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伝説に包まれる岩槻城(前篇) 築城から落城まで

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伝説に包まれる岩槻城(前篇) 築城から落城まで
埼玉彩発見 知られざる歴史を探る
伝説に包まれる岩槻城(前篇)
築城から落城まで
岩槻城址公園内の曲輪跡
築城主は誰か?
!いたま市岩槻区にある岩付城(岩槻城)
易ではないことが事前に分かっていた。
は、1457年(長禄元年)
の築城、あるいは1478
築城を主に任されていた道灌は、思案に暮
年(文明10年)の築城の二つの説がある。こ
れていたある日、枯れ枝をくわえた一羽の白
れまで、江戸城を築いた太田道真・道灌親子
鶴が沼地に枝を落とし、その上で羽を休ませ
が1457年に築城したというのが通説となって
ている姿を見て、鶴の知恵を借りることを思
いたが、20年ほど前にある資料の発見から、
いついた。数千人の人夫を動員して近くの山
1478年に成田正等が築城したとの説が有力視
から木や竹を伐り出し、それを束ねて数万の
され始めた。
筏を造り沼に浮かべ、その上に土を載せて平
そもそも、太田道真(資清)
・道灌(資長)
地にしたと言う。その後、沼地から平地に変
親子の築城というのは、古河公方の足利成氏
わった土地に、堅固な城を築いたことから『白
と争っていた扇谷上杉持朝が、利根川を挟ん
鶴城』や『竹束城』という別名が付いたとい
で古河公方の侵攻を防ぐために、江戸城を中
うのが有名な話。
心に八王子城、河越城、鉢形城とともに扇の
こうした伝承を含めて、江戸時代に書かれ
要のようにして道灌親子に築城させたと伝え
た『鎌倉大草紙』や『北条記』などの戦記物
られている。岩槻は古くから、奥州に通じる
を根拠に、長く岩付城は太田道灌が1457年に
『奥大道』があり、東北と鎌倉を結ぶ重要な
築城した、というのが定説だったが、20年前
場所だった。古河公方との戦には重要な前線
に新たな築城者の名前が出現した。東京都北
拠点となることから、この地に城を築く必要
区が区史を編纂した時に、
『信濃資料』とい
があったのである。
う文献が発見され、その中に岩付城は1478年
おくおうみち
築城に当たっては数々の逸話が残され、例
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えば岩付城一帯が沼地で、埋め立てるのに容
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に成田自耕斎正等が築城したと書かれていた
元荒川
明戸口
天神曲輪門
茶屋曲輪
樹木屋敷
田中口
新正寺口
米蔵
籾蔵
本丸
竹沢曲輪
二の丸
侍屋敷
三の丸
武具蔵
鐘楼
鍛冶曲輪
新曲輪
愛宕神社
諏訪明神
加倉口門
凡
例
●町家
●川、沼、堀
●土塁
●道
城内図
のである。信濃資料が鎌倉大草紙や北条記が
族。その後、力を付けて現在の行田市一帯を
著わされた時代よりもずっと古いことで、こ
治めていた鎌倉時代からの豪族だった忍氏を
ちらの説が正しいとなり、今では成田正等の
滅ぼし、後に『浮き城』で有名になる忍城を
築城という説が支持されている。
築城した。年代的に忍氏を滅ぼすのと相前後
して、岩付城を築城するなどは少し無理な
懐疑的な成田正等築城説
話」と、飯山氏は異を唱える。また、最近で
確かに、著された年代が江戸期の北条記な
は成田正等の『正等』は、太田道真の法諱(仏
どに比べ、信濃資料は平安時代の中世からの
法社会に本名)と唱える説もあり、成田正等
出来事を記録した書物だけに、成田説には信
の築城には疑問の点が多いのが現在の状況だ。
ぴょう性はある。ただ、成田説はこの信濃資
料にしか出てこず、それを裏付ける補完資料
道灌は築城の名人に非ず?
