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四国開発の先覚者とその偉業

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四国開発の先覚者とその偉業
四 国 学
四国開発の先覚者とその偉業
………………………………………………………………………………………
1
4 たばこの産業化
∼阿波たばこの発展に貢献した人々∼
ちく ご ぼう
者)である筑後坊(容姿が大きかったので大坊
たばこの伝来と阿波葉の起源
主といわれた)という者がたばこの種子を携え,
たばこの日本への伝来の年代については,天
三好郡山城谷村大野名(現:三好市山城町)に
文,永禄,元亀,天正,文禄,慶長など,諸説
来て農民に試作させたのが始まりだという説も
がある。そのなかで最も信頼できるとされてい
ある。
さらに一説では,昭和30年(19
55年)6月に
るのは天文渡来説であり,天文18年(1
5
4
9年)
たいら の
スペインの宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿
端山村平野の武田家で発見した文書によると,
児島に上陸したときだといわれている。
同家の祖先重定が九州地方へ武者修業に出た折,
もうひとつの天文渡来説には,
天文1
2年
(1543
天正12年(1585年)長崎からたばこの種子を持
年)ポルトガル人が種子島に漂着したとき,鉄
ち帰ってたばこをつくり,蜂須賀家に献上した
砲やたばこを伝来したとある。
というものである。
たばこの葉が日本で初めて栽培されたのは,
以上,3つの説のいずれからしても,日本へ
それから4
0∼5
0年経った天正年間だとされてい
種子が渡来して間もなく,徳島でも栽培された
る。これにも2説あって,そのひとつは慶長10
ことになる。
年(1
6
0
5年),長崎桜の馬場に植え,その後,
か ざん
山城国の花山や和泉の吉野に栽培したとされる。
また薩摩の古い文献によると,慶長のはじめ
いぶすきぐんいぶすき
揖宿郡揖宿の里に植えたのが最初で,島津氏が
親戚にあたる京都の近衛家にその種子を送り,
これを山城国の花山に植えたのだとも記されて
いる。
阿波葉の起源
阿波葉は達磨葉系の一種で,葉形は長く葉肉
阿波葉(阿波池田たばこ資料館蔵)
は薄い。鮮やかな褐色で味は柔らかく,刻みた
ばこ原料として古くから有名である。
徳島県の名産阿波葉の栽培の起源は,いつの
阿波葉を培った人々
頃かはっきりした文献は乏しい。
の
ひとつは永禄年間(1
5
58年∼1
5
6
9年)に,当
だ いん
野田院たばこ
はばやま
時の領主三好氏が美馬郡端山村(現:美馬郡つ
先に述べた筑後坊から70∼80年経った延宝・
るぎ町)の農家に種子を与え,切替畑(山を切
天和(1673年∼1
681年)頃になると,すでに美
ってつくった畠)に蒔かせたという説がある。
馬郡重清村・郡里村地方(現:美馬市美馬町)
かいこくしゅ
また,慶長1
7年(1
6
1
2年)頃,九州の廻国修
では,たばこの栽培が盛んで立派な葉が近郷に
ぎょうしゃ
行者(日本全国の社寺・行場等を廻り修行する
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四経連 2
0
0
7.
1
1
出回っている。重清村に住んでいた野田院とい
………………………………………………………………………………………
う修験者がたばこの耕作に熱心で,毎年,立派
町)に長順という山伏がおり,たばこづくりに
なものをつくり藩主に献上したと伝えられてい
熱心で良い葉を市場に送って評判だった。後に
る。これを「野田院たばこ」と言った。
は他所からも良い品を集めてきて売り捌き,販
路を拡大した。世間ではこれを「長順たばこ」
お夏たばこ
と言った。
長順は慶応3年(1867年)5
0歳で死んだが,
文化・文政年間(1
80
4年∼1
8
29年)に東祖谷
きょうじょう
山村京上(現:三好市東祖谷山)にお夏という
その子の賢順も父に劣らぬ良いたばこをつくっ
寡婦がいた。男まさりの気性で,葉たばこをつ
た。
くり自分で刻んで各地へ行商した。お夏はなか
また近所に住んでいた与市もたばこづくりの
なか商売上手で,祭りや縁日がある所へは必ず
名人だったので,世間では二人のつくったたば
出かけて行き宣伝をしたので,
「お夏たばこ」と
こを「与市長順たばこ」と言って評判となった。
言って評判となった。
みや
お夏は万延元年(1
86
0年)に死んだが,その
まえ
宮の前たばこ
後,三好郡辻町(現:三好市井川町)の商人が
