Comments
Description
Transcript
古代ロー マにおける のロ繍 家の周の典のの の地位
佐 藤 篤 士 古代ローマにおけるω鼠﹃Ra$の地位 i富ヨ葭”のありかたと相続形態1 胴 はじめに 四 結びにかえて じ め に 古代ローマにおける蓄一冨8q窪の地位 三一︵二二五︶ 論のたたかわされた部分であるといわれている。それはとりもなおさず、戸ーマ国家の基底をなす壁旨鼠の構造と ︵一︶ これまで、ローマの相続法ないし相続をどうとらえていくかということは、ローマ法学の歴史においてもっとも議 1ま 三 鍔一ぎ器儀$の相続期待権 ⑥ 被解放者の場合 未成熟者と婦女の場合 熟した男子の場合 二 巽一げ震a窪の構成 ω 成 ⑭ 論 説︵佐藤︶ 三二︵二二六︶ 深いつながりを持っているからであり、さらに一般的にいえば、相続は歴史の流れのなかで家族形態を規定する一つ ︵二︶ の基本的なメルクマールとなっているという事情が、そこに働いているからであろうと考えられる。 相続法のでてくる基盤が、生産力の発展とともに原始共同態の血縁集団が崩れ、農業共同体への移行過程でとくに 土地財産の私的占拠が次第におこなわれはじめることにあるという点では、おそらく反論がないであろう。しかしな がら、社会の発展の過程と相続形態とのかかわりあいについては、どのようにとらえたらいいか、という間題が起こ ︵三︶ るであろう。中川学説はこれを次のように説明している。 すなわち、氏族制時代においては、氏族の長が死んでも、また氏族のうち誰が死んでも相続は起こらなかった。と いうのは、氏族長の場合は生産手段の管理人の交替にすぎず、氏族員の場合は相続の客体たるべき財産が氏族員個人 に属していないからである。しかし、家族生活の高度化・私有財産観念の発達は、次第に家長権の強大化をまねき、 家産は家長の私有財産であるという考えかたがでてきて、家長の交替は、私有財産の承継として観念され、ここに身 分相続という形で財産相続が発生する。ところで、この相続は新家長たるべき者一人についてのみ起こるのであって、 他の家構成員は家財産によりかかって生活するのであるから、純粋に家族的生産だけの社会構造では、必然的に単独 相続形態をとる。さらに、私有財産制度の発達によって社会的生産に個人が参加し報酬をうるという生活形態になる とともに、人は自分自分の生活を支えなければならない。ここでは、家族構成員も各自財産をわけてもらえば、生活 も保障されるようになる。このような点からみれば、世界史上の相続法は次第に単独相続を修正し、やがては廃止し て、共同分割相続へと移る傾向をおびる。ところが、官ーマにおいてはすでに一二表法時代から共同分割相続がおこ なわれたが、この共同分割相続は、排他的家族的アグナチオ相続法という性格を持つものであって、父系親の外へ財 産を散らさないという集団的制約のあるものであった。ローマでは、その後コグナチオの生活形態び発達し、個人的 コグナチオ相続法・血族主義的平等の相続法が形成され、この個人的平等相続は、ヨーロヅパ全体にひろがり、分割 ︵四︶ 共同相続を形成せしめることになったといわれる。 このような中川学説は、まず第一に、世界史の大きな流れから見れば、歴史の発展段階との関連で、相続形態をど うとらえていくかという問題がまだ明確にされていない。とくに相続は死者の遺した財産の承継であるというとき、 ︵五︶ その財産のもつ各時代の性格との関連は重要な意味を持つものと考えられる。第二に、問題をローマに限ってみても、 ︵六︶ ガイウスの伝えているように、すでに早くから分割相続であったとされるが、それが、どのようなありかたをし、ま たどうしてそのような形態をとらねばならなかったかということを考えてみなければならないであろう。第三に、ロ ーマの相続法がコグナチオにもとづく個人的平等相続法となり、近代ヨーロッパに拡がってきた過程の必然性、つま ︵七︶ り、それが継受なのかどうかというきわめて困難な問題がある。 本稿では、このような問題意識から、右の第二の点、その中でもとくに古代ローマの相続法をの巨冨冨籔ωの地 位をめぐって考察しようとするものである。ω三冨おα霧の地位を明らかにしていくことは、とりもなおさずづ暮震 壁目筥霧の権力の性格や成立過程を側面から明らかにすることにつながると考えるからである。そのいみでも、古代 社会に共通の現象といわれる無遺言相続撃8窃旨筈一算①の鼠8︵かならずしも現代の法秩序における法定相続にあ ︵八︶ たらない︶を中心に考察を進めていくことにしたい。 古代ローマにおけるω9ゲ震a霧の地位 三三︵二二七︶ 論 説︵佐藤︶ 三四︵二二八︶ む斜PωO醤。 ︵一︶罫民霧gu器&巨ω。ぎ淳一<9ぎ。年一﹂。舞→幻勺勇一︶・。﹃岩挙国琶ざ一−薯①誌g家巨の。ぎω菊g拝い妻罫 ︵二︶ たとえば対偶婚の場合と、それよりも発展した︸夫一婦制の場合とでは、相続のありかたが基本的に異なる。家父長制の 成立は、家族における父性の明確化と男系を通じての財産の承継のはじまりであるとされる。 ︵三︶ 中川善之助﹁相続法の諸間題﹂︵昭和二四年︶三頁以下。 ﹁註釈相続法上﹂︵昭和二九年︶中川氏担当部分。 ︵四︶ ﹁註釈相続法上﹂二頁以下。中川氏は、ここで、今日のローマ法学者は、ガイウスが雲霧プR8を﹁子が父の生前から ある程度所有権を認められていたため、他人の相続というより、むしろ自分の相続という意味があるからだ﹂という説明した ことについて重視しないことを指摘し、さらに、このガイウス文は、ゲルマン古代に見るような、原始共産家族の名残りでは ないかと思われる、とされる︵同書、二頁註Gり︶。 しかし、ここでローマ法学者として指摘されている原田慶吉氏の相続法についてのシェーマは次のようなものである。相続 法発達の第一段階では、相続人の呼称と相続の財産的実体との分化はなく、祭杞・祖名相続である。第二段階では、相続人の 呼称と相続の財産的実体との分化、直系卑属以外のものにも相続の財産的実体が及ぼされ、呼称は相続観念に合しない為にち ゅうちょした。第三段階においては、相続観念が物質化し、直系卑属以外のものもげ醇霧といわれるようになったとする。 ︵五︶ ヨーロッパ全体にひろがったといわれる分割共同相続なるものは、むしろ、理念的には近代市民社会の成立過程ででてき た、いわゆる抽象的な個人の自由・平等・独立と無関係ではないであろう。じつは、近代資本主義社会の成立というメルクマ ールにこそ問題がかくされているのであり、それと古典古代社会における法構造ないしは法形式との単純比較にはうなづけな い。この点、稲本洋之助﹁一八世紀末のパリ地方における直系卑属相続人の相続分割慣行﹂8︵﹁社会科学研究﹂第一六ー三・ 四・五合併号︶は、きわめて大きな意義のあるものといわねばならない。 ︵六︶ ﹁平等の原理﹂︵男女・年令差のないこと︶は、ローマ相続法の重大な特色であり、中世大陸法に比較して驚くに値すると いわれている。たとえば、船田享二﹁羅馬法﹂第四巻、二一一頁。ω畠三斜Ω霧ω8巴菊o韓p昌ピpぎ8ご国霧Φ斜男℃同閃卜o。9 その他多数。しかしながら、この相続人﹁平等の原理﹂については、平盤的な単純比較︵勿論これらの学説がすべてそうだと はいわないが︶するだけでは、その本質はつかめないであろう。 ︵七︶ 稲本前掲論文は、 一八世紀バリ地方において、バリ慣習法典の直系卑属相続法の内容は、封地その他貴族財産をのぞけば、 近代的相続法とあまり変わらないという。このいみでは、ナポレオン民法典の平等無遺言相続法はすでに、 一五八○年のパリ 慣習法においてすでに構築されていたといえることを指摘し、さらにこの地方では長男子優先相続から諸子均分相続へという 命題は一般的には成立しないことを述べている。 ︵八︶ 現存の史料の状態では、古代官ーマの相続形態についてもきわめて不十分であり、しかも、当時の支配階級であるパトリ キの場合に限定されざるを得ないことは、あらかじめ明記して、その限界を明らかにしておかなければならない。 略記号 園国“b㊤三網−<凝器o名p国op一窪奨区o℃餌臼①α霧冠霧ω置畠Φ昌︾琴霞ξ導の妻δ器旨8げ鉱妙 二 の鼠げRa霧の構成 ωNuN。駿。ぼ§α段ω奨おξ−ω窪言昌αQ協母国①。耳の吸①ω。三。洋ρ3導窪算。︾專● ︵一︶ 一二表法が、当時の♂邑富の生活をすべての点にわたって規定しているのでないことは、 一般に説明されてい る。そのうえ、二一表法の原典が存在しないため、後の時代からの再構成というやむをえない事情もあって、法文の 形式も、ある法文は命令形であったり、あるいは間接話法でしか伝えられていないというものもあることから考えれ 古代ローマにおける。岳げ鶏a霧の地位 三五︵ニニ九V 論 説︵佐藤︶ 三六︵二三〇︶ ば、今目まで多くの学者達によって再構成されてきた二一表法の法文には、法文自体の欠落、ないし内容の欠落があ るのではないかとも考えられる。しかし、比較法史学・民族学の成果や、経済史・社会史・考古学の成果などによっ ︵二︶ て、古代戸ーマの拭巨鼠生活の再構成も、いろいろの形でおこなわれてきている。 これらの諸成果のうえにたって、古代ローマのの巳げ霞a8の地位を明らかにしていくために、次のようなメル クマールをおくことにしたい。即ち、第一は成熟した男子のω鼠冨お留ωの場合、第二は未成熟男子の場合と婦女の 場合、第三は被解放者の場合である。