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13 世紀のヴェネツィア支配層と騎士
Kobe University Repository : Kernel
Title
13世紀のヴェネツィア支配層と騎士(The Relationship
between Venetian Ruling Class and the Knightly Culture
in the 13th Century)
Author(s)
高田, 京比子
Citation
神戸大学文学部紀要,41:121-142
Issue date
2014-03
Resource Type
Departmental Bulletin Paper / 紀要論文
Resource Version
publisher
DOI
URL
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81008306
Create Date: 2017-03-31
1
3世紀のヴ、ェネツィア支配層と騎士
1
3世紀のヴェネツィア支配層と騎士
高田京比子
中世ヨーロッパの特権的支配者集団で、ある貴族、またそれと密接な関係に
ある騎士は、幾多の概説や研究書、最近の比較史のシリーズ(村井康彦編『公
、2005年、小
家と武家』、 1995年、笠谷和比古編『公家と武家の比較文明史J
島道裕編『武士と騎士』、 2
0
1
0年、いずれも思文閤出版)が示すように、歴史
学上多くの研究者の関心をヲ l
いてきた重要なテーマである l。しかしこの論集に
イタリア貴族・イタリア騎士の論文が欠けていることが示すように、都市が支
配の中心であった北中部イタリアでは、次に上げるような理由から従来貴族や
騎士は積極的な研究対象とはならなかった。すなわち、そもそも農村領主層が
l 中世ヨーロツパの貴族、騎士についてはとりあえず、 J'M・ファン・ウインター著(佐
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2年、マルク・ブロック
藤牧夫/渡部治雄訳) 騎士ーその理想と現実 -j 東京書籍、 1
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5年、ヨアヒム・ブムケ著(平尾洪三他訳) 中
著(堀米庸三監訳) 封建社会』岩波書庖、 1
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世の騎士文化』白水社、 1
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5年、ジ、ヤン・フロリ著(新倉俊一訳) 中世フランスの騎士』
白水社、 1
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8年、服部良久『ドイツ中世の領邦と貴族』創文社、 1
9
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8年、江川温「貴族・
家人・騎士」江川温・服部良久編著『西欧中世史[中 J
j ミネルヴァ書房、 1
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5年
、 1
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1
2
7頁、同「フランス中世の貴族と社会一特権的支配集団に関する比較史の試みー」村井
9
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5年
、 3
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1
3
4
8頁、同「貴族とは何かーヨーロッ
康彦編『公家と武家』、恩文閣出版、 1
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5年
、 2
8
3
パ中世の場合一」笠谷和比古編『公家と武家の比較文明史J思文閣出版、 2
2
9
3頁、渡辺節夫「西洋中世における貴族・騎士と封建制 J
W武士と騎士』思文閤出版、 2010年
、
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5頁。R.
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3世紀のヴ、ェネツイア支配層と騎士
やがて都市世界に組み込まれるものとして軽視されていたことに加えて、都市
世界においても、 13世紀末に成立したポポロ(新興住民層)政府が「反豪族立法」
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J を「豪族 magnatusJ として
を成立させ、「伝統的な都市貴族m
政府の要職から追放したこと、商人の貴族化、すなわち「コムーネを主導した
大商人たち」が商業よりも地代や利子に寄食する傾向を強めることや、 1
5世
紀における都市貴族の身分的閉鎖化の進行が、近世におけるイタリアの沈滞の
理由のーっと見られたこと、などである。
9
7
0年代から改善
さて、このようなイタリア史における貴族軽視の傾向は 1
されつつあるが、いまなお貴族についての研究は断片的であり、テーマ・年代・
地域どれをとっても偏りがある。それで、も、 2
0
0
4年にはカステルヌオーヴオ
が中世イタリアの支配者集団の推移を扱った専門的入門書で、イタリア全体を
視野におさめて都市の貴族 (
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) のアイデンテイテイの推移を
、都市に
描こうとした 2。彼によると、イタリア・コムーネの貴族の特徴は、 l
