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痛みの感情的側面: 痛みの哲学的研究序論

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痛みの感情的側面: 痛みの哲学的研究序論
Kobe University Repository : Kernel
Title
痛みの感情的側面 : 痛みの哲学的研究序論(Pain as an
Emotionlike Condition : Introduction to the Philosophical
Study of Pain)
Author(s)
羽地, 亮
Citation
神戸大学文学部紀要,37:1-16
Issue date
2010-03
Resource Type
Departmental Bulletin Paper / 紀要論文
Resource Version
publisher
DOI
URL
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81008286
Create Date: 2017-03-31
痛みの感情的側面一一痛みの哲学的研究序論一一
痛みの感情的側面
一一痛みの哲学的研究序論一一
羽地
亮
痛みとは何だろうか。私事になるが、哲学的考察を抜きにすれば、痛みと私
とのつきあいは長い。私は、 5
歳のころ、リュウマチに擢り、ひどい痛みを経
験した。その痛みのリアルなクオリアはもう感じることができないけれども、
リュワマチに擢った私は四肢の関節の激痛のため、 トイレに行くにも数センチ
ずっすり足でこわごわ動いたし、家族の記憶によれば、夜寝た時と寸分たがわ
ぬまったく同じ姿勢で起床したそうである。大人になって拙いながらも痛みを
哲学的に考察する論文を書くようになった(羽地 1
9
9
7
,
2
0
0
0,
2
0
0
4
)のは、自分
でも予想だにしないことで、あったが、これは私が痛みと何がしかの縁があると
いうことなのかもしれない。
小論では、第一に、痛みがどのように理解されるべきかについて考察し、第
二に、そのような理解へと導いた痛み研究の歴史的経緯を回顧する。第三に、
痛み研究の歴史的経緯の回顧から得られる知見がもたらす教訓とその教訓│につ
いての評価を行う。以上をもって痛みに関する哲学的研究への序論としたい。
I 痛みの定義と痛みの日常的理解
I
A
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)は
、 1
9
8
6
年
国際癖痛学会 (
に機関紙 P
a
i
nにおいて 14人の国際的な痛みの研究者の名の下に痛みの定義を
発表した。それが以下である。少し長くなるが引用する。
- 1ー
痛みの感情的側面一一痛みの哲学的研究序論一一
「痛み:現実的ないし可能的な組織の損傷と結びつけられたり、そのような損
傷に特有の言葉で記述されたりする、不快な感覚的かつ'情動的な経験。
注:痛みは常に主観的である。人はめいめい幼少期の怪我に関連した経験を
通じてこの言葉の適用を学ぶ。(中略)たとえばちくりとするような、痛みに
類似しているが不快ではない経験は痛みと呼ばれるべきではない。不快異常感
覚(
d
y
s
a
e
s
t
h
e
s
i
a
)(1) もまた痛みであるかもしれないが、必ずしも痛みではない。
なぜなら、主観的には、そうした経験は痛みの通常の感覚的な質をもたなし、か
もしれないからである。多くの人は組識の損傷や適当な病理学的原因がない場
合に痛みを報告する。通常このことは心理学的な理由で生じる。われわれがそ
うした主観的報告を受け取るならば、そうした[組織の損傷によらない]経験
を組織の損傷による経験から区別する方法はない。もし彼らが自分の経験を痛
みとみなし、組織の損傷によって生じた痛みと同じようにその経験を報告する
ならば、その経験は痛みとして受け入れられるべきである。この定義は、痛み
を刺激と結びつけることを避ける。侵害性の刺激によって侵害受容器や侵害受
容性の通路に誘導された活動は、痛みではない。たとえ痛みがしばしば直近の
物理的原因をもつことをわれわれが察知するのが当然だとしても、痛みは常に
心理学的状態である。 J (IASP1986,
[ ]内引用者)
なお、この定義は、痛みを研究する科学者には常に念頭に置かれているもので
あり、科学者にとっての残りの問題は、この定義の内実に関わるものではなく、
その細部と定式化の仕方に関わるものとされていることを付け加える。もちろ
ん、この定義への批判は、科学者によるものも哲学者によるものも提出されて
いるが(しかも有力な学者によるものもあるが)、ここではとりあげないこと
にする(へ
この定義は、痛みに関する次のような日常的理解と親和的である(以下の記
述は Aydede2005,
p
p
.
