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『七夕:星祭り』:元ドイツ兵俘虜の日本文化論 - ASKA
『七夕:星祭り』:元ドイツ兵俘虜の日本文化論 『七夕:星祭り』:元ドイツ兵俘虜の日本文化論 “TANABATA:Das Sternenfest” An essay of Japanese culture by a former captive German soldier interned in a Japanese prisoner-of-war camp Ȋˤ۵ᴷᇞɝȋᴷ ЫʓɮʎчάᘒɁஓట୫ԇᝲ ƂƂƂƂƂƂƂƂƂƂƂƂƂƂƂ ɹʵʒˁʨɮʃʔ˂ ᕻǽ (註 1) クルト・マイスナー 著 ± ʢʵʨʽˁʦ˂ʔ˂ ᪿ Kurt Meissner ࠨ̢ǽඩ๖ ᜭˁಇᜲ ヘルマン・ボーナー 編集(註 2) Edited by Hermann Bohner 岩 井 正 浩 訳・校註 ʓɮʎɁᯚኄଡ଼ᑎȾȝȤɞʫʽʉʴʽɺˁʡʷɺʳʪɁࠕᩒᴷ Translated and annotated by Masahiro Iwai ʟʳʽɹʟʵʒޙ۾ɥ˹॑Ⱦ ƂƂƂƂƂƂƂƂƂƂƂƂƂƂƂƂƂƂƂƂƂƂ ຝᣃȞɛ ފ²³ 1.はじめに 第一次世界大戦時、中国青島での戦闘で俘虜として日本各地の収容所に収容されたドイツ兵 ঢ়ᅺᅇȾȝȤɞ႒ܤцޙɁᇹᯚኄޙಇɁᄉࠕ ᴪȰɁᴮᴪ が、どのような活動を展開していたかについては、いくつかの研究・報告書が出されている。 ቼ̝ඒऻ۾Ȟɜல֪³°ࢳ͍ɑȺ ƂƂƂƂƂƂƂƂƂƂƂƂƂƂƂƂƂƂƂƂ ʹᗵǽᓺ ³± ただし文化活動なかんずく音楽活動に関する研究は数少ない。(註 3) 日本文化に関する報告や著作を残した外国人には、江戸後期のドイツ人の医者・博物学者で『江 戸参府紀行』(註 4)を著した P. F. シーボルト、明治初期のアメリカ人の動物学・考古学者で『日 (註 5) を著した E. S. モレス、明治中期のオーストリア人の美術研究家で『100 本その日その日 1、2、3』 ଡ଼׆᭴ȾȷȗȹɁˢᐎߔ ƂƂƂƂƂƂƂƂƂƂƂƂƂƂƂƂƂƂƂƂƂƂƂ ˹ǽण ´· 年前の日本文化~オーストリア芸術史家の見た明治中期の日本』(註 6)を著した A. フィッシャー、 イギリス人の漫画家で江戸後期から明治期の日本社会を描写した『ワーグマン日本素描集』(註 7) を著した C. ワァーグマン、ドイツ兵俘虜が日本各地に収容された同時期に神戸、徳島で生活し 8) たポルトガル人作家 W. モラエスの『徳島の盆踊り』(註ƂƂƂƂƂƂƂƂƂƂ 、ドイツ人の医者・博物学者で ై˽ǽǽҴ17 ~ µ· ଡ଼ᇼంȾɞછَ۾ˁ᎔َɁ߳ɁץᭉཟȻȰɁױኍ (註 9) を著した E. ケンペルなどがいる。 18 世紀に来日し『日本誌』 松山⇒板東と収容所で俘虜生活を送ったクルト・マイスナーは、数多くの著作を残しているが、 日本での印象については、1973 年刊行の『日本での 60 年』(註 10)に端的に表れている。この中 でマイスナーは、コンサートプログラム、ベートーヴェンの交響曲、ウェーバー、ヴァーグナー、 リストの作品、聖歌隊、パウル・エンゲル、ハンゼンそしてエンゲルオーケストラなど音楽に ついての短い記述をしており、マイスナーが収容されていた徳島県板東収容所では、活発な音 楽活動が行われていたことがうかがわれる。 第一部は“DIE MYTHE”第二部が“DAS FEST”で、後半は詩集に充てている。本稿は第 二部“DAS FEST”の校註である。60 年を日本で過ごしたマイスナーにとって日本文化は興味 ある存在であっただろう。『万葉集』、『新古今和歌集』、『金槐集』をはじめ様々な古典にも造詣 愛知淑徳大学教育学研究科論集 第 3 号 が深かったことがうかがわれる著作である。文中の[ ]は既刊の古典書よりの引用、原本の 脚注は文末に掲載している。また表記は基本的に原典に依った。 2.七夕星祭り 日本の祭りについて、とりわけ古代日本の神祭について記述したりする際に重要なことは、 衣服、風俗、花瓶、装飾といった祭りの場や祭りの出し物だけを念頭に置くのではなく、祭り の内的なものを可能な限り明らかにすることである。我々は一般的に祭りというと閉ざされた ものであり、静かで、粛々としたものであるかに気づくのである!そしてあちこちにほとばし る楽しげな享楽や、村々の路地や寺社、そして地方や田舎の家庭や家屋をとりまく華やかで楽 しい気分といったものを想像する。その際に、心が落ち着く厳粛な時間や静かな祭りについて 考えることがない。たとえそれが宗教的な意味を持ち、愛国的な考えで催されるものであった としても。ここで問題とする祭りは、あるきまった一つの特徴があるわけでも、あるいはその 他の特徴があるわけでもない。おそらく祭りは静的と動的というふたつの特徴を持っていると 考えられる。 日本の祭りは常に芸術と直接的に結びついている。造形(東アジアで優勢であった)、詩(そ の次に優勢であった)、そして我々の感覚ではほとんど考えられないことだが、音芸術がある。 祭りというものは、これら 3 つの要素を統合した総合芸術であるかのように見え、その万能に 満ちた喜びのなかにも静けさが存在するのである。かつて中国から茶道の作法が伝来した。日 本の仏教僧たちが眠気を追い払うことのできる有益な飲み物として茶を受容したが、この驚く べき効果のある飲み物をどのように飲むかということが儀式として成立した。その儀式の枠組 みは表現された芸術を鑑賞する作法として確立した。茶碗は上品なものでなければならず、陶 器芸術のすばらしい器がここでは使われている。そして美しい茶碗から音をたててお茶を飲む という作法が確立された。鋳鉄工の極めて高度な技が水を沸騰させるための釜を創りだした。 花瓶には輪になった花が生けてある。柔らかい竹でできたものは茶筅であり、これで筒から粉 末状の茶を取り出すのである。洗練された巨匠の水墨画は、茶席の高潔さを美しく彩っており、 茶席そのものも確固たる規律に従って構築されている。そして水墨画はまた華麗な素材で美し く彩られ、芸術的で純粋なそのプロポーションを持ち合わせている。茶室で主人と客人が互い に挨拶をし、接待し合うときには、その時代に合った極めて上品な振る舞いが必要とされる。 そこでは思想、感嘆や批判に関する言葉は、極めて洗練されたセンスのよい、豊かな感受性の ある、意味のある着想を持って使われていた。こうした茶道の例に見られるように、我国(ド イツ)でもかつては、祭りの際には芸術がそのすべてを統合していた。それは儀式を執り行う 振る舞いや道具はもちろん、祝祭のパレードと祝祭の場、強靭でありまた精神的な武器による 競技においてもその芸術性が追求されていた。 祭りの発展については、日本人は常に中国から多大な影響を受けてきた。世界帝国の周辺国 同様、日本の島々は中央にある帝国の絶え間ない強烈な影響のもとにおかれた。先述のように、 茶と茶を飲むときの仏教の手ほどき、そして茶道が中国からもたらされ、それとともに七夕伝 『七夕:星祭り』:元ドイツ兵俘虜の日本文化論 説とその祭りが伝来した。中国では極めて古い時代からこれらを伝統として受け継いできた。 七夕が日本にやってきたのは奈良時代で、奈良時代ほど中国の影響が日本文化を発展させるきっ かけとなった時代はない。宮廷の儀式や祝祭について記された『公事根源』(註 11)によると、七 夕祭りは天平勝宝 7(755)年(註 12)にはじめて宮中で催されたとされている。 この『公事根源』をはじめとする多くの古い記録文書によれば、日本文化の最盛期ともいえ る平安時代になると、宮廷の中庭(構内)ではその日を毎年祝うようになったとされる。その 頃には七夕祭りの儀式、使用された器具、器、陶磁器、東アジアに高い技術をもたらした漆、 祝祭の場、衣服、祝祭に集う人々の振る舞いといった様式が日本においても十分慣れ親しまれ るようになっていたと考えられる。それはすばらしい簡潔さを示しているが、この簡潔さはそ れより以前の時代における根本的特徴であり、現代の我々の心に訴えるものがある。 七夕祭りの催しが行われる清涼殿の東庭にはゴザが広げられ、そのうえに 4 つの背の高い漆 の机が置かれる。その机をどのような向きでどのように配置するかなどは詳細に決まってはい ないが、ある慣習が好ましいと判断される厳格な規則が採用された。4 つの机がそれぞれの方 位を向くように正確に配置される。そしてその上には和菓子(Kuchen))と果物が南東方向に、 酒とお香、決して欠くことのできない花、緑の陶磁器、漆の花瓶は北東方向と南西方向に、北 西方向には提げ香炉、花、漆の花瓶が置かれる。そして新しい燭台が水墨絵を照らすように配 置されるといった様式が採用された。 儀式には宮廷貴族、中でも特に格式の高い公家が招かれ、歌会が催される。歌会参列者は軽々 とした筆さばきで詩をつくりそれを書き記す、そういった教養ある日本人が期待されていた。 歌会で与えられる主題はすでに数えきれないほども取り上げられていて、その場ではただ一つ の言葉のみ、あるいは一つの言葉の配置のみを新しく見つけ歌を詠めばよいのである。