これらの三つ場合に、古代揖ーマにおいては、ω且ゲ震9$がどのように構成 されていたかという間題である。 成熟した男子の場合 ﹁無遺言者の相続財産は、 一二表法にもとづき、第一に豊一冨器号ωに帰属する﹂ ︵Op営ρご冒富ω富ε歪簿 れていないが、ガイウスは明文をもってω急富おα霧の相続権および相続順位について述べている。 今日まで、法文として復元されたかぎりでは、一二表法はω三富おα霧の相続権については、問接的にしか規定さ 蓉。窃鼻︾&σQ轟εω頃○図巨富壁巨一昼β募び①叶○●腔p黄轟εの需・Φω鼻︶αQ窪注霧貯目臣㊤匿富び①暮o。︶ を所有せよ﹂・﹁もし最近の宗族なきときは、氏族員が家産を所有せよ﹂︵ω一一暮窃蜜ε旨oにε烈。9實島富おω ︵四︶ ﹁もし彼︵H被相続人︶が無遺言にて死亡したならば、彼に釜毒冨おωなきときは、最近の宗族が家産︵貯邑匿︶ ︵⋮ コ一表法︵五表−四・五︶は、次のように規定しているとされる。 (1) 密お舞舞窃霞一⑦碧図昌↓筈三p霊霞冥ぼ自唐鑑巽8冨8α窃鷲&需暮’︶ ︵五V 相続にかんするこれらの法文ないし法史料から推測するかぎり、一二表法の時代に、すでに遺言を原則としている ようなニュアンスを持っているということであり、第二に、相続の主体は釜一冨おα$︵象易富8のの算205︶ ︵六︶ 。9げ霞a$が存在しない場合にはじめて、遺産は最近の宗族・氏族員に移転するということ、さらには、 であって、。 後者は段階的な遺産取得の主体となるということである。従って、最近の宗族と氏族員とはω三冨同9霧とは表示 されていないばかりでなく、遺産を﹁取得する﹂にとどまることになる。しかし、このことからただちに、当時の相 ︵七︶ 続法秩序が見出されうるものではない。すなわち、上述の法文ないし法史科では曽一冨8α霧︵もっとも器σQ壼ε¢ ︵八︶ ℃8首跨葛概念も同様である︶がどのようなものであるかについてまったく触れられてはいないのである。 それでは、。。鼠冨8留ωとはどのようなものであったか。ガイウスは。。9ぎおα8とは、次のようなものであると 伝えている。⑥被相続人の死亡当時その権力に服する卑属親ー実子・養子を問わず、息子・娘・息子の子︵男孫。 は他の原因によって被相続人の権力を離脱した場合に限る。㈲被相続人のe嘗霧に服する妻。息子・男孫の目目霧 女孫︶・男孫の子︵男曾孫・女曾孫︶。但し、男女孫・男女曾孫が。。9げ臼&8となるのは、先順位者が死亡ないし ︵九︶ に服する妻。但し後者は被相続人死亡当時、息子・男孫が死亡ないし何らかの理由で被相続人の権力を離脱したため、 ︵一〇︶ 被相続人の権力に直接服していた場合に限る。⑥被相続人の生存中に出生したとすれば、その権力に服することにな っていた後生子。⑥第一回・第二回の握取行為を経て父の死亡後に解放された息子。 ︵一一︶ ︵一二︶ これらのω三び巽&霧は、古典時代においては被相続人死亡と同時に、成熟者は霊二賃一ωとなり、平等に相続に 古代冒ーマにおける誓一プ霞a$の地位 三七︵一≡工︶ 召喚される。従って、ここでは、性や年令の差別はおこなわれないと伝えているのである。しかしな渉ら、この﹁平 論 説︵佐藤︶ 三八︵二三二︶ ︵一三︶ 等の原理﹂が、古典胃ーマと同様に古代導ーマにも存在したとすれば、お轟試oの家父長制家族と、どう結びつくか ということが間題となってくるであろう。 ボンファンテの学説は、この点次のように説明している。すなわち、彼によれば、まず相続は大家族︵98ω鍵且翫︶ を支配統括する家長の家長権︵○び①昌窪讐ー至上権︶の移転であると考え、そのいみは、家長が自分の後継者を指 定するということにあると主張する。だから、彼は、遺言相続をもって相続形態の噛矢とするのである。これを別の 言葉でいえば、強大な権力を有する家長は、自分の家長権を誰れに承継させるかを、品壼試oの家族集団に属する卑 ヤ ヤ 属の中から選択し、相続人として任命することであったという。従って、ここから出てくる当然の帰結として、ω乱 ゲ震&$が平等に相続に参加できるのではないということ、それからもう一つは、家長が死亡しても、融巨鼠構成 ︵一四︶ 員は、指定された者以外はq。鼠言冨とはならず、依然として聾窪二葭δにとどまるということである。 このようなボンファンテ理論は、おそらくは、前述した一二表法の規定のニュアンス、つまり遺言相続が一般的で あり、無遺言相続は例外的であるかのような外観や、碧霧制の集団的物支配権とそれを﹁統治﹂する大家族の長の 支配権、国家権力が家の敷居で止まるという現象︵それほど完結的、統一的なお墨銭○集団としての貯旨影︶から、 理論の組み立てをおこなったものではないかと想像される。もしそうだとすれば、次のことからも明らかなようにボ ンファンテの学説とともに出てきた批判やその後に発展した学説によって、ボンファンテの学説は、すでにくつがえ ︵一五︶ されているとみなければならないだろう。 すなわち、ラテン王政における権力のありかたは、鵯嵩制にもとづくものであり、碧霧の共同体的集団的性格と 配していたものと推測され、個々の壁巨富はこのような碧霧の中に埋没していたのである。ところで、 エトル 関連して、相対的に弱いものであった。σq①塁は、従って完結的な団体であり、土地を中核とする財産を集団的に支 ︵一六︶ クス王政における権力の世俗化とともに、鴨霧制は相対的に弱体化し、続いてそれが崩壊していく過程の中で、 ①霧の中に埋没していた壁巨鼠は、社会生活の単位・国家構成の単位として表面にあらわれてくる。すなわち、 古代ローマにおけるの葺︸お器α$の地位 三九︵二三三︶ ったであろう。すなわち、鷺ーマの共同体構成員として、他の共同体との慢性的戦争状態の中で、戦士としても参加 その財産は管理せしめられたものであろう。少なくとも、精神錯乱者は、共同体の一人前の構成員とは考えられなか ︵一八︶ らば、相続によって承継された遺産にたいする権力は、おそらく、行使しえず、宗族あるいは碧霧構成員によって 。巳げ鶏&$たるべきものが成熟者であったとしても、精神錯乱者注ユ8拐ないしは浪費者嘆&お霧な もし、。 ものと思われるのである。 ば、成熟男子は当然鍔甚霞&$となったであろう。このことがまた、土地にたいする平等の支配権の根拠となった 国家構成員として﹁共同体の共同の労働﹂である戦争に参加し、また国政にも関与するのである。このように考えれ のである。そして、成熟した男子は、℃暮巽壁睡葭霧の権力に服しながら鍵昆費の生活を営むと同時に、他方では なる。後にも述べるように、 ロ薯マにおける相続は、このような♂邑凝を支える財産をめぐって展開されてくる 財産について鴨塁制のもとで存在した塑讐駐○の集団的所有から、個別壁旨夢の所有へと移行してくることに 貯巨薮は集約農業の単位として小家族困①艮㊤巨冨として登場してくるのである。ここでは、土地を中核とする ︵一七︶ σq できず、国政にもおそらく参加できなかったであろう、というのがその理由として考えられる。浪費者の場合も、浪 論 説く佐藤︶ 四〇︵二三四︶ ︵一九︶ 費者は、ローマ国家の構成単位である壁巨鼠の財産的基礎を失わしめる危険があるだけでなく、浪費による拭邑鼠 の消滅それ自体がローマ国家の基礎をくずすといういみを持つものであったということであろう。これらのことから、 精神錯乱者や浪費者の場合は、相続人となりえたにも拘らず彼等自身とその相続すべき遺産に関して保佐8声が発 生するものと考えられ、遺産にたいする行為能力は制限されたものと考えられる。 ︵二〇︶ ︵一︶ リウィウスは二一表法が﹁全公私法の源泉である﹂とか﹁全ローマ法の総体である﹂とか言っている。これらの言葉はむ しろ、ごの9︿まの基本的な諸原則のかなりの部分を含むというような理解の仕方をすべきであろうか︵劇¢お9い国琴饗ご需象o U一9δ壁曙9男oヨ㊤昌い㊤ぎお統︸雛一︶。カーザーも、後の法学者の解釈を通じて補われたことを説く︵閑錺oぴ閃零閃鮮N︶。 ての文献は、船田享二﹁羅馬法﹂第一巻一一入頁以下参照。しかし、今日においては紀元前五世紀の中頃に一二表法が制定さ ︵二︶ かつて、 一二表法成立に関する古典時代の記事について信愚性があるかどうか疑間が出されたこともあった。これについ れたということは通説である。差し当り9U巳畠①芦閃α唐δ30菊9窪お霧o置o巨ρN︾gφこお鴇︵H園即Oy零臨.“︾餐詣δ− 菊且辞ω8鼠α。一良吋●8導こ一8ρ総ωβ廟ミ。夷g9。Oま一一睾α霧&巨ω9窪国①9黄這舞翫。。讐①叶。● ︵三︶ 国旨昌9閏O暮霧一貫一ω3ヨ三㊤算δ鼠︵6総︶による。 ︵四︶ <ムはdな猷昌霧矯爵Nρ一︵Oo一ぎ一9査9 <占はd一口㊤嶺葺即一管.参αq岳。︵Oo=●い一9♪N︶.キケロによれば、 一二 表法の法文は次の如きものとする。、ω一℃暮巽宣葺臣霧一馨霧叶p8導〇二葺鮮壁ヨ崔㊤麗o=邑9ρ琴色畠おo㊤3簿αQ①馨一一ごヨρ壽 ①簿9、︵Ω3号旨くこNい軌ρ云o。︶︵もし家父が無遺言にて死亡したならば、猛筥臣pとづ①象巳pとは、彼のアグナチオ親族と ゲソス構成員に属すべし。しキケβの伝えるこの法文は、壁唐筐帥需薯琶㊤ρ蓼の解釈︵後述︶や、お髭葛ヨαq窪色ごBρ5を どうとらえるか︵”同順位か否か︶という点で、きわめて問題の多い法文である。 ︵五︶ 同文はOoも霧ざユωΩ誌房のご界詳嘗δ昌窪︵ρ廿一︶にもある。 