刊行されている飲食の百科事典 Larousse gastronomique, Larousse, 1984 の table d’hôte の項目参照) 。客 は,決まった時間に,用意されたその日の料理を,大きなテーブルで,相席で食べた。内容は前菜・メイン・デザー トを基本としたフランス式の正餐だった。この様式は,19 世紀後半に,個人用のテーブルで,好みに応じてメニュー (carte)から選ぶ外食産業レストラン(restaurant)が展開するにしたがって廃れていった。フランス語とフランス 文学の研究者として大学で教鞭をとりながら(東京学芸大学教授,学習院大学教授を歴任),フランス料理にも多 大な関心を抱き,フランス料理に関する辞書や著作を何冊も刊行して大正時代から戦後にかけて日本におけるフラ ンス料理の発展に大きく貢献した山本直文[やまもと・なおよし] (1890–1982)は,1956 年に刊行された著書『標 準フランス料理』 (白水社)で, 「ア・ラ・カルト」が「一品料理」と訳されることの誤りとともに,ターブル・ドー ト table d’hôte が「定食」と訳されてフランス料理のコースを意味するようになった事実をふまえ,次のように述 べている。「大概の店にはその日の呼び物(plat du jour)がある。献立は表を見て客が作るのである。それを à la carte(ア・ラ・カルト),即ち, 「献立表を見て」という。一品料理ではない。日本人の解釈が誤りである。フラン スにはその他,à prix fixe(ア・プリ・フィクス)というのと,à la table d’hôte(ア・ターブル・ドート) ,即ち, 「主 人見つくろいの献立で」というのがある。この主人の献立によるのが定食ということになってしまった。」前掲書, 482 頁。ちなみに,フランス語の menu〔ムニュ〕 (メニュー)が基本的に entrée〔アントレ〕 (前菜的料理) ・plat〔プ ラ〕(主菜)・desser t〔デセール〕(デザート)の三品で構成される 1 回の食事,つまり日本でいうコース料理のこ とで,日本語でいうメニュー(献立表)はフランス語では car te〔カルト〕である。当時のレストラン案内や作家 のエセーから, 「定食」という表現が大正時代には西洋のコース料理をさす用語として一般に普及していたことが わかる。大正時代に女流作家として活躍した三宅やす子(1890–1932)を母にもち,みずからも作家として小説や 評論を遺した三宅艶子(1912–1994)は,食にそくした自伝ともういうべき『ハイカラ食いしんぼう記』(1980 年, じゃこめてい出版,1984 年に中公文庫に収録)のなかで,震災前の大正末期の想い出を次のように記している。 「定 食というと,今では安っぽい感じだけれど,その時分は普通の一品料理でなら八十銭とか一円ぐらいで結構いいも のがあり,お昼ならそれはぜいたくな方だった。私は別の項にも書いたけれど,前菜が出て,スープが来て,そし コーヒー てお魚,お肉と次々に来る,そしてプディングの類と果物,珈琲で終るその食事が好きで,外に出てどこかでお昼 をということになると,すぐ,「てえしょくう」と言う癖があった。値段は大体二円五十銭,デラックスなところ では三円ぐらいだったかと思う。」(中公文庫,p. 58–59)この記述からは,当時の「定食」が「前菜,スープ,魚 料理,肉料理,デザート,コーヒー」を基本としたコース料理であったことがわかる。フランス風の食事様式に適 304 外食の大衆化と飲食空間のジェンダー化 ―関東大震災後の飲食場の再編成―(福田) 用された「定食」という表現は,辻調理師学校の創立者で長く校長を務め,たびたび渡仏し本場のフランス料理を 食べ歩いた辻静雄が,1973 年刊行の『フランス料理の手帖』 (鎌倉書房,後に『辻静雄コレクションⅠ』 ,ちくま文庫, 2004 に収録)で使用していることから,日本では 1970 年代初頭まで残存していたことがわかる。この後,フラン スの時系列に料理が出される食事様式は「フルコース」と称されるようになっていく。フランスにはない「フル コース」という呼称と観念が日本でいつどのような意味を込めて広まったかは,今後の研究課題の一つである。朝 日新聞社の記事データベース『聞蔵Ⅱヴィジュアル』によると,「朝日新聞」での「フルコース」という語の初出 が 1975 年なので,このあたりがこの用語が広まった時期だと考えられる。1970 年代はホテルのフランス料理レス トランを中心に西洋料理からフランス料理が区別されるようになった時代であり(福田育弘「西洋料理からフレン 『学術研究』,第 61 号 ― 人文科学・社会科学編 ―,2012,p. 339–370 参照) , チへ ― 飲食場の空間論的転回 ―」, ホテルのフランス料理が宴会を中心とした豪華なコース料理だったことが,フランス料理といえばフルコースと思 われるようになっていった要因であると思われる。フランス語でフルコースにあたる表現をあえてあげれば menu complet〔ムニュ・コンプレ〕,つまり「すべてそろった食事」だろう。フランスでは食事においてアントレ・プラ・ デセールの三品による時系列構成は当たり前であり,それは食事といえば一汁二菜や一汁三菜が日本人にとって当 たり前であるのと同じである。 25 座敷に上がり,畳に座って客の意向を聞き,店員が蔵から客の意向にそった商品を取り出して販売する方式。江戸 時代から続く伝統的な呉服店の販売方式。 26 初田(1993) [1999],p. 83–90,山本・西沢(1999),p. 255–259。 27 山本・西沢(1999),p. 203–205。 28 日本最初の地下鉄は 1927 年に上野 – 浅草間に開通した現在の銀座線で,1938 年に新橋まで延長され,銀座駅や日 本橋駅ができた。 29 今井(1979) , [2008],p. 267。 30 松田(1931) ,p. 94。 31 初田(1993) [1999],p. 146–148。 32 初田(1993) [1999],p. 151。 33 初田(2004) ,p. 162。 34 初田(1993) [1999],p. 152。 35 初田(1993) [1999],p. 153。 