古代の 貴族たちは、このような遊びを好んだ。太陽が沈み、真っ暗な高い空に光が輝いているのが見 えるようになっても、祝祭に集まったすべての人々は天界の二人のカップルに思いを馳せてい る。それまでのうちとけた態度やおしゃべりは止み、今は天界の神々、崇高な力そして芸術へ と意識が向けられている。歌が詠み継がれ、星の伝説の輝きから生じる何かが祭りを祝うすべ ての人々に伝わり、天界の二人のカップルの苦悩と喜びが心のなかで息づいている。 列席しているすべての人々の心に去来する思いは、すぐに言葉で具体的に述べられたり表明 されたりせず沈黙を守っている。歌詠みの開始時に祭りの鐘が打ち鳴らされる。この鐘はこの モチーフを、また別の鐘は別のモチーフを無造作に打ち鳴らす。その鐘の音が特別なもののよ うに思えたとき、そして鐘が他の鐘と面白く鳴り響いたときだけ、それについて何かが述べられ、 詩として詠まれる。あらゆる鐘、そして低いメロディーの音がつくりだす音楽は伝説の豊かさ を讃えているかのように響く。 まれびと(客人)にとって祭りや祭りで使用される言葉を理解したり享受したりできるのは、 歌会の大きな輪の中においてだけである。というのもこの歌はすべてのことをじっくり見つめ ることへと誘うからだ。そして七夕の尊さを謳った豊かで連続する歌のなかでやっと、彼は日 本の詩の本質的な美しさを感じとることができるだろう。その土地の人々にとっては一つの歌 愛知淑徳大学教育学研究科論集 第 3 号 の中にすべてが内包されている。様々に散らばった言葉、特有の文、話す調子を感じることが できるのはその土地の人だけなのだ。 それは言葉の中に、時代から時代へと受け継がれた豊かな芸術を見出すことができるのだか らだ。この芸術は完全であることを求めて止まない金細工術と匹敵するといっても過言ではな い。こうした芸術は言葉の中に組み込まれると、それまでに表現されたものと同様のものが現 れる。歌を詠むにおいては、ただ構想を練り、すらすらと書いてみることが重要になる。言葉 の渦の中で瞬時に一つ、二つ、三つの考えが浮かび、そしてまたすぐ消える。季語、上の句、 言葉の構成をどうするか、次に溶け合うように、さらには響き渡らせるように詠まなければな らない。古代以前においては言葉は技巧に走らずわかりやすく話していた。この時代は神と関 係するような出来事が身近にあったり、ときには月に住む天界の人々に思いを馳せたりする。 その後時代が下ると言葉を発するにあたって考慮することがより多くなり、世俗を観察する人々 の感情が表現されるようになる。特に『新古今集』(註 13 )にはこの表現がしばしばみられる。『新 古今集』が編まれた時代以前では、素材を直接的にそして極めて生き生きと捉えること、新鮮 な感情から豊かな純朴さが生まれてくることがよしとされた。フィレンツェにみられるような 繊細でなめらかな様式という点に着目すると、古代以外の時代の作品の方が優れているといえ るが、「詩的な内容に着目すると、この時代(奈良時代)で一番すばらしいものは、日本のあら ゆる詩のなかでも一番すぐれているのだと主張してもかまわないだろう。」 奈良時代から和歌の黄金期である平安時代へと時代は発展し、中国思想が日本思想と深く融 合した。菅原道真の意見によって政治的に混乱し、道徳的にも崩壊しはじめた中国との関係が 断たれた後、日本的な思想は独自に発展していくこととなった。古くから名声があり勢力を持っ た藤原氏は、国家の文化的発展に決定的な影響を及ぼした。平安京の都がある京都は、唯一の 広大で豪華に光り輝く宮廷の陣営となった。それまでに存在しなかった華やかで贅沢で洗練さ れた生活慣習が生まれた。藤原氏が確実な優位を誇っていたこの 50 年間以上にわたる時代ほど、 芸術や詩歌、遊びや祝祭に対して彼らが果たした貢献に匹敵した時代はない。(フィレンツェの 文学や歴史と比較してみよ)。延喜時代(註 14 )は短い期間であったが古典抒情詩の最盛期を極め、 『古今集』が編まれた。この時代は、『古今集』の編者で国家官僚であった高名な紀貫之がすば やい筆さばきで見事な屏風を装飾し、しなやかで上品な詩を書き記した時代なのだ。 (73)[延喜御時月次屏風に 紀貫之:大空をわれもながめて彦星の妻待つ夜さへひとりかも寝む (新古今和歌集巻四上 313)](註 15) 風景は祭りに特別な魅力を授けることもある。古い山脈に挟まれた静かな湖に、天空にきら めく星が水面にきらめいている。藤原長家(註 16 )は京都の宇治のそばにあるかつての大臣の家で、 七夕のこころ、つまり七夕祭りの気分を詩歌で表現した。 (74)[権大納言長家:年をへてすむべき宿の池水は星合の影も面なれやせむ(新古今和歌集巻四 315)](註 15) 祭りは華やかできらびやかである。七夕の栄光を讃えて大きな歌会が行われ、一流の政治家 たち、国家の偉大な人々が競争心をむき出しにした詩人となる。審査員が動員され、人々は彼 『七夕:星祭り』:元ドイツ兵俘虜の日本文化論 らの決定に耳を傾ける。歌の役職にあるものはそれらの歌の中から優れた詩歌を集めなければ ならない。歌会ではこのように言葉による極め付けの芸術が競われ、まれびと(客人)は感情 的になり協議の決定とその規則に従うことができないケースもあった。 言葉はより芸術的に詠まれるようになり、見かけは単純であるもののその技巧は複雑になる 傾向がでてきて言葉による芸術性の発展に歯止めがかからなくなる。その次の時代になると、 言葉や言葉の並べ方の華やかさや豊かさが育まれ、様々なことについて思いをめぐらせるよう になる。しかし歌に込められた本来の感情はゆっくり気づかないうちに消え失せてしまう。そ して古い巨匠の詩にことよせて詠むことが斬新で独自の芸術だと見なされるようになり、高い 評価を受けるようになる。こうして歌を詠む際に作為的な技巧が尊ばれ、型にはまった特徴が 浮かび上ってくる。『古今集』でもすでに「いくつかの質の悪いのもの、わざとらしいもの、気 取った冗談から出来上がったもの」、そのほか「本当に詩的で感情豊かな才能、そして創意にあ ふれファンタジーのある繊細で穏やかな芸術として賛美できるような並はずれて卓越したもの が記されていることもある」が、次の作品集では、技巧がより広がりをみせている。我々はここ まで七夕の詩歌を取り上げたのだが、この時代に編まれた最もすぐれた作品集、それは『金槐集』 (註 17) である。これは平安時代に続く鎌倉時代につくられた。貴族社会制度が完全に疲弊し、早 急には阻止できないほど衰弱しそうな兆しが現れようとしている時期に、藤原氏の力は大臣で ある御堂関白道長のもとでその極めて強大な輝きをみせた。(um 1000) 続いて二つの極めて強 大な一族である平家と源氏が国の支配をめぐって戦った。1186 年に源氏は勝者となり鎌倉時代 が始まった。(註 18)武士によるある意味で荒涼たる時代が支配的になり、詩を詠む者はそれまで の貴族だけではなく、優れた武士であるという時代となった。 鎌倉時代の 3 代目将軍である源実朝は優れた武人そして詩人の一人であった。この時期はお だやかな祝祭の時間を持つことが困難となり、七夕のテーマはこの時代には不適切なものであ るとみなされるようになる。詩歌の全盛期ではなくなり、歌を詠むにあたって知識と教育はそ れほど重要視されなくなり、古風であることが理想とされるようになった。『金槐集』の収集家 であった実朝は、『万葉集』よりすぐれたものを何も知らなかった。彼は先人の名歌や古典に学 ばず自分の殻に閉じこもったため、彼の詩歌は『万葉集』を手本にしておそらくその言葉に少 しだけ手を加えたようなものであった。しかし彼の詩歌には、ときおり素朴さが突発的に生じ るものも見られるのだが、一方ではそれは文学的であるともいえる。彼の七夕の詩は決して多 くはないが、ここにいくつかは引用した。彼は七夕の楽しい願いを次のように謳っている。 (75)[秋のはじめによめる 源実朝:ゆふされば秋風涼したなばたの天の羽ごろもたちやかふら む(『金槐和歌集 秋の部』)(註 19) 鎌倉時代を通じて、詩はより職人的な歌へと堕落していった。庶民による詩は次第にテーマ が借用されるようになった。詩的なものは硬直し、とどまることなく消え、我々が取り上げる べきものは何もないことがより明らかになった。室町時代と徳川時代に至ってはかつての洗練 された宮廷風の七夕祭りの輝きは失われ、宮廷行事は日ましに注目されなくなっていった。徳 川時代になると、祝祭のうち節句の祭りがその 5 分の 4 程度を占めるようになった。それによっ 愛知淑徳大学教育学研究科論集 第 3 号 て織姫の祭りは女の子あるいは 3 月の雛祭りと、5 月の男の子あるいは端午の節句という一連の お祭りと同列の祭りとして位置づけられるようになった。こうして貴族と宮廷の祝祭であった 七夕祭りが庶民の祭りとなったのだ。 さらに宮廷の保守的な一派に受け継がれる古い慣習と古い儀式を見てみると、今日において も宮廷では庶民が長く忘れていた祝祭が催されているが、七夕祭りは時代が経つにつれて、次 第に宮廷で行われることが考慮されなくなっていく。