これに関連する法文としては、℃p包霧一U●蕊︸ρP錦d一℃す昌霧︸U・8︸一9G辞ご娼㊤巨霧︸①暮。♪o。勒bO纂℃o艮誤︾ U●qρ一9一9鷲●勤O鉱塁矯璽一浮℃帥q一霧堕OO一一こ一9伊曾9ρ ︵六︶ 古代官ーマにおいては、三種の遺言の方式が伝えられている。 富馨㊤目霞ε旨8昼ユω8謹憲δ・ぎ嘆859仁・℃霞㊤霧 9一ま壁βである。前二者は、おそらくは、の鉱プ窪a霧が一人もいない場合に用いられ、他権者養子縁組と同じような機能 をいとなんだものではないかと考えられる。しかも、遺言の行なう場所が民会でありまた軍隊︵それが立法行為か承認行為か︶ であるから、その頻度も少なかったのではなかろうか。このかぎりにおいては、無遺言相続とは矛盾するものではなく、むし ろ相おぎなう関係にあるものということができる。しかし、最後のものは、目きo甘暮δ℃震㊤霧〇二ま同p目の方式にのっとっ たものであり、個々の財産を、ついには全財産を処分しうるものであったわけで、むしろ、 一二表法成立後、解釈と運用を通 じて︸般化したものといえる。国霧①き園勺H勾担O評 9︿o昌劇○=PN鐸ヨa目δ9窪冒臣岳詳①纂p日霞甘ωξ臼ぼ9さお良 <。︾壁昌咀o−閃ロぎ一︵お訟︶︸N蕊津 民霧霞︵男℃目勾鮮岩︶によれば、、ω=算$鼠εヨ設詫漢:●、の場合の﹁遺言﹂は、富界㌣ 導睾ε3娼霞㊤霧9一ま蚕導による遺言であるとされるが、■o龍霞︵ωo塁げ震霧仁昌α餌ざ①器の=ぼ巴εω貫巨鶏鉾蜀oω富号二津 憎9三民霧9餌犀霞目一お$︵︵“閏①罫国89p犀R=︶yN翫︶は、むしろ民会遺言と関連づけて説明している。 ︵七︶ 国霧9園︸H園H8南∴因霧①烈国お窪ゴヨgロ山劇鼠言一導蹉ε窓ロ3B訪9窪園oo耳”らま︵目国ω︶台﹂象舜原田慶 吉﹁襖形文字法の研究﹂二二二頁以下、特に二二四ー五頁。また、σQ①霧ではなくて、なぜσq窪注霧であるかについては、通 説に従って氏族制碧富の残津であると考える。 ︵八︶ 冥o邑臣器&αQ塁ε¢についての邦文献は、吉野悟﹁古代冨ーマにおける﹃最近宗族﹄の法的地位の形成過程について﹂ 古代巨ーマにおける象二お冨q窃の地位 四一︵二三五︶ 論 説︵佐藤︶ 四二︵二三六︶ ︵﹁専修大学論集﹂二〇号︶。の且ザ①3α霧については、目P巳σqぎの巳げ巽①αΦ9国国H<︾ひ象−驚ど冒9旨㎝ぎ頃段①畠津㊤ユρヨ 旨。 。・閃国<HHHひ器−宝o 。h但しω○嶺臼・︵国8箸ど命刈︶は、讐霧犀臼霧を特定の人の相続人︵目彼の相続人︶として理解し、 げR8聲島を上と区別して単一のテクニカルタームであるという。巽霧の文法的な検討は≦・国’国罵ぎωN総︸一91まド 。ご︶は、 一二表法の法文の。。g島を﹁一般に℃08界器の下にある者﹂というよ 国震δ類帥︵閃αヨδ畠①男①魯什。。αQ霧o巨9富目︸o うな名詞と理解する。従って、国巽δ≦㊤によれば、讐易ゲ窪畠は﹁直接に℃9①界霧に服する鍔ごということになり、﹁間 接に⋮⋮﹂︵相続人ではない︶ω9と区別される。閑一爵は、図目い寅すく玉のωロ霧は主語であって、げ霞霧は客語であると て理解している。 解する。しかし、 一般には、このような文法的な考慮なしに、薯霧び巽霧ないし冨器ωも。仁霧を単一のテクニカルタ、ムとし ︵九︶ O巴こω”N切Nい一凱浮bp巳一U・鵠”ρ一ご国器①サ園βプ①βα①鐸昌山︿〇三鼠昌⑳①旨自Φ閏塑霧αQo≦巴枠一壼弩8目Φp&旨諒oげ①β 園①oげ倉ωN凱oo︸ω一自● ︵一〇﹀ O㊤営伊曾 ︵一一︶ Opご齢タ ︵一二︶ Ω騨ごρ9 ︵一三︶ O㊤一こ鯉3国馨雰暮δ饗鉾ρ富・外 しかし、上記の⑥ー④までのω鼠げ震&霧が、古代ローマにおいてすべて平等 に相続に召喚されたとは考えられない。㈲⑥については後述。④についても、 一二表法四表の二の規定.ω一℃暮霞白ご鋸叶震 く窪自導α9甘白言ω卑饗#①一ま臼霧⇔○、︵O帥ンど蕊丹dな・器σQ弱一器一ρ一︶の規定の解釈・運用から生まれてきたものであ り、比較的新 ら し い も の で は な い か と 推 測 さ れ る 。 ︵︸四︶ bo⇒融馨9ωo話淳一αQごユ良9ぐ巽芦どお一9ど一〇〇︸一9中⋮89︾OO誘O黛αぐ一洋03筥㊤50H︸おN曾o o中 劇o試P馨Φの 理論は、とりわけイタリヤにおいて広範な影響力を与えた。ω○一駕昼Uぎ興Φ身8ヨ.︵N田号こG鴇1ωωYい帥勺罵勲い騨 。 。88裟o琴⑦冨象寅は螢一暮①馨暮9。8馨3旨8ω貫目①簿○︵お8︶鴇濠受−団誉920薯。一一窃簿&霧。。窮一①跨雰き。一窪 3箏鉱昌︵一8伊おミ︶ω窪’︵○びω。署慧8鍔二①詠吸巨①段。8ωの・邑α①ω図目疑ぴ一Φω︶勤oQ貸ヒぴ艮畳o﹂︾qa勢国邑國凶o 切①庄一棄①ω窪山①ω舞aヨ一ω9窪評巨一一①鷺巽富&①の冨きのσQ。目Φ汐ω・げ鋒昆山甜昌舞Φ詣魯・ωω窪ω。富協二︸ωN芦一ーN命 ︵一五︶ 譲㊤ω震一図∪円菊どo oN律旧閃螢び9ωN凱ρ暗ざ国霧霞によれば、︾声昌αqδ−国忌斜ピ①ロ900一詳勺巽ON昼国a8①P ωぎ¢きω品3”Upβげρ冒虫罐お≦δ8ざ円’民臣詩9︾簿ぼ89ρいqN壁9P︾5窪お器などの名前をあげている。そして、ひ としく反論の理由を、どの民族においても、もっとも古い相続は無遺言相続であるという、比較法史学、社会経済史学などの 諸成果によっている。型<09国鋸ヨ①α①一一①富ω江α巴b9壁算o巽一P鉾ヨ芭笹8ヨ麓⇒P貧88幽︾ωε象ぎOぎお象<● ︾峯昌吼?菊三凶一︵お器︶︾一〇一のoρ。鴇窯帥巳⑳ぎ菊国<H目℃ひω一捗 。ω︶。 ︵一六︶ 国帥ωOμM︽頃同図担COρ轟嘉ω①ρ,鴨∪=一〇閃①一計國菊○一一凱ω①ρ∴ 国qσ津ωOげ①閃︸図国O︾● ︵一七︶ 国霧畦によれば、家相続は、小家族組織を前提とするという︵国霧9男零國卸o ︵一八︶ 協霞δ鶏のはo霞㊤保佐に服せしめられた。 これは、後見と異なり、暁漢δω葛の財産にも身分にも及ぶとされる︵原田 ﹁ローマ法﹂三二五頁︶。また、嘆aお霧の保佐の場合は、財産の処分管理に限定された。 o一 一二表法五−七a﹁もし彼が精神錯乱者ならば、彼自身と彼の財産にたいする権力は、宗族と鳴霧構成員にあるべし﹂︵o h弩一〇ω拐①ω鼻る農轟εき吸①昌一言巳澹①ぼ8℃Φ。章寅2①。一霧℃・叶①ω$ωΦ馨・、&国。お§こご一いもい︶ 同法五ー七b﹁一二表法によれば、浪費者が自己の財産を管理することは禁止される﹂︵U品Φ図目↓菩三㊤歪ヨ冥○良碧 一暮霞象o犀霞σ○昌o霊ヨωqO糞旨㊤α目ぼ冨茸暮一〇,id一やU・ミリ一ρ一︶。 同法五ー七c﹁一二表法は、精神錯乱者または浪費者は、自己の財産を管理することを禁ぜられ、宗族の保佐に服すべきこ とと、命じている﹂︵い震図目日暮巳帥導9診ユo聲ヨ津①旨ρ潟冥&一〇Q賃βo忌び8δ一暮Φ巳一〇εeo貫ぎ象声江8Φ一二げ9 。のω①㊤讐鉢o嵩巳●ーd一℃こ目げこ図H一も︶。 古代冒ーマにおけるの葺げ霞&$の地位 四三︵二三七︶ 論 説︵佐藤︶ 四四︵二三八︶ h畦一8畠は、中間平静時︵象ξ93客ε讐毘麟︶以外の法律行為は無効とされる。鷲巳お霧については、頭初から禁泊産宣 oがあったとすれば、これの取消とともに保佐も終了したと考えられる。 いづれにしても、保佐o葭帥に服した 精神錯乱者、浪費者は、遺産にたいする所有権を持っていた。しかし、器αq轟菖ωとαq窪江一〇ωと段階的に保佐人が選ばれるの ヤ ヤ かどうか、また不誠実な保佐人にたいする制裁の原則や保佐人指定の方式は示されていない。国pω9国零勾担o。O蹄 ︵一九︶ 冒薯ざのN轟9恥Nω⋮Uo<一の。 。昏gい国εα窃畠身○詳8導aβ︵お階︶︾q卑 ︵二〇︶ ∪①<一。 。の号窪は、精神錯乱者・浪費者の相続人を持つ℃暮窪♂ヨ崇霧は、これらの相続人を遺言で廃除したと推測する が︵管一自こ辱律︶、おそらく、これはありうることであろう。臼o一〇矩一〇N︶国一ω8ユo毘ぎ貫oα8試oP一N一・ ω未成熟者と婦女の場合 ︵一︶ それでは未成熟者と婦女の場合はどうであろうか。ここでもまたコ一表法の規定から考察を進めることにしたい。 五表三Rある者が︺家産︵P︶ないし財物の後見について処分︵遺贈︶したとき、それは法たるべし﹂︵O江一黄霧畳 ︵二︶ ¢毛段℃①。g壁叶暮①一雲Φω奉①邑﹂富言。。①の叶o●︶ 五表六﹁遺言によってー後見人が指定されなかった者には、 一二表法によりその者の品唇江○親族が後見人と なる﹂︵O巳冨の富の富8①簿9:ε叶g鼠εの8bω登誇霞び品①図自[凝び巳p旨旦品轟註聲暮叶暮○おε。 これらの二つの法文からも、やはり、ωの場合と同様に、晶二表法時代に一般的に遺言が通常の場合であったよう なニュアンス炉感じとられ、遺言のない場合にはじめて、アグナチオ親族による法定後見が発生したがごとく受けと ︵三︶ られる。しかしながら、遺言は、一二表法以前、民会ないし軍隊においておこなわねばならなかったことから推して いけば、おそらく、この法文のコ胃ラリーである後見人指定の遺言は、法形式としては、やはり一二表法によっては じめられたものであろうと考えられる。ガイウスによれば、後見人指定の遺言の方式は、おそらくは.目江該淳唇Φ誘 ︵四︶ 旨①一。 。 ︵黄&葺①器︶εεおヨ9、﹁私はチチウスを私の子︵私の妻︶の後見人に指定する﹂、、艮江霧♂暮9$ε、﹁チ チウスは後見人たるべし﹂であったと考えられ、一二表法以前から存在していた未成熟補充指定との関連で、結合な ︵ 五 ︶ ︵六︶ いし融合したものとの推測がなされる。 