3・5に基づく)。
(1)私秘性 (
p
r
i
v
a
c
y
) 痛みはその所有者にとって私秘的である。それは私
-2
痛みの感情的側面一一痛みの哲学的研究序論一一
が自分自身の痛みにアクセスするのと同じ仕方では、他の誰も私の痛みに認識
的にアクセスすることができないということである。これに対して、知覚の対
象は公共的な性質をもっているように思われる。たとえば、私がテープ、/レの上
に見るリンゴとまったく同じリンゴが、私とほぼ同じ仕方で他者によっても見
られるように思われる。
(
2
) 主観性 (
s
u
b
j
e
c
t
i
v
i
t
y
) 痛みは主観的である。それは痛みの存在が痛み
を感じることに依存しているようにみえるということである。「誰にも感じら
れない痛み」なるものは、何か不自然なように思われる。むしろ、痛みがその
所有者によって感じられないならば、痛みは存在しない、とわれわれは自然に
言いたくなる。これに対して、知覚の対象は客観性をもっているように思われ
る。たとえば、私が見るリンゴは、それが存在するために私がそれを知覚する
ことに依存するわけではない。
(
3
) 痛みの所有者の証言の訂正不可能性 G
n
c
o
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r
i
g
i
b
i
l
i
t
y
) 人は痛みについ
て特別な認識的アクセスを行うだけではなく、痛みに関して特別な認識的権威
をもっているように思われる。すなわち、人は自分の痛みと痛みの報告につい
て訂正不可能であり、不可謬でさえあるように思われる(痛みだと思ったが実
は捧みだったということはありえないように思われる)。これは痛みに関して
p
p
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a
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fp
a
i
nと痛
は現われと実在との区別がない(痛いように見えること a
e
i
n
gi
np
a
i
nとの区別がない)ように思われるということでもある。こ
いこと b
れに対して、知覚は誤りうる。リンゴの知覚的な現われは、リンゴの実際のあ
り方と対応していなし、かもしれない。知覚的経験には、誤表象、誤知覚、概念
の誤適用の可能性がある。
なお、先ほどの痛みの定義において、痛みとは、「不快な感覚的かっ情動的
な経験」であるとされていることを銘記されたい。痛みは常に不快なものであ
り、それは感覚的側面と感情的側面を含んでいる。痛みが感覚か感情かという
論争は、古代ギリシア以来ずっと繰り広げられてきた。
- 3ー
痛みの感情的側面一一痛みの哲学的研究序論一一
E 痛み研究の歴史的経緯
次に、痛みに関する研究の歴史を振りかえってみたい。まず、プラトンは、
『テイマイオス』において次のように述べている。
「そこで、「快一苦」は、次のように考えなければなりません。つまり、われ
われのところで、自然に反した、無理な影響が、それも一気に起こる場合に
は、このような影響は「苦しし、」ものなのであり、逆に、自然の状態へと一
気に戻る影響は、「快し、」ものだということ。そして静かに、また徐々に起
こる影響は、感覚されないけれども、それと逆の影響は、逆のあり方をする
のだということです。 J (プラトン 1
9
7
5,
64
じ D)
要するに、プラトンにとって、痛みは、自然な身体/精神に対する影響
(
a
f
f
e
c
t
i
o
n
) もしくは侵入Cin
t
r
u
s
i
o
n
)、病気や怪我のような、身体の外側から
の身体への侵入である (3)。
これに対して、アリストテレスの『動物部分論』での見解は、われわれが経
験をもっうえで不可欠の器官として心臓を重視するものである。
「快楽や苦痛や総じであらゆる快楽の動は、明らかに、心臓から始まり、
心臓で終わっている。このようであることもまた、理にかなっている。なぜ
なら、可能なら、始原は一つで、なければならなし、からだ。 J (アリストテレス
2005
,
6
6
6
a
)
さらに彼の『魂について』では、次のように述べられる。
「感覚されるものが純粋で、混じり気がない状態でも、一定の比を構成する
に至るときは、たしかに快いのである。たとえば鋭いとか甘いとか塩辛いな
-4ー
痛みの感情的側面一一痛みの哲学的研究序論一一
どの性質がそうであり、実際そのような条件のもとでは、それらの性質は快
いのである。けれども一般的に言うなら、混合したものの方がいっそう快く、
協和音は高い音や低い音よりも快く、また触覚にとってもさらに熱くなった
り冷たくなったりする余地があるものの方がいっそう快い。感覚とは比なの
である。そして感覚される性質が度を越すと苦痛を与えたり損なったりする
4
2
6
b
)
のである。 J (アリストテレス 2001,
「触れられる諸性質、たとえば熱い、冷たい、硬いなどが過度であることは、
動物を滅ぼすまでにいたる。というのも、感覚される性質はすべて度を越す
と感覚器官を滅ぼし、したがってまた触れられるものも触覚を滅ぼすのであ
るが、しかしまさにこの触覚によって動物は動物であると規定されているか
らである。なぜならこの触覚を欠いては動物として生存するのは不可能であ
るということがすでに示されているからである。だからこそ触れられる性質
が度を越すと感覚器官だけではなく、動物をも破壊するのであり、その理由
は触覚こそが動物が必ずもたなければならない唯一の感覚ということにあ
4
3
5
b
)
る
。 J (アリストテレス 2001,
アリストテレスは、プラトンのように、痛みを身体への侵入として捉えるので
o
u
c
h
) と考える(ヘ反対に、適度な(一定
はなく、痛みを過度の触覚(接触 t
の比にもたらされた)触覚が快である。触覚は、経験の座である心臓と直接結
合している。アリストテレスによる痛みと触覚との結合は、皮膚感覚の生理学
0世紀に至るまで痛みの考察における主要な考えであり続けた。彼
が確立する 2
は痛みをホメオスタティックな状態と結び、ついたものとして理解し、そのよう
な状態の情動的・感情的特性を指摘する。
A
.