1917 年 7 月 8 日の読売新聞によれば、久 邇宮の皇女の邸宅でさえ今では祭りを祝わなくなったという。(註 20)20 年前までは七夕の笹竹が 飾り付けられて、庭の反対側にある邸宅の広いベランダの前に笹竹が置かれ、瓜やナス、その 他の果物の供え物が並べられていた。しかし今日では何もしないのだ。 明治時代の一時期まではこの祭りが広く行われていたが、その後日本の首都となった東京に おいてもまた古い慣習が忘れられてしまった。ヨーロッパの 100 万都市に匹敵するこの大都市 でどのように織姫に関心を持たせることができようか。手織機が残っているような家は殆どな いだろう。近年、大きな百貨店や反物小売店の中には、この古い祝祭を首都で思い起こさせよ うと企画した店も現われた。それらの店が意図していたのは店の広告以外の何物でもないのだ が、この広告は七夕祭りを理解する上ですばらしくためになる。できれば毎年継続してほしい ものである。三越と白木屋と松坂屋の店では、7 月 4 日から 7 日までのあいだ、七夕を讃えて笹 竹を設置した。この笹竹には短冊と 5 色の糸がつけられた。短冊には『古今和歌集』、『万葉集』 をはじめとする和歌集から選りすぐられた詩歌が書かれた。これが最近になって唯一、日本の 首都で七夕祭りを思い出すことができた貴重な機会であった。多くの織物師がいる名古屋など の大都市や、関西地域の大都市では、確かに今日もなおこの日が多くの家で祝われている。 しかしこの祝祭の慣習をしっかり知りたいと思うのであれば、田舎あるいは小さい都市に行 くべきだ。なぜならそこでは今日もなお織物をする女性が尊ばれているからだ。そうした習慣 については本の情報だけではわからないことが多い。著者(マイスナー)は七夕祭りについて、 まず中国とは異なる日本での解釈について説明しているが、この国でその祭りがどのように息 づいているかについては記述していない。文書によるものではなく、田舎、大都市から離れた ところ、ヨーロッパやアメリカの思想から影響を受けていないところでこそ、最も不純物にま みれていない生活そのものを見ることができるのだ。 多くのヨーロッパの作家は、わたしが懸念するように、実際に村々を訪れて七夕祭りを観察 するという方法をとることができなかった。そのため多くの優れた本の中にさえ間違いが入り 込むという状態が存在した。ランゲックは著書の中で七夕について、「7 日目の夜は雨が降って はいけない。そうでなければ天の川が流れず二人のカップルはお互いを見つけられない」と記 している。マイスナーは著書の中で「だから日本人はこの日に(?)七夕を立てる(?)。すな わち(?)、色紙と短冊は雨の色からできている(?)。そして星の形にした竹の葉っぱで結ん だものを(?)長い笹竹の竿を家の屋根の高くに結び付ける(?)。なぜなら虹は空の橋、つま り天の橋であり、星のカップル(?)のために天の川に架けられなければならない(?)」とクエッ ションマークを付け、ランゲックに同調できなかった点を示している。確かに、祝祭の慣習は 『七夕:星祭り』:元ドイツ兵俘虜の日本文化論 日本の様々な地域で多かれ少なかれそれぞれ異なっている。そのため縦に長い国日本において、 鉄道システムが最近ようやく整い、多くの地域に鉄道網がひかれるようになっても、日本の各 地域(北と南)の人々の間では、他の地域では全く知られていないものを信仰しているという ことが十分に起こりうる。しかしランゲックの報告は、何もいわずに無視することはできない、 つまりありえないことである。今日、日本のいくつかの地域に広まっている説話の中にも、い くつかの古い詩を反映したものがある。『万葉集』には七夕について次のような歌がある。 (75a) [この夕降りくる雨は彦星の早漕ぐ舟の櫂の散りかも(『万葉集 10 秋雑歌』)2056](註 21) そして『新古今集』では、上の句が『万葉集』と同様に次のような歌が掲載されている。 (76)[題しらず 赤人:この夕べ降りつる雨は彦星のと渡る舟の櫂のしづくか(『新古今和歌集 巻 4 秋歌上』 314)](註 15) この第一次世界大戦で著者(マイスナー)はやむを得ない状況で伊予と阿波の国へ住みつく ことになった。(註 22)この二つの地域は、関西や関東や北九州ほどにはまだ近代的、ヨーロッパ 的あるいはアメリカ的な考えが広まっていない。そういう日本の地方の田舎町に長く住めば、 大勢の人々で賑わっている中に戦時捕虜の仲間を見つけることがある。というのも民家はほと んどが狭く、庭は様式化されていて、ほとんど歩きまわることができないこじんまりとしてい て見渡す障害が少ないからである。著者は日本というものは、他の国とはまったく違うものだ と解釈している。もし彼が日本の言葉を十分に使いこなすことができれば、毎日のように靴屋 や仕立屋、商人や床屋、それから宿場を行き来するあらゆる日本人から都市や田舎の慣習、風習、 状況について聞き知ることができただろう。しかし路地に目をやるとひとつひとつのことまで 詳細に知ることができるし、長い月を待ちわびればそれぞれの変化にも気づく。少し歩けば知っ ている家にたどり着く。彼は至る所で手織機を見て熱心な機織りの姿を観察し、七夕祭りにな るとそれぞれの家で天にお祈りを捧げる様子を見ることができる。そして数年後、彼に言い渡 されたのは、阿波の国の板東町(現鳴門市)に近い人里離れた田舎町に行くようにとのことであっ た。彼はここで捕虜として気前よくもてなされた。彼はよくその地域をぶらぶら歩き多くの家 を訪ねた。そこであらゆる訓練された作法を体験することができた。彼はそこに住む人々にた くさんの質問をし、それに対する十分な答えを得た。また彼は慣習にまつわる絵を手に入れる ことができた。彼は至る所であらゆる方法で人々に聞いて回ったが、彼らは織姫がある年に牛 飼いの夫と離れて暮らし、機織りをしなければならなかったということ以上のことは知らない ということがわかった。ただ一年に一回だけ、7 回目の新月になる 7 日の夜に彼らは一緒になる ことができる。阿波の国では、牛飼いと機織り娘が茄子畑で出会ったという言い伝えが広く流 布していることに彼は気づいた。この言い伝えに従って、そこでは 6 日の午後から次の 7 日の 夜にかけて農民は茄子畑に立ち入らないことになっていた。茄子の果実はちょうど七夕祭りの 時期に収穫され、この果実は極めて重要な供え物にされるらしい。それゆえにこの言い伝えが 好んで語り継がれるのだろう。それではこの地域に関連したちょっとした補足事項について示 しておこう。長能は藤原氏の家系にあたる素晴らしい歌人で、彼が作った古い詩歌には次のよ うなものがある。 愛知淑徳大学教育学研究科論集 第 3 号 (77)[花山院御時、七夕の歌つかうまつりけるに 藤原長能(註 23):袖ひちてわが手にむすぶ水 の面に天つ星合の空を見るかな](『新古今和歌集巻 4 秋歌上 316』)(註 15) この歌は古い慣習についてほのめかしているが、この慣習は 1917 年 7 月 8 日の読売新聞の記 事(註 24)によれば今日も東北地域で行われているとのことだ。透明な水の入った深い皿が七夕の 木の前に置かれる。7 日の夜になるとその水には二つの星がキラキラとまたたき、娘たちはその 後、その魔法のかかった水をとり、黒髪をそれで洗うのだ。 7 日の夜には七夕と牛飼いの星に多くの願いと祈りを託す。ここでは、古い時代から言い伝え られるあらゆる歌が詠み交わされる。どちらの波も穏やかに、牛が元気に育つように、強い風 が吹かないように、よい渡航ができるようにと祈る。そして我々も聞き知っている七夕に捧げ た贈り物に願いを託して終わる。7 月 6 日の早朝、伊予の国では子どもたちが外に出て、稲か ら滴る銀のような露を集め、それで墨汁を溶き、その墨汁で織姫に願いをしたためる。慶応時 代(1865-1868 年)においても、江戸ではこれが慣習となっていた。真珠のように光り輝く蓮の 葉から滴り落ちた露を拾い、それで墨汁を溶き、それで織姫の栄光を願い古い詩をしたためる。 その他にもいろいろなことがなされた。紙をちぎり、クモの巣のようなものをつくり、それを 筆やほかのもので七夕の笹竹にくくりつける。(読売新聞の関根博士の論述による)(註 25)といっ たことも行われていた。 7 日の朝、田舎中を歩いてみても、まず何も特に変わったことに気づくわけではない。新鮮で きらびやかな緑のなかに稲穂が大波のように遠くまで広がっている。あちらこちらで茂みや梢 や背の低い藁やかわら屋根がその邪魔をする。青い山脈が遠くをさえぎっている。あちらこち らで海や川がきらりと光っている。どこにも私たちのお祭りの気分を台無しにするものはない。 それらはいつも私たちが見慣れたままにそこにある。そのためまれびと(客人)は、もしかし てこの日が祭りであることに気づかないかもしれない。我々はそろそろあの道を曲がって、次 のすばらしい家、小さい家のそばだけれども、その家から幅の狭い木で作られた縁台に行かな ければならない。その縁台は小さな庭と農家の反対側に面している。ここは我々にとって見慣 れたものしか見ることができないところである。