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タイの精霊信仰におけるリアリティの源泉

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タイの精霊信仰におけるリアリティの源泉
福井県立大学論集
第3
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9.
7
[研究論文]
タイの精霊信仰におけるリアリティの源泉
― ピーの語りにみる不可知性とハイパー経験主義 ―
津 村 文 彦
1.はじめに
東南アジアのタイ王国の宗教実践を考える際に、9割を超える宗教人口をもつ上座部仏教を
無視することはできないが、同時にピー(phii)と呼ばれる精霊をめぐる信仰も彼らの宗教生
活の重大な要素を占めていることはこれまでにも指摘されてきた[TAMBIAH 1
9
7
0,
林2
0
0
0ほ
か]
。だがピーについてのこれまでの研究関心は偏ってきたと言わざるを得ない。従来の研究
は、村落の守護霊に関わる共同体レベルでの精霊信仰を対象化したものがほとんどであり、ま
た精霊信仰を読み解く視点も機能主義的側面ばかりが強調される。
たとえば、本論が対象とするタイ東北部では一般的に二種の守護霊が信仰されている。開拓
村の多い同地域では、村の創設とともに、村の柱ラックバーン(lak baan)と守護霊祠サーン
・チャウプー(saan
caupuu)が建てられ、それら二つが共同体レベルでの守護霊の座となる。
そこに位置する二種の守護霊について、祠の管理人チャム(cam)を中心とした宗教実践の見
られる村落が一般的である。村の仏教寺院を中心とした上座部仏教の宗教実践が、究極的には
個人の来世での幸福を希求するのに対し、世俗的な現世利益の祈願については祠の管理人チャ
ムを通じて村の守護霊チャウプーに依頼するという異なった祈りの実践がみられる。また守護
霊チャウプーとその祭祀を司るチャムは、その性格上、村落の農耕儀礼にも深く関わる[cf.
津村 2
0
0
6,
2
0
0
7]
。
タイにおけるピー信仰を扱った従来の研究は、このチャウプーのような村落の守護霊を問題
化してきた。こうした事例について、守護霊の信仰は村落共同体における伝統的モラルや慣習
の維持のために機能していると分析するのが、本論で乗り越えたいと考える従来の研究視角で
ある。機能主義的分析が想定しているほど、ピーにかかわる信仰とその実践は村落共同体の総
体に関わるものばかりではない。共同体のモラルの維持という〈機能〉とは一見無関係にみえ
るピーも、しばしば村人たちの日常生活に深く関わる。実際のところ、調査村周辺の日常生活
の語りにおいて、「ピー」という超自然的存在については、守護霊以外のものへの言及が圧倒
受付日 2009.4.
15
受理日 2009.6.4
所
属
福井県立大学学術教養センター
―1―
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的に多く、また日常生活に顔を出すピーの種類も守護霊に限らず多様である。
本論は、ピーを取り巻くこうした現実を踏まえ、タイ東北部村落におけるピーをめぐる日常
的な語りを分析対象とする。そのうえで、従来の機能主義的な理解から逸脱するような雑多な
ピーの語りについて、いかなる理解が可能かを模索する試みが本論の目指すところである。
2.ピーを分析する研究視角
ピーは一般に、善霊(phii dii)と悪霊(phii raay)という二つのカテゴリーに分けられる
[PHONGPHIT & HEWISON1
9
9
0:6
9
‐
7
0, SUVANNA2
0
0
0:1
4
8
‐
1
4
9]
。善霊には、村の守護
霊、土地神、米の精霊、家の精霊などのほか、テーワダーと呼ばれる天の精霊などが含まれる。
一方の悪霊は、人間に災厄を及ぼす存在であり、異常死の霊やピーポープ、ピーグラスー、ピ
ーグラハンなど特定のサブカテゴリーを構成するピーが含まれる。タイの民俗学者アヌマーン
・ラーチャトーンによると、時代が下るにつれて、「ピー」は善霊というよりも人を悩ます悪
なる霊を指すことが増えてきたという[アヌマーン 1
9
7
9b:1
0
7]
。悪霊は個人的な災厄を引き
起こす傾向があり、本論が主たる考察の対象とする守護霊以外のピーとは、いわば個人を煩わ
す悪霊といえるだろう。
村落の守護霊についての研究蓄積は見られるものの、個人レベルでの悪霊についての研究は、
決して多いとはいえない。いくらか見られるものでは、ピーの多様な種類を数え上げ説明的に
記載する博物学的アプローチ[アヌマーン 1
9
7
9a 2
4
7
‐
3
0
0, PLAYNOY 2
0
0
0]
、病因としての
ピーとその憑依についての精神医学的アプローチ[PHAETSANGAN 1
9
8
6]のほか、ピーの祓
除師モータムの宗教実践についての宗教社会学的アプローチ[林 2
0
0
0]がある。だが、博物
学的アプローチでは、実際には非体系的なピー信仰を過剰に構造化してしまう傾向があるし、
精神医学的アプローチでは、病とは無関係なところでのピーの存在とピーの文化的位相が抜け
落ちてしまう。三番目のピーの祓除師を中心に据えたアプローチは有効であるが、祓除師と特
定のピーとの関わりは描かれるものの、ピー信仰の総体を視角に入れるものではない。
本論の問題意識は、単純な機能主義的分析への批判から出発するが、この点は人類学者の浜
本満がまとめる人類学的アプローチの陥りがちな錯誤と関心を共有するものである。浜本は、
妖術研究を初めとする人類学的研究アプローチがしばしば陥る錯誤として三つを指摘している
[浜本 2
0
0
7:1
1
5
‐
1
2
4]
。
(1)
ある現象を分析する際にコンテクストに注意するあまり、その
現象そのものの検討が十分に行われないという「コンテクスト化の落とし穴」
(
、2)
ある現象は
常にその社会にとっての何かを語っているものと考えて当事者不在の解釈を行ってしまう「解
釈学的スタンスの誤謬」
、
(3)
ある実践は常に「近代化への抵抗」など何らかの意図の反映と
して、どんな場合でも動機や目的を想定してしまう「意図性のショートサーキット」といった
三つの陥穽である。これらは、浜本の議論で想定しているアフリカ妖術研究に限らず、タイの
―2―
タイの精霊信仰におけるリアリティの源泉
ピー信仰を論じるうえでも十分に警戒すべきポイントであろう。つまり、ピー信仰を、単に
「村
落内の政治的葛藤の現れ」や「近代化への不適応」の表現として解釈したり、あるいは「伝統
的なモラル維持のために機能している」と分析するだけでは不十分である。本論で目指してい
るのは、予定調和的な村落像に「ピー」を組み込むことでもなければ、「ピー」の社会的表象
の対応物を探ることでもない。ピーの社会的位相を間接的に問うのではなく、ある種の政治的
葛藤や病などの現象が、なぜほかでもない「ピー」を通じて語られねばならないのかを問い、
その延長線上で現代のタイ東北部村落における「ピー」とは何かを直接的に問題化することを
目指すものである。
3.ピーポープとモラルの解釈
3‐1.ピーポープという悪霊
タイ東北部では、守護霊以外のピーがしばしば日常生活で語られる。とりわけ共同体に関わ
る守護霊以上に、個人と直接関わりをもつ悪霊が話題になることが多い。そうした悪霊のなか
でも、村人たちの話題をもっとも集めるピーが、ピーポープというカテゴリーのものである。
ピーポープは人に取り憑く性質をもつ。憑かれた者は精神的に落ち着かなくなり、めまいが
したり、泣き叫んだりして、通常にはない言動や行動を示す。特にひどい場合には、ピーポー
プに肝臓を食われて憑かれた者は死んでしまう。ピーポープは、自然に発生するのではなく、
2種類の人間から生じる。一つは先祖から継承される「家筋のポープ」
(ポープ・スア poop sua)
で、もう一つは宗教専門家モータムがタブーを破ったときに生じる「普通のポープ」
(ポープ・
タンマダー poop thammadaa)であり、彼ら人間が本体となって、ピーポープが発生し、周囲
の人たちに災厄を引き起こすとされる。
ポープ・スアは、ピーポープをもった人間が死ぬときに、唾液を通じて継承される。唾液が
混入しているのを怖れて、ピーポープの本体の可能性がある人によって出された飲食物は避け
なければならないと調査村では語られる。ピーポープの家系に婚入した婿や嫁には伝わらない
が、その子孫であれば男女を問わず引き継がれる。そのため、ピーポープの家系との婚姻が避
けられる場合もかつてはしばしばみられた。
ポープ・タンマダーは、モータムなどの宗教専門家が、カラム(khalam)と呼ばれる守る
べきタブーを破ったときに、その人がもつ神秘的力ウィサー(wisaa)が変質して発生すると
いわれる。たとえば、モータムの場合、守るべきタブーは多数あるが、多くのタブーは守れな
くてもウィサーが弱まるだけで、ピーポープは発生しない。ただひとつ、動物の血を口にする
ことは厳しく禁じられており、破るとウィサーがピーポープに変質する。タイ東北部では、結
婚式の会食などで、生の牛肉ミンチと牛の血にハーブや唐辛子を和えたラープ・ディップとい
う料理が好んで食されるが、モータムは決してこのラープ・ディップを口にしない。そのほか、
―3―
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9.
