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No.11-1
Small Hands Small Hands 小さな手 11号 2003 年3月31日 ホロコースト記念館 ・ Small Hands 7号 〒 720-0004 720-0004 広島県福山市御幸町中津原 広島県福山市御幸町中津原 866 2000 年 1 1月1日 TEL&FAX TEL&FAX 084-955-8001 http://www.urban.ne.jp/home/hecjpn E-mail : [email protected] ホロコースト ミュージック フォーラム 2002 を終えて ☆ 日 時 : 11 月 9 日 (土 )13:30 ∼ 16:00 ☆場所 : 神辺文化会館 (深安郡神辺町) 私は、 初めての司会で、 どぎまぎしながらもフォーラムを進めていき ました。 まず、 中川しのぶさんにイディッシュの歌と日本の歌をう たっていただいたあと、 私たち Small Hands が、 実際にトバさんが 体験した 3 つのテーマを各グループにわけて調べてまとめたものを発表 しました。 休憩をしたあと、 トバさんにトバさんが体験したことを聞かして頂き ました。 トバさんは、 7歳のときにホロコーストをうけました。 トバ さんは、 まだ子供だったのにとてもよい判断力をもっていて まだ子供だったのにとてもよい判断力をもっていて、、 死の行進 のときのお話など、 とても子供とは思えないほどでした。 トバさんにとても貴重なお話を聞かせていただいたあと、 Q & A があ り最後に Small Hands のみんなと、 トバさん トバさん、、 そして会場のみんなと 一緒に歌をうたってから、 今回のミュージックフォーラム 2002 がお わりました。 ミュージックフォーラムと言う言葉どおりに、 いろいろな場面でトバさんはたくさん 歌をうたってくださいました。 とても楽しかったです。 (向東中学校1年 浜本都起子) 【トバさんにも直撃インタビュー ・ ・ ・ 】 「わたしがこの場所にいることは、 奇跡の連続があったからだと思います。 わたしは自分の内に 『生きた い』 という希望があり、 その時その時に自分は今何をすべきかを考えて行動したことにより、 生かされてき ました。 すべての人にあのような恐ろしい出来事が決して起こらないようにしていかなければなりません。 ホロコーストについて知らない方々に、 わたしの経験を話すことができたことに幸せを感じます。 ありがと うございました。」 【狩野美穂さん (岡山 ・ 山陽高校 2 年放送文化部) は‥‥】 「トバさんのお話は感動的でした。 自分たちが約 1ヶ月半かけ て製作した塔 A ンネのバラ狽 ンネのバラ狽フフ ビデオ作品をたくさんの来場者に 見ていただき、 カメラで長い時間をかけて追ったバラをいただ くこともできました。 ありがとうございました。」 【会場にいた一番ちっちゃな赤ちゃんのお母さんは…】 なぜこんな小さな赤ちゃんを連れてこられたのか不思議に思 い、 お話を聴きました。 生まれて 3ヶ月の紗朗ちゃんにも、 「平和について考え、 平和のために働く人になってほしい」 と の思いから、 一緒に参加されたそうです。 (インタビュー 広大付属福山高校3年 森田慶美) Small Hands 全員集合! ミュージック フォーラムでの研究発表を紹介します フォーラムではホロコーストから生還した、 トバ ・ベンツヴィさんに来てもらいました。 そして私たち Small Hands は、 トバ さんがホロコーストのときに強制的に連れて行かれた3つの場所 ( ウーチゲットー ・アウシュビッツ ・死の行進) 死の行進)について調 について調 べ、 発表しました。 その研究発表内容を、 これからお教えします!! 【ウーチ ・ ゲットー】 【アウシュビッツ】 まずゲットーとは、 ナチス ・ ドイツにより周りの アウシュビッツには第1収容所と第 2 収容所がありま 国々を占領されていく中で、ユダヤ人をもともと住んで 国々を占領されていく中で、 ユダヤ人をもともと住んで す。 1940 年 6 月に第 1 収容所が作られ、 収容人数を いたところから追い出し、最も貧しい狭い地域に押し込 いたところから追い出し、 最も貧しい狭い地域に押し込 超えたので 1941 年夏に、 第 2 収容所ビルケナウが作ら めた居住区のことです。トバさんのいたウーチの町は、 めた居住区のことです。 