飾られた葉っぱ、それから西洋のクリスマス ツリーや、もっとよく言えばメイポール(春祭りの五月柱)を思い起こさせるような飾りに彩 られた 1 本の笹竹が立っている。そして縁台の床のそばには目立たないように供え物が広げら れている。笹竹の慣習がどこから伝わってきたのかについては確かではないのだが、読売新聞 の記事(註 24)では、関根博士はこの慣習は平安時代の古い風習に由来しているのではないかと推 測している。というのも、平安時代にはいわゆる「忌竹」という竹が神社に据えられ、白い紙 で飾り付けられるのが習慣になっていたのだ。阿波の国では、おそらくどこでも飾り付けるの は竹の小さな枝だけで、その枝は、地面からおよそ 8 フィートくらいの軒の下に括りつけられる。 その下に供え物を置くお盆や腰掛け(足のせ台)のようなものが置かれている。供え物はい つも同じ農作物、つまりその時期に収穫したものとして瓜、トウモロコシ、豆、茄子、梨、そ れに加えて団子、お酒、家で織った織物なども供えられる。笹の枝にはいくつもの細長い紙が 『七夕:星祭り』:元ドイツ兵俘虜の日本文化論 楽しげにヒラヒラとなびいている。我々はそこに記号やスケッチが書かれているのを見つけた。 それらには、みごとな出来栄えの文字もあれば、子どもらしい不慣れな手つきで書かれた文字 もある。絵をじっくり見ると、子どもの手で描かれたものである。茄子、瓜、梨、団子、供え 物に少し不足しているように見えるもの、あるいはもっとお供えしたいものなどが小さくそこ に描かれているが、もしかしたらそれらは文字であるかもしれない。東方(東アジア)では文 字と絵が密接に結びついているからだ。そして七夕の飾りをもっと近くで観察し、その紙の文 字を読んでみようと立っていると、そこに主婦が現れた。「あ、これ」彼女は言った。「これは そう私たちの小さな子どもたちが書いたの!」 スライド式ガラス窓に似た扉(一部ガラスの 入った障子か)が開いていたので、我々は実際にその小さなわんぱく小僧たちが地面の上に敷 かれたござの上にしゃがみ、筆で紙に書いている文字(あるいはそれは絵だったかもしれないが) を見ることができた。 富士、鷹、茄、 は短冊に好んで記される。というのも富士(山)は日本の霊山のなかで最も標高が高く上品な山、 タカは鷹、ナスは茄で重要な供え物である。これら 3 つが他の何よりも幸運を呼ぶものである 〈原本註1〉 ため、正月の夜にこれらの夢を見ることをみんな願うのである。 (ローマ字・ドイツ語表記) 瓜が流れる 団子が沈む これは、よく使われるちょっとした諺で、二つの供え物の否定できない違いを面白おかしく表 現したものです。(ローマ字・ドイツ語表記) 七夕や 棚から落ちて きん(陰褰)つめて 泣く泣く団子に 食らいつく この愉快な歌は、阿波の素朴な庶民のユーモアから生まれた諺だ。これはこれ以外の七夕の 詩歌とはコントラストをなす少し異質なものである。別の家では、少年が我々に一枚の紙をみ せてくれた。それにざっと目を通すと次のようなことが書かれていた。「わたしは団子を食べる のが好きです!」 我々が笑うと、少年は「これは私の姉が書いたのですよ!」と言った。多く の短冊には子どものぶっきらぼうな字で「天の川」とか、「織姫」とか、「七夕様」など短い言 葉が書かれている。天に呼びかける言葉やお願いをする呼びかけの言葉である。 織姫はとても慈悲深いのだ。彼女は織物や糸を紡ぐだけではなく、縫ったり裁いたりもして いたのだ。そのため彼女はあらゆる手先の器用さを授けられた。彼女は筝 (Harfen) (註 26) を弾 く能力と技術だけでなく、文字芸術であるものを書くことと描くことにも長けていた。すべて の学習者、とりわけ子どもたちは書くことを学ぶ。文字(ABC)を習い始める小さな子どもは どの子も文字を練習し、すばらしい字を書き、すばらしい絵を描くようになる。そして彼らは習っ た文字をまず最初に使う。小さな子どもはおそらくこの祭りのときに「七夕」の文字を学び、もっ と大きな子は別の文字や言葉を几帳面に書き記すのだ。こうして彼らは学習した美しい言葉や 文字で、七夕への寵愛を表し、贈り物として織姫様にお願いする。それは巧みで芸術的でもある。 多くの少年少女は学校の授業時間や重要な書き物、あるいは難しい手仕事のときにはこっそり と七夕に助けてくれるよう願いながら文字を記すものである。彼らは多くの紙に几帳面に最後 までしっかりと記号や絵を描くことで、少しづつではあるが上達し、文字の意味を認識するよ 10 愛知淑徳大学教育学研究科論集 第 3 号 うになる。乞巧奠(kikoten)も名前の由来から、これが手芸の上達を願うという意味を持つよ うになったのである。(註 27) 今日、七夕の笹竹に飾り付ける紙は 5 色になっており、どの地域でも同じ形の短冊形になっ ている。しかしどの色を選ぶかは重要なことではないようで、我々は様々な地域で何度も違う 色のものを見た。この色はこうであの色はこうでなければならないと記されている本もあるが、 他の本ではこれらの色は虹の色と関係しているのではなく、虹は七夕伝説には何の関係もない とするものもある。一方であまり知られていないある伝承によれば、天にはあらゆる色が存在 しているのだが、このうち虹の 7 色は最高の織物師である織姫によって織られたのだと言われ てもいる。 織物が上手になりたい者は、それゆえ供え物の台に 5 色の糸を置いたり、それを七夕の笹竹 に掛けたりする。徳川時代にはまだ、これらは笹竹の飾りとして用いられることが一般的であっ た。短歌の歌人の一人である春二(註 28)は、いまだかつて一度も機織仕事をしたことがない姫様 が織姫への贈り物は必要としないはずなのに、七夕の笹竹に近づいて願い事を書いた紙をそこ にかけ、〈原本註 2〉この優美な情景を 17 音節で表現した。(ローマ字・ドイツ語表記) (78) 願いの糸 かけ給いたる お姫かな 今日では多くの糸を掛けた笹竹を見かけることはほとんどなくなり、新しい慣習である 5 色 の短冊のみを飾ったものを見かけるのが一般的となった。また徳川時代も現在と同様に、特別 な祭りの日には決まって人々は梶の葉を売っている家に行かなければならなかった。この梶と いうものは紙をつくるクワの木の葉だ。梶の葉と名付けられた葉に中国語あるいは日本語の詩 歌が書かれ、それらを二つの星に捧げる。蕪村(1716-1783 年)の短歌には次のようなものがある。 〈原本註 3〉 (79)[梶の葉を朗詠集の栞かな](註 29) わずか 17 音節のみである。知識のある日本人の前でこんなに少ない言葉でどんな情景を表現 できようか!この詩歌本は日本の古典期につくられたものであるが、詩人の公任(註 29)は古の日 本や中国の詩とこれに加えて多くの絵画を収集し、詩歌本を編んだ。そしてこれを「朗詠」〈原本 註 4〉 ―卓越した歌を収集したもの―という言葉で表した。そこには「梶の葉」の歌が、織物の祭 り、古くから伝わる星の伝説、すばらしい天の川のある静かな夜空の星、別れと憧れと愛、幼 少期の祭りと織姫への願いなどの思い出とともに記されている。そうしたものを表現するのに は長い詩はまったく必要ないのだ。蕪村は 17 音節、3 節でそれを表現しているが、それだけの 言葉で日本人はよくその含意を理解できるのだ。 伊予の松山で私(マイスナー)は多くの家の七夕の笹竹に次の詩歌が記されているのを見つ けた。(ローマ字・漢字表記) (80) 七夕乃 登波多留舟乃 加志乃波示 思以志事 加貴屋奈加佐ン 七夕の と渡る舟の 梶の葉に 想いしことを 書きや流さん この意味について尋ねてみると、隣人は何も答えることができなかった。日本の多くの古い 慣習、詩歌、祈りなどについても同様であり、太古の慣習や詩歌のテキストがずっと受け継が 『七夕:星祭り』:元ドイツ兵俘虜の日本文化論 11 れているにも関わらず、その意味が忘れられている。後に私は『新古今和歌集』の中に上の句 (17 音節)が、女性詩人 Koben のものとまったく同じ詩歌であるのを発見した。(ローマ字・ド イツ語表記) (81)[皇太后宮大夫俊成:七夕のと渡る舟の梶の葉に幾秋書きつ露の玉章(『新古今和歌集』4 320)](註 15) この二つの詩歌にはどちらも「梶の葉」という言葉が使われている。しかしこれには 2 つの 意味がある。つまり一つ目は、梶の葉、二つ目はオールの水かきという意味である。松山の 詩歌にはこの言葉が二重の意味で使われている。というのも、Koben の詩歌の上の句を下の 句にかかるようにしているが、その下の句はまったく上の句との連関を持っていない。日本 人はこの二重の意味で用いられる言葉を Kenyogen〈原本註 5〉 と名付け、Chamberlain はそれを 「Pivotwords」(掛け言葉)(註 31)と名付けた。この英語表記は日本の詩歌におけるこの装飾的な 技巧の特徴を言い当てていてすぐれた比喩になっている。大昔のドアの蝶つがいがすっかり変 わってしまうように、ここでは上の句と下の句が二重の意味によって変化するのだ。このはじ めのイメージを全く知らずにいると、このドアはパタンと閉まるだけである。しかももう一つ のイメージを知っていると、にドアが開かれる。