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1
9
6
0年代にウドンターニー県で調査を行ったタンバイアによると[TAMBIAH 1
9
7
0:3
1
8]
、儀
礼を途中で止めた場合、呪文によって病を引き起こした場合、治療儀礼に過剰な料金を請求し
た場合、師匠を敬わなかった場合などに、ピーポープが発生するという。
ピーポープが発生した疑いのある事件が生じると、ピーの祓除に長けたモータムや僧侶を訪
ね、その事件の原因がピーポープであるかどうかを占い、ピーポープが原因であれば祓除儀礼
を執行する。祓除儀礼の詳細については、次節で詳しく論じる。
ピーポープはいくつかの地域で減少したと報告されている。タンバイアは「近年、ピーポー
プ憑きは減少している。最後にあったのは1
9
6
0年のことである[TAMBIAH 1
9
7
0:3
2
1]
」
と記
録しているし、1
9
8
0年代にコーンケーン市の南東部農村で調査を行った林[1
9
8
9:3
3
‐
3
4]も、
以前は悪霊の代名詞であったピーポープが当時の調査村内で激減していると記している。筆者
の調査村周辺でも、「ピーポープは昔の方が多かった」と語られることがあるが、現在でもピ
ーポープ事件は頻発している。
3‐2.1
9
9
9年のNK村のピーポープ事件
まずは、1
9
9
9年1
2月から2
0
0
0年1月にかけて調査村NK村1 を舞台とするあるピーポープ事
件に焦点を合わせたい。以下の記述は、2
0
0
0年1月2
2日より2月2
7日までのおよそ1ヶ月の間
にNK村の複数のインフォーマントからの聞き取りによって再構成したピーポープ事件の顛末
である。
■語り no.
1
NK村には開村当時に創建された仏教寺院サモンコン寺が集落の中心部に位置し、村
人の信仰を集めていた。しかし、1
9
9
4年にNK村出身の僧侶T師によって新たにもう1
つの寺が創建された。新しい寺は集落の外れにある守護霊(チャウプー)の祠の近くに
建てられたため、ドーンチャウプー寺(
「チャウプー森の寺」
)
と呼ばれた。創建時には、
村内から寄進を募ったが、思わしい協力が得られず、最終的には村に居住するT師の親
族が多くの寄進を行った。T師が再び村を離れた1
9
9
5年以後は常住する僧侶はなかった
ものの、1
9
9
7年に近隣のNU村より僧侶L師が、1
9
9
9年にはタイ東部のチャンタブリー
県からR師が招請された。R師は呪術に長け、宝くじの番号当ての占いで、コーンケー
ン市内からもR師を訪ねて人がやってきた。一方、村人の多くは近隣村出身の、より長
く滞在しているL師に愛着を感じていた。
R師とL師がそれぞれ宝くじの番号を占い、R師の占った番号だけが当選したことが
あった。それ以来、二人の僧侶は不仲になった。1
9
9
9年9月、L師が体調を崩したが、
1
NK村はタイ東北部コーンケーン県ムアン郡DY地区に位置する村落である。県の中心部から1
5㎞ほど離れたところ
に位置し、278世帯1
342人(2001年9月現在)が在住する農村である。
―4―
タイの精霊信仰におけるリアリティの源泉
L師は「R師が、異常死した人の骨を私の部屋の下に埋めたのが原因だ」といってR師
に呪術をかけられたと訴えた。村長は事件を地区の僧団長に報告した。1
9
9
9年1
0月、両
師の仲違いは激化し、R師は村を去った。去り際にR師は「2年のうちにL師が村人を
喰うだろう」と言い残した。
1
9
9
9年1
1月、餅米を喉に詰まらせて村人が死ぬという異常死が起こる。葬儀の準備の
ため村人がL師のもとを訪ねると、部屋の前で妙な声を耳にした。「これ以上悪いこと
をして村人を苦しめないでくれ」と、L師が独り言を言っていたという。1
9
9
9年1
2月、
再び村に突然死が発生した。不吉とされる異常死が連続したため、村長たちが隣村NG
村のモータムに相談した。モータムは「L師のピーポープが原因にちがいない」と断言
した。モータムの話を受け容れた村人たちはドーンチャウプー寺に向かい、L師に村を
去るように説得した。事情を聞いたL師は自分のことをピーポープだと告発したモータ
ムを罵った。「私かモータムのどちらかが死んでしまうようにしてやる!」
。これを聞い
た村人たちは、もはやL師は僧侶ではなく、ピーポープであることを確信した。
翌朝、村人がドーンチャウプー寺を訪ねると、L師はすでに寺を去ったあとだった。
同じ日にNK村の5
0代の女性にピーポープが取り憑いた。NG村のモータムは村ぐるみ
での祓除儀礼が必要と判断して、儀礼の準備を開始した。祓除儀礼は深夜2時頃に始ま
った。2人のモータムが、それぞれ籐の棒と竹筒を手にして、暗い村内を走り回って、
ピーポープを追いかけた。午前4時頃には4体のピーポープを捕らえて竹筒に入れて呪
符で封をして、墓地に埋めてしまった。
2週間ほど経って、さらに別の4
0代の女性にピーポープが取り憑いた。モータムが祓
除しようとすると女性に憑いたピーポープは叫んだ。「私は僧侶の身分なのに、どうし
て縛り付けようとするのだ」
。翌日にはプーヴィアン郡から僧侶P師が招請され、祓除
儀礼を執行した。村内の三叉路などに呪文を書いた石を設置し、聖糸を村内に張りめぐ
らせた。それに加えて、「3日間のあいだ、日が暮れたあとは村のなかで買い物をして
はならない」と言いつけた。NK村にはミニマートと呼ばれる小さな商店が1軒あった。
だが、すべての村人が言いつけを守らないでいると、数日後に3
0代の女性がピーポー
プに取り憑かれた。翌日に再びP師が招請され、今回は「終日の村内での買い物」を禁
止し、その後これまではピーポープも出ないで落ち着いている。(2
0
0
0年1∼2月・N
K村・3
0∼5
0代男女)
3‐3.ピーポープ信仰の機能主義的分析とその射程
このピーポープ事件の社会的背景に思いをめぐらすと、ドーンチャウプー寺とその周辺につ
いての村人の不満と、伝統的価値の揺らぎとも呼べる状況にすぐに気づくだろう。
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第一に、ドーンチャウプー寺建設の寄進への不満が挙げられる。創建者T師はNK村の出身
で、多くの村人から尊敬されていたが、寄進に際しては少なからぬ反対があった。結果的に、
村内のT師の親族に金銭的余裕があったため寄進額の不足は問題にならなかったものの、村人
の多くは在来のサモンコン寺への寄進を望んでいたようである。サモンコン寺の本堂は当時建
設途上であって、ひとつの寺も満足に完成していないのに、二つ目の寺など村には必要ないと
いう意見も聞かれた。
第二に、二つの寺が併存することによる村の分裂を危惧する声も聞かれた。同じ村に二つの
寺があると、ヒートシップソーン(hiit sip soong)と呼ばれる年中行事儀礼で、村人の寄進先
が2つに分かれ、村全体が「サモンコン寺派」と「ドーンチャウプー寺派」とに分裂する可能
性がある。そのため、ドーンチャウプー寺の創建に反対だったという村人もいた。
また、ドーンチャウプー寺のなかでもL師とR師では支持者グループが異なっていた。最初
にL師を招請したグループは、かつて守護霊祭祀の専門家チャムでもあったN氏を中心にした
ものであり、一方、R師を招いたのは村長を含む村の長老たちだという。二人の僧侶の支持者
グループが異なっていた点も、二僧侶の確執と関わるピーポープ事件の混乱の基盤にあるよう
にみえる。
第三に、村外から村内に流入する貨幣への不信感を見て取ることもできるだろう。まず村外
出身のR師という外部の仏教者が、呪的サービスによって村外のコーンケーン市からも顧客と
貨幣を集めた。そのことへのL師の妬みがピーポープ譚の背景にある。また最終的に村外の僧
侶P師が村のなかでの買い物をタブー化することによって混乱を収集したしたという語りも、
ピーポープと貨幣について、外来のなにかが村内の人間関係に脅威をもたらすとして、同一視
する視線がうかがえる。
ドーンチャウプー寺の創設以来の、経済的圧迫、共同体分裂への不安、外部から流入する貨
幣経済への不信など、村落内の伝統的な価値観を変容させうる状況が、ピーポープ事件として
表象化されていたと理解することはたやすい。共同体に関わる守護霊のみならず、ピーポープ
のような個人に直接に関わるピーについても、祓除儀礼は村落ぐるみで執行された。このこと
からも、ピーポープは従来の価値観への脅威を表象し、祓除儀礼を再秩序化の契機とみなす機
能主義的視線によって、ピーポープ信仰が村落の伝統的価値観やモラルの維持・強化に関わっ
ていると分析することはさほど困難ではないだろう。ここで見たような大規模な祓除儀礼にま
で発展したピーポープ事件については、機能主義的分析は一定の射程をもつことは否定できな
い。
コーンケーン市東部に位置するEM村でも、伝統的価値への脅威や貨幣経済の浸透との関連
が指摘できるピーポープ譚が見られた。
―6―
タイの精霊信仰におけるリアリティの源泉
■語り no.
