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[PDF 2.2MB] 戦争責任を心に刻む_087_2011-03
戦争責任を 4 に刻む
第87号
2011 年3 月
編集高原惰
発行所加古川市加古川町木村434-3
h伽://www.biva・幽.oomlo狙!!!!!L 1
F
L&FAX (
(
J
7
9
)4
2
7
2
2
2
5
第五十一回 (2 月)例会報告
テーマ
大逆事件百年
発題犬伏宣宏さん
二十六名全員に求刑
大逆事件とは 1910 (明治 43) 年、天皇暗殺を
企んだとして社会主義者幸徳秋水ら二十六名が
事件の重みとその現代的意味について語ります。
例えば大石誠之助の場合、町全体が謹慎する
空気になり、遺族への圧力が大きかったといい
ます。反戦平和の空気を封殺する者空気あった J
のでしょう。
この事件をどううけとめるかについて、「もし
誰かが理不尽に攻撃されているとき、どっちの
側に立てるのか、それが関われているのではな
いかj という男性の声を新聞は紹介しています。
「科学的社会主義J を紹介した秋水
犬伏さんは、秋水が幼児時代に作った漢詩、
逮捕され、翌年秋水ら 1 2 名が処刑され、残り
田中正造の直訴状、秋水の著した「社会主義神
の 1 2 人は判決の翌日無期懲役に減刑された事
髄J ・「余が思想の変化」、石川啄木日記などを読
件です。
みながら幸徳秋水の像を紹介しました。
犬伏さんは、事件に連座した人物ゆかりの地
その中で、秋水の思想、の変化には興味深いも
を訪れ、遺族の子孫や関係者に会い、その面影
のがありました。無政府主義は悪くないとしな
を追いました。
がらも、「社会主義神髄J では科学的社会主義を
はじめに、犬伏さんは、二十六名の内、幸徳
秋水、菅野スガら数人を取り上げ、エピソード
を交えながらそのプロフィールを紹介しました。
逮捕者の中には、岡林寅松、小松丑治ら神戸
出身者もいましたが、出身地は、東京はじめ、
神奈川、大阪、和歌山、岡山、高知、熊本、な
ど広域に亘っていました。
「主義者j の根絶が狙い
次に犬伏さんは、中野好夫の一文を使って事
件の概要を説明します。
本格的に紹介しています。堺利彦と「共産党宣
言」を共訳していることも知りました。
深い調査に基づく研究内容、豊富な資料があ
りましたが、時間の都合で十分にお聞きできな
かったことは残念でした。(文責・高原)
(r発題J の後で〕
お話の内容についてのいくつかの質疑の後で、
この事件の意味について話されました。
社会主義を根絶しようとする意図があったに
せよ、それだけだったのか?すべての思想の自
当初関係者が 7 名と発表されていたのに、い
由弾圧の狙いがあったのではないか、という意
つの聞にか芋ずる式に拡大されたのです。検挙
見が出ました。政府に逆らえない空気を作るこ
者は無政府主義者、急進的社会主義者と目され
とが狙いだったんではないか、という意見も。
る者に及びました。そして僅か八ヶ月という早
さで事件をかたづけました。
天皇の権威を強める意図も働いていたのでは
ないか、と払う意見も。
当時の弁護人であった今野力三郎は、「予の最
韓国併合との関連はどうか。侵略への動きと
も遺憾とするところなり」と回想しているとい
の関連はなかったのか。軍国主義化・侵略への
います。
道の中での出来事だという指摘も。この点では
その意図は、元老山県有朋の宿志にあったと
いいます。いわゆる「主義者J たちの根絶です。
大逆事件の意味と重み
犬伏さんは「朝日新聞J (2 月 5 日)の「大逆
事件 1∞年を見つめ直す」という記事を示し、
十分な話が出来ませんでした。
NHK ドラマ「坂の上の雲」などで輝かしい明日
治というイメージづくりの中で、この事件を考
えて見る必要があるという意見も出ました。
〔文責・高原〕
<
時事寸感 48
>
忘れられたベトナム飢死の記録
君が代、ベトナム職争ーーー
~慶史からの逃避
伊東久雄
歌わない自由は
2011. 1. 28 東京高裁は君が代斉唱の際に「規律
や伴奏を強制する都の指導は思想・良心の自由を
保障した憲法に違反する j とした一審判決を取り
消し、都立高校教職員の請求をすべて退けた。
思えば、約 40 年前の現役時代、同じ社会科教
師らとともに君が代斉唱に反対し職員会議で斉唱
中止が決まった(校長が青ざめた)時があった。
北播の進学伝統高でも卒業式がくると、 f なぜ天皇
を讃える歌を斉唱させるのかJ と意見してきたが、
祝うべき式典にと反発された。定年前の職場で卒
業式予行にその斉唱を入れるようとする管理職に
抵抗し同志に呼び掛け中止させた。式当日、数人
の教師が不起立を貫いた。
の上にズラリとし並んでいるが死者を見たのです。
驚かずにいられませんでした。迎えのトラックの
上から果てしなく続くその、まるでイリコを干し
たような光景はショックでした。胸が締め付けら
れる思いでした。一一一ー死体をよけたりまたいだ
りして、市内の軍酒保に行くのです。そこには有
り余る山海の御馳走が安く飲食できるようになっ
ていました。ああ、この地獄に取り巻かれた中で
の痛飲飽食!サービスするベトナム娘はどんな気
持だったでしょう。一一J'"ベトナムへ派遣された
兵士の証言である(fベトナム“200 万人"飢死の
記録
1945 年日本占領下でJ
五月女勝元/大月
書店、 200 万人は誇張ではないと推定)
この地獄を著者は現地に行って取材、掲載した
飢餓のすさまじい写真は見るに忍びない。また、
資料から飢死の原因を探求している。フランス軍
私たちがこだわってきたのは民主主義にそぐわ
ないその歌詞と、軍国主義時代の役割からである。
そのような見方がある以上、「君が代は価値判断で
中立的ではない J
「私は紅河岬に移動していた中隊に帰る時、堤防
(東京地裁判決)。歌わない自由
は思想の自由である。
定年後, 99 年、国旗国歌法が制定された際、政
府は強制しないと明言、現在の天皇も「強制にな
るということがないことが望ましいですねJ と東
京都教育委員米永氏に表明している (04 年秋の園
遊会)。たしかにスポ}ツなど多くの市民がこだわ
りなく国歌斉唱のセレモニーに協力している。だ
占領、天災などもあるが、日本軍のコメ強制買い
付け、麻袋のためのジュ}ト栽培への強制転用が
なければあれだけの飢死はなかったと結論。戦時
自給できない食糧を日本はベトナムから輸入(戦
時中の外米を思い出す)、さらに輸出もされず現地
倉庫に山積み、 44 年 40 万トンの米を軍がおさえ
ていたが、 10 万トンあれば飢死は防げたという。
日本軍はベトナム人の抵抗力をそぐ意図もあった。
「南京虐殺の数倍に及ぶ恐怖地獄一一j この戦争・
人間の罪悪よ。ああ、この重い史実をどれだけの
日本人が心に刻んでいることだろう!