根ざしていること、 2
、多義的であり貴族を定義するための画一的な基準を用
いることが困難で、あることの 2点に集約される。まず一番について、カステル
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sと呼ばれ
ヌオーヴォが意図するところは、 13世紀史料に登場する貴族n
る人々は、出自は農村領主層であれ都市の商人・金融業者層であれ、何よりも
都市世界における軍事的・政治的エリートという点で一体性を持つ階層であ
ること、さらにイタリアで「貴族 n
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aとは何か」という議論がなされると
き、その対象となるのは農村貴族ではなく必ず都市のエリート層であること、
つまり社会的にも文化的にも貴族は都市に密着していることを指していると
思われる。 2番の多義性は、当時のイタリアの支配層や法学者・人文主義者た
ちの意見に「多義性」が象徴的に現れているということを指す。そもそも「貴
4世紀の法学者バルト
族という言葉は暖昧・多義的である」と述べたのは、 1
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3 ここで紹介したイタリア貴族の研究状況や特徴に
ついては、おおよそこの文献による。
-122-
1
3世紀のヴェネツイア支配層と騎士
ルスであった。日く「ペルージャではある平民が騎士叙任されれば貴族にな
るが、フイレンツェでは新しい騎士は平民のままにとどまる」。結局「都市が
貴族を作ることができ j その政体が様々である限り、貴族が参照すべき権威
は多様であって、「人々から貴族だと評価される人が貴族」ということになる。
5世紀の人文主義者ポッジョ・ブラッチョリーニは「真の貴族について」
また 1
という論文の中で、さらに貴族を定義することの難しさを展開する。彼はニツ
コリという人文主義者とロレンツォ・デイ・メデイチの二人の対話という形で
議論を構成しているが、ロレンツオの口を借りて「巷」の貴族解釈 3を提示す
る一方、各地で貴族と呼ばれている人がいかに異なる基準に従ってそう呼ばれ
ているかをニッコリに語らせている。さらにポッジョ自身は明確な結論を下さ
ず、聞かれた問題としてこの論文を終えている九このような、すでに当時に見
られた貴族の多義性・暖昧さは当然のことながら現在の研究状況にも影響を与
え、カステルヌオーヴォの描く都市の貴族の推移も必ずしもわかりやすいもの
ではない。また近年の『イタリアのルネサンス国家Jがテーマ別の章を設けな
がらも慎重に「貴族 noblesJ という語を避けているのは、このテーマがなお困
掛目という社会体制の再
難であることを示していると思われる 5。おそらく中世f
編の時代にあって、「貴族」という語が、イタリア社会の分析概念としては不
適当であるという判断も含まれているのだろう。
従って、「貴族nobiltaJ という言葉は、史料がそのように言及していても、
イタリア都市支配層を指し示すために使うには、議論の余地がある、 6という立
場をとり、イタリア都市の支配層をいったん「貴族階級n
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J の考察対象
ロレンツォは「いずれにせよ、貴族の印はより多くの富、より正直な生活、卑しい職
業に従事しないこと、戦闘における栄光、洗練さや威信によって、他の人から区別され
ること」と述べている。
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1
3世紀のヴェネツイア支配層と騎士
から除外することも可能であろう。つまり中世ヨーロッパ貴族を戦士的領主階
級に限り、「都市の政治経済を支配する限定された数の家系に属す人々 J7とし
ての都市貴族と明確に分離して考察するのである。しかし、コムーネ成立期に
於いて司教の封臣のように周辺農村領域に領主権を保持している者が上層市
民に参加しているのがイタリア都市であり、その後も農村領主の都市への移入
は続いた。マルク・ブロックが法的貴族身分の成立の契機として重要視し、そ
の後も独仏の研究で貴族との関連が議論される騎士制度は、通俗化した形態で
あるとしてもイタリアにも、幅広く浸透している。中世から近世初頭にかけて
の貴族文化の特徴としてしばしば言及される騎馬槍試合や狩猟 8は、イタリア
においても「騎士」の指標であった。その一方で、、先に引用したブラッチョリー
ニはアリストテレスを引用しつつ、「古くからの富と家系の記憶と、良き習慣」
が貴族のもとになるとも述べており、イタリアの貴族概念にヨーロッパ中世と
も
は異なる古典古代の影響を認めることが必要であるという主張もできょう 9。
4、 1
5世紀という時代自体
ちろん、「貴族とは何か」という議論が盛んになる 1
が、中世貴族から近世貴族への過渡期に位置しているということも考慮しなけ
ればならないだろう。こうしてイタリアにおける貴族という問題は非常に複雑
な様相を提示しているのである。
本稿はこのようなイタリアの貴族や騎士、あるいは中世後期の貴族という大
きな問題に直接取り組むものではない。また中世イタリアの都市支配層を貴族
と呼ぶことが適当かどうかというような用語の問題に耽溺することもあまり
生産的ではないだろう。ただ、カステルヌオーヴォが試みたように、史料で
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8 頼順子「中世後期の戦士的領主階級と狩猟術の害Hパブリック・ヒストリー j2
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2
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5年
、
1
2
7
1
2
8頁
。