2
DD村の3
0代の女性Kがピーポープに憑かれたと言ってNG村のモータムを訪ねてき
た。聖糸を首と手首・足首に縛り、聖水を浴びせかけて問い詰めると、Kに憑依したピ
ーポープが「自分はEM村のTだ」と語った。さらに問い詰めると、Kの夫がEM村で
サイコロ賭博をした帰りに後ろをつけていったという。モータムは、針でKの体を突い
てピーポープを追い詰め、最後には足の親指から追い出した。足の指先からは黒い血が
流れていた。(2
0
0
1年7月・NK村・5
0代男性)
■語り no.
3
女性Kの家の周りに聖糸を施すために、モータムがDD村を訪れると、Kに同じピー
ポープが憑いていた。昨日Kの夫がふたたびEM村にサイコロ賭博に出かけたのが原因
だろう。さらに数日後にも、Kがピーポープに憑かれてモータムのもとを訪れた。すで
に何度も身体から追い出しているのに、三度も憑依されたのは、Kの夫が仏教の五戒す
ら守れずにビールを飲んだりしているからだ。(2
0
0
1年8月NK村・5
0代男性)
Kの夫は、酒飲みの博打好きとして、仏教的な価値観からの逸脱者として語られている。ま
た祓除師であるNG村のモータムも、この夫が原因となって女性Kはピーポープに煩わされて
いると理解している。KがNG村のモータムを訪ねた際も、またモータムがDD村を訪ねた際
も、夫は神妙な面持ちでモータムの説明を聞いており、その意味ではモータムの祓除行為は、
Kの夫の行動を諭すという「実質的」な効果もなかったとはいえない。
ここで、ピーポープの本体として告発されているEM村のTは実在の5
0代の女性である。か
つてTの夫に愛人ができたとき、夫を取り戻すために、身体に呪術的な刺青を施すことで超自
然的な力ウィサーを手に入れた。刺青=ウィサーの保持者にはタブーが課せられるが、Tはタ
ブーを守れず、そこにピーポープが発生したと噂では語られている。
■語り no.
4
Tは熱心な仏教徒で、カウパンサー(入安居)期間中は寺に寝泊まりして戒律を守っ
ていたものの、同じく寺籠もりをしていた女性たちが何人もピーポープに憑依されたの
で、ピーポープが疑われているTを娘が家に連れて帰ったという。Tは毎朝寺院に食物
を寄進するが、僧侶もTの寄進物だけは口にしないと言う。(2
0
0
1年8月・NS村・4
0
代女性)
■語り no.
5
TはEM村から追放されて、DD村近くに移り住んだようだ。Tはかなりの金持ちだ
から、もしTのことをピーポープだと名指せば、警察に訴えられて捕まえられるかもし
れない。Tが金持ちになったのはEM村の土地を売ったからだと聞いた。道路沿いの土
地で、ずいぶん高値で売れたそうだ。(2
0
0
1年8月・NG村・5
0代男性)
―7―
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0
9.
7
NK村のピーポープ譚(語り no.1)とEM村のピーポープ譚(語り no.2∼5)では細かい部
分が異なるものの、ストーリーの大枠はほぼ共通している。最初に突然死や突然の身体の不調
がきっかけとなり、専門家のモータムに相談するなかで、原因がピーポープであることが確定
し、最後にピーポープの本体と名指された人間はもと住んでいた村から追放された。
プロットが共通しているだけではなく、両事件ともに、ピーポープの本体とされた人物は、
村外から村内へと貨幣が大量に流れ込む経路のまさに中核に位置していた。従来の村落経済を
大きく変容させる可能性の中心にいたのが、R師/L師であり(語り no.1)
、女性Tであり(語
り no.2∼5)
、
彼らがピーポープの本体でもあった。
貨幣が「それまでの人間関係を瞬時に無化してしまう道具」
[新谷 2
0
0
3:2
0
9]であるなら
ば、伝統的な価値観に支えられた、贈与とコミュニケーションによって構成されている関係は、
貨幣で媒介された途端にいかなる社会的関係からも解放され、もとの関係を無化してしまうも
のであろう。貨幣経済の急激な浸透が、従来の村落共同体の価値観やモラルに対する脅威であ
ったことを考えると、外来の貨幣経済とピーポープの脅威の間に共通するものを見出すのはさ
ほど困難なことではない。
2章で取り上げた二つの事例(ドーンチャウプー寺でのピーポープ騒ぎと、呪的な刺青に起
因する女性Tのピーポープ騒ぎ)は、いずれも複数の村人による複数の語りの蓄積によって構
成された一連の物語である。ある特定のピーの事件について、複数の視点を含む複数の語りが
ある場合は、その事件をめぐる語り手たちの解釈についてある種の方向性が生成し、それが固
定化する。ピーポープという悪霊はタブー侵犯に起因して発生するという性格上、ピーポープ
をめぐる一連の語りは必然的に、伝統的な規範維持に対する脅威の表明という傾向を帯びざる
を得ない。その意味では、複数の語りが蓄積した結果、伝統的規範の侵犯とそこからの回復と
いう物語性を帯びたピーポープの語りについては、機能主義的分析が有効な射程をもつことは
当然の帰結ともいえる
4.「ピーに反する行為」に収束されるピーの語り
二つの事例の検討から、ピーポープにまつわる信仰と実践と、それをめぐる語りが、村落に
おけるモラル維持に関与している様子がうかがえた。一方、ピーポープに限らず、その他のピ
ーについても、同じような機能主義的視線に沿って理解できるものがしばしば見受けられる。
以下では、調査村NK村の語りから得られた三種のピーについてその語りを紹介する。
ピークワン2
■語り no.6
家族が死んでから1
0日ぐらいの間、誰もいないのに、家のなかで、いびきや足音、ビ
2
クワン khwan は「霊魂」を意味する言葉であるが、ここでの「ピークワン」は、近い親族の死者の霊を指す。
―8―
タイの精霊信仰におけるリアリティの源泉
ンロウをつぶす音が聞こえることがある。死んだ人が家族を心配して戻って来たもので、
ピークワンと呼ばれる。こうしたことがあるとモータムを呼んで儀礼をする。カンハー
(白い花、線香、蝋燭などを含む供物のセット)のほか、精米、塩、唐辛子を供え、家
の周りを聖糸で囲う。(2
0
0
0年2月・NK村・女性4
0代)
■語り no.7
「人が訪ねて来るのは良いが、ピーが訪ねてくるのは良くない」と言われるように、
祖先の霊がやってくると誰かが病になることが多い。そういうときは、遺産争いをして
いたり、残された家族の間で不仲があったりするときだ。そういうときは、モータムに
占いをしてもらって、先祖霊が何を欲しているのかを突き止める。先祖霊の要求を満た
せば病はすぐに快癒する。(2
0
0
0年2月・NK村・女性4
0代)
ピープラーイ3
■語り no.8
望まない妊娠で堕胎をして、特別な儀礼をせずに死んだ胎児を捨てると、胎児の霊は
ピープラーイになる。ピープラーイはカラスの姿で現れる。夜に家の壁をつついて大き
な音を立て、母親を怖がらせる。結婚せずに妊娠するのは、
「ピット・ピー(phit phi,
慣習に反する)
」
に当たるので、両親に知らせずに隠れて堕胎することがこのあたりでは
ときどき起こる。ピープラーイは、モータムによって祓うことができるが、同じ人間が
二度、三度と続けて堕胎を行うと、事態はより深刻化する。過去に発生したピープラー
イが集まって母親の身体の中に入り、母親はピーポープになる。(2
0
0
0年2月・NK村
・女性4
0代)
■語り no.9
2
0
0
0年に、SG村で死者が出たときに、故人の娘が棺を調達してきたが、あまり見栄
えが良くなかったので、別の棺を買ってきて遺体を移し入れた。だがその棺も保冷材が
使われていないものだったため、さらに高価な棺を入手して遺体を二度も移し替えた。
一度棺に収めた遺体を別の棺に移し入れるというのは、「ピット・ピー」である。その
結果、SG村にピープラーイが発生した。ピープラーイは多くの村人に取り憑いた。ピ
ープラーイは人間の頭から入っていくので、多くの人が頭痛に苦しみ、体中が痛んだ。
ピープラーイが祓われるまでは犬が一晩中吠え続けていた(2
0
0
1年2月・NG村・男性
5
0代)
。
3
ピープラーイ phii phray もタイ東北部でしきりに言及される凶悪なピーの一つであり、鳥の姿をしているとも語られ
る。吸血鬼のような存在として想像されており、大量の血が流れる出産の現場や、交通事故現場に現れるとされてい
る。
―9―
福井県立大学論集
第3
3号 2
0
0
9.