からといって、憲法の番人であるはずの司法まで
枯葉剤の傷跡
も歌いたくない少数者の想いを切り捨てたら、憲
法の保障する人権はどうなるであろうか。
1961 年から 10 年間米軍が散布した枯葉剤を浴
びたベトナム人 400 万人の傷跡の実例はショック
過日、例の f朝まで生テレビj でこの問題を取り
上げた司会田原氏が「侵略戦争のシンボルだった j
と言ったら、「有識者j の一人が f 日本が負けたから
だった。米軍帰還兵の夫がその障害を負って早死
した写真家坂田さんの活動記録を見た (201 1. 1
'
"
NETr枯葉剤の傷跡を見つめて~アメリカ・ベトナ
いけないのだJ といったのにびっくりした一一一。
.2.一
ム次世代からの問いかけ j) 。彼女が作った映画「花
する検定、「新しい歴史教科書j 等、かつての戦争
はどこへ行った」の映像や米軍帰還兵の娘で、
を正当化しようとする動きは続き、また歴史問題
枯葉剤によるのか先天的一本足の女性がベトナム
への無関心は増えている。
訪問した時のビデオに写された被害者は目を覆い
『太平洋戦争でアメリカは日本の J
たい姿である。今も奇形児は生まれてくる!
味方だった j
この作戦を決定した責任者はダイオキシンの猛
毒を知っていたはずである。アメリカでは 1991 年
エージェントオレンジ(枯葉剤)法成立後ようや
くその健康被害の調査が始まり、その後次世代に
も国から限られた補償がされるようになった。そ
の背景に帰還兵 4 万人から枯葉剤製造の化学会社
相手の訴訟、そして一人わずか 1 万円ほどの和解
金への不満があった(戦争を始めたアメリカ政府
相手に訴訟はできない制度がある)。
アジア・太平洋戦争についての正答率"", r その戦
争で、アメリカは日本の味方だった J
=91
.0覧「そ
の戦争での死者は日本の軍人、民間人を合わせて
24 万人に上った J =60. 邸「戦後の混乱を収める
ために治安維持法が作られた J =58.3% など 1994
年 15""'49 歳の戦後生まれ 400 人対象の博報堂
調査( r生活新聞J 第 210 号、 1995 年)の数字に
驚侍した。 (r 日本人の戦争観戦後史の中の変容J
吉田裕/岩波現代文庫参照)
戦後生まれの私の娘が「アメリカと戦争したの
さらにベトナム人も 37 の化学薬品会社へ訴訟
か」と不思議そうに言ったこと、この「時事寸感j
したが却下された。こうして、人生を台無しにさ
で取り上げた中国侵略の史実を教えてもらわなか
れたベトナムの庶民は放置されたままである。同
ったという元同僚の言葉など、その数字は現在で
じ枯葉剤犠牲者といっても、侵略した帰還兵と侵
もそう変わらないのかなと患ってしまう。世界・
略された民衆とは違うはずだ。こうして、アメリ
日本現代史へのこうした無知、教育の不在(少数
カの世紀の戦争犯罪であるのに、ナチスのように
ながら必死に取り組んでいる教育実践はある)を
裁かれず、戦争は「終わっていないJ 。
放置し「歴史からの逃避j が続く限り、アジアとの
『正当な自衛行為 J
友好も国際親善もないのではないだろうか。
65.2.16 衆院本会議で佐藤首相は北爆について
「ベトナムへのアメリカの報復爆撃はやむを得な
い措置j 椎名外相は 2. lO r これは正当な自衛行為j
と発言、さらに 66.6.14 衆院外務委員会「私はアメ
リカ自身が払っている犠牲、これをよく理解して
少数意見の権利
治安維持法下でも、日本の戦争の行く末を案じ、
その敗戦を予感した人たちがいて、学生にそれを
つい漏らした学者もいた。公然と反戦を唱えて
やらないと気の毒なんじゃないかいと思いますJ
勇気を出した人は牢屋にぶち込まれた。その後の
(佐藤首相)の言葉(前掲書より)等は日本人とし
歴史は極めて少数の人々の見通しが正しいことを
て恥ずかしくなる。第二次大戦後も日本の基地に
未曾有の犠牲を出して明らかにした。 100 年前の
よるアメリカ侵略の加担 30 年の歴史は国家、政治
家のウソを明らかにしている。
アジア・太平洋戦争終結から 3 7 年後に初めて
日中戦争は日本の侵略戦争であったという政府の
公式表明があった (82.8.6 衆院文教委員会、小川
平二文相)。しかし、歴史教科書問題を思い起こせ
ば、日本の侵略や戦争犯罪の史実をごまかそうと
大逆事件の犠牲者の遺族は戦後もなお差別と偏見
を恐れて暮らした。
大勢順応の日本社会で国歌を歌わない少数者排
除はどこへいくのか。権力・体制になじまない少
数意見の権利を保障することこそ、民主主義の基
礎であり自由な社会の保障である(
-3-
1
1
.2
.11
記)。
近代化・グローバル化の中のアジア第十七回
『フィリピン漂海民j
民族のはざまにただようひとびと
美野和夫
目路のかぎりにひろがるコバルトプル}の浅い海、珊瑚礁のかたちづくる穏やかな海面
がひろがり、紺碧の空と陽光のもとの完壁な半球のなかに人をとざす。海はあくまでも穏
やかに船をゆらし、人は浅い梅からウニを、ナマコを拾い、シャコ貝をすくいあげて食事
をすませ、小魚を突いては干物をつくる。水や薪がなくなれば、緑におおわれた島に漕ぎ
ょせ、ついでに船底を火であぶって手入れをする。そこでは時間は意味をもたず、人は自
然の流れにまかせて生きる。
「柔らかな、優しい南風が船尾へと吹き抜けていく。家船はゆっくりと左右に揺れる。
揺り能よりももっと心地よく揺れる。午後になり、潮が引いて膝ほどの浅い海の底に、珊
瑚の塊が見えるようになるまで、安らかな眠りの時間だo
浅くもなく、深くもなく、水にたゆとうクラゲのように眠りをむさぼる。・・・・夢の一
つもなく波に体をゆだね、南の風に全身を撫でられつつ、自分が今という瞬間から消えて
いくのを感じる。 j
「ここには完結した一つの世界があると思う。これ以上何も必要としない、自足の世界
がある。小さな無人島に漂流物のようにたどり着いた三人家族には、虚飾に向かって生活
を拡大する意思は希薄だ。また、これ以上に生活を縮小し、隠遁し、
ドロップ・アウトす
る意思もまったくない。夫婦が力をあわせ、この生活を維持していこうという熱い思いが、
自明のこととして、あるだけだけ
家船の主は 30 代とおぼしきマンジャールとプールンの夫婦と 1 0 代の娘メリンダ、た
だし彼らは自分たちの年齢を正確には知らない。狭い家船に居候している著者、‘オサム'
こと門田修は主人夫婦とほぼ同年代の日本人。‘オサム'は高校中退後、フリーのライター
として中東やアフリカで取材をしてきたが、
1980 年フィリピンとマレーシアの国境を
自在に往来する漂海民にであい、同年と 84 年の二回にわたって半年間かれらとともに暮
らした。そして‘オサム門田
修(もんでんおさむ)はフィリピンとマレーシアの境
界をなすスールー海周辺の人々について二冊の本をかいた。「フィリピン漂海民一月とナマ
コと珊瑚礁 J (1 986) 、「海賊のこころ・スールー海賊訪問記 J (1990) である。東
南アジアの海域にただようように生きる漂海民については、「なまこの目提J などの著書で故
鶴見良行氏もひとかたならず詳細に触れているが、門出
修は実際にかれらと生活をとも