9 人文主義者や法学者は「貴族とは何か」あるいは、「騎士とは何か」という議論をする
際に、同時代の文献や実情に加えて古典古代の文献を参照した。
-124一
1
3世紀のヴェネツィア支配層と騎士
ア社会の上層の人々が、どのようなアイデンティテイの推移をたどったのか、
どのような資質が「高貴」だと考えられたのか、それと!騎士であることはどの
ような関係にあるのかなどを考察することは、当時のイタリア社会を理解する
ためには有効であろう。
以下では以上のような問題を念頭に置き、イタリア中近世史一般の貴族の多
義性とそれがはらむ問題とは対照的に、あまりに自明のものとして扱われてき
た観のあるヴェネツイア貴族 1
0を、その複雑さの中で再考するための、ひとつ
の手がかりを提供することを目的とする。具体的には、「海上貿易商人」とい
うイメージが強く、都市=農村関係がきわめて重要な問題として考察されてき
た他のイタリア都市コムーネの支配層とは、しばしば対照的な人々として表
象されるヴ、エネツィアの都市支配層 11において、騎士の称号、馬上槍試合など、
農村領主層が多数を占める戦士階級に帰属すると見なされている文化がどの
程度影響を及ぼしているか、その一端を紹介する。後で見るように、近年のい
くつかの研究は 1
2-13世紀のコムーネの支配層に共通の政治文化として、騎
士的生活様式を指摘しており、これらに対してヴェネツィア支配層がどのよう
な立場を取っていたかを考察することは、「ヴ、エネツイア貴族」のアイデンテイ
ティを考えていく上でも重要であろう。
かつて清水贋一郎氏は「商人的な思考態度と騎士的な思考態度とが交差し、
1
0 一般にヴェネツィア貴族は共和国の要として 1
3世紀末の貴族身分の成立以来、不変の
まま共和国の滅亡まで続いたとされている。すなわち貴族身分とは 1
8世紀まで大議会を
2
9
7年のセラータによって法的に定義され、
通じて国政を担当した階層であり、それは 1
1
5
0
6年から出生登録簿に記されるようになった。
I
ヴェネツィアにはコンタードの領主の都市への移住がなく、その貴族は、ほぼすべて
が海上商人であり、協力して広大な海外領土を運営したので、団結が強固であった」・北
原教編『新版世界各国史 1
5、イタリア史』第 5章「二つのイタリア J(祷藤寛海著)、山川
出版社、 2
0
0
8年
、 1
9
6頁
。
1
1
-125-
1
3世紀のヴ、ェネツイア支配層と騎士
独特な雰囲気を作り出しているのがイタリア中世都市なのであった」と述べ
た1
2。またウェーリーも『イタリアの都市国家』の中で、「騎士のエートスが市
(北
民的住民に浸透したのである」と述べている 13。斉藤寛海氏はより分析的に i
中部イタリアの)都市貴族は、特定の法的身分ではなく、コンソリを輩出する
封建的家系および大商人家系の成員であり、家系や門閥の武力によって自力救
済を図るような、実力と騎士的な生活様式とを持つ人々であった」と述べてい
る 14 では実際、イタリア・コムーネの文脈において、騎士・騎士的生活様式
とはどのようなものであったのか、それと支配層の関係はどのように捉えられ
てきたのか。以下に不十分なものではあるが簡単に研究史を記しておこう。
フイレンツェという限られた範囲を中心とするものの、イタリアの騎士につ
いて最初にまとまった重要な研究を行ったのはサルヴェミニである。彼にとっ
て中世ヨーロッパの騎士制度をもっとも特徴付けるものは、戦士層の若者に成
人としての法的能力を認める帯万の儀式を本質とする騎士叙任式であり、それ
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sと呼ばれる社会層に限られたものであった。しかし
は封建貴族階級たる m
1世紀末から 1
2世紀にかけ
騎士の威信はこのような法的なものに留まらず、 1
て文学を中心に騎士の倫理的側面が発達し、「その成員が神や同輩に対して義
務を遂行することを道徳とする、貴族的・軍事的社会層としての騎士」が成立
1
1
2世紀の「封建的ヨーロツノ刊の法的・宗教的・政治
する。従って騎士は 1
的生活の所産であり、それが生まれた環境から引き離されると変質を余儀なく
されるのは時間の問題であった。さて、イタリアにおいて、初期コムーネに
参加した都市の貴族や下級農村貴族層は、騎士叙任の習慣を都市に持ち込み、
司教や伯に代わって都市の支配権を得たコムーネは、 1
2世紀半ばから自らが
騎士を叙任するようになる。しかし、フライジングのオットーの有名な一節が、
1
2 清水康一郎『イタリア中世の都市社会』岩波書居、 1
9
9
0年
、 1
7頁
。
1
3 D.ウェーリー著(森田鉄郎訳) イタリアの都市国家J平凡社、 1
9
7
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、2
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6頁
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4 ~野藤寛海「イタリアの都市と国家 J r
岩波講座世界歴史 8、ヨーロッパの成長』岩波書庖、
1
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8年
、 2
5
4頁
。
-126-
1
3世紀のヴェネツィア支配層と騎士
「イタリアの諸都市は・・・騎士の腰帯や高い位階を、低い身分出の青年に授
与するのを障踏しない。それはときには・・・職人にさえ与えられた」と語る
ように、変質はこのときすでに始まっていた。富以外に貴族と非貴族を区別す
るものがなく、庶民の上昇が容易で、市民軍もやがて傭兵に取って代わられ
るような「民主的な環境のコムーネ」では「騎士は民主化せざるを得ず、従っ
て退化していくのである J
o14世紀にはもはや上昇した庶民にとって、騎士は