7
ピーターヘーク4
■語り no.1
0
毎年、田んぼ仕事を始める前に、田んぼの精霊であるピーターヘークに対してリアン
・ナー儀礼を行う。村ぐるみでのリアン・バーン儀礼のあとで個別に行われるので、例
年5月初めごろに行われる。リアン・ナー儀礼では、ビンロウジ、キンマの葉、クーン
の花、刻みたばこ、歯磨き粉を4つずつ準備し、それをバナナの葉で包んで、ピーター
ヘークに捧げる。そして「田んぼ仕事を始めるよ!子どもたちも幸せで健康でいさせて
おくれ!」と、田んぼに向かって呼びかける。この儀礼を怠ると、突然の頭痛で仕事が
できなくなったり、水牛が足を痛めて耕せなくなったりする。
また収穫後は刈り取った稲を6本、ピーターヘークに供えなければならない。私もか
つて、収穫後に稲を供えないでいたら、激しい頭痛に見舞われた。モータムを訪ねると、
ピー・ター・ヘークの仕業であることがわかり、聖糸を首と手首・足首に巻いて、聖水
を飲むと頭痛が止んだ。(2
0
0
0年2月・NK村・女性4
0代)
上記の事例は三章でみたピーポープの事例のように、複数の視点による複数の語りが蓄積す
ることである種の物語性が生成しているような語りではない。いずれもが単発性の事件につい
ての語りにすぎず、そこに新たな語りが織り込まれていくような、「大きな事件」ではない。
ピーポープの二事例では語りの蓄積によって、規範の侵犯と回復をめぐる物語性が発生した一
方で、本章で見た単発的な事件は同じ事件についての語りの蓄積が起こりえない。このような
単発的な事件をめぐるピーの語りは、「大きな事件」をめぐるピーの語りよりも、村落の日常
性のなかでは圧倒的に多い。
とはいえ、これらの事例についても、通底する語りの形式が見られる。いずれにおいても、
ある種の伝統的な慣習や価値観からの逸脱を発端として、ピーが発現している。ピークワンの
事例(語り no.6
‐
7)では親族内での不和、ピープラーイの事例(語り no.8
‐
9)では堕胎と納棺
の不備、ピー・ター・ヘークの事例(語り no.1
0)では収穫儀礼の不備が、それぞれピーが人
間を煩わせる原因として語られている。特に注目すべきは、ピープラーイの二つの事例で言明
されている「ピット・ピー」という状況である。
「ピット」とは、「間違った」
「誤りである」
「違反する」などの意味をもつ言葉である。
「ピッ
ト・ピー」とは、「ピーに反する(行為)
」
「
、ピーに背く(行為)
」
を指す。特に北部や東北部で
は、「娘の親の同意を得ないで、娘と性的交渉を持つこと」
[冨田 1
9
9
7]を一義的に指し、それ
に違反すると村落の守護霊の怒りを買うので、供物やお金を捧げて精霊を慰撫する必要がある
とされている。だが、上の事例では、たとえば納棺の不備についても「ピット・ピー」と呼ば
4
水田を取り仕切る精霊と考えられているピーターヘーク phii taa haek に対しては、村落守護霊の祠守のチャムを通じ
て慰撫儀礼が農事前に村落規模で実施される。
―1
0―
タイの精霊信仰におけるリアリティの源泉
れるように、「慣習に反する」行為は同時に「ピーに反する」行為でもある。逆にいえば、ピ
ーという精霊は、村落の伝統的慣習を意味する。村落の守護霊や、ピーポープ、またピープラ
ーイなどその他のピーについても、広い意味での「ピー」を慣習や伝統的な価値観と同一視す
る視角はタイ東北部に生きる人々に内面化されているともいえる。
容易に「大きな事件」となりうるようなピーポープ譚のみならず、複数の語りの蓄積をもた
ない本章で取り上げたピーについての個別の語りの集合体についても、伝統的慣習の侵犯とそ
の回復をめぐる大きな物語の理解枠組みのなかに配置することができ、その意味ではこれらの
ピーの語りから、伝統的な慣習・規範の維持という「機能」を抽出することも可能であろう。
5.機能主義的理解から逸脱するピー
5‐1.ノーンターイ事件にみる機能主義的射程の可能性と限界
以上の事例では、ピーの語りについて、伝統的な慣習や規範を維持・強化する機能を指摘す
ることができるだろう。「ピット・ピー」という言葉に象徴的に示されているように、ピーは
一種の「伝統的慣習」の表象として理解することができる。だが、ピーをめぐる信仰は常にこ
うした機能主義的な理解に収まるものではなく、機能主義的な視角に交わらないピーの語りも
数多く生成している。本論の射程は、機能主義的な理解では掬いきれないところに散在する個
別のピーの語りの理解可能性を探るものである。機能主義的な理解から逸脱するピーの語りを
分析することを通じて、村落の慣習や規範に像を結ぶようなメタレベルでの理解ではなく、村
落に生きる人々にとっての当事者自身のピーの理解へと迫ることが本論の課題である。そこで、
本章では機能主義的な理解からの転換を要請する「ノーンターイ」の事例を題材に考察を進め
てゆきたい。
■語り no.1
1
昨年に夫の叔父がノーンターイ(noon
taay)という死に方をした。ノーンターイと
は眠っている間に突然死んでしまうことである。夢のなかでピーメーマーイに誘惑され
てしまったのだろう。異常な死に方なので、通常の葬儀とは違うやり方を取った。火葬
をしないで墓地に埋葬し、半年ほど経った今月に改めて火葬をするつもりであった。家
で僧侶を招いて読経とタムブン(tham bun, 積徳行)をしたあと、墓場に向かったとこ
ろで故人の姉が火葬に反対した。火葬にすると、自分の家族までもがノーンターイする
ことを怖れてひどく動揺していた。そのため棺から遺体を取り出し、改めて埋葬を行っ
た。今後も火葬をする予定はない。(2
0
0
0年2月・NK村・4
0代女性)
タイでは、「異常死」は「通常死(taay tammadaa)
」
と区別されて、「ターイホーン(taay hoong)
」
と呼ばれる。事故死や産褥死など、病死や老衰以外の死は異常死として扱われる。異常死では
死者が悪霊ピーターイホーンになって、親族や村落に災厄を及ぼすとして恐れられる。異常死
―1
1―
福井県立大学論集
第3
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0
0
9.