D
.
1
3
0
2
01)によれば (
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.G
u
s
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o
n
,2005,p
p
.
2
2
6
f
.
)、柔らかい
ガレノス (
神経が印象を受け取り(プラトンの「侵入 i
n
t
r
u
s
i
o
n
J を想起せよ)これを脳へ
と伝達する。それに対して、硬い神経は運動活動に役立つ。脳は他のいかなる
神経よりも柔らかいので、脳はし、かなる起源からも感覚を受け取る。ガレノス
-5-
痛みの感情的側面一一痛みの哲学的研究序論一一
の見解は、アリストテレスの見解のように良識に訴えるのではなく、彼が解剖
した動物の観察に基づいていた。ガレノスによってわれわれは、痛みと神経系
の生物学的な役割の説明をはじめて手にすることになる。またアリストテレス
では、経験の座は、心臓であったが、ガレノスによれば経験の座は、脳にある
ことになる。
古代ギリシア時代においては、以上のように、痛みは十分に内在化されてお
らず、痛みの外的条件が強調された。痛みの内在化の達成までは、 1
8世紀を待
たなければならない。
17世紀になって、デカルトは 1664年、『人間論~ (
D
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s1
6
6
4
) において「特
異説 (
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yt
h
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y
)J (
["特異性理論J ["特有性理論」など
とも訳される。文献によってまちまちである)を提唱した。特異説は、約 300
年にわたって痛みの代表的な説明であり続けてきた。この説によると、皮膚に
は痛みに畳査企受容器があって、そこに与えられた侵害刺激が、痛みに畳査 (
J
)
経路を伝わって痛みを感じる脳の中枢に到達すると、痛みの感覚が起こる、と
いうものである。このとき、感じられる痛みの強さは、受容器に加えられた侵
害刺激の強さに比例するとされる。この説は、「教会の鐘理論」とも称されるが、
それは、教会の鐘(脳の痛みの中枢)につながれたロープ(神経)を引っ張る
と(侵害刺激)、鐘が鳴る(痛む)、そして、ロープを強く引っ張れば引っ張る
ほど鐘の音(痛み)は大きくなるという具合にたとえられるからである。
特異説によって、痛みは、アリストテレス流の情動的・感情的特徴づけから
解き放たれ、感覚 (
s
e
n
s
a
t
i
o
n
) として特徴づけられることになった。痛みは内
在化され、私秘的で、主観的なものとなり、内観による痛みの報告は、訂正不
可能なものとみなされるようになった。いわゆる「デカノレト劇場」が完成した
のである。
特異説は、ドイツの生理学者マックス・フォン・フライ (MaxvonF
r
e
y
)に
よって改良を加えられた。彼は、皮膚を切り取ってそれを顕微鏡で見て皮膚の
下に何があるかを調べるという解剖学的手法を用いた。彼は、 1894
年に、痛み
-6-
痛みの感情的側面一一痛みの哲学的研究序論一一
を専門に受け付ける痛覚受容器と皮膚上の痛覚を専門に感じる部分である「痛
点」を発見した。
1
9世紀には、生理学が実験科学となり、また、特異説に対抗して「集約説
G
n
t
e
n
s
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t
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s
i
v
et
h
e
o
r
y
)j (
r非特異説」とも言われる)が現われたへ
集約説は、痛覚専門の神経系は存在せず、いかなる感覚受容器にも大きすぎる
刺激が与えられるとそれが「痛み」として知覚される、と主張する。集約説を
擁護する学者は、主に心理学者であり、特異説を擁護する学者は、主に生理学
者であった。両者の心理学レベルでの論争の決着をつけたのは、生理学的な発
見であった。フォン・フライの発見は、異なる感覚に寄与する特有の神経末端
が存在することを明らかにした。温かさの感覚は、真皮のルッフイニ末端と相
関し、冷たさの感覚は、クラウゼ小体と相関している。圧覚には、マイスナー
小体が関係している。痛みは、皮膚の自由神経末端と相関しているのである。
1
9
8
0
年代に、痛覚の受容器と、その信号が脳に伝わる経路についての詳細な研