未成熟者や婦女が財産についての法律行為を為す場合、これらの者が完全な一人前の巨ーマ共同体成員とは認めら ︵七︶ れがたく、そのアグナチオ親の後見に服することにより、保護されるのがつねであった。このような未成熟者と婦女 を保護する手段として、前者については未成熟補充指定、後者については婦女後見が考え出されたのである。 未成熟補充指定は、被相続人︵むしろ℃暮霞け目臣霧といった方が妥当であろうが︶の権力に服する未成熟者炉 未成熟のうちに死亡することを考え、その未成熟者の相続人を指定したものである。被指定者は、補充指定とともに、 ︵八︶ 未成熟の子が成熟するまでの期間、後見人の役割を果したものである。未成熟者のこのような地位から推測が許され ︵九︶ るならば、一二表法時代においても、未成熟者は冨おのとして表示されていなかったと考えられる。 このような未成熟補充指定の仕組みは、おそらくは、婦女まで拡大されて、コ一表法に規定された。カーザーは、 ︵一〇︶ この場合も、一二表法時代に婦女がまだげ霞8とは呼ばれなかったであろうと推測している。そして、婦女の場合は、 未成熟者とは異なって、年令を問わず、後見に服することになるのである。一二表法の規定は﹁古代ローマの人びと 古代官ーマにおけるω葺びRa8の地位 四五︵二三九︶ 論 説︵佐藤︶ 四六︵二四〇︶ ︵二︶ は⋮⋮婦女子がたとえ成熟年令に達したにしても⋮⋮後見に服すべきことを望んだ﹂と伝えている。 それでは、℃暮角壁日臣霧の死亡とともにおこるこれらの未成熟補充指定と婦女後見は、どのようないみを持つも のと考えるべきであろうか。ボンファンテは、ωで述べた相続にたいする考えかたから、この場合も℃暮霞♂B臣霧 の至上の権力を認めて、後見人も遺言によって任命したものと考える。そこで、未成熟者と婦女とは被相続人によっ て任命された後見人の権力に服する他権者に過ぎないとする。従って、これらの他権者は、成熟男子にかかわる相続 ︵一二︶ からは排除され、相続人とはならず、相続人は被指定者であって、未成熟者や婦女ではないと主張した。 しかしながら、前述した通り、粗放農業から集約農業への発展がみられ、αQ①bω制の崩壊と小家族の成立という眞 ーマの社会的、経済的条件のもとでは、相続もすぐれて財産的いみが大きかったのである。従って、この段僧におい ては、相続が壁巨壁にたいする至上の権力の承継というよりも、とにかく融巨拝構成員の生活を支えるもので ︵一四︶ ︵一五︶ ︵一三︶ あり、それを側面から保障し維持するといういみでの家族宗教の承継という観念が強く働いていたものと考えられる。 ︵一六︶ だから、後見人の権力の内容に被後見人を殺害する権力も含まれず、また売却する権力も含まれないし、さらには、 被後見人を養子にやる権力も含まれていないという事情から考察するときは、冒霞貯℃9①誓器の内容に比べて、は るかに弱い制約されたものであるという点からすれば、後見人の権力の強大を主張するボンファンテ理論は、否定さ れねばならないであろう。さらには、後見人は一人でなく複数の場合も考えられるのである。少なくとも、一二表法 時代においては、おそらく、後見人は、未成熟者・婦女の相続した財産を受託する受託者に過ぎなくなっているとい えるのではなかろうか。 ︵一七︶ ︵︸八︶ このように考えてくれば、。。9冨おα窃と表示されないに拘らず、未成熟者・婦女は、相続期待権者であり、 表法以後になると、警二蝿はωとして、また鍔一げ霞a8として承認されることとなったのである。 ︵一︶ 国ロ窪震︸U窃ぎ言辞暮霞ぼ8拝忌聴閏声β窪ぎ巴審β園○目”ωN占●とくにβ図黛ぎ目pP自の場合である。 ︵二︶ この法文は団霊霧︾閏o暮霧ごはの8目p艮に従ったが、法文として伝えられるものにはかなりの違いがある。 ︵ゆ︶.葺=①αQ器簿ω奉①邑﹂叶9募Φω8、︵9一●も︾認∋冒の倉ρ認寧嚇ぎヨ●∪。いρ一9旨ρ︶ ︵げ︶.澤=。⑳霧馨2菖q①α①。。轟お”富富①ω8。、︵2・︿●NNも唾︶ 一二 ︵o︶、︸緯震 h 9 巨 一 一 霧 g 一 ζ 。毛窪壁同旨一す℃8琶σ咤①ω墨一①撃くg津︵<。=Φ鵯の簿﹀し夢一暴①馨o、︵o一。●3﹃︿.Nqρ軍o。︶ ︵山︶、鐸=①αQ霧降ω題霧℃①。自一㊤ε芭㊤<①鍔器邑﹂鼠ごω①暮9.︵d一℃﹂税・F5 これらの相異と一二表法五・四にあらわれた、夢膏臣㊤℃①窪巳pρま、とから、︷㊤日臣pと℃o霊艮pとが、その内容において どう異なるのかの論争がおこなわれてきた。名一霧ω巴なピ搾冨駐・劇8巴Φ㌘窓お−国q誉ぎ7図霧9 カーザーは、この法文にお ヤ ヤ ヤ ヤ ゐ ける℃①8巳pをたんに家長の個人財産とせず、壁ヨ臣p需2艮pρきといういみにとっているようである︵閃勺鴎犀H・o 。恥︶。 この規定は、おそらくの鼠げ霞&$の一人もいない家長が、自己の終意処分として、誰か家外者に財産を与えるために用 いられたものと考えられ、後に、什。℃鶏㊤$簿一ま声睡へと融合したものではないだろうか︵民霧9園勺同幻坦o。分男い①一8昌 ω薯ω富おω§α璋霞①のピ一ぼ巴富ω貫ヨ①纂守器。ぼ馨国・ωg畏霞H一も3︶。 ︵三︶ カーザーは、民会遺言は仲。℃霞8の簿一ま声9の証言行為以上のものであったろうという︵国霧霞・幻勺同園剖ま︶。そし て、民会遺言・軍隊遺言は、鍔=おお儀8のいない家長の、p含粛暮δを通じての遺言であるとされる︵凶器貧冒園男吋菊洲路中︶ oP ︵四︶ O巴こジ式ρ ︵五︶ O巴こN︸No 古代目ーマにおけるの鼠げ臼&窃の地位 四七︵二四一︶ 論 説︵佐藤︶ 四八︵二四二︶ ︵六︶ ︾︿嘱の①き国℃鴎閃鮮 qO.一ソ自P昌一αQ犀︸幻国目<︾”ひq㌣ ○㊤一こ ρ 一略O樋 U・NO O・9 N℃昌 ︵七︶ このことの意味は、まだ拝ーマ共同体の一員として認めがたい未成熟者が成熟するまでの保護、直接据ーマ共同体を防衛 できない婦女の保護であり、ともに、共同体の再生産を側面から支えるものであった。 ︵八︶ 薫ぎq8び巴阜国首︾b騨昌自①匿ε⇔目担一凌跨鴇切o旨㊤昌汁ρOO誘ρH轟Oω独“ω斜oげΦ誘・園国︸q>・軍O椅舞嚇穴霧①詳国財同園斜 ま臨● ︵九︶ 因器9国零勾封o。9 しかし、未成熟者は相続からまったく廃除されたと考えるのではなく、将来げ霞&霧となること を予定されたものであって、被相続人死亡とともに、ただちに成熟者のように完全に独立した権利の主体となるのではなく、 後見に服したものである。従って未成熟者は成熟に達するとともに、げ震a霧となると考えられ、後見も終了するものであろ う。このように考えてくれば、後生子の場合は、むしろ古典時代の産物といわねばなるまい。 ︵一〇︶ 民霧Φさ国娼増男押o 。9 しかし、げ霞&8とは表示されなかったにもかかわらず、財産の相続には関与したのではない かとする。原田氏の相続法発達の第二段階にあたる。 ︵二︶く。ご<①§①ωiぎ一gR舅叶h①巨轟ωる鼠霧一速箒98㊤卑豊霧巨℃1ぼε琶餌Φ羅∵:ぎ貿①①薮窮凝。図自 富び。8βεヨoω什●︵Op一こ一℃一奪ー凱︶ ウエスタの処女は例外であった。の㊤ごど憲分OΦ臣霧︵一い旨㌧一〇。︶”言8糞菖①馨㊤ユ一ωピ帥び8巳ωりρ奉①㊤儀図一一討び●8ヨー 。富8bΦ信①一暮婁象器ρ且超奏夢ωaびo轟 ℃霧葺﹂$ω。巷ε臼①ω#、<一お・<。ω芭δ昌①ε。冨奮①ω什畠一εpヨ一導①。 9暴言℃昌露一8目お象吼のご昌叶随置ρqo一母o訪暮︸ρ奏oユ啓霞、● ︵一二︶ 団9鼠馨ρOO誘O象島は槽88β帥昌ρ卸ε9<ご二q射ボソファソテの考えに従うものωO一器無ωR・9&●89●一 ︵一8N︶這帆律嚇ピひく零団歪三層ω亘ω巳器昼300唐など。 ︵一三︶ これは、.霞90旨o昌98.といわれる8霧oヰご葺にもあらわれている。 ︵一四︶ 国塑ωoお園℃目園どミ● ︵一五︶ O巴”一い一ミは、尊属親の旨§o首ご導の権力︵ぎヨ霧oな旨旨︶に服するすべての卑属親は、奴隷がヨ彗o首暮δに よって売却されると同様に、尊属親によって売却されるとし、O㊤ど廿二〇。は、夫権に服する婦女も同様であることを伝えて いるが、叶暮aはご¢<窪α魯象を持っていない。また、O鉢﹂﹂鵠は尊属親によって売却された男女・買主により日馨阜 饗広oの方式で売却された男女は奴隷の地位に入ると伝えているが、この場合にもε8Hの諸関係は入らない。 ︵一六︶ Ω帥﹃廿一9”犀①目℃段℃○℃巳9ヨ8導汐器βOPPαo℃貫馨仁鮮昌㊤目箆目品富覧89¢﹁︿国民の承認﹀によって婦女 は他権者養子とせらることなし。これ通説なり﹂。 未成熟者が自権者養子とならないことについて、○①崔塁・乞09霧︾註Sρ凱しO㌔︵ーδ︶”ω&㊤騨○窓H一P8℃o盆幹巳巴 ︵一七︶ ε8穫の権力については差し当って本稿の目的ではないが、本稿との関連で後見に関する問題点を示めせば次のように 一㊤5<①駐8℃9..︾身○撃ぎ、、㊤暮①ヨ良。旦ε寅鵯自ωぎ。首巴一①轟ヨ壁巨一一pe窪窪ω一菖ω℃震℃o℃巳二〇σq㊤試8①睡律, なるであろう。後見人・被後見人問における関係は、ゆ山o。。によって結ばれていたこと、旨一霞①8霞oε富一8の示すよう に、ぐぎ象8試○による後見権の防衛の可能性、後見人のゆ匹①ω違反にたいしての留貯鉢一9による規制、さらには、後見権 の濫用について8江○声試8ま霧9ω声げ窪象。D︵計算剥奪訴権︶、〇二e窪普馨9試菖8ユの︵相続財産纂奪の罪︶によって追 求されること、などである。