7
の葬儀は通常死とは大きく異なる。NK村では、通常死の場合は亡くなった翌日の午後に僧侶
を招いて墓場で火葬を行うのだが、異常死ならば亡くなったらすぐに墓場に移動して、棺に入
れて遺体を埋葬する。半年から数年後に遺体を掘り出して改めて火葬をし、その後は通常の死
者と同じ扱いとなってタムブン儀礼が行われる。地中に埋めている間に、ターイホーンの怖し
い力が墓場の大地に吸い取られるので、通常の葬儀が可能になるという。故人の家族が積徳行
を実践し積んだ徳を死者に送ることで、死者の次なる転生がより良いものになると考えられて
いる。また、故人に徳を送ることができるのは、正常な火葬というプロセスを経たのちである。
そのため、一般に家族たちは故人の火葬を早くすませたいと考えるのだが、この事件では、
「異
常死の正常化」のプロセスに故人の親族が反対したという点でかなり異常な出来事であった。
この事件の背景には、ノーンターイとピーメーマーイ5をめぐる信仰世界が指摘できる。タ
イ東北部の出稼ぎ労働者の間で若年男性に多発した突然死ノーンターイを1
9
9
0年代初めに研究
したミルズによると、1
9
8
0年代半ば以降タイ東北部では、シンガポールや中東に出稼ぎに出る
男性が増加し、また女性も村外で賃金労働をする機会が増加した。グローバル化した資本主義
が村落生活に浸透するにつれて、伝統的なジェンダー観が揺らいだ。ピーメーマーイは、こう
した男女の性別役割についての不安観の表象であろうとミルズは分析する[MILLS1
9
9
6]
。
ノーンターイは医学的には膵臓炎に起因した睡眠時の突然死と理解されているが、ピーメー
マーイという悪霊についてのミルズの解釈学的説明も、同時代の社会状況の分析としては適切
であろう。だがピーメーマーイを「資本主義化に抵抗する伝統的なジェンダー観の表象」と見
なしたところで、NK村において、故人の姉が異常死の弟の火葬を恐怖しながらひどく拒んだ
ことの説明には決してならない。彼女は、ある抽象的な価値観が変容することに怯えていたわ
けではなく、夢のなかに現れて「私と一緒に行きましょう」と死の世界に誘う悪霊の姿に震え
ていたのである。このピーメーマーイの事例について、ミルズのように、ジェンダー観の変貌
への抵抗といった機能主義的枠組で理解することはおそらく無理なことではない。だが、そう
した規範的なレベルでの理解の根底にあるもの、あるいはなぜそれがピーとして表象されなけ
ればならないかは、機能主義的な理解では説明することは難しい。
5‐2.語りのなかに存在するピー
前節でみたノーンターイの事件以上に、伝統的な価値観の維持・強化という枠組では捉えき
れないようなピーの語りはNK村で数多く見受けられる。
5
ピーメーマーイ phii mae maay は夢に現れる性欲の旺盛な寡婦(メーマーイ)の姿で語られる。村のなかにノーンタ
ーイの犠牲者が出ると、ピーメーマーイから身を守るために、家の戸口に男性器を強調した人形を立てたり、日が暮
れたあと男性が女装をしたりすることで、ピーメーマーイの目から逃れようとする。
―1
2―
タイの精霊信仰におけるリアリティの源泉
■語り no.1
2
母が病気で寝込んでいたとき、子供2人が自分の上を飛び回っていると母が話してい
た。しばらくしたらタイの伝統衣装を着た女性が寝台の脇に現れ、子供のピーを追い払
0
0
4年
ってくれたと言っていた。助けてくれた女性は、きっとピー・フアン6だろう。(2
3月・NK村・4
0代女性)
。
■語り no.1
3
3年前に夫と車に乗っていて事故にあった。後ろから車が接触して、乗っていた車が
反対車線に入りこみ、向かってきた車と衝突した。私も夫も車の外に放り出され、私は
気を失った。夫は意識があったので、私を道路の外まで引きずり出してくれたが、夫は
さらにもう1台の車にぶつかってしまった。幸い夫も私も無事だったが、私は意識を失
っている間にピーを見た。白黒の色をしたピーで、自分をどこかに連れて行こうとして
いた。倒れていた私を夫が道路の外に出してくれたために助かったのだろう(2
0
0
0年2
月・NK村・4
0代女性)
。
いずれも他愛もないピーの語りである。話の始まりも終わりも唐突なもので、語りを越えた
外側に広がるものではない。こうした何でもないピーの語りは日常生活のなかで無数にみられ
るが、個々の語りを単独で取り出してみても、個々のエピソードは一つの大きな物語として結
びつくものではない。機能主義的にピーが表象するものを人類学者が想像しようとしても、そ
れがきわめて困難なピーの語りが村落生活には無数に蓄積している。こうした機能主義的な視
点から逸脱したところに散在するピーの語りとはいったいなんなのか。そこでのピーとはいっ
たいなにか。
■語り no.1
4
先日トゥムラ7にピーの話をしてから数日間、夜にうなされて眠れなくなってしまっ
た。うなされたのはピー・アム(夢魔)の仕業かどうかはわからないけど、怖くて電気
をつけないと寝られなかった。トゥムラは大丈夫だったか?(2
0
0
1年8月・EM村・4
0
代女性)
解釈学的にピーを分析して、そこになんらかの「意味するもの」を見出す作業以前のことと
して、あらかじめ留意しておくべきは、ピーはそこに生きる人々にとって畏怖・恐怖の対象だ
という点である。それは守護霊であろうと、ピーポープであろうと、その他のピーであろうと
変わらない8。人々はピーを語り合い、語りを通じて確固たるリアリティを感じ、恐怖する。
6
フアン huan とは「家」のことで、ピーフアンとは、家の精霊のこと。自分との関係性が確認できるような近しい親
族の死者の霊というよりは、はるか前の先祖の霊、またはその土地を守護する精霊や家屋に住み着いた精霊のように
想像され、一般に良き霊と考えられている。
7
8
トゥムラとは、筆者のこと。
恐怖の文化誌をまとめたイーフー・トゥアンによると、恐怖は緊密な人間関係を作り上げる要因である。逆にいえば、
自然の猛威であれ、人間関係であれ、恐怖を感じる対象が除去されてしまうと共同体内部の人間関係は弱体化するも
のである[トゥアン 1991:304]
―1
3―
福井県立大学論集
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0
9.
7
多くの人々はピーを直接目にすることはなく9、その意味で、ピーは語りのなかにしか発現し
ないのだが、まさにその語りのなかにこそピーをめぐる現実が存在する。
5‐3.ピーという不可知性
ではピーが語られる場、あるいはピーについてのリアリティが生成する状況とはいかなるも
のか。語り no.7で、「人が訪ねて来るのは良いが、ピーが訪ねてくるのは良くない」とあるよ
うに、ピーが生活のなかで発現するのは、ほとんど常になんらかの病や災厄が生じた場合に限
られる10。当然のことだが、ある人がピーを目撃し、そのあとで病や災厄が頻発するのではな
く、多くの場合、時系列としては、災厄が起きてからピーについての語りが過去遡及的に生成
する。だからといって、ピーは単に「病や災厄の原因」とみなされているのではなく、第一に
それは「恐怖」の対象である。
原因不明の病や突然の災厄などの異常な現象を目にして、人は理解しようとする。
「いかに」
と「なぜ」の問いかけによって、事象の理解を深めようと試みる。しかし現実には「いかに」
の問いから得られるメカニズムの解説によって納得するわけでもなければ、「なぜ」の問いに
よって導かれる運命論的な説明に満足するわけでもない。ある好ましくない不幸な現象が、あ
る特定の場で起こったことへの理解の追求はいずれ頓挫する。要するに、最後のところは「わ
からない」のである。だが、この「わからなさ」を結節点としながら語りを紡いでいくことこ
そが、ピーの語りの重要な特性ではないか。
江戸期の妖怪について歴史学的研究を行う香川雅信による、日本の妖怪について意味論的な
理解はタイのピーを考えるうえで示唆的である。
「…日常的な因果領域で説明の付かない現象に遭うと、通常の認識は無効化され、心に不
安と恐怖が喚起される。このような言わば意味論的な危機に対して、それをなんとか意味
の体系のなかに回収するために生み出された文化的装置が「妖怪」だった。それは人間が
秩序ある意味世界のなかで生きていくうえでの必要性から生み出されたものであり、それ
ゆえに切実なリアリティをともなっていた。民間伝承としての妖怪とは、そうした存在だ
ったのである」
[香川 2
0
0
5:2
1]
。
「説明が付かない現象」を前に、人は不安し、恐怖する。その意味論的な危機に対して、そ
れらを「説明が付く現象」に変換させるための装置が「妖怪」であると香川は論じる。タイの
9
ピーについての専門家である祓除師のモータムのなかには、ピーを目に見えるものとして語る場合も存在する。また
彼らは目に見えないピーを視覚化するような様々な技術を駆使するが、それについては別稿で改めて論じる。
1
0
林行夫によると、コーンケーン県の調査村において災禍の原因となる悪霊は、次のように類型化されている[林
