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ARUKA Newsletter 私の歩いた道(第2回)

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ARUKA Newsletter 私の歩いた道(第2回)
考古学研究所アルカ提供
NO.52
2008.1.1
Archaeological Laboratory,Co.,Ltd.
ARUK A News l et t er
謹賀新年
*考古学研究所(株)
アルカは石器の実測・整理・分析を強力にバックアップする企業です。
白磁の生産は、南北朝時代後期(6世紀)に中国の華北地方で
始まったと考えられています。南北朝時代は、
三国時代(魏・呉・蜀)
に魏の家臣であった司馬氏が西暦280年に中国を統一し西晋
を建国しましたが、その新王朝も短期間で倒れ、以後300年近く
中国の北部と南部に別れ、数々の王朝が勃興した時代です。そ
れを再び統一したのが6世紀末の隋王朝で、そこから唐時代に
かけて白磁製品の生産は大きく発達しました。
特に龍耳瓶(瓶に龍の形状をした把手が両側に付く形状)や弁
口水注(後手に把手が付き反対側に注ぎ口が付く形状)など、西
アジアや地中海沿岸の金銀器やガラス器、
アンフォラ(双把手瓶)
などの影響を受けたと思われる製品などが有名です。これらの
器種は白磁だけでなく、三彩などの製品もあります。
写真の白磁四耳壷は、口縁部や耳などが隋時代の青磁四耳壷
の形状を残しており、唐時代初期の製品と思われます。胎土は若
干クリーム色がかった白色で、風化により一部釉薬が剥がれてい
ます。釉薬は内面にも施釉されています。胴部は丸く膨らみ、底
部は高台状に削り出されていますが、底面は平底です。底面には
墨書で文字が描かれており、やや擦れていますが、中央に「宋」、
左側に「長興大?」、
右側にも判読できない文字が書かれています。
焼物の底部に文字が書かれる事例は、国内でもやや時代は下り
ますが福岡県の博多遺跡群から出土した陶磁器に多く確認され
ており、
中国で元の持ち主が書いていたものと推定されています。
唐時代以降、北宋時代には河北省の定窯で高級白磁の生産が
始まり、宮中などで使用する器として珍重されました。また、白磁
製品の製法は南方にも伝わり、南宋時代以降には江西省の景徳
鎮系諸窯でやや青みがかった白磁ム青白磁ムが生産され、盛んに
海外へ輸出されました。日本にも多く輸出され、各地の中世遺跡
で出土しています。
目 次
また日本国内では、中世から白磁製品を模倣した施釉陶器が
唐白磁四耳壷(初唐)
西本正憲‥‥1
■考古学の履歴書 私の歩いた道(第2回)
大塚初重‥‥1
■今月の器
瀬戸窯群をはじめとした窯業地で生産されましたが、中国製品と
同質の白磁には及びませんでした。国内で中国製品と同様の白
■リレーエッセイ
磁が生産できるようになったのは、
17世紀始めの肥前において、
マイ・フェイバレット・サイト(第45回) 杉山大晋‥‥2
■考古学者の書棚 『日本史』
『土偶』
『先史時代の女性』 小野美代子‥‥4
朝鮮人陶工と中国人陶工の技術が伝わってからになります。
考 古学の履歴書
私の歩いた道(第2回)
芹沢長介氏との出会い
大塚 初重
1946年(昭和21)秋、私は神奈川県横須賀市鉈切遺跡の
いう四つの土師器の型式があることも川上氏から教えて貰った。
発掘で「鬼高式土器」を発掘した。素焼の杯形土器でありやや
生まれて初めての発掘行で教えて貰った土師器の型式名に
赤味がかっていたが破片資料だった。明大の同級生であった川