国霧臼℃園5げ窪α①q昌α<①且轟昌鴨づ3国㊤拐鵯≦ゆ#一e継叶段窪aヨδ9鶏国①9ρωN帆o。︾3中 国●国琶9N自く段霊ωω①護お怨Φ盆αq巨¢山Φの目嘗○諾︸ωε&国巨ぎ劇①ヰニH﹂8N一廣。。津 ︵一八︶ 民餌の霞︾国℃村閑眞ミ嚇男ピ包8鮮問霧倉国08げρ犀霞H“鵠凝.幅妻蜀器pぎω言良⑦昌N自ヨ巴ヰぴ匿δoげ①昌国目マ直ロα <段ヨ鈴oげ叶巳霞Φoげ什Hおい斜NO● 古代ローマにおけるω三げ段&霧の地位 四九︵二四三︶ 巨概 説︵佐藤︶ (3) 被解放者の場合 五〇︵二四四︶ うになったのである。このような解放の際には、おそらく、労務名霞器の提供を約束して主人と被護関係に入る ︵ 五 ︶ しかし、これらの奴隷も、主人の死亡の際、あるいは生前において解放され、生来自由人に準ずる身分を獲得するよ であったろうと想像される。それは、もともと避巨凝内において奴隷を所有していたのはb緯霧壁日臣霧であっ ︵三︶ たことによる。℃暮段けB臣霧の奴隷にたいする権力は、完全なる権力<○凝①≦葺であったのである。従って、奴 ︵四︶ 隷は、℃緯震壁白旨霧にたいしても相続期待権を持たず、むしろ、自らを相続の客体とするに過ぎないものであった。 このような法関係は、一二表法時代においては、おそらく男子の保護者ないしはその卑属と被解放自由人との関係 ω=簿8富εのぎ。巽○田Ha①一一び臼εωα。8のωΦ暮■︶ 遺産を保護者︵短ヰ8︶にもたらす﹂︵Ω<冨閑○営き=一び①岳誇お良富審目い臼艮目↓書巳霞q旦℃暮8琴α9⑦昌 歪︶ ﹁戸ーマの被解放自由人は、もし被解放者が彼の相続人なく無遺言にて死亡したならば、一二表法にもとづきその に規定している。 するといういみから考えてみたいというのが、ここでとりあげた趣旨である。一二表法は被解放者について次のよう われる被解放者の家庭生活、その財産の承継はどうなっていたか、これらのことを、。。鼠富お留ωの地位を明らかに れる。勿論、被解放者は、主人との関係ではω忌げ臼a8ではない。しかしながら、主人の協㊤旨富のもとでおこな ︵一︶ 古代ローマとりわけ二一表法時代の官ーマにおいても、家内奴隷から解放された被解放者が存在したことは認めら 弘h ︵六︶ ︵七︶ ことが常であったと推測されるのである。被保護者にたいしては、当初はおそらく保護者は生殺の権までをも含む強 力な懲戒権を持ち、またおそらくは、被解放者は主人の貯巨鼠のもとで自分の家庭生活を営んでいたものであろう。 ところで、前掲の法文では、被解放者の場合は、生来の自由人とは異なって、相続人を。。三げ霞8$︵ないしは 誓霧冨おω︶とはあらわさず、たんにぎおωといっているに過ぎない。従って、被解放者の場合に、富器ωという文 ︵八︶ 言によってあらわされた相続人は、どのような種類のものであり、また生来自由人の.ことく平等分割の原則がとられ たものか、あるいはまた、遺産の内容がどのようなものであったか、を考えてみなければならないであろう。保護者 ︵九︶ と被保護者との関係は、共和政の後期になって、いわゆる一暮馨呂日日の成立とともに広範に拡がっていくのであ るが、古代ローマの急Φ暮霧の関係においても、保護者が被保護者に土地を与え、事実上、所有者と同様に利用させ る冥8畳q匿に類似の制度は存したものだろうと推測される。そして、この保護者と被保護者とを結びつける靱帯 ︵一〇︶ は⇔αΦのであった。この冥8曽ヨ旨に類似の制度においては、土地について保護者が﹁所有権﹂を持ち、いつでも ︵二︶ 土地をとりあげることができたわけであるから、被保護者は、たんに保護者との関係での﹁利用権﹂を持つにすぎな ︵一二︶ かったのである。しかし、保護者は、これらの権力を濫用すれば、はじめは宗教的な、後には8霧8によって懲罰 ︵=二︶ ︵咽四︶ を受ける危険があったのであり、それ故に、被保護者の︷㊤菖富を承認せざるを得ず、これらの保護者と被保護者と の事実関係が法的にも認められ、保護者と被解放者の場合も、ほぼこのような関係があったものと考えられる。そう だとすれば、被解放者に事実上利用させている土地については、保護者の♂旨影の外に散らさないこと、従って 保護者とそのω巳冨お鼠ωに被解放者の財産を最終的に取得する権利を留保したものと推測されるのである。被解放 ︵一五︶ 古代戸ーマにおけるの9冨器自$の地位 五一︵二四五︶ 論 説︵佐藤︶ 五二︵二四六︶ 者の融邑富は、被解放者のもとにこのような虞9費ご日類似の土地利用を中核として成立する保護者に従属した 共同態であったのであろう。冨8のたるべきものは、ここでも、被解放者の下にある︵ないしは権力に服する︶被解 放者の壁巨鼠構成員“直系卑属と妻とであった。そのかぎりにおいて、被解放者に委ねられた保護者の財産は、保 護者の鍵巨凝から分離していかないままになっていたのである。そして、島①再$の関係・保護者と被解放者との 関係は、代を重ねて連続して続いたものと考えられるのである。 ︵一︶ 9ρ昌仁舅冨獣o冨の$参Φ昌汁ρヨ斜δρ含一ωのδぐぎ良o畠︵図HH月㊤び・<H・ひy匿㊤β仁きδ匹08塁戸の方式による解放。共和政後期 については、拙稿﹁ローマ共和政後期における雇傭関係﹂︵早稲田法学会誌、 二二巻法律編九〇頁以下︶参照。 ︵二︶ ⊆や讐辱’い“図目日p¢<りo。・ウルピアーヌスの他の法文では次のようにも伝えている。9やU。帆ρ一ρお伊ご 2ヨ留饗貫90①二ぎ①旨o一・ρ耳賃圃①〆Φ図$砂含=pぎρ9亘ぎΦ㊤ヨ匿邑澄β O帥帥;ω︸8二3α①跨弱琶一①図図目$プ&げ窪a津暮①疹一3霞江ぐo。害緯瀦訂○壼βω=算①ω3εωoωω9まRεω妻一一〇 。。き冨お3お一一99︵﹁けだし、 一二表法は、もし被解放者が無遺言にて死亡しまったくその相続人を残さなかったならば、 その保護者饗霞8葛を相続に召喚したからである﹂︶。 ︵三︶ 古代ローマにおいては、家内奴隷は、家族と食卓をともに囲んだり、あるいは、ぎ道ゆ馨首δにある他の鼠躍津ρの子 供と区別のつかない程の取り扱いを受けたことからみれば、ある程度人間らしく寓されたものらしい︵因霧9国勺同園卸い9 ≦①の叶巽ヨ騨βP国国ω眉℃℃訓<HヤOミ︶。 また︸こ表法八ー三が﹁手または棍棒にて自由人の骨を折ったならば三〇〇アス、も し奴隷ならば一五〇アスの騰罪金を支払うべし﹂︵竃き縄盆隆く①巴8旨品一叶閏ぼρOOρω一の霞くρOい℃盆奉筥誓庄εーー bきξ98F冒’9戸ド凱︸凱︶と規定していることからも、少なくとも、相当な程度まで、奴隷の生命が尊重されたことが 理解されるであろう。しかし、古代ローマにおいても、奴隷は、財産能力をはじめとする諸権利については、殆んど無権利状 態であった。わずかに認められるとしても、鍵旨葭㊤の財産に加わえる為の財産行為にすぎなかった︵国霧8閃零勾H8︶の である。このような奴隷の法的地位は、℃緯霞壁B濠霧の法的な権力の強さの反映なのである。℃暮9替ヨ強霧の奴隷にたい する権利の濫用は、宗教的な制裁に服するにすぎないものであった︵90FN9嵩h国霧oきωN総㌔禽鼠o導目器戸園αヨ一ω9① 望β旨9導球はこの点につき疑問を持つ︶。 ︵四︶ 国毬①鮮幻勺樋勾H呂● ︵五︶ 一二表法七−二一に﹁﹃もし相続人に一万を与えるならば﹄という条件で自由たるべきことを命ぜられたときは、その者は、 たとえ相続人により他人に移転された場合でも、その購買者に︵その︶金銭を与えることによって自由人となる。これ∼こ表 法が規定するものである﹂︵ωロσげ808象oδ濡一みΦ同霧8ご器霧、oQ陣畠8鷺導筐9富冨象3α巽群、や9巴pσ冨お3 ㊤げ巴8昌暮島の登①旨鷲o比α帥β亀○還窪且㊤eρα一ぎo旨客①菖℃段く①巳①甘箆ρき一①図図昌富プごσ9・ーd首・囲目・ρ分その他 bOヨやU・恥ρ8おし︶と規定される方式。さらに前記の三つのヨきq日一の巴○︵○巴こ一し8dゼ:廿ひー9Ω9↓○やN﹂O︶。 ︵六︶ 図㊤のΦぴ M四b同幻卜 一〇曾 句αH甲凶蝿ロ犀①一−薫①βαQ①昌沖び一飢こ ひP ︵七︶ ︸二表法八ー二一は﹁もし保護者が被保護者にたいして詐欺をおこなったときは確o震たるべし﹂︵℃9霞8霧巴良魯試 坤p昌畠導皆o霞誉鋸o震霧一ρーωR<・即α跨⑦P9ひ8︶と規定されるとするが、この法文については、Uδ昌頃ごω︵ρ一ρω 閃○旨三霧︶・謹暮鴛98︵国o言巳拐﹂い︶にもある。 おそらく、なんらかの宗教的制裁に服すべきものとしたという趣旨であろ うと考えられる。民霧段・ヒヰα旨一8げ①句拐・令分8俳ωN鴇・∪80霧○獣o算①仏巽勺暮3昌p茜①≦ゆ耳首び震閃お粛oげ器窪①.2津 ︵八︶ Oo巳㊤謁$のいうように、¢鼠げ臼a8という表現が、隔p唐臣㊤構成員が℃暮霞壁ヨま霧生存中も家財産の所有者とみな されたから、﹁自分自身を相続する﹂といういみをあらわすとするならば︵Ωま馨江ρ弱①︶、生来自由人と、被解放者の場合と 古代戸ーマにおけるω岳げRa霧の地位 五三︵二四七︶ 論 説︵佐藤︶ 五四︵二四八︶ では、蜀旨壕pの形態や塗菖筐p構成員のありかたに相当大きな差を認めざるを得ないであろう。たとえば、主人と同じゲン ス名を持つといわれるが、被解放者がどれ程その名を身近かに感じていたか疑問である。 ︵九︶ 前掲拙稿、九〇頁以下参照。O暮○が、蜀註注昌α言βの経営のために、く臣o蕊を選び、これに比較的大きな自己を代理す る権限を与え、そこで働く奴隷その他の労務者を監督させるべきことを、述べている︵∪①夷二〇亀ε声9云合一︶。