がないのが泣き所。20年過ぎた今も、成田説
余談だが、太田道灌は築城の名手として知
を補完する資料は発見されていないことで、
られている。江戸時代に書かれた『太田道灌
懐疑的に判断する人々は多い。12年間にわた
雄飛録』という物語には、軍略に優れ和歌に
って旧岩槻市の市史編纂に従事した!いたま
も通じた武将として紹介されているが、その
市職員の飯山実氏もその一人で、成田説には
ひ孫に当たる太田資武(太田資正=三楽斎の
大きな疑問を寄せる。
3男)が『曾祖父、道灌の事は何も聞いてい
「成田氏は古河公方足利氏の家臣で、岩付
ない』と書き残した。つまり、道灌の才知は
城を築城したとされる1478年の文明年間は、
聞いていないというわけだ。資武が越前の福
まだ現在の熊谷市の奥地に割拠していた小豪
井藩主結城秀康(徳川家康次男)に従えてい
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︱
資
清
︵
道
真
︶
︱
資
資
忠 − 長
︵
道
灌
︶
︱
資
資
家 − 康
︱
︱
資
資
高
頼
︱
︱
康
資
資
正
︵
︱
三
重
楽
正
斎
︱
︶
︱
清
和
天
皇
︱
貞
純
親
王
︱
源
常
基
︱
源
頼
政
︱
︵
4
代
略
︶
︱
太
田
資
国
︱
資
房
太
田
道
真
・
道
灌
略
系
図
た時代の古文書に
渋江氏を滅ぼした後に、その館を拡張して岩
記載されているこ
付城を道灌が築城した、ということも十分に
とで、これがもし
考えられる。同様に、他の諸城も元の主を滅
事実なら、築城能
ぼした後に、道灌が修復なり改築なりして、
力を持った優秀な
威容を整えてのかもしれない。
武将というイメー
ジが崩れてしまう。
三楽斎の犬の入れ替え
ひ孫とはいえ、先
築城後の岩付城はその後、勢力を拡大した
祖に自慢できる人
北条家(後北条)の支配にさらされる。有名
物がいれば、その
な河越野戦後に岩付城主となった三楽斎こと
話の一つや二つは
太田資正の時代には、上杉謙信に従って後北
聞いているはずで、
条家に対抗。幾度となく戦場に出ては数々の
『何も聞いていな
戦功を挙げ、直江兼続から十三大武将の一人
い』とは不思議な
と言わしめさせている。戦上手なだけでなく
話だ。
領国経営にも秀でていた人物らしく、入間川
前出の飯山氏も、
の堤防工事を行うなど、民生の安定に努めた。
築城の名手という
一方で、伝馬制度の整備や軍備を整えたこと
評判には懐疑的だ。
から、岩付城の常備戦力が1,
000騎との記録
「道灌は江戸城を
はじめ10数か所の
上杉氏
城を築城したとさ
れている。短年でこれだけの数の城を築くの
宇都宮
はどんなものだろうか。おそらく、新しく城
結城
古河
飯沼
関宿
金山
を築城するのではなく、戦で奪った館を修築
忍
や改築したりして、城構えを大きくしたので
はないか」と。忍城もそうであるように、岩
佐竹氏
厩橋
鉢形
水戸
土浦
松山
岩槻
武田氏
河越
八王子
江戸
付城には渋江氏という豪族が館を持っていた。
佐倉
小机
玉縄
大多喜
今川氏
佐貫
小田原
里見氏
韮山
氏政・氏直の代
氏康の代
氏綱の代
早雲の代
今も残る土塁と空堀の跡
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後北条氏の勢力拡大経過
(
『新潟県史通史編』掲載図などより作成)
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がある。用兵や戦術に優れ、自らは弓矢と太
刀を持って戦場を掛け回る武将だった、と言
われている。
上杉謙信の小田原城攻めにも参陣し、後北
条氏の支城だった松山城の奪取にも成功する
と、岩付本城と松山の支城を結ぶ連絡を確立
させた。その連絡態勢にまつわる話として伝
承されているのが『犬の入れ替え』。両城に
多数の犬を飼い、連絡文を書いた筒を犬の首
に掛けては、互いに犬を放して情報交換をし
ていたという。後北条が攻めてきた時には、
岩付城の別名「白鶴城址碑」
本城と支城とを犬が行きかい、すぐさま応援