究成果が発表され、両者の論争は終わった。
しかしながら、特異説ではどうしても説明できないような痛みの症例もまた
明らかになってきた(尾山 1
9
9
0,熊津 2
0
0
7
,ストロング 2
0
0
7など)。たとえば、
戦場で腕がもげたり腹や胸に大きな外傷を受けた兵士たちは、意識がはっきり
していてショック状態にないのに、あまり傷を痛がらない。そして、軽い傷の
兵士ほど強い痛みを訴える。
すなわち、傷の大きさと痛みの強さとの聞には正比例の関係がない。痛みの
強さは、その傷が患者にとってもつ意味によって大きく影響を受けるというこ
とである。つまり、最前線の兵士にとって、重傷を負って野戦病院に運ばれる
ということは、故国に生きて帰ることができることを意味する。したがって、
傷はいわば幸福のシンボルであり、苦にならない。これに反して、軽症は、再
び前線に出て行かなければならないことを意味する。
一般市民についても同じようなことが言える。たとえば、手術の痛みは、手
術の成功不成功、休職、経済問題などの不安や心配の要因によって大きく左右
-7-
痛みの感情的側面一一痛みの哲学的研究序論一一
される。こうした心理状態や気持ちのもちかただけでなく、民族、年齢、性別、
性格、時刻、天気などの要因が痛みの強弱と関わっていることが報告されてい
る。例をあげれば、神経質な人、真面目すぎる人、社会生活や仲間との付き合
い、余暇などを楽しめない入、疲れやすい人、不眠の人、抑うつ型や望みを失っ
た暗い性格の人には痛みに対して敏感な人が多い。また、痛みは午前中が最も
弱く、夕方になって増し、夜中に最高になることが知られている。これは、日
中はラジオ、テレビ、新聞、医師、看護師、見舞い客など痛みから注意をそら
す要因が多いのに対して、夜中になるとこれらがなくなり、神経がひたすら痛
みに集中することが原因らしい。
こうした、特異説では説明できない不思議な痛み現象は、痛みの科学が説明
するべきデータとして、次の二種類に分類できる (
A
y
d
e
d
e2005,
p
p
.
3
l
f
.
)。
(1)刺激と痛み経験との聞の可変的なつながり:先天性無痛症の患者はどれ
だけ大きな侵害刺激を与えても痛みを感じることができない。一方で、何の刺
激も与えられていないのに痛みが続くという慢性の痛みがあり、アメリカ人の
40%が生涯の何らかの期間にこれを患うという。アロディニア (
a
l
l
o
d
y
n
i
a
)の
患者は通常では痛みを引き起こさないような弱い刺激にも痛みを感じる。痛覚
過敏 (
h
y
p
e
r
a
l
g
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s
i
a
) の患者も、侵害刺激の大きさに比して不釣合いなほど激
しい痛みを感じる。内臓からの痛み信号がそこから離れた場所の皮膚上の痛み
として感じられる関連痛 (
r
e
f
e
r
r
e
dp
a
i
n
) も説明を要する現象である。国際癖
痛学会の痛みの定義において、痛みと末梢刺激とを結びつけることが問題視さ
れていたことを想起されたい。そしてこのように痛みの原因と痛みそのものと
を区別することは、痛みに関する日常的直観が支持することでもある。
(
2
) 痛み情動と痛みの感覚的次元との分離:手に負えない慢性痛(幻肢痛や
神経痛、心因性の痛み、ガンの痛みなど)を取り除く最後の手段として前頭葉
切除術(l
o
b
o
t
o
m
y
) や帯状回切除術 (
c
i
n
g
u
l
o
t
o
m
y
) をうけた患者や催眠暗示を
かけられた患者、亜酸化窒素を嘆がされた患者、モルヒネのようなアヘン誘導
体を投与された患者は、痛みを感じ、痛みをそれとして認識し同定できるが、
-8ー
痛みの感情的側面一一痛みの哲学的研究序論一一
痛み経験に特徴的な仕方で苦しまない(感覚的反応があっても情動的反応がな
い)。痛覚失象徴 (
p
a
i
na
s
y
m
b
o
l
i
a
) の患者、、おそらくは側頭葉の島皮質の損
傷のため、痛みの感覚はあるが苦痛を感じず逆に笑っていたりする。逆に、痛
みの苦痛はあるがどこが痛いのか分からない患者も存在する(パーキンソン病
やハンチントン舞踏病)。
こうした現象をも説明する痛みの理論として、 1
9
6
5
年に心理学者の M
e
l
z
a
c
k
と生理学者の W
a
l
lは、ゲートコントロール説を提出し、これは現在でも特に
心理学系の痛み研究の教科書には必ず掲げられている。痛みを伝える細い神経
が興奮すると腰様質に抑制性の刺激が、伝達細胞に興奮性の刺激が与えられ、
ゲートは開いたままで細い神経からの信号はそのまま痛みを伝えるニューロン
