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「神の国のたとえ話」 マルコの福音書4章21~34 先週はイエスが湖に船

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「神の国のたとえ話」 マルコの福音書4章21~34 先週はイエスが湖に船
「神の国のたとえ話」
マルコの福音書4章21~34
先週はイエスが湖に船で出られ、たとえで話されたことを見ました。私たちは信仰の耳を持
ってイエスの言葉を聞かねば、神の国を正しく知ることはできません。
神の国とはどのようなものかを続けて、たとえを交えて話されました。
1.「明かりとはかり」
「あかりを持って来るのは、枡の下や寝台の下に置くためでしょうか。燭台の上に置くためで
はありませんか。 隠れているのは、必ず現れるためであり、おおい隠されているのは、明らか
にされるためです。」
明かりは部屋の中を照らすものです。ですから、枡の下やベッドの下に置くことはしないと
いう、あたりまえのたとえです。枡というのは穀物を図る枡です。聖書の中ではエパという単
位が出てきます、がこれが枡の単位です。
しかし、時にこの枡は明かりを消す道具として使われました。当時の明かりはもちろん今の
ように電気はありません。オリーブ油などを使った灯明のようなもので、油に芯がさしてあっ
てそこに火をつけるという簡単なものでした。これを消す時に、はかりますをかぶせて火を消
すということをしたようです。
枡の下に置く、というのはこの明かりを消してしまうということです。
イエスはご自分を明りにたとえ,ご自分が「来た」のは神の国の奥義を明らかにするためで
あって、今それが現れて輝いているのだ。だから今、聞く耳のある者はイエスに聞くように、
霊の耳を鋭くして聞くようにと訴えているのです。「聞く耳のある者は聞きなさい」とイエス
は再び言われます。ここにも、私たちの聞くものとしてのあり方が問われているのです。
量りのたとえも、持っている人・持っていない人のたとえも、この「聞く」ということに関
連しています。御言葉を受ける心の升が小さく狭いならば、御言葉の恵みも小さく、闇にとど
まったままです。しかし心の升を広げ、信仰がまし加えられるならば、神は惜しげもなく神の
国の奥義を明らかにしてくださいます。すでにまかれた御言葉を心に受けて実践する人には、
御国の奥義がさらに与えられます。心が柔らかく耕された良い地となっている心からは神のめ
ぐみのみのりが期待できるのです。逆に、御言葉をとらえるのに失敗する人は神の国に関する
すべてのめぐみを失うことになるのです。霊的な理解力を持っている人はさらに豊かに神のめ
ぐみを受けることができます。しかしそれを持たない人は、つまり福音に対する理解のない人
は、今持っているものまで失うのです。
以前、先輩の牧師からこんな話を聞いたことがあります。ある二人の貧しい人が教会を訪れ
ました。そのうちの一人は牧師から聖書の話を聞きました、しかし、「福音で飯が食えるか」
と言って帰ってしまったそうです。その人がそののちどうなったかはわかりません。しかしも
う一人は同じように「福音で飯が食えるか」と言った後、牧師から「今は食えないが、今に食
えるようになる」という言葉を信じ、その通りになり、今は教会の役員をしているということ
です。
持っているものはさらにああたえられ、 持たないものは持っているものまで失うのです。
2.「知らないうちに育つ種のたとえ」
1
「また言われた。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、
夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、
人は知りません。」
神の国とはどのようなものかが前回の個所と同じように再び種のイメージで語られています。
ここに書かれているたとえは、はじめは小さな始まりであるということ、と思いもよらないほ
どの莫大な収穫を対比しています。特に前半のたとえは、生長過程が人手によらずに、神の力
の介入による神秘であることを強調しています。それは「そうこうしているうちに」とあるよ
うに、神の国の成長が人が自由にコントロール出来るものではなく、神の国とは神の支配であ
り、そこに神の主権が強く働いていることを示しています。小さなガリラヤ伝道の中に、すで
にサタンの抵抗もあり、パリサイ人や律法学者たちのように、信仰の種を拒絶する心もありま
した。けれども、神の国は消滅することなく、着実に増大する力を持っています。そしてやが
て時が来たらその収穫に鎌が入り、実が収穫されるのです。種をまいたのが主であれば、実を
収穫するのも主です。
私たちはこのことから目をそらされやすいものです。神の国は神のご支配の中にある、とい
う大原則を見失いがちです。どうしてこの地に福音が広がらないのだろうか、日本のクリスチ
ャンは1%の壁を越えられないのはどうしてだろうか。いろんな人たちがいろんな工夫を祈り
ながら宣教が進められました。しかし、日本でプロテスタント宣教が始まって150年たった
今、この1%が越えられない。このことに日本の多くの教会はつぶやいているように思えます。
しかし、何もない所から、いや迫害と圧迫の中、弾圧の中からの1%と考えると、この1%を
めぐみととらえることはできないでしょうか。わずか1%と、嘆かずに、1%もいた。
預言者エリヤはユダヤの中にわずか70人しかいなかった神の使者にのぞみをかけました。
ギデオンはわずか300人でミデヤン人を打ち負かしました。
詩篇は信仰者のあり方についてこううたいます 1篇3節「 その人は、水路のそばに植わった