にしたのである。いまや急速に消滅しつつあるが、陸地への定着性がきわめてひくく、生
涯を家族とともに海で過ごすひとびとがアジアの各地に点在した。
たん
香港などの中国沿海部で蛋民と呼ばれるひとびと、タイ・ピルマ国境付近のメルグイ諸
島のマウケン族、シンガポール付近のリンガ諸島などにも同種の人々がいる。なかでもフ
ィリピンのミンダナオ島と、隣国マレーシアのサバ州との間に位置するスールー諸島とそ
の周辺は漂海民の生活にとって理想に近い自然環境に恵まれている。赤道にちかいこの地
域は台風のふるさとではあるが、ひどい暴風雨に見舞われることはほとんどない、広く珊
瑚礁を発達させた浅海がどこまでもつづき、小さな家船でも安全に海をただよいながら漁
牛・
労をつづけることができる。フィリピンとマレーシアの国境も彼らにはなんらの障壁でも
なく、‘オサム'も彼らにまぎれていれば、皮膚の色といい、身体つきといい、海上をパト
ロールする役人に見分けられることもない。なかぱ自給自足でひっそりと生活し、たまに
干し魚をもって市場に現れるだけの漂海民はある意味、‘見えない民'なのだ。彼らは一般
にパジャウ族と呼ばれるが、著者の聞きとったところでは自称は‘サマ'であり、同じ地
域の陸上で農業を営み、漁業もおこなう‘サマル'族と近い関係であるらしい。スルー海
の住民には弛にタウスグ族があり、彼らはかつてのスルー王国の支配者であり、現在でも
地方の官吏、警察官、軍人等を占めている。土地と最小限の関わりしかもたない漂海民の
生き方は国家の支配から身を隠すために選ばれたものであろうか。
もちろんパジャウたちも外部の世界から隔絶して生きているわけではない、彼らの住み
暮らす家船もレパと呼ばれる帆と樟や擢だけで操る伝統的な工芸品のような船から、テン
ベノレというエンジン付きの実用本位の船に変わってきている。漂海民たちは何週間もかけ
てとっ士魚やナマコを船上で干物にし、マレーシアとの国境に近いシタンカイのような町
で仲買人に売り、燃料油や生活用品を買うのだ。パジャウのなかにも、町外れに杭上住宅
を建てて住み着き、現地名で‘アガルアガル'という、テングサのような海藻の栽培で生
活しているものもいる。著者にマンジャール一家を紹介したハッジ・ムサはバジャウのな
かでは珍しい大学出で、シタンカイの町で小学校の教師をしている。ハッジというのは名
前ではなくイスラム教徒で聖地メッカへの巡礼をはたした者に許される敬称である。もち
ろんメッカ巡礼にはそれなりの大金がかかる、筆者の聞いたところでは数年前にメッカ巡
礼のためにマレむーシアに渡ろうとしていたパジャウ族の船が持参の金を狙った海賊に襲わ
れたということである。
干物やアガルアガノレを買い取る商人の多くは華人である。彼らは金のないときにも掛売
り後払いで必要品を提供してくれる。パジャウの人々が買う日用品の多くも華人系企業の
製品が多い、榔樹印の老抽しよう油、ジョホール製の上庄自酢などなど、彼らの経済生活
は中華経演圏 k 深く結 r1ついているようだ。しかし、このシタンカイ周辺の経積牛.訴も決
してそう古いものではないらしいのハッジ・ムサの語るところでは、
20 世紀の初めに一
人の華人商人がシタンカイに家を建て、漂海民との取引をはじめ、ここを拠点に漁に出る
人々が増えた。しかし、戦争がおこり伺本軍がやってくると華人は去り、漂海民も海に帰
った。シゾツ島に住むサマ/レの老人は、「海に出ればたちまちスパイ容疑でっかまった。 j
と吐き捨てるように答えた。「三人の男が日の前の浜で斬首された j と、手を首にやったと
筆者は聞いている。戦後に華人が帰ってきて再び商売をはじめ、それとともに再び漂海民
たちも集ってきた。最近はアガルアガノレの栽培でますます人口が増えている。
漂海民の起糠ははっきりわかつてはいないが、パジャウの人々の間ではマレ一半島のジ
ョホール近辺から大きなエイにひっぱられてこの海域にやって来たのだという伝説がある
そうである u かれらの使用する家船はレパにせよテンベルにせよ、フィリピンで一般的な
アウト !J ガーを付けていない。とれも彼らの丙方起源をしめすものであるかもしれない。
-5-
唱
J
パジャウ族自身必ずしも家船による漂泊議業のみに従事しているわけではなく、マレーシ
アでは農耕を主とする人びともある会各地の漂海民の伝説には陸地での圧迫からの逃避を
かたるものが多いとしづ c 半農半漁の生活から遠隔の漁場へのくりだし、ついに家族ごと
船住まいをする漂白漁民となる経過はそれぞれの地域の歴史過程において異なる事情をお
っているに違いない。しかし、家飴居住の漂海民はそれを可能にする船や、後らの生活を
なりたたせる必需品を供給してくれる定住民社会との関係なしにはありえない。かれらは
ブィリヒ。ン社会ではスルー諸島のサマルやタウスグ、ミンダナオのヲナオ、マギンダナオ
などとともに全人口の 5% ほどをしめる少数派イスラム教徒であり、北中部のキリストー教
勢力からは十把ーからげに‘モロ'と呼ばれるが、同じ地域に住んでいてもその生活の形
態は全く異なるのだc
この項つづく
*円本にもほんの数十年前まで同じように舟住まいをする漂海民が実在した。羽原又吉
は 1 9
:i年の「漂海民(岩波新書・ OR 年復干11)で瀬戸内海や九州北岸の家鮎集落につ
いて記述している c 現在の広島県三原市の能地(ノウジ)と竹原市の二窓(フタマド)の
家船集落は内海各地に枝村をひろげた代表的な漂海漁民の集落であったo 彼らは幕藩体制
から明治国家への変動のなかで徐々に‘陸あがり'をつよめて、大戦中にほぼ消滅したが
戦後の住宅難生活難のなかで少数ながら船住まいに回帰する傾向も見られたそうである。
侵略と悲劇の口火を切った者たち(本題そのー)
何を心に刻むのか
ーある九条井戸端会蟻ー-
〈謀略はいつまで隠されていたのか〉
8
~廓最黒
日本国軍隊による中国東北 3 省(満洲と日本人は呼んでいた)侵略が、石原や板垣の主導
する現地の関東軍の謀略にによって始められたことには、今では誰にも異論はない。しか
し我々一般民が事の真相を知らされたのは、敗戦後、何もかも決着してしまった後の、実
に 2 0 年近くたってからだった。それも戦勝国による極東裁判の結果によるもので、しか
も、その極東裁判にしてからが、遂に下手人そのものを特定するに至らなかった。その時
点では、まだ、天皇を始めとする当時国のの関係者たちはひたすら口をつぐんでいた c 病
床訊閣を受けた主犯石原は、起訴さえ免れている。事件当時奉天総領事館勤務だった森島
守人氏は、極東裁判の証人台にも立ち、その後、昭和 2 5 年に、かなり詳細な回想記を執
筆している。が、そこでもまた\
“今日まで世上に明らかにされたものはない"として、
必ずしも事実ではない話を、真相だとして記していた。一般民から真実を隠蔽する政治は、
戦後にまで貫徹していたことに詮意を払っておきたい。以下、石原、板垣と共に、
首謀者の一人、花谷正少佐が、
1
95 5
年(昭和 3 0 年)
12
月号発行の誰誌に初めて自
供した手記の一部を若い人たちのために改めて紹介しておきたい c
・j -­
-園'- '
rJ
3 人の
昭和 4 年(
1929
年)
7 月以降、上記 3 入、毎週 1 、