部隊が駆け付け、後北条方からは「あまりに
年)に三楽斎が安房方面に出陣した際に、そ
も早すぎる」と訝られていたそうだ。
の留守中を狙って謀反を起こす。家臣と謀議
いぶか
史実では確認できない伝承だが、戦国時代
して北条氏康に内通、三楽斎の知らぬ間に北
には各大名家が犬を使った連絡手段を用いて
条氏を岩付城に引き入れてしまったのである。
いたことは、他の記録にも残されていること
この結果、岩付城は北条氏の勢力下に収めら
であり、実際に三楽斎が城内に犬を飼ってい
れ、しかも跡取りの氏資はその後、1567年(永
たのは確か。賢い犬のこと、普段いる城に戻
禄10年)に北条氏政の命で、対戦中の里見勢
る道を覚えていても当然で、岩付城の犬を松
に対する応援のため、上総国三船山(現在の
山城へ、松山城の犬を岩付城へと敵方の陣中
千葉県君津市と富津市の境)に出陣。三船山
を走らせる入れ替えで、お互いの情報を伝え
で里見軍と戦った末に、わずか25歳の若さで
ていても不思議ではない話だ。軍用犬のはじ
討ち死にしてしまい、岩付城は完全に北条氏
まりとも言える伝承で、ちなみに当時の関東
の持ち物となってしまった。
一方、
帰る城を失
地方に多く生息していたのが柴犬。もしかし
った三楽斎は、佐竹氏の客将となって岩付城
たら、三楽斎も柴犬を飼っていたのかもしれ
奪回に執念を燃やし、
北条氏の侵攻に対抗。
後
ない。
に豊臣秀吉の小田原攻めで、岩付城取り戻し
のチャンスを得るが、願い叶わず北条氏の滅
岩付城落城悲話
後北条氏に徹底抗戦していた三楽斎はその
亡とともに、片野(現在の茨城県八郷町)
とい
う異郷の地で生涯を終えている。77歳だった。
後、長男の氏資に裏切られてしまう。岩付城
氏資の寝返りで北条氏の重要な支城となっ
を落とせなかった3代当主の北条氏康は、和
た岩付城はその後、小田原本城と同じように
睦のため自分の娘を氏資に嫁がせ、両家の融
城郭都市として規模を拡大していく。町全体
和を図ったが、三楽斎は家督をその氏資では
を石造りの城壁で囲むヨーロッパや中国など
なく、側室の子である正景に譲ろうとしてい
の城郭都市とは少し違うが、小田原本城の総
た。これに反発した氏資は、1564年(永禄7
構えを見習って、元荒川の湿地帯を天然の外
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岩槻城址公園
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岩付城を囲んでいた堀跡
堀にし、岩槻台地には曲輪が設けられ、城下
直ぐに藁人形だと見破り、総攻撃を仕掛けた
町を囲むように大土塁と堀が巡らされた。北
という話。あるいは、雨が幾日も続き、城に
条家の関東支配をより強固にするために、こ
つながる沼地が元荒川の水で溢れ、渡ること
うした小田原本城と同じような造りにしたよ
ができなかった。そこに、どこからか白馬に
うで、北条氏五代当主の氏直の弟、氏房が城
またがった白髪の老人が元荒川に乗り入れ、
主として落城の日まで城を守っている。
いとも簡単に対岸の久伊豆神社の森近くにわ
岩付城落城は、秀吉の小田原攻めの時で、
たり、そのまま城の方へと走り去って行く。
1590年(天正18年)5月のことである。城を
一部始終を見ていた寄せ手の徳川勢は、城
囲んだのは、徳川家康の家臣で猛将として知
につながる浅瀬があることを知って、勇んで
られる本多忠勝で、岩付城から一里ほど離れ
城に攻め掛かり、半日で落としたとの伝承で、
た慈恩寺という寺に陣を構えた。総勢約1万
これにはまだ続きがある。浅瀬は、城兵が万
3,
000騎で、これに対して守備兵は氏房が小
一の時に備えて整備していた逃げ道で、白馬
田原本城に多くの兵を連れて詰めていたため、
に乗った老人は近くの八幡神社の御神体で八
残っているのはわずか1,
000人足らず。ただ
幡大菩薩だった。徳川勢の城攻めが間近に迫
実のところ、その半分に満たない人数で岩付
ったことを城内に知らせようと、川を渡り久
城築城の頃から『岩付1,
000騎』と呼ばれて
伊豆神社を通って城内に掛け込んだが、その