名誉称号以外の何者でもなく、布を測り帳簿をつけることに適応せねばならな
いような商人的環境に於いて、騎士の道徳的価値も失われていった 1
5
0 つまり
イタリア・コムーネにとって、騎士は封建世界からの移入物であり、その歴史
は変質と衰退の歴史なのである 16。そして、彼が興味を持つ騎士は、むしろこの、
元来の貴族的・軍事的性格を失った 1
4世紀以降の騎士、旧貴族層の特権の些
末な残存物を保持し、余所と大差ない叙任式をフィレンツェ・コムーネが執り
行うものの、やがて法学者dottoreとどちらの名誉が上かという議論の姐上に
載せられ、その中で法学者に優位を譲らざるを得なくなるような名誉称号とし
ての騎士である。
ガスパリによると、このような「周縁的」で「退化する運命にある」イタリ
アの騎士というサルヴェミニの見方は長らく支配的であったらしいが、 1
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年代より、独仏での貴族研究、騎士研究に影響されてイタリアでもふたたび
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1
6 ただ、サルヴ、エミニも 1
3世紀半ばまでのコムーネにおいては、騎士制度がその元来の
姿を、一部は留め、トーナメントや宴会を伴う盛大な騎士叙任式が行われるなど、 1
3世
紀は相対的に騎士文化が栄えた時期だとしている。そして上で述べたような騎士の変化
はイタリア以外の場所でも起こったし、イタリア・コムーネでも一時に進んだわけでは
ないが、もっとも早期に広く深く生じたのがイタリア・コムーネの世界であったとして
いる。
-127-
1
3世紀のヴェネツィア支配層と騎士
騎士の問題が取り上げられるようになったにその流れの中で、カルデイーニ
は、イタリアの騎士制度を過度にアルプス以北のそれと分断し「民主化 H退化」
したものと見ることに疑問を提起すると同時に、このような騎士の威信は都市
のアリストクラシーにとっても貴族意識を発達させるのに役立ち、その威信は
3世紀末以降も続いたと主張する。騎士であること、つ
貴族的モデルとして 1
まり武器の所有とこれに関わる特権の所有が、排他的特権を家系によって伝達
する集団としての意識を高め、 14世紀においても社会的現実として威信を保
持し続けたということである 18。サルヴェミニの議論の特徴の一つは、 1
3世紀
において騎士は貴族の属性の一つであったが、それが 13世紀末にコムーネが
多くの騎士を創出するようになると、騎士と貴族が分離して庶民の騎士が登場
2
1
3世紀において他のヨー
するというものである。これに対して、タパッコは 1
ロッパの研究成果を参照しつつ、騎士と貴族は別のカテゴリーであること、し
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aで、ある
かし騎士として活動することは、貴族への接近をもたらし、貴族 n
かどうかは、封建的主従関係に参加して封を持っているかどうかということ
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簡潔にまとめたものとして、 G
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4世紀における文化モデルとし
ての貴族的価値観の継続を主張するだけではこの時代の変化は捉えきれない。支配層研
究における「継続主義」的「エリート主義的」傾向とそれに対する批判、ポポロによる
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新しい制度の文化を評価する研究動向については、とりあえず、A.P
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-128-
1
3世紀のヴ、ェネツィア支配層と騎士
とは全く関係なく、都市に於いて完全な武装をして馬に乗り家の伝統として
政治的軍事的義務を果たすことに見いだせるとした。これを受けてカルディー
ニも、「血統による明らかな貴族身分が存在して、その属性として騎士がある」
というサルヴェミニの前提を覆し、騎士の威信は塔の所有やヴ、エンデッタの慣
習などと共に、貴族を構成する一つの要素であるとしたのである
1
9
これをさらに進めて、騎士的生活様式こそがイタリア都市の貴族の特徴であ
るとしたのがガスパリであるといえよう。彼は、騎士叙任や条令による免税
特権などが閉じた騎士身分を形作るのではなく、騎士叙任に限らない騎馬戦
士のあらゆる習慣・儀礼の総体が、都市のイタリアに於いてアリストクラシー
の境界を形作っていたのだとする O すなわち、戦場での礼儀正しい振る舞いや
騎馬槍試合を始めとする騎馬での競技・遊ぴへの参加、婚礼や祭りの際に、あ
るいは戦場で簡素に行われる帯万式、また都市条令に見られる「歩兵には禁じ
られた武器を所持する権利」や「市内を馬で走る権利」などである。ここでは
下層封建領主の家系に属し伝統的に司教に軍事奉仕を行っていたような家も、
新たにコムーネによって騎馬戦士として戦うように要請された家も大差はな
い。確かにいくつかの都市条令は、免税などの点で両者を区別しているが、こ
のようなイタリア騎士の社会組成や法的特徴については、個々の都市史の文脈
で理解するしかなく、むしろ広義の騎士をイタリア社会に於いて考えることの
1
9 同じ頃、ロンパルデイアのより古い時代に於いて、騎士と貴族を論じたのがケラーであ
る。彼は 1
2
1
3世紀のミラノに於いて単なる騎馬戦士とは異なる閉鎖的身分としての騎士
身分が存在したことを主張したが、この見解は一般には受け入れられていない。ガスパ
リもケラーの個々の論証部分は支持するものの、全体の発展図式と身分の閉鎖性について
は受け入れがたいと批判している。 C
