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鉄 道

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鉄 道
インドの鉄道
鉄 道
インドでは、1853年、ボンベイ・ターナ間に鉄
道が敷設された。このアジアで最初の鉄道はイギ
埼玉大学教授 岡 崎 勝 世
リスから持ち込まれたものだが、その後もイギリ
スの資本輸出による建設が続き、20世紀初頭まで
鉄道の意義
に主要な鉄道網が完成した。独立後も敷設が推進
産業革命のなかで生まれた鉄道は、機械を動力
されて、世界有数の鉄道国となっている。
とする最初の移動手段であったという意味で、今
インドの鉄道網の特徴は、「大港湾都市集中型」
日のモータリゼーションの時代の出発点ともなる
(吉岡昭彦『インドとイギリス』岩波新書1975、
科学・技術史上の一大変革であった。そして、鉄
p.127)と表現されている。まずボンベイ、カルカッ
道は、さらに人類の文化・社会の変革をももたら
タ、マドラスなどの大港湾都市から内陸に向かっ
した。この点を鉄道発祥の地であるイギリスと、
て広軌(軌間1,676mm)の幹線が走り、ついで
それとは対照的な植民地インドで見てみよう。
1869年以後に建設された標準軌の鉄道、さらに藩
イギリスの鉄道
王国が敷設した狭軌の鉄道へとしだいに枝分かれ
1840年代のイギリスは「鉄道狂」の時代とも呼
しながら、内陸深奥へと入っていくのである。こ
ばれ、主要都市が鉄道で結ばれるようになった。
の姿は、鉄道の目的がイギリスの工業生産物を内
さらに世紀後半になると多数の鉄道会社の競争の
陸に運び、綿花など内陸部の農業生産物を運び出
のなかで、鉄道網が全国を覆うようになった。
して輸出することだったことをよく示している。
イギリスの鉄道の真の出発点となったのは、
今日でも、インドの鉄道は「むちゃくちゃな鉄道
1830年開通のリヴァプール・マンチェスター鉄道
網」
(同書p.125)
と評される。目的地に到着するまで、
であった。それは、この会社が機関車、車輌、路
何度も無意味な乗り換えを強いられるからである。
線、付属施設から従業員までを包括的に管理する
それは、三つのゲージ(軌間)が併存していて、
世界最初の会社であり、最初から懸賞競争で優勝
自由な相互乗り入れが不可能なことに起因する。
したスティーヴンソンの蒸気機関車
「ロケット号」
スティーヴンソンがゲージを4フィート8イン
を採用したからである。また、敷設は貴族地主た
チ(1,435mm)としたのは、最初に機関車を製造
ちがつくった有料道路や運河に対抗して行われて
した炭坑のトロッコがこのゲージだったからであ
おり、その成功は、新興の資本家たちの政治的勝
る。政府もこれを「標準軌」と定めたが、5フィー
利をも意味した。2年後に選挙法改正がイギリス
ト(1,525mm)
、
7フィート1インチ(2,146mm)の「広
で行われているが、それは偶然の一致ではない。
軌」まで現れた。それは鉄道会社間で行われた自
鉄道は社会生活も変革した。接続のために統一
由競争(「ゲージ戦争」)の結果であった。しかし
的時刻制度が必要となり、標準時が国単位で定め
インドの場合は、そのときどきのインド政庁の財
られるようになる。都市圏が拡大して働く人々の
政状態に左右された結果であった。
生活形態も変化した。また、金さえ払えば貴賤の
鉄道は、インドにおいては政治的・経済的、さ
別なく乗車できる鉄道は、貴族のステイタスシン
らには軍事的に、イギリスによる植民地統治の鍵
ボルだった馬車に対し、人間の平等と民主主義の
となった。それはインド財政の8%にも上る利子
シンボルとなった。さらに、
「近代ツーリズム」の
を直接本国にもたらした。他方優れた品質を誇る
創始者トマス=クックが旅行代行業を開始したの
綿織物の輸出国だったインドは原綿産出国に変え
は1841年であった。鉄道は、貴族や金持ちにしか
られ、膨大な貧困層を内包する社会となった。鉄
できなかった旅行を庶民にまで開放し、庶民がレ
道は、このようなインドの経済的・社会的構造の
ジャーを楽しむための「足」ともなった。
変化にも、決定的な役割を果たしたのである。
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