を興奮させ、脳へと伝わる。触角などに関係する太い神経が興奮すると伝達細
胞へと興奮性の刺激が向かうが、腰様質にも興奮性の刺激が届き、ゲートが閉
じる。勝様質は、細い神経と太い神経との両方に対して痛みニューロンの前で
その信号を抑えるように働き、痛みが和らぐのである。痛いところをさすった
りなでたりすると、太い神経が刺激されてゲートが閉じ、痛みの通過を妨げ、
痛みを和らげることができるというように説明される。この説には、後に中枢
系からの抑制性の刺激が来るノレートが書き加えられ、そのときどきの心理状態
が痛みに強弱に影響を与えるメカニズムが付加された。
しかしながら、神経科学の実験や研究成果によると、「ゲート」の存在は否
定されており、また研究者によって様々な神経団路が勝手に付加されたりする
ことによって(実際、ゲートコントローノレのメカニズムを説明した図は、文献
によって異なっている)、ゲートコントロ}ノレ説は、もはや科学ではなく「物語」
となってしまったということである(熊津 2
0
0
7
,
p
.
4
9
)。
現状で最も標準的と思われる痛みのメカニズムを記すと、おそらく次のよう
になるだろう。神経系の変化と痛み経験との関係は、必ずしも直接的なもので
はない (
H
a
r
d
c
a
s
t
l
e1
9
9
9,羽地 2
0
0
4
)。痛みの感覚は最初の瞬間的な感覚(ち
くちくした、刺すような、焼けるような、等々。 f
a
s
t
p
a
i
nと呼ばれる)とそれ
-9ー
痛みの感情的側面一一痛みの哲学的研究序論一一
に続く持続的な苦痛 (
s
l
o
wp
a
i
nと呼ばれる)とに分けられる。前者は、 A 8
司
線維から視床を経て大脳の体性感覚皮質に至る感覚識別系 (
s
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n
s
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d
i
s
c
r
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i
n
a
t
i
v
es
y
s
t
e
m
)の活性化によるものであり、後者は C線維から視床を経
て大脳の前頭葉皮質に至る情動誘因系 (
a
f
f
e
c
t
i
v
e
m
o
t
i
v
a
t
i
o
n
a
ls
y
s
t
e
m
) の活性化
によるものである。通常の痛みでは、どちらの系も活性化しているが、モルヒ
ネなどを摂取すると情動誘因系が活性化しないので、痛みの感覚が苦痛を伴わ
ないものに変わる。また、パーキンソン病やノ¥ンチントン舞踏病の患者では、
感覚識別系が活性化しないので、痛みの感覚が痛みの場所を特定できないもの
に変わる。さらに、幻肢痛や心因性の痛みの場合、 C線 維 ゃ ん 8線維は活性
化せず、視床と大脳皮質における痛み中枢が活性化している。そして、戦場で
の戦闘中や催眠状態等々における痛みについては、 C線 維 ゃ ん 8線維は活性
化しているが、この情報は何らかの要因で視床や大脳皮質には伝わらず、痛み
としては感じられないことがありうる。まだ解明できていない痛みのメカニズ
ムもたくさんあるが(したがって脳神経状態と意識状態との聞の s
u
p
e
r
v
e
n
i
e
n
c
e
の関係さえまだ確証されていなし、)、これは今後の研究を待つしかない。
E 痛み研究の歴史的経緯の回顧から得られる教訓とその教訓についての評価
特異説やこのような痛みのメカニズムを提示されでも、痛み現象の不思議さ
には当惑させられるばかりである。特に、心理状態や気持ちのもちかただけで
なく、民族、年齢、性別、性格、時刻、天気などの要因が痛みの強弱と関わっ
ているという報告に接すると、痛み経験を皮膚の自由神経末端から生じる単純
な感覚であるとみなす特異説は信じ難い。 G
u
s
t
a
f
s
o
nは、(1)侵害刺激への敏感
さが予期の効果 (6) とラベリングの効果 (7) にさらされること、 (
2
)痛みに関する
ブラシーボ効果が強力であること (8)、(
3
) 幻視痛が既知の痛みのメカニズムで
4
) 痛みの文化人類学によれば、痛みのタイプが極めて
は説明できないこと、 (
多様であり、痛みの文化的背景に対して痛みの意味が相対的であることを示し
-10ー
痛みの感情的側面一一痛みの哲学的研究序論一一
ていること、という四つのデータを根拠に、痛みは単純な感覚モデ、/レでは説明
できず、痛みを感情としてカテゴライズするべきこと(アリストテレスの復
G
u
s
t
a
f
s
o
n2005,
p
p
.