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.なおガスパリは騎士に関する 1
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0年代のケラーの論文を
いくつか挙げているが、いずれも筆者未見。都市コムーネ社会における貴族の形成と発
展を論じたケラーの先の著作については、佐藤公美「中世イタリアにおける領域構造論
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及び都市ー農村関係論の課題 J 史林j 8
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。
-129-
1
3世紀のヴェネツイア支配層と騎士
有効性が主張されていると言えようへマルカ・トレヴィジャーナを中心に扱っ
た別の論文では、彼は、上層集団への所属を特徴付ける要素は、武器による競
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m,torneamentum) と狩猟(鷹狩り)を特徴
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とする騎士の習慣・騎士的生活様式、すなわち moremilitumだ、としている 210
騎士の社会的文化的一体性に目を向け、それと貴族身分のかかわりを考察
するガスパリの動向に対し、貴族との関係の考察は副次的なものとして、イ
タリア都市コムーネにおける騎士層そのものの具体的有り様を幅広い地域に
渡って検討したのがメール・ヴイギュールである。彼は騎馬による軍事活動
やそれにともなう経済的特権、地域ごとの騎士の社会経済的実態をとりあげ、
封建的主従関係や騎士叙任に関係なく、都市のために,馬に乗って戦う階層が
イタリアの騎士であること、彼らに共通の文化は、親族等の私的紐帯を基盤
に武器と法を利用して紛争と和解を繰り返す紛争文化であることを強調した。
騎士と貴族に関する長い研究史とさまざまな地方の事例を踏まえた彼の議論
をここで詳しく紹介することはできないが、騎士と貴族の関係についての彼の
見解をまとめると次のようになろう。
1
2世紀から 1
3世紀初めにかけてのイタ
リア都市コムーネの支配層(すなわちコンソリになる層)は、社会経済的多様
性にもかかわらず戦闘用の馬を持ちコムーネに軍事奉仕する騎馬戦士として
の一体性を持っており、 1
3世紀前半にポポロ(新興住民層)が登場し始めると、
このような家が全体として貴族だと考えられるようになる。つまり、同時代人
たちは 1
2世紀末頃からますます騎士milesと貴族nobilesをほぼ類似のものとみ
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sは一つの社会カテゴリーと言うよ
なすようになるのだが、史料用語の n
りは、それが比較級や最上級でも使用されることからわかるように、人と人と
の相対的地位の関係を指し示す語棄であった。従って複雑さを避けるために
も
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3世紀の騎士層の連続を示すためにも、 1
2世紀の騎士層を(分析概念
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1
3世紀のヴ、ェネツイア支配層と騎士
として)貴族と呼ぶことは妥当であろう、というものである。つまり貴族の側
から彼の見解を読み解くなら、
1
2
1
3世紀のイタリア都市の貴族とは、共通の
紛争文化と騎馬による軍事奉仕という機能を併せ持つ「政治的・軍事的エリー
ト家系」ということになろう n。
サルヴ、エミニの議論に於いて、
1
3世紀から 1
4世紀の変化を問題にした部分
は、その後の研究においても十分検討され克服されているとは言えないお。し
かし、ガスパリの研究成果やメール・ヴイギュールの見解は、ボルドーネ、カ
ステルヌオーヴォの描くイタリア支配層の見取り図にも踏襲されており 2
4、少
なくとも
1
3世紀のコムーネ社会における騎士と貴族(閉鎖的身分としてのそ
れではなく、聞かれた特権集団としてのイタリア都市支配層)については、上
記のような形で一応の意見の一致を見ていると言って良いだろう。
ところでメール・ヴイギュールは著書の中で、ヴェネツイア支配層もこの
ようなイタリア都市コムーネ共通の騎士層に連なるものとして叙述している。
すなわちヴェネツィアはジェノヴァやピサと同じく海上商業活動との強い結
びつきが大きな特徴であり、船乗りとしての能力が他の内陸都市に比べて騎馬
戦士としての能力を削減することになった。が、それでも戦闘の主要な道具は
馬であり、当時のヴェネツィアでは馬が普通に見られ、騎馬槍試合への参加
など騎士としての武勇を誇示する機会にも事欠かなかったと評価するのであ
2
2 彼はしかし 1
3世紀を全体として騎士層の衰退期と見ており、都市コムーネがポポロ体
3世紀後半の支配層・「貴族」の性格についてはなお検
制とシニョリーア制へと分岐する 1
討が必要である。
2
3 ガスパリは、 1
3世紀の都市支配層全体を表象する軍事的含蓄を持った騎士に対して、
1
4世紀の騎士はより儀礼的側面が目立ち、一方で、はシニョーレの家系のような「君主的」
で限定された人々に収飲していき、他方ではフイレンツェのように「平民」によっても
求められるものになっていく、という見通しを述べているが、 1
4世紀についてはなお研
究が必要であると指摘している。
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3世紀のヴ、ェネツイア支配層と騎士
るお。しかしイタリア一般において騎士文化の浸透がある程度認められてきた
としても、かつてのヴェネツイア理解においては後背地との違いが強調され