言葉遊びではあるが、優雅で機知に富んだ遊 びである。伊予松山の詩歌は次のように解釈されなければならない。 (82) 七夕の時、走行している渡し船の上で オールの水かき(ではなく)、梶の葉に思いを書きつけ、 それを川に流そう。 そして結びの句は、七夕の木と飾りと梶の葉、あるいは短冊が川の流れや海の波に流れるこ とを暗示している。 祭りが終わりに近づくと、村の至る所に立てられていた笹竹や色とりどりに飾り付けられた 枝がなくなっているのに気づく。子どもたちがそれらを持って急いで川に行き、その色とりど りのものを水辺や木製の長い橋から水の流れる方に向かって放り投げる。すると笹竹、枝や紙 や描かれた贈り物や願いが書かれたものは遠くの方に流れ去っていく。川のあちらこちらで水 に浮いている祭りの笹竹が見受けられるが、それらは川石や岸部の植物の根にひっかって止ま り、水流が強くなるのを待っている。笹竹に飾られた色とりどりの飾りがなくなっていたり、 一部しか付いていなかったりする。そして活気のある人だかりの中にいる子どもたちが色とり どりの紙を持ち、それを長い縞々の旗に括り付け、その旗を棹に固定し、それを持って楽しそ うに村中を歩き回る。今日も子どもたちが楽しげに飛び跳ねたり踊ったりしているけれども、 ・・ かつてはそれが七夕踊(Tanabata-Ta nze)として行われていたことがわかる。享保 17 年(1732 年)の『愚案問答』(註 32)に書かれた報告によれば、町の小さな娘たちが横町に住む友達のとこ ろに行き、そこで楽しく踊ったり歌ったりしたと伝えられている。 かつて「年長者が歌っていた歌」を、今は「少年が小さな声で歌う」ようになった。古くか らの盛大な祝祭は、歴史上どこの他の地域でも同様であるが、子どもに引き継がれる。ほとん どの家で織姫の祭りは子どもたちのものとなった。そしてそれは文字を学ぶ上での良い学校教 12 愛知淑徳大学教育学研究科論集 第 3 号 材になる。手仕事の授業は日本の少年少女たちの学校では重要な役割を果たしている。だから 七夕を讃える祭りがもちろん学校でも催される。古い「祝祭」(Bittfest =カトリック祈願祭) では、机を庭に置き、願いの糸を捧げ、織姫を讃えるお香をたく。しかし今日の女子学校では 生徒たちが教室やリビングルームを笹竹で飾り付ける。年少の女の子たちは子どもらしい文字 で「七夕さま」、 「織姫さま」、 「天の川」といった文字を紙に書く。年長のクラスの女生徒たちは『万 葉集』、『古今集』やその他の古い詩歌集から難しい詩歌を選びそれを紙に書く。あちこちに女 生徒たちの手で書かれた「B クラス万歳!」やそれに似た言葉を見ることができる。そういう 学校でのお祭りの最後には、ちょっとした食事会が催されるのが常である。その食事会は女生 徒たちが自分たちで用意したもので、先生やクラスを移動した以前の同級生たちが招待される。 近代の学校は七夕祭りの伝統を受け継いでいる。それについて言及した特徴的なものが関根 博士の発言である。彼は次のように語っている。 「牛飼いと織姫の伝説はたしかに詩的であるが、 子どものいる家ではそれについて次のこと以上のことを語るべきではない。天の七夕姫には夫 がいて、彼女は7日の夜に彼と会うことができる、それだけで十分なのだ。手仕事の上手な姫 に思いを寄せることに重きを置くことが望ましいのである。愛の歌については何も言及せず、 害になる不純なもののない詩をその代用とし、七夕の笹竹を折り紙や学校の手仕事の時間に作っ たり、その他のもので飾り付けて子どもと楽しい時間を過ごすのはいかがだろうか。子どもが 楽しむ催し物としては、5 月の端午の節句や 3 月の雛祭りがあるが、子どもの手仕事の上達を 促す祭りが我々にはまだない。我々は子どもたちをもっと喜ばせることができるのではないか。 おそらく 5 月の端午の節句よりは、色とりどりの紙がたなびく七夕の木の方がより美しいと思 われる。」(註 33) 関根博士にはもう 1 つの願いがある。彼はこの祭りを日本の姫である「天の七夕姫」の祭り として祝い、牛飼いと織姫の伝説が奈良時代になってやっと中国からもたらされたことについ ては無視するべきだと考えているのだ。七夕祭りが中国から輸入された祭りであることを彼は 否定している。彼はこの祭りを純粋な日本の祭りとして祝うことができればよいと願っている。 博士のこの願いはしかしながら決して叶えられることはないだろう。我々にはこの願いが行き 過ぎているように思われる。あるいは、古い日本を起源とした天の七夕姫自身、中国の伝説に ある織姫以外のなにものでもないのである。カール・フロレンツ(Karl Florenz)教授は日本紀(註 34) にある「味須岐高彦根 ( あじすきたかひこね )」の神に捧げる詩歌を翻訳しているのだが、この中 に織姫の名前がでてくる。原本とフロレンツによる翻訳は次のようなものだ。(ローマ字、ドイ ツ語表記) (83) ①あめなるや おとたなばたの うながせる 玉のみすまる あな玉は み谷 ふたわたらす あぢしき 高ひこねの 神ぞ ②天 ( あめ ) なるや、弟織女 ( おとたなばた ) の頚 ( うな ) がせる玉の御統 ( みすまる ) の、 穴玉 ( あなだま ) はや、み谷二渡 ( ふたわた ) らす、味須岐高彦根 ( あじすきたかひこね )」 (oto は、若いあるいはうるさい、姫の七夕の名前あるいは機織りを意味する。unagasu は、ネッ クレスをすること、あるいは機織りに取りかかることを意味する。この詩はそういう点で二重 『七夕:星祭り』:元ドイツ兵俘虜の日本文化論 13 の意味を持っている。) フロレンツはこの詩歌について次のように記している。「私が見る限り、日本の注釈者の誰ひ とりとして、我々の詩歌に出てくる織姫を星の擬人化として捉えていないのである。私が思うに、 いやそれは確かなことなのであるが、Chamberlain(die Variante Koj.(99 ページを参照のこと) と Aston が行ったのと同様に、すでにこの詩歌の中には中国神話の人物が念頭にあったのであ る。」フロレンツはさらに、上記の詩歌が作られた古代からずっと、日本には徐々に中国思想の 影響が広まっていたことも指摘している。しかしフロレンツ自身が言うように、 『日本紀』や『古 事記』の日本人の注釈者はこの見解を支持しなかった。私は日本人の学者の執筆によるたくさ んの論文を読んだが、そこには「天の七夕姫」は純粋な日本の姫として記述されていた。 彼らにとっては、ただ昔からのその土地で伝統的に行われてきた祭りを祝いたいというだけ なのかもしれないが、そうだとすると多くの庶民たちが彼らの素晴らしい祭りの多くをやめな ければならいだろう。織姫と牛飼いの伝説は、ヨーロッパでフランク王国がメロヴィング王家 を設立した頃に日本に伝来し、その時代から長い時間をかけて日本ではその伝説を郷土的なも のとして受容してきた。そしてそうした受容の過程を経て、七夕に捧げる詩歌を詠む集いにお いて、それがその土地のものであるかのようにまれびと(客人)たちに宣言することができる ようになったのだ。 3.おわりに 「元ドイツ兵俘虜の日本文化論」と題したが、日本各地に収容されていたドイツ兵俘虜たちは、 日本文化を様々なまなざしで見つめていた。その一例として板東俘虜収容所統合前の徳島収容 所の俘虜たちの日本文化観に次のようなものがある。 徳島収容所新聞『徳島新報』『Tokushima Anzeiger』第 1 巻 18 号(1915 年 8 月1日)では、 <天神祭>の船渡御について、「学問の神様を讃えて、いわゆる天神祭を行ったのだ(中略)ほ とんどの船からは日本の楽器の<かわいい>旋律が響いてきて、それに歌声と手拍子が合わさっ ていた。」とし、さらに花火の光景について「両岸には大勢の見物人、いたるところで音楽と歌 と笑い声があった」とその印象を記している。真夏に打ち上げられる花火や、現在の大阪天神 祭を髣髴とさせる記述には、日本の伝統行事とそれに伴う音曲を異文化として観察している様 子が窺える。また同 23 号(1915 年 9 月 5 日)では、<日本の盆>というタイトルで、<阿波踊 り>を「朝 7 時から夜の 12 時まで踊りと音曲が許され」ていたこと、さらに「とりわけ若い娘 と子どもたちが、色とりどりの幻想的な衣装を着て、たいていはかぶり物や仮面をつけて、三 味線の響きに合わせて歌い踊りながら、朝から晩まで通りを練り歩くのである。徳島ではとり わけ阿呆踊りをする。しかしこれらの踊りは本来の盆の祭りとはもはや何の関係もないもので ある。」ことであると結んでいる。 <阿波踊り>を<阿呆踊り> (Narrentanz) と称していることは、踊り自体が自由で気狂い踊 り的様相を呈していたことからくる印象だろう。さらに第 3 巻 15 号(1916 年 8 月 20 日)で、 「こ のところ、昼も夜もじつに騒がしい。静かなときでも、船の汽笛、汽車の汽笛、犬の鳴き声で 14 愛知淑徳大学教育学研究科論集 第 3 号 相当神経にさわるのだが、それに三味線のペンペン鳴る音、鼓の音、やかましい拍手と万歳の 加わるのである。