また、 <貧3もぐ導8誓虞器密oε。。に奴隷労働にたいする指揮監督権を与え、さらにこれらの者が奴隷に℃oS巨旨を与えて事実 上の夫婦関係を作るような努力をさせるのが得策であることを述べている︵Uoお目霧江8いど一N恥︶が、これらのぐ筐8のや 肩器罐9葛は、奴隷身分の場合もあったであろうが、被解放者の場合も相当多かったと思われる。なお、国霧9のN総鳩o。。 o律 ︵一〇︶ 冥8霧旨9の制度は、もともと各鼠ヨ臣㊤が塑αQ魯℃q9δ霧を占有する方式として形成されたものとされ、いつとり あげられるかわからないような﹁請願による貸借﹂︵匹ヰ亙冨ー函霧9菊旭H閃ド這い︶であって、国家権力と市民との関係 を規律するものであった︵国霧貧’国切謡舞︶。 しかしながら、簿αq段唱q三8霧を囲い込んでいた窟茸憲の階級は、自己の 被保護者ないしは被解放者にたいして、おそらくこの方法を用いて土地を利用させていたものと考えられる。︸α錺−丙自昌寄一− 巧oお貫一獣皇二P 古典時代の唱9霞ごヨについては、∪・&︾N9一℃葺零8賀冒日①の踏ρ8儀冥8窃霧速審鼻一暮①苧 9β8昌8&言H盆日9Fρ舞旨α言一ωρ包8昌。①ω蜂冒葺鼻勒冒①ま一︾評。Q国自8ε奪娼⑦も①ε賃β︵おき恥。。9ゼ①くざωNひS ︵一一︶ 国器段サ園男H閑卸6舞前述の一二表法入ー二一の規定からも類推されよう。 ︵二一︶ 古典時代においては、ぎ8置8ゴβ号℃お8鼠oが民事訴訟手続として用いられたのであるが、古代においては、その 斜鴇● ような訴訟手続を用いることなしに、被解放者が利用している土地を回収することができたものと考えられる。国霧9溺矧 。や曽︶は、神に供される者←法の保護の外におくべき者といういみを持つ。○§蓉置潟欝い ︵ニニ︶ .養 o 醇 霧 8 、 ︵ 図 目 日 菩 ● o 園目一ン一〇ミ嚇穴霧R︸︾い盒. ︵一四︶ 目醤qBヨ奮δ8霧鐸という解放方式は、きわめて新しいこと︵民霧霞︸国響菊H”一8︶と関連して、8霧9による習 俗裁判に、 これが服したのもまたきわめて新しいものであると認められる。切①お臼は、8霧aという官職そのものが設置 された年代を紀元前四四三年としている︵団①茜8国琴唄こ脇ひ︶。国q玄富o冨置勾炉曾もoぎ①厩”園αヨ富畠①<①跨霧巽謎巽8耳︸ 一〇総”8津 U三〇5津は紀元前三六七年以降になって8霧霧の官職が最高政務官から分離して独立の職権を持つにいたっ たと説く︵閑園90。凱沖︶。但し、伝承は紀元前四四三年に設置され、最初の8霧9になった者はその前年に8塁巳であっ たいb即口は臣といωo目暇o艮霧であったとしている︵ΩoRP㊤αけ唐臣貰霧︸PNど㌣=泣霧︸伊o o、q︶。 ︵一五︶ O鉱霧︾潮帆o 。一2ゆ唐窪賞の8旨9三一ぎ段江プ①器9槽霧帥α霞葺彗Φ8げR&窃℃鉢3艮昌包δ営03饗辞ぼΦ甘㊤αゆ一旨β 鍔富目℃弩8苫8g。超目①霞自。魯冥g書。塞。N審宕言冥・αq壼ぎψ§艮日。9需蕪器汁る貯導巴窓円窪富旨9暮 霞冨器3拝﹁即ち、 揖ーマ市民となった被解放者の相続財産はいかなる場合にも保護者の家外相続人には帰属せずといえど、 保護者の男子及び男子より生れた男孫及び男子の子たる男孫より生れた男曾孫にはいかなる場合も帰属し、これらの者が尊属 親によって相続から廃除されたかどうかは問わない。﹂ o鉱郵一﹂3→冒ω汁こ一﹂q︶”①図Φ器。目一①αq。図目言げ。ま①洋㊤窪目gぼ菩Φ暴旨ま①濤o暑旨伴暮。一p&℃暮8ロ8 凄臼o超葛8笙旨需葺話ρε器。江℃蟹げ暮①一2。σq詳葺ρ︿・。暮霞﹄gρ忌p琴巨量自旨①2①αq①畠①富。ε琶鴛薯①ε﹂ ωaρ乱即唱Oぎ留88℃3①累℃震一暮霞冥9暮δま旨い簿ρ琴。。一くR獣ω一①四ω一暮80蓼寅霧ω9●﹁同じく一二表法の規定に ヤ ヤ ヤ よって、奴隷より解放された婦女及び未成熟の男子の後見は、保護者及びその子に帰する。この後見もまた法定後見と称せら れる。但しその理由は、 この後見が同法によって明らかに規定されたためではなく、解釈によりあたかも同法の明文をもっ て規定されたようにみなされたためである。﹂ かくして、友好関係げoω官試Ω目と同様、保護者権も相続の客体とされたので 古代ローマにおけるの三ゲ角亀霧の地位 五五︵二四九︶ 論 説︵佐藤V 五六︵二五〇︶ ある。目魯蒔F国国<HH一︸9終 紀元前二世紀頃までは、被解放者は奴隷とみなされていたこと ︵客誘−国縄昌5一−乏⑦譲璽 一獣儀;ひ。 。︶。∪●qρ§蝋。“寓R&Φ営①ごω儀Φき℃gΦ馨畳の一賃一超琶①霧ρ雲ξ煩協鼻似gき。言の一8霧ε件 。鼠﹃R8霧の相続期待権 三 〇 一二表法を中心として考察した古代ワーマにおける生来自由人の巽一ぎ8留ωの構成・被解放者の冨おα8の構 成は、前述した通り、貯巨夢のありかたと密接に結びついたものであり、まさに古代ローマ相続法の中核的なもの であったと思われる。さらに、古代官ーマの鍵急富は、エトルスク王政以降、国家構成の基礎単位であり、社会生 活の単位として機能したために、そのような鍵旨萄を維持し且つ再生産をおこなっていくことは、古代ローマの本 再生産を可能にする♂巨鼠を支える財産︵壁旨冨・壁巨凝需。き一呂まる8琶εの再生産の必要性、この二つ 質にかかわることであったのである。すなわち、それは、ローマ共同体構成員の人的再生産の必要性、と同時にその つ︶ のものが不可分のものであったことをいみするわけであり、導ーマ共同体を防衛するための戦士を、つねに準備して いなければならなかったことー自費で武装できる重装歩兵の維持拡大ーは、ローマ共同体構成員にとっては、構 ︵二︶ 成員各自の生存、ひいては共同体の存立にかかわる問題であった。 それでは、終局的には自己の生存を可能にするためのこのようなローマ共同体の維持拡大のために、℃鉢臼鍵箏田窃 とともに戦士として参加し、あるいは人的再生産や農耕にいそしむω鼠富8留のは、鼠且富を支える財産にたいし て、どのように関係していたのであろうか。次にこのことが問題となるであろう。 一二表法の法形式からみれば、たしかに、℃p言H欲巨薮ωは、壁巨鼠を支える財産について、これを自由に処分 できるような印象を与える。たとえば、.ω一一暮①幹暮oeo二言おo巳霊霧富8ω.需08。登器⑳塗εω礪o箆ヨ易 ︵三︶ ♂旨冨目匿げ99、︵図旨$すくム︶の規定も、ヨき。な葺δやぎ一畦①。$。。ごの方式、あるいはまた、、9二品霧q。律 霊℃霞℃8琶す言琶薯①霊器匡し鼠一島。界9、︵図昌宣¢く占︶の規定など。これらの法規定から見れば、その内 ︵四︶ 容を説明するために、これもまた法形式として存在する生殺与奪の権ごω≦富①器。一超まや家子売却の権ごのく窪− ︵五︶ α窪島、相続人廃除の権Φ首巽&暮ご︵O巴・い﹂ミ︶をも含む、貯琶富構成員にたいする℃暮霞壁目濠霧の強大な権 力と結びつけられる。このことは、たしかに、法形式上はh㊤旨凝内における零審二餌巨一一霧の権力の絶対性・統一 ︵六︶ 性・排他性などを示すものであり、℃暮震壁ヨ旨霧はわずかに宗教上ないしは旨9霧による制約に服するにすぎな い、という現象形態をとっている。 しかしながら、ガイウスも伝えているように、すくなくとも成熟男子である釜一冨おΩ$が、巽一び霞a霧と呼ば ︵七︶ れる理由は、﹁彼等が尊属親生存中にある程度︵鼠巨鼠財産の︶所有者と認められるにある﹂としていることに注目 する必要がある。つまり、ζのガイウス文から考えれば、ω岳冨おα窪も、すでに短審ほp8ま霧の生存中において も、鑓且富を支える財産にたいして、壁旨萄構成員の一人として相続期待権者として、共同体的に関係していたの ではないかということである。ボンファンテの家族理論からすれば、℃暮R貯巨萄ωは遺言によって、壁巨凝を支 の構成員にとっては、わづかに相続人に指定されることの期待であるにすぎない。これに反して、すべての釜一 える財産を誰に承継させるべきかを決定するわけであり、℃暮巽鍵巨一一霧の至上の権力○げΦ旨雲讐に服する壁巨冨 ︵八︶ 古代ローマにおける¢9ぎ器島霧の地位 五七︵二五一︶ 論 説︵佐藤︶ 五八︵二五二︶ 冨お山$︵はじめはおそらく成熟男子のみ︶が平等に相続に参加する権利、したがって相続期待権をもち、の三冨3α$ ︵九︶ ないし。。q霧冨8のという表現形式をいまかりに﹁自らを相続するもの﹂と読みとるならば、こういった考えかたは、 ボンファソテの理論とは明白に対立する。このように、考えかたに対立が生まれてきたのは、なによりもまず融且富 を支える財産をどのように考えるか、という点にあるように思われる。 ︵一︶ 壁目臣帥を支える財産を、法史料は次のような表現の仕方をしている。 ︵㊤︶貯巨一昼H図同一富びこ<ー分貯巳一宣旨富げ①ε︵9℃●け・N9一“Oo一一こ一9合一︶顎図目峠卑びこ<i凱”壁鼠一壁目ぎび①馨o ︵9ラま9話磯三ー9=こ一9合N︶鴇ピ露ω艶pα①℃o昌3はぎの黛票。δ︵Φ浮の叶oy倉菖琶8お短三富巨ロ霧言釜二一8貫 o暮ρu①お二。三ε塑富。。℃艮巴。 。=β鍵巨一一帥のき怠騨&o壁巳一一器。この。自畠9♂巨一一器①目営o昌旨き。首昌o︷騨巨一一p9 ︵ぴ︶壁邑澄も。自艮呂まuΩ8βα巴身こN薪9云。。り訟饗8ほ㊤巨鼠の一暮Φω言ε目o簿弩い鍵巨鼠速。§一p2。o言ω 帥σq轟葺3αq窪注冒目ε①Φの8.鴇O①一巨920g①の洋叶一8ρどP一N”ε○自ρ巨ω書Φ壁e臣㊤ρ需。