私は異常なまでの執着心を覚えた。夜学の授業の合間に川上・
上久夫氏は「鬼高式の前に和泉式があるんだ」と教えてくれた。
岡本氏に私は根掘り葉掘り聞き出すと、杉原荘介という明治大
発掘が終って東京に帰るまでに「和泉―鬼高―真間―国分」と
学の先輩が提唱した土器型式の名前であることを知った。その
1
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頃、
お茶の水駅の近くで明大に隣接したビルの1階に書店があり、
思った瞬間、
考古学研究者でもこれだけの屋敷に住めるとはと
店頭に『原史学序論』という白表紙の単行本が平積みされてい
感心した。その頃、
つまり敗戦後の考古学の世界では、
考古学は
るのを見て手にとると、著者は杉原荘介氏であった。考古学と
家財産を潰すものだと言われていたし、
考古学とは世捨人のよ
いう学問のあることを知ったばかりの私には『原史学序論』とい
うな風変りな変人がする学問というのが世間の常識だったのだ。
う書名は奇異な感じがしたが、
明大の先輩だと知って購入した。
居間に通されると和服姿の杉原先生と向い合う形で一人の
この『原史学序論』の後半の論文中に和泉・鬼高などの土器
青年が座っていた。
「大塚君、
こちらが芹沢長介君です」という
型式名があることを知って調らべていくと、和泉式土器という
杉原先生の紹介で挨拶を交した。長身で端正な顔立ちの芹沢
のは1939年(昭和14)に東京都狛江市和泉の東京航空計器
長介さんは物静かな人で、
あまり多くを語らなかったが、
次の杉
という工場敷地内で、
杉原氏が発掘した竪穴住居二棟から発掘
原先生のひと言に私はびっくりした。
「大塚君、
この四月から芹
した土器に付けた型式名であった。
沢君も明大に来るから、君の1年後輩になるのだが」という言
私は土曜日の午後をえらんで小田急線の狛江駅で下車し、
葉に続いて「芹沢君はおせんべ土器を掘った人だよ」とも付け
東京航空計器という工場を訪ねたが会社名はすでに変っていた。
加えた。私は考古学で「おせんべ土器」などという名を使われ
東京計器だったか今は覚えていないが、社長室に和泉式土器
ていることに、
考古学という学問の親近性と不可思議さを感じた。
があるらしいという噂を信じて私は強引に見学を頼んだ。無謀
1936年(昭和11)当時中学生だった芹沢氏と加藤明秀氏
だったかもしれないが案内された社長室の棚に高杯2個が並ん
の二人は静岡県(旧)庵原郡富士川町木島遺跡を発掘し、縄文
でいた。これが杉原荘介氏が25、
6歳頃の発掘行の成果だった。
早期末から前期初頭頃の土器に対して「細線文指痕薄手土器」
私は和泉式土器の高杯を手にして「これは土器の勉強をしな
と命名して1936年に「考古学」7巻9号に発表した。この土器
ければ何もわからん」とつくずく思ったものだった。
型式は後に江坂輝弥氏によって「木島式土器」と命名されたと
鬼高式は千葉県市川市鬼高にある遺跡名を付けた型式だが、
いうが、
「おせんべ土器」という俗称は誰れが何時頃付けたの
市川市の住人だった杉原氏が1937年(昭和12)に共立モス
だろうか。中学生時代に「おせんべ土器」を発掘して世に出し
リン株式会社中山工場内で発掘した土器群であった。低湿地で
た人かと思うと、芹沢長介さんという人は随分キャリアのある
遺跡は消滅したと聞いて見学はあきらめた。1946年頃の杉
人だと思いつつ挨拶をした。1947年の杉原邸での芹沢氏と
原荘介氏は中国上海から復員して半月後には文部省教科書局
の出会いはその後、
仙台の葬儀場で別れを告げるまで58年間
に勤め始めていたらしい。
の交友関係が続いた。
当時、文部次官だった有光次郎氏が明大へ講義に来ていた