2
3
1・2
3
7
) F
e
r
n
a
n
d
e
zと T
a
r
kは
、
権?)を主張している (
0
痛みの身体感覚が不快な感情を呼び起こすことを主張したうえで、次のように
述べる。
「痛みは視覚や聴覚にはあまり似ておらず、飢えや渇きによく似ているかも
F
e
r
n
a
n
d
e
za
n
dT
a
r
k1
9
9
2,
p
.
2
1
4
)
しれない。 J (
少なくとも、われわれとしては、痛みの情動的・感情的側面を軽視するべきで
はないようである。では、痛みの感情的側面と感覚的側面とはどのように関わっ
ているのだろうか。
痛みの研究における二人の著名な科学者である DonP
r
i
c
eと HowardFields
は、この問題について論争を行っている。 F
i
e
l
d
sは、「感覚識別系」と「情動
誘引系」の区別は、有用性を失っており、痛みの神経生物学的説明の障害です
らあると言う (
F
i
e
l
d
s1
9
9
9
,
S61)。その代りに、彼は、
r
a
l
g
o
s
i
t
y(9)J
、「一次的不
快 (
p
r
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l
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n
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n
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s
s
)J
、「二次的不快 (
s
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n
d
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p
l
e
a
s
a
n
t
n
e
s
s
)J とい
う区別を設ける。
a
l
g
o
s
i
t
yとは、高次の認知的な処理を受けず、刺激の強さと密接に関係して
いる、むず俸さ(i
t
c
h
) や不快異常感覚(d
y
s
a
e
s
t
h
e
s
i
a
) のような感覚識別的な
経験の質のことである。一次的不快とは、 a
l
g
o
s
i
t
yに対して並列的に処理され、
刺激に制約された (
s
t
i
m
u
l
u
s
b
o
u
n
d
)、刻々と変化する感覚識別的な不快のこと
である。二次的不快とは、一次的不快と対比されて、特に情動的・感情的な痛
みの側面を形成するもので、刺激に制約されているという点では、一次的不快
と類似しているが、高次の処理を受け、痛みの生じる文脈や痛みをもっ人の背
景知識や選好 (
p
r
e
f
e
r
e
n
c
e
) が関与している(文脈的刺激 c
o
n
t
e
x
t
u
a
ls
t
i
m
u
l
iか
ら生じる)という点では、一次的不快から画然と区別されるものである。従来
-11-
痛みの感情的側面一一ー痛みの哲学的研究序論一一
の「感覚識別系」と「情動誘引系」の区別は、 a
l
g
o
s
i
t
yと二次的不快の区別に
対応している。一次的不快は、体性刺激 (
s
o
m
a
t
i
cs
t
i
m
u
!i)から生じるという
l
g
o
s
i
t
yに対して並列的に処理される感情的
点では、「感覚識別系」であるが、 a
な苦痛で、あるという点では、「情動誘引系」でもある。 Aydedeと G
u
e
z
e
l
d
e
r
e
の解釈では、 F
i
e
l
d
sが求めているのは、痛みについて、高度な認知的処理を通
さない(けれども)感情的な要素(一次的・二次的不快のこと)を取り出すこ
とである (
A
y
d
e
d
e
,
G
u
e
z
e
l
d
e
r
e2
0
0
2,
S
2
7
8
) Aydedeたちの解釈では、 F
i
e
l
d
sに
0
よって「二次的不快J と言われるものは、 a
l
g
o
s
i
t
yへの認知的に媒介された反
応 (
r
e
a
c
t
i
o
n
) であり、 a
l
g
o
s
i
t
yに対して直列的に処理され a
l
g
o
s
i
t
yに因果的に
依存する反応なのである (
A
y
d
e
d
e
,
G
u
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z
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l
d
e
r
e2002,
S
2
7
8
f
.
)。
F
i
e
l
d
sに異を唱えるのは、 DonP
r
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c
eである (
P
r
i
c
e1
9
8
8,
2
0
0
0
) P
r
i
c
eは
、
0
痛みに関して、「侵害受容性感覚 (
n
o
c
i
c
e
p
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e
n
s
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t
i
o
n
s
)J
、「直接の痛み不快
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a
i
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n
p
l
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s
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t
n
e
s
s
)J
、「二次的痛み情動 (
s
e
c
o
n
d
a
r
yp
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na
妊'
e
c
t
)J
という区別を設ける。
侵害受容性刺激とは、 P
r
i
c
eの a
l
g
o
s
i
t
yに対応する感覚識別的な経験の質で
ある。直接の痛み不快とは、かつて彼が「ステージ 1の情動 (
s
t
a
g
e1a
f
f
e
c
t
)J
と呼んでいたもの (
P
r
i
c
e1
9
8
8,
p
p
.