2 回旅順借行社にて会合、計画
を練る。朝鮮軍参謀、神田中佐、計画に同意、朝鮮軍越境派遣のめど立つ。
事前に計画を明かしたもの
参謀本部
第一部長
ロシヤ班長
橋本中佐、
建川少将、支那課長
軍務局長小磯、
斉藤大佐
根本中佐
95%
90%
85%
陸軍省軍事課長永田大佐
H
支那車長
参謀次長二宮 50%
在奉天部援の中堅幹部(中隊長、大隊長)の、これはと見込んだ人物に計画を明かし同
志を固めていった。
帯助作業(ハルピン吉林等で爆弾を投げたりして治安悪化、救援要請を領事館に出させ
る工作)に甘粕予備大尉、
現場付近の警戒や連絡に使う大陛浪人など統率に、和田
予備中尉
賢金は内地から河本大作の手を通じて届いた
奉天独立守備隊中隊長河本末守中尉が自らレールに騎兵用の小型爆弾を装置点火。
1
0
時過ぎの列車が通れるよう、工共に計算させて、直線部分なら片方のレ←ルが少々の
長さにわたって切断されていてもなお、高速力の列車であると一時傾いて、すぐまた
走り去ってしまう。その長さを調べて爆薬の量を定めた。
これを、石原たちは、日本国の権益に対し中国軍からの攻撃があったとして、黒を白と
言いくるめ、責任を栢手になすりつけ、自衛のためのやむを得ざる反撃だと公言し、満洲
占領の実力行使を開始したのだった。
ここで今日では考えられない非常識極まる行為が、政府とマスコミの両方で同時に起き、
しかもそれがほとんど不聞に付されたまま今もまかり通っていることに注意を払ってほし
い。一つは、線路破壊という‘謀略'が発覚したとしよう。政治として(戦争も含む)ま
ずやらねばならないのは、戦闘開始だろうか。やられたらすぐやり返せ、それも 1 0 倍に
して。そうではないだろう。まず真相究明のための調査だろう。
3 年前の張作林暗殺のと
きには、曲がりなりにも陸軍は憲兵を動かしてそれをしているのだ。昨年 (2
010
年)
の尖閣諸島沖で中国船と日本船とが衝突した事件。あの時どちらかによって、すわ戦闘開
始、と短絡されていたら。いかに民族意識に様え、中国に敵意を織やす人でも、それは軽
率だと戒めるだろう。それどころか、その少し前に起きた韓国の哨戒艦撃沈事件は、北朝
鮮の挑発攻撃だとしか考えられないのに、時間をかけて、きちんとした調査を終えるまで
対抗措置をとらなかった、韓国人のあの冷静な対応ぶり。それに引き換え、あの当時の日
本国は、そういう良識ある大人の行動をとることさえ許さぬ政治状況にあった。その程度
の不自由で非民主的、排外的軍国的な国であったということを、これからの若い人にしっ
かりと説明しておかないと、まともな歴史認識を伝えることはできないだろう。
今一つは、明けて 193 1 年 9 月 1 9 日の日本の大新聞の朝刊、というより号外を見て
いただきたい。
‘〈奉天 1 8 日発至急報電通〉本日午後 1 0 時半北大替の西北において暴
戻(ぼうれい)なる支那兵が満鉄線を爆破し我が守備隊を襲撃したのでわが守備隊は時を
移さずこれに応戦し……。"電通は当時、連合通信とともに 2 大通信社で、大半の新聞は
-1]-
どちらかに加入してニュースを得ていた。大阪朝日は電通で朝刊を作った。(
1995
年
2 月 1 0 日朝日)
恐ろしいことではないか。石原等、現地で謀略を引き起こし、直ちに奉天長春などへの
侵略行動を始めていた関東軍の虚偽の広報文句を、当時の大新聞は、そのまま何の裏づけ
も取らず、唯々諾々と、まるで無邪気な子供のするように、全国の日本人に流したのであ
る。当時、テレビも、インターネットもなかった、ラジオの受信機を持っている家も限ら
れていた。新聞だけが情報源だった。せめて‘暴戻なる支那兵'のところぐらい、自分た
ちの取材で、自分たちの言葉で表せなかったものか。しかしそれがだめだったらしい。も
う一つの連合通信は、
配信が遅れスク
‘支那兵'に疑問をもって‘匪蹴'としたため検閲に引っかかり、
プ競争に負けてしまったという。そういう、近代化に遅れた、一種の北
朝鮮型の専制国家ったということも合わせて教科書で教えないことには、当時の真実が次
の世代に伝わっていかないと思うのです。
さて、元老西国寺公爵の政治秘書を勤め東奔西走していた原田熊雄男爵は、
の朝、号外を見て、事件を知った瞬間、
9 月 1 9 日
“いよいよゃったな"と真実を直覚した。幣原外
相も、予感が当たったと思った。中央の政治責任者たちの手には、満洲で軍がいつ事を起
こすかもしれぬ、と言う情況証拠は手に溢れるほど届いていた。それくらいだから、事件
の 1 月前、既に 8 月 2 1 日、若槻総理大臣は、南陸軍大臣を呼び、満蒙問題で、
(米英と
の)協調外交の妨げになるような越権行為を軍がしないよう懇々と注意を与えた。牧野内
大臣は、西園寺の支持も受け、
9 月の 1 0 日と 1 1 日の両日にわたり、陸海両相に対し、
軍紀を乱さぬようにとの、天皇直々の‘御下問,
に手配した。南陸軍大臣は、
議11 戒を受けている。
(事実上の厳重注意)、が成されるよう
1 3 日、興津に元老を訪れた際にも、満洲で自重するよう、
1 5 日、関東軍の不謡な動きを伝える総領事館電報に接し、幣原外相
は、重ねて陸相に厳重注意を与えた。それでも、出先の軍の参謀たちは暴走した。と言う
より、確信犯的に、着々と既定方針を敢行したのである。陸軍中央は止められなかった。
止める強い意志もなかった。その証拠に、天皇の自重命令を関東軍に伝えるのに、陸軍大
臣は、よりによって、石原謀略の存在を知り、彼らとの意見の違いは、実施時期と‘満州
国'独立の体裁についてだけであった、軍事解決再右翼の建川参本作戦部長を派遣したの
である。すぐに彼から、現地と連絡密な橋本に伝えられ、
‘ばれた、計画実行日を繰り上
げられたし'の電報が飛んだ。建川は、到着した 1 8 日夜、命令を伝えもせずに、関東軍
の接待で、旅館で酔い潰れていた。
今日の議会制民主主義国の常識からすれば、首相、もしくは大統領は、国軍の最高司令
官の立場からも、このような陸軍大臣をこの時点で直ちに罷免し、政府の方針が軍の末端
にまで行き渡るべく、必要な措置をとらなければならない。今日日本を含む民主主義国で
は、そうしないと、決断力がない、閣内不統ーだと野党に攻め立てられ、引いては有権者
の信頼を失い、行きづまり、内閣総辞職というのが常識のようになっているから、あとで
詳しくみるように、一向にその決断を下せない若槻首相の優柔不断ぶりを知った当時の事
情を知らぬ一般民は、すべての責任は彼のリーダーとしての決断力のなさにあり、と即断
してしまいがちになる。そしてアメリカの大統領の決断力を引き合いに出すことだろう。
一一 g 一一
かつて、太平洋の覇権を巡って日米つばぜり合いのさなか、アメリカ大統領ルーズベルト
は、まだ対独戦争に踏み切っていない段階で、対英武器援助を大幅に増強しようとして、
ウッドリング陸軍大臣の執鋤な反対に直面したとき、直ちに彼を罷免し野党の重鎮であり;
ながら、対英援助に積極的な共和党のスチムスンを後任に選んだ。朝鮮戦争中、トルーマ
ンは、大陸反攻を画策するマッカーサ一極東軍司令官を罷免した。最近でも、オバマ大統
領は、政府方針を批判したという理由でアフガン駐留軍司令官を更迭している。