てきたことも事実である。以下ではメール・ヴィギュールを始め、ヴェネツイ
アと騎士の関係について言及する研究が参照してきた史料を詳しく紹介し、実
態を検討することにしたい。
1
3世紀のヴェネツィア社会を描いた同時代の叙述史料として挙げられるの
はマルティン・ダ・カナールの年代記である。作者はおそらく中層市民のヴェ
ネツイア人で、ヴ、ェネツィアの年代記の中では珍しく中世フランス語で書かれ
た。作者によると「フランス語は世界に普及しており、読み聞きするのに心地
よいので、ヴェネツイア人の古い歴史をラテン語からフランス詩に訳そうと
思った」とのことであるお。この年代記が中世フランス語で書かれていること
そのものが、ヴェネツィアが南仏を基点とする騎士文学に親しんでいたことを
示しているが、それを通読すると、ヴェネツイア人が騎馬槍試合に無縁でな
かったことがうかがえる。
ラニエリ・ゼノがヴェネツィアの元首になったあと、貴族たちはサン・
マルコ広場に舞台を建てた。・.(中略)・・・先に語ったように舞台がこ
の広場に建てられて絹のタベストリーで覆われ、広場もやはり覆われた。
貴婦人や令嬢が舞台に上り、広場を取り囲む館の窓からも顔を出してい
た。元首がサン・マルコ教会のロッジャ(開廊)に現れ、彼とともにヴェ
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3世紀のヴ、ェネツイア支配層と騎士
ネツイアの貴族たちも現れた。ヴ、ェネツイアの民衆たちが広場にいた。こ
こに元首の二人の息子がやってきた。一人はロレンツォ・テイエポロでも
う一人はマルコ・ズィアーニであった 27。ロレンツォ殿は皆の先頭に立ち
武器を持っていなかった。マルコ・ズィアーニは完全に武装しており多く
の騎士を引き連れていて、それらはみな良い馬にまたがって良い武具を身
につけていた。彼の後ろには他の騎士の一団がいて良い馬にまたがり賛沢
に武装していた。貴婦人の目前で馬上槍試合が始まった。もしそこにいた
なら、槍の応酬を見ることができたであろう。マルコ・ズィアーニは称賛
に値する立派な戦いをした。彼はドイツ人やロンパルデイア人やフリウリ
人の一撃を断ることなく、多くの騎士が参加した。イストリアの騎士が試
合で大きな力を示した。彼らは一方の側でロンパルデイア人やトレヴイー
ゾ人やフリウリ人はもう一方の側で、あった。そして多くのヴェネツィア人
貴族も試合で大きな力を示し、槍を何度も折った。この宮廷、この祭り
は何日も続き、マルコ・ズイアーニ殿は毎日参加した。ロレンツォ・ティ
エポロ殿は武器を取ることなく、むしろ皆の主であって乗馬しながら広場
の適当な場所に移動し続けた。お
これは 1
2
5
0年代半ばの出来事であるが、ここからヴェネツイアの政治の中
心地で馬上槍試合がとり行われたことがわかる。確かに参加者はドイツ人をは
じめとするヴェネツイア以外の騎士が中心であるようだが、ヴェネツィア人も
彼らと同様馬に乗り、試合に参加していた。ただ、騎士に憧れ、自身も騎士叙
任を受けることを望んで、いたマルコ・ズィアーニ 29と異なり、のちに元首とな
2
7 ロレンツォ・ティエポロはジャコモ・テイエポロ(元首在位:1
2
2
9
1
2
4
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) の息子、マルコ・
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9年)の息子である。
ズィアーニはピエトロ・ズイアーニ(元首在位田 1
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9 ズィアーニ家の興亡を詳細に検討したフェースは、商業から離れ騎士道に憧れるといっ
た、このようなマルコの行動をヴェネツイアの支配層一般からの逸脱だとし、ここにズイ
アーニ家の没落の兆しを見ている。マルコの父、ピエトロは、多くの不動産を所有し、
-133-
1
3世紀のヴェネツイア支配層と騎士
るロレンツォ・テイエポロは馬には乗るものの、武器は取らなかったことは注
意しておかねばならないだろう。
1
2
7
2年ヴェネツィアに 6人の若いフリウリ人がやってきた。彼らの名前
は、タルタロ・デッラ・フラッティーナ、フランチェスコ・デイ・ブロイ
アヴァッカ、ジョヴァンニ・ダッザーノ、エンリコ・ダ・フィウメ、マングッ
ソ・ダンノーネ、マルスト・デイ・サント・ステファノである。彼らは元
首ロレンツォ・テイエポロにここヴェネツィアで馬上槍試合を行うことを
頼んだ。「もし誰かが進み出るなら、その人と喜んで試合を行う用意があ
ります」。元首は彼らの願いに従って通達を出し、元首宮殿の前に支柱を
立てさせ支柱の周りに綱を張って試合の会場とした。四句節の 3目前、フ
リウリの 6人の若者はあらゆる武具を身につけて馬にまたがった。ヴェネ
ツイアの高貴な人々が 6人の若者に敬意を表するために馬に乗った。元首
は宮殿の窓に姿を見せ、ヴェネツィアの貴族の年長者や婦人や令嬢もやっ
てきた。どのように馬上槍試合を行ったのかと問いかけられるなら、彼
らは自分たちで競技をしたと答えよう。ただし l日目にジャコモ・ティエ
ポロの家の者で彼の家系でない若者が武具を身につけ強く優美な良馬に
乗って競技場に入った。フリウリ人の一人が彼に馬の頭を向けて互いに突
進し馬に拍車をかけて槍を下げた o'
•
(中略)..
3日目フリウリの若者の一人が競技場にある槍を持ってきた。槍は短く
て大きく周りに羊皮紙が巻かれていた。そこには、誰か前に進み出てこ
の槍をとるように、なぜなら彼は貴族で騎士の息子だから、と書いてあっ
た。そこでトレヴィーゾ生まれのベルヴィーゾというヴェネツイアの市民
が前に出た。彼はその槍をとり、武具を身につけ良い馬にまたがり競技
シチリアから妻を迎えた。マルコ自身の妻もフエツラーラのエステ家の出身であった。
しかし本稿の検討からいえば、これは行き過ぎの見解と言えよう。 C.