天明4年(1784年)頃,三好郡山城谷村粟山
お夏の顔を描き,京上おなつの名を刷った袋に
名(現:三好市山城町)の百姓庄蔵が高野山に
刻みたばこを入れて売り出し利益を得た,とい
詣でた後,伊勢神宮を参拝し,その帰途,紀州
う話も残っている。
からたばこの種子を持ち帰った。これを氏神八
しょうぞう
ふくいく
お夏たばこは,馥郁とした芳香があり,数百
幡神社の前に試作したところ,品質の優れた色
メートル離れたところでも吸っているのがわか
つやが良く香気の高い柔らかい味のたばこがで
るというほど香りの高いたばこであった。その
きた。刺激が少なく病人でも吸うことができる
ため,阿波一円はもとより讃岐,土佐方面まで
と好評でこれを「宮の前たばこ」
(八幡神社の
その名が鳴り響いていた。
前で出来たという意味)と言って誉めた。また
お夏たばこには特に秘伝らしいものはなかっ
たが,ただ,お夏のたばこ畑にはどくだみ(薬
高野山に参詣したとき得たものであるというと
ころから「大師たばこ」とも言った。
草)
が一面に繁茂していた。煙草専売法が公布
庄蔵の死後,子の常三も遺志を継いでたばこ
され専売局の指導員たちがたばこの耕作指導に
づくりに専念し,立派なものをつくって「常三
やって来て,お夏のたばこ畑のどくだみを全部
たばこ」の名をあげた。その栽培法は香味,色
取り除いてから急にお夏たばこの評判が立たな
つやを主とし,株ごとに成育の良否を調べ,成
くなった,と言い伝えられている。
熟させる葉数を制限して芯止めをし,土葉や中
ど
お夏たばこの他に,同じ祖谷川のあたり三好
で あい
ば
葉は思い切って捨て良質のものを得るようにし
せんぞく
郡池田町出合(現:三好市池田町)の対岸千足
たので,「常三たばこ」の評判は大変良かった。
はなぐま
の鼻熊には「お冬たばこ」というのがあって,
常三は,文久3年(1863年)7
4歳で死んだ。
お夏たばこに対し,味と香りのどちらも負けな
いくらい名声を博していた。このたばこも,ど
くだみ畑で栽培されていたとのことである。
(小西国太郎氏著『秘境祖谷物語』による)
以上,挙げた人々が資料から得た阿波葉を培
った人々だが,こうした先覚者の努力は次第に
報いられ,阿波葉の好評は寛政から亨和(17
89
年∼1801年)にかけて北海道,奥羽,京阪地方
ちょうじゅん
長順たばこ
美馬郡一宇奥山村奥大野(現:美馬郡つるぎ
のほか九州,中国地方にまで及び,その販路は
拡大していった。
2
0
0
7.
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1 四経連
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四 国 学
………………………………………………………………………………………
なかむらや
ぶえもん
機械化を工夫した中村屋武右衛門
機械化される以前,たばこの製造は葉たばこ
刻み機械と取り組み,大工にも頼んで改造に専
念した。もちろん何度も失敗を繰り返し,数年
かかってついに成功した。
のくき骨(主葉脈のかたい部分)を抜いて,30
そして機械製造にとりかかると,手刻みとは
枚から5
0枚ぐらい重ねて6センチぐらいの幅に
比べるまでもなく,能率的に大量生産されて行
巻き,まな板の上に置いて,駒木という板を押
った。そのたばこは,すべて協力者の柏屋と岡
しつけて庖丁で細かく刻んでいた。この原始的
田屋が取り扱い,海運を利用して北海道や房総
て きざ
なやり方を「手刻み」といった。
その後,たばこの売れ行きが良くなるに従っ
て手刻みでは間に合わなくなり,能率的な製造
方面の沿岸地方の漁村にまで販路を広げて行っ
た。特に湿気の多い漁村では,火つきが良いと
喜ばれた。
方法へと進んだ。その推進力となった人が,三
好郡池田町(現:三好市池田町)の中村屋武右
衛門である。
寛政1
2年(180
0年)頃,武右衛門はいつもの
ようにたばこの行商に出かけた。ある夏の暑い
日,讃岐の三豊郡詫間(現:香川県三豊市詫間
町)にある浪内神社の木陰で一休みしながら汗
をぬぐっていると,たまたまそこへ讃岐の粟島
港の商人柏屋(貞六)
,岡田屋(平五郎)の二
人が来合わせた。
武右衛門が持っているたばこを差し出したと
ころ,二人は「どこのたばこか」
,
「今までこん
中村屋武右衛門が改造したたばこ刻み機(模型)
(阿波池田たばこ資料館蔵)
な旨いたばこを吸ったことがない」と誉めた。
武右衛門は自分が製造して売っている阿波たば
こだと答えると,二人は,ぜひ粟島へ来て売る
ようにと熱心に勧めた。
武右衛門は勧められるままに粟島へ行き商売
なかむら
わえもん
中興の人 中村和右衛門