しかし悲しいことに、当時の日本の首相には自己の内閣の大臣に対してそうする権限が
なかった。組閣のとき、閣僚名簿を天皇に提出はするが、総理の権限はそこまでなのだっ
た。大臣は、一人一人が直接天皇によって任命されるのである。責任は任命責任者である
天皇に対して負っている。自分の内閣の閣僚が総理の方針に異を唱えると、総理は、従わ
ぬ閣僚に辞職を勧告はできる。が、彼を罷免はできない。だから、拒否されると、内閣は
直ちに行きづまる。自分の方が、つまり内閣総辞職するしかないのが、戦前の大日本帝国
憲法下の決まりだった。そういう事例はいくらでもあった。後には、軍部は、それを利用
して意に背く内閣をつぶした。逆に、あの独裁者といわれた東条内閣は、岸商工大臣一人
の辞職拒否によって退陣に追い込まれた。ただし、大日本国憲法の下でも、手段はあった。
日清戦争時、大本営の決定に公然と反対し戦争拡大の危険を犯そうとした、第一軍司令官
山県の更迭を伊藤首相は天皇に進言し、天皇は勅使を派遣して、山県を帰国させている。
国軍の最高司令官は大元帥の天皇である。伊藤は陸軍大臣を飛び越して、天皇を動かすこ
とができた。(大江志乃夫「日本の参謀本部 J )若槻首相にはそうするとができなかった
のか。若槻総理は、面従腹背する南大臣と一緒に難局を切り抜けていくしか選択肢はなかっ
たのか。(以下次号)
以来掬鵬胸元元元
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一一中国の大地から (49)
猪股晃(大連理工大学日本語学科外籍教員)
(一)
日本旅遊新熱点
2010 年 7 月、日本を旅行する中国人個人客向けピザの発給対象が拡大された。従来は
年収ポ 25 万元(約 340 万円)以上であったものが、 6 万元(約 80 万円)にまで引き下げ
られた。もっとも、この条件でも私の年収では個人で日本には行けないのだが。
2008 年冬に公開され大ヒットした恋愛コメディー映画「芽誠勿擾(邦題:狙った恋の
落とし方) Jは、北海道でのロケシーンをふんだんに散り Ifi;浮箇人に一大北海道ブー
ムを引き起こした。 2010 年冬に続編も公開された。上海の金持ちはこのロケ地を巡るた
め、数人でチャーターしたジェット機を直接千歳に乗りつけたと言う。
そればかりではない。当地の中国人向け日本情報誌 WORANGE~ (vo1. 24 、 2010 年 12
月号)には、恐れ入った日本ツアーの広告が載っていた。中国旅行社総社主催である。
一つは「日本不動産視察旅行j 。五泊六日で東京や箱根を巡るツアーである。初日午前
中、大連一東京一横浜と移動し、午後は一戸建て住宅や投資用マンションを見る。二日目
は午前中鎌倉に遊び、午後、オーシャンビューの一戸建てやマンションを見、箱根泊。三
日目は午前中箱根観光後、現地の別荘やロッジを巡る。四日目は御殿場のアウトレットで
買い物した後東京に戻り、次いで皇居が見下ろせるマンションや、投資目的のマンション
や店舗を見に行く。五日目は、ディズニーランドで遊び、次いで秋葉原と銀座でお買い物、
翌日帰国する。東京や周辺で不動産を購入するための下見ツアーである。
日本で不動産を購入するメリットは、外国人でも簡単且つ自由に購入でき、しかも所有
権が永久に認められていることにある。中国で認められているのは、 30 年という期限付
きでの土地使用権である。また、日本では社会や法制が安定しているので、突然制度が変
更される恐れもなく、キックパック率も魅力的だからだそうだ。この五泊六日のツアーの
お値段は、 23 , 800 元。パンフレットを見ていると、まるで皇居さえ買えそうである。
第二は、「日本健康養生美食之旅」である。東京入りして二日目全日及び三日目午前中
が、日本医科大学での健康診断である。日本で世界最新の人間ドックに入ることが i匝い文
句であり、特に各種腫壌の PET (陽電子放出断層撮影)がウリである。中国の病院にはそ
のための検査機器自体が少なく、あっても予約しづらく、費用も高いとし、う。加えて検査
結果が正確であり、プライパシーの保護や人に優しいサービスも強調されている。
なるほど。以前北京大学附属病院の秘尿器科に通院した際のこと。男女の別ない診察室
の外に患者自身で自分のカルテを受付順に並べる。カルテは患者が各自保管するものなの
だ。待p 時間が長くなるにつれ、患者が暇つぶしに並んでいる他人のカルテを読みだした
りする。診察室に入っても、自分の番が近づいた,患者が、これまた男女を問わず、まだか
まだかとひっきりなしに扉を開け閉めする。プライパシーもへったくれもない。
さて、検査内容は以下の通り。身体測定と採血に始まり、腹部エコー、心電図(安静時、
運動時)、 PET、 CT (コンピューター断層撮影)、脳の MRI (磁気共鳴断層撮影)及び MRA
(磁気共鳴血管撮影)、心臓の MRA 、デジタル・マンモグラフィー(女性)、頚動脈と甲
状腺の超音波、 ABI (動脈硬化症測定)、聴力、肺機能、鼻からの胃カメラ(これは本当
に楽だった)、眼科、耳鼻科、泌尿器科及び婦人科、そして睡眠時無呼吸検査などを行う。
最後に、内科医が検査結果をまとめて説明してくれる。オプションで心臓冠状動脈造影、
大腸内視鏡検査なども可能であり、大腸にポリープがあれば即時切除するとある。もちろ
ん、全てに専門の通訳がつく。
このツアーは同時に「美食」も謡っており、検査日以外には、和牛ステーキ、北海道産
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ロ禾竺豆法式日本料理.打破侍続日餐的理念。
ロ首先MiI'境中僧品H西餐的典雄,簡約, .予遺;原料
除目..中的生鮮,更精遺書.Jf干、大野、高級安格斯牛
排等,在鉄板よ格其口感寛美的呈現。而与之猪配的
酒精美,也不再単糟挽智子日本清酒和焼酒,各科年
倫的紅漕.威士忌,,*尾酒.抗如酉式漕昭般宇宙,
情満途小淘.在遺墨是.:相怠砲。
持“青~ii.浪記t" , t 広告量虐豆4金制緩(Þi 莱生存,党然綾少渇棋不億総子局.t:愈ー甚豆, }骨了
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喜本卒論許模薬議
日期:2011 年2月 6 日 l星期日 )-2月 11 日(星期五) /5晩6天
電器 23888
含筆首E費用、ー名領臥、金程机豪、寺用車費、金程住宿最高怨酒店双縁伺、叢隼餐餐襲。
日程可以変更.限定人敏.不動F視察肘. I'J!!if.投資用房.公寓等可以自由迭揮。
拷肉・火縞・筒終
長白;火領、白書,尽在大室ー家。
コ大宝一家毎天免忽精心7住缶了美味的姥肉、火領、債
餐,満足怒的味奮。
þ ,期待費事的光l悔。
e
実此券可抵値 20 完
カニ、高級鰻料理、高級中華などが昼夜のメニューに並んでおり、いづれも中国人の大好
きなバイキング方式である。ドックに来て、「胆固醇(コレステロール)J を増やしてどう
する。これに加えて、東京、富士山及び箱根も観光する四泊五日である c お値段締めて
32 , 800 元也。他にゴルフやエステの旅もある。
(二)
I噴老族