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-134-
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3世紀のヴェネツィア支配層と騎士
場の綱の中に入った。フリウリの若者は用意をし、彼らのあいだで戦い
を始めた。何度も戦ったが二人とも落馬することなく、双方とも槍を折っ
た。この戦いのあと、二人のフリウリの若者が一緒に力強く戦い始め、双
方とも槍を折った。ほどなく馬にまたがったヴェネツイア人たちが次々槍
を折り、フリウリの若者たちも槍を折り始めた。祭りは驚くべき盛大さで、
フリウリ人たちはヴェネツイアで大変たたえられた。これら全てのことは
元首ロレンツオ・ティエポロの眼前で行われた。加
ここでも主として戦ったのはフリウリの若者たちであり、ヴェネツィア人
はむしろ観戦の側にたっている。が、武勇を誇る騎士の振る舞いがヴェネツイ
ア人たちに受け入れられ、むしろ賞賛されていた様子が伝えられているといえ
ょう。
では実際の戦闘でヴェネツィア人が騎馬戦士として戦うことはあったのだ
ろうか。 1214年トレヴイーゾで行われた盛大なトーナメントはヴェネツイア
人も参加し、パドヴァとヴェネツイアの小競り合いから本当の戦闘に発展した
ことで有名で、あるが、ここでは、パドヴァの騎士が大勢参加したことは記され
ていても、ヴェネツイア人側に直接的な騎士の記述はない。サン・マルコの旗
を掲げて進軍したことが記されるのみである 310 しかし、ポ一川の城塞建設を
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程度騎士がいて、騎馬試合をしたのかはわからない。 R
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-135-
1
3世紀のヴ、エネツイア支配層と騎士
巡ってボローニャとヴ、ェネツイアが戦った際の記述は注目に値する。
ヴェネツイア人とその敗戦について語ったので、今度はボローニャ人の
歓喜について語らねばならない。ボローニャとロマーニャの追放者たちは
ヴ、ェネツイアの傭兵に対して勝利を達成したので、喜んだ。彼らはボロー
ニャにヴェネツィア人の錨とおおゆみと武器を持って帰った。
中略・・・
もしそこにあなたがたがいたなら、諸君よ、あなたがたは
ボローニャ人たちの過剰な歓喜とお祝いを見ることが出来ただろう。彼
らには確かに戦争が終わったかのように思われ、おしゃべりがボローニヤ
中に触れ回った。
「ヴェネツィア人は男ではない、女だ」
ボローニャ中でこのようにくりかえし言われた。
ヴェネツイアに、ボローニャ人がヴェネツイア人は女だと言っていると
いう知らせが届いたとき、ヴェネツイアの敵に損害を与えるのが常である
高貴なヴェネツィア人たちは、そのことに憤慨した。彼らは馬と武器を
手に入れて、馬に乗って武器を取るのが巧みなヴェネツイア人たちがヴェ
ネツィアを出発した。先頭に立つのはマルコ・グラデニーゴ殿とヤコポ・
ドンドゥロ殿でこの二人の貴族は立派な軍隊とともにプリマロ(ポー川の
支流の呼称)に向かい、馬と足で陸に飛び上がるとボローニャ人がそこに
建てた塔に襲いかかった。そして柵と木の砦を打ち倒し、塔の周りにある
家に火をつけて燃やした。もしラヴェンナやロマーニャの大部分から塔に
やってきた騎士や歩兵の助けがなければ、ヴェネツィア人は塔を破壊し
ていただろう。ヴェネツイア人は多くの援軍が来たのを見ると、船に乗っ
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-136-
1
3世紀のヴェネツィア支配層と騎士
この戦闘はボローニャがポ一川に城砦を建設しようとし、ヴェネツイアがそ
れを阻止しようとしたところに発端がある。よって戦闘はプリマロと呼ばれ
るポ一川がデルタ地帯でいくつかの支流に分かれているそのひとつで行われ、
ヴェネツイア側はガレー船から投石機とおおゆみで河原のボローニャ軍を攻
撃するという形で行われていた。このように、おそらく普段はあまり騎馬軍隊
を組織して戦うことの少なかったヴ、ェネツイアであるが、史料が語るところに
よれば、ボローニャ人に挑発されて、馬を整え、自分たちが雄々しく戦えるこ
とを証明しに出かけたのである。ここにはヴェネツイア支配層が、ボローニヤ
人が保持していた騎士として戦うことの価値を受け入れ、必要とあれば、騎馬
装備を準備できたことが示されているのではないだろうか。
このような、ヴェネツィア人と馬の関係が年代記による架空のものでないこ
とは、ヴェネツィアの大議会決議を見たとき、さらに明らかになる。もっとも
有名で、随所で引用されているのが、 1
2
8
7年の大議会決議である。
サン・マルコ広場のメルチェリエ通り(商庖街)のアーチ下からサン・
バルトロメオ教会に向かう道を通って、多くの貴族やその他の人々が往
来するため、そして、従者やその他の馬に乗った人々がこれらの通行人に
対して、粗野なことを不適切に行うため、次のような法令が議決される。
今後誰も、そのときこの地にやってきたよそ者でない限り、決してこの道
を馬に乗って通行しではならない。通行した場合の罰金は 2
5リレとする。
さらに、誰も今後、鈴をつけた胸帯や端綱なしに馬上槍試合をしてはいけ
ない。鈴をつけるのは、走るときにその音が良く聞こえるようにであり、
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-137-
1
3世紀のヴェネツイア支配層と騎士
違反すると 2
5リレの罰金である。この罰金は「夜の主人 J(と呼ばれる治
安係)が徴収し、そこから 3分の lを持つ。残りの 3分の lはコムーネに
属し、最後の 3分の lはもし告発が真実だと認められたなら告発者が持つ。
このことが「夜の主人」の条項に付け加えられること。
3
3
さらに 1392年には以下のような法令が通っており、 14世紀中もヴェネツイ
アでは馬の走行が続いていたことがわかる。
サン・マルコ広場で祝日に馬で走る際に起こりうる多くの不都合を避け
るため、今後誰も祝日にサン・マルコ広場を馬で走ってはいけないという
5回のむち打ちか 2
5リレの罰金。この罰金
法令が通る。違反した場合は 2
は「夜の役人 J(治安官)が徴収し 3分の lは、役人が、 3分の lはコムーネが、
3分の lは告発者が持つ。そして違反者は先に述べたむち打ちを、皆に対
する良き範例としてサン・マルコ広場で受けなければならない。このこと
は先に述べた全ての「夜の役人」が守らなければならない 34。
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ア史』シリーズにおいて 1