1952年(昭和27)4月、
明治大学に新制の大学院が創設さ
頃からの師弟関係で、
復員後直ちに嘱託職員(後に文部事務官
れ、文学研究科史学専攻の1年生として私は芹沢長介・岡本勇
となる)として採用された。杉原氏は1947年頃から明大の地
氏とともに入学し、後藤守一・杉原荘介両教授の厳しい指導を
理歴史科で講義を担当するようになったらしいが、私たちには
受けたのであった。
ただ杉原荘介と原史学序論と和泉・鬼高などという土師器の型
芹沢氏の父君は人間国宝として著名な染織工芸家の芹沢 式名が思い浮ぶだけであった。ただ川上・岡本両氏は赤星先生
介氏であり、
幾度かお会いする機会があったが、
いつも「息子は
との関係からか、
よく「杉原先生が」という言葉を口にしていた
体が弱いから、宜しく」との言葉であったが、芹沢氏は頑張って
から、
明大考古学誕生の雫のようなものは生まれていたのかも
85歳まで考古学の第一線で活躍していたのだった。
知れない。
略 歴
今はよく覚えていないが1947年3月末のことだったか、偶
・ 大正15年11月22日 東京都板橋区志村西台に生れる
・ 昭和 8年 4月 東京都台東区育英小学校入学
・ 昭和18年12月 郁文館商業学校繰り上げ卒業
・ 昭和20年 4月 海軍軍人としての乗船が2回、米艦により撃沈される
・ 昭和21年 4月 上海より復員、働きながら明大2部地歴科入学
・ 昭和32年 4月 明大文学部・大学院をへて文学部専任講師
・ 昭和43年 4月 明大文学部教授、英国留学
・ 昭和52年 4月 日本学術会議会員(11・12期)これ以後平成2年ま
で明大文学部長・考古学博物館長・日本考古学協会
会長など
・ 平成 5年 4月 山梨県立考古博物館長・同県立埋文センター所長
(平成15年まで)
・ 平成 9年 3月 明治大学定年退職、
これまでに群馬・千葉・山梨県
の文化財関係委員
然学内で私の目の前に杉原荘介氏が現われたのである。この
瞬間こそが私が杉原荘介先生と呼ぶべき関係が生まれた時だっ
たのである。杉原先生が「大塚君だったね、今度の日曜日に家
に来てくれよ」と言葉を掛けられた。
教えられた通り国電市川駅から歩いて15分、諏訪神社境内
の松林の一角に杉原邸はあった。約400坪の豪壮な邸宅であ
ることは門をあけた瞬間にわかった。右手に長径20mもある
かと思うほどの池があり錦鯉が見えた。敷石を伝って玄関まで
10mほどあり、
右手奥には漆喰塗の蔵が見えた。凄い豪邸だと
リ レーエッセイ
マイ・フェイバレット・サイト 45
かみ
く
づ
ろ
なか
や
上久津呂中屋遺跡 ∼ 富山県氷見市
杉山 大晋
私の実家は房総半島の東京湾東岸の日本で最も貝塚が密
攻だったこともあり、千葉県三直貝塚の調査の参加させてい
集している地域。そんな環境に育ち、大学でも一応縄文の専
ただいたこともあった。卒業後に富山で就職した数年後に何
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か縁があったのか、氷見市上久津呂中屋遺跡にて縄文時代早
な遺物を回収・選別する
期∼中期までの縄文海進と海退を実感できる貝塚の調査に携
ための対策も同時にと
わる機会を得た。そのときのお話をさせていただきたい。
らねばならなかった。そ
遺跡の立地と調査経緯
こで約13400袋にもな
上久津呂中屋遺跡は、能登半島の背骨である宝達丘陵から
る掘削した貝層土嚢を
派生する丘陵裾部と、
十二町潟であった氷見平野に接するとこ
持ち帰り、翌年度に土壌
ろに位置する。能越自動車道の建設に伴い、平成12年に富山
水洗を行うことになった。