トバさんのいたウーチの町は、 れました。 アウシュビッツには、 家畜列車でユダヤ人が ポーランドの西の方にあり、 人口 66 万 5000 人の3 ヨーロッパ中から連れてこられました。 その列車の中で 分の1がユダヤ人という、 工場がたくさんある町でし も死んでいく人は多くいました。 た。 ナチスは財産を取り上げ、 無理やり働かせ、 ユダ アウシュビッツに着くと、 選別が行われ、 男性と女 ヤ人の教会シナゴクも焼き払ってしまいました。それだ ヤ人の教会シナゴクも焼き払ってしまいました。 それだ 性、 大人と子ども、 働ける人と働けない人に分けられま けでなく、 他のゲットーと違って、 水道も下水もない した。 そして布をつくるために、 髪の毛を剃られ、 働 最悪な条件だったのです。周囲にはさくが張られている 最悪な条件だったのです。 周囲にはさくが張られている けない人はガス室に入れられ殺されたのです。 働ける人 だけでなく、下水道からも逃げられないつくりになって だけでなく、 下水道からも逃げられないつくりになって には囚人服が配られました。 5 から6桁の番号をつけら いました。 そして、 食べ物もあまり手に入らず、 その れ、 名前で呼ばれなくなりました。 そして、 子どもた ため誰もが飢え、 病気がはやっていました。 ちの何人かは人体実験に使われ調べられました。 靴、 眼 しかし、 ウーチのユダヤ人評議長であった、 ルムコ 鏡、 義足なども取られました。 フスキは、ゲットーのユダヤ人が生き残っていくために フスキは、 ゲットーのユダヤ人が生き残っていくために アウシュビッツの生活は、 朝夕2回の点呼が2時間あ は、 仕事をして殺されるのを逃れるしかないと考え、 り、 ご飯はわずかなスープだけ。 トイレも共同でちり紙 ウーチの人々は毎朝早くから、 仕事に行きました。 そ などはなく、 1回に10秒しか許されませんでした。 ま の結果、4万人もの労働者がゲットーの工場で働きまし の結果、 4万人もの労働者がゲットーの工場で働きまし た、 アウシュビッツの入り口には 「アルバイト マハト た。 しかしその後、 1942 年5月までに5万5千人の フライ∼働けば自由になれる∼」 と書かれてありまし ユダヤ人全員が、 ヘウムノの絶滅収容所に移され、 列 たが、 実際には働いても自由になれず、 働いていても時 車の中につくられた 間に遅れたり、 反抗したりした人は、 壁の前に立たされ ガス室、 ガストラッ 銃殺されました。 クで殺されました。 アウシュビッツは 1945 それからしばらく移 年 1 月 27 日に解放され、 送させることはあり それまでにビルケナウでは約 ませんでした。 ナチ 150 万人、 アウシュビッツ スはユダヤ人をその では約 400 万人が殺されて いたのです。 まま働かせ絶滅させ ようとしたのです。 研究発表、 うまくできた? タイムキーパーも頑張りました! 【死の行進】 1944 年∼ 45 年の冬、 東よりソ連軍 東よりソ連軍((赤軍 赤軍))、 西より連合軍 (英米軍) が収容所に迫ってきました。 そのた め、 ナチスの親衛隊は収容所からの撤退を図りました。 収容所開放のときに備え、 犯罪を隠すために焼却炉、 ガス室の破壊、 証拠書類の焼却をしました。 さらに、 殺人工場の労働力 ・ 特務班 ・ 目撃者の抹殺も図りまし た。 そして囚人たちを、 迫ってきた赤軍から隠すため、 西方のドイツ軍勢力範囲へ強制移動しました。 これを 死の行進と言い、 短い期間に 59 回も行われたのです。 100 km以上歩かされた行進もありました。 この行進のときに囚人には、 わずかな食料や水を与えられることもあれば、 まったく与えられないこともあり ました。 その中で真冬の寒さに耐えられなくなったり、 体力がなかったりして死んだ人も少なくありません。 さ らに、 行進で歩けなくなったものや隊列から遅れた者は、 容赦なくその場で射殺されました。 45 年1月の行進 では、 6万6千人のうち、 4分の1もの人が殺されました。 トバさんはこのとき逃げることができたのです。 【イディッシュの歌を聞いて ・ ・ ・ 】 イディッシュ語というのはユダヤ人が昔使っていた言葉です。 皆さんはよくイーディッシュと言われますが、 イ ディッシュです (間違えないように)。 歌は明るいものもあればとても悲しそうなものもありました。 ユダヤ人 が平和に暮らしていた時代の歌はとても陽気で私も好きです。 これからもっといろんな歌を知っていきたいです。 (城南中学校2年 中川牧子)