私の記憶では、この言葉が中国の政治的テーマとして初めて取り上げられたのは、 2003
年春の両会(全国人民代表大会と政治協商会議)だったと思う。「腔醤り J 、「パラサイト J 、
「ニート J などの意である。 2010 年 10 月 27 日付『大連晩報』が当地の「晴老族j につ
いて報道していたので、かいつまんで紹介しよう。
両親とも大学教授、娘は有名大学を卒業した。両親が仕事を探してやり実習を始めたが、
同僚とi いざこざを起こし、二日ともたず辞めてしまった。その後両親のコネで再び就職し
たが、同僚から馬鹿にされるということから、これまたすぐに辞めてしまう。両親は元々
娘が就職したら離婚するつもりだ・コたが、こうしづ状態なのでそうもいかない。以後、ロ
を酸っぱく説いても住事しようとせず、一日中家でブラプラ。昼はひたすら寝ており、夜
はネット三味、髪すら杭かそうとしない有様。メル友はし、るが、現実社会の友人はいない。
両親が自分たちが不仲なことを娘に気兼ねし、欲しいと言うものは全て与え、あらゆるこ
とを娘に代わりしてあげてきたことが、こういう結果を生んだのだと分析する。
今一つの例。ある男性は大学卒業後八年間、思ったような仕事が見つからず、ずっと無
職、両親の腔を留って生活してきた。だがこ年前に結婚し、子供も生まれた。当然自分で
はマンションなど買えないので、両親のマンションに三人とも暮らしている。金がないこ
とから、しょっちゅう夫婦喧嘩。思い余った両親が、居民区の書記に相談に来た。その居
民区の家庭の 10% は rl特老族」であるとのことである。
こうした「晴老族j は r80 後 J 世代に集中している。 r80 後 J とは、 1979 年に一人っ
子政策が導入されて以降、八十年代に生まれた世代を意味する。一人っ子だと言うことか
ら、両親や祖父母に溺愛され、わがままに育ってきたという特徴がある。両親も一定の経
済力を有することから、欲しいものは何でも手に入り、物質的に恵まれてきた。彼らは高
等教育を受けてきたが、卒業後、患った仕事が見つからない、仕事したくないということ
から両親と同居し腔を留り続け、パソコンばかりを相手にしているのだという。現代中国
を象徴するキーワードの一つである。
同紙は、 rl情老族J の両親の「寛容j さもそれを許していると言う。自分の子供がパッ
とした仕事に就けないとなれば、子供の人生に怠味がなくなり、大学を出たことも無駄に
なってしまう。だから、子供が真つ当な佐事に就くまで面倒を見てやろう。子供が仕事し
たくないとしたら、追い出すべきなのではないか。いや、そんなことして、世間で悪事を
身に付けてしまったらどうするのか。我々には子供にマンションを買ってやるだけの能力
まではないのだから、子供が佐事もせず、結婚して我々に頼ろうとしても、それは彼らだ
けの責任ではないのだ。両親はこう考えてしまうのだそうだ。
だが思うに、大学を卒業したような子供にまでこうした生活をさせてやれる条件を、両
親が有しているということでもある。つまりは、両親に子供に醤らせ得る腔があるという
ことだ。経済的にも、考え方からも。
おや、社会主義社会では、「働かざる者、食うべからず」だったので、はなかったの。
中国人は、金ならある
(2011 年 1 月稿)
一 12 一
【三光作戦】
戦争費径を 4 に刻んで(ニ)
このことに関して、私が訪問し証言を得たの
は、撫順の平頂山事件、ハルピンでの七三一部
高原惰
隊の逃亡時の罪業だった。
第 1 話歴史教科書では
三光作戦については、全ての教科書に記載さ
これから訪ねる「被害」の証言者が語る事実
について、高校の日本史教科書ではどのように
れているが、「焼きつくすJ r殺し尽くすJ
書かれているだろうか。
尽くすJ という「三光J の説明は出ているが、
上記の事柄については取り上げられていない。
取り上げた教科書は、次の五社。
『言撤
日本史.Ð (山}I f)、 r高等学校
r奪い
山川版ではこうである。
日本史 B.n
一一日本軍は、抗日ゲリラに対する大掃討作
(清水)、『日本史 B.n (.三省堂)、『日本史 B.n (東
戦(中国側はこれを三光作戦とよんだ)を実
京書籍)、『日本史 BJJ (実教)。
しかし、本稿では、最も多く使用されている
施し、←般住民にも多大の被害を与えた。
とされる「山川版」をベースに、他社も眺める
註中国戦線では毒ガスも使用さ札粉H
におかれた日本軍施設では毒ガスや細菌兵
ことにする。
日本軍国主義は、アジア各国を侵略し蛮行を
器の研究が行われた。満州のハルピンには、
犯してきたが、本稿では、私が訪ねて証言をえ
731 部隊とよばれる細菌戦研究の特殊部隊
た次の事項である。
(石井四郎中将)がおか才し中国人やソ連人
南京大虐殺・平頂山事件・七三一部隊(中国)、
の捕虜を使った生体実験カ情われた。
他に七三一部隊については東京書籍版が少し
従軍慰安婦・提岩里事件(韓国)、マニラの放火・
日本軍の蛮行(フィリッピン、シンガポール)、
触れている。
泰緬鉄道強制労働(タイ)、集団自決(沖縄)、
【従軍慰安婦】
従軍慰安婦については、山川版は、強制連行
中国残留日本人孤児(日本)。
その他、証言はないが、日本軍の蛮行の現場
について述べた本文の「註j の中でこう記す。
をいくつか紹介したい。
また、戦地に設置された「慰安施設j には
【南京大虐殺】
朝眠中園、フィリッピンなどから女性が集
上記の教科書全てが記載している。
められた(いわゆる従軍慰安婦)。
山川版は、本文で、日本軍が「国民政府の南
京を占領したJ とあり、欄外の註にこう記す。
なお、従軍慰安婦についてはどの教科書にも、
その存在については触れているが、実教版では、
占領から 1 ヶ月余りの問、日本軍は南京市
〈主題学習〉というコラム「日本植民地化の台
内で略奪蛮行をくり返したうえ、多数の中国
湾・朝鮮の人々 J の中でかなり詳しく取り上げ
人、一般住民(婦女子を含む)および捕虜を
ているのが注目される。
殺害した事件(南京事件)なお、外務省には、
【東南アジア地域での加害】
占領直後から南京の惨状が伝えられていた。
私が訪問したのは、フィリッピン・タイ・シ
南京事件については、他の 4 社とも、記述の
ンガポールだった。山川版はこう記述している。
分量に多少はあるが事実を書いている。
欧米列強にとってかわった日本の占領支配は、
犠牲者の数についても、山川版、三省堂版、
アジア解放の美名に反して、戦争遂行のための資
東京書籍版、実教版ともに触れている。中国側 30
材・労働力調達を最優先するものだったので、住
万人、日本側十数万人と併記している。
民の反感・抵抗がしだいに高まった。東南アジア'
三省堂、東京書籍、実教は「蛮行J の内容に
ついては具体的に記している。
の占領地では、現地の文化や生活様式を無視して、
日本語学習や天皇崇拝、神社参拝、を強要したり、
一一 13
-
鉄道建設などの土木作業や鉱山労働への強制動員
れた J 、「強いられた」とある。この記載につい
も行われた.ことにシンガポールやマレーシアで、
ては、文部省がクレームをつけた。
は日本軍が多数の中国系住民(華僑)を反日活動
の容疑で虐殺するという事件も発生した.