1989:33‐34]。(1)生活世界(集落と農地)から排除される異界に住む無数の自然霊、
(2)成長過程途上で死亡し、
生活世界への執着を残す人間(女・子供)の死霊、(3)転送されるべき功徳を要求するために憑依する祖霊、
(4)
守護霊の制裁としての「悪霊」的効果。その結果としての災禍、
(5)ウィサー(wisa)を把持する者が戒を破った
ために生じる悪霊(phi pop)の5類型である。
―1
4―
タイの精霊信仰におけるリアリティの源泉
精霊たるピーについても、人々の怪異譚のなかでのみ発現し、恐怖というリアリティを生成さ
せる。語り no.1
4にみられた「よくわからないけど、寝付けなかった」ということばの裏には
「ひょっとしたらピーの話をし過ぎたために、ピーの機嫌を損ねて眠れなくなったのかも…」
という漠然とした不安が見え隠れする。「わからないけど、でも…」という「不可知」の部分
を叙述するのがピーについての語りの根底にあるだろう。
アフリカにおける近年の呪術研究をレビューするなかで、近藤英俊は「確かにアフリカでは
富の不平等分配と呪術的思考・実践とが結びつくことが多いが、だからといって人びとが一般
論として経済的格差と呪術的実践をイコールに結んでいるわけではない」
[近藤 2
0
0
7:7
5
‐
7
6]と近年の呪術のモダニティ論を批判する。近藤によると、呪術的実践が日常生活のなかに
現出するのは、当事者の身に降りかかった災いを通常の仕方で理解できない出来事として認識
する場合であり、「知らない」
「わからない」と感じる状況こそが、呪術的思考の現れ出る契機
だという。
守護霊やピーポープを機能主義的に分析した際に浮上した「伝統的慣習」の表象としてのピ
ーという位置づけは大きく誤ってはいないだろう。だがより正確にいえば、「伝統的な慣習」
そのものというよりは、そうした「慣習の正当性の根拠」が「ピー」なのであろう。なぜ守護
霊の祠の森の木を切ってはいけないのか。なぜ結婚前に性的関係をもってはいけないのか。な
ぜ村のなかで牛や豚の肉をさばいて販売してはいけないのか。なぜ、そうした行為が「ピット
・ピー」として慣習に反する行為なのか11。それは「ピーに反する」行為だからである。ピー
に反する行為は恐ろしい帰結をもたらすものである。この自己撞着的な解答こそがピット・ピ
ーから生じる無数の問いに対する究極的な解答である。そこから先の問いは存在し得ず、「ピ
ー」の「正当性」を疑うことはできない。「わからなさ」の表象たるピーはそもそも問いの対
象とはなりえない。伝統的慣習、突然の異常死や原因不明の病、そのほか日常のなかの不可解
な事件、理解困難な事象、これらを物語る=理解しようとする試みのなかでも、常に残存し、
沈殿する「わからなさ」の部分、「不可知」の領域こそがピーの語りの根底に存在する。
6.「見えない」ピーを「語る」こと
6‐1.日本の妖怪の「見え方」
ピーは「語り」のなかにしか存在しえない。「語ること」により、人々は強烈なリアリティ
を感じ、恐怖する。その一方で、多くの人々がリアリティを感じるのは、あるものが
「見える」
ということでもある。視覚的な存在、または図像化されたものに人は強く実在感を感じ取る。
では、タイのピーにおける「見え」あるいは「視覚表現」とはいったいどのようなものか。そ
1
1
これらはいずれもNK村で「ピット・ピー」とされる行為である。ピット・ピーを行ったものは、祠守のチャムとと
もに、守護霊の祠サーン・ドーンチャウプーを訪れ、守護霊チャウプーに対して慰撫儀礼を行わなければならない。
―1
5―
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7
の「見え」は「語り」といかに関わりながら、ピーをめぐる現実が構成されているのか。
この問いを考えるにあたって、まずは超自然的存在の視覚表現がきわめて活発な日本の妖怪
研究が一つの参考になる。民俗学者の小松和彦は、日本の妖怪概念を、「現象」
「存在」
「造形」
の三つの意味領域に分けて整理している[2
0
0
6:1
0
‐
2
0]
。
小松によると、第一の意味領域は、出来事や現象としての「現象‐妖怪」である。たとえば
山仕事をしていて川の近くからから小豆を洗うような音が聞こえてきたとする。近くに行って
も音の原因がわからないような怪音現象を「小豆洗い」と呼ぶように、恐怖や不安を含む怪異
体験が人々の想像力を刺激し、そこに生み出された物語が「現象‐妖怪」である。
第二の意味領域は、人間の制御外にある超自然的存在としての「存在−妖怪」である。特に
江戸時代以降、「現象‐妖怪」の「存在‐妖怪」化が急増したという。
「
『小豆洗い』という妖怪は、現象であって、存在ではない。ところが、この
『小豆洗い』
という神秘的現象が、
『小豆洗い』
という妖怪存在に変化していったのである」
[小松 2
0
0
6:
1
4]
「怪音が聞こえることを〈小豆洗い〉と呼ぶ」のではなく、「
〈小豆洗い〉が怪音を立てている」
と歴史的に変化したと小松は指摘する。現象に則して「名づけ」が行われると、現象の個別化
や細分化が進行し、やがて現象が実体化して「存在‐妖怪」として想像されるのは日本の妖怪
に広くみられる特性だという。
第三の意味領域は、造形化・視覚化された「造形‐妖怪」である。古代以来、怪異(
「現象‐妖
怪」
)
やその原因として実体化された超自然的存在(
「存在‐妖怪」
)
が妖怪として語られてきたが、
こうした妖怪が造形化されるのは、「絵巻」の製作が始まる中世以降のことである。伝承での
妖怪の説明に沿って絵師が造形化し、ひとたび造形化されると、その図像は人々に共有され、
固定化される。日本で妖怪の造形化が盛んになった契機としては、室町時代の『つくも神絵巻』
などにみられる「道具の妖怪化」と、1
8世紀後半の浮世絵師鳥山石燕に始まる「妖怪図鑑」の
伝統が挙げられる。ここに挙げた三つの意味領域が重層しながら、現代日本の妖怪文化の活性
化を分析することができるという。
ここで小松が指摘する三つの意味領域は、超自然的存在をめぐるリアリティとの、異なった
三つの関わり方を示唆している。「現象‐妖怪」とは、人がある怪異現象を直接経験することで
怪異のリアリティが構成されること、「存在‐妖怪」は、語りのなかで「実体化」した存在によ
って怪異現象を説明し、怪異のリアリティを受容すること、
「造形‐妖怪」とは、視覚的に固定
化されることで、より強化された「実体」こそが現実となり、怪異以外の現実世界にもその「実
体」が拡散していく状況と言い換えることができるだろう。
さて、「語り」のなかにしか存在し得ないタイ東北部のピーは、小松の言い方にならうと「現
象−ピー」であり、「存在‐ピー」である。たとえばNK村で二人の僧侶L師とR師の確執に起
―1
6―
タイの精霊信仰におけるリアリティの源泉
因して発生したと語られたピーポープ(語り no.1)では、立て続けに起こった二つの異常死が
発端にあり、その原因として「ピーポープ」が疑われ(
「現象−ピー」
)
、
ピーポープの同定が行
われるなかで、L師を本体とする「ピーポープ」が実体化され(
「存在−妖怪」
)
、
近い将来に予
想される次なる災厄を防ぐために、L師が村から追放された。
6‐2.タイのピーの「見え方」
では、小松が第三の意味領域として挙げた「造形‐ピー」はどうか。日本の「妖怪」以上に、
現実感をもって語られるタイの「ピー」では、造形化や視覚化はなされているのか。視覚的な
実体をもつことで、ピーのリアリティは強化されているといえるのだろうか。
NG村の精霊祓除師モータムは、ピーポープの姿について、次のように語る。
■語り no.1
5
ピーポープにはさまざまな姿形がある。ブタやネコ、サルの姿など動物の姿で現れる。
むかし、ピーポープの祓除儀礼をしていたら、豚が怒って人に向かって飛びかかってい
ったのを見たことがある。(2
0
0
1年6月NG村5
0代男性)
ここではピーポープは動物の姿を取って現れるという。また別の動物の例も記録されている。
「目撃者の証言から、ピーポープはネズミやマングースのような姿だろうと推測できる。
イサーン語では何体ものピーポープをもっている人のことを『ハーンテムガム』と呼ぶ。
これは『手一杯に尻尾を握っている』という意味である」
[KIMTHONG1
9
9
0:3
4]
だがピーポープは常に動物として「造形化」されているわけではない。調査村周辺での聞き
取りでは、ピーポープの姿形について質問しても、「見たことがないからわからない」という
答えが圧倒的に多い。
■語り no.1
6
村でピーを祓う儀礼をすると、ピーポープの発する大声が聞こえてくるので、誰もが
ピーポープを祓っていることを知って見物に来るものである。(2
0
0
1年8月NG村・5
0
代男性)
■語り no.1
7
昨年末にピーポープを追い払うためにモータムが2人村にやってきた。深夜2時ごろ、
2人のモータムが村内を走り回ってピーポープを追いかけていた。モータムたちにはピ
ーポープの姿は見えるものの、村人たちには何も見えない。モータムたちは「あっちだ!