3世紀のヴェネツイア社会を担当したソレルリは、
「ヴェネツイアにおいて騎士は、政治的・社会的・法的観点から重要な地位と
いうよりもむしろ、風俗であろう」と述べており、その見解は妥当なものだと
言えようお。たしかにヴェネツイア人は海戦に長け、本土のイタリア都市と戦
闘する場合でも川を船で、遡ったり、傭兵を使ったり、彼ら自身が大規模な騎馬
軍隊を編制することはなかった。よって、いくつかの都市条令に見られるよう
な騎士に対する特権も存在しない。またメール・ヴィギュールのように紛争文
化を騎士層の主要な文化的特徴と見るなら、ヴェネツイア市内においてはこの
ような文化はかなり抑制されていることも認めねばならないだろう。しかし、
ここではむしろ、ヴ、ェネツイア人が騎士的生活様式を拒否せず、それらと無縁
でなかったことを評価しておきたい。サン・マルコ広場で騎馬槍試合を行い、
そこで示される能力を称え、ヴ、ェネツイア人もそれに参加しようとしている。
じっさい、馬と武具を所持し、市内で騎馬槍試合を行う人々も存在したことは
ふたつの大議会決議が示しているであろう。ヴェネツイアの有力者は、しばし
ば他都市のポデスタとなってイタリア本土で軍勢を率いることがあったが、そ
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2世紀の十字軍遠征における馬の派遣については、A.S
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-139-
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3世紀のヴェネツイア支配層と騎士
のとき騎士として従軍したことは想像に難くない 370 年代記史料にも数は少な
いが称号としての milesが登場する 380さらに本論では詳しく検討しなかったが、
ヴェネツィアがクレタに植民地を得たとき、彼らは騎士milesと呼ばれる人々
に土地 (
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層であり、彼らは馬をヴェネツイアから連れて行かねばならず、馬を放牧する
ための草原や、盾持ちも備えなければならなかった。クレタに到着後は、さら
にもう一頭、馬を購入する義務があった 39。セッティアは、土地を与える代わ
りに軍事義務を課すという制度が同時代のブレシャやトレヴィーゾやフエツ
ラーラのボルゴ(農村集住地)にも見られる点に注目し、ヴ、ェネツィアによる
クレタ入植と本土都市のボルゴ防衛との類似性を指摘している 40。近年のイタ
リア・コムーネの騎士研究は、騎士叙任式や国制上の特権は必ずしも騎士階層
であることの本質ではないという立場を取っている。それならば、ヴェネツイ
アの支配層をグラデーションのもっとも薄い形態として、騎士文化に連ねるこ
とは可能で、あろう。「ラグーナに浮かぶ都市」という「場」としてのヴェネツイ
アは特殊であるかもしれないが、その支配層を見たとき、彼らは十分イタリア
3
7 ヴェネツィア人のポデスタについては、 M.Pozza “P
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3世紀のヴ、ェネツィア支配層と騎士
本土の文化や制度に親しみ、交流を持っていたのである。
近年は、テッラ・フェルマ征服以前においてもヴェネツイアとイタリア諸都
市との交流に注目する研究が蓄積しており、ヴェネツイア一国史の流れの中だ
けでヴェネツイア支配層の変遷を捉えるだけではやはり不十分だと思われる。
少なくとも、彼らが商業活動を行う傍らで軍事エリートとしてのアイデンテイ
ティを持っていたことは、年代記に見る数々の戦闘場面、特にボローニャに郷
撤されて馬を整えて出陣する場面やクレタへの騎士の派遣がよく物語ってい
るのであり、その点では「政治的・軍事的エリートとしての一体感」は 1
3世
紀のヴェネツイア支配層にもあてはまると言えるだろう。ヴェネツィア支配層
については、セッラータ以前は貿易活動による富の蓄積と政府の要職に就くと
いう政治的経験が事実上の貴族となる条件であり、セッラータ後は大議会の成
員である家系に属することが貴族身分に属するための指標であるとされてき
た4
1。確かにそれは間違いではない。が今までヴ、ェネツィア支配層について好
んで研究されてきた家系の連続や個々の家の台頭の様子など物理的な側面で
はなく、当時の人々がどのような人々が「高貴」であり、また政府の要職に就
く資格があると考えていたのか、彼らの一体性がどこに求められるのかという
問題については、より幅広く、同時代の他のイタリア諸都市との関係の中で考
える必要があるのではないだろうか。
4
1 永井三明「ヴ、ェネツイア貴族階級の確立とその背景 Jr
史林Jl 6
3
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0年、斉藤寛海
史学雑
「都市の権力構造とギルドのあり方ーヴェネツィアとフイレンツェのギルドー Jr
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3年。先に述べたフェースは 1
3世紀のヴェネツイア社会について「裕福な
ものが評価される。裕福になりたいものは商業に投資すべき資本を持たなければならず、
商業を行わなければならない。これがなければ成功もなく、投資すべき資本がなければ
社会的地位も失う Jとまとめている。またセッラータ以前のヴ、ェネツイア貴族を研究し
たレーシュも、商業の成功によって名声と寓が蓄積し、官職を引き受け貴族層に連なっ
ていくとしている。 G
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3世紀の貴族は血
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統と記憶と名声によってアイデンティファイされるとしている。 E
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-141-
1
3世紀のヴ、ェネツイア支配層と騎士
[付記]本稿は平成 2
3年度科学研究費補助金・基盤研究 (
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中世イタリア都
市支配層の「貴族」アイデンテイティー
1
4世紀ヴ、ェネツイアを中心に」によ
る研究成果の一部である。
-142-
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