中村屋武右衛門の住んでいた同じ池田町に中
村和右衛門が住んでいた。
ばんきん
を始めたところ,柏屋,岡田屋の後援も手伝っ
て売れ行きは非常に良かった。
武右衛門は粟島へ出かけているうちに,北海
道の昆布を刻む機械のことを耳にした。そして
それをたばこ刻みに応用できたら今よりはるか
に能率的になるだろうと考えた。
当時,手刻みの人間が間に合わなくて,たば
こを製造するところでは職人の引き抜きがさか
んに行なわれていた。
武右衛門は昆布刻み機械を取り寄せてみたが,
46
和右衛門の家は地方の有力者で,代々判金(江
戸時代に流通した金貨の種類)と藩札の引き換
え役を務めていたが,文化2年(18
05年)頃か
ら副業にたばこの製造販売を始めた。
末子の和右衛門は16歳の頃から商売を見習っ
ていたが,父の死後はこの業を継ぎ,粟島港に
販売問屋を置いて,そこを足がかりに大阪方面
まで販路を拡大し,手広く商売をしていた。
ところが阿波たばこが有名になるにつれ,大
阪商人が見本と現品とを違えるなどいろいろな
それがすぐたばこ刻みに用いられないことはわ
工作を弄したため悪評が立ち,売れ行きも落ち
かっていた。そこで,ほとんど寝食を忘れ昆布
ていった。そこで和右衛門は「仲介なしの直取
四経連 2
0
0
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1
1
………………………………………………………………………………………
引き」の方針をとり,自ら見本を持って出かけ
では水車にバネを仕掛けて刻んでいることがわ
て行き,詳細に市場調査を行ない,現地の問屋
かった。
にも会って販路の復活に努めた。そうして明治
岸太郎は帰町すると早々に新町柳川に水車工
1
3年頃から1
0数年かかってようやく阿波たばこ
場をつくり,伊予の製法を改良して製品を大阪
の名声を挽回し,大阪・神戸方面でも好評を博
へ出荷した。もともと優秀な阿波たばこだけに
することができた。
たちまち評判をとり戻すことができた。この岸
和右衛門の努力は販路拡大だけでなく,製造
方法にも細心の注意を払い,種子の選択や栽培
太郎の試みが成功して以来,水車工場は日を追
って盛んになって行った。
ま なべ ぶ ぞう
方法,乾燥方法についても研究を怠らず,阿波
その後,阿波たばこの製造方法は真鍋武蔵,
り さぶろう
たばこの声価向上に努めた。
し ろう
和右衛門は,阿波たばこ中興の人と言える。
やま した とう
真鍋利三郎の蒸気力利用(明治2
7年),山下藤
さか べ
ぶ へい
四郎と坂部武平共同の石油発動機利用(明治29
年)などによって量産化が進んだ。
しまざきでんきち
たになかすけ
道路改良をした谷仲助
また池田町の島崎伝吉は,従来は製造の際に
ちゅうこつ
捨てていた中骨(葉脈のかたい部分)を,水力
谷仲助は美馬郡貞光村(現:美馬郡つるぎ
にかけロールで繰りのばし葉に混ぜて刻んだも
町)でたばこの売買をしていたが,郡内の道路
のや,中骨ばかりで製品を得ることに成功した
が悪く,たばこの運搬に困っていた。
(明治29年頃)。そのため安価なたばこが生産さ
そこで仲助は,自分のためだけではなく大勢
れるようになり,少ない資本でも製造でき,消
のためだと,自費で貞光∼一宇間の道路を改修
費者からも大いに喜ばれ,全国的に販路が拡大
したり,橋の架け替えをした。嘉永から安政年
して行った。
間(1
8
4
8年∼18
59年)
のことである。
荷物の運搬には吉野川を上下する舟を利用し
こうした先覚者の努力により,阿波たばこは,
ていたが,穴吹の出岩というところで遭難する
近年に至るまで地域の重要な産業としての地位
舟が多かったので,仲助はこれも自費で岩を砕
を保ち続けてきたのである。
き,水上の便を良くした。
江戸にも店を持ち,阿波たばこの販路の拡大
以
を行い,明治3年に6
9歳で没している。仲助は
上
(文責:小原)
たばこ商人としてだけでなく,地方産業発展の
ために尽くした功労者である。
うち だ きし た ろう
内田岸太郎そのほかの功労者
盛況を極めた阿波たばこも競争相手が現れて
一時窮地へと追い込まれた。伊予たばこである。
池田町の内田岸太郎は詳細な調査をした結果,
原因は,阿波たばこはよく乾燥されていて半分
ぐらい残ると後は粉になってしまう欠点がある
※
ことをつきとめた。そこで岸太郎は伊予たばこ
覚者とその偉業 」( 昭和3
9年∼4
2年, 四国
の産地まで出かけて行き調査したところ,伊予
電力!発行)を原典に編集しています。
本編は,渡辺茂雄氏著「四国開発の先
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