いたことから、
「その軍兵数が記録に残った
ために岩付城は落城したと領民は恨んだ。
「余
のではないか」と、前出の飯山氏は話す。行
計な事をしてくれたものよ」と、久伊豆神社
田の浮き城で有名な『忍城』とは違って、城
の氏子は八幡神社の氏子とは仲良くしてはな
攻めはわずか半日で終わってしまったが、
らないと戒め、村民同士も仲が悪いと伝えら
数々の伝説が残されている。例えば、元荒川
れている。実際に、城へ通じる浅瀬があった
対岸の花積台(現在の春日部市)に造った物
ことは事実で、
『三河記』によると浅瀬には
見の櫓から、城内を見渡すと要所には警備の
簀子が敷き詰められ、伝曲橋から攻め入った
大勢の兵が立ち並んでいた。しかしよく見る
徳川勢が現在の岩槻城址公園内で、守兵が沼
と、その城兵の肩に鳥が止まっていたので、
地を駆け足で城内に戻って行くのを発見、本
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すの こ
埼玉彩発見 知られざる歴史を探る
多忠勝が見破ったと記されている。この浅瀬
としたが、側近の天海和尚から「天下統一を
は二の丸につながり、この二の丸が落ちたこ
志すには海に面した江戸城こそが適当」であ
とで本丸も陥落したが、徳川勢の着陣からわ
ると忠告を受け断念した、という逸話が残さ
ずか7日目のことで、久伊豆神社など3方面
れている。ただ、これは記録上に残されたも
からの攻撃だった。
のはなく、
「おそらく近世の郷土史家が創作
したのだろう」と飯山氏。同じ岩槻市内の郷
磔にされた家臣の妻子
落城後の後日談に、悲しい話が残っている。
土史家らの研究資料にも書かれていないため、
家康の居城説はまったくの作り話のようだ。
城を守っていた伊達や妹尾、片岡らの重臣ら
同じように落城後の話として、奥州仕置き
家臣の妻子は城内に居たため、小田原城の開
の帰りに秀吉が岩付に立ち寄り、一泊したと
城後にすべて小田原へ送られた。そこで、見
の言い伝えがある。こちらは事実だったよう
せしめのために全員が磔にされ、命を奪われ
で、岩付城落城後から3か月ほど過ぎた初秋
たと言う。前出の飯山氏によると、
「同じ小
の頃、荒城跡の一隅に宿泊所を設けて止まっ
田原城の支城だった忍城や鉢形城の妻子は殺
たことが各種の記録に出てくる。
『太閤さま
されなかったのに、何故か岩付城の妻子だけ
軍記のうち』によると、『武蔵の岩付にて、
が磔にされた。その理由は分からないが、江
なにしおふ萩を御一らんありて、関白秀吉公
戸期に書かれた小田原記に記録が残ってい
当座をあそばしける』との記録があり、有名
る」と言う。
な『萩の和歌』を残している。宿泊所の場所
小田原征伐を終えた秀吉はその後、奥羽を
はどこなのかは不明で、一説には二の丸跡と
平定するため陣を進めるが、関東の諸城は後
も言われているが派手好みの秀吉のこと、宿
詰めとして各大名家に任された。岩付城は徳
泊施設も粗末なものではなく、一夜にして建
川家康傘下の明石掃部(右近)が政務官とな
つ御殿だったのかもしれない。現代のプレハ
ったが、視察に訪れた家康が地の利などから
ブ住宅みたいな簡易宿泊施設を携行して、関
江戸城ではなく、この岩付を居城に定めよう
東を巡視しながら京に凱旋した、と想像する
のも一興だろう。
岩付城は家康の関東移封後、三河三奉行の
一人で仏の高力と呼ばれた高力清長が初代の
城主となり、
『岩槻城』の新たな歴史が始ま
る。
(続)
……………………………………………………
主な参考、引用文献
「埼玉の城址30選」
(西野博道編著、埼玉新聞社2005
年)
、
「続・埼玉の城址30選」
(同、2008年)
、
「岩槻城と
城下町」
(岩槻市教育委員会、!いたま市立博物館、2005
年)
、
「岩槻市史(通史)
、
市史編纂室、
1985年」
、
「岩槻城は
岩付城の由来を記した石碑
誰が築いたか」
(小宮勝男著、さきたま出版会、2012年)
ぶぎんレポート No.
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