木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」
すべてのことに神の時があるのです。私たちは目の前のことに失望せず、神が必ずなしてく
ださる、神の時があることを信じて、今の時を励みたいと思います。
3.「からし種のたとえ」
「 また言われた。「神の国は、どのようなものと言えばよいでしょう。何にたとえたらよいで
しょう。 それはからし種のようなものです。地に蒔かれるときには、地に蒔かれる種の中で、
一番小さいのですが、 それが蒔かれると、生長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を
張り、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになります。」
神の国の成長過程はからし種の生長に最も似ているとたとえられています。からし種は種の
中で一番小さいものとして知られていました。見たことある方はいますか?それはシャープペ
ンシルの先っちょを一ミリほど折ったくらいの大きさです。ほんとにこれが植物の種なのか、
と思うほどです。しかし生長を始めると、2~3メートルほどにすぐに成長して、どんな野菜
よりも大きくなります。大きく枝を張ってその陰には鳥が巣を作れるほどになります。
神の国の成長と拡大はこのようなものであるというのです。
今は、罪人と呼ばれた人たち、とても宗教的とは言い難い漁師や取税人を弟子としガリラヤ
湖畔という狭い範囲を中心に伝道するイエスがやがて時代を超え、文化を超えて、地域を超え、
国を超えて人を生れ変らせ、社会を変革させる。イエスのまいた言葉、福音の種は成長して大
2
きな枝となり、その下に世界が安らぎを求めるようになるのです。
4.「たとえとについてまとめ」
イエスは多くのことをたとえで話されました。そして聞くものの力に応じて話された、と
あります。イエスのたとえを聞いて理解するものもいたけれども、そうでないものもいたと思
われます。イエスは聞くものがそのたとえを聞いて理解することを求めておられました。そこ
には神の奥義が隠されていました。そして聞いたものはイエスによって知ることのできた神の
国に入るかどうかの決断をしなければなりませんでした。
イエスがもしたとえではなくて、直接に語ったとしたならば聞くものは心の備えがまだ十分
ではなかったから、イエスのことを拒否したかもしれません。聞くものはたとえを、そしてそ
のたとえの意味するところを十分に考えることができて、神の国の福音に対して自分がどうす
ればよいかの判断をすることができたのではないでしょうか。神の国の奥義、この「奥義」と
いう言葉はミステーリオンというギリシャ語でミステリーの語源になっています。隠されたこ
とを意味しますが、イエスはこのたとえを理解するかどうか、によって、聞くものが良い地と
なっているか、福音にふさわしいかを吟味することができました。ですから弟子たちがたとえ
の内容を聞きたがったのを聞いてイエスは憤りを感じられたのです。
しかしイエスは弟子たちにはたとえとともに、その解き明かしもなされました。それは弟子
たちだけには真理を知っていてもらいたかったからです。しかし残念ながら、キリストの十字
架と復活、聖霊が下るまで、弟子たちは本当の意味でイエスの言葉を理解しませんでした。
私たちはたとえ、と解き明かし、そして神の国の奥義が知らされています。
ですからこれを受け取るかどうか、なのです。私たちの心が柔らかい耕されたものであるなら、
福音を受け取る資格があります。しかし、これは聖霊の働きが必要です。
私たちが神を受け入れた時、特別な主の働きがあったのです。ですから今福音を聞いて受け
入れられない人は祈って求める必要があります。イエス様、どうぞわたしの中に御這入りくだ
さい。と。
そして信仰に入っていただきたい人がいるならば、その人のために主の働きがあることを祈
らなければなりません。主よどうかあの人に特別に働いてください。と。
終わりに
今まさに来ようとしている神の国は、明らかにされるのです
わたしたちはすでにキリストの十字架、と復活を知っています
神の国は明らかになったのです、そしてこの神の国はイエスがたとえで話されたように、ユダ
ヤのガリラヤ湖の湖畔から全世界へと伝わったのです。そしてもっとも遠いとかんがえられて
いた東の果ての日本にも届けられました。500年前にザビエルによって、150年前に、開
国した日本に宣教師たちによって福音は、伝わりました。そして今、日本からもたくさんの宣
教師が世界に出て行っています。
からしだねのような小さな種が大きく広がってゆくのです。
神の国の領土はこのようにして広がってゆくのです。
私たちの小樽福音キリスト教会は小さな教会です、からしだねのように広い大地にまかれた小
さな種です。しかしこの種は種のままで終わらず、大きく枝を伸ばし、葉を広げて空を覆うよ
うになるのです。
神の国とはそのようなものです。
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私たちは信じましょう。今の私たちの奉仕や、宣教がむなしいものでなくこの桜の地に広がっ
てゆくこと、そして小樽に、北海道に、日本に、そして世界に広がってゆくことを。
しかし、すべては神がなさることも覚えましょう。私たちの力には限界があります。しかし神
には限界がありません、自然に芽が出て、実がなるということも神の福音の奥義です。明かり
は隠れていることはできないのです。
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