これに見れば、東アジア人には神経がないことが分かる。浮かれた連中がむちゃ くちゃ大騒ぎしながら真夜中に町中に遊覧船を走らせても誰も何とも思わないのだ。この騒が しい船による遊覧が徳島での死者を記念する踊りの最後を飾るものらしい。収容所でも、その 横手をいくつかの踊り手の一団が通っていったが、その幻想的で、一部華やかな色の衣装と音 楽からはほとんど死者を思い起こさせるものはない。」と論じていることは、異文化を彼らの基 準で美的判断をしている論評であり、大きなカルチャーショックを受けていることが窺える。 また第 2 巻 15 号(1916 年 1 月 1 日)には「Japanisch Neujahr」と題して<日本の正月>に 関する記述で紹介されている。この中で、旧暦から新暦に移行していたことについて、 「ヨーロッ パ歴の採用とこの国の近代化の推進とともに、この季節や新しい醒めた感覚に合わなくなった 習慣が多く消え失せた」と分析している。正月に登場するハレの日の食べ物にも興味を示して おり、餅 , 酒、お屠蘇、米菓子といった記述が見られる。また正月の遊びについて「一般に 3 日 間祝う。女の子は道路で羽根つきをし、男の子はいわゆる〈ちゃんばらごっこ〉で遊ぶか、凧 揚げをする。家の中ではカード遊び、百人一首やすごろくをして時間を過ごす」と観察している。 日本文化に関するまなざしは、他にも、〈旗を掲げる祭り〉の子ども日、人形芝居、盆踊り、 稲荷祭[第 1 巻第 6 号]、〈漁業や海に関する仕事の神の行事〉のエビス祭り[第 2 巻 22 号]、 帯と着物、人形芝居、酒[第 3 巻第 4 号],寄席[第 3 巻第 5 号]、花見、宴会、稲荷祭([第 3 巻第 6 号]、さらに「リュート属の楽器でバシッと叩き、金切り声を出して奏する」の三味線[第 3 巻第 15 号]、など数多くみられる。 彼らにとって日本の年中行事は嗜好の有無にかかわらず、ことさら興味深かったことだろう し、これらのまなざしが何らかの形で、その後の地元日本人へのコンサートやレッスンに発展 する異文化理解にもつながっていった要素もあったことは明らかである。板東俘虜収容所の俘 虜たちが住民から「ドイツさん」と親しみをもって呼ばれていたことは、住民との交流が頻繁 に行われていたことを物語っている。 林啓介はマイスナーを 1973 年にスイス・ロカルノの別邸に訪問したことを述べているが、そ の中で「マイスナー氏の別邸<七夕荘>はマジョーレ湖を眼下に見下ろす高台にあり、敷石を 伝って玄関で案内を乞うと「いらっしゃい」という美しい日本語がはね返ってきた。ハニー・ マイスナー夫人だった。一歩足を邸内に踏み入れると、まるで日本色一色であった。壁にかけ られているのは仏画や浮世絵だったし、部屋や廊下のあちこちに置かれている置き物も、仏像 や日本人形やこけしだった」と語っている。 別邸<七夕荘>は、本稿のタイトルがそのまま 邸宅の名前に使われていたのであり、マイスナーが日本と日本文化を終世愛していたことを物 語っている。(註 35) 入手が困難であった“TANABATA Das Sternenfest”をアメリカ・ニューヨークの古書店か ら購入した。H.Bohner によって大阪で編集され、1923 年にハンブルクの OTTO MEISSNERS VERLAG から出版された。タイトルの下には“SEINER LIEBEN MUTTER IN LIEBE UND SEHNSUCHT ALS GRUSS AUS DER GEFANGENSCHAFT BANDO 1919”とあいさつが記 『七夕:星祭り』:元ドイツ兵俘虜の日本文化論 15 されている。構成は全 155 ページからなり、口絵には 3 人の日本髪を結った女性(江戸期)か 笹を括りつける様子がカラーで描かれている。 著者のマイスナーと編集者のボーナーは青島から日本の愛媛県松山市、そして統合された徳 島県板東の同じ収容所に収容されていた。2 人とも文化活動を活発に行っていたし、日本語に ついても堪能であった。二十世紀初頭の日本各地のドイツ兵俘虜の存在は、先進的なドイツ技 術の取得に大きく貢献している。また文化活動においても、彼らはドイツ文化なかんずくドイ ツ音楽の移入において大きな役割を果たした。これは板東収容所ばかりではなく、板東俘虜収 容所統合前の愛媛県松山、徳島、香川県丸亀、そして福岡県久留米、千葉県習志野、兵庫県青 野原における音楽演奏会のプログラムにその実績を見ることができる。1918 年 6 月 1 日に板東 俘虜収容所で、ベートーヴェン作曲の《交響曲第九番》が 45 名のオーケストラ、男声のソリス トと合唱団、ハンゼン指揮で全楽章日本初演されたたことはその一つの象徴でもある。一方で 日本各地のドイツ兵俘虜収容所で様々な問題も発生した。そうした中で板東俘虜収容所は、松 江豊寿所長による俘虜へのおもいやりの精神で良好な管理・運営が行われた。そしてそれを 側面から支えたのは、日本の習慣・文化を心得ていたマイスナーやボーナー達の存在だった。 この 2 人はさらに日本文化紹介にも大きな役割を果たしている。本稿の“TANABATA Das Sternenfest”も彼らの文化交流活動の一環として位置づくものである。 な お 原 本[ANHANG] と し て の“WEITERE GEDICHTE”、“NEUERE TANABATAGEDICHTE“および“VERZEICHNIS DER GEDICHTE”は紙面の関係で割愛した。 本稿の一部は「ドイツ軍俘虜収容所における音楽活動の横断的・総合的研究―音楽活動記録 の作成」(2008 ~ 2011 年度科学研究補助金・基盤研究 (C)( 一般 ) に基づくものであり、和訳に 関しては高岡智子氏のご協力をいただいた。その他ご協力いただいた関係諸氏に御礼申し上げ ます。 七夕星祭り:校註 1.Kurt Meissner(1885 - 1976):海軍歩兵第 3 大隊第 6 中隊・2 等歩兵。[イルチス砲台]。 父親はハンブルクの出版社主で、カール・マルクスの著書を初めて出版したことで知られ るオットー・マイスナーであった。ハンブルク大学で学んだ後 1906 年、ジーモン・エー ヴェルト商会の日本駐在員として来日、20 歳だった。滞日 8 年余の時点で応召し、日本の 最後通牒が発せられた 8 月 15 日に青島に到着した。日本語は堪能で、当初は松山の大林寺 に収容され、そこの収容所講習会で日本語の講師を務めた。板東では本部主計事務室で松 江所長の通訳をした。板東収容所内印刷所から『日本語日常語教科書』、『日本地理』、『日 本日常語授業』を出した。大戦終結後も日本に滞在し、神田伯竜の講談で知られた『阿波 狸合戦』等を独訳、他に『日本におけるドイツ人の歴史』の著作もある。1920 年から 1945 年までの 25 年間、OAG(ドイツ東洋文化研究協会)の指導的な地位にあった。1963 年秋 帰国して、郷里ハンブルクに帰った。[瀬戸武彦「青島(チンタオ)をめぐるドイツと日本 (4) 独軍俘虜概要」高知大学学術研究報告 第 50 巻 2001 年 人文科学編]。マイスナー 16 愛知淑徳大学教育学研究科論集 第 3 号 は松山収容所時代に、日本語および「日本人の家庭生活」についての講演を実施している。 [冨田弘『板東俘虜収容所』財団法人法政大学出版局 2006 年 新装版 pp.236-238]。俘 虜の日本研究に関しては鳴門市発行の『どこにいようと、そこがドイツだ』に紹介されて いる。(初版 1990 年、改訂版 1993 年 pp.73-76 )、ディルク・ギュンターは「松山俘 虜収容所における前川所長とドイツ兵俘虜」の中でマイスナーの『日本での 60 年』を引 用し、「この戦争の前に長年日本で暮らしていた人々もいた。何人かは日本語が話せただ けではなく、日本の事情と日本人の考え方についても詳しかったということである」と記 している。[『青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』 第 4 号 2006 年 p.85]。棟田博は「日語 通」としてマイスナーを語っている。[『桜とアザミ』光人社 1974 年 pp.72-86/311-314]。 また才神時雄は『松山収容所』の中で、「マイスナー博士の思い出」としてマイスナーに ついて語っている。[中央公論社 1974 年 pp.145-147]。さらに中里信一は「板東人、ク ルト・マイスナー覚書」の中でマイスナーの経歴を辿るともに、いくつかのマイスナーに 関する文献の誤りを指摘している。[ 愛知学院大学教養部紀要第 54 巻第 4 号 2007 年 ・・ r pp.37-45]。なお板東におけるドイツ兵俘虜の活動については『Die Baracke ― Zeitung fu das Krirgesgefangenenlager Bando, Japan』Band Ⅰ-Ⅳ 鳴門市ドイツ館 2006 年に詳 細に記述されている。 2.Hermann Bohner(1884-1963): 海 軍 歩 兵 第 3 大 隊 第 6 中 隊・2 等 歩 兵。[ 宣 教 師 ]。