5
6
5
7,
226・2
2
7
)で、苦痛 (
d
i
s
t
r
e
s
s
)や恐怖感
(
f
e
a
r
)のようなしばらく持続する感情的な感じ (
e
m
o
t
i
o
n
a
lf
e
e
l
i
n
g
s
)であり、刻々
と変化する不快感のことである。この不快は、 F
i
e
l
d
sの分類における一次的不
快に対応する。侵害受容性刺激は、知覚された侵入(プラトンの復権?)や脅
威 (
p
e
r
c
e
i
v
e
di
n
t
r
u
s
i
o
no
rt
h
r
e
a
t
) を引き起こし、この知覚された侵入や脅威が、
直接の痛み不快を引き起こすのである。知覚された侵入や脅威は、「意味
(
m
e
a
n
i
n
g
s
)J と言われたり (
P
r
i
c
e1
9
8
8,
p
.
5
8
)、「一次認知的評価 (
f
i
r
s
to
r
d
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r
P
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i
c
e
c
o
g
n
i
t
i
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p
p
r
a
i
s
a
l
s
)J(かなり基本的で自動的な認知的処理)と言われたり (
1
9
8
8,
p
.
2
2
7
) する。 P
r
i
c
eが「直接の痛み不快 J と呼ぶものは、何らかの認知
的処理を受けている。一方で、、 P
r
i
c
eは
、 F
i
e
l
d
sの分類において「一次的不快」
と言われるものでさえ、かなり基本的な認知的処理を介していると考える。
一12-
痛みの感情的側面一一痛みの哲学的研究序論一一
二次的痛み情動とは、直接の痛み不快が、さらに高度な認知的処理である二
次評価 (
s
e
c
o
n
do
r
d
e
ra
p
p
r
a
i
s
a
l
s
) を受けたもので、 F
i
e
l
d
sの分類における二次
的不快に対応すると思われる (
A
y
d
e
d
e,
G
u
e
z
e
l
d
e
r
e2
0
0
2,
S
2
7
8
)。たとえば、長
期間続く痛みである「苦しみ (
s
u
妊
'
e
r
i
n
g
)J と言われるものが二次的痛み情動
の例である。
それでは、 F
i
e
l
d
sと P
r
i
c
eとの聞の対立点はどこにあるのだろうか。通常の
痛み経験に固有の「生の」現象学的要素(“r
a
w
"p
h
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n
o
m
e
n
o
l
o
g
i
c
a
le
l
e
m
e
n
t
(
l
O
)
)
であるような、すなわち、通常は認知的に媒介され変容されることのないよう
な、痛みの情動的な質があると考えるのが F
i
e
l
d
sで、そのような情動的な質は
ないと考えるのが P
r
i
c
eである (
A
y
d
e
d
e
,Guezeldere2002,S279)。すなわち、
F
i
e
l
d
sの分類では、旧来の「感覚識別系」に対応するのが I
a
l
g
o
s
i
t
Y
J であり、
旧来の「情動誘引系」に対応するのが「一次的不快」と「二次的不快」の両者
である。一方の P
r
i
c
eの分類では、旧来の「感覚識別系」に対応するのが「侵
害受容性刺激」であり、旧来の「情動誘引系」に対応するのが「直接の痛み不
快」と「二次的痛み 情動」である。しかし、 F
i
e
l
d
sが「一次的不快」と呼ぶも
J
のも、 P
r
i
c
eが「直接の痛み不快」と呼ぶものも、純粋に「感情」と言われる
ものではなく、感覚的な要素を含んでいる。痛みは、もはや均質の
(
h
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m
o
g
e
n
e
o
u
s
) 現象ではなく異成分からなる (
h
e
t
e
r
o
g
e
n
e
o
u
s
) アマノレガムな
現象である。そのうえで、二次的不快 (
F
i
e
l
d
s
) と二次的痛み情動 (
P
r
i
c
e
)が
高度の認知的処理(前者は痛みの生じる文脈や痛みをもっ人の背景知識や選好
(
p
r
e
f
e
r
e
n
c
e
) が関与しており、後者は「二次評価」を与えられる)の結果とし
て生じるのに対して、一次的不快 (
F
i
e
l
d
s
) は、高度の認知的処理を介さない(1))
「感情」である一方、直接の痛み不快 (
P
r
i
c
e
) は、基礎的な認知的処理を介し
た(1一次認知的評価」を受けた) I
感情」なのである。
このような両者の対立に決着をつけることは小論の議論の及ぶところではな
い。両者のモデ、ルにおける「現象学的要素」の根底にある客観的にアクセスで
きる脳構造や脳のメカニズムの研究が近い将来、この対立の決着をつけてくれ
-13-
痛みの感情的側面一一一痛みの哲学的研究序論一一ー
ることであろう。しかしながら、前節における、心理状態、気持ちのもちかた、
民族、年齢、性別、性格、時刻、天気などの要因が痛みの強弱と関わっている
という報告は、痛み現象が高度な認知的処理を経たうえで生じているという
P
r
i
c
eの考えの正しさを示唆しているように思われる。
文献
アリストテレス 2
005,~動物部分論・動物運動論・動物進行論(坂下浩二訳)Jl京都大
学学術出版会。
アリストテレス 2
0
0
1,W魂について(中畑正志訳)Jl京都大学学術出版会。
Aydede,
M.,e
d
.,2005,
P
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痛みの分析 J~哲学論叢』第24号(京都大学哲学論叢刊行会) 7
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羽地
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000,r
ウィトグンシュタインにおける感覚語の使用の状況依存性について」
『哲学』第 5
1号(日本哲学会) 249
・
2580
羽地
004,r
クオリアを解きほぐす (
UnweavingQ
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) 一一物理主義的アプロ}
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チの可能性 J~愛知』第 16号(神戸大学哲学懇話会) 36
・
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)
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16
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.