琶貯⑦冨げ①ぴ暮●:勤 の⑦一まの﹄﹄合一ごg鍵旨一冨跨娼gg富奪2①ω壼目℃影&δ置β8衰三〇貰旨ρ琴讐夷崔び霧鷲〇一富器鼻 ︵。︶需。暮壁”図目寅F<ーω二罪一Φ吸霧簿ω巷霞饗。琶す言邑麩3舞雲9:∴図=$σ<ーゴ:。ぼ8速8一呂ま 。富℃o富ω蜜ω①ψ8●胸O毘gのも﹂N分:﹂昌即ヨ℃一一〇おヨ普旨日ゆ目oび一一αQ畳R①象器℃①。琶一器。:旨拶ヨ胤㊤e℃①。琶一㊤目:こ 9風魯轟U。ω9一﹂辞。。”ω&gの一2一ω∂o昌㊤、8窓εω降く①一.娼①。臣一p旨、3⑳Φε同ぐ①一.琶一く霞ωpヨお日日$ヨ、’鴨 o①一ω轟u姦ρ一9雪9ヨω9三㊤目弩.澹p馨㊤℃Φ8艮㊤震ぎお律暮①目庄&叶①.℃①署窪①算、●: このように、史料そのものに違いがあるために、富巨一昼と℃①o暮宣とはどのような内容をあらわすか、あるいはまた、同 じものか違うものか、などについて論争が展開される。さらにこれと、器ωまoB拶昌9讐と槻窃琶卑琴な一との関連について も相当問題は残されている。たとえば富導臣㊤”冨ω目き9覧・℃o窪鼠㊤目おq。まo旨き9口とみる考え方︵冒震営αq博国鷲ざ≦僧 99︶、胎pe葺㊤をその自由人構成員全体の財産、℃Φ窪巳欝を、℃緯霞蜜e葭霧の個人財産︵毛一霧鍔犀︶、また、壁ヨロ壁を全体 財産、℃①9巳pを個々の財産︵冒お−国q昌富一︶。これらの問題の整理は、国霧霧讐国切まω搾園響即H章抽匪︾まo。・その外 にも相続財産をあらわすものとして包括的に富お臼げ霧ないしは土地について冨お象目日がある。 ︵二︶ マルクスの霞δαqR冨oげ①Oお霧一雲叶oO①目①βαo︵冒貧〆国霞跨①POい︶ ︵三︶ 国霧①き国中はこれらを含めて、古代ローマ財産法のありかたについての本格的な研究である。 ︵四︶ 拙稿﹁古代言ω9<まにおける冒#一㊤もo審馨霧ーとくにごのく窪q窪島と一霧ぐヰ器ま9超まについてー﹂︵早稲 田法学会誌一一巻︶ ︵五︶ たとえば、巧窪磐ぴ国㊤島鴨≦鈷δ償昌αω寅馨諮①≦p洋一馨&9尻9①け︾#霞菖ヨ∴因霧①びωN軌o。℃UR冒7巴倖α巽℃鉢ユ㌣ ︵六︶ 邦語文献としては、原田慶吉﹁厳格市民法に於ける羅馬家族法の研究﹂︵国家四二巻一一号−四四巻四号︶、 同﹁・ーマ 唱9霧富即9沖財譲①緯毎℃目担ン云段∴ω8ぎ量閑国認℃δ鴇津“国霧段”園℃H男担章中など多数。 法﹂二八○頁以下。 ︵七︶ O蝕霧”N一鴇”ω①α鍔一ρ且α①目げ①おq霧置8㊤℃℃巴一㊤暮員ρ鼠㊤α○欝$註9げ霞⑦α霧鍔暮9昌ご○ρ目○ρ仁Φ℃p器算① 。︸一9ど禽℃騨βぎ♪o 。魎ひなども同内容の法 ρ83目彗&O自O旨一こo置の江日節導β卜 冒終ρ一P鯨U’No。︸鉾一ご∪●ωo 文を伝えるが、原田氏は、 このような法的構成が、 ﹁後期の学者の考案した説明方法であろう﹂という︵﹁冒ーマ法﹂二八二 頁︶。しかしながらこのことは、古代の壁β津㊤のありかた、すなわち権力をもつ娼暮霞貯巳葭霧と相続期待権をもつ。。三 7霞a8たるべきものを暗示していないであろうか。 ︵八︶ 国o昌壁昌叶ρのo岱ヰ一σqご二山9︿霧芦ど一〇〇津鴇Ooおρい凱R鴇ω一〇ユ欝α①一畠ユヰoHoヨ㊤ロPHひOR 古代ローマにおける。陸9冒Ra窃の地位 五九︵二五三︶ ︵九︶ 凶霧Rい 論 幻噂厩園H︶ooN賄●旧 説︵佐藤︶ 妻①馨霊℃﹂馨増o含&op8国p二累幻Oe霞ピ㊤ヨ戸器ωβ・ 六〇︵二五四︶ このように考えてくると、鼠巨一すを支える財産は、貯且冨の基底を支える土地と、その他の財産とに分類できる であろう。 ウァルローの伝えるところによれば、胃ームルスが建国の当初ローマ各市民にニユーゲラ︵玄奉甘αQの蜜︶の土地を ︵一〇︶ げ霞aご目︵相続可能な土地︶として分配したといわれている。しかし、建国伝説の可否もさることながら、 一ユー ゲルムは長さ二四〇フィート、幅一二〇フィートの土地をいうわけであり、ニユーゲラといっても約五段で、わずか これ位の土地では鍵且鼠の生活を支えていくにも足りず、おそらくは、このウァル耳1の伝承は、お霞2菖。霧 ︵二︶ を私有地として分配したことがあるという歴史的な事実を暗示しているに過ぎないものと考えられる。すくなくとも 鵯霧制時代においては、土地にたいする支配の仕方は、集団的なものであった。この段階では、貯巨鼠は、わずか ︵一二︶ に家屋とそれが建っている宅地・庭地を私的に利用していたに過ぎなかった。αQ①霧制の崩壊とともに︷㊤且鼠が国 家構成の単位、社会生活の単位として前面にあらわれたことは、これまで鍵邑鼠の利用していた宅地・庭地が、 ︵=﹁ ︶ 富旨鼠の私的所有権に属するものとなったと同時に、かつて⑳①霧の共同の土地であったお興讐匹・霧を支配階級 ︵饗葺8が囲い込むという現象があらわれてきたことをいみする。二一表法時代においては、すでにこのような土地 ︵一四︶ 利用の形態が存在し、℃暮段鍵邑薮ωが死亡したときには、相続の問題が、土地についてもおこっていたと考えられ るのである。しかしながら、二一表法時代には、pーマ共同体の土地は、まだ殆んど拡大せず、しかも市民への土地の ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ 分配霧器塗葛も殆んどおこなわれなかったために、相続に、土地が各ω岳げ臼a8へ均等分割されるという原則 はおそらく入り込んではいない。土地︵富巨鼠の存立のもっとも基本的な生産手段︶を相続入に均等に分割してい くことは、土地の細分化、ひいては、鍵巨富の存立を脅かすことになるからである。しかも、完結的な脇餌邑夢の ︵一五︶ 土地利用の形態は、℃鉢震夢ヨ臣器を中心とした壁旨鼠構成員の集団的な農業労働によるものであった。ここで は、℃暮醇壁旨臣霧の死亡は、たんに壁昌壁の農業経営の中心となるトレーガーの交替を生み出すにすぎないもの ︵一六︶ であったと考えられる。土地がの三富お号ωへ集団的に相続される8霧o岳鐸ヨはまさにこのいみにおいて理解され るであろう。 土地についてこのように考えられるとすれば、土地以外の財産についてはどうであろうか。封鎖的農業社会におい ても、土地についてはきわめて強度の共同体的規制がおこなわれたが、土地とくに耕地以外の財産については、か なり早い時期にこのような規制は弛緩したしたものであろう。さきにかかげた二一表法の法文﹄・:鍵巨鼠9 ︵一七︶ 富σo︵昌︶ε、..::霊℃R需8巳㊤ε富霞<9:●、や、あるいはキケ戸の伝える、.・:ミ貯巨鼠速呂艮βま::、 は、これらの財産について、b諄震壁筥筥器が相当強度な権力を持っていたことを推測せしめる。、壁菖壼、は、財産 に関わる場合は、壁菖鼠共同体に帰属する不自由人︵家内奴隷︶を含むいみでの財産をあらわし、さらに狭いいみ ︵一八︶ では、富巨萄共同体に属する不自由人︵鼠日巳一︶をあらわすのである。しかし、このようないみは、古代ローマに おいては6①8三p.についてもあまり変わりがないように思われる。なるほど、古典時代の用法i需8艮塑讐93 ︵国庫に属する金銭︶、需8巳pω8声︵寺院、神殿に属する金銭︶iからみれば、まったく金銭をあらわしている 古代ローマにおける。。鼠ぎお山霧の地位 六一︵二五五︶ 論 説︵佐藤︶ 六二︵二五六︶ 。9富B がごとくであり、また、.勺08艮器.昌○日置Φ昌Ob。。o冒βロq目o鍔夢器αo目ロ①のおの富旨8ロρ自簿導eo玄一〇〇 8も9量ρ舞e一霞騨8b江ロ窪εい︵、℃。盆巳㊤.は支払われる金銭を指すばかりではなく、すべての物、動産・不動産、 有体物・権利を包含するー∪﹂ρβ旨N︶という法文もあり、結局は、すべての財産を含むいみで用いられたよ ︵一九︶ うであるが、古代ローマにおいては、その語源も示すように、℃。8巳㊤は、曉。霧、︵家畜︶と密接な関連をもつもの であった。このように考えてくれば、土地が強度の共同体規制のもとにある古代pーマにおいては、貯旨壼も9琶げ は、もともと土地以外の財産で、農業をおこなうためのもっとも中核的な財産であったことを認めねばならないであ ろう。キケローのいうけ巨鼠需窪巳呂まもそのようないみで承認される。そして、その具体的内容は、おそらく、 ︵二〇︶ 召使︵家内奴隷︶と家畜とであったのではなかろうか。これらの財産はすでに二一表法制定以前から容易に、各個々 ︵二一︶ の構成員に分割され易い状態にあり、饗富二㊤巨夢ωの生前処分、終意処分も可能な財産であったといえる。しかし ヤ ヤ ヤ 前にも述べた通り、砂且蜜は、その構成員の共同の労働︵農耕︶によって支えられていたのであり、また、国制上 はすべて成熟男子であれば平等に共同体防衛のための労働に参加しなければならないという事情から考えれば、 壁旨冨の構成員が︵はじめはおそらく成熟男子であるが︶ω鼠冨お畠ωとして、℃暮9拭参霞霧の死亡とともに、遺 ︵一三︶ 産にたいして相続期待権をもったものと考えられるのである。このような鼠巨壼財産のありかたが、古代の家族宗 ︵二三︶ 教︵。 。8舜鍵巨ぎ二㊤︶と結びつき、それによって補われ、人的相続︵鍔08留おぢδ窪旨留3poεの色彩を帯びつ ︵二四︶ つ、一般化され、法規範として定着してきたものであろう。 紀元前四世紀以降、ローマが支配共同体としてイタリヤ半島に拡大していくとともに、被征服地を官ーマ市民へ分 ︵二五︶ 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 配したりあるいは植民を通じて、相続による貯旨冨の土地の細分化の危険が減じたとき、土地もまた相続の客体と して加えられるようになったものと考えられる。