( 中 略)1914 年にエルランゲン大学で哲学博士の学位取得後 4 月、『統合福音派海外伝道教会』 (AEPM)の派遣教師として青島に赴き、長年密かに尊敬していたリヒャルト・ヴェルヘル ムの下で教育活動に入った。大戦勃発ともに応召し、(中略)やがて先輩牧師 W. ゾイフェ ルト(Seufert)と共に俘虜として日本に送られた。板東時代、収容所印刷所から『絵画に ついての対話』を出した。1918 年 6 月 1 日、板東収容所においてベートーヴェンの「第九 交響曲」が日本国内で初演された際に「ベートーヴェン、シラー、ゲーテ 第九交響曲に 添えて」の講演を行った。また「ドイツの歴史と芸術」の連続講義を 33 回に亘って行うな ど多種多様な数多くの講演を行った。大戦後青島に戻り、ヴェルヘルムの精神を継承して 活動した後再び日本に戻って、大阪外国語学校講師(1922 - 1951)、教授(1951 - 1963.6. 24)を歴任した。(中略)神戸再度山の墓地には教え子達が立てた墓碑がある。(松山―板東) [瀬戸武彦「青島(チンタオ)をめぐるドイツと日本 (4) 独軍俘虜概要」高知大学学術研 究報告 第 50 巻 2001 年 人文科学編]。ボーネルに関する一連の日本研究を行っている 井上純一は、松山―板東時代を共に過ごしたマイスナーとの関係について、「俘虜時代の日 本語師匠クルト・マイスナーを信頼していた(中略)マイスナーとボーネルとの友人関係 はずっと続いていた。」と述べている。[「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究 第 7 号 2009 年 p.69]。井上は「ヘルマン・ボーネルと日本学」の中でもボーナーについて語っている。 [「青 島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究 第 8 号 2010 年 pp.49-64] 3.岩井正浩「四国 3 収容所におけるドイツ軍俘虜の音楽活動」、音の万華鏡・音楽学論叢 岩 田書院 2010 /岩井正浩「歴史資料:板東俘虜収容所関係資料にみるドイツ軍俘虜の音楽 『七夕:星祭り』:元ドイツ兵俘虜の日本文化論 17 活動」、愛知淑徳大学論集教育学研究科篇創刊号 2011 年 4.Philipp Franz von Siebold『江戸参府紀行』。斎藤信訳、平凡社(東洋文庫 87)初版は 1967 年。 原題は“NIPPON. ARCHIV ZUR BESCHREIBUNG”。1823 年に来日、1826 年に江戸 参府し、徳川家斉に謁見する。シーボルト事件で一旦帰国後、1859 - 1862 年に再度来日。 5.Edward Sylvester Morsse『日本その日その日 1、2、3』。石川欣一訳。平凡社(東洋文庫 171、172、179)、1970-1971 年。原題は“Japan Day by Day1,2,3”。1877 年から 3 度来 日し日本文化についても論じているが、日本の音楽に関しては西洋音楽の価値観をもとに 比較していて、あまり良い印象を抱いていない。 6.Adolf Fischer 『100 年前の日本文化~オーストリア芸術史家の見た明治中期の日本』金 森誠也・安藤勉訳、中央公論社、1994 年。原題は“Bilder aus Japan”。フィッシャーが 来日したのは日清戦争直後で、七夕に関する記述も見られる。この中で「この祝祭の基に なった伝説は中国に由来し牧人(牽牛)の識女への愛を物語っている。(中略)日本人はこ の夜を神聖だと考えている。家々の前には数本の笹のある若竹を飾り、それに詩句などを 書いた色とりどりの短冊をつけ、そして夜になると提灯の火をともすことになっている。」 (pp.169-170) 7.Charles Wirgman『ワーグマン日本素描集』。清水勲編、岩波書店 1987 年。原題は“A Sketch Book of Japan”で、1885 年にメイクルジョン社から出版された。 8.Wenceslau de Moraes『モラエスの日本随想記 徳島の盆踊り』、岡村多希子訳 講談社 ~ es e Moniz” 1998 年。原題は “O“Bon-odori” em Tokushima,Livraria Magalha モラエスは 31 年間日本に滞在し、1913 年には徳島に移住。板東俘虜収容所の俘虜たちとは 違った目で「徳島の盆踊り」(後日阿波踊りとなる)を描いている 9.Engelbert Kaempfer『日本誌―日本の歴史と紀行上・下』今井正訳、霞ヶ関出版株式会 社 , 1973 年。原題は“GESCHICHTE UND BESCHREIBUNG VON JAPAN” 17 世紀後 半に日本に滞在し日本人の生活・文化を著した。死後の 1727 年に英語版で出版されたが、 50 年後の 1777 年に“Quellen und Forschungen zur Geschichte der Geographie und der Reisen”の一環としてドイツ語版の復刻版が刊行された。ケンペルは《神道の祝日すなわ ち祭礼、祝日について》の中で第 4 の年の祭りとして七夕について次のように述べている。 「第 4 の年の祭りは、7 月 7 日、俗に棚機(たなばた Tanabatta)または七夕(しちせき Sif Seki)という節句である。七夕と書いて“たなばた”とも読む。この祭りは、また頼むの 節句(たのむのせっく Tanomu wo Seku)ともいう。思うことを叶えて貰う節句という 意味である。普通の祭りの娯楽の他に、学童らはこの祭りに、背の高い竹を立て、これに 詩の文句を書いた短冊を下げたり、学校で習った手工細工を貼ったり、吊したりして楽しむ。 この日の祭りは、天界の夫婦物語の思い出の日でもある。(後略)」(上巻 p.387)さらに櫻 井哲男はヨーゼフ・クライナー『ケンペルのみた日本』 (日本放送出版協会 1996 年)の中で「ケ ・・ nchen 社から以下の 2 冊 ンペルが聞いた元禄の音」を論じている。最近では Iudicium Mu が最近発行されている。それらは明治初期のドイツ外交官の写真貼である“Japanische 18 愛知淑徳大学教育学研究科論集 第 3 号 Impressionen eines Kaiserlichen Gesandten, Karl von Eisendecher im Japan der Meijizeit“(2007 年)、およびドイツ人の観た幕末日本の版画、素描、写真集である“Unter den Augen des Preußen-Adlers:Lithographien, Zeichnungen und Photographien der Teilnehmer der Eulenburg-Expedition in Japan,1860-1861”(2011 年)である。 10.“Sechzig Jahre in Japan Lebenserinnerungen von Kurt und Hanni Meißner”(『日本で の 60 年回想録』)、1973 by Dr.Kurt Meißner,Hamburg 39 Germany。構成は 1885 年から 1905 年の Jugendjahre 時代からハンブルクの Die Jugendzeit、1914 年 8 月から 11 月まで の青島、1914 年 11 月から 1920 年 1 月までの松山および板東俘虜収容所時代、その後の東 京生活などについて論述している。 11.公事根源~室町時代に一条兼良によって書かれた有識故実書 全 1 巻。公事根源抄とも。 『国 史大辞典第 4 巻』(吉川弘文堂 1983 年)では、「室町時代の宮中を中心とした年中行事の あり方とその根源を記したもの」。『新訂増補故実叢書(吉川弘文堂 1951 年)では「天平 勝實七年にはしまるおをよそけふは牽牛織女ふたつのほしのあひあふ夜也烏鵲あまの川に きたりてつはさをのへ橋となして織女をわたすよし淮南子と申込にみえたり。(岩井註:え なんし=淮南王、漢の高祖の孫、劉安) 12.『日本民俗大辞典下』(吉川弘文館 2000 年)によると、「奈良時代ころに中国から伝えられ た乞巧奠(きこうでん)に由来する伝承が七夕行事の表層をなしているが、その基層には 水神を迎える祭儀が存在していた(中略)七夕とは本来、乙女と水神の聖婚をモチーフと する古代祭儀であったと考えられる。」としている。 13.新古今和歌集。勅撰和歌集。20 巻。1201 年(建仁) 14.延喜時代~ 901 - 923 年 15.『新古今和歌集 上』久保田淳訳注 角川学芸出版 2011 年 原 本 で 引 用 し て い る の は[Shin-Kokinshu IV, 29]、[Shin-Kokinshu IV, 31]、[ShinKokinshu IV, 30]、[Shin-Kokinshu IV, 32]、[Shin-Kokinshu IV, 36]である。 16.藤原長家~寛弘 2(1005)年―康平 7(1064)年。平安中期の公卿・歌人。