県教育委員会の分布調査によって発見された。平成15年度に
今思えば、実に無謀な量
上久津呂中屋遺跡A4地区下層全景(第2貝層面)
(調査区中央の正面アゼ周辺が貝層分布範囲、
その奥の工事現場がB・C地区)
財団法人富山県文化振興財団埋蔵文化財調査事務所によって
包蔵地確認調査が行われ、本調査を平成15∼17年度の3ヵ
の土壌洗浄をしたと思
うし、よく理解が得られ
年に渡って行なわれた。その結果、
縄文早期末葉から中世まで
たなとも思う。土壌水洗の結果、幸いにも様々な低湿地の貝
長期間にわたる複合遺跡であり、各時代の多数の遺構を検出
塚で出土する貴重な遺物の情報がもたらされた。
している。特に縄文時代の遺物出土量は県内随一と言える量
貝層からの主要出土遺物
が出土した。平成18年度からは継続的に遺物整理作業が行わ
骨角器は獣骨などを加工した刺突具や鹿角を利用した釣針
れている。調査の概要については財団発行の概要・年報にて
が多く出土した。そのほか髪針・垂飾・腕飾があり、髪針は一端
ご参照いただきたい。
を尖らせてもう一端を鋸歯状の線刻で装飾するもので、
国内で
平成17年度の調査と貝塚調査の契機
は滋賀県石山貝塚に類例がある。垂飾は、
サメやクマなどの歯
前年度のB・C地区の調査で、山の裾部に小貝層を伴う谷と
牙の基部に穿孔するものがある。石器は、
漁撈用である石錘や
自然流路が検出され、縄文早期末∼後期前葉の縄文土器や骨
浮子として使うであろう軽石が多くを占める。次に多いのが狩
角器・動物遺体、漆製品などが多量に出土していた。平成17
猟用である石鏃で、
獣肉・魚肉などの加工用である石匙や石錐
年度のA4調査区は開析谷を出た尾根先端の丘陵裾に位置す
なども出土しており、
遺跡の特徴を示している。骨類はシカ・ク
るため、相当する縄文の遺構面の確認のためにトレンチを入
マ・イノシシなどの獣骨、
鳥骨、
クジラ・イルカなどの海獣骨、
タイ・
れてみると、下層から縄文早期∼中期の土器、
カキなどの貝類
カワハギなどの魚骨などが出土している。これらの骨の一部に
や獣骨、魚骨が出土し、縄文時代の遺物包含層があることが判
は、
人為的に加工された痕跡や前述した骨角器として二次利用
明した。当初、下層の調査は予定されていなかったが、上層の
されている。また貝類はサルボウガイ・マガキなどの2枚貝や、
調査期間の調整や関係機関のご協力を得て、標高約0∼−2m
アカニシ・ツメタガイなど主に汽水域に生息する食用の貝が出
の地下空間である縄文期遺構面の調査が実現した。
土している。また貝類を貝合わせの結果、ヘラ状工具などで貝
日本海側での同時期貝塚の立地は、
ラグーン(湖潟)の辺縁
殻をこじ開けた形跡も確認でき、
貝
の緩斜面に立地する場合が多いようだ。そのため崖流土の堆
殻から身を取り出して調理する姿
積が厚く、縄文時代の遺構検出面が現地表面から深い場所に
も垣間見えてきた。また県内初の
あるがゆえに、調査期間や掘削深度の影響で調査できないこ
糞石や、
同時期のまとまった様々な
とも多く、
調査事例は少ないといって過言ではない。
資料が多数出土した。
実際に調査してみると、縄文海進が最も進むとされる縄文
さいごに
早期∼前期の内海と集落立地を反映する縄文時代の貝塚が検
太平洋側の貝塚の分厚い貝層堆積のイメージとは大分違う
出され、
現海岸線から約5キロ内陸に入った内海の様子がみえ
貝塚の調査方法に悩まされ、迫る調査期間にも振り回された。
てきた。
縄文早期・前期に関してまったく知識がなかったこともあり、
貝塚の概要と調査方法
勉強しながら現場を進める毎日が続いたが実に楽しい現場だっ
上久津呂中屋遺跡A4地区出土骨角器