36 白木(1933) ,p. 137。 37 白木(1933) ,p. 137。 38 初田(1993) [1999],p. 154。 39 この論文のもとになったのはフランスの地理学の雑誌 Géographie et Cultures『地理と文化』の「日本における大 災害と高品質の食生産」特集(1914 年)に掲載される予定の « La transformation des pratiques et des sensibilités alimentaires après le désastre en 1923 : modernisation et popularisation du nouveau Tokyo »(「1923 年の関東大震災 後の飲食行動とその感性の変容 ―― 新しい東京の近代化と大衆化」 )である。掲載にあたって,友人のフランス人 研究者から, 「百貨店の食堂では子ども連れの家族が食事をするという点について,日本ではレストランで子ども も,あるいは子ども連れも食事をすることがよくあることを説明しないといけない」と指摘された。つまり,わた したち日本人にかなり当たり前になっている子連れでの外食は(一部の簡易な施設を除いて)欧米では一般的では ないということである。今や百貨店の食堂に代わって「ファミリー・レストラン」が林立し,子ども連れでの会食 が可能な外食空間がいたるところにみられる日本では失いがちな感覚である。 40 白木(1933) ,p. 156–158。 41 松崎(1927) [2002],p. 145。 42 白木(1933) ,p. 117。 43 松崎(1927) [2002],p. 113,白木(1933),p. 356。 44 白木(1933) ,p. 139。 45 白木(1933) ,序 p. 1。 46 松崎(1931) ,p. 9–15。 47 白木(1933) ,p. 108。 外食の大衆化と飲食空間のジェンダー化 ―関東大震災後の飲食場の再編成―(福田) 305 48 小野田(1929) ,p. 47。 49 前坊(2000),「第五章 日記のなかの西洋料理」,p. 191–253。 50 初田(1993) ,p. 13,初田(2004),p. 182。 51 初田(1993) ,p. 7,初田(2004),p. 178。 52 初田(2004) ,p. 185。 53 当時の文献でもっとも多いのは「カフエー」あるいは「カフエ」と「エ」を大文字にした表記である。「エ」が旧 時の「ヱ」の場合もある。この論文では,引用では原文の表記を採用し,論文の本文では現代風に「カフェ」とする。 54 松崎(1927) [2002],p. 89。 55 酒井(1930) ,p. 9。 56 初田(1993) ,p. 7,初田(2004),p. 178。 57 安藤(1931) ,p. 157。 58 エロテッィク,グロテスク,ナンセンスの結合語で,当時の世相を表現した流行語。 59 酒井(1930) ,p. 8。 60 酒井(1930) ,p. 113。 61 BOURDIEU(1979),p. 9–106(邦訳,I,p. 17–151)。 62 小野田(1929) ,p. 40–41。 63 初田(1993) ,p. 6,初田(2004),p. 179。 64 松崎(1927) [2002],p. 87。 65 小野田(1929) ,p. 144。 66 明治中期(1880)以降に銀座に形成されていった西洋的繁華街を人々が歩いて眺める「街衢鑑賞」の習慣が明治 後期(1900 年代)に生まれ,それが大正初期(1910 年代)に中産階級に広まったもの。初田(2004),p. 13–149, p. 191–216。 67 小野田(1929) ,p. 145。 68 今井(1979) [2008],p. 290–291。 69 松崎(1927) [2002],p. 48–51,p. 80–81,p. 231,p. 256。 70 小野田(1929) ,p. 1。 71 越沢(1999) ,p. 88。 72 山本・西沢(1999),p. 74–75。 73 白木(1933) ,p. 25–26。 74 順に,白木(1933),p. 54,p. 143,p. 157,p. 437。 75 「チャプスイ」とはアメリカ式の中国料理のこと。野菜や肉を炒めて餡かけにした料理。ご飯にかけると日本の中 華丼に近いものになる。 76 白木(1933) ,p. 147。 77 水島(1924) ,p. 34。 78 水島(1924) ,p. 44。 79 安藤(1931) ,p. 29。 80 安藤(1931) ,p. 31–32。 81 日本におけるもっとも重要な盛り場の社会史である吉見俊哉の『都市のドラマトゥルギー』 (1987)は,すでに明 治大正期の銀座について以下のように指摘している。「大正 3 年[1914],銀座を西洋につなぐ役割を果たしていた 新橋ステーションは廃止され,またすでに明治 32 年[1899]に築地外国人居留地も公式には廃止されていたから, 煉瓦街・居留地・鉄道というセットそのものは,大正初めには半ば解体していたともいうことができる。だが,ま さにこのように「西洋」への直接的な回路が切れたときにこそ, 〈銀座的なるもの〉は,より抽象化された「西洋」 , すなわち〈外国=未来〉に向けて開かれた窓として飛翔していく可能性をつかむのである。 」 ( [2008],p. 242–243) アメリカ経由のフランスは典型的に「抽象化された「西洋」 」の一つであるといえるだろう。 外食の大衆化と飲食空間のジェンダー化 ―関東大震災後の飲食場の再編成―(福田) 306 [引用 / 参考文献](著者・編者の氏名の五十音順) 秋山四郎編,『秋山徳蔵メニューコレクション』,日本専門図書株式会社,1976。 安藤更生,『銀座細見』,春陽堂,1931(『文学地誌「東京」叢書』第十二巻,大空社,1992 に再録) 。 伊藤薫,『日本のフランス料理史』第四巻,株式会社エービーシーツアーズ,2011。 今井清一,『日本の百年 6 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