こっちだ!」と声を上げながらピーポープを追いかけて村のなかを走り回り、集まった
村人たちも怖がりながらモータムの後ろを追いかけた。午前4時頃、ようやく村の集会
所のあたりでピーポープを捕まえることができた。(2
0
0
0年2月・NK村・4
0代女性)
ピーの祓除儀礼を行うモータムはともかく、そうでない普通の村人たちにはピーポープの姿
―1
7―
福井県立大学論集
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0
9.
7
は見えないものと認識されている。一方、堕胎に起因して発生するというピープラーイについ
ては、その姿について一定の共通認識がうかがえる。
■語り no.1
8
堕胎をすると大量の血が流れるので、その血を求めてピープラーイが集まって来る。
すると妊婦は気を失って倒れてしまう。ピープラーイは夜には鳥の姿になって空中を飛
び回る。ピープラーイがもたらす災厄を防ぐには、聖糸を家の周りにめぐらし、妊婦に
も聖糸を巻き付ける必要がある。(2
0
0
1年2月・NG村・6
0代男性)
■語り no.1
9
何年も前に、夫がサウジアラビアに出稼ぎに出ている間、義妹が未婚で妊娠して、堕
胎を計画していた。あるとき義妹と森を歩いていたら、彼女は急に気分が悪くなって、
そのまま流産した。まだ肉のかたまりのような胎児は袋に入れて森に投げ捨てた。あま
りお金がなかったのですぐに医者に連れて行くこともできず、動けなくなった義妹をそ
の場に残して、家に助けを呼びに走った。家に向かう途中、ずっとカラスが大声で啼き
ながら後ろを追いかけてきた。あれはピープラーイにちがいない。(2
0
0
0年2月・NK
村・5
0代女性)
堕胎で大量の血が流れたところに発生するという「ピープラーイ」が鳥の姿をしているとい
う語りは、日本における妖怪「ウブメ」や「ウバメトリ」
、
その起源とも言われる中国の「姑獲
鳥」
「夜行遊女」が鳥の姿として描かれるのと共通しており[江馬 1
9
7
6:8
3]
、
アジア的な怪異
の想像力に一種の通文化性すら感じる。だが、タイのその他のピーも同時に俯瞰すると、ピー
プラーイが鳥の姿として形象化されているというのはむしろ例外的な事例であることに気づく。
その他のピーは特定の姿をもつものとしては語られないし、個々のピーの概念の細別化は、日
本の「妖怪」のようには徹底していない。たとえば、ピーポープのうち、「ポープ・スア」と
いう家筋に沿って伝えられるピーポープは、NG村では「ポープ・ピーファー」と呼ぶことも
あるように、タイ東北部でもっとも有名な「ピーポープ」であっても、
「ピーファー12」という
別のピーと混同されることがある。
タイのピーは多様な名前で呼ばれ、それぞれある種の傾向性はもっていながらも、ピーの細
分化・個別化は不徹底で、日本の妖怪のように造形化された個々の妖怪が各々異なった怪異現
象と結びつけられるような状況はみられない。近年では映画やドラマで「ピーポープ」が描か
れることもあるが[cf. 四方田 2
0
0
9:9
6
‐
1
0
2]
「
、Poop wiit sayong」
(2
0
0
0年)では頭がはげ上が
った巨大な「怪獣」のような姿、「Loon」
(2
0
0
3年)では「白髪の老婆」として描かれており、
図像表現が一定しているとは到底いえない。
1
2
ピーファー phii faa とは「天のピー」と訳せるもので憑依するピーである。モーラムピーファー moo lam phii faa と呼
ばれる女性の職能者に憑依し、モーラムピーファーは舞踊をすることで病治しを行ったりする。
―1
8―
タイの精霊信仰におけるリアリティの源泉
6‐3.「見え」を凌駕する直接経験の「語り」
日常生活のなかで強烈なリアリティをもつピーは、「語り」のなかに生成するだけで、決し
て特定の姿形をもつわけではない。もちろんある場合には、ピーは「目撃」される。すでに取
り上げた事例でも、病床で悪霊を追い払った女性のピーフアン(語り no.1
2)
、
交通事故現場で
自分を連れて行こうとした白黒のピー(語り no.1
3)
、
カラスの姿で追いかけてきたピープラー
イ(語り no.1
9)などはまさに「見えた」ものである。
とはいえ、通常は、ピーの姿は「見えない」
[アヌマーン 1
9
8
1:1
5
0]
。だが、たとえ姿が「見
えない」としても、ピーの「語り」への信頼性が揺らぐわけではない。なぜなら、ピーについ
ての「語り」はしばしば話者の、あるいは話者の知人の「直接体験」を綴ったものだからであ
る。ビンロウをつぶす音を聞いて故人が家に戻ってきたことを知り(語り no.6)
、
祓除儀礼で足
の親指から流れた血を見てピーポープが体外に排出されたことを知り(語り no.2)
、
原因不明の
頭痛に襲われることでピー・ター・ヘークの怒りを知る(語り no.1
0)
。
日本の「造形−妖怪」
では、形象化された妖怪の「見え」が怪異を規定し、その妖怪のリアリティを生成するのだが、
タイのピーでは「見え」という視覚的要素は二義的なものにすぎない。
中村雄二郎[1
9
7
9:2
8
2
‐
2
8
4]によると、「近代の知」では諸感覚のなかで視覚が絶対的優位
に立ち、ものや自然を対象化してきた。視覚が独走するなかで、「見るもの」と「見られるも
の」とが引き離され、主体と対象とが分離したと中村は説く。
しかし、ピーについては、「視覚的表現」は必ずしも重要でない。ピーの「語り」について
も、「視覚的経験かどうか」
、
あるいは「見えたかどうか」は問題ではない。また「触覚」や「聴
覚」などその他の感覚がピーの「語り」のなかで特定の地位を占めるわけでもない。ピーにつ
いての語りが中村のいう「近代の知」に根ざしたものでないならば、ピーの「語り」がもつ根
拠はどこから来るのか。
重要なのは、いずれの事例においても、語り手やその知人の、なんらかの「直接経験」を語
っているということである。前章で見たように、ピーの語りは、何かを完全に説明し尽くすこ
とを追求せずに、「わからなさ」
「不可知性」という要素を根底に含有する。
「不可知性」を要素
として含むピーの語りは、語り手や語り手の近しい知人の「直接経験」であるからこそ、それ
は信じるに足り、リアリティが構成される。見えないものであろうと、近い見知った人間が語
っているからこそ、それは現実なのである。
ここに、ピーの二つの特性が浮かび上がる。ピーとは、語り手やその近親の人の
「直接経験」
のなかで言語化され、
「不可知性」
をその語りのなかに内在化させる。
その意味では、
中村[1
9
92]
が「近代の知」と対照的に論じている「臨床の知」はピーの語りの背景にある知のかたちと非
常に親和性があるだろう。中村によると、仮説と演繹的推理と実験の反復から成り立っている
「近代の知」に対して、「臨床の知13」は直感と経験と類推の積み重ねから出来上がっており、
―1
9―
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3号 2
0
0
9.