太政大臣、藤原 道長の 6 男。正二位・権大納言 17.金槐集~金槐和歌集。鎌倉時代前期の 3 代将軍源実朝が編纂した歌集。延歴 3(1213)年成 立が有力と言われている全 1 巻。「金」は鎌倉、「槐」は槐門(大臣)を意味しているとこ ろから命名されたため鎌倉右大臣(源実朝)の家集とも。鎌田五郎は実朝について「實朝 は早くから京都風を愛し、元久元年(1204)12 月、京都公卿坊門前大納言信清の娘を妻に 選んだ外、和歌、蹴鞠、管弦等の都の生活様式を大幅に鎌倉に取り入れた。特に和歌を好み、 夫人を迎えた頃から作歌に手を染め、承元 3 年(1209)7 月、当時京都歌壇の実力者藤原定 家に師事して作歌に励んだが、實朝の特色は、定家とは別の方面に発揮された。家集に『金 槐和歌集』(別名『鎌倉右大臣家集』)1 巻がある。[『金槐和歌集全評釈』風間書房 1983 年 p.1 ] 18.鎌倉幕府発足は 1192 年。um1000 = 1000 年頃 『七夕:星祭り』:元ドイツ兵俘虜の日本文化論 19 19.『新葉和歌集』(國民文庫刊行會 明治 43 年) 原本では[Kinkwaishu, Herbst 13]となっている 20.久邇宮~旧宮家の一。明治 8(1875)年伏見宮第十九世邦家親王の第四王子朝彦親王が創始。 1947 年宮号廃止。(広辞苑第 4 版 1995 年)。ただ原本の 1917 年 7 月 8 日付読売新聞記事 は確認できていない 21. 『万葉集 上巻』伊藤博校注 角川書店 1997 年。原本では[Manyoshu Ⅹ、Herbst 57]となっ ている 22.マイスナーは俘虜として最初に松山の大林寺に収容されていて、その後四国の 3 つの収容 所が統合された徳島県板東に移った。板東は徳島市内から離れた田舎であった。 23.藤原長能~平安時代の歌人。<ながよし>と読む説もある。(中略)蔵人(くろうど)など を経て従五位上伊賀守に至る。歌人として多くの歌合せに出詠。特に花山天皇には、その 出家後も側近として仕え、『拾遺集』の編集にも関与したと考えられている。(中略)藤原 公任に自作を非難され、病を発して死去したとの説話も伝えられる。その歌風には技巧に とらわれない清新なものがあり、次代の新風への道を開いたとされる。『拾遺集』以下の勅 選集に 52 首が入集。」 (山本登朗) [『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社 1994 年 p.1455] 24.1917 年 7 月 3 日。原本では 1917 年 7 月 8 日付となっているが、7 月 3 日および 8 月 27 日 に七夕の記事が確認できている 25. 1917 年 7 月 3 日付読売新聞には「七夕は夫人のお祭で、紡績、機抒、染物、習字、琴など の上達を願ふ誠に床しい結構なことであると存じます。川を隔てた織女と牽牛が年に一度 會ふといういふ事は支那から来た話ですが、我國の七夕とは神代に天棚機姫といつて織抒 に巧みな神があった。、それから出た言葉でせう。(中略)竹を立てるゆはれはハッキリ解 りませんが、私の考へでは、平安朝時代に神社の前に忌竹を立てそれに白紙を飾りつけた 事から来て居るのではないかと思ひます。私が子供であった慶應時代には江戸では仲々盛 んなもので蓮の葉から銀のやうにほろへとこぼれる白露を硯にうけて、それで歌を書い たり、紙で造った豆腐や抒や糸、西瓜、色紙を重ねて切つた網、帳面、筆算盤、硯などい ろんなものをぶら下げたものです。」とある 26.移動式の琴柱を有していたかどうかは不明だが、一般的には琴柱を有した十三弦だと思わ れる 27.乞巧奠(きっこうでん)~『精選 日本国語大辞典第二版第四巻』では、「陰暦 7 月 7 日の 行事。乞巧は技工、芸能の上達を願う祭。もと中国の行事であるが、日本でも奈良時代以来、 宮中の節会(せちえ)として取り入れられ、在来の棚機津女((たなばたつめ)の伝説や祓(は ら)えの行事とも結びつき、民間にも普及して現在の七夕行事となった。」[小学館 2001 年 p.179)] また『日本語大辞典』では、 「陰暦七月七日の夜に行う星祭り。中国では牽牛・織女の両星に、 婦女子が手芸の上達を願う祭り。」[講談社 1989 年]とある。 28.中村春二~ 1877 - 1924 年。明治大正期の教育者。歌人中村秋香と母清子の次男として東 20 愛知淑徳大学教育学研究科論集 第 3 号 京に生まれ、早くから詩歌や絵を学ぶ。(中略)独特な東洋的理念と方法を打ちたてて、師 弟の「心の触れ合い」による「真剣な気分」の育成を教育精神とした。[稲垣友美『朝日日 本歴史人物事典』朝日新聞社 1994 年 p.1221] 29.梶の葉~古く七夕に七枚の梶の葉に詩歌を書いて織女星を祭った。(広辞苑 4 版 1995 年)。 佐藤勝明は、正岡子規の言として<七夕>の項目の中で「(前略)それは梶の葉を朗詠集の 間に挟んで置いたといふ事実だけがこの句に現はれて居るのだけれど、それはどこに挟ん で置いたかといふと、朗詠集の七夕の部の処へはさんで置いたのである。それが言はずと 知れるようになつて居るから不思議な句であると思ふ。」[内籐鳴雪・正岡子規・高浜虚子・ 河東碧梧桐 校註:佐藤勝明『蕪村句集講義 3 (全 3 巻)』平凡社 2011 年 pp.20-21 ] 30.藤原公任~平安中期の学者、公卿。四条大納言と称される。(中略)和歌のみならず漢詩に もすぐれていたことは三船の故事(『大鏡』)からもわかる。この時代を代表する文化人で 自信家で感情の強い人であった。(中略)清少納言や紫式部もその才に畏怖した。四納言の ひとり。有識故実にも通じ平安時代の三大故実書のひとつ『北山抄』を著した。私選集の 『拾遺抄』、歌学書の『新撰髄脳』『和歌九品』、秀歌選の『三十六人撰』などの作品が多い。 勅撰和歌集にも 90 首ほどとられている。[朧谷寿『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社 1994 年 p.1431] 31.Kenyogen は「掛け言葉」、Pivotwords は a play on words と同義か 32.原本では享保 17(1732)年とあるが、『世説愚安問答 3 巻』(出版社:金屋治助。国立国会 図書館『風俗資料集 全』フジミ書房)では寛保四甲子年とある。現代仮名遣いにすると <七月七日におんなの子供太鼓たたき小町踊りとて町々を歩く事>として「問七月七日に いとけなき女の子供太鼓をたたきおどること何という事ぞや 答七月七日は。七夕を祭る。 是も升にお沙汰のかたことにてはべれば 亦三十日おんなの子供篳篥太鼓を持ち美しく。 かざり出立太鼓をたたき小歌をうたい歩く(後略)」。 33.1917 年 7 月 3 日付読売新聞で文学博士関根正直は、<七夕祭りを薦めたい 戀歌を止めて 更に家庭的に 雛節句よりも亦更に詩的に>の中で「このお祭りは奈良時代から始まり、 以後次第に盛んとなって、江戸時代には五節句の一つにまでなりました。それ程のもの故、 支那から来た祭りとせずに日本の天棚機姫のお祭りとしたいやうに思ひます。」としている。 (前掲註 24 参照)またこれに先立って 1914 年 8 月 27 日付読売新聞では、<詩趣豊かな七 夕祭 優美な其の催し>として、「七夕の夕べには、宮人が式服で蹴鞠をする儀式が、徳川 時代までありました。又七夕を祭ると筆蹟が美しくなるといふ願ひも始まつて、つい近年 迄七夕祭は都鄙に盛んに行はれて居りました。(中略)五月の節句に俗悪な緋鯉や、黒い鯉 をバサへさせるよりも七夕に笹を飾る方が遥かに詩的だと思ひます。」と語っている。 34.『日本書紀』国史大系版の「日本書紀巻第二 神代下」では次のように記している。 阿妹奈屡夜。乙登多奈婆多廼。汙奈餓勢屡。多磨廼彌素磨屡廼。阿奈陀磨波夜。彌多爾輔 拖和拖邏須。阿泥素企多伽避顧禰。[吉川弘文堂 2000 年 p.68]ひらがな表記とすると「あ もなるや おとたなばたの うながせる たまのみすまるの あなたまはや みたにふた 『七夕:星祭り』:元ドイツ兵俘虜の日本文化論 21 わたらす あぢすきたかひこね」となる。 35.林啓介『板東ドイツ人捕虜物語』海鳴社 1982 年 pp.209-211 [原文中の註釈] 1.この 3 つうちのどれかの夢をみるために、枕の下に幸運の船の絵を敷く 2.金沢庄三郎は、中国でも 5 つの糸は棹の端にかけられていたと本のなかで述べている ・・ den an die Spitze von 題名=辭林 das man schon in China 5farbige Fa ・・ ngte Stangen(sao no hashi 棹の端 )ha 3.Florenz, Lit. Geschichte, S.460 参照 4.朗詠は和漢朗詠集を略したもので、日本と中国のすばらしい詩を集めたものだ。この歌本や その他の似た歌本から詩を選び、祝宴や祭りで披露された。Florenz, Lit. Geschichte, S.250 参照 5.Florenz, Lit. Geschichte, S.27 参照