上久津呂中屋遺跡の貝塚は弥生期の集落の1∼3m下にあ
た。後日、出土資料から当時の貝類の調理方法や食料採取・狩
る。微少貝の自然貝層と間層の下に、
遺物を伴う人工貝層があ
猟の様子も推定できる資料や貝合わせの結果、
多量の骨角器・
る。上下2枚の貝層があり双方とも厚さ約15∼20cmと薄く、
石器、 状耳飾などが並んでいる光景を見たとき、下層の調査
貝類の分布密度も一部の集中部を除いては、密度は低い。双
をしてよかったなと実感した。私自身は諸事情があり富山を
方の貝層の帰属時期は、上層の第1貝層は朝日下層式を中心
離れることになり、指導していただいた上司の方々や、共に調
とした前期末葉∼中期初頭であり、
下層の第2貝層は極楽寺式
査を担当した町田賢一氏に遺物整理を託して、掘り散らかした
(石川県では佐波式)を中心とした早期末葉∼前期初頭で、双
状態となったことは、本当にお詫びを申し上げるしかない。と
方とも縄文土器はもちろんのこと多種多様の遺物が出土して
もかく、
この調査で「地形や環境を現場で考えて掘ること」を
いる。第1貝層より下層は海進の時期にあたり、第1貝層より
学び、さまざまなことを勉強させていただいた。今後とも、
こ
上層は、
海退の時期と想定され、
過渡期であったことがわかる。
れを糧に日々精進したい。
同時期の遺構は検出されていないことから、居住域との関連
謝辞 調査全般や遺物整理の成果について、
(財)富山県文化
性は不明である。
振興財団埋蔵文化財調査事務所の町田賢一氏にご教授いた
貝層の調査期間は実質2ヶ月しか残されておらず、早急な貝
だきました。ここに記して感謝を申し上げます。
塚の面的調査が求められた。加えて骨角器や石器などの多彩
※次回のマイ・フェイバレット・サイトは浅野 良治さんです。
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考 古学者の書棚
『日本史』井上光貞/学生社 1955年
『土偶』江坂輝彌/校倉書房 1960年
『先史時代の女性』マーガレット・エーレンバーグ/河出書房新社 1997年
小野 美代子
私と考古学との出会いは中学時代になる。当時は「考古学」
に意識したのは、江坂先生の『土偶』から受けた感銘と折に触
という学問の存在すら知らず、歴史や古典が大好きな少女に
れ眼前に現れる「遮光器土偶のイメージ」のせいであったと
すぎなかった。そんな私に「考古学」という学問の存在を教
思う。
えてくれたのは中学一年時の担任である。高校生の時に神谷
江坂先生の『土偶』が著されたのは1960年で、今から50
作1号墳の大冠埴輪(国の重要文化財)の発掘調査に参加し
年近くも前のことである。既知の資料や情報も現在とは比べ
た経験を持つ先生は、その時の興奮や大学で考古学を専攻し
ようもないほど少ない中でまとめられたにもかかわらず、先
たことなどについて話してくれた。
「将来は歴史の研究をし
生が比定した土偶の時期や地域ごとの土偶の消長は、現在で
てみたい」と漠然と考えていた私は、大学の史学科に進めば、
も変更を必要としていない。もちろん、資料等の増加による
歴史や考古学の勉強ができることを知り、小さな目標が芽生
細部の変更は否めないが、50年経っても江坂先生の研究な
えた。
しに土偶の研究が構築できないのは事実であり、現在の土偶
そんな矢先、祖母の兄から貰った小遣いで、町の本屋で始
研究の原点がこの本にあるといっても過言ではない。江坂先
めて買った本が井上光貞著の『日本史』である。500円だっ
生の地道な研究に高校時代に出会い、大学時代に直接教えを
たように思う。当時の子どもにとっては大金であった。胸躍ら
受ける機会を得たことは幸せであったと思う。考古学という