熊謬孝朗 2007,~痛みを知る』東方出版。
尾山
カ 1990,~痛みとのたたかいーー現代医学の到達点』岩波書庖。
プラトン 1975,~プラトン全集 12
ティマイオス(種山恭子訳) クリティアス(田之
頭安彦訳)Jl岩波書居。
P
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-14-
痛みの感情的側面一一痛みの哲学的研究序論一一
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2
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ストロング他、熊津孝朗監訳 2007~ベイン臨床痛み学テキスト』産学社エンタプラ
イズ出版部。
注
(1)自発的または誘発的に生じるぴりぴり、じりじりした不快感や熔痛のこと。
(
2
) この定義が哲学的に見て概念的な緊張をはらんでいることについては、 Aydede,
G
u
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l
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e
r
e2002,
P
r
i
c
e,
Aydede2005を参照のこと。そもそも痛みの定義は不可能
であるという主張については、 G
u
s
t
a
f
s
o
n2005を参照のこと。この定義の不整合
の問題は、重要な問題なので、別の論文であらためて論じたい。
p
.
2
2
5に
(
3
) プラトンの主張をこのように要約することについては、 G
u
s
t
a
f
s
o
n2005,
負う。
(
4
) アリストテレスの主張についての以下の私の記述は、 G
u
s
t
a
f
s
o
n2
0
0
5,
p
.
2
2
6に負う。
p
p
.
2
2
9
f
.及び、熊津 2007,
(
5
) 特異説と集約説との対立については、 G
u
s
t
a
f
s
o
n2005,
4
1頁から 4
3頁を参照のこと。
(
6
) 病気の予後が不確定であるという情報が、病気が悪くなるのではないかという
予期をもたらし、それが患者の苦痛を増大させるというような効果のこと。
(
7
) 患者が自分の病気の真相や恐ろしさを教えられると(ラベリング)、本当はその
病気が進行しておらず、恐ろしいものでなくても、苦痛の増大を経験するとい
うような効果のこと。
(
8
) 親知らずを抜くと、炎症による腹れと痛みが生じる。腫れを治療するために超
音波が使われる。しかし、超音波はブラシーボ(偽薬)より優れているわけで
はない。ブラシーボは非常に効果がある。二重盲検テストにおいて、ヘノレスワー
カーが、親知らずを抜く患者の顔に超音波を照射する。しかし、超音波を照射
する機械は、実際には動いていることもあれば動いていないこともある。ヘル
スワーカーや患者は、このことを知らない(二重盲検テストの条件)。結果には
違いがなかった。機械が動いている場合でも、動いていない場合でも、腫れが
引き、炎症が治まり、あごを動かすカが増大した。いずれの治療も好結果をも
たらした。
(
9
) 私の調べた限りこの語の日本語訳は存在しない。
-15ー
痛みの感情的側面一一痛みの哲学的研究序論一一
(
1
0
)F
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eが 近 年 関 心 を 集 め て い る 「 神 経 現 象 学 (
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g
y
)J
にコミットしているという指摘については、 Aydede,
G
u
e
z
e
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d
e
r
e2002,
S280を参
照せよ。
(
1
1
)さらに付け加えて言えば、 i
i感覚」であるところの a
l
g
o
s
i
t
yに対して並列的に処
理され、なおかつ刺激に制約された」。
-16ー
Fly UP