他社の教科書でも、ほぽ同様の記述。清水、三
省堂版では調達した資材を具体的にあげている。
その他、清水版には「軍票J を乱発したことに
触れている。
【中国残留日本人弧児】
満州国を開拓するため、政府の呼びかけで満
蒙開拓団、満蒙開拓青少年義勇軍が募られた。
その他、日本軍による住民への「加害j とし
て、乳幼児殺害、スパイ容疑や戦闘の邪魔とい
う理由での虐殺事件がある。三塁堂版、東京書
籍版、実教版はそのことに触れて iる。
【教科書に書かれていない f加害j と「被害J 】
国民にとってみれば、あの侵略戦争では、侵
略者という「加害者J の側面と同時に、戦争に
巻き込まれたという「被害者J の側面がある。
前掲の「中国残留孤児」はその例だ。その他、
ところが敗戦は彼らを悲劇に陥れた。これにつ
「中国残留j 問題でいえば、中国人と結婚した
いて山川版は欄外の註でこう記している。
「中国残留婦人ム日本軍から見捨てられた「中
侵攻するソ連の前に関東軍はあえなく壊
滅し、満蒙開拓移民をはじめ多くの日本人
国残留日本兵士J の問題がある。
また、「シベリア抑留 j 兵士・開拓団も忘れて
が悲惨な最期をとげた。また生き残った人々
はならない。この問題は、侵略者だった「加害」
も、引き上げに際してきびしい苦難にあい、
の側面と「抑留者J となった「被害j の側面と
多数の中国残留孤児をうんだ。
が重層している。
この件について、他社の教科書では開拓団が
作られたいきさつにも触れている。実教版では、
開拓団の逃避行の中での集団自決などの悲劇に
触れているし、三省堂版では、「入植地の多くは
日本が強制的に買い上げた中国農民の土地であ
ったJ と記している。
残留孤児問題は、日本国との関係では「被害
これらの緒問題については、教科書には書か
れていない。
【訪れた歴史の現場】
「被害者j からの証言はないが、韓国でいく
つかの歴史の現場をたずねた。
三一独立運動の起点パゴダ公園、提岩里事件
の提岩里教会、光州学生事件の現場光州、関妃
者J 、中国との関係では「加害者j という被害と
暗殺現場を訪問した。その内、三一独立運動、
加害が重層した問題なのだ。教科書にはその指
関妃暗殺については教科書にある。その他の事
摘はない。
項については書かれていない。
また、残留孤児の帰国後の軌跡についても、
教科書もはいない。
【沖縄戦】
【「事実は小説より奇なり J 】
教科書や書物で学ぶことは活字のインクの臭
いがする。それは確かに論理駅理解を助ける。
この項については、山川版には、本文での事
事実を感性で捉えることでよりリアルに深く理
実経過の他に、囲み記事の「沖縄戦J というコ
解できる。証言を語り伝えるのも、歴史の現場
ラムがある。
に立った実感を伝えるのもそういう意味を持つ。
一般島民にも甚大な被害が生じた。日本
軍将兵と島民は本当の南端に追いつめら
れ、看護要員の女学生たち (rひめゆり部
「事実は小説より奇なり j と思えるのは、「生j
の声で語られた時だ。
しかし、個々の証言や、体験談は、「個別」で
隊J) の悲掘や、日本の島民に対する残虐
あり「特殊j であるため、「一般性J や「普遍性j
行為・集団自決の強要などが生じた。一一。
に欠けることがあることも事実である。とは言
どの教科書でも、集団自決については「強要さ
え、「生j の声での「証言J は重い。
;4-一
《清涼~,浪》米議会付属議会調査局が、憲法九
【編集後記】
条が日米防衛協力の障害になっているとの報告書を出
女87 号をお届けします。今号は力作が多く、各稿の分量が
していることが分かった。米国が攻撃を受ける局面で
多くなり. 16 ページになりました。玉稿を戴いた生嶋、伊
も日本は何の対応も出来ない、と懸念V米国とともに
東、猪股、美野の各氏に御礼申し上げます。
「戦争J する上で「足かせJ になっているという。こ
女例会の回数も、 2 月で 51 回を数えました。内容も、体験
れまでもいろいろプレッシャーがあったが、これは露
の証言、問題提起の発題、読書会、ビデオ鑑賞、パネルディ
骨だ。いよいよ「本丸,攻撃J に!~憲法をどうするか
スカッションなどいろいろな企画をしてきました。今後とも
ということは、日本国民が決める問題であり、外国で
ご提案を期待します。
ある米国がとやかく言うのは内政干渉である Vそれに
*また、体験やエッセイなど、皆様からのご寄稿をお待ちし
しても、そんなことをのうのうと米国にいわせる日本
ています。
政府は情けな!r~~米国が海兵隊には日本防衛の任務は
唱を「会J のご案内を久しぶりに掲載しました。できるだけ若
ないのに、日本政府は、日本の「抑止力J になると、
い世代の方たちにもお勧め頂ければと思っています。
多額の「思いやり予算」と基地提供。この「お人好しJ
*最近、侵略戦争を肯定する論文を書いた多母神俊雄氏が中
と「忠米」ぶり V 日米安保で「外堀j を埋め、自民・
高生をはじめ青年層を対象に講演会を聞き、盛会だったとい
民主両政権を水先案内人に。世論と政権の迷走で、思
います。ターゲットは 21 世紀を担う若者たち。軍国青年育
うようにならぬ状況に米国は苛立ち ~r政府の行為に
成をねらっています。その意味でも、若者たちに平和を愛す
よって再び戦争の惨禍がおこることのないよう J にと
る心と力を受け継いでもらうことが大切出はないでしょうか。
あるが、日米同盟の下では米国の意思が大き!r)~天皇
この「会」が「草の根」の力になればと思います。
のためが、米国のため。米国の「正義」、「抑止力J の
*4 月は例会でお会いしましょう。空襲について考えてみた
ため、日本の若者を、子や孫たちを戦場に送りますか。
いと思います。多数ご参加を。(た)
そのために九条を「放棄J しますか。(た)
第五十二回 (4 月)例会のお知らせ
テーマ空襲の論理と倫理
ーーする側とされた側の思い一一
発題
杉島資弘さん
(元高等学校教諭)
あの戦争では.日本各地は空襲を受け、多くの人命
と財産を失いました。日本も空襲を仕掛けました。
空襲体験を通じ、する側はどう思い、された側はど
う感じたか、戦争とは何だったのかを考えます。
日時
4月 9 日
(土)
Pm1 :30-
会場神戸市総合福祉センター (4F 会議室)
(
0
7
8
)351-14倒
JR 神戸・高速神戸下車北湊川神社西
会費
主催
¥ 500
「戦争責怪を叫に刻む J 会
(
0
7
9
)4
2
7
2
2
2
5 (高原)
協力
-:s-一
日本中国友好協会兵庫県連合会
第二十回
「戦争費径を叫に刻む」舎の紹介 (2011 ・ 1 改訂}
05 ・ 12
r戦場
この現実 J
t亘書・織国
第ニ十ー回
06 ・ 2
r平和
第ニ十二回
06 ・ 4
r子どもたちは戦争をどう受けとめたか」
第ニ十三回
06 ・ 6
r~戦争責任を心に刻む』とは何か」
r腕争責任を心に tlJ む」とは、歴史の「負」の遺産を担うことです.