すでに二一表法に法規範として定着していた段。8ぎロ鼻o︵8阜 ︵二六︶ 8辞旨ヨ︶←8ぎ♂巨薮①段岳8昌鼠①の煩雑な手続きを回避するために、次第に遺言による相続人指定、相続人 廃除は、銅衡行為を用いておこなわれるようになったものと考えられるのである。 ︵一〇︶5霞9ユ①お琵ω訟3℃一しρN二wぼp甘αqΦ蚕ρ8山即国oヨ岳o唱営g導隻く蕾α一8富暮舞≦H一住βρ轟⑦7R&。日 。D①咤R窪εびザ霞⑦αごβρ唱①す益鼻 ︵二︶国霧撃痴零勾一﹂09 ︵二一︶男浮ごの﹂。﹂温9ぎ図目蜜σー唇呂轟ヨ唇巳鍔ε目≦置ω§速二昌凝旨ゆ8ぎま$♂鶏εの、︾ぎぎ鼠お8 β霞&言旨、・1図H同富¢<一Hω即︵二一表法にはー≦一5︵農家ないしは農舎︶︹という言葉︺はどこにも明記されていない。 ぐ竃即の意味には、つねにβo濤5、︹という言葉︺が用いられ、︹今日の︺げo耳器には、β巽aご導.︹という言葉︺が用いら れた。︶その他ゲ○辞場につき倒oω一嵩”3伊プR9言日につきU。8﹂9一〇。ρ い響ギ劇鐸げ一一20q<亀8ひεq霧の霞一Φ貯雷 塁。一窪身o津ぎ疹鉱p︵むミy§≦①跨毛旨”岩ω。ρ●鴇国霧。お国切N階︵げ・増ε宥響ま暮富塁・び震&ξ目“αq。ま凝① 9ヰ①巳ρ巳どU巳畠①律︸男菊ρ緯︵ぎ辞霧“頃鎧ω仁●寓o協・冨おqヨ白HOp耳①巳pβαo鮮田げσq暮︶ ︵二二︶ U乱畠①芦菊国ρ象’ このような品震℃巳8霧の囲い込みの為の法的仕組みは、82℃鉢δであった︵内器震︸国や=︶ が、これによる貧富の差、財産分割によるプレーブス階級壁導ま帥の貧困化は、℃p鉾巨と豆①房との闘争を生み出す主要な 原因の一つであった。 ︵一四︶ 、興90ぎ昌98、であらわされる相続人共同体8霧o暮ごヨの形成と、一二表法以後の霧註o壁目旨器震9ωS昌鼠①の 古代ローマにおけるo。忌げ臼a窃の地位 六三︵二五七︶ ︽Ψρ陣弱ω︶ い一 一凱轟のら ω㊤OげΦ同ω︸ 園両 図<HHH一 U①!N一のωOげ①目︶ 乞○β︿①一一①の びげ自α①の︸ 一〇令O︸ Nひq嚇 薯①一のωい 国①の叶のO]﹁困一臣什 ωO]﹁一旨一N HH︸ 国霧①き園零閃H’。。い●毛①の貫意堕目刈Q 。律鴇濠毒曲峯算20薯①一一①ωひεα①ω一8R ︵いひく︾矯 ωN 凱恥︸ い刈刈︷●︶ 論 説︵佐藤︶ 六四︵二五八︶ 発展。 ︵一五︶ ︵一六︶ 盗から発生したお帥ぐぎ象8江○の仕組みや物の譲渡方式であるBきoぢ馨δは、錺目臣pを支える動産︵琶窪o首ご導ー 轟。 ︵一七︶ 8速お︶が、すでに早くから存在したことを知らしめる。このような財産は、財産法上おω巳弩o首7器ω垢05p昌oな一 ︵一八︶ 峯畠註旦菊国図H〆留9①量菊両図<H岸国貧のg閑℃る鮮占“奢①ω貸毛”H担ひS=巨藷︸一。。る﹂ごく帥畦ραΦ 国霧霞噂菊℃同閑卜糞。 なお史料については前註︵い︶参照。]W①お①鮮国蓉鷲δ曉島09ρ︸恥ひS 国霧9園b円閃Hδ9a旧︸旨﹂S●薫①霧置℃は、家畜と奴隷とが共同の土地の耕作に必須のものとし、この貯目一鼠 ピp汁こ伊露”頴。巨一〇霊ω斜℃①。き一pヨお器︸℃①。暮帥p㊤℃①2・ 。騨霊娼霞鷺自艮9:、の規定。国●︾馨巳戸ωε象ω三一、○αQ碧洋○号口Φ窓試ぎ象ユヰ08影帥ロρ昼おひ“. 、d試一①σQ霧。 未成熟者の場合は、時代が下るとともに、 一二表法時代にはすでに。。鼠げ巽区窃に加えられ、成熟に達し後見が終了 すると と も に 完 全 な る 相 続 権 あ る も の と な る 。 婦女の場合も、すでに一二表法においては誓二貫一ωであり、ω三冨おΩ窃で ︵二一一︶ ︵二一︶ は家産 ︵甘一糞壁目一尊冥εR蔓︶とし、年々収獲される作物も加えている︵員総︶。 ︵一一〇︶ 一一お● ︵一九︶ げ一ω一〇円 一騨 O ①江巨。 。し3ひ﹄鐸o・o・巨ピu昌冒きgロ“旨雲u・巨艮二β男①器。ぼ降民・ωg蹄巽H玉o凱3。 HHψ Nひ い 旧さ辞①一。 O 。即σ巨ω9①零貯即鉾⑦。拝一一〇。N茸自①≦ωω9興︶ピ麩9旨馨gおωe窪9唱一wω言象卑①叶αo象旨①簿㊤ 連 づ え と 、 お。 区別に 関 け て 考 ら れ て い る こ を 指 摘 し Dヨ。H壁旨臣勲お・D昌。葺。U℃①8巳pととらえている ︵団o⇒壁導ρωR騨江 で表現 さ る 。≦①の#ロ℃︵HH︸ひ爲︶は、おω簿㊤p9且と8ω富o琶窪9口の区別が、 ﹃般的に脇㊤ヨ臣㊤と℃oS昌置との れ て い 醤Pづ自 一ε廿 Oo あることが承認されている。 ︵二三︶ 古代ローマにおいては、も緯霞ド目筐器は自分の権力に服する子供や奴隷に、℃①窪一ごβをあたえるという慣行があっ ヤ ヤ ヤ た。℃①〇三ご導をあたえられた子供や奴隷は、自分の世帯を維持するために、℃①8野一日を用いて収益をあげるとともに、 事実上℃暮震貯且薮ωから独立するのである。子供の場合と奴隷の場合とでは℃Φ窪一ご導の内容がどのように異なるのかど ヤ ヤ うか、さらに検討しなければならないのであるが、少なくとも、℃①o包旨日を基礎に世帯を維持しているということは、必然 的に℃緯震壁導韓霧の死亡に際して、法的にも協ρ導強㊤財産にたいする相続期待権が生じさせたものであろう。 ︵二四︶ 国器塁菊零即H玉跡薫8伴毒つHIH目“留9①β閃国図<HH一﹄冨一中墳墓・祭壇・カマドの家族宗教に関する義務の承継。 ︵二五︶ 植民は紀元前四世紀後半からきわめて盛んにおこなわれたこと。たとえば、口註霧の記述からひろえば、︾馨賞目︵鴇o 。中ρi。。﹄恥﹄︶’冒8量︵ω軍 。﹂寿・。y9一。。 ω,ρー。 。﹂ひy凝霞器奉︵いN。劇bI。。も一﹂一︶”零Φ⑳Φ一一p①︵竃・ 。︵ω象国Ωー。 劇●ρーPまyω垢ω蟹︾自鐸ご8︵鍵ω中ρIP鵠︶簿ρ このことがまた、土地にたいする遺産分割の平等原理を維持させた ものではなかろうか。 ︵二六︶ hpヨ臣p財産、ひいては、祖先から連続するド旨筐㊤共同体を維持していくために、相続財産を単独相続人に与えると ともに、その他の貯導筐帥構成員を廃除したこと。その方法は、①βきo首緯δ・区○讐δ・ヨき霧婚を通じて廃除すべき構成 員を饗#鼠℃○盆簿霧から離脱せしめることであった。震げRa暮δによって廃除された者を経済的に援助するための嫁資の 設定や贈与。これらの仕組みは、おそらく一二表法時代.d試一お霧路:。、規定によって相続人を指定することによりその目 六五く二五九︶ 的を達したものと考えられる。そして、このような仕組みを通じて、遺産分割の平等の原理を保とうとした。しかし、それは また、遺言の自由をも生み出すものであった。潤霧9図男H即烈c。ヂ 古代βー マ に お け る ω 三 び 巽 & $ の 地 位 。 耐ソ 説︵佐藤︶ 四結びにかえて 六六 ︵二六〇︶ 産的基礎を維持するための仕組みであったのであり、従って、当初は、おそらく⑦鼠富89のたりうるのは成熟男子 成立していた。そのかぎりにおいて、相続は国家構成員の生存を保障し、戦士としてローマ国家を防衛するための財 りを持っているものなのである。帥易9註①における古代ローマの無遺言相続法は、封鎖的農業社会の法関係として 理﹂﹁共同分割相続﹂渉、すでに古代目ーマ社会に存在したということは、古代官ーマの共同体的性格と深いつなが 形式としてまた内容的に定着してきたものであることも心纏麗見逃すことはできない。すなわち、﹁相続人の平等の原 われたことは、たしかに大きな特色である。だが、そのような相続形態が官ーマの社会の発展と密接に結びついて法 もともとローマに相続法が発生して以来、無遺言相続の場合、年令の区別や性の区別なしに共同分割相続がおこな あろう。このころになると、法務官法上のびoぎ盗騨℃8の。艶○を中核として相続法も複雑な様相をもつようになる。 体として確立し、被支配共同体の犠牲において地中海世界の富をほぼ独占したことがあることを忘れてはならないで ﹁目ーマ法の原理﹂一一七頁︶。このように遺言の自由が支配的におこなわれた背景には、すでにローマが支配共同 の誇張であるにしても、共和政後半においては、遺言をしない者は殆んどなかった程だといわれている︵原田慶吉 けるところを船でいった時、遺言しないで一日過したときである︵O暮oe巴80︶という。たとえ、これがまったく プルータルコスによれば、カトーは一生涯に三度後悔したが、それは、妻に秘密な言葉をもらしたとき、歩いてい 酉瞬 払 であったものと想像される。壁巨ぎ財産が増大しない段階では、8霧o民縄目の方式をとるのも、またやむをえな 9 いことであったのである。 だが、土地以外の財産についてはすでに早くから﹁平等の原理﹂がおこなわれ、次第にローマ国家の領土の拡大と ともに土地についても﹁平等の原理﹂が浸透した。相続人の範囲も成熟男子以外の壁旨鼠構成員に拡張され、さら に相続法のありかたも遺言相続が一般化して、嫁資の設定、遺贈、死因贈与の方式と相補いあって全相続法秩序を形 づくっていくことになる。土地をも含む壁巨富財産の相続が℃暮段壁日臣霧の財産にたいする支配権の確立して くることに相応ずるものである以上、祭祀・祖名相続は、このような壁巨鼠の縦の財産法秩序を、側面から保障し 維持するものであったのだと理解される。 六七︵二六一︶ ︵一九六五・二・三〇︶ 古代pー マ に お け る 0 9 げ 9 a 霧 の 地 位