7
そこでは「経験」が大きな働きをしているという。
ピーについて、抽象的な語りは存在しない。ピーとは何かについて人々が語り合う事態はあ
りえず、ピーについての語りは、規模の大小はあっても、ある特定の事件や現象の理解の試み
のなかにおいてのみ存在する。そのことは、ピーポープやピープラーイのようなカテゴリー化
されたピーについても同様である。ピーポープとはいかなるものかについて、説明的に抽象的
に語るのは、特定の精霊祓除師だけであり、多くの村人は「ピーポープとはなにか」には関心
がなく、また「ピーポープなるものの姿形がどのようであるか」はどうでもよい。重要なのは、
現実世界の中で、特定の人間や村落に、事件性をもって関わってくる具体性のあるピーであっ
て、理解の困難な事件に対して、直接経験を通じてなんとか理解を試みようとする語りのなか
にこそピーが発現し、それこそがピーの本質である。
7.「不可知性」と「経験主義」が構築する現実
タイで「私はピーポープの調査をしています」と自己紹介すると、たいていのタイ人は「ピ
ーは本当にいるの?(phii mii cing rww plaaw)
」
と訊いてくる。「本当にいるかどうか」はよく
わからないので、私はそのままタイ人に問い返すことにしている。すると多くは次のように答
える。「わからない。でも怖い(may ruu tee klua)
」
。
そもそもピーについては「存在するかどうか」という問いは立てられない14。上座部仏教を
信仰する一般的なタイ東北部村落において、ピーは、伝統的な慣習の表現であり、病苦の原因
であり、そしてなによりも「不可知性」そのものである。ある不可思議な現象についての問い
かけを積み重ねた先の、行き止まりの部分に常にピーは位置している。それ以上は「わからな
い」という状況について、不可知であることを宣言しながらも語りを成立させる、それがピー
についての語りである。
その「わからなさ」という「不可知性」の危うさを補うのが、語りのなかに散りばめられた
語り手本人やその知人の「直接経験」である。「よくわからないのだけど、私の/知人の経験
では…」という極端な経験主義、いわば「ハイパー経験主義」により、「不可知性」は一瞬に
して聞き手の通常の理解の枠組を越えて、ピーのリアリティを発生させ、そこに恐怖を喚起さ
せる。
1
3
中村は「臨床の知」の後ろ盾としてコスモロジー、シンボリズム、パフォーマンスの3つの特性を挙げているが、そ
のいずれもが精霊信仰をめぐる宗教実践と密接な連関を持つ。この点については、精霊祓除儀礼に焦点を当てた別項
で詳しく論じる予定である。
1
4
日本の妖怪について歴史民俗学的研究を進める香川雅信は、
「妖怪は本当にいるのか」という問いは人文科学のアプ
ローチには無意味なのだが、多くの人々にとっては「いる」・「いない」という二項対立でしか捉えられず、これは近
代の妖怪に対する態度の反映だと指摘する。香川によると、江戸時代には「ある/ない」の二項対立を超えたところ
で、いわば「生活の潤い」として妖怪を扱っていた。そこに客観性・社交性を失わないまま、超自然的存在と関わる
秘訣があるという[香川 2005:293‐294]。
―2
0―
タイの精霊信仰におけるリアリティの源泉
「ハイパー経験主義」によって語りの正当性が保証され、複数の語りが積み重なると、語り
の内容の説得力が増し、語り手の経験が沈殿した部分にピーの色濃い現実が生まれる。本章の
冒頭で紹介したNK村のピーポープ事件は2
0
0
0年2月にピーポープが僧侶によって制圧された
のちにも、ほかに新たな語りを次々と生んでいる。
■語り no.2
0
L師は現在でもピーポープをもっていて、NK村を去って移ったNW村では頻繁にピ
ーポープ事件が起きている。NW村にもL師のことをピーポープだと疑っている者もい
るが、L師を追い出そうとする者はいない。というのも、何の根拠もなしにL師をピー
ポープとして告発すると、逆にL師から訴えられて警察に逮捕されてしまうかもしれな
いからだ。だからNW村の人たちはおとなしくしているのだ。(2
0
0
1年6月・NG村・
5
0代男性)
■語り no.2
1
私の娘は、L師の息子と今年結婚した。生まれてくる孫はピーポープになる可能性が
あるかもしれない。現在でもNW村でときどきピーポープが悪さをするという。これは
たぶんNK村から追い出されたL師のピーポープである。たとえ年を取ってL師が死ん
でも、ピーポープを引き継ぐ子孫がいなければ、ピーポープだけが存在し続けて村に災
いを引き起こすと聞いたことがある。(2
0
0
1年6月・NK村・4
0代女性)
■語り no.2
2
L師は自分がピーポープであることを認めないから、救うことができない。いまでも
僧侶をやっているようだが、L師は戒律を守っていないのだから、L師に対してタムブ
ンをしても、その人は徳を積めるはずがない。L師自身がポープであることを認めてし
まえば、私のモータムの術で治すこともできるが、自分で認めなければ救えない。実は
ピーポープとその持ち主をまとめて殺してしまう術も私は知っている。それを使えばL
師はあと1週間で死ぬだろうが、師匠に禁じられた術なので使わないことにしている。
(2
0
0
1年6月・NG村・5
0代男性)
これらの語りは1
9
9
9年のNK村のピーポープ事件の記憶の残滓というよりは、そのあとで新
たに発生した語りである。こうした語りが繰り返され、村人たちの記憶に蓄積するなかで、
1
9
9
9
年のNK村のピーポープ事件は日常生活の現実に深く痕跡を残し、さらには個別の事件を超え
て「ピーポープ」という抽象的概念が実体化してゆく。その結果、三章や四章で分析したよう
な、伝統的な規範の侵犯とその回復という、メタレベルのより大きな物語が発生し、それが人
類学的な機能主義の射程に捉えられる。
一方、五章以降で紹介した、病床で母親が見たという悪霊から助けてくれた「ピー・フアン」
(事例 no.1
2)
、
ピーの話をし過ぎたために夜に眠れなくなった原因として想像された「ピー・
―2
1―
福井県立大学論集
第3
3号 2
0
0
9.
7
アム」
(事例 no.1
4)などは、いずれもその語りだけを取り上げては、それ以上のリアリティを
獲得し得ないものである。しかし、それらがまったく別の「ピー・フアン」や「ピー・アム」
の語りと併置されることで、「ピー・フアン」や「ピー・アム」の総体が実体化する。
あるピーの語りは語り手の「直接経験」を含むことによって個別のリアリティを確保するが、
そのピーの語りが存在することが、同時に別のピーの語りを保証する。それらが相互に説明し
合い、互いに正当化することで、総体としてのピーの語りはさらなる強固な現実を構築する。
人間の世界認識の様式として、認識の「論理科学モード」と「ナラティヴモード」を区別す
る見方がある[浅野 2
0
0
1:4
7,野口 2
0
0
5:6
‐
7]
。
「論理科学モード」とは、自然科学に代表
されるような思考様式で、「一貫性と無矛盾性」を必要条件とする。もう一方の「ナラティヴ
モード」は、文学のような、人の心を引きつけるストーリーをもち、必ずしも「真実」とは限
らない歴史的説明をもたらす。両者は互いに還元不可能であり、人間の一般的な認知活動には
後者の「ナラティヴモード」がきわめて重要だという。
一見、個別のエピソード以上のなにものでもなく、集合的に大きな物語を構成しているよう
には見えないようなエピソード的なピーの語りの本質は、不可知性と直接経験であると指摘し
たが、それらはまさに「ナラティヴモード」において行われる思考様式である。それらは、抽
象化された「論理科学モード」を決して受け入れない。
コーンケーン市内のバスで偶然隣に乗り合わせた2
0代の女性にピーの話をしたところ、「ピ
ーなんているわけがない。あなたは大学院にまで行ってピーなんて信じているの?」とピーに
対する関心すら激しく否定されたことがあった。彼女はコーンケーン県では珍しいクリスチャ
ンであった。伝統的なタイの宗教複合の実践空間から一歩外に出ると、ピーの語りがもつ「不
可知性」を含み込んだ世界理解は許容されない。タイでは、西洋起源のキリスト教は
「近代性」
や「発展」を象徴する宗教と見られることが多い。「不可知性」と「ハイパー経験主義」によ
って支えられる、ピーをめぐる世界理解は、同じく西洋がもたらした「近代科学」の知から理
念的には、排除されるべきものなのであろう。
複数の視線による複数の語りが蓄積することで「大きな物語」が発生するようなピーの語り
は、機能主義的な分析が可能であるとは述べてきたが、そうした「大きな物語」を構成する無
数の語りも、個別の語りが発生したその現場においては、個別のエピソードがもつ二つの特性
を有していた。三章で取り上げた、呪的刺青をめぐるタブーから生じたピーポープ事件(語り
no.2‐5)についていえば、物語の全体としては、賭博と酒におぼれた男を非難し、恋愛呪術
を用いようとした女を非難する「大きな物語」としてみることができる。しかし、それを構成
する個別の語りは、それぞれの発生の局面においては、ピーポープの不可知性とピーポープを
めぐる直接経験の語りに過ぎなかった。
ピーの語りは、複数のアスペクトをもち、それらは無数の層を構成している。ある特定の事
―2
2―
タイの精霊信仰におけるリアリティの源泉
件に語りが収束し、蓄積することによって「大きな物語」が構成されると、それは容易に伝統
的規範や慣習の違反と回復をめぐるストーリー性をもち、人類学的な機能主義の視線と見事に
交錯する。だが、そうしたストーリーを構築させる位相とはずれたところで、カテゴリー化さ
れたピーの語りが収束し、ピーポープやピープラーイというカテゴリー化されたピーのリアリ
ティが構築される。そこに共通したストーリーを見出すことは困難ではあるが、社会的機能で
は一括できないピーのカテゴリーをめぐる現実が構築される。また別の位相においては、無数
のエピソードが、互いに互いの正当性を保証し合い、そこにピーなるもののリアリティそのも
のが構築される。この個別の語りがまさに発生する位相において、個別のピーの語りの正当性
を支えているのが、本論でみた「不可知性」と「ハイパー経験主義」という二つの特性である。
【参考文献】
アヌマーン ラーチャトン,プラヤー 1
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アヌマーン ラーチャトン,プラヤー 1
9
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アヌマーン ラーチャトン,プラヤー 1
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