第ニ十四国
06 ・ 8
r在日を生きる」
それは、『政府の符為によって再び軍司争の惨禍がおこることのないやうに J するために、
第ニ十五回
06 ・ 10
わたしたちひとりひとりが、あの侵略車U.. を省み、「戦争責任J を心に jlJ み、「か嘗」の事
第ニ十六百
06 ・ 12
実を見つめ、平和を守るために何をなすべきかを考えることです.また、「戦争体験」を
第二十七回
07 ・ 2
風化させることな〈、次の世代に悟り伝えてい〈ことでもあります.
第ニ十八百
07 ・ 4
第ニ十九回
07 ・ 6
r 中.国残留孤児は悟る」
連絡先
〒 675-0038
加古川市加古川町木村 434-3
高原方
.&FAX
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5
それぞれの思いを語る」
証言・織田
この舎は、 2∞2 (平成 14) 年 10 月 lと第ー留を聞きました.
この舎は、「戦争責任を心に刻む」という立場から、戦争と平和の問員置を考えることを
目的としています
以ょの処旨 1:: .関される方なら、思想信条を問わずどなたでも多ができます。
文様、坂本
..和
事告題・原谷
勉
吉正吉・孝
明淑
証言・宮本政憲
r 中国軍の捕虜となって」
章正吉・綱-*
守
r 中国人から見た日本今普」
害警題・張
福.
.
r戦争体験から戦争責任を語る」
柾t" '.事国博
いま
マスコミを問う」
満子
久雄
この会は、会員制はとりません.会報の蛾者、寄稿者、例舎の多加者で運営します。
第三十四
第三十ー四
σ7 ・ 10
r今こそ『退屈』から『楽しい平和敬育』へ」
発想・本田
芳.
.
第三十ニ因
。7 ・ 12
r純後世代の〈責任〉とは」
発足・溝関
車協
第三十三回
08 ・ 2
r従軍慰安婦〈ナヌムの家〉を訪ねて」
報告・国貿
由美子
第三十四国
08 ・ 4
r 中国最後の滋検地に日本人名学校関根」
報告・織田
文雄
第三十五回
08 ・ 6
r激臓の普網を越えて」
担 w ・量童疎
扱
第三十六回
08 ・ 8
r アメリカと日本を考える」
発題・伊東
久稼
第三十七百
08 ・ 10
第三十八回
08 ・ 12
r戦争はまだ終わっていない」
第三十九回
09 ・ 2
r 山西省で日本軍は何をしたか J
会の主な活動としては、会誌「檎争責任を心に動j む J (稿用刊・奇数月)発行、例会 8
偶数月第ニ土唱日午後 1 時半開会)、車奇跡訪問です.
【これまでの取り組み】
r 青年が考えている戦争と平和J <パネルデイスカッショシ〉
自宮戸商
02 ・ 10
月中国人強制連行.1 -(岩波新書)を被むJ
発題・禽原
第ニ回
02 ・ 12
r神戸空挺・招集・ソ連抑留」
板宮・羽根旬牽四郎
第三回
03 ・
2
r ビデオ健貧 J21 世紀への遺書.o J
司会・高原
第四回
03 ・
t正曾・板-*-軍司
第四十四
03 ・
4
6
r私の体験から戦争を悟る J
第五回
r私が軍国少年だった頃』
根言・畑
第四十一回
09 ・ 6
r20 世犯の〈負の遺産〉を旅して」
発題・根津
茂
第四十ニ回
09 ・ 8
r 中学生が〈田母神論文〉を械むまで」
発建・本田
芳寺
証言・字大腰、木村耕ー郎、内場米次郎
第四十三回
09 ・ 10
r軍隊を捨てた固ーコスタリカから考える」
証言・今井手司書量、砦井直医
第四十四国
09 ・ 12
r 皇軍兵士の日常」
佐官・新聞智照、内樋米次郎
第間十五百
10 ・ 2
第四十六回
第四十七回
第四十八四
第六回
03 ・
第七回
03 ・ 10
「植民地の中の日本人J
第八四
03 ・ 12
rl 2 月 8 日をどう迎えたか」
第九四
04 ・
8
2
備
n戦争で死ぬ、ということ n (岩波斬書)を続むJ
極官・宮島
害者題・伊東
舎の運営費は、例会参炉"の多量w 賓と有志の任意によるカシパです.支出内容は、会場
使用料、会報印刷費'.浪費、その他資料代等です.
07 ・ 8
文雄
参か者
術
逸郎
r 日本にとって 8 ・ 15 とは何かJ ー在日制鮮人と日窓人
「教育紛憶の下で一教師として生徒として何を教え何を学んだか」
経書・内..喜美子、大野亮三
第十回
04 ・
4
「ジャーナリズムと戦争責任」
極言・友成
光吉
旗官・水田
会ー
第十ー回
04 ・ 6
「戦争責任と宗教の役割」
第十ニ四
04 ・ 8
r8 ・ 15
第十三回
04 ・ 10
r<靖国参拝〉を向う--*,没者の慰霊とは何か J
第十四回
04 ・ 12
「軍司争体験と記憶を由寄るーそれぞれにとっての職争」
第十五回
05 ・ 2
in 中国・朝鮮J
証言・小林利幸四
そのとき子どもたちは」
報告・岡郎忠夫、西村佳久)
報告・弁山和霊
証言・織田
文雄
r 五十年目の機場と五十年前の戦場J
報告・*木蓉子
10 ・ 4
r戦場
舞廻・蟻田博
10 ・ 6
r 一分ちがいで残留孤児にー満州脱出記」
"e!言・高崎裕士
10 ・ 8
r綜困のヒロシマ」
報告・本田
10 ・ 10
10 ・ 12
その真相は」
芳孝
r戦織から友好の花園へ」
報告・織田
文雄
r戦争協カ者だったマスコミ J
発廼・友成
光吉
発題・犬伏宣宏
11 ・ 2
r 大逆事件
第五十ニ留
11 ・ 4
「空襲の犠牲を語り継〈・J (仮処〉
第五十三回
11 ・ 6
「満州から日広へ J (仮題)
tiE言・森岡敏真
第五十四回
11 ・ 8
「日本の近代化と軍国主槌への遭J <仮処〉
害警廻・.野和失
極言・国中敏失
第五十五百
11 ・ 10
「古代国家成立史に見る国家主"の影 J (仮題〉
第五十六回
11 ・ 12
r12
t正嘗・今井和聾
参加者
「私の受けた敬宵・.育勅憶と紀元節ー嶋..を作ったおばあちゃん」
.菓子
05 ・ 4
r 学徒動員の中で」
第十七爾
05 ・ 6
「機争体験を伝える」
u 嘗・生嶋
乗調官
第十八四
05 ・ 8
r敗戦そして-- in 満州J
官正t"・沖田
和代
第十九四
05 ・ 10
「赦科書に見る機争責任」
r機争
守
博
第五十ー回
tEt"・杉島
第十六四
第四十九回
第五十回
09 ・ 4
報告・綱本
証言・蔵宙
線告・上野祐ー良
-¥6-
100 年」
月 8 8 とは何か J (仮題〉
証言・杉島
資 511
事告処・よ野祐ー良
発廻・生嶋乗鷲
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