せて本を開き数頁のところで、何かに吸い寄せられるように
学問の存在を知ってから約40年、様々な機会に多くの書籍に
眼の動きが止まってしまった自分を、今でも鮮明に覚えている。
出会い、感銘を受けてきた。藤森栄一の『かもしかみち』や相
そこには「土偶」の写真があった。
(後に、それは青森県亀ヶ
沢忠洋の『岩宿の発見』なども高校時代に出会い、深い感銘
岡遺跡から出土した遮光器土偶であると判った。)そして解
を受けた本である。しかし、当時の私に決定的な影響を及ぼ
説には、
「土偶の用途は不明」であると書かれていた。じっと
したのは、冒頭にあげた二冊の本であったように思う。
私を見ているように思えた不思議な造形。その後、考古学に
その後約40年、近年、眼にとまったのがマーガレット・エー
関する概説本などを読んでも「土偶の用途は不明」と書かれ
レンバーグの『先史時代の女性』である。著者はイングランド
ていたことが印象に残っている。
の考古学者で、
ジェンダー考古学の提唱者の一人である。本
私が育った福島県いわき市は、多くの原始・古代の遺跡に
書ではヨーロッパの旧石器時代からローマ支配の時代までの
恵まれ、考古学研究が盛んな地域であった。高校生になった
多くの遺跡の事例を取上げつつ、
これまでの先史考古学から
私は、表面採集や発掘調査に参加しながら、大学で考古学を
抜け落ちていた「女性に関する調査事例」を研究することの
専攻したいとはっきり意識するようになっていた。そんな時
大切さを説いている。著者は結論で、
「多くの考古学者がヨー
に出会ったのが、江坂輝彌先生の『土偶』である。日本全体に
ロッパ先史人(men)について書いてきた。その際、無意識で
縄文時代を通じて様々な土偶が存在すること、土偶の研究で
はあるけれども、先史時代の男性と生活を分担してきたに違
一冊の本を著してしまう博識な学者の存在、私にとってはす
いない先史女性は無視されていた。しかし当然女性は先史時
べてが衝撃であった。そして折に触れ眼の前に現れる、
あの「遮
代にも生きていたのであり、目に見えるようにすることもでき
光器土偶のイメージ」。江坂先生の本を何度読み返したか知
る」と述べている。このことは、
日本考古学にもあてはまる。
れない。回数を重ねるごとに新たな疑問が湧いてくる先史時
江坂先生のお弟子さんで、郷里の大先輩である渡辺誠先生
代の奥深さ。実用品ではない故にいつも傍らに置かれ、
「何と
と大学時代にご一緒させていただいた発掘調査の折、
「考古
かして!」と訴えてくる土偶。私の意識は「考古学を専攻したい」
学の研究とは人間の生活を調べることなのだから、男女双方
から「土偶の研究をしたい」に少しずつ変わっていった。
の、生活者の視点での研究が必要である」ことを教えていた
大学で考古学を専攻し、過去の人間集団、特に文字を持た
だいたことと重なる。
ない文化を扱う面白さを知った。恩師である乙益重隆先生の
自らの考古学人生で「何を目指すべきか」、
「何をすべきか」
影響もあり、稲作文化の研究に興味を持った時期もあったが、
を多くの書籍から得てきた。しかし、此処にあげた三冊は、特
土偶の研究を通して縄文時代の謎を解き明かしたいと明確
に忘れ得ない「本」である。
アルカ通信 No.52
発 行 日 2008年1月1日
編集・発行 考古学研究所(株)アルカ
〒384-0801 長野県小諸市甲49-15
TEL 0267-25-